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  • 『ダンガンロンパ』は「バトルロワイヤル的想像力」をどう更新したのか?──西尾維新、ゲーム的リアリティ、“ダークナイト以降”のキャラ造形から考える (井上明人×中川大地)【PLANETSアーカイブス】

    2020-06-19 07:00  
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    ▲『ダンガンロンパ』生誕10周年記念トレーラー

    今朝のPLANETSアーカイブスは、第1作発売から10周年を記念し、ゲーム研究者の井上明人さんとPLANETS副編集長・中川大地が、人気ゲームシリーズ『ダンガンロンパ』を語った対談記事をお届けします。2010年の第1作『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』(以下『1』)、2012年発売の続編『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』(以下『2』)はともに20万本を超える堅調な売上を記録し、2013年にはテレビアニメ化。若い世代のコスプレや二次創作シーンにも定着し、2010年代の家庭用ゲーム発の国産IPとしては特異な存在感を誇るタイトルになった本作。「ゲーム」の範囲にとどまらないこの作品の文化史的/批評的ポテンシャルを改めて語り尽くします。※この記事は2014年10月10日に配信した記事の再配信です。

    ※ネタバレが重大なゲームですので、ゲーム未プレイ/アニメ未視聴の方は注意してお読みください。

    ※この記事は、2014年9月3日にPLANETSチャンネルで放送されたニコ生番組を加筆・再構成したものです。
     
    ▼『ダンガンロンパ』とは
    学級裁判の中で相手の矛盾を論破し、殺人事件の犯人を暴いていくゲーム。ハイスピードでテンポよく展開する学級裁判の中、捜査パートで集めてきた証言や証拠を弾丸としてトリガーにセットし、相手の主張の矛盾をアクションゲームのように撃ち抜くことで論破する。推理とアクションの融合により、これまでにない。まったく新しいエキサイティングなゲーム体験を表現。(公式サイトより)
     
    ▼ストーリー
    舞台は、あらゆる分野の超一流高校生を集めて育て上げる為に設立された、政府公認の特権的な学園「私立 希望ヶ峰学園」。国の将来を担う希望を育て上げるべく設立されたこの学園に、至極平凡な主人公、苗木誠もまた入学を許可されていた。 平均的な学生の中から、抽選によってただ1名選出された超高校級の幸運児として……。入学式当日、玄関ホールで気を失った誠が目を覚ましたのは、密室となった学園内と思われる場所だった。「希望ヶ峰学園」という名前にはほど遠い、陰鬱な雰囲気。薄汚れた廊下、窓には鉄格子、牢獄のような圧迫感。何かがおかしい。 
    入学式会場で、自らを学園長と称するクマのぬいぐるみ、モノクマは生徒たちへ語りはじめる。──今後一生をこの閉鎖空間である学園内で過ごすこと。外へ出たければ殺人をすること。──主人公の誠を含め、この絶望の学園に閉じこめられたのは、全国から集められた超高校級の学生15人。生徒の信頼関係を打ち砕く事件の数々。卑劣な学級裁判。黒幕は誰なのか。その真の目論見とは……。
    (『1』のAmazon商品説明より)

    ポスト「逆転裁判」の系譜と「西尾維新」的文芸センスの融合 
    中川 今回は、PLANETSチャンネルで連載中の「中川大地の現代ゲーム全史」の番外編として、新作『絶対絶望少女』が発売されたばかりの人気ゲームシリーズ『ダンガンロンパ』について、ゲーム研究者の井上明人さんをお招きして、いま改めて語ってみようという企画です。井上さん、よろしくお願いします。
    井上 よろしくお願いします。
    中川 この『ダンガンロンパ』シリーズですが、まず第1作が発売されたのは2010年末ですよね。2010年といえば、ソーシャルゲーム市場が急激に成長して、家庭用ゲームがどんどん不振に陥っていった時期です。つまり『怪盗ロワイヤル』などが登場して一般のゲームユーザーの可処分時間を圧迫していった時期に、この『ダンガンロンパ』はクラシックなパッケージゲームの新作シリーズとして登場しつつ、比較的若い世代のライトオタク層を掴んで健闘したタイトルだった点が特徴です。井上さんが最初に『ダンガンロンパ』に注目されたきっかけは何だったんですか?
    井上 実は体験版が出た最初の段階で、ちょっと話題になっていたのでやってみたんですよ。僕はプレイステーション・ネットワークのストアで体験版を漁る習性があるんです(笑)。それでプレイしてみたら「あっ、これは『逆転裁判』をすごく意識して、変種を打ち込んできたぞ」と思いました。体験版のときは難易度調整に若干失敗気味だったんですが、非常に野心的な試みだと思いましたね。
    中川 やっぱり僕らのような30代ゲーマーからすると、まず思い浮かぶのが『逆転裁判』からの脈絡ですね。あれは第1作が出たのが2001年ですが、ゲームボーイアドバンスを代表する最初のオリジナルヒットシリーズでした。殺人事件の聞き込みや証拠品集めなどをする捜査パートと、容疑者や証人の証言の矛盾を指摘したり証拠を突きつけあったりする論争を通じて真相がつまびらかになる裁判パートの繰り返しで進行していくという構成のルーツは、ここから来ています。実際には「裁判」というよりも、ミステリーの王道の真犯人当ての形式的な趣向を置き換えただけだったわけですが、推理アドベンチャーゲームの作劇と体感性を大きく変えました。
     

    ▲『逆転裁判123 成歩堂セレクション』(発売元:カプコン/ニンテンドー3DS)
     
    その後、『逆転裁判』のフォロワーがなかなか出てこなかった中で、10年を経てようやく新しい意匠とシステムで出てきたのがこの『ダンガンロンパ』シリーズなのかなと思うんですが。
    井上 いや、『逆転裁判』のフォロワー的なタイトルは、売れていなかっただけで実はあるにはあったんです。たとえば、『有罪×無罪』『遠隔捜査 真実への23日間』なんかですね。少し離れたところでは『銃声とダイヤモンド』なんかはすごく良かった。『銃声とダイヤモンド』は、『街 〜運命の交差点〜』『かまいたちの夜』の麻野一哉さんがシナリオを手掛けていて、ゲームシステム自体もよくできていたんだけど、主要登場人物がおっさんが多めというのもあり(笑)やや渋めで、あんまり売れなかった。でも、『銃声~』はほんとにすごい作品でした。そういう作品も過去にはあったんですが、それらと『ダンガンロンパ』が何が違ったかといえば、『ダンガンロンパ』はシステム、キャラ、シナリオ、グラフィックなど多面的にK点越えをしていてグイグイ引っ張れる要素が本当にたくさんあった。ほんとに、いい作品なので、売れてよかったなぁという感想を持ちましたね。
    中川 そんな中、『ダンガンロンパ』は推理パートと裁判パートで進むゲームシステムを『逆転裁判』から継承しつつ、そこに2000年代初頭から大きく盛り上がった講談社BOXや西尾維新の一連の作品のような、フリーキーなキャラクターたちが常識ではありえないフィクショナルな状況での推理を繰り広げる、いわゆる「新伝綺」と呼ばれるミステリーとライトノベルの中間領域のような文芸センスを導入してみせたことで、それまでのフォロワータイトルとは一線を画する支持を獲得した。
    井上 『ダンガンロンパ』ですごいなと思ったのは、非常にアイロニカルで批評性があって問題意識がグネグネしたものなのに、『1』『2』ともそれぞれよく売れて、マニアックなサブカルっ子以外にもちゃんと受け入れられたことですね。それは素晴らしいことだと思う一方で、『ダンガンロンパ』や、その先駆者である西尾維新もそうだけど、グネグネしたことをやっていそうでいて、実はそんな難しい問題意識を持っていなくても楽しめるようにもなっている。そこの両立の仕方というのがすごいな、と。
    中川 単純にキャラクターコンテンツとして秀逸です。男性と女性両方のファンがついていて、ノーマルなカップリングを喜ぶ層もいるし、男どうしあるいは百合カップルでの組み合わせの要素もあるし、全方位に向いていて、10代から20代までの若い層にも受けていますよね。それに加えて、ムダに豪華な声優陣の存在もありますよね。
    井上 これは本当に豪華ですよね。
    中川 やっぱりなんといっても特筆すべきは、マスコット兼悪役で、生徒どうしのコロシアイを操るモノクマ役への大山のぶ代さんの起用。ドラえもんの声に新たなイメージを付け加えたのは、この『ダンガンロンパ』シリーズの功績(?)ですよね。
    井上 今のドラえもんの声優は水田わさびさんに代わっていて、今の子どもたちは大山のぶ代のドラえもんを知らない可能性もあるぐらいですよね。
     

    ▲ゲームを操る「モノクマ」中川 そう。別格感あふれる大山さんをはじめ、声優陣は豪華は豪華ながら、実は懐かしい感じのラインナップだった。たとえば『1』の主人公の苗木誠くんを演じたのは『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役の緒方恵美さんだし、『2』の主人公の日向創役はコナンで有名な高山みなみさん、メインキャラの一人である十神白夜役は同じく『エヴァ』の渚カヲルとか『ガンダムSEED』のアスランで有名な石田彰さん等々、主に1990〜2000年代のヒットアニメを代表作とするベテラン勢が中心。かろうじて現役の声優ヲタの文脈に訴求する若手と言えるのは、霧切響子役の日笠陽子さんや『2』の七海千秋役の花澤香菜さんくらいですかね。
    でもこういった今時の深夜アニメ等での旬よりは一回り年齢層高めなレジェンドクラスが起用されたことで、われわれ団塊ジュニア世代のオタク教養的なものと、近年の10-20代のニコニコ世代というか、ジュブナイルライトオタク層との共通言語ができた側面もある気がします。かつてのアニメやマンガなどの小ネタを縦横無尽に引用して詰めこみながら、それを若い世代向けに届けることに成功しているという意味では、やはり西尾維新とも通ずるところがありますよね。
    「学級裁判」が体感させる“推理”と“理不尽”の詐術
    井上 『逆転裁判』との比較をさらに掘り下げてみましょうか。『逆転裁判』の場合は、単に選択肢を選ぶのではなくて、選択肢を選ぶことに対して「なぜこの選択肢の方がいいのか」という合理的推論をする仕組みが提供されてましたよね。これは、ものすごい発明だったわけです。
    まず第一に現実のコミュニケーションを簡単なゲームシステムに変換するということが難しいわけです。で、とりあえずアドベンチャーゲームは、選択肢で会話をするという方式をだいぶ初期につくりだしたわけです。ただ、その次にどの選択肢が正解か、ということについて、納得感をどう演出するか、というのが難しい。すごいゲームデザインというのは、ここの納得感の演出というのが神がかっているわけです。
    たとえば今僕はこうやって中川さんと話していますが、僕が「中川さん、最近どうですか」とか言ったときに中川さんからいきなり「ボンッ! 不正解だ!」みたいなことをバシッと言われたら困るわけです。中川さんがそれを言ったら「この中川さんって人はちょっと、イっちゃった人だな」って感じがしますよね?
    中川 なるほど(笑)。裁判ならそれを言ってもいい、という。
    ▲『ダンガンロンパ』の学級裁判パート
     
    井上 そうです。そこまでが『逆転裁判』が切り開いた地平です。
    さらにその上の第三の地平があるわけです。『逆転裁判』との違いは、『ダンガンロンパ』って学級裁判パートがリアルタイム制であることですね。リアルタイムで議論しているなかで議論の進め方のおかしな点を指摘しないといけなくて、それがゲームとしての緊張感を生んでいた。ちなみに『逆転裁判』も最初はリアルタイム制にしようとしていたらしいんですが、ただし、さすがにそれだと難易度が高すぎるということで実装しなかった。『ダンガンロンパ』はそれをある程度、なんとか遊べる形にしてしまった。
    中川 まあ、ミスをすれば同じ議論が再びループするので、厳密な一回性という意味でのリアルタイムではなく、静的な『逆転裁判』のテキストメッセージに比べ、『ダンガンロンパ』の方が、1ターンの中のタイミング演出が動的になったというだけのことではあるんですが、アクション性が大きく高められたのは間違いない。こういう難易度調整の考え方って、基本的にアクションRPG的だと思うんですよ。ターン制のRPGは静的なパラメータに規定されていて、レベル上げやアイテム収集などプレイヤー本人の腕前によらず根気があれば誰でもできる反面、臨場感に欠ける。対して、ただのアクションゲームの場合は本人にアクションの腕前がないとゲームを進められない。
    アクションRPGはその中間で、パラメータ管理とプレイヤー本人のアクションの腕前をミックスしたゲームデザインになっている。この折衷性が、2000年代以降は『モンハン』シリーズやオープンワールド系RPGでの標準になっていますよね。それと似たようなことを、ストーリーゲームの領域でやったのがこの『ダンガンロンパ』のシステムだったんじゃないのかな。
    捜査パートで他のキャラクターと親しくなると、学級裁判でのアクションを有利にできるアイテムをもらえたりするあたりとかも含め。
    井上 今まで混ざっていなかった「アクション」と「謎解き」のふたつの要素を混ぜて、何とかいい感じに納めたのは偉業と言っていいと思います。
    中川 あと学級裁判パートで面白いのは、推理のプロセスを別種のミニゲームで置き換えていることですね。つまり、いくらプレイヤーに自分の頭で推理するリアルタイム論争に近づけると言っても、所詮は与えられた選択肢から正解を選んで一定のストーリーをなぞっていくAVGとしての本質は変わらない。そのお仕着せ感を軽減すべく、本来なら主人公が能動的な思考をするところを、パズルゲームや音ゲーなどの異なるゲーム的障壁を乗り越えていく体感性で代替して疑似体験性を補っているわけです。
    コンシューマーゲームでは、『ファイナルファンタジー』シリーズぐらいから全体のゲームシステムと関係ないさまざまなミニゲームを入れ込む流れがあって、特に『レイトン教授』シリーズは、大きな推理ストーリーの骨格の中に「脳トレ」的なクイズを組み込むことで、自分が謎解きのプロになった気分を味わえるロールプレイングの詐術を使ったのは大きかった。ああやってゲーム内にミニゲームの多様性を入れ込み「体験を体験で置き換えていく」手法は、ストーリー演出のエフェクトとは無関係なゲーム的要素をすべて取り払っていく方向にAVGシステムを特化させていった1990〜2000年代のPCノベルゲームの台頭に対する、コンシューマーならではのリアクションでもあったのかなと。
    井上 あー、ただ学級裁判のミニゲームに関してはちょっと僕は悩ましい気持ちになりましたね。特に『2』で出てきた「ロジカルダイブ」と称したスノボゲーム(下図参照)とか、さすがに「これは推理のスキルと関係が何もないのでは?」というところがありますよね。
     

    ▲『ダンガンロンパ2』に登場するゲーム内ゲーム、「ロジカルダイブ」の画面
     
    ゲームデザインにおいて、プレイ中にずっと同じことをしていると飽きるので、刺激の多様性は必要なんだけど、そこの多様性の与え方って難しいポイントなんですよね。完全に別ゲームにすると、「関係ないことをやらされるストレス」が発生しやすくなってしまう。経験としては連続していて、かつ多様な展開というのが重要なわけですが、『ダンガンロンパ』に関しては、そこは少し振り切りすぎてしまって、もう完全に別のミニゲームになっているな、とは思いました。もちろんトータルで素晴らしいゲームであることは前提として、ですがこのゲーム設計はちょっとダメなストレスの与え方だな、と感じました。
    中川 なるほど。ただ、あのスノボゲームに関して無理やり深掘りすると(笑)、『FFⅦ』でヒロインのエアリスが死んだあと、ものすごい衝撃を受けて悲しい気分になっているときにスノボゲームをやらされましたよね。それを彷彿とさせるところがあって。で、『ダンガンロンパ』ってそもそも理不尽なゲームをやらされているゲームですよね。
    井上 ああ、なるほど、あれも含めてモノクマの陰謀であると。たしかにそれなら、一貫性がとれてますね(笑)。
    『ダンガンロンパ』に埋め込まれたゲーム史的な自己言及性
    中川 『ダンガンロンパ』って、ゲーム内で『ジョジョの奇妙な冒険』や『るろうに剣心』など、団塊ジュニア以降の世代が親しんできたサブカルネタをちょくちょくぶっこんできているわけですが、その中でゲーム自体の言及もすごくあったりするので、あのスノボゲームも『FFⅦ』のオマージュなんじゃないか、なんてことも思ったりするんですよね(笑)。
    これがあながち邪推すぎるわけでもないかと思うのは、『2』に『トワイライトシンドローム』っていう妙なサイドビュー画面のゲーム内ゲームが出てくるじゃないですか。実際、本作を制作したスパイクの前身の会社が同名のシリーズをちょうど1990年代後半にPSで出していて、さらに後には『夕闇通り探検隊』という伝説的な後継作品にもなっていますが、そういうセルフオマージュを入れてきているわけです。
     

    ▲ゲーム内ゲームとして登場する『トワイライトシンドローム』の画面。
     
    ここにはちょうど、『FFⅦ』までのPS第一世代的なローポリゴンの不気味の谷(3D表現の進化過程で人間の造形が中途半端に再現されると妙に不気味に感じられる段階があること)や構成のチグハグさ、操作系の未洗練さなどが結果的に恐怖や理不尽さの表現として独特の味わいを醸し出していた時代のゲーム史的な記憶を、意識的に埋め込む姿勢が感じられるんですよ。
    井上 『moon』(1997年にラブデリックが開発しアスキーが販売したPS用ゲームソフト。王道RPGやゲームそのものを批評的に捉え返した名作とされる)と同じく、ゲーム内ゲームを構築して、その中でゲームに対する批評性みたいなものをちゃんと獲得していくというやり方ですよね。
    中川 そもそも『ダンガンロンパ』という作品全体が、ゲーム内で登場人物たちが理不尽なデスゲームをやらされているという二重構造になっていて、それに対する言及が1作目のときからキモだったんだけど、それをさらにメタ視点で捉え返すかたちで2作目がつくられていますからね。
    プレイしていて思い出したのが『メタルギアソリッド』の1、2の関係です。メタルギアは第1作の主人公・スネークがシャドーモセス島事件でああいう経験をして、2作目の主人公の雷電はその1の体験のコピーを仕組まれたゲームとしてやらされていて、それを1の主人公だったスネークが最後に解き明かして導いていくという構造があった。これはまさに『ダンガンロンパ』の1、2作目の作劇構造と同じですよね。
    井上 なるほど。ただ僕としては、中川さんとは少し違う感想を持っていて。『ダンガンロンパ』は1作目の時点ですでにリアリティショー(台本や演出なしで素人の出演者がさまざまな状況に直面するさまをドキュメンタリー形式で放送するテレビ番組の一形態)として、中のコロシアイの様子が全世界に中継されていたわけですよね。続く『2』ではそのリアリティショーをさらにバーチャルリアリティに嵌め込んでいるというわけのわからないことをやっていて、これは「お約束をことごとく覆していく」という意味で、すごく西尾維新的な構造だなと思ったんですよ。
    中川 たしかにそうですね。『1』では、閉鎖空間でコロシアイをさせられている学園内がディストピアだと思っていたら、実は世界全体のほうがすでに絶望病に冒されていて『北斗の拳』みたいな終末的な世界になっていて、むしろ学園のなかのほうが守られていた、というどんでん返しがあるわけです。そこにさらにモノクマが登場して学園をコロシアイの舞台にしてリアリティショーとして外の世界に中継していた、という。
    『ダンガンロンパ』に結実した「バトルロワイヤル」な想像力の系譜
    井上 これは『ダンガンロンパ』に限らない話ですが、バトルロワイヤルとリアリティショーはなんでこんなに相性が良いのか、というのも論点の一つかもしれないですよね。
    中川 2000年代以降に台頭してきたバトルロワイヤル的な想像力って、学校やクラスの狭い人間関係の持つ日常の残酷さの表象として、クローズド・サークルのなかで疑心暗鬼になってコロシアイをさせられるというようなものですよね。で、そもそもバトルロワイヤル系の語源である『バトル・ロワイアル』(高見広春による小説。1999年刊で2000年に映画化され大ヒットした)がまさに、「少年たちがバトルする様子を大人たちが見て楽しむ」という構造でしたよね。僕の考えでは、00年代前半の時点ですでにゲームの体験がある程度、人々のリアリティに刷り込まれていたからこそ、殺し合いとリアリティーショーを結びつけるバトルロワイヤル系の想像力が出てきたのかな、と。その感覚が映画や小説に波及して、それをもう一回ゲームのほうに持ち帰ってきたのが『ダンガンロンパ』だったとも位置付けられるんじゃないでしょうか。
    井上 なるほど。ゲーム発だったどうかかは、はっきりと断言できないですけど、その説明は説得的だと思います。
    ちなみに僕の知り合いの20代前半の子が『ぼくらの』とか、バトルロワイヤルものがすごい好きで「こういうものにこそ人間の真実があると思うんですよ」ということをずっと言っていたんですよ。で、案の定『ダンガンロンパ』にはドハマりをしていました。20代前後の子が「ここにこそ人間の真実が!!」という感想を持つのは、頭では理解できなくはないけど、直感的には今ひとつピンとわからない。おそらく、僕が1990年に生まれていたら理解できたのかもしれませんけれど、そこの感覚が今ひとつ腑に落ちる感じがありません。中川さんはどうですか?
    中川 やっぱり1970年代生まれの自分自身のリアリティとして、そういう感覚はないですよ(笑)。でもそれこそ、宇野君が『ゼロ年代の想像力』で書いていたように、『新世紀エヴァンゲリオン』以降の世代にとっては、ある種のバトルロワイヤル的な想像力が身の周りの社会をイメージする上での前提的なリアリティになっていて、まだ引きこもる余裕のあった『エヴァ』以前に思春期を過ごした世代にはその感覚があんまりわからない、というのはあるんじゃないですか。
    80年代に実現された高度消費社会って、あくまで誰かに構築された偽物で、これはいつ壊れてもおかしくないものであるという感覚があり、それは『トゥルーマン・ショー』のような「この平和な日常は本当は存在しない、仕組まれたバーチャルなものなんだ」という想像力を生み出しましたよね。その一方で、旧ソ連が崩壊する前までは「核戦争が起こって世界が終わる」ということにリアリティがあって、そういった終末世界を描くフィクションもたくさんありました。
    つまり『ダンガンロンパ』を規定している構造として、子供たちの2000年代以降のリアリティ(教室内でのバトルロワイヤル)を、大人が構築した1980年代的リアリティ(トゥルーマン・ショーと終末的な世界)が取り巻いている、という重層的な構造があるとも言える。
    井上 ただ、今日び「終末後の世界」をそこまで気合を入れて描く気はないのだろうなっていう感じもしませんでした? 「人類史上最大最悪の絶望的事件」って、えらくざっくりとした表現ですし……。
    中川 まあ、そこにはリアリティはないですよね(笑)。ポスト『エヴァ』の想像力としてバトルロワイヤル系と比肩される、いわゆるセカイ系的な想像力の流行って、新海誠のアニメやノベルゲームのような個人レベルのミニマムな制作環境と親和性が高かったと思うんですよ。他方、集団制作を前提としたコンシューマーゲームだと、もうすこし大勢のキャラクターを表現できるという事情もあって、教室レベルのクローズドな人間関係を主題化するリアリティサイズが表現できた。
    しかし、その外側は後景としてボンヤリとせざるをえないあたりは共通している。それでも2000年の『高機動幻想ガンパレード・マーチ』なんかは、教室外のマクロな世界の戦争状況をうっすらとパラメータ化して関連させていたわけですけどね。
    井上 セカイ系という物語形式って、要は「世界が滅ぶ/滅ばない」という大きなスケールの話が、主人公の周りのローカルな人間関係と直結するというものでしたよね。で、同学年の同じ部活の友達だけで楽しく過ごす日常を描いた『けいおん!』のようなものを「空気系」というわけですが、実は近場の人間関係だけ選んでいるという意味ではバトルロワイヤルものもそうで、この二つは近い関係にあるのかなと思ったりするんですけど。
    中川 まさに、その二つは表裏一体ですよね。近場の人間関係のユートピア感だけを取り出すと空気系のぬるい世界になり、逆に残酷な面を戯画化して描くとバトルロワイヤル系になるという。『2』は最初に、(後でモノクマの妹という設定に無理やりされる)「モノミ」というキャラが出てきて、「みなさん、この南国の島で、修学旅行を永遠に楽しみまちょうね〜」って言っていて、実際に本編とは別にモノクマが登場しない平和な日常を楽しく過ごす「アイランドモード」というモードもありますが、それはまさに空気系的な世界観が表裏一体の構造として、この作品に埋め込まれているということの証左でもありますよね。
    2010年代的なキャラクター造形とゲームの形式的必然が生んだ「黒幕」
    井上 ……と、裏のほうから「キャラの話をしてくれ」というオーダーがきているので、すこし強引な振りになりますが(笑)、『ダンガンロンパ』が空気系的な構造すらも取り込んでいるとすると、空気系においてやっぱり重要なのはキャラ描写ですよね。『ダンガンロンパ』は本当にキャラづけが強いゲームだということがあると思いますが、
    中川 『逆転裁判』の頃から成歩堂くんとか真宵ちゃんみたいな感じで記号的かつフリーキーにキャラを立てていく流れがありましたが、『ダンガンロンパ』はその傾向をさらに押し進めつつ、2010年代のボカロ世代や「カゲロウプロジェクト」好きなどにも通ずる、ジュブナイルライトオタク層の感性に適した元ネタをぶちこんだキャラクター造形へとアップデートできた点に勝因がありました。ちなみに井上さんが一番好きなキャラは?
    井上 僕は『2』に登場する超高校級の飼育委員・田中眼蛇夢くんが、ペットであるハムスターを「破壊神暗黒四天王」と呼ぶ、あのパッケージングが好きですね。ハムスターだけ出されてもげんなりですが。
    中川 なるほど(笑)。まさに彼なんかは、「厨二病」という2000年代後半以降のライトオタク層が自嘲的に共有するに至った属性を取り込んだ典型例ですね。実際人気も高いですし。僕は男性キャラでは、やはり『2』の狛枝凪斗くんの造形に度肝を抜かれました。狛枝くんは名前が1作目の主人公の苗木誠のアナグラムで、声優も同じ緒方恵美さんだし「超高校級の幸運」というところも同じなのに、第1話でいきなり前作の記憶のあるプレイヤーの予期を覆してみせる攪乱者ぶりが見事すぎました。彼のクライマックスである第5話でもそうだけど、彼の能力をああいうかたちでトリックに活かすというのも狂っていたし。
    井上 たしかに狛枝くんのあのトリックは、本当にゲームデザインとシナリオを融合させた非常に素晴らしい、歴史に残したいトリックといってもいいですね。
    中川 シナリオ自体が強烈にキャラクター性を引っ張っていましたよね。このシリーズを手がけている小高和剛さんのシナリオライターとしての力をすごく感じさせられたキャラだった。
    一方、女性キャラでインパクトが強かったのは『1』の大神さくらちゃんですね。明らかに『北斗の拳』のラオウや『グラップラー刃牙』の範馬勇次郎みたいな格闘マンガのラスボスをムリヤリ女子高生化したネタキャラ枠なのに、それをシナリオの力で最後にはあれだけ可憐な乙女っぽく思わせたのも圧巻でした。
    井上 さくらちゃんはすごい露骨ですけど、超高校級のアイドルとか、超高校級の野球選手とか、超高校級の文学少女とか、全部マンガ違いのキャラですよね。そういうジャンル違いのキャラクターを一同に会させてバトルロワイヤルさせるというのがこのゲームのコンセプトでもあった。
    中川 キャラクターの話が出たので、重大なネタバレですが、ここからはあのキャラクターの話をしましょうか。
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  • 【特別寄稿】井上明人 それはどこにある「現実」なのか:作品について書くということ

    2020-04-15 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんの特別寄稿をお届けします。10代の頃、岡崎京子の『リバーズエッジ』の「露悪的な現実」を賛美する批評界隈の風潮に、反感を抱いていたという井上さん。しかし年齢を経たあとで、批評に内在する、違う誰かの生き方への想像力に開かれた、コミュニケーションの可能性に気付いたといいます。
     しばしば指摘されてきたことであるのにも関わらず、作品について論じること、すなわち「批評的な行為」がコミュニケーションとしての属性を持っているということを言うと、なかなか通じないと思うことが多い。学生にも通じないし、人文系の研究者にすら通じないことが多い。  作品というのは、作者と読者のそれぞれの「現実」の観察を映し出す鏡のような性質をもっている。そのため、作品について論じるということは、コミュニケーションとしての側面を持つ。そのことについて、私なりに簡単に整理しておきたい。
    「この物語は、現実である」とみなすこと。:『リバーズエッジ』
     十九歳のとき、岡崎京子の『リバーズエッジ』をはじめて読んだ。この作品を褒める批評家の言葉に従って、作品を手にとって、最後まで読んだ。  そのとき、私はこの作品を「露悪的」な作品だと、最初におもった。そして、この作品を褒める批評家達に、軽い嫌悪を覚えた。物語の技術的な質の高さという意味では、この作品を褒める文脈がありうることはそのときの私にも理解できた。だけれども、この作品を安易に褒める批評を軽蔑した。
     十九歳の私は、批評家たちのあさましさを憎んでいた。  今思えば、その憎しみは、私が今よりも、若かったからだ、と思う。   *
     当時の私が気に入らなかった批評は次のようなものだ。リバーズエッジが語られるとき、この作品は1990年台当時の「時代」とむすびつけて語られることが多かった。作者もまさにそのように書いている。この作品は、現代の日本を象徴的にうつしとった作品なのだ、と書いていた。  しかし、私にとって、この作品は私の生きる生活とは、ほとんど結びついていなかった。同性愛者の友人はさておくとしても、女性をレイプするような乱暴な友人もいなかったし、寂しさをまぎらわすためにセックスをしてまわるような女性もまわりにいなかった。あるいは、いたとしても、気づいていなかった。私の10代は、進学男子校の生徒として本を読んだりゲームをしたりして生活を送る日々であり、友人のほとんども文化系のおとなしい男の子たちだった。そういうリアリティの持ち主に、こういう作品を「現代という時代を反映した問題作」として語られても、私は同じ世界のリアリティを共有できない。私の生のリアリティは、なんだかんだで、おおむね穏やかな日常に彩られていたと思う。そういう人間にとっては、同時代のセンセーショナルで残虐な話をつきつけられても、そこに同時代性を見いだせるはずもない。まず、この点で、私はまったく岡崎の描いた物語が嘘くさいと思った。  それに、岡崎京子がしばしば、ある種の残酷さを、何かロマンティックなものとして描くことに、酔うような話が多くて辟易したということもある。
     もっとも、岡崎は「現代性」を僭称することの「うそくささ」に単に鈍感であったわけではない。岡崎は、現代のメディア環境の「うそくささ」に気付かずにはいられない人々についてたくさん描いている。  それは、たとえば、チェルノブイリを語るメディアの風景やら、環境問題を語るメディアの風景やら、そしてCMをにぎやかにしているやらイメージたちなどの象徴的にあらわれている、という。  それはそうだ。  それはそうだろう。  あれは、テレビというメディアのもたらしたものに他ならない。  だけれども、岡崎がテレビの「うそくささ」を登場人物に喋らせる以上に、私にとっては岡崎が「うそくさいもの」に見えて仕方がなかった。  テレビの「うそくささ」を「ウソだ」と指摘することでしか、自身のリアリティを担保できていないように思えた。岡崎の作品は、マスメディアを「ウソだ!」と指摘することで、その真逆のリアリティを肯定しようとしているだけのように思えた。極端に善良できらびやかな風景を「うそだ」と攻撃してみせることが、その真逆に位置している極端に残酷でわけのわからない風景を「ほんとだ」と言うための方法になっているようにしか思えなかった。単に安易な敵を攻撃しているようにしか、見えなかった。
     これが「現代」だなんて。  なんて、馬鹿げた悲壮感ただようロマンティズムに酔っているのだろう、と。  こんな、手軽な、ロマンティズムが、ある種の「文学性」だとして語られるのであれば、そんなもの、クソくらえだと思った。おそらく「文学」という言葉を語る人種の中でも、自分が最も軽蔑すべき種類の人間だろうと思っていた。
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     しかし、今は十代の頃とは違う感想を持っている。  岡崎京子のロマンティズムが、岡崎京子の描く現実は、そこまで露悪的である、と断定できる気分ではなくなったことだ。私は、なんだかんだで、あまり極端に治安が悪い地域で生まれ育った友人は少ない。岡崎京子の描く現実は、「わからなかった」。こんな現実が描かれているということが、どの程度まで岡崎京子の判断によるもので、どの程度までが判断によらないものなのか――すなわち、一部の人々の「日常」にどの程度まで対応しているのか、いないのか――ということが、理解できなかった。  ただ、はじめて読んでからだいぶ経ってみてわかったのは、岡崎の描くよう世界に近いリアリティを生きている人たちは、同時代の日本に、どうやら、ほんとうにいるようだということ。少なくとも、「いない」とは言えない。  つまり、私が十代の時に感じていたこと――岡崎の描く現実は、岡崎によって都合良く露悪的に粉飾された「現実」であるという感覚――は、私という読者にとっての真実であっても、別の読者には別の真実があったということだ。リバーズエッジが過度に「露悪的」ではなく、それが実際の日常の感覚の延長に位置するものとして受け止められることは十分ありうるということは、否定できなくなった。やはり、一部の読者にとっては、これは、それほど、日常の風景と遠いわけではないはずだ。  実際に、岡崎の描く世界が自らの十代の日々のそれに近かった、という告白を人からうけたこともある。そういう人にとってみれば、岡崎の描く物語は、彼/彼女らの日常へと、極めて鋭く世界の再解釈を迫るような物語として機能したであろうことは想像に難くない。そして、さきほど少し記したような、十九歳の頃の私の岡崎への「嫌悪感」は、考えようによって、とても、乱暴で、粗い感想に聞こえて仕方ないものだろう。
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  • 井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて 番外編 2019年の「推し」ゲーム三選

    2020-01-14 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は番外編として、2019年の「推し」ゲームを紹介します。司法制度に対する批評性を備えた『Legal Dungeon』、プログラミングをパズルゲーム化した『BABA IS YOU』、そして今年最大の話題作『デス・ストランディング』の緻密なゲームデザインについて論じます。
    2019年の「推し」ゲーム三選
     2019年は2018年と比べると、私の時間があまりなかったせいもあってか昨年ほどまでには良いゲームとのめぐり合わせがなかったのだが、今年も「推し」のゲームをいくつか、紹介させてもらいたい。  まず、本題に入る前に、印象に残ったゲームをざっと挙げておこう。  ゲーマーコミュニティに大きな話題を読んだ作品としては『リング・フィット・アドベンチャー』『フィット・ボクシング』『ACE COMBAT 7 SKIES UNKNOWN』『デス・ストランディング』は、確かに革新的と言えるポイントがあった。  また、オープンワールドの元祖と言っていいのか、中興の祖というべきか、『シェンムー』シリーズの最新作『シェンムー3』もリリースされ、出来上がりの水準についてさまざまな評価はあったが長年の同シリーズのファンとしては感慨深い。  インディーズ作品では、『BABA IS YOU』『The MISSING: J.J. Macfield and the Island of Memories』『Unpacking』『マイ・エクササイズ』『HEADLINER』『Legal Dungeon』など今年も素晴らしい作品に数多く出会うことができた。  純粋なデジタルゲーム作品以外にも言及しておくと、アナログゲームでは、なかなか遊べていなかった米光一成による『はぁって言うゲーム』は、人々の言語表現の多義性を見事にすくいとった作品として、優れたものだった。また、ICCで開催されたデジタルゲームの展覧会「イン・ア・ゲームスケープ」展はデジタルゲームがいかにファインアートの文脈の中で再構成されうるかの可能性を端的に示してくれるエポックメイキングなものになっていた。
     さて、本年は、この中から『Legal Dungeon』『BABA IS YOU』『デス・ストランディグ』の三本を取り上げておきたい。  とは言え、まだ『SEKIRO』『CONTROL』など、遊ぼうと思いつつも時間がとれていない作品があるので、例によって網羅的にやっているとは言い切れないこと、また致命的なネタバレではないものの序盤についてのネタバレは含んでいることは予めご了解いただきたい。
    組織におけるインセンティブの表現:『リーガル・ダンジョン』
    ▲『Legal Dungeon』
     近年、社会的な問題をゲームのメカニクスとして抽象化し、再現するという作品が確固としたジャンルを構築しつつある。昨年は、カナダのNicky Caseの作品群を挙げたが、今年はこの路線では、韓国のインディーゲーム作家であるSOMIの作品を挙げたい。  前作『Replica』(2016)では、権力者の側から、テロリストとして疑われた若者の情報を集めるというアドベンチャー作品だった。
    ▲『Replica』
     今作『リーガル・ダンジョン』も、権力者の側からの制度の危うさを問題とした作品となっており、プレイヤーは警察官となって被疑者の書類を整備する仕事をする。 「被疑者の書類整備」というと、いかにも地味に聞こえるかもしれれないが、そんなことはない。実質的には、この作品における警察は検察官の役割を果たしている。被疑者を軽犯罪として裁くのも、重犯罪として裁くのも、プレイヤーの裁量で決めることができる。そして、適切な法の運用をすることが評価されるだけでなく、いかなる形であれ重犯罪者を多く挙げても評価がされるようになっている。コアとなるゲームメカニクスは、『逆転裁判』や『ダンガンロンパ』のようなものに概ね近いものと思ってもらえればよいだろう。  プレイヤーの裁量によって、公正であるべき制度が歪んでしまいうることを表現しようとしたゲームは少なくない。インディーゲーム界隈における社会批評的な領域を切り開く記念碑的作品となった『Papers, Please』では、入国審査官となってチェックをしていくというものだし、先に挙げた『HEADLINER』は新聞社のデスクとなって新聞報道のありようを任意に操作することができてしまう。
    ▲『HEADLINER』
     我々の世界の「公正であるべきもの」が、いかに貧弱な組織構造によって成立しているか、という点では、これらの作品は共通したテーマを表現し、「公正さ」を要請される役職者がいかにさまざまな現実的な利害関係のトレードオフの中での葛藤を突きつけられているかということを擬似的に体験させてくれる。  現実のシュミレーションとして、ジレンマ状況を体験させる教育用のゲームなどは今までもあった(たとえば、防災ゲーム『クロスロード』)し、『逆転裁判』をよりシリアスゲーム風味にした作品もあった。たとえば、『有罪×無罪』などは陪審員として裁判に参加するゲームだが、事件とへと関わらせる展開のさせ方も丁寧につくられている。
    ▲『有罪×無罪』
    『Legal Dungeon』は、こうした作品の系譜のなかでも、いくつかの重要な達成を成しているが、一点だけに絞るならば、小さな権力者であるプレイヤーにどのような社会制度的なインセンティブが与えられているか、を強力に示していることだろう。
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  • 井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて 番外編 並列するゲーム的コミュニティ

    2019-11-25 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は番外編として、キーボード配列のカスタマイズ文化について考察します。キーボードの設計・自作は「沼」と呼ばれるマニアックな世界ですが、そこではインターネット黎明期を思わせる、濃密で快適なコミュニケ―ションが展開されているようです。
     いま、この原稿を20gに換装したgateronクリア軸にしたzincで書いている。  配列は、飛鳥配列を40%用にセルフカスタムしたものを使っている。
     ………こう言われても、何のことか理解できる人は中々いないだろう。これはキーボードと、キーボードの配列の話だ。  私はここ半年ほどキーボード配列関連の「沼」(マニアのコミュニティ)にはまっている。ここから、沼関連の鉄板ネタを展開することもできるのだが、今回、書きたいのはこの沼の「居心地の良さ」がどのような仕掛けによって成立しているのかについてである。
     キーボード配列についての沼は、おおまかに3つぐらいに分かれている。物理配列沼(自作キーボード沼)、ソフト配列沼、タイパー沼の3つである。どの沼もゲーム、マンガ、アニメなどのオタコミュニティより参入障壁が高い。  とりあえず、そのことだけわかってもらえれば、下記は、いささかオタトーク気味な話になるので、次の小見出しまで、進んでもらってもいい。  この沼に入る動機として一番わかりやすいのは、タイパー(高速タイピング)の沼だ。高速入力ができたらいいな、と考えたことのある人は多いだろう。最近は、音声入力が扱いやすくなったため、かなり速く入力できるようになったが、固有名詞や専門用語が多い話になると、まだまだ、物理キーボード入力のほうが早い。究極レベルのタイパーは、テレビの字幕放送などの速記者たちで、彼/彼女らは、StenoWordという特殊なキーボードを用いて、恐ろしい速度で文字入力を達成している。たとえば、「コミュニケーション」と打つのに、QWERTYローマ字ならば、「kommyunika-shon」と15回ほどキーを打たなければならない。親指シフトやカナ入力なら9打。それが、StenoWordならば、たった一回の打鍵で打てる。StenoWordは、頻度の高い数千の単語を予めシステム的に登録してあり、複数のキーを同時押しすることで一発で打てる。ただ、このレベルのタイパーになるには、学習コストが半端ではなく、数年間の修行が必要になる。ここまで、いかなくともQWERTYや、カナ入力でのタイピングの大会でランキングに残るような成績にいる人々は、かなり熱心なトレーニングを日々積んでおり、これはかなり、eスポーツ的な世界になっている。タイピングの国内大会である、Realforce Typing Championshipなどは、決勝動画をYouTubeで見られるが、e-Sportsの世界の一種だと言ってしまって問題がなさそうな雰囲気が漂っている。  2つめは、物理的にキーボードの配列を設計・自作する沼である。エルゴノミクスキーボードなどでイメージされるような変わった形状のキーボードを設計したり、作りたい人たちが集っている。この沼が盛り上がりはじめた直接的な理由は、技術プラットフォームの構造変化のためだ。メカニカルキーボードの世界的企業だったCherry社の特許が切れたことで、2010年代中盤から安価な中華系キースイッチが登場しはじめ、「自作キーボード」や「自キー」というキーワードで、日本では、特に2018年ぐらいから本格的に盛り上がっている。個人が設計したキーボード組み立てキットを、ネット経由で簡単に手に入れられるようになった。この沼に入ることによる、即物的な御利益がなにかあるかというと、肩こりがよくなることが多い。ちなみに、下記は、マイ・キーボードの写真である。

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  • 【特別寄稿】井上明人 食べログの得点付けアルゴリズムはどうなっているのか?

    2019-10-23 07:00  
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    今朝のメルマガは、井上明人さんによる特別寄稿をお届けします。食べログの点数は恣意的に操作されているのでは、という疑惑がネットを騒がせていますが、その評価の偏りは、信頼度を保持するためのスパムフィルタの観点を取り入れると、全く違った解釈ができるようです。井上さんがYahoo!個人で公開した記事と合わせて御覧ください。
    井上明人さんのYahoo!個人の記事はこちら↓食べログの得点計算についてのポジティブな可能性を考えるー操作されたデータを検証する難しさー
    本レポートが作られた前提
     2011年夏から一年ほど、食べログ利用にはまり、170件ほど書き込んでみたりしました。そして、どういう点数アルゴリズムなのかが気になってワクテカで解析してみて、食べログのアルゴリズムも(なんとなく)わかった……個人的には興味深いデータにはなったが、こんな調査研究をしたとして、これを一体、どうやって活かすつもりなのか、とか聞かれてもさっぱりわかず、当時としては、せっかくの解析結果をとりあえず記録に残しておこう……という趣旨の自分用に記録しておいたドキュメントでした。解析するのは楽しかったです。  これって、どこの学会に出せばいいのか?いや、そもそも、勝手にアルゴリズム解析した結果とかを掲載して、食べログ(kakaku.com)さんに迷惑だと言われたりしないのか……。と思っていたため、7年ほど死蔵していたのですが、残念ながら、現在、食べログの評価アルゴリズムに対する不信感が過剰に高まってしまっている状況がでてきてしまっています。 こんなレポートであってもある程度までアクセス可能な状態にしておくことに意義があるだろうと思い、掲載をさせていただきます。2019年現在では、細かなアルゴリズムは、変更されているとは思いますが、大筋の評価アルゴリズムの発想は当時の延長線上にあるかと思います。 基本的には友人に見せる程度のものとして想定していましたので、実証的に確かというよりは、仮説の束のようなものだと考えてお読みいただけましたら幸いです。
    食べログの得点付けアルゴリズムはどうなっているのか?
    井上明人 2012/10/14
    ■ 問題意識  食べログは、日本国内の「レビュー系・口コミサイト」としては、2位の、@cosmeとは、大きな差をつけており、日本でもっとも成功した口コミサイトといっても過言ではない。その食べログのアルゴリズムがどのようになっているのかを探りたい。  食べログのアルゴリズムの特殊性によって、どういった店舗がトクをし、どういった店舗がソンをしているのか。そして、食べログがこれだけの利用者に一定の納得感を生んでいる仕組みの一端を明らかにしたい。
    ■ 調査・分析手法1.定性的調査 a) 食べログに登録された店鋪を、実際に200店鋪ほどめぐった b) 食べログにユーザーとして170件ほどを書き込み、どういった挙動が行われるかを調べた2.定量調査 a) 2012年10月時点で、食べログの書き込み件数30件前後の店鋪を10店鋪ほどの書き込み情報(全300件程度)をすべて抽出し、それぞれ評価情報をもとに複数の計算手法によって、「食べログ点数」に近い点数が算出できるようなアルゴリズムを構築した
    ■ 結論:点数アルゴリズムの概要  食べログには、大きく分けて3つのアルゴリズムがあることが推定される。
    (1)単純重み付けアルゴリズム:  すでに公表されているような「食通」による評価に重み付けをし、加重平均を算出するアルゴリズム。重み付けの要素となる変数は、下記3点の変数が、ほぼ1:1:1程度の影響力をもっているものと想定される。 a. レビュアーの総書き込み件数(総書き込み件数によって5段階のレベルがある) b. レビューへの参考になった票の多さ c. レビューの新しさ(新しく書かれたレビューのほうが影響力は大きい) すなわち、「最近、沢山のお店をまわっているレビュアーが書いた、評価されている人気のあるレビュー」が最も影響力の強いレビューであある。一方で、「あまり食べログで活発に活動したことのないレビュアーが、昔適当に書いただけであまり支持票も入っていないレビュー」の影響力は極めて低い。  また、5件以下しか、それまで書き込み件数がないレビュアーについては評価点が一切反映されていない。
     それぞれの重み付けのロジックは、独自推定アルゴリズムでは、下記のようなものとしている。
    ・総書き込み件数  総書き込み件数をもとにしたレビュアーの信頼度は、食べログが、ユーザーの「レベル」分類を情報として公開しているため、これをもとにした。 レベル0 (信頼度0)0件~5件  レベル1 ~100件未満  レベル2 ~500件未満  レベル3 ~1000件未満  レベル4 ~3000件未満  レベル5 (信頼度5)3000件以上
    ・レビューへの参考になった票の多さ  単純に参考になった票の数を、もってきて重み付けをしてもよかったのだが、長年活動しており、かつ文章に人気がある有名ユーザーの場合、参考になった票が「40票」あり、他のユーザーが、「5票」「3票」といった形になっているケースも多く、それではあまりにも差が大きく出てしまう。  独自アルゴリズムでは、その点を考慮し、単純に票の数を信頼度として計算してい可能性が高いものと考え、投票数を信頼度として変換するための下記のような方式を採った
     10票以上の投票のあるレビュー:信頼度4  5票以上の投票のあるレビュー:信頼度3  1票以上の投票のあるレビュー:信頼度2  0票投票のレビュー:信頼度1  ・訪問日の新しさ  日付の新しさがどのように評価されるか、については食べログによる公開情報がなかったため、定性調査による結果を参考に(要するに、食べログユーザーとしてのカン)して、独自の推定アルゴリズムでは、下記のような独自の評価関数を作った。
     30日以内に店舗を訪問しているレビュー:信頼度4  30日~179日経過しているレビュー:信頼度3  180日~364日経過しているレビュー:信頼度2  365日以上経過しているレビュー:信頼度1
     (2)信頼度スパムフィルタ:  店鋪に対する書き込み件数が、一定件数を越えるまでは、スコア付けの評価自体を下げるアルゴリズムがあると推定される。このアルゴリズムの独自の働きによって食べログの点数は、直感的な推定が難しいものになっている  3.5未満の店鋪で、影響力のあるユーザーによる評価が充分にあつまっていない店鋪は、おそらくこのアルゴリズムが働いている。このアルゴリズムが働くことによって、単なる加重平均で評価がなされる場合よりも、最大で、0.4ポイント近く店鋪の評価点数が下がることがある。  挙動の仕方は、スパムフィルタではないかと推定される。ごく直感的に言えば、スパムフィルタのようなアルゴリズムである。メールのスパムフィルタでは、「怪しい」と推定される、複数の要素を判断し、あるメールが怪しいものかどうか、ということを判定している。例えば、「欲求不満」「会いたい」「人妻」「当選しました」……などの怪しい語彙を複数登録しておき、一定数以上の怪しい語彙が連続した場合にスパムと判断されるといったような形になっている。  これと同様に、食べログでは、おそらく次のような要素がどの程度入っているかどうか、で信頼係数を作成し、その信頼係数の強さによって点数を低めに抑えるかどうかを判断しているものと考えられる。

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  • 井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて 第34回 創発的現象としてのゲームの二次的フレーム

    2019-09-05 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。前々回に引き続き、共同注意の概念を通したゲームという現象の読解です。ゲームを成立させている多層的な合理性、その定義の困難は、同時的に複数の水準の要素が発生しながら、分解して分析できない、その特異な性質にあるとします。
    4.2.3 創発的現象としてのゲームの二次的フレーム
     本編の展開について、だいぶ間をおいてしまって申し訳ない。本筋としては、ゲームにおける学習と、共同注意が同時的に起こるとは、どういうことかについて議論をしていた。  なぜ、この「同時的に起こる」ということが重要なのかといえば、これがゲームに関わるさまざまな矛盾や、パラドクスを解く鍵になるからである。  ある、現象が同時に起こり、より複雑な水準の事態を引き起こすということは、そこに異なる水準の説明を生み出すということだ。そして、異なる水準の説明が可能になるということは、同時に矛盾やパラドクスに満ちた説明を可能にするということともつながっている。  いままで触れてきたとおり、ゲームを遊ぶということには、さまざまな矛盾した事態を内包している。いくつかの矛盾した事態を挙げてみよう。
    ・人は、通常においては失敗を避けるものであるにも関わらず、何度も失敗するであろうことが明らかにわかるような「ゲーム」という体験を自発的に遊んでしまう。(Juul,2013)[1] ・日常にしばられることから逸脱するために、ゲームをはじめる。しかし、ゲームをはじめれば、そこではまた別のルールに我々はしばられる。逸脱するためにゲームをしているのに、ゲームをはじめれば、そこではゲームのルールに従順になる。 ・ゲームを終わらせる(クリアする)ために、ゲームを始める。
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  • 井上明人 ゲーム市場の生態系とネットワーク構造の変化をどう捉えるか――Wii、DS、PSP以降の構造を考える(PLANETSアーカイブス)

    2019-08-02 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、『「ヒットする」のゲームデザイン』(オライリー・ジャパン、2009年)に掲載されたゲーム研究者・井上明人さんの論考を配信します。コンピュータゲーム市場を「高速に変則的な動きをする生態系である」と捉えたとき、どのようなメカニズムでゲームの購入が決定されるのかを、様々なモデルを例にとって考えます。 ※この記事は2014年9月24日に配信された記事の再配信です。

    ▲『「ヒットする」のゲームデザイン――ユーザーモデルによるマーケット主導型デザイン』(オライリー・ジャパン、2009年)
     原書の発行された後、2006年にはプレイステーション3やWiiがリリースされるとともに、携帯ゲーム機であるニンテンドーDSやプレイステーションポータブル(Play Station Portable : PSP)が大ヒットとなった。原書発行以後の4年間のこうした動きを考えると、4年前のアメリカ市場を念頭に置いての議論の一部は、そのままでは通用しにくいものとなってきていると言わねばならない。本稿では、こうした動きに対応して原書で提起されている枠組みをどう応用できるかを考えていきたい。
     この4年間の中でとりわけ大きかったのは、ニンテンドーDSの大ヒットである。ニンテンドーDSはすでに世界で1億台以上の売り上げを達成した(※1)。2006年以降のコンピュータゲーム最大の市場は、据え置き機型ゲーム機市場から携帯型ゲーム機市場へと交代したと言ってよい。

    (※1)任天堂株式会社2009年3月11日ニュースリリース「ニンテンドーDSシリーズ1億台販売」(http://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2009/090311.html)。

     本書の内容と絡めて言えば、この事態から大きく2つのことを汲み取ることができる。
     1点目は、本書で比喩として使われたような生態系のモデルを用いて市場を語るという方法(13章)を再考せざるを得なくなった。生態系をモデルにして社会を語る観点にはさまざまなものがあるが、生態系を語る際に、本書のように生態系の「安定」に着目することを重要と考えるのか。それとも生態系の「変化」や「多様性」に着目することが重要だと考えるのか。その観点の差によって、同じ生態系の比喩を使うにしても、得られる結論は大きく変わってくる。生態系の安定は確かに重要な指標だが、変化がきわめて激しい環境の中で、生態系を考えるということはいったいどういうことだろうか?
     もう1点は、ハードコア層の影響力を重視した、エバンジェリストという発想の有効性(2章)だ。この数年間にわたって任天堂が掲げてきた基本戦略は「ゲーム人口の拡大」だった。これは必ずしも本書の提唱するようなハードコア層の影響力を考慮したものではない。むしろハードコア層を経由せずにカジュアル層にそのままアプローチしてしまうための戦略だ。そして、この戦略を用いた2000年代後半の任天堂は、誰が見てもゲーム産業で最も強いプレイヤーたりえていた。この事実を、本書の提起した視点からどのように捉えればよいのだろうか?
    A.1 ゲームマーケットはどういう生態系なのか? 
     まず簡単に市場を生態系のモデルで捉えることの意義について確認しておこう。
     人間社会の全体性を、生態系で捉えるという発想自体は非常に古くからある。生態系の比喩で社会を捉える議論にありがちな展開の1つは、現状肯定的なもの言いの根拠付けとして生態系がダシにされる、というものだ。
     どういうことか。
     社会の中に存在するほとんどのシステムは、ほかのシステムとかかわる形で意味を持たされている。一見何のために必要なのかということがわかりにくかったり、非効率なものに見えたりしても、まったく意味のないものは珍しい。例えば、何のためにやっているか今ひとつ理解が及びにくい、判子を押すような事務仕事も、会計的な透明性を上昇させるために必要だということにされ、ひいては効率的な予算管理を可能にするための部分的な制度である、と言いうる。ほとんどすべての社会システムには、何かしらの意義が与えられ、社会システムの一部となっている。いま存在している社会システムや、社会的な方向性(クレオド)は、何かしらの点で意味があり、生態系の安定に寄与している、と捉えることができる。これは、きわめて古典的な論法であり、保守的選択が肯定される際には、過去に何度もこうした社会観が用いられてきた。
     この、当たり前ともいえるような伝統的な社会観には、伝統的な反論もある。1つは、本当に既存のシステムすべてが効率的なのか?という反論。もう1つは、あるサブシステムが関連づけられているメインシステムが変更されたら、サブシステムはただの非合理なシステムでしかなくなるでは?という反論だ。
     この2つの反論を象徴的に表すものが、「ピアノのふた」の話だろう(※2)。船の難破に遭った人が、海上を漂っているところでピアノのふたを見つける。そして、その人はピアノのふたにしがみついて一命を取り留める。そのとき、その人にとって、ピアノのふたは「あれがなかったら死んでいた。ピアノのふたは、欠かすことができない」というものになる。だけれども、本当はピアノのふたより浮き輪とか、ゴムボートが漂っていたなら、そっちのほうがずっとよい。だけれども、一度ピアノのふたを選んでしまった人は、ピアノのふたのすばらしさを説く人になってしまって、なかなかゴムボートや浮き輪を発見しようという気分になることがない。

    (※2)バックミンスター・フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』(バックミンスター・フラー著、芹沢高志訳、筑摩書房、2000年)

     これはたとえ話だが、社会にはこういうことがよくある。産業によっては、ある部品を調達するためにとても効率の悪いことをやっていたり、会計処理にすごく変なことをやっていたりすることがあるが、効率の悪いやり方であっても、一度それで物事が回るようになってしまうと、その方式で物事が回ってしまうということがよく起こる。選んでしまった後には、どうしても、一度選んでしまったことのシガラミというものから人は簡単には抜け出せない。ピアノのふたがどんなに非効率なものかが明らかにわかるような場合であっても、ピアノのふたにアイデンティティを重ねてしまうような人も出てくる。過去に行われた選択それ自体が、未来の別の選択に対して自己拘束性を持ってしまうということは頻繁に起こる。
     そのほかにも、さまざまな反論や、別の見方を体系的に語る切り口(※3)が登場した結果、ざっくりとまとめれば、近年の社会科学では現状肯定のために生態系を比喩として用いるという論法は、あまり重要なものではなくなっている。現状の生態系の安定のみを考えるのではなく、むしろ生態系における淘汰や変化といった事象が起こる点に着目し、生態系の変化がなぜ起こるかといった要素に説明を加えようとすることが重要性を増している。一見、安定的な生態系であっても、ほかの生態系と接触したときに、そこから持ち込まれた一種類の菌や虫によって生態系の維持が困難になったり、生態系の主役が大きく交代してしまったりということは歴史上きわめて頻繁に起こってきた。例えば、よく訓練された先進国の巨大な集権型軍事組織が、第三世界のネットワーク的な分散権力構造を持ったゲリラ部隊に必ずしも容易に勝利できないというような事例や、「破壊的イノベーション」という言葉で知られる産業における不連続な市場の主役の交代劇など、あげればいとまがない。

    (※3)社会科学において、こうした展開を持ち込んだのは、ジョン・メイナード=スミスによる進化ゲーム理論(『進化とゲーム理論―闘争の論理』ジョン・メイナード=スミス著、寺本英+梯正之訳、産業図書、1985年)の影響がきわめて大きい。こうした観点から、社会変化について述べたものとして、簡単に読めるものでは『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳、草思社、2000年)などはおもしろい。

     生態系的な社会観をバックグラウンドとする「進化」という概念と、一直線の発展を想定するような「進歩」という概念の違いはよく強調される。「進歩」という観念はドラゴンボールの戦闘力よろしく、強いものは強く、文明化された社会は野蛮な社会よりも進んだ社会だということになる。ベジータは絶対にクリリンよりも強い。しかし社会というものは当たり前だが、そんなに単純なものではない。かつて流行していたものが新しいものによって淘汰されて絶滅するということももちろん起こるが、それだけではない。同一の事象の繰り返し、予想外の不連続な展開……といったことが頻繁に起こる。こうした社会変化の中では、プレイヤー(生物)とプレイヤー(生物)同士のさまざまな組み合わせによっては、一見、「弱い」とされていたものが、「強い」とされていたものを駆逐するようなことが頻繁に起こる。再び、ドラゴンボールの例で言えば、ブルマの戦闘力がそこまで強くないにせよ、ブルマが物語展開の鍵を握り、戦闘力が中途半端なヤムチャなんかよりも、よっぽど重要な役割を果たしてしまうことがあるようなものだろうか。生態系の比喩というのは、複雑な要素が組み合わされ、新たな事象が引き起こされるプロセスを考えることに適している。繰り返しになるが、生態系という概念は、「絶滅と淘汰」という本書でも重視されている事象に対する説明力も持つが、「変化」や「多様性」といった要素に対して説明力を持ちうることにこそ醍醐味がある。
     さて、本書では2Dゲームが3Dゲームの登場によって絶滅の危機に追いやられ、恐竜が鳥類になることで生き残ったように、携帯ゲーム機市場へと展開することで絶滅を免れたという説明が登場する。だが、ゲーム市場で起こったことは、単なる2Dゲームの衰退ではなかった、ということがDSの大ヒットによって明らかになったと言えるだろう。据え置き型ゲーム機の開発規模の高騰や、コアゲーマー層の消費市場の先細りといった現象の対抗する解決策に近いものとしてニンテンドーDSのヒットという現象は起こった。そこに2Dゲームも再び市場を席巻するゲームデザインのスタイルとして世界中に復活を遂げることになった。これは、明らかに進歩という概念ではなく、進化的な生態系のモデルを通して観察したほうが適切な事態であったといえる。本書が採用している生態系のモデルによって市場を考えるという観点は生きている。だが、絶滅→淘汰という観点から生態系を考えるだけでは十分ではない、ということもまた明らかだ。2Dゲームは絶滅したのではなく、単に一時的に少し影を潜めただけで、2Dゲームが繁殖するのに適した環境が訪れれば、また再び生態系の中で巨大な力を持つに至った。競争優位となる要素の変化が激しい市場ではあるが、A→B→C→Dというような単純な交代劇で捉えられる生態系ではなく、A→B→C→A ́→Ć→Dというような、高速に変則的な動きをする生態系である、ということだ。
     また、もう1点は生態系の変化の問題に加えて、生態系の多様性の問題も重要になってきた。ゲームのジャンルの安定化や、シリーズタイトルの比率増加に対するオリジナルタイトル数の減少といった要素がしばしば取り上げられ、ゲームの多様性が減少した(=安定性が増した?)という側面はある。欧米の据え置き型ゲームの市場や日本の携帯ゲーム機といった個別の市場を観察すれば、確かにそうした側面はある。だが、個別の市場における内部での状況から、少し視野を広げてみると、性質の異なる市場のバリエーションが飛躍的に増加していることがわかる。具体的に言えば、欧米と日本という2つのゲーム市場だけでなく、中国と韓国を含む東アジアの市場が、既存の市場とはかなり異なる性質の市場としてさらに拡大してきた。加えて、据え置き機市場、携帯ゲーム機市場、携帯電話市場、PCゲーム市場などの市場の多面化も激しくなったし、流通形態も小売店やレンタル、中古販売といった流通経路に加えて、オンラインでのダウンロード販売などの新しい流通経路の影響力が一挙に高まりつつある。つまり、1つの閉じた生態系を構築していられる状況とは違い、多様な環境を持った生態系が、相互につながりあうような世界になってきている。これらのプレイヤーがすべてアメリカを中心に、あるいは日本を中心にして、生態系の一部となっているのならば生態系は安定するかもしれないが、そのような産業構造が自生的に組み上げられるかどうか、ということは現状では不透明な状況下にある。国際分業や、さまざまなレベルでのプラットフォーム競争、標準化争いなどが繰り広げられることで、こうした多様な生態系が全体としてどのようなバランスをとるかという方向性が決まってくるものと考えられるが、一国内の閉じた生態系の安定性を考える、という形でのアプローチでは難しい状況が当面は続くだろう。
    以上、簡単に要約すると次のようになる。
     
    ●主要なプレイヤーの交代と、プレイヤーの数の増加という現象がこの数年で顕著に起こってきた。
    ●すなわち、ゲームマーケットという生態系は、かなり高速に変則的な動きをするような性質を強めてきており、1つの大きな生態系が強い連結を保って存在しているというよりは、さまざまな特徴を持つ生態系がある程度のつながりを保ちつつ独立して散らばるようになってきた。
    ●このような状況下では、生態系の「安定性」に着目することの価値以上に、生態系の「変化」や「多様性」について考えることのほうが相対的に重要性を増してきた。
    A.2 影響力のあるユーザーとは誰なのか? 
     では、こうした、多様性に満ちており、変化の激しい市場に対してどのようなアプローチを考えていくことができるのだろうか?
     そのアプローチは、実に多種多様な解がありうるだろうが、ここでは、初めに提出したもう1つの問題―コアゲーマーの影響力を起点とするエバンジェリストのモデルがどこまで有効なのか?―を考えるという形で、1つのアプローチを提示してみよう。
     さて、本書の中で紹介されているエバンジェリストモデルのベースとなっているものの1つは、おそらく『キャズム』(川又政治訳、翔泳社、2002年)のジェフリー・ムーアなどに代表される新製品の普及モデルだろう。普及論などの議論では、この段階的なモデルが新製品の普及を考える上ではよく知られている。
     
    I.新製品の発売初期にまっさきに購入を行う初期ユーザー(イノベーター)が最も数が少なく、
    II.その次に先端的な製品だと察知すると購入を行うユーザー(アーリーアダプター)、
    III.そしてクリティカルマスと呼ばれる一定規模を越えて普及が進むと一挙に大規模な数のユーザー(アーリーマジョリティー)を獲得することができる(※4)。

    (※4)この段階の後に、衰退の段階もある。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』番外編 幸福な善人の異世界物語

    2019-06-06 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は番外編として、ウェブ小説の新ジャンル「幸福善人系」について考察します。物語制作上不可欠とされるはずの、主人公の欠落や進行上の障害を全て排除し、ひたすらストレスフリーを徹底した作品群。その指向性の先にあるものは……?
    究極のストレスフリーとしての幸福な善人の話
     さまざまな異世界もの物語の中でも、ここ数年になって「幸福善人系」とでも呼ぶべき一群の作品が増加している。アニメ化までいった作品としては、吉岡剛『賢者の孫』(2015-)がこうしたタイプの代表格だが、もとから恵まれている幸福で善良な人間が、スーパーマンとして大活躍する話である。私見では、この「幸福善人系」の作品群の台頭は、一時期の「空気系」の作品が登場してきたときのそれに近いインパクトを持っているように思う。そのインパクトというのは、何なのかということを説明したいと思う。
     さて、こういったものが増加してきた経緯のそもそもは、ウェブ小説界隈で近年よく意識されるようになってきた「ストレス展開」の排除だとか、「ストレスフリー」などという言葉が関係している。つまり、主人公が喪失や挫折を経験したり、差別に苦しめられたり、誰かとの深刻な対立を経験したりすることのない小説である。7,8年前であれば、この傾向はそこまでは顕著ではなかったが「ストレスフリー」は、ウェブ小説の中での流行りを意識する書き手にとっては、近年かなり意識されている。「異世界転生」「チート」「ハーレム」といった要素に次ぐ、もう一つのウェブ小説の鉄板要素なのではないかといった感すらある。「ストレスフリー」自体ネタとしたメタ小説(注1)まで書かれている状況だし、もちろん、コミカライズされている作品も数多い。  もっとも、これといって強いストレスのない物語それ自体はそこまで珍しいわけではない。初期『ドラゴンボール』だってそうだ。ただ、そういった最強主人公モノは何かしら変わった人格──いわゆる「キャラが立っている」人物──であったり、設定の面白さをもっていたりする。  つまり「ストレスフリー」展開の話を順当に面白くしようと考えた書き手たちの考えることの一つは、ヒキの強い設定やキャラ立ちをさせようという発想に落ち着くことになる。  ホモ・サピエンスという種族がエルフやドワーフといった種族を遥かに超える伝説的な種族だったという設定の柑橘ゆすら『最強の種族が人間だった件』(2016-2018)だとか、あまうい白一『俺の家が魔力スポットだった件~住んでいるだけで世界最強~』(2015-)などは、タイトルだけでもすでに極端なストレスフリーっぷりがうかがえる、ヒキの強い設定をもっているストレスフリー作品であり、こうした作品は数多くなされている。
     たが、こういった設定や、キャラクターのヒキの強さで話を面白くしようとする努力とは、逆方向にストレスフリーの作品のあり方を突き詰めてできあがったきたのが、「幸福な善人」たちの話である。  これらは、キャラクターや設定のヒキの強さで話を面白く盛りあげない。キャラクターや設定も含めて、刺激の低い作品であり、ある意味で究極のストレスフリーを目指した帰結とも言える。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第33回 叙述的共同注意のネットワーク

    2019-04-17 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ネット上に存在している他者との親密な関係の生成を促すシステム。ゲームは同様の媒介性を備えながら、同時に他者との衝突を本質とする面も持ち合わせています。容易には接合しえない諸要素からなるゲームの本質、その概念的な整理を試みます。
    4.2 叙述的共同注意のネットワーク
    4.2.1コミュニケーションとルール
     一時期、他人のひどくプライベートな話を様々な人から集中的に聞いていたことがあった。虐待から逃げてきた子の話、障害のある弟を抱える姉の話、トランスジェンダーの人の話。糖尿病で苦しんでいる人の話。同性愛者の人が結婚した人の親(義理の親)がまた同性愛者で、その義理の親にレイプをされていて悩んでいるという話を一晩じっくり聞いたこともあった。  カウンセラーの仕事をしていたわけではない。その話を聞いていたのはインターネットの中でも、とりわけ匿名性の高いチャットサービスに出入りしていた時のはなしだ。私とは、なにか全く違う人生を歩いている人たちが、同時代の日本のなかにこれほどいるのか、ということを知ることができるということが衝撃で、一時期はほんとうに毎晩通っていた。  性、病気、家族、借金。そういった、私的領域に関わることを、多くの人が私にむかって話してくれた。そこで、信頼されていたのは彼/彼女らにとって、見知らぬ私ではない。信頼されていたのは、私ではなく匿名性を担保するシステムのほうだ。  このサービスの匿名性はTwitterの匿名とは質が違う。Twitterでは固定のIDを原則として使い、人によっては実名と紐づけたアカウントを利用している。このサービスでは、固定のIDもない。ログも残らない。名乗り出ない限り、実名に辿り着かれることはなく、誰も実名を名乗らない。Pfitzmannらの概念【1】を借りるのであれば、リンク不能であり到達不可能【2】という意味での強い匿名性が担保されたサービスだということになるだろう。完全な「名無しさん」同士が会話をするというスタイルのサービスだ。別の例をいうのならば、「王様の耳はロバの耳」と叫ぶための穴のようなものだ。誰かに話してしまいたい自分の秘密を叫ぶための穴のような場所が、インターネットにはいろいろな形で存在している。
     そこで話される話は、5chやはてな匿名ダイアリーにはたまに書かれることはあっても、Twitterや、Facebookにはなかなか出てこない話だ。かつての2ch(現5ch)には獣姦や、自慰などについての具体的な体験談を綴った「名作」と言われる過去ログがある。確かに、獣姦が趣味だという人に会うことはまずないし、たとえ会うことがあったとしてもカミングアウトされることもまずない。極限まで匿名性が高く担保されたようなサービスは、ニュースになることはないが、インターネットのどこかで、今日も盛んに話されているはずだ。  よく知られているように、我々のコミュニケーションは、対話をする環境に大きな影響を受け、そのありようを変化させる。  フェイクニュースや炎上の問題など公共的な領域に関わる議論はもちろん、さきほど述べたように私的な領域にわたっても起こっている。初対面の私に向かってプライベートなことを話はじめる人はほとんどいないだろうが、高い匿名性が担保された場所であれば、人はふつう言えないようなことも言ってしまう。  行為を行わせる環境を信頼して行為の構造を変える、というのはネットサービスに限った話ではなく、むろんゲームでも起こっていることだ。  初対面の相手とトランプなどのゲームを通して仲良くなったという経験がある人は多いだろう。それほど社交力のない人にとっては、初対面の相手と仲良く話すというのはそれなりに面倒なことでもあるが、ゲームはその面倒な部分をうまくやらないでいいようにしてくれる。ババ抜きをするときに、相手にババを引かせたからといって相手の心証を悪くする心配はしなくてもいいし、自分が何者なのかといった自己紹介を相手の興味を測りながら話すようなこともしなくていい。多くのゲームでは、見知らぬ他人とゲームをすることは、それほど苦労のいることではない。法や、貨幣といったコミュニケーションを媒介する環境が、我々の社会におけるコミュニケーションの焦点を変化させ、複雑性を縮減するのと同様な形で、ゲームのコミュニケーションも機能していると言っていい。【3】
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』番外編 2018年の「推し」ゲーム 三選

    2019-03-05 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、井上明人さんが2018年にプレーしたゲームの中から「推し」のタイトルを紹介します。。国内外・ハードを問わず、ゲーム研究者ならではの鋭い考察と、いちゲーム好きとしての愛情に溢れた視点から語ります。
     今回の原稿は、2018年に出会った「推し」ゲームというでお届けさせていただきたい。というのも、2018年は、個人的に、相性の良い「推せ」る作品に出会えた率がかなり高かった。なので、今回は、そういった「推し」作品を中心に2018年に触れた作品について述べさせていただきたい。  なお、今回紹介させていただくものは、基本的にリリースのタイミングではなく2018年に筆者が遊んだ作品なので、2017年以前の作品も含まれている(とはいえ、あまりに古い作品は省いた)。  今年遊んだものの中で、特に印象に残った作品名だけ、まずザラッっと挙げておこう。  まずは、ニッキー・ケースの作品群である『We Become What We Behold』『Coming out Simulator』『the wisdom and/or madness of crowds』。すでにインディー系ではだいぶ注目が集まっているものとしては『Deltarune』『My Child Lebensborn』『Florence』『CHUCHEL』。国内でほとんど知られていない作品としては『カウンターヒーロー第1章』『Attentat 1942』『Unmanned』。また、ボードゲームとしては有名どころであるが、『キャットアンドチョコレート 日常編』。2018年に出たコンシューマー系からは『Detroit』。時間をもっとも費やしてしまった作品として『ダンジョン・メーカー』。  なお、積みゲーにしてしまっていたもので今年になって時間をかけて遊んだもの(ごめんなさい…)としては『Her Story』『Splatoon』『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』『THE PLAYROOM VR』『Undertale』あたりである。  全ての作品をとりあげるわけにもいかないので、今回は、この中から『We Become What We Behold』、『カウンターヒーロー第1章』『My Child Lebensborn』の三作品を取り上げたい。  なお、「XXXを挙げていないのはわかっていない」系の定番のご批判はもちろん、ありうるだろうと思うが、網羅的なものは全く目指していないというか、目指せない。その点はご容赦いただきたい。  また、媒体の性質上、ネタバレは基本的についてくるものだと思っていただきたいので、ネタバレをされたくない読者は注意していただきたい。
    不幸な均衡への自発的加担を経験させる:ニッキーケース(Nicky Case)の作品群
     さて、まずニッキー・ケースの『We Become What We Behold』である。これは今年もっとも印象に残ったと言うだけでなく、人生全体の中でもトップクラスに入る強い印象を残した。  この作品については、PLANETS vol.10でも少し取り上げたが、作品のタイトルは「我々は、我々が注目するものになっていく」というような意味だ。  遊び始めたプレイヤーができることは、フィールドのなかで写真を撮影することだ。ただ、ほかの写真撮影系のゲームと違うのは、フィールドの中心に撮られた写真を投影するための大きなモニターがあることだ。ゲームの中のNPCたちは、みな、そのモニターを見ている。  プレイヤーがフィールド上の好きな場所を撮影し、それを皆が注視しているスクリーンに映し出すことができる。問題は、「どのような風景を撮影すべきなのか」ということだ。人々にスクリーンに注目させ、ゲームを進行させていくためには、何かしら人々が惹きつけられるような写真を撮影しなければいけない。NPCは最初は、ちょっと変わった程度のものならば何でも見てくれる。しかし、次第にNPCは刺激を求めるようになってくる。手当たり次第に撮影してみると、わかってくるのは、どうもケンカなどの揉め事の風景を撮影していると、注目を集めやすいということだ。とても残念なことだが、殺伐としたシーンが注目を集めやすく、大きな影響力を持ちやすいことに気づいたプレイヤーは、気がつけば殺伐とした写真を撮ってしまうことになる。  そして、プレイヤーが殺伐とした風景を撮れば撮るほどに、その写真をみたNPCの人々には、隣人への疑心暗鬼への心が育っていってしまう。遊べば遊ぶほどに世界は疑心暗鬼に満ちたものになり、プレイヤーは、世界に憎しみを植え付けるプロセスに、自ら加担してしまっていることを知ることになる。  この作品が優れているのは、面白く、かつ啓発的であるというだけではない。普段、忌み嫌っているはずの、悲劇の連鎖に加担することに、自らが嬉々として工夫した挙げ句にいつのまにか入り込んでしまうということだ。自らの創意工夫の結果として、悲劇の連鎖に加担してしまうというのは『伝説のオウガバトル』で味わった経験と同様のものだ。  面白く、啓発的で、そしてデジタルゲームというメディアにしかなしえない表現を達成しえている。ネット上で遊べるフリーゲームなのでぜひ、英語の読める人はぜひとも実際に遊んでみてほしい。
    ▲『We Become What We Behold』
     ニッキー・ケースはフリーゲームの作り手として他にも素晴らしい作品を数多く作っている。日本語化されているものでいえば、自らがゲイであることを家族に公表した時のことをゲームとして表現した『Coming Out Simulator』、SNSでも話題を呼んだ、集合知のメカニズムをインタラクティヴに理解できる『群衆の英知もしくは狂気』なども面白い。  他にも、ニッキー・ケースの作品は無料で公開されており、ほとんどの作品がオススメである。
    ▲『Coming Out Simulator』
    ▲『群衆の英知もしくは狂気』
    全ては入れ替え可能:『カウンターヒーロー』
     さて、次の『カウンター・ヒーロー』も、インディー作品であり、(少なくとも本稿執筆時点では)無料で遊べる。QROSTARというチームが作成したもので、現時点では第1章しか公開されておらず、1時間強ぐらいで遊ぶことができる。  この作品は、プレイした感覚を、なるべく短く言うのであれば「スキルチート系のなろう小説を、本当にゲームとしてプレイしたような感じ」といったところだろうか。
    ▲『カウンター・ヒーロー』
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