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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か 2 敵を生成するサブカルチャー(1)【毎月配信】

    2017-12-05 07:00  
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    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。日本の戦争映画が描いてこなかった「敵」は、特撮という技術を経て「怪獣」という姿で「発見」されることになりました。その後の怪獣の描かれ方を通じて、ウルトラシリーズにおけるイデオロギーの混乱と屈折、そしてその継承者としての庵野秀明に光を当てます。
    2 敵を生成するサブカルチャー
    戦争映画から怪獣映画へ
     アメリカのプロパガンダ映画と比較すれば、日本映画は明らかに敵の映像的理解という仕事を軽視していた。それどころか、日本の戦争表象はときに人間としての敵とのコミュニケーションの代わりに、人間不在の環境を際立たせるという奇妙な傾向すら示してきた。この「敵の非人間化」という欲望が戦時下の亀井文夫、円谷英二、藤田嗣治から戦後の押井守まで広範に見られることは、ここまで述べた通りである。
     振り返ってみれば、敗戦後に多くの傑作を生み出した日本映画のなかで、戦争映画の存在感は大きいものではなかった。名だたる巨匠たちも実写の戦争映画からは距離を置いた。戦中に兵役を逃れた黒澤明が、戦後は一連の時代劇映画によって「世界のクロサワ」となった一方で、二〇世紀の戦争を主要なテーマとしなかったのは、その最も象徴的な事例である(彼は一九六〇年代末に、真珠湾攻撃を題材とした日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』に日本側の監督として参加したが、結局降板した)。あるいは、中国戦線に兵士として従軍した小津安二郎にしても、戦後はミニマルな家族映画のなかに戦争の記憶を暗示的なサインとして忍び込ませるに留めた[19]。
     逆に、D・W・グリフィス監督以来のアメリカ映画の巨匠たちは戦争映画と切り離せない。フォードやキャプラのプロパガンダを見れば、映画そのものが軍事力であったことは一目瞭然である。「戦争は政治の延長」というクラウゼヴィッツの有名なテーゼをもじって言えば「映画は戦争の延長」なのだ。戦後においても、キューブリック『フルメタル・ジャケット』、コッポラ『地獄の黙示録』、スピルバーグ『プライベート・ライアン』、イーストウッド『父親たちの星条旗』及び『硫黄島からの手紙』等から、ごく最近ではクリストファー・ノーラン『ダンケルク』――ノルマンディーへの凄惨な「上陸」作戦から始まる『プライベート・ライアン』の構図を反転させ、ダンケルクからのイギリス軍の撤退という「離岸」をテーマとする――に到るまで、アメリカの巨匠は二〇世紀の戦争を再現し続けてきた。それは戦後日本の戦記映画の作家性が総じて希薄であることと好対照をなしている。
     とはいえ、言うまでもなく、日本の映像文化全体が戦争に無関心であったわけではない。結論から言えば、戦後日本においては、アメリカであれば実写の戦争映画として描かれるようなテーマが、むしろ特撮やアニメのようなサブカルチャーにおいて開花したように思える。敗戦国である日本は作品世界の虚構化という手続きを経て、ようやく戦争というテーマを自由に展開することができた。例えば、文芸批評家の加藤典洋は『ゴジラ』を戦争映画の変種として捉えている。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か 1 敵のいない戦争映画(2)【毎月配信】

    2017-11-21 07:00  
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    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。日本の戦後サブカルチャーと「戦争」について論じた前回に続いて、今回は「敵」が消滅した日本の戦記映画の特徴を、アメリカのそれと比較しながら語ります。
    敵を抹消する技術
     戦後になっても、国策映画におけるホモソーシャルな友情は、政治的に無害な美学として受け入れられた。山本や円谷とともに出席した一九六八年の座談会で、森岩雄が『加藤隼戦闘隊』について「よくできていますね。米英がどうなんて言葉は一つもないし、加藤隼戦闘隊長と隊員との間の人間的つながり、戦争に対する人間的なつながりというものを描いていますね」と評したのは、製作者自身の牧歌的な意識をよく示すものである[9]。この見方そのものは正しいとはいえ、それは「戦争映画」としてはひどく奇妙なものだと言わねばならない。『加藤隼戦闘隊』は確かに円谷の特撮を介して男たちの「人間的つながり」を強調していたが、それは敵の抹消と表裏一体なのだ。コミュニケーションの範囲は「友」に限定され、「敵」には及ばない。
     このような傾向は、円谷が特技監督を務めた戦後の東宝の「戦記映画」でも変わらなかった。一九五〇年代から六〇年代にかけて製作された『太平洋の鷲』、『さらばラバウル』、『太平洋の嵐』、『太平洋奇跡の作戦 キスカ』等では、いずれも男どうしの絆が強調されている。なかでも松林宗恵監督の『太平洋の嵐』(一九六〇年)は円谷の特撮によって真珠湾攻撃を再現しつつ、ミッドウェー海戦で戦死した日本の軍人たちに、海底に沈む生霊のような姿を与えた。それは一種の「鎮魂」の映画ではあるが、日本が何のために戦争をしたのかは語られず、アメリカという敵の論理にも関心が払われない。
     考えてみれば、これらの「太平洋」を冠した一群の戦記映画のタイトルは、一九四五年十二月に「大東亜戦争」の使用を禁止し「太平洋戦争」という新しい呼称に置き換えたGHQの占領政策にきわめて忠実である(江藤淳によれば、この名称の変更は「戦争に託されていた一切の意味と価値観」の変造を伴っていた[10])。ゴジラやモスラから『ウルトラマン』のゴモラに到る特撮の怪獣たちも「大陸」ではなく「太平洋」に出自をもつが、これも占領下の概念操作と無関係ではない。しかも、『太平洋の鷲』や『さらばラバウル』の空戦場面は、米極東空軍司令部から戦時の映像を借りて作られていた。戦後の日本映画は、勝者のアメリカから与えられた戦争名と地域と映像によって、自分たちの戦争を総括せざるを得なかった。
     大島渚は「敗者は映像を持たない」という七〇年代前半の刺激的なエッセイのなかで「私たちの映像の歴史は、どんな映像が存在したかということより、どんな映像が存在しなかったかということの歴史なのである」と鋭く指摘している[11]。このような「映像の不在」への注目は、日本の特撮映画について考えるときにも必須だろう。『ハワイ・マレー沖海戦』以来のスペクタクル的な特撮の背後には、敵の現実を映像化することへの徹底した無関心が潜んでいた。円谷の技術は軍艦や戦闘機を魅力たっぷりに再現することによって、かえって人間としての敵を抹消してしまったように見える。
     さらに、戦後の戦記映画になると、実写(現実)と特撮(虚構)のバランスが崩れていくことも見逃せない。円谷自身が不満を漏らしているように、『ハワイ・マレー沖海戦』では飛行機や航空母艦の実写撮影を使用できたのに対して、戦後の東宝の『太平洋の鷲』や『太平洋の嵐』になると、本物の兵器ではなくセットが主になり、かつ予算やスケジュールにも制約があったため、演出上の「チグハグな面」が露呈してしまった[12]。押井守が戦争の虚構性を訴えるまでもなく、そもそも特撮戦記映画というジャンルそのものに、トリック映像の不自然さを隠し損ねた面があったわけだ。逆に、乾いたスピーディな演出を得意とした岡本喜八監督が、東宝の『激動の昭和史 沖縄決戦』(一九七一年)のような戦記映画で独自の作家性を確立し得たのは、チグハグになりかねない戦闘場面をリズムやテンポの力で巧みに処理したからではないか。
    戦争画と戦争映画
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か 1 敵のいない戦争映画(1)【毎月配信】

    2017-11-08 07:00  
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    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。ウルトラシリーズからはじまり、特撮と映画について語ってきた本連載。今回からはアニメーションに議論を広げながら、戦後サブカルチャーにとっての「戦争」を論じます。
    第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か
     私はここまで、ウルトラシリーズを近代とポストモダンの端境期に位置づける一方(第一章)、地理的想像力(第二章)、技術志向(第三章)、虚構的ドキュメンタリー(第四章)という三つの切り口から、日本の特撮の文化史的座標を測定してきた。そのなかで戦前・戦中の映画にも何度も言及してきたが、それは昭和の特撮文化が戦争と切り離せないためである。  円谷英二とその息子たちは、戦争の記憶とイメージを子供向けの「商品」に変換して、戦後日本社会に継承したと言えるだろう――ちょうど円谷が川上景司とともに冒頭の空襲パートを担当した松竹の大庭秀雄監督のメロドラマ『君の名は』(一九五三年)において、戦時下の男女の約束が「忘れ得ぬもの」として戦後に持ち越されたように。しかも、この種の商品化された仮想の戦争は、ウルトラシリーズから『宇宙戦艦ヤマト』、富野由悠季、宮崎駿、押井守、庵野秀明らのアニメに到るまで、戦後サブカルチャーの映像表現の中核にある。「戦争をどう描き、どう商品化するか」という課題は、特撮やアニメという娯楽産業にとって大きな試金石となった。日本のオタク文化の母胎もこの軍事テクノロジーの娯楽化にあったのは明らかである。  惨めな敗戦国であるにもかかわらず、あるいは敗戦国のコンプレックスゆえにこそ、戦後のサブカルチャーは膨大なエネルギーをつぎ込んで、軍事的なイメージを増殖させてきた。戦時下のプロパガンダ映画から戦後の怪獣映画やウルトラシリーズまでが一直線に繋がっていく円谷の特撮は、まさにその原型である。そして、この軍事的な想像力によって、もともと子供向けの商品であるはずの特撮やアニメにはしばしば政治性やイデオロギー性が吹き込まれてきた(その影響は海外にも及ぶ――私が直接見た範囲だけで言っても、近年香港で民主化運動に参加している若者の一部は『機動戦士ガンダム』や『進撃の巨人』をモデルにして自らの行動を了解していた)。日本人はもはや違和感を覚えることもないだろうが、これは本来かなり異常な光景である。  ウルトラシリーズを含めて日本のサブカルチャーは、戦後の平和のなかで好戦的かつ暴力的な想像力を解き放ってきた。この「異常さ」について考えるには、サブカルチャーにとって戦争とは何かという厄介な問いに向き合わねばならない。その場合、特撮とアニメという「兄弟」を分離せず、同じ土俵で扱うことも必要になってくるだろう。本章では特撮とアニメ、映画とテレビドラマを横断しながら(1)円谷らの手掛けた戦時下の国策映画の戦争表象について論じた後(2)戦後サブカルチャーがその戦争表象に何を付け加え、いかなる政治性をまとったのかを考えていく。それはたんに虚構作品の分析に留まらず、二〇世紀の日本人にとって戦争とは何であったかを考える一助になるはずだ。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第四章 風景と怪獣 2 ウルトラマンの風景(2)【毎月配信】

    2017-10-17 07:00  
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    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は時代の転換点となった大阪万博的な風景と結びつけながら、鬼才として知られる実相寺昭雄監督の目線に迫ります。
    子供のメタフィクション
     思えば『ウルトラQ』の第一話では、高速道路というインフラの工事が太古の恐竜を呼び覚ました。「怪獣殿下」のエピソードはこの「工事中の日本」というモチーフを、万博前夜の日本の団地のなかに呼び出しつつ、中流の子供と共犯関係を結んだ。『ウルトラマン』は産業社会の環境を養分とする怪獣たちを浮上させる一方、郊外の未完成のインフラにも目配りしていたという意味で、六〇年代後半の過渡的な「風景」をよく示している。  この共犯関係は、ジェロニモンやレッドキングをはじめ多くの怪獣が登場する『ウルトラマン』の第三七話「小さな英雄」にも認められる。この物語はピグモンが銀座の松屋のおもちゃ売り場に出現し、人間に警告を発する場面で始まるが、面白いことにそこにはウルトラ怪獣のおもちゃが陳列されていた。これは現代ふうに言えば、アニメの主人公が自分の二次創作の売られているコミケを散策するような、ひどく奇妙な演出である。そこでは、作品世界(虚構)と作品を消費する世界(現実)が地続きになっていた。そもそも、この「小さな英雄」というエピソードそのものが、人気怪獣たちを復活させ、いわば巨大な「おもちゃ」のように闘わせるサービス心旺盛な物語であった。  作り手側が『ウルトラマン』の消費される現実世界を作中に取り込んでしまうこと――、これは一見するとメタフィクション的な実験に見えるが、脚本を担当した金城も含めて、作り手は恐らくそこまで凝った考え方はしていなかっただろう。『ウルトラマン』が複製可能な「商品」(ウルトラマンのお面や怪獣の人形)であるということは、彼らにとってごく自然な認識であったのではないか。通常のメタフィクションが現実と虚構の境界線を意識しつつ、虚構の虚構性を暴き立てるものだとすれば、『ウルトラマン』は現実と虚構を気軽に繋げてしまう「子供のメタフィクション」だと言えるかもしれない。
     逆に、続く『セブン』では子供の出番そのものが少なくなり、「怪獣殿下」や「小さな英雄」に見られた無防備なメタフィクション的性格も希薄になる。『セブン』は総じて現実(作品外)と虚構(作品内)をきっちりと分けて、物語を自律させようとした。だが、その後のウルトラシリーズは再び、自らが子供のおもちゃとして消費されているという状況に回帰する。なかでも、市川森一脚本の『A』の最終話は、ウルトラマンごっこをして遊ぶ子供の信頼を獲得するために、主人公の北斗星司が兄貴分として自らの正体を明かすという象徴的なエピソードであった。繰り返せば、このメタ的な演出は表現上の実験というよりは、むしろ作品の向こう側にある子供の消費者共同体との絆の再確認と考えるべきだろう。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第四章 風景と怪獣 2 ウルトラマンの風景(1)

    2017-10-03 07:00  
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    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。映画の時代の作品であった『ゴジラ』シリーズから、テレビの時代へと移り変わった先に登場した『ウルトラマン』における怪獣の変化について論じます。
    2 ウルトラマンの風景
     私はここまで、戦後の特撮文化における「怪獣」の源流として、ドキュメンタリー志向と崇高の美学を挙げてきた。ドイツでも日本でもソ連でも、戦時下のプロパガンダ映画はドキュメンタリー的方法論やモンタージュを活用しながら、技術の最先端を走っていた。その尖兵であった円谷英二は、日本的な約束事の美から離れて、人間を圧倒する崇高な火山や嵐をスペクタクルとして作り出す。その後、戦後の円谷と本多猪四郎の共同作業において、虚構的ドキュメンタリーの対象は自然災害のような怪獣へと横滑りしていった。そして、これから論じるように、テレビの時代に入ると、さらなる新しいタイプの怪獣が風景とともに「記録」されることになる……。  ところで、日本でドキュメンタリー的手法が活発化したのは、戦時下における劇映画のニュース映画化という局面だけではない。戦後にも何度かドキュメンタリーに注目が集まった時期がある。特撮との関わりで、ここでは二つの時期を挙げておこう。
    ドキュメンタリーとジェンダー
     第一に重要なのは、一九五〇年代頃における「記録」への関心の高まりである。この時期に岩波映画製作所は、中谷宇吉郎の関わった科学映画『凸レンズ』(一九四九年)をはじめとして多くの記録映画を生産し、映画評論もその流れに呼応した。なかでも、一九五八年から六四年まで刊行された記録映画作家協会の機関誌『記録映画』は、花田清輝、安部公房、吉本隆明、針生一郎、寺山修司、東松照明、武満徹、大島渚といった錚々たる言論人を登場させるとともに、クラカウアーやヨリス・イヴェンスの論考も翻訳・紹介するという具合に、海外の映画の動向も含めて「記録」を問い直そうとする意欲的な雑誌であった。この雑誌に学生アルバイト編集者として参加していた佐々木守は、日仏のヌーヴェルヴァーグの映画も念頭に置きながら「昭和三十年代はいわばドキュメンタリーの時代であった」と総括している[23]。  東宝特撮映画も「ドキュメンタリーの時代」と無縁ではなかった。例えば、『ゴジラ』の公開された一九五四年は、ダムの建設過程をつぶさに記録した岩波映画最大のプロジェクト『佐久間ダム』第一部の公開年でもあった。土木現場における岩山と掘削機械の強烈なぶつかりあい、人間を圧倒する物質的崇高の感覚、そして建設映画の劇伴を得意とした伊福部昭の音楽の効果もあって、この記録映画は『ゴジラ』の分身という印象を与える[24]。本多のドキュメンタリー志向は、戦時下の記録映画を変形的に継承したものであるだけではなく、同時代の「記録への意志」にも裏打ちされていた。  さらに、ジェンダー論から見て興味深いのは、六〇年代初頭の東宝特撮映画において、カメラを手にした記録する女性たちが重要な役割を果たしたことである。例えば、『モスラ』における新聞社の女性カメラマン花村ミチ、あるいは『ガス人間第一号』における新聞記者の甲野京子はそのアクティブな行動力によって、異常現象をジャーナリスティックに解明する原動力となった。後の『ウルトラQ』第一話で「写真ですわデスク、写真に撮れば一目瞭然!」と言って飛び出していく新聞社のカメラマン江戸川由利子は、まさにこの東宝特撮映画における女性ジャーナリストの系譜に属している。ウルトラシリーズはその出発点において「ドキュメンタリーの時代」の想像力を引き受けながら、カメラを女性の主体化のための道具として用いていた。
     折しも同じ東宝映画では、林芙美子を主人公とした成瀬巳喜男監督の『放浪記』(一九六二年)が、女性による「書くこと」を否定的に取り上げていた。この映画は、同棲していた作家志望の男性(演者は『ゴジラ』に主演した宝田明)に散々苦労させられた女性作家の林(高峰秀子)が、売れっ子になった後も深刻な疲労感に襲われるシーンで閉じられる。実在の林は三〇年代後半以降、中国大陸や東南アジアのルポルタージュによって、まさに「ドキュメンタリー作家」として自己を主体化していったのだが、成瀬はそのような活躍には触れず、むしろ書けば書くほど自分を見失って、正体不明の倦怠に包まれていく不幸な女性作家として林を描き出した。「書くこと」や「記録すること」を介した女性の主体化という林芙美子のプログラムは、成瀬映画において意地の悪いやり方で損耗させられたのだ。  したがって、本多と円谷の特撮映画が「記録する主体」としての女性を活躍させたことは、成瀬映画と好対照をなすものであり(『ゴジラ』でもオキシジェン・デストロイヤーの威力を「目撃」したのは、芹沢以外には河内桃子演じる山根恵美子だけであった――この怪獣映画は観客を感情移入させるのに女性の眼と声を効果的な媒介として用いている)、『ウルトラQ』もその延長線上にある。もっとも、その後の昭和のウルトラシリーズでは、女性隊員はサラリーマン組織の「紅一点」としておおむね通信担当に押し込められ、その保守性はフェミニズム的な視点から揶揄されもしたのだが[25]、少なくとも「ドキュメンタリーの時代」の東宝特撮映画の女性像には、むしろ同時代の成瀬映画よりも楽天的かつ進歩的な一面があったと言えるだろう。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第四章 風景と怪獣 1 虚構的ドキュメンタリーの系譜(2)【毎月配信】

    2017-09-19 07:00  
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    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。円谷が「モダニズム的な飛行機」を愛しながら「反モダニズム的な怪獣」を共存させた流れを追いながら、その後継者としての宮崎駿についての議論を通じて、戦後日本の美学を「怪獣の時代」として総括します。
    円谷英二と「崇高」な国策映画
     ところで、本多が「記録」にこだわったのは必ずしも彼個人の趣味に留まるものではない。なぜなら、『太平洋の鷲』や『ゴジラ』を支えたドキュメンタリー志向は、すでに戦時下の日本映画において高揚していたからだ。特撮には大正期の枝正義郎らによる映画的技術の探求から戦時下のプロパガンダに到る発展のプロセスがあったが、ドキュメンタリー(記録映画)も戦争をきっかけにして大きく飛躍した。特撮とドキュメンタリーはともに、戦争を苗床として成長した「技術」なのだ。  そもそも、大切な家族を戦地に送り出した戦時下の観客にとって、身内が映っているかもしれないドキュメンタリーやニュース映画は戦場とのかけがえのない「絆」となった[14]。このきわめて真剣で注意深い観客の登場、さらに戦争のもたらす知覚的なインパクトのために、ドキュメンタリーは劇映画の想像力を凌駕するようになった。例えば、今村太平は一九三九年に、亀井文夫監督の『上海』や『南京』、内田吐夢監督の『土』、田坂具隆監督の『五人の斥候兵』といった同時期の記録映画――当時は「文化映画」(ドイツ語のKulturfilmの訳語)と呼ばれた――に言及しながら、こう述べている。
    最近の日本映画の大きな問題はやはり記録と劇の問題である。記録映画的方法は主として事変ニュースを土台としてにわかに発展した。多くの劇映画は、戦争ニュースにとりまかれることによって急にみすぼらしくなった。[15]
     三〇年代後半以降、ドキュメンタリー的手法は劇映画に着々と「浸潤」していった。本多の師匠の山本嘉次郎監督も、生まれたての仔馬の立ち上がる経過を高峰秀子演じる少女の家族がじっと見守る『馬』の印象的な一場面から、戦争ニュースと劇映画を融合させた『ハワイ・マレー沖海戦』の爆撃シーンに到るまで、戦時下の東宝で撮った映画では事実の記録というポーズを手放さなかった。『ゴジラ』の源流の一つは、これらの動物や戦争を題材とした「記録映画」にあるだろう。  この時期のドキュメンタリーの活性化は、日本に限らず世界的な傾向である。特に、ナチスの対外宣伝に貢献したレニ・リーフェンシュタールの映画は、事実の記録を華麗な映像詩に仕立てた。ヒトラーに感銘を与えたリーフェンシュタールの監督・主演作品『青の光』(一九三二年)には、水晶や山岳をモチーフとするドイツ・ロマン派的な美学に加えて、戦時下の円谷英二が「青空にそびえ立つポプラの葉裏がきらきら光る並木道を静かに駅馬車の通う感傷的な場面」と評したさり気なくも美しいシーンがある[16]。風景の「自生的」な立ち現れを鋭く捉える、彼女のこのリュミエール的な技術は、やがてナチズムの美学として組織化され、ナチスの党大会を記録した『意志の勝利』(一九三五年)やベルリン・オリンピックの記録映画である『民族の祭典』(一九三八年)を――すなわちドイツの力と美をアピールする「全体主義芸術」の最大の成功例を――生み出すことになる。  さらに、円谷自身の特撮も『ゴジラ』以前に「崇高」な風景に関わっていた。リーフェンシュタールの師であり、ナチスの支持者であったアーノルド・ファンク監督の日独合作映画『新しき土』に参加した円谷は、バックグラウンド・プロジェクションのかつてない多用によって、早川雪洲、小杉勇、原節子ら主要キャストを現地に連れて行くことなく、ある程度までスタジオで撮影を間に合わせることができた[17]。四方田犬彦が言うように、「大自然の脅威と火山の噴火」と「恋人たちの激情」の重なり合う『新しき土』の浅間山噴火口の場面は、ファンクによる「ナチスドイツ的な映像の修辞学」の具現化であったが[18]、このナチス的な美学を首尾よく完成させるのに、円谷の技術は大きな助けになったわけだ。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第四章 風景と怪獣 1 虚構的ドキュメンタリーの系譜(1)

    2017-09-05 07:00  
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    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は、特撮において現実の風景と虚構の怪獣がどのように結びついてきたのかを、ドキュメンタリー映画として『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』を分析することで明らかにしていきます。
    第四章 風景と怪獣
     特撮を中心にするとき、日本のサブカルチャー史は三世代の「共作」のように見えてくる。すなわち、一九〇〇年代生まれの円谷英二世代、一九三〇年代生まれの金城哲夫世代、一九六〇年代生まれの庵野秀明世代(オタク第一世代)。この三世代が一九〇一年生まれの昭和天皇、一九三三年生まれの今上天皇、一九六〇年生まれの現皇太子にそれぞれ対応することも興味深い。「雑草という草はない」という名言で知られる昭和天皇が生物学的な「メカニズム」の研究者であったこと、そして今上天皇が戦後民主主義の事実上の守護者として振る舞っていることは、ここまで論じてきた内容とも綺麗に符合する。
     むろん、世代論は大まかな指標にすぎないので、それを盲信するのは愚かである。しかし、新しいテクノロジーや世界戦争とどの年齢で出会ったかが、作り手の立場をある程度方向づけてしまうことも否定できない。人間は自分で生まれる時代を決められない以上、世代には一種の強制性があり、その負荷は文化や技術との関わり方を規定する。実際、円谷の世代にとって戦争が総じて映画とともに「機械の眼」を進化させる場であったとすれば、金城の世代にとって戦争は総じて「子供の眼」から見られるものであった。
     この世代体験はときにイデオロギーやジャンルの違いという敷居も超える。例えば、一九三二年生まれの石原慎太郎は、自伝的な短篇集『わが人生の時の時』(一九九〇年)のなかで、「戦争にいきそこなった子供たち」としての少年時代の自分が、米軍に空襲された際に「敵機の胴体に描かれたどぎつい極彩色のなにやらの漫画を見とどけた」思い出を語るとともに、長じてから鯨や熊のような「人間にはあり得ぬ巨きな存在」と出会ったときの感動を書き綴っている。石原の想像力は、海という広大な無機物に帰ろうとするタナトス(死の本能)とそれを反転させた「蘇生」の欲望だけではなく、人間を圧倒する怪獣的存在に対する恐怖と憧憬を含んでいた。その限りで、石原は政治的立場の異なる大江健三郎やジャンルの異なる金城とも決して遠くない。
     改めてまとめれば、一九三〇年代生まれの若者が主導したウルトラシリーズは、映画とテレビ、大人と子供、モダンとポストモダン、戦争と戦後、飛行機と怪獣、前衛と娯楽といった文化的な接合面において成立したテレビ番組である。そこでは若い作り手と若いメディア(テレビ)の力に加えて、先行する世代と先行するメディア(映画)の遺産が大きな作用を及ぼしていた。加えて、ここで再確認するべきは、このシリーズが文字通り現実と虚構にまたがっていたことだ。そこでは怪獣もヒーローも飛行機も基地もすべて虚構のミニチュアであり、大人の社会性も希薄であったが、その背後には常に実在の風景が控えていた。それを踏まえて、私はアニメの人工的なセカイ系との対比で、ウルトラシリーズを「不純なセカイ系」と形容しておいた(第二章参照)。
     現実と虚構をじかに重ね合わせることによって、ウルトラシリーズはアニメとは異なる独特の肌合いを獲得した。例えば、一九三七年生まれの実相寺昭雄はいくぶん叙情的な筆致によって、虚構の怪獣を現実の風景と同一視している。
    わたしは“消えた”風景の空気感が『ウルトラマン』であり、怪獣たちだったと思う。とりわけ、怪獣たちは消えた風景そのものだった、と思わずにはいられない。わたしたちは、怪獣に、ある時代風景を投影してきたのである。[1]
     私も実相寺に倣ってウルトラシリーズにおける「風景」と「怪獣」を等価なものとして考えたい。だが、その前に、そもそも日本の特撮文化がいかに現実の風景(自然物)と虚構の怪獣(人工物)を結びつけたのかを、言い換えればいかに「不純さ」を獲得してきたのかを、大まかに輪郭づけておくのがよいだろう。以下では、まず映画史における「虚構的ドキュメンタリー」という切り口を設定して『ゴジラ』のような戦後の怪獣映画、およびそれに先立つ戦時下の東宝のプロパガンダ映画を瞥見した後、それらのテレビ版の後継者としての昭和のウルトラシリーズの「風景」と「怪獣」について論じていく。そのなかで、私は「映画的怪獣」から「テレビ的怪獣」への推移を読み解くことになるだろう。
    1 虚構的ドキュメンタリーの系譜
    記録とモンタージュ
     映画史の原点におけるリュミエール兄弟とジョルジュ・メリエスという対は、依然として重要な問題を私たちに投げかけている。奇術師にして興行師のメリエスの映画が「特撮」の起源だとしたら、シネマトグラフの発明者であるリュミエールの映画は「ドキュメンタリー」の起源だと言えるだろう。実際、当時の観客は、リュミエールの映画の主題以上に、カメラが偶然に記録した付属的な風景(木の葉の揺らめき、鉄工場の煙、汽車の蒸気……)に魅了されたと伝えられている。撮影者の意図を超えて、生命をもたない自然物までもが映像表現に参加してくること――、そこに草創期の映画のもたらした新鮮な驚きがあった。リュミエールを論じた映画編集者のダイ・ヴォーンは、この作り手のコントロールを超えた映像の生成力を「自生性」と言い表している[2]。
     リュミエールの自生的な「現実」を評価する立場からすれば、映像の手品としてのトリック撮影を大々的に導入し、映画の産業化の道筋をつけたメリエスの「虚構」は、堕落した表現にすぎなかった。現に、リュミエール映画のカメラマンの一人は「現場で撮られた自然」を尊重する立場から、メリエスの特撮を「幼稚な幻想」と切り捨てている[3]。だが、その後の映画は、自然科学的な「記録」の媒体であり続ける一方で、モンタージュ(構成)やスクリーン・プロセス(合成)の生み出す「幻想」も手放すことはできなかった。私たちはここで、リュミエール以来の記録主義的映画観とメリエス以来の構成主義的映画観という二つの大きなプログラムを想定できるだろう。
     この両者をどう折り合わせるかは、映画の理論においても大きな課題となった。例えば、今村太平は一九四〇年の『記録映画論』で、記録(写すこと)とモンタージュ(構成すること)は「あたかも分析することと綜合することとが思惟の二つの契機である如く、映画における思惟の二つの契機である」というユニークな見方を示した[4]。その一方、フランスの映画批評家アンドレ・バザンは一九五〇年代の論考で、「モンタージュの安易な用法を超え、世界を細分化することなくすべてを表現できるような」表現技法を追求したジャン・ルノワールやロバート・フラハティ、あるいはイタリアのロッセリーニやデ・シーカといった監督たちを高く評価した[5]。マンネリ化したモンタージュに対する批判として、ワンシーン・ワンカットの表現技法やイタリアのネオリアリスモに注目したバザンの理論は、五〇年代末以降、記録主義を復権させたフランスのヌーヴェルヴァーグの映画監督たちにも重要な指針を与えることになる。

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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第三章 文化史における円谷英二 3 プロパガンダと新しい知覚(2)【毎月配信】

    2017-08-22 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。政治性と距離を置き、徹底的に技術を志向した円谷英二はそれゆえに「あどけなさ」や「子供」の目線を持っていました。それらはやがてウルトラシリーズへと繋がっていくこととなります。
    主体なき技術者のあどけなさ
     今日の私たちは国策映画に対して強い警戒心を抱くし、それは当然である。ただ、国策映画を愛国的イデオロギーの権化としてむやみに悪魔化するのは、認識を曇らせるだけだろう。戦時下において、国家は映画や写真のテクノロジーを収奪したが、技術者も国家を表現の場として利用した。そして、この国家と技術者の共犯関係のなかでときにジャンルの越境も生み出される。国策映画はジャンル間のコミュニケーションの場でもあった。
     現に、戦争と美術と言えば必ず名前のあがる一八八六年生まれの画家・藤田嗣治も、円谷の特撮と無関係ではなかった。藤田は戦時下に多数の戦争画を手掛けたが、真珠湾攻撃の場面を描くにあたって『ハワイ・マレー沖海戦』の巨大なオープンセットを頻繁に見学に訪れていた。監督の山本嘉次郎は「秋の陽の、カッカと燃えるようなオープンで、藤田画伯は例のオカッパ頭に大きな経木製の海水帽子をかぶり、毎日毎日、作りものの真珠湾の写生をしていた」と述懐し、こう続けている。
     水深は、人間の腰の上くらいまである。満々とたたえられたプールの水面に、赤トンボが沢山飛んで来て、卵を産みつけていた。その赤トンボを食おうとして、ツバメが襲って来る。このミニチュア(模型)の比率からすると、赤トンボが丁度戦闘機の大きさになる。その戦闘機が爆撃機に食われまいとして、壮絶快絶の一大空中戦が、ニセ真珠湾の上で演じられていた。  それをオカッパの藤田さんが、無心に描いている後姿はまことにアドケないものがあった。[13]
     国策映画であったにもかかわらず、海軍が『ハワイ・マレー沖海戦』の製作への協力を渋ったため、円谷たちはやむなくアメリカのグラフ誌に載った情報をもとにオープンセットを作った。敵国の雑誌のイメージを複製したこの「作りものの真珠湾」をさらに「写生」して描かれた藤田の《十二月八日の真珠湾》(一九四二年)はまさに複製の複製、シミュレーションのシミュレーションに他ならない。しかも、この絵画作品では敵も味方も姿が見えず、ただ真珠湾中央に白い水柱が爆撃の結果として屹立し、その周辺に煙が立ち上るだけである(この構図は海軍省報道部提供の真珠湾写真の「視覚的追体験」でもある[14])。藤田は文字通り「人間不在」の特撮のオープンセットを忠実に写生したのだ。そのせいで、本来最もドラマティックであるはずの太平洋戦争開戦の場面は、人間を介さない静かな自然現象のようにも見えてくる。
     そして、この何重にもメディア化・仮想化された複製芸術家・藤田嗣治の根底に「あどけなさ」があったという山本嘉次郎の観察は、彼の戦争画の特性を図らずも鋭く言い当てていた。例えば、美術評論家の針生一郎は、戦争画を量産した藤田のことを辛辣に批判している。
    おそらく、戦争はこの精神不在、技術至上の画家にとって、第一に、題材と技法の拡大をもたらす点で、第二に、権勢欲と弥次馬根性を満足させてくれる点で、わくわくするような昂奮の的だったのだろう。藤田の仕事はすでにレディ・メイドだから、どんなオーダー・メイドでも利くのだ、と当時語った木村荘八の言ほど、適切な批評はないだろう。[15]
     メディアの寵児であった藤田は、すでに川端の『浅草紅団』にも「パリジェンヌのユキ子夫人」同伴でカジノ・フォーリーのレビューを見学に訪れる「パリイ帰りの藤田嗣治画伯」として登場しており、新感覚派のメカニズムの文学とも早い段階で交差していた。岡崎乾二郎が指摘するように、藤田は「受動的」なメディウム(霊媒)として「自分自身の身体さえ環境のひとつ」にしてしまった主体なき画家だが[16]、この巫女的アーティストとしての藤田が、メディアと機械の形作る戦時下の「メカニズム」において誰よりも輝いたのはある意味で当然である。

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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第三章 文化史における円谷英二 3 プロパガンダと新しい知覚(1)【毎月配信】

    2017-08-01 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は円谷英二が特技監督として関わった傑作戦争プロパガンダ映画の分析から、「技術」志向の映画が生み出した新しい知覚について語ります。
    3 プロパガンダと新しい知覚
    技術を志向した世代
     私はここまで文化史的な見地から、一九〇〇年前後に生まれた円谷英二、三木清、稲垣足穂、木村専一、村山知義、川端康成、衣笠貞之助、山本嘉次郎、森岩雄らにゆるやかな世代的連続性を見出そうとしてきた。あえて乱暴に要約してしまえば、彼らは文化生産に「技術」の問題を本格的に持ち込んだ最初の世代である。彼らにおいては総じて、文化・芸術は一人の天才の作品ではなく、むしろ主体を超えた技術的な「メカニズム」の産物として捉えられる。言い換えれば、この世代の一部の文学者のあいだで流行した私小説的な自己表現ではなく、新しい技術によって新しい現実を「構成」することが彼らの狙いとなった。
     この世代のリストには、文学も芸術も集団化可能な「技術」と見なした一九〇〇年生まれのジャーナリスト大宅壮一、戦時下には『FRONT』の製作に関わり戦後も日本を代表する写真家として名を馳せた一九〇一年生まれの木村伊兵衛、その『FRONT』のアートディレクションを手掛けた後に装丁家として活躍した一九〇三年生まれの原弘、フランス象徴詩と唯物論を交差させて文芸批評を革新した一九〇二年生まれの小林秀雄、その小林の妹と結婚し『MAVO』でグラフィックデザインをやる一方で漫画『のらくろ』で一大ブームを巻き起こした一八九九年生まれの田河水泡、日本アニメーションのパイオニアである一八九八年生まれの政岡憲三、メディアと言葉の相互作用に小説家として鋭敏な感覚を示した一九〇二年生まれの中野重治、日本の美術界にシュルレアリスムを導入した一八九八年生まれの福沢一郎と一九〇三年生まれの瀧口修造、および前章で言及した小津安二郎、成瀬巳喜男、林芙美子らを付け加えることができる[1]。丹精込めて育てた特撮によって世界的名声を獲得した円谷は、この技術を志向した世代のなかでも突出した存在であった。
     と同時に、彼らは壮年期に戦争と出会って、仕事の方向性を大きく左右された世代でもある。前章では、この戦争経験のもたらした表象を「帝国の残影」という與那覇潤のモデルによって説明したが、ここからは技術やメディアに関わる観点を導入してみよう。結論から言えば、二〇世紀の世界戦争はたんに高度な軍事技術を用いただけではなく、エンターテインメントも含めた他の領域の技術をも「軍事化」したのであり、円谷の特撮もそこでは無垢なままではいられなかった。
    プロパガンダの時代
     東宝が国策映画に乗り出していくのは一九三〇年代末のことである。折しもライバルである松竹がメロドラマ的な『愛染かつら』(一九三八年)に代表される「大船調」で一世を風靡していたが、東宝はそれへの対抗として、戦意高揚を目指した国策映画を積極的に手掛けるようになり、特撮の専門家たちもそれに従事した。『海軍爆撃隊』(一九四〇年)以降は円谷英二の特殊技術課の人員も増やされ、円谷の片腕となった撮影技師の川上景司や美術の渡辺明もメンバーに加わり、森岩雄が陣頭指揮をとった『ハワイ・マレー沖海戦』では彼らの技術が存分に発揮された。
     このプロパガンダの時代は必ずしも狭隘なナショナリズムに支配されたわけではなく、ときに「普遍」への意志を映画やデザインに植えつけた。円谷の出席した戦時下の座談会では「ビルマ人にも佛印人にもインドネシア人にもわかる映画」を作るべきで「日本人固有の倫理や心理に固執」してはならないことが強調され、円谷自身も技術の底上げに強い意欲を見せた[2]。幸か不幸か、そのような普遍的な広がりをもった国策映画が実際に製作されたとは言い難いものの、日本映画の弱点を克服して作品を「大東亜」内部の他者に届けなければならないという鋭い批評意識が、皮肉なことに戦争によって育まれたのは確かである。それに比べれば、今日のクールジャパン政策は自己批評性を欠いた不出来なプロパガンダにすぎない。
     あるいは、国外向けに日本や大東亜共栄圏のPRを担当した東方社刊行のグラフ誌『FRONT』(一九四二年から四五年までに十冊刊行)も、英語・ロシア語・中国語・モンゴル語等の十六カ国語のコメントを記載しつつ、モダニズムの写真技術を生かしたダイナミックな機械美や、満州国における五族協和のヴィジョンを示した。一九〇三年生まれの東方社理事長の岡田桑三やデザイナーの原弘は、ソ連の構成主義的なプロパガンダの技術を深く研究し、陸海空の軍備や工場の大規模生産を題材とした驚くほど鮮烈な誌面を作り出した。先述したジョン・ハートフィールドがフォトモンタージュを反ナチスのプロパガンダとして用いたように、本来は存在しない場面を一つの目的に向けて「構成」するモンタージュは、しばしば「前衛」と「プロパガンダ」を結びつけた。しかも、原弘の弟子の多川精一によれば、写真は事実を映すという「信仰」が強かった時代ゆえに、モンタージュ写真による演出も真実性の錯覚を喚起し得たのであった[3]。
     もとより、『FRONT』の作り手たちはその思想信条からすれば、戦争を肯定するタイプではない[4]。多川が言うように、東方社はあくまで「技術者集団」であり、原弘も木村伊兵衛も岡田桑三も「ものを創ることの好きな、いわば第一級の職人」であった。だが、オリンピックや万国博覧会が中止されたため、先鋭な写真家やデザイナーの向かう先は国家宣伝しか残されていなかったのだ[5]。これと似たことは円谷にも言える。彼は決して狂信的な愛国者ではなかったが、当時の世情のなかで映画や飛行機への芸術的欲望を満たすには、プロパガンダに乗りかかる以外の道はほぼなかっただろう。円谷や原は生粋の「工作人」(ホモ・ファーベル)であるがゆえに戦争遂行のメカニズムに拘束されたが、だからこそ、戦後の高度経済成長時代の「ものづくり」の要請にも柔軟に対応することができた。
     いずれにせよ、現実のイメージ素材を組み合わせ、新たな意味を発生させる映画や写真のモンタージュは、いつでも宣伝の技術に転化し得る。加えて、戦時下においては映画そのものが一種の「兵器」となったことも見逃せない。例えば、一九一一年生まれの映画批評家・今村太平(マーシャル・マクルーハン、瀬尾光世、花森安治と同い年)は一九四三年の著書のなかで、望遠鏡撮影、高速度撮影、空中(水中)撮影といった映画の特撮が「日常的肉眼的な見方の否定」であると述べつつ、次のように指摘していた。

    今日の戦争から映画をとり去ることはできない。それはニュース映画が国民の志気を鼓舞するとか対外宣伝に使われるとかいう場合をさすのではなく、軍事的に今や映画が不可欠になりつつあるという事実をさすのである。ドイツのP・K〔引用者注:ゲッベルスの指揮下でプロパガンダを担った宣伝中隊〕の如きも、ニュース撮影を第一目的にしているのではなく、作戦上の必要から映画を撮っていることはあきらかである。

     肉眼の限界を超えて戦線を記録したフィルムは、プロパガンダ的なニュースだけではなく、きわめて有益な軍事資料にもなる。今村が鋭く述べたように、映画はまさに「思想戦における最大の武器である以上に、はるかに直接に、近代戦における重要兵器の一つ」なのだ[6]。
     この機械化した映像のリアリズムは、今なお更新され続けている。例えば、軍用の無人機ドローンは、地上の眼とヘリコプターやセスナによる従来の空撮の眼の「あいだ」の領域を格段に広げ、ニュース、災害救助、野外ショー等の幅広い分野の「眼」を書き換えてしまった。ドローンで撮られた動画は当然ニュースやイベントだけではなく偵察や監視の用途にも利用可能なわけだが、あえて悪趣味な言い方をすれば、視聴者は世界の秘部にタブーなく侵入していくその猥褻な軍事的エンターテインメントにこそ興奮しているのだ。今村はこのような新しい機械的=軍事的知覚の出現を早い段階でつかんでいた。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第三章 文化史における円谷英二 2 飛行機・前衛・メカニズム(2)【毎月配信】

    2017-07-18 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。エンターテイメント作家としてのイメージが強い円谷英二を、近代映画史の文脈の中に改めて位置づけつつ、円谷の同世代に「メカニズム志向」が共有されていたことを指摘します。
    『バレエ・メカニック』から『狂つた一頁』まで
     円谷が『フォトタイムス』に寄せた文章には「ホリゾント法に據るセッティングの研究」のような技術論が目立つが、そのなかにあって一九三三年十月号の『フォトタイムス』には、円谷の美学的関心のありかを示唆する文章が掲載されている。

     フェルナン・レジェは、彼の「機械的舞踏」に於て、動的物体の発見に向かって、驚くべき一歩を踏み出した。
     シナリオとか自然主義的、または劇的のアクションとかの代わりに実在の、そして造形的な形体。
     彼は、物体の通常の意味などには気も止めずに、物体のただ造形的の価値の上にのみフィルムを建設しようとして理論的、お話的、象徴的な意味から、物体を完全に、離脱し、開放したのである。[26]

     レジェは一九二四年に画家ダドリー・マーフィーとともに製作した『バレエ・メカニック』(機械的舞踏!)で名を馳せた。この二〇分弱のアートフィルムは、歯車やレバー、振り子、泡立て器等の日常の事物の合成映像によって作られた、いわば「抽象画的ドキュメンタリー」と評すべき作品であり[27]、撮影はマン・レイが担当した。この円谷の論評以前に、日本でレジェはすでに「機械の世界」の運動を捉えることによって「新興写真運動」に貢献した重要な芸術家と見なされており[28]、『バレエ・メカニック』の与えた衝撃の大きさがうかがえる。
     円谷が技術者の見地から、この『バレエ・メカニック』の意義を「自然主義」や「劇的なアクション」からの解放として説明したのは、本質を突いた見解である。社会的現実にも演劇的約束事にも従属することなく、あるいは手垢のついた「物語」や「象徴」からも離れて、無機物の「バレエ」によって運動そのものを映像のパフォーマンスとして出現させること――、このレジェの前衛的な企ては、先述した一九二六年の『狂つた一頁』が精神病院での女性の「舞踊」で始まっていたことと綺麗に符合する。
     近年再評価の進む『狂つた一頁』は、一八九六年生まれの衣笠貞之助監督が、川端康成、横光利一、片岡鉄兵、岸田國士の四人を含む「新感覚派映画聯盟」を結成して製作した前衛映画である。精神病院に収監された女性患者が牢獄のなかで踊り狂うという鮮烈な冒頭部に始まり、他の患者たちがそれにエキサイトする「観客」として登場する。自我を失くしたかのような女の運動そのものを示しつつ、その狂気が周囲にも感染していくというディオニュソス的(祝祭的)な運動が、そこでは映像化されていた。
     ただし、『狂つた一頁』はいたずらにおどろおどろしい映画ではなく、アポロン的な造形感覚にも事欠かない。四方田犬彦の詳しい分析を借りれば、そこにはキュビズムやダダイズムの影響を思わせる抽象的な「円環」のイメージが増殖する一方で、それを切断するように、牢獄の鉄格子のような冷たい垂直線のイメージが多用された[29]。そもそも、『狂つた一頁』は凝りに凝った美術セットで名高い『カリガリ博士』(一九二〇年)の影響下にある「ドイツ表現主義的」な作品と見なされがちではあるものの、かつて蓮實重彦が指摘したように、その装置はむしろ普通の作りである[30]。『狂つた一頁』の「前衛性」は美術の仕事以上に、ディオニュソス的な激しさとアポロン的な冷たさを共存させながら、ときに「抽象画的ドキュメンタリー」にも近づくカメラの繊細な運動によって担保されていた。
     そのことはまさに円谷によって的確に指摘されている。円谷は自らが助手として関わった『狂つた一頁』の画期的な新技術として「画面を飛躍的に表現する急速な移動パンや、パンワーギと称するキャメラを横に振って急速な場面転換、立体的な移動ショット等」に加えて「歪曲鏡の使用、フラッシュ・ダブル・エキスポージュアに依るビジョンの効果、波形移動の効果、シルエットの使用効果、小型模型の使用」を挙げながら、衣笠監督について「映画の技術的なコツを実によく知りぬいた演出家だと、技術家の立場から私はいつも敬服している」と評していた。円谷にとって、『狂つた一頁』は「日本映画の技術発達史」に屹立するテクノロジーの記念碑なのだ[31]。
     歌舞伎の女形出身の衣笠監督はかえって演劇的映画から離れて、当時のヨーロッパの前衛とも共振する映画的映画を撮り、『狂つた一頁』の後に『十字路』という傑作も生み出すが、その前提として、円谷は衣笠自身にカメラマンの経験があったことを強調していた。円谷の考えでは、衣笠は何よりもまずカメラの性能を知り尽くした「技術者」なのであり、表現主義云々、主観描写云々はあくまでその高度な技術の後に続くものにすぎない――、むろん、この衣笠評から円谷自身の技術者としての密かな矜持を読み取ることも、十分可能だろう。
     戦後の『ゴジラ』やウルトラシリーズの印象が強いため、私たちはつい円谷英二をエンターテインメント志向の映像作家と見てしまいがちだが、それは大きな誤解である。映画固有の表現を追求した枝正義郎のもとで修行し、映像を人工的に「構成」することに習熟した技術者が、やがて『狂つた一頁』や新興写真のような前衛運動とも接近遭遇する――、この履歴からは戦後の「怪獣もの」のイメージには収まりきらない円谷のもう一つのモダンな顔をうかがい知ることができる。円谷自身、晩年には「私が怪獣映画ばかり作るように思われるのは心外」だとして、特撮の研究を始めたのは本来「映画をより芸術的なものにしたかったから」だと記していた[32]。裏返せば、日本の戦後とは、前衛が怪獣化し、娯楽化していった時代なのだ。次章で詳しく論じるが、この変転にこそ戦後サブカルチャーを読み解く鍵があると私は考えている。

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