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記事 44件
  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第31回 創発的現象:諸理論の反逆 コミューニケーション、ルール、メタファー

    2018-12-11 19:30  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、コミュニケーションについて独特の理論を展開したグレゴリー・ベイトソンの議論を、「共同注意」の概念を手がかりに、命令的/叙述的という分類から、「ゲーム」と「遊び」の差異について検討します。※本記事に一部、誤記があったため修正し再配信いたしました。著者・読者の皆様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。【12月11日18:30訂正】
    4 創発的現象:諸理論の反逆 コミューニケーション、ルール、メタファー
    4.1行為と、行為を思惟するシステム
    ベイトソンの「メタメッセージ」
     ようやく長かった第三章を抜け、第四章に入っていきたいと思う。  予告どおり、まずはコミュニケーションと遊びをめぐる問題を扱っていきたい。遊びやゲームにとってコミュニケーションという要素がかなり重要な一側面をなしているのは間違いない。カイヨワなどは、すべての遊びの動機はコミュニケーションであり、それこそが遊びにとっての欠くことのできない本質なのだとすら論じている[1]。カイヨワの議論に賛同するかどうかはともかくとしても[2]、コミュニケーションが重要な要素であることには違いない。  そして、遊びとコミュニケーションの関係を論じるにあたって、まず挙げなければいけないのは、グレゴリー・ベイトソンによる議論だろう。これは、遊びをめぐる最重要の議論の一つと言っていい。  ベイトソンといえば、哲学文脈以外でも、精神医学や社会学では「ダブル・バインド」の議論がよく参照され[3]、経営学などでも独自の「学習」概念が引き合いに出される。ベイトソンに関わる議論のなかでも遊びに関わる重要な論文は、一九五三年に出された「ゲームすること、マジメであること」[4]と、一九五四「遊びと空想の理論」[5]の二編があるが、とりわけ重要なのは「メタ・コミュニケーション」をめぐる議論だ。  ベイトソンによれば、遊びとは「今やっているこれらの行為は、それが表わす行為が表わすところのものを表わしはしない」[6]ようなものだという。何か非常にややこしいことを言っているように聞こえるだろうし、実際に文章にするとややこしいのだが、実際に我々が何かを遊ぼうとするほとんどの場合に起こっていることだ。ベイトソンによる、このややこしい定義は彼が動物園に行ったときに見た次のような観察から出てきたものだ。[7]
    私が動物園で目にしたこと、それは、誰にも見慣れた光景だった。子ザルが二匹じゃれて遊んでいた――二匹の間で交わされる個々の行為やシグナルが、闘いの中で交わされるものに似て非なる、そういう相互作用を行なっていた――のである。このシークェンスが全体として闘いでないということは、人間の観察者にも確実に知れたし、当のサルにとってそれが「闘いならざる」なにかだということも、人間観察者に確実に知れた。
     子ザル同士が遊ぶとき、相手に噛みついて遊んだりする。そのとき「物理的には」間違いなく噛み付いているが、子ザル同士の「意図として」本気で相手の肉体を破壊することを意図しての噛み付きが行われるわけではない。すなわち、「『咬みつきっこ』は『噛みつき』を表わすが、『噛みつき』が表わすところのものは表わさない」[8]  このとき、物理的に噛み付くという事態と、遊びで噛み付いてみせるという事態を区別することのできない動物は、ここでいう意味で「遊ぶ」ことはできない。「これは遊びなのだ」という行為事態を意味づけるメタなメッセージを交換できない動物には「攻撃的な意図で噛みつかれたこと」とそうでないことに差がなくなってしまう。攻撃されたら、それは攻撃なのだということしか考えない生き物は、闘争するか逃げるかといったことを選びとるしかなくなっていく。コミュニケーション行為のカテゴリーを複層化できないというのは、いかにも不自由な生き物だ。  遊びが成立するには状況解釈の多層的理解が前提となる、というベイトソンのこの指摘は遊びとコミュニケーションの関係を考える上で極めて重要な指摘である。これは人間の複数人遊びでは間違いなく生じることだ。このメタ・メッセージを理屈では理解できても、心情的にはどうもまだ納得しきれないような幼子はゲームに負けたときに癇癪を起こすことがある。小さな子どものときに、ゲームに負けて泣いたり、怒ったりしたことのある人は多いだろうし、子どもとゲームをした後に本気で怒られたりして困ったことのある人も多いだろう。[9]  こうした多重のリアリティ解釈と遊戯が深く結びついているという観察は、その後も、いくつかの系譜で参照されながら議論されることになった。代表的なものを挙げるならば、アーヴィン・ゴフマン[10]やゲイリー・アラン・ファイン[11]による遊戯やゲームをめぐる議論はベイトソンの強い影響下にある。  そしてベイトソンは「それが表わす行為が表わすところのものを表わしはしない」というような言い方は、ラッセルの<論理階層>の理論[12]では端的に禁止されるべきものであるともいう。「表す」(denote)という言葉が別々の水準の抽象性で現れているにもかかわらず、それが同義として現れている。これはいかにも論理エラーを引き起こしそうなややこしい仕組みだ。では、論理エラーを引き起こしそうな仕組みであるにも関わらず、なぜ人類をはじめとする哺乳類はこうした屈折した構造をもつ「遊び」に関わっているのか。ベイトソンによれば、それは論理学的な"正しさ"には合致していないが、それは哺乳類の進化が論理学のそれとは別の仕組みで成立してきたからではないか、という。
    ジョイント・アテンション
     動物や人間の心理発達プロセスという観点から、遊びというようなメタメッセージを含んだ構造について考えようという話を、現代的な概念に変換しようとするのであれば共同注意(Joint Attention)や、心の理論をめぐる議論から改めてベイトソンの議論を考え直すことが可能だろう。  共同注意とは、その名の通り他者との間で同じ対象について注意を共有しているかどうかを問うもの[13]で、心の理論(Theory of Mind)とは、他者が自分と同様の心の状態をもっているという推測をすることが可能かどうかということを問うものだ。いずれも幼児の心理発達の過程や、人間とサルの心のシステムの違いを論じる際にしばしば問題になる。  共同注意の概念は、1975年にスカイフとブルーナーの研究[14]により知られるようになり、心の理論は1978年にプレマックらの研究[15]により知られるようになったものだ。近年ではマイケル・トマセロ[16]や、バロン・コーエンなどによる研究が注目を集めている。彼らの論じるところによれば、親と子供との注意対象の共有などが次第に発展する共同注意のプロセスの先に、「他者に心がある」ということを理解するいわゆる心の理論(Theory Of Mind)ができあがってくるという。「他者に心があるということを推測する」というかなり高度でわかりにくいメカニズムを、共同注意という観察可能でわかりやすいものによって説明するという仮説は大胆で興味深いものだ。  ただ、共同注意がより現代的な概念であると述べた理由は、単に注目が集まっているというだけでなく、概念区分が細かくなされ各種の実験と紐づく形で実証的な形で研究が展開されていることによる。心の理論などと併せ、共同注意の発達プロセスは発達心理学における基盤的な論点を扱っている。  この共同注意や心の理論といった概念的な道具立ては、ベイトソンの現代的解釈をするうえでも、ゲームの概念について論じていく上でもかなり重要な論点を含んでいる。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第30回 第三章 補論2:なろう小説におけるダダ漏れの欲望を考えるための2つの「切断」

    2018-11-07 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回のテーマは「なろう小説」の欲望のあり方についてです。従来のフィクションを(主人公と読者の)「主体の切断」を前提とした作品と捉えた上で、なろう小説やゲームを「利得の切断」の側面から改めて検討します。
     昨今のコンテンツに詳しい人ならば、言うまでもないことだろうと思うが、「なろう小説」の欲望だだ漏れ感は、何かタガが外れているという感触がある。  チートによる俺Tueeeeと、(奴隷)ハーレムがセットになるというフォーマットは、控えめに言ってもやばい。「なろう小説」をはじめとする、異世界転生等の一群の物語については、本連載の第22回について扱ったが、俺Tueeee展開はともかくとして、あのハーレム展開っていうのはさすがにどうなのという人は多いと思う。この欲望ダダ漏れの表現はなんなんですかね、ということを、今回は書きたいと思う。
    <お断り>ハーレムものの「望ましくなさ」について
     本論に入るまえの、すこし「お断り」的な話をしておこう。今回、ゲームや物語における欲望について触れるが、ハーレムもの(あるいは逆ハーレムもの)の物語は、その多くが性的な欲望がだいぶ露骨な物語である。今回の原稿は、これを擁護するとか、批判するとかそういう話ではない。  もちろん、なろうの累計ランキングベスト10に居続けている、蘇我捨恥『異世界迷宮で奴隷ハーレムを』みたいな作品とかについて話すとなると、かなり色々と厳しいところがある。全部読んだが、本当にタイトルどおり異世界に行って、女の子の奴隷を買って、ダンジョンを探索していく話だ。主人公がわかりやすい悪人なんかであれば、ヤクザもののような、ある種の特殊な世界を描いた小説として切り離して読めるのでまだ良かったのだが、主人公は平凡で善良な日本人の青年だということになっていて、奴隷にも対等(?)で優しく、奴隷から愛されている「善良な」奴隷主をやっている話だ。主人公は読者にとって遠い存在として描かれているというよりは、読者の欲望を代行する存在として描かれている側面がどうしても強い。それも含めて、やはりこれは、露骨な欲望ダダ漏れ小説なのではないかという感触がエゲツない。 「書いてるほうも読んでるほうも、そこらへんの準ポルノ的な性質は、もちろん、わかって書いてて、わかって読んでますよね!?」ということに同意が得られる状態なのであれば話は簡単だと思うのだが、いかんせん、ここらへんの細かい話は複雑になりがちだ。  ハーレムものの反対で、イケメンにかこまれる逆ハーレムの令嬢モノというのもあるが、そういうものを見たら「これは、女性の欲望の話ですよね」と、多くの人が感じると思う。ハーレムものも、それと同様で「これは、男性の欲望の話ですよね」と言われたら、「まあ、そりゃ、そういう風に思われるよね」で、みんな納得してればいいのだけれども、どうも、そうなっていない。  「いや、でもこの作品はそれだけじゃない…!」みたいなことを言い出したりする人もいるし、「うーん、これは…微妙…男性側の欲望…と言えなくもない…?かな?どうだろ?」みたいなボーダーラインケースも多数ある。そしてボーダーラインケースについて、過激な主張をする人が出てくると議論に収拾がつかなくなる。 もっとも、なろう作品のハーレムもの(ないし逆ハーレムもの)については、ボーダライン上の作品もないとは言わないが、露骨に性的欲望の溢れ出た作品もかなり多い。そういった露骨な作品について「性的な欲望を満たす作品ではない」という主張をする気もないし、それは望ましくもない。
     加えて言うのであれば、もし問題化するのであれば、個別の作品がどうこうというより、ジェンダーへの想像力が失われやすいメディア環境が総体として構築され、読者が批判を受け入れる感覚がなくなってしまうのは望ましくないと思っている。たとえば、映画の中でジェンダーバイアスを測る基準である、ベクデル・テスト(注1)というものがある。これは(1)少なくとも2名の名前のある女性が出てくる。(2)女性同士が互いに会話をする。(3)男性以外のものを話題にする。という3つの基準を測るもので、ベクデル・テストは個別の作品のジェンダーバイアスを論じるためには必ずしも妥当な基準だとは言えないが、おおまかな基準としては理解がしやすいため解釈にブレが生じにくいという意味で、信頼性(注2)の高い調査をしやすい基準である。この基準をもとに「ベクデル・テスト・コム」(注3)というユーザーが編集できるサイトで、実際に7800個以上の作品がチェックされ、データとして可視化されている。
    Source: Robin Smith(2017),”Sizing Up Hollywood&#39s Gender Gap” (注3)http://bechdeltest.com/
     このデータを見るとわかるとおり、昔の映画は明らかにベクデル・テストの結果が悪い。1970年代前半の映画でベクデル・テストに合格しているのはわずか四分の一程度だ。1970年代に比べれば、2010年代の状況はマシだ。1970年代のメディア環境は、2010年代のメディア環境よりも、ジェンダーバイアスのことに思いを至らせるのが相対的に難しい状態にあった可能性が高い。 個別の作品についてどうこうというよりも、全体的なメディア環境をこのような指標を立てながら論じていくことができればよいと思う。重要なのは、個別の作品よりも、人々の想像力を生み出すトータルなメディア環境のあり方ではないかと思う。なろう小説などが、総体として、ジェンダーやセクシュアリティの多様性や、敏感であるべきポイントへの想像力を失わせるように機能してしまうことがあるのであれば、それは望ましくない。
     以上のことを踏まえた上で本題に入る。
    利得の切断
     ゲームというメディアは、しばしば欲望を表出することをよしとするメディアである。RPGでキャラクターを育てて最強になろうが、ギャルゲーでハーレムエンドを目指そうが、『シヴィライゼーション』で帝国主義を展開しようが、『メタルギア・ソリッド』で敵兵士を虐殺してまわろうが、好きにして良い。むしろ、その欲望が叶えられていくプロセスを楽しむことこそが、ゲームを楽しむことと、しばしば同義である。  もちろん、『moon』『Undertale』『mother』など、そうした状況を批評的/批判的にとりあげる作品も一定数あるので、すべてのゲームメディアが、欲望を丸出しにすることを肯定しているとまでは言えない。ただ人文学者がゲームについて語る時、欲望を丸出しにすることへの「批判」はしばしばなされるし、海外のゲーム研究でも多数の議論がこうした素朴な欲望への批判が議論されている。  ただ、『moon』や『Undertale』はあくまでも、メインストリームに対する「批判」として機能している作品であって、ゲームシーンのメインストリームは、やはりゲームプレイヤーの欲望を叶えていくプロセスを肯定するものが多い。  敵がうざいから、殺す。虐殺してもよい。  女の子がかわいいから、落とす。ハーレムでもよい。  国を大きくしたいから、周辺諸国を征服する。帝国をつくりあげてもよい。  こういった欲望を実行するというのは、我々の日常的な倫理観からすれば、かなり問題のあることだ。しかし、ゲームのなかで、これは許される。  これが許される理由の一つは、これらの行為が「本当」になされるわけではないからだ。少なくとも、我々の生きる日常的な現実の利得とは切り離されたところに、ゲームプレイヤーの欲望は成立させられている。  ゲームをはじめれば、遊び手は一次的現実とは切り離され、特殊な目的を設定され、任意のルールのなかでインセンティヴ構造を与えられる。一次的な「本当」の現実とは別の、二次的な現実のなかでの行為であるというのが、ゲームを遊ぶときの前提である。ゲームのなかでゲーム内通貨を得ても、普通は円やドルに換金できるわけではない。  ゲームを遊ぶということは、特殊なルールを受け入れる、そこが特殊な時空間であることを受け入れることだ。ゲーム内の人々の行為のインセンティヴは、現実世界には即さない。勝利を大目的とした階層化した目的構成にしたがって、プレイヤーはどのような振る舞いをするのかを選ぶ。  ここでは振る舞いの特殊性も同時に成立している。これらは、ゲームというメディアの特質がそもそも持ってしまっているものだ。それが、ゲームという二次的現実において、「帝国主義的」であったり、「非人道的」とされる振る舞いが許される(場合によっては、積極的に推奨される)ことの理由だ。それゆえに、ゲームにおいて、「ゲームが設定したインセンティヴ構造」にしたがって動くことは、恥ずかしいことでも悪でもない、ある意味で普通の行為だ。町中で人を銃殺すればそれは犯罪だが、FPSで敵を銃殺するのはふつうの行為である。もし、ゲームプレイヤーの行動が、一次的現実の観点から見た時に「恥ずべきもの」であるのならば、それは少なくともゲームプレイヤーのだけの責任ではない。それはゲームのインセンティヴ構造を設計したゲーム制作者との共犯である。  一次的現実から切断された環境のなかで行為するとき、プレイヤーはゲームの構造が要請する欲望の代理人でもある。RPGで敵を殺したがっているのは、プレイヤーなのか、ゲームの構造なのか。明確な区別は、ふつうできない。  ここでは、プレイヤーの欲望や行為は日常の利得から切断されている。この切断を「利得の切断」と呼んでおこう。  この利得の切断が生じている状況下において、プレイヤーが殺人をしたり、他国を征服したり、ものを盗んだりしても、プレイヤーにとっては特殊な行為をしたという感覚にはならないことのほうが多いだろう。
    主体の切断
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第29回 第三章 補論:節電ゲームの連続的な学習プロセス

    2018-10-11 09:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は「節電ゲーム」からゲームという現象を考えます。コストダウンにも環境保護にも関心がない、電気使用量の記録更新だけを目指す「節電バカ」たち。彼らの情熱が生み出すゲーム的学習プロセスを読み解きます。
     学習説に関わる長い長い三章が終ったので、ここまでの簡単な復習とケーススタディ的な意味を兼ねて、いつもよりは、相対的にふんわりとした話を挟ませていただきたいと思う。
     ケーススタディの例としては、手前味噌で恐縮だが、節電のゲームの話をさせていただきたい。筆者は、自宅の電気使用量を測りながら節電に励むゲーム(というか、節電支援ツール)である『#denkimeter』を作って以後、境界例としてのこのゲームの現れの面白さをいろいろなレベルで感じている。
    ▲#denkimeterの遊び方
     節電自体は、そもそもとして「ゲーム」であるわけではない。「ゲーム」だと思えばゲームになる。そういう現象は、日常のなかに溢れているが、節電もまた、そのようなものの一つだ。  ここまで論じてきた概念を使うのならば、節電のゲームは、ゲームとゲームでない時空間や意味を区切るためのどちらの境界もぼんやりとしている(二次的現実/二次的フレームの曖昧性)。これはゲーミフィケーション的な事例のほとんどがもっている性質だ。その意味で、節電のゲームは「ゲーム」概念としては境界例として位置づけられやすいものだ。 筆者は、電気使用量を測りながら、クリアにフィードバックが出てくることがきっかけで、節電をゲームのようなものとして楽しめるようになった。「電気使用量を下げる」というシンプルでクリアなルールがあるし、節電のために行える創意工夫のバリエーションは数限りなくなる。こうした性質ゆえ、節電はゲームのような行為であるという認識をもたらすこと自体は、それほど難しいものではない。 そして、素朴な実感として「節電は楽しい」と思っている。  節電が楽しく見えている風景とはどのようなものか。そこからみえる風景をいちど、伝えたうえで、改めてこのゲームを遊ぶときに現れる特質について論じることにしよう。
    節電バカとは何か
    さて、筆者は二〇一一年の震災のときに節電ゲームを作って以来、一時期はそれなりの「節電バカ」だった。ここでいう節電バカというのは、節電をすること自体が好きだということであって、節電の結果として、お金を節約されることが好きだということではない。  たとえば、節電バカであれば、月々20円ぐらいの節電をするために、2万円を投資するような行動をとる。コストで考えれば、同じ家に住み続けたとしても投資した費用を回収するのに83年はかかる計算になる。不経済なこと極まりないが、節電バカにとっては、お金を節約できるかどうかが重要なのではなく、節電のスコアを上げることができるかどうか、ということが重要なのである。  つまり、ここで言う、節電バカとは、節電を節約のためにやっているのではなく、節電そのものをゲームの一種として楽しんでいる人々のことだ。
    ▲筆者の自宅の電気代の記録。一月753円。
    「節電バカ」は大震災以来、(おそらく)増殖中であり、節電バカが出版した本も出ている。朝日新聞に勤める斎藤健一郎氏による『5アンペア生活をやってみた』(二〇一四、岩波書店)などはその好例だろう。(斎藤さんすみません)  そもそもこの本のタイトルである「5アンペア生活」と言われても、節電バカ以外にはピンと来ないだろうが、「5アンペア生活」はかなりヤバい。 そもそも、自分の家の契約アンペア数を気にしたことのない人のほうがマジョリティだと思うが、東京電力と契約している一般家庭は30アンペア~60アンペア契約の家庭が多いだろう。東京電力との契約可能な最低アンペア数が5アンペアである。人が居住していない倉庫とかを想定しているような契約アンペア数だ。 5アンペア生活は、単純なはなし、500W以上の家電を使うと、その瞬間にブレーカーが落ちる。電子レンジ、アイロン、ドライヤー、電気ケトル、オーブントースターなどは完全に使えなくなる。エアコンも、実質的にほぼ使えないに等しい。正直なところ、過酷な節電ライフになりやすく、一般人向けであるとは言い難い。  筆者の場合、さすがに5アンペア生活は厳しいので、関東で一人暮らしをしているときは、15アンペア契約にしていた。15アンペア契約であれば1500Wまでの家電が使える。贅沢な家電でなければだいたいは問題ない。ただ、エアコンを使いながら、電気ケトルを使ったりするとブレーカーが落ちる可能性が高い。そのため、電気使用量の大きい家電について、常に何と何が稼働しているのかを意識しながら生活をする必要はある。正直、そこまで極端な不便さはない。もっとも、少しだけ不便なのは事実なのだが、節電ガチ勢にとっては、15アンペア契約は、難易度「easy」ぐらいのゲームに常にチャレンジしているような心地よさがある。(5アンペアは、難易度「extra hard」モードである)
    「節電」自体が楽しいのか、「節電」の試行錯誤のプロセスが楽しいのか
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第28回 学習説はどこまで説明ができたのか

    2018-09-20 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームの定義として最有力である「学習説」は、「ゲームという現象」を完全に説明するには至りません。中世の天動説的ともいえる学習説の合理性・説明性の高さを前提に、複数の動的システムの相互関係に基づいた、地動説的な仮説の構築を試みます。
    3.9 学習説はどこまで説明ができたのか
    3.9.1 複数の機序による説明:天動説から地動説へ
     学習説はゲームに関わる諸現象の多くを説明する。そしてそれは、学習説の有効性を示すものだ。しかし、同時にここまでの議論で明らかになったことは、学習説だけでゲームに関わる諸現象を説明しきることができない、ということでもある。  改めて、学習説はゲームに関わる主要な現象の「全て」を説明できるのだろうか、という問いを立てながら、この第三章で明らかになったことを確認したい。  たとえば、『ReZ』のような新奇なインターフェイスを触ることの楽しみを説明できるだろうか?あるいはオンラインゲームでコミュニケーションをとる人々の楽しさを説明できるだろうか?直接に説明できなくても、何らかの強い関連性を示すことができるだろうか?  答えはイエスとも、ノーとも言えるが、どちらかと言えばノーと言える側面のほうが強い。  イエスと言えるのは、ある程度の説明を与えることが可能だからだ。新奇性のある刺激について、人間の慣れや学習といった側面から説明してみせることは不可能ではない。コミュニケーションの快楽を、報酬系から説明を試みる立場もある。  ノーであるといえる根拠は、多い。  第一に、学習説には説明できないが他の説によって説明できてしまうような悩ましい境界例がある。たとえば、一回限り試合、パズル、プレイヤーのいないコンピュータ・チェスなどはルール/ゴール説からは説明できる。しかし、学習説の視点から説明しようと思うと、説明が困難になる。(むろん、三目並べなど学習説だからこそ説明できる事例もある)。それらを排除しようと思うのならば、議論の範囲を意図的に狭めたりしなくてはならなくなる。  第二に、学習プロセスと連続はしているものの、途中から学習プロセスの機序では説明できなくなってしまう関連現象が存在している。たとえば、物語的な認知や、依存プロセス、均衡の問題などは、学習と連続はしていても、学習説の機序だけで説明することは困難だ。  第三に、仮に関連性が論じられるにしても、関連性がどれだけあるか、難しいケースも多い。コミュニケーションやインターフェイスの問題に踏み入っていく場合、本当に学習説でクリアな説明ができるかと言われると、明快な説明を行うことは難しいからだ。「おそらく関連がある」とかそういった説明をしていくことになるはずだ。たとえば、他者との共在感覚は人間の発達過程のかなり初期から存在するものだ。そして、複数人で遊ぶときにこの共在感覚は少なくない機能を担っている。コミュニケーションとゲームの関係を論じる上では、学習説が何かの原因や結果として機能している側面はそれほど強くない可能性がある。また、インターフェイスについても、たとえば人間の空間認知や触覚の問題と切り離して論じることは難しい。学習説と関連付けることはできても、どこまで強い関係性を見出すことができるかというと、厳しいところがある。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第27回 メタファーとしてのゲームーー「快楽」説の検討(2)(学習説の他説との整合性⑥)

    2018-08-21 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームという現象を、ある複合的な行為と行為の間にある対応関係、メタファーの一種と見做す立場から、快の行為を変換する起点、中心性の強いハブになりうるかという、ゲームの新しい定義の可能性を導き出します。
    3.8.4 遊び、メタファー、表象
     前回、ゲームの快楽経験の範囲が拡張していくことを、言語活動との比喩で述べたが、なぜこのような「言語」と「ゲーム」に類似性をみてとることが可能たりうるのだろうか? 言語の議論と、ゲームの快楽の議論が接続して論じてよいものなのか?  この点について説得的な視点を提示しているのが、セバスチャン・マーティン(2013)による議論だ。[1]  セバスチャンによれば、ベイトソン[2]、ゴンブリッチ[3]、ウォルトン[4]、フィンク[5]といった論者はいずれも、遊び(play)、表象(representation)、メタファー(metaphor)の三つの領域を相互参照しながら、議論をすすめている。遊びについて説明するために、表象の理論を用い、その例示としてメタファーを用いる。または、表象について説明するためにメタファーの理論を用い、遊びを事例として用いるといったことを彼らは行っている。三つの領域は互いが互いを説明するために参照されており、この相互参照は偶然ではないという。
    ▲表:Bateson,Gombrich,Walton,Finkにおけるメタファー、表象、遊びという語の使用[6]
     セバスチャンによれば、三つの領域はパラドックスを持つという点で共通しているという。  表象(representation)のパラドックスの例に挙げられるのは、ルネ・マグリットの「これはパイプではない」[7]というパイプが描かれた絵画だ。描かれているのは、どう見てもパイプだが、その言葉が示す通り一枚の絵画であってパイプとして使用できるものではない。それは、絵画が、絵画以外のものを表象するという性質によってこうした不思議な事態は起こる。
    ▲『イメージの裏切り』(1929)
     遊び(Play)の例に挙げられるのは、動物の子どもが狩りの遊びとして行う「甘噛み」だ。戯れにカプッと噛み付くのは、確かに「噛んでいる」行為ではあるが、本気で「噛んでいる」わけではない。[8]  これらはいずれも、コミュニケーションについてのコミュニケーション、観察についての観察というような「二次の観察」に属するものであると整理できると述べる。[9]  確かに、遊び、表象、メタファーは、いずれもそれ自体から外側の何かと関係するというメタ的性質を持っている。いずれも「それ自体ではない何かと結びつく」ものという点において共通している。  
    ▲『The Marriage』(2006)
     そして、セバスチャンは遊びとゲームを比較的近い意味として使用し[10]、ゲームについての議論が行われる際に「メタファー」と「シミュレーション」がほとんど同義で用いられていると指摘する。  四角と丸で表現されたコンピュータ・ゲームに『The Marriage』(2006)と名付けられたものがある。このゲームでは、結びついている二つの四角をうまく結びつけたまま、長くゲームを続けることが目標になる。うまく操作をしてやらないと、片方の四角が消えたり縮小してしまいゲームオーバーになってしまう。  このゲームの二つの四角は、ゲームのタイトルから察するに、おそらく夫婦のことであり、関係を維持することの難しさは夫婦生活の難しさについての比喩であろう、と多くのプレイヤーは解釈するだろう[11]。このゲームは夫婦生活のメタファー(細かく言うとシネクドキ[12])であり、同時に夫婦生活のシミュレーション的なものであると言うこともできる。  以上は、セバスチャンの議論であるが、メタファー、遊び、表象の三領域が近い性質をもっているという主張は、おおむね受け入れ可能だろう。これらの三領域はいずれも、ある領域を別の領域にマッピング(写像)する性質をもっており、マッピングをする性質ゆえに類似したパラドクスを抱えやすく[13]、時にほぼ同義のものとして用いることも可能になる。  言葉や、絵画は指示対象となるモノや概念との間に対応付け(マッピング)がなされる。ゲームは複合的な行為のプロセスと、別の複合的な行為のプロセスとの間での対応付けをしてみせる。そして、セバスチャンが論じているような文脈でいえば、メタファーは対応付けの仕組みのことだと整理できるのではないだろうか。もっともゲームの場合、『テトリス』のように特定のなにかと対応付けられているとはみなしにくいものも多い。そのため、ゲームはすべてがなにかを示すような仕組みだというわけではない。[14] セバスチャンはゲームのシミュレーション的性質を一つの重要な要素として扱っているが、ゲームの快楽説という文脈で言えば、ここに一つ要素を付け加えられるだろう。シミュレーションに、極めて近いものとして「快楽のエミュレーション(模倣)」という問題系を、改めてこの議論のなかに位置づけてみたい。
    3.8.5 快楽経験の拡張バリエーション
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第26回 ゲームにとって快楽とは何か――「快楽」説の検討(学習説の他説との整合性⑥)

    2018-07-17 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームを構成する様々な要素は、快楽の観点からゲームそのものと区別することはできるのか。これまで議論してきた強化学習プロセスをさらに拡張し、社会の中で自己生成し続ける運動の原理としてのゲームのあり方を考えます。
    3.8 ゲームにとって快楽とは何か――「快楽」説の検討(学習説の他説との整合性⑥)
    3.8.1 インタラクティヴな快楽のすべて
    「ゲーム」にとって「快楽」とは何だろうか。この二つの関係を整理しよう。
     コンピュータ・ゲームや、麻雀、将棋、野球といったルールやゴールやインタラクションを備えた仕組みが「快楽」を誘発する場合、多くの人はそれを「ゲームを遊んでいる」状況とみなす。もっとも、「快楽」と結びつかないようなゲーム的な行為もあるが、その点についてはすでに論じた【1】 ので、ここではゲームが快楽と結びついているケースについて検討したい。
    「ゲーム的な形式が、快楽を誘発する」という意味では、試行錯誤を重ねていきながらゲームを遊ぶような学習的プロセスも、パチンコ的な反復的な依存状態も、傍からみれば似たようなプロセスかもしれない。しかし、両者の快楽には隔たりがある。
     前者は、次第に変容していく新しい状況に対して認識を組み替えていくプロセスである。それは人間の創造的な営為でもある。
     一方、依存的なプロセスの場合、新奇性のないものについて「忘却」と「過去の刺激の想起」によって強化学習プロセスが機能することを、どうにか生き延びさせている。
     すなわち、学習的なプロセスは「変化を繰り返すプロセス」であり、依存的なプロセスは変化が繰り返された結果、「同一の行為の反復」に至りつつあるものとして整理できる。 【2】
     試行錯誤の快楽と、慣れ親しんだものを繰り返す快楽とでは、その快楽の性質にも違いがあるだろう【3】 。
     繰り返しになるが、ここで確認しておきたいのは、どちらも「ゲーム的な形式が、快楽を誘発する」という意味では等価でありながら、そこであらわれる快楽の性質が異なっているということだ。
     この「快楽」の性質はどこまでのバリエーションが「ゲーム」に類するものとして認められるのだろうか?
     すでに何度か述べてきたが【4】 、「ゲーム」概念の幅を広くとろうとする場合にはたとえば、「インタラクティヴ」な行為であるかどうかというところに境界線を引かれれることがある【5】 。
     そしてインタラクティヴであることによって線引きをする場合、ほぼセットになるのは、単にインタラクティヴというのみならず、何らかの「快楽」がそのインタラクティヴィティによって成立しているのだという観察だ。
     快楽の経験をつくりだすためではない辞書ソフトや、ワープロソフトはたとえインタラクティヴであっても、それがゲームの一種としてみなされることは極めて少ない【6】 。インタラクティヴであって、快楽を伴わないものは、ほとんどゲームとみなされることはない。
     逆に言えば、「快楽」が伴うインタラクティヴな行為であれば、それはゲームとしてみなされうる【7】 。こうした広い定義の採用は、論者がいい加減なのではなく、論じたい対象の幅を広くとりたいケースにおいてしばしば見られる。
     しかし、Juulが「Classic Game model」について同心円状の図を描いてみせたように、すべての快楽が等しく「ゲーム特有」の経験として受け入れられているわけではない。
     たとえば、ゲームのなかで華麗な映像がカットシーンとして流れた時、映像の素晴らしさを認めたとしても、その映像によってもたらされた快楽を「ゲーム特有」の経験によってもたらされた快楽とは認めないはずだ。
     美しい映像がもたらす快楽、ヒキのあるシナリオがもたらす快楽、あるいはゲームのなかに登場する性的な表現による快楽……それらはいずれも、コンピュータ・ゲームのパッケージを介して発生しうる快楽だ。しかし、そうした快楽はゲームに特有の快楽とはしばしば認められず、ゲームに特有の経験ではないものとして拒否される。一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけて、こうした快楽のどこまでが「ゲーム」たりうるか、ということは何度も議論になってきた。【8】
     美しいカットシーンがゲームではないとか、シナリオ自体はゲームではないという批判は一見すると、わかりやすい。実際問題としては、それらはしばしばゲームとは別のメディアによって表現することも可能だ。実際に、『シェンムー』(一九九九)などは、ゲーム内のカットシーンを集めたものを『シェンムー・ザ・ムービー』(二〇〇一)という映画として公開している【9】 。映像の美しさや、ゲーム内音楽、ゲームシナリオの全てゲーム特有の経験とされてしまうのならば、絵画も音楽も小説もなんだって「ゲーム」との区別がつかなくなってしまう。
     しかし、美しい映像を万華鏡のように操作したり【10】 、音を奏でることとゲームプレイが密接に結びついていたり【11】 、プレイヤーの行動に応じて物語が変化したり【12】 するものはゲーム特有の経験と連続したものとしてみなされる。
     これは、コンピュータ・ゲームに慣れ親しんできた人であれば、そこで論じられていることを実感としては理解しうるだろう。
     ただし、こうした議論というは、ゲームのアーキテクチャによって引き起こされる快楽のうちのいくつかは、「ゲーム特有」のものではないとされ、いくつかのものは「ゲーム特有」のものと連続しているとみなす議論だ。
     いったん話を整理しよう。
     今、問うているのは「ゲーム」と「快楽」の関係だ。
     第一に、広範な対象をゲームとして取り扱おうとする場合には、「快楽を伴うインタラクティヴな仕組み」全般が「ゲーム」としてみなされる。これはアリかナシか、で言えば、アリだ。これが操作的定義として自覚的に用いられるのならば、何の問題もない。
     そして、第二にここまで長々と論じてきたように、狭義の定義を用いるのならば、そこには学習説的な説明がかなり有効である。Juulの「Classic Game Model」による狭義のゲーム概念と広義のゲーム概念をグラデーション状に位置づける議論も、学習説的な説明とかなり近いものだ。駆け引きの快楽や、物語の生成プロセスや、依存的な経験は、強化学習プロセスと連続したものとして位置づけることができる。これらは、全く同じものとは言えないが、確かに強化学習プロセスとの間の連続性を見出すことができるものだ。
     ごく短くまとめるならば、「コンピュータ・ゲームのようなパッケージには様々な快楽を詰め込める。そして、そのなかでも強化学習プロセスの快楽は他の快楽のハブとなりうるような特権的な快楽である」ということだ。
     そこまではいい。
    3.8.2 快楽経験の変換
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第25回 ゲームは依存の仕組みなのだろうか?(学習説の他説との整合性⑤)【毎月第2木曜配信】

    2018-06-14 07:00  
    550pt

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームとは切り離すことのできない問題として語られることの多い「依存」。今回は精神医学的な観点からだけではなく、学習プロセスとの関係性から依存メカニズムの検討を行います。
    3.7 ゲームは依存の仕組みなのだろうか?(学習説の他説との整合性⑤)
    3.7.1 同一のものの反復
     我々は、好きなときにゲームをやめることができる。好きなときにはじめられるように。
     それは、ゲームを遊ぶ我々が手にしている、基本的な自由だ。それは、とても重要な自由だ。
     やめることが自由にならないゲーム的な経験もある。たとえば、ブラック企業で課せられる成果主義のレース。学校の体育祭。人間関係や、社会的制度が絡み合ったものは気楽にやめることはできない。やめるという自由を失ったこうした経験は、負のストレスがかかりすぎたときにその調整ができなくなる。これは不幸なことだ。
     やめられないゲームの経験にはもう一つの形態がある。
     それは「依存」とか「障害」と呼ばれるものだ。
     ゲームに関わる依存では、ギャンブル依存、オンラインゲーム依存など、いくつかの深刻な依存が知られている。ゲームの「依存」が存在するという見方については、様々な批判があるが、ゲームの「依存」として操作的に定義された症例が一定数存在することは、否定しがたい【1】。 
     これらの依存症患者は、必ずしも社会制度的にゲームをやめられないわけではない。重度の依存症患者は、自らの理性の力でゲームをやめるという自由を失っている。
     実録漫画『ど根性ガエルの娘』【2】の冒頭では、ギャンブル依存と思しき漫画家(『ど根性ガエル』の作者である吉沢やすみ)の父親が登場する。娘がパチンコ屋の中から父親を探しだし、どうにかしてパチンコを打っている父親をパチンコ台から引き剥がし、漫画の〆切を守るように言う。しかし、父親はパチンコを無理やり止めさせられたことに激怒し、ゴミ箱を投げつけて罵倒する。父親はそうして、娘の必死の説得にも関わらず、原稿を落とす。
     この父がギャンブルをする理由は、社会的に強制されたものではない。こうした形で、強制されているわけでもなく、ゲームをやめるとことから自由ではなくなっている人がいる。
     今回扱うのは、学習と「依存」【3】の関係だ。
     なお、本稿執筆時点(二〇一八年五月)で、国内でもゲームへの依存についての議論がなされている。ただし、本稿の主眼は、精神医学的な「依存」基準の妥当性を問うものではない。精神医学的な「依存」概念についても論じているが、本稿で扱おうとしている「依存」概念に関わる論点とは少し異なる。
     依存というものは、ゲームそのものではないが、物語や、均衡概念と比べても、強化学習のあり方自体にかなり近いものだといえる。本稿が問題にするのは、学習プロセスと依存メカニズムの関係性だ。
     物語との関係性では「反復」を扱い、駆け引きとの関係性では「安定」を扱ったが、依存概念はその双方にまたがっている。
     すなわち、「反復」して、「安定的に同一の報酬を求める」プロセスが依存である。
     この定義だけを用いるのならば、社会的に問題になりにくい依存的なケースもある。たとえば、同じ掃除を毎日のようにしているのが嬉しいという、掃除マニアのような人は、多少ゆきすぎた掃除好きでも「潔癖症」として片付けられる程度のことも多い。アルコールや薬物の依存と比べれば、問題になりにくいと言える【4】。
     学習プロセスと依存の関係の問題は根深い。
     神経生理学的な説明としては、そもそも「依存」とは任意の刺激に対する強化学習の結果として考えられている【5】。つまり、学習プロセスの行き着く先に「依存」がある。
     一方で、精神医学的な「依存」の判断基準では依存は強化学習の問題だけではなく、もっと社会的な側面を含んでいる。それは、社会との間に問題を抱えなければ、病気として処理される必要はないからでもある。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第24回 駆け引き(学習説の他説との整合性④-2)【毎月第2木曜配信】

    2018-05-17 07:00  
    550pt

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回のテーマもゲームに欠かせない「駆け引き」です。ルールの更新や不平等の不可視化によって「公平性」を感じさせ、自発的学習を促そうとするそれぞれのゲームの戦略について井上さんが解説します。
    24回 駆け引き(学習説の他説との整合性④-2)
    複数の均衡
     前回、ゲームにおける学習的な自己変容プロセスと、均衡点を目指して行動を最適化していくプロセスの違いについて整理したうえで、両者は協同しうる時期と、背反してしまう時期がありうると述べた。「安定に向かって変化する性質」と、「変化しつづける性質」の相性は、仲の良かったカップルが別れてしまうようなものだ。両者は、結婚して家族にもなれるかもしれないが、離婚することが宿命づけられている。そして、次は、このカップルが別れた後の話に移ろうと書いた。  ただ、均衡やトレードオフの問題について書いた前回の話について、いただいた反応を見たところ、いくつかの補足をしておくべきだろうというお叱りをいただいたので、もう少し込み入った解説をしておきたい。  とくに詳しく論じるべきなのは「均衡が複数ありうる」という点だ。前回「均衡点が移行」という表現をさらっと書いたが、これは、そもそも「均衡点が複数ありうる」「均衡点が推移しうる」というの理解を前提としている。  均衡点が複数ありうる、とはどういうことだろうか。これは、ゲームのプレイヤーが、最適戦略に至るまでの行動がランダムだという意味ではない。  囚人のジレンマゲームの例を思い出そう。
    ・もし両方の犯罪者が自白しなかった場合、二人とも懲役一年。 ・二人ともに自白したら懲役四年。 ・一人だけ自白した場合、自白した犯罪者の懲役が二年、自白しなかった側の犯罪者が懲役一〇年になる。
     という設定で、多くの場合、二人共自白をすることが、最適な均衡だと理解している人が多いと思う。  だが、その理解には、注釈を加える必要がある。  第一に、よく言及される「オウム返し(Tit-for-tat)戦略」が強い戦略だという話だ。政治学者のロバート・アクセルロッド[1]が世界中の研究者に呼びかけて、囚人のジレンマ状況における強いコンピュータ・プログラムを決めるトーナメントを開催し、そこで優秀な成績を収めたのがこの戦略だ。  はじめに黙秘を選び、以後は前回相手が選んだ戦略を模倣するのがオウム返し戦略である。[2] 囚人のジレンマゲームのような個人としての合理的な行動と、集団全体の利益の最大化に齟齬が生まれるような社会的ジレンマ状況 [3]において、オウム返し戦略のような協力行動には協力で、裏切りには裏切りで応えるという互恵的戦略が、ジレンマ解消の手段として有効だというように理解される事が多い。  しかし、残念ながら、オウム返し戦略は、現在では十分に安定的[4]戦略ではないと言われている。オウム返し戦略を潰すための「おとり」戦略を混入させると、オウム返し戦略は優秀な成績を収められないという。すなわち、オウム返し的な互恵的戦略は、限定された条件下において強い戦略であるということだ。[5]  第二に、いろいろと条件をつければ強い戦略たりうる、という意味では、二人がともに協力し、黙秘を貫くという行動も有効な戦略たりうる。何度もゲームを繰り返す場合で、かつゲームプレイヤーの計算コストに制約があり……といった様々な要件をつける [6] とこれが有効な解となる。  むろん、協力的な戦略は、条件によっては機能しない戦略になる。現実の例で言えば、たとえば「共有地の悲劇」というよく知られた話がある。これは一九世紀の産業革命前後のイギリスの農村で、うまく機能していた家畜放牧のための共有地の仕組みが、産業革命以後に機能しなくなってしまう話だ。これは産業革命を通じて共有地を利用する人々のインセンティヴ構造が変化したことによって、人々のふるまいのバランス(均衡点)が変わったことによって、もたらされている。ある条件下においては、共有地の仕組みは安定的な均衡点であっても、その均衡点を支えていた条件を固定しておくことができなければ、均衡点は変わってしまう。  簡単にまとめてしまえば、囚人のジレンマは、参加者の振る舞いのバリエーションに限定を付けたり、プレイヤーの計算能力に限定を付けたりすることによって、最適な解が変わってくるということだ。裏切ることも、協力することも、オウム返し的な互恵的戦略も、状況に応じて、それぞれ強い戦略たりうる。条件を限定することによって均衡点も変わるのである。  ゲーム理論家たちの研究によれば、[7]我々の人類社会は、裏切り/協力/オウム返し戦略のそれぞれの戦略を採用する人々が、一定の割合で混じるような形に発展してくるものだという。多くの社会では、複数の戦略が混合する形でバランスしている。  ゲーム理論的な「駆け引き」の問題のとの関わりで考えたいのは、こうした前提のゲームである。これは三目並べの例で論じたような、最適解をもつ二人ゼロ和完全情報有限確定ゲームとは、異なる「ゲーム」理解である。  三目並べや将棋においては、負けることのない最適解がある。しかし、この前提では、条件によって均衡点が推移し、異なる戦略を採用するプレイヤーが一定の割合で存在する。ここには、複数の均衡点があるだけだ。その都度ごとに相対的に有利な戦略は成立しても、常に負けることのない最適解があるわけではない。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第23回 駆け引き(学習説の他説との整合性④)【毎月第2木曜配信】

    2018-04-11 07:00  
    550pt

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は「ゲーム性」において欠かせない要素である「駆け引き」と学習プロセスの関係についてまとめます。
    3.6 駆け引き(学習説の他説との整合性④)(学習説の他説との整合性④)
    3.6.1 「駆け引き」とは何だろうか

    「第三ラウンドが始まった。ディーラーが再びディスカードし、四枚目のコミュニティカードを場に並べてオープンした。ターンと呼ばれる共有カードだ。印はでJ。
    思わず、どきりとした。
    これで、J、10、8、7が揃い、9が来ればストレートである。
    次に来るカードを、ウフコックは何かの手段で読んでいるのだろうか。もしそうではなく、ただ強引にコールし続けているのなら、いかにも素人くさい。それともそれを演じようとしているのだろうか。バロットには何もわからなかった。
    ブラインドベッターのカウボーイが三十ドルのベットをし、ドクターがコール。『レイズ、六十ドル』
    と手のひらに文字が浮かび、バロットは思わず何度も確認してしまった。
    《──三十ドルのコールに、レイズ六十ドルです》
    信じがたい思いで最高賭金の額を置いた。これで二百十ドルが手元から消えた。この調子だとスロットで稼いだ分が、あっという間に消えてなくなるのがわかって怖くなった。」

    これは、冲方丁『マルドゥック・スクランブル』で描かれたポーカーの一節だ。[1] ゲームを扱う物語描写において、その見せ場はしばしば、駆け引きを行う心理戦の描写であることが多い。
    筆者は昔、「ゲーム」の骨格をなす中心的な概念として論じられやすい「ゲーム性」という概念が、どのような文脈で、どのような言葉とともに用いられることが多いのか。これを雑誌『ゲーム批評』のバックナンバーをもとに調べたことがある。とくに言い換え表現として頻繁に使われていた表現は「駆け引き」という要素だった[2] 。当時は、結局この概念がなぜ頻繁に使われるのか、という点についてあまり細かな議論をすることができなかった。ただ、多くの人が中心的な要素だと位置づけるこの要素は、重要な論点のひとつであることは明らかだった。ときには『ゲーム』と題した本の中身がまるまる駆け引きについての議論であるというケースすらある。[3]
    今回は、この「駆け引き」という概念と学習プロセスの関係について述べたいと思う。まずは、駆け引きと、学習プロセスの関係を考えるうえで、押さえておくべく基本的な概念を整理するところからはじめよう。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』特別編 認知的作品 〈いま・ここ〉を切り取ることをめぐって・後編

    2018-03-08 08:30  
    550pt

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は特別編として、「早稲田文学増刊 U30」に掲載された井上明人さんの論考をお届けします。後編では「切り取られることのない〈いま・ここ〉」を提示し、異なる二つの「作品」の成立について考察します。 (初出:「早稲田文学増刊 U30」、早稲田文学会、2010年)
    作品観B:生成するもの切り取られることのない〈いま・ここ〉
     さて、この作品観だけでは、おそらく切り取ることのできないものがある。たとえば、Wikipediaやニコニコ動画のようなCGM(コンシューマー・ジェネレイテッド・メディア)、あるいはUCC(ユーザー・クリエイト・コンテンツ)という形式を考えるとき、その新奇性を発見することができる(注4)。
     CGMは、上記のような作品観とはそぐわない。CGMにおける作品では、見る主体/見られる客体という区分が融解している。読まれる文字/見られる映像の時間は停止していない。Wikipediaのそれぞれの項目は、常に書き換え可能なものとして存在している。常に、不確定なテキストであり続けている。
     もちろん、Wikipediaの任意の項目Xについて評価することは可能である。しかし、それは、項目Xを、語り手にとって手の届かない、過去のある時点のものとして固定させておくことによってはじめて可能になる。現在に限りなく近い項目Xについて語ることはできても、〈現在の項目X〉は語ることができない。それは永遠に、不確定のテキストであるだけでなく、項目Xについて語ろうとする語り手自体が、常に項目Xの書き手の一部として位置付けられる可能性を帯びるからだ。項目Xについて自分のブログで文句を言うのであれば、「それなら、あなたがWikipediaの項目自体を書き換えてしまえばいいではないか」と言われる可能性がつきまとう、ということだ。ここでは、見られる客体=作品という観念を成立させることは、遥かに困難になっている。Wikipediaの記述が馬鹿らしいと感じたならば、あなたはそのテキストを書き換えることができる。
     もっとも、Wikipediaの全体的な信頼性の問題や、Wikipediaというアーキテクチャの善し悪しについて語ることも確かにできるだろう。だが、それは、項目Xを過去のある時点に固定させるという概念操作と、同様のことである。全体的な信頼性や、アーキテクチャの全体という大きなものには、個々人は触れることができない。触れることができないもの=現在の自己の行為にとって関係のないものだから語ることが可能になるのである。
     Wikipediaでは、読み手が、当該対象項目について、一定の知識を持っているということが、読み手と書き手を融解させるシステムとして機能している。ニコニコ動画の場合は、作品を見る主体になる、ということと、作品の内部において語り手となる=読まれる客体となる、という二つのことがさらにシームレスに繫がっている。読み手と書き手が融解するための条件はほとんど、何も無いに等しい。ただ「すげー」「おわっ」「びびった」という何の衒いもない感想を書き記すことで、すぐさま、書き手として機能することができる。そこでは、ほとんど全ての観客が、同時に書き手となる。
     さらに、USTREAMというCGMサービスについて考えてみよう。USTREAMは、ユーザーが自由にリアルタイムの映像をライブ中継できるサービスである。ここでは、ニコニコ動画や、Wikipediaとも違い、一時的な記録がなされていることすら必要ではない。その上、テレビの生中継などとは決定的に異なり、数十人ぐらいの少ない視聴者のいる状況下でのライブ中継が多い。そして、視聴者のほとんどが、ライブ中継を見ているその横で、チャットでコメントを入れていくことができる。一対一のテレビ電話とは異なり、一対多の構造ではあるが、発信者/発信内容と、その受け手は渾然一体とした状況にある。
     さて、では、このようなCGMコンテンツとは、いかなる意味において「作品」なのか。
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