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猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第33回「近代以降失われた色の階調を蘇らせたい」
2018-12-31 12:00550pt
2018年最後の配信は、チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は大盛況というヘルシンキの美術館・Amos Rexの展示の話題から、人間の認知や感覚の限界へと挑戦する、計算機テクノロジーを活かしたアート作品。そして、近代以降失われた自然の色調をデジタルで蘇らせる「かさねのいろめ」の着想について語ります。
地下と地上をつなぐブラックホールに吸い込まれる滝
猪子 フィンランドのヘルシンキにある美術館AmosがAmos Rexという新館を2018年8月30日にオープンして、そのオープニングエキシビジョン「teamLab: Massless」を担当したという話は前にしたと思うんだけど……。
宇野 そうだね、工事中の美術館で記者会見していたよね。
参考:第29回 新しいパブリックを実現した都市をつくりたい!
猪子 連日、全員が入れないほど長蛇の大行列になってるらしいんだ。ヘルシンキは80万人都市なんだけど、そのうち半分くらい来てるんじゃないかっていうくらいの大混雑。もちろん海外からの人も合わせてだけど数十万人は来場しているみたい。前にも説明したと思うけど、ヘルシンキの都市の中心にある広場の地下にできた美術館で、天窓だけが地上にボコッと突き出している非常に素晴らしい建築なんだ。天窓の地上部分によって広場はアスレチックのように立体的な広場になっている。だから、『Vortex of Light Particles』はこの天窓のかたちを使って、空間自体を活かした、地下から地上へと関係性があるような作品にしようと思ったんだよね。
▲『Vortex of Light Particles』
▲建設中のAmos Rex
▲Amos Rexの外観・内観
宇野 これはどういう仕掛けがあるんだっけ?
猪子 天窓に向かって逆さまにに水が流れる巨大な滝と渦の作品なんだよね。天井の天窓から地上方向に大きな力が空間全体にかかっていて、ドーム状の天井のかたちに沿って水が渦巻きながら天窓へ吸い込まれていく。この美術館の建物自体、かなり気合が入った設計で、ドーム状の地下空間になってる。これは柱を使わずに構造を支えるためだと思うんだけど、その特徴を活かして、内壁の形状によって水の流れのかたちが決定される作品なんだよね。地上方向に向かう力によって、地上と地下をつなぐ天窓に、滝の水流が吸い込まれていく。
天窓は地上へのトンネルになってるんだけど、内部を真っ暗にしてるから、黒の平面に吸い込まれていく感じ。そこが穴なのか平面なのかの区別すらつかない。実際に見ると、ブラックホールみたいに見える。
宇野 こういう展示は、その空間が箱の中であると思わせない効果があるよね。チームラボのアートって、特に最近のものは、密室に閉じ込めることで、無限性や悠久の時間、彼岸の存在を体感させ、そこが有限の空間であることを一時的に忘れさせてしまう。これはただの穴なのか、あるいは吸い込まれているのか、本当に分からなくなるような感覚をもたらすことによってそれを実現しているわけだよね。
偶然性の情報量を計算機が超越する
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猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第32回「色と密度で人間の五感をハックしたい!」
2018-10-24 07:00550pt
チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は、豊洲で開催中の展覧会「チームラボ プラネッツ TOKYO」の展示について猪子さんと語り合いました。この展示では、個々の作品へと深く没入させるためのクオリティにこだわったという猪子さん。作品の強度を生み出すために導入された、人間の五感に訴えかける新基軸のアイディアとは?(構成:飯田樹)
遊び心と体感的な没入がもたらす「チームラボらしさ」
▲東京・豊洲にて開催中の「チームラボ プラネッツ TOKYO」
宇野 「チームラボ プラネッツ TOKYO」(以下「プラネッツ」)、すごくよかったよ。個人的にはお台場の「森ビル デジタルアート ミュージアム:エプソン チームラボ ボーダレス」(以下「ボーダレス」)よりも、こっちの方が好きかもしれない。
猪子 へえ!
宇野 もちろんこの二つは規模も違えば目的もそもそも違う。「ボーダレス」はチームラボがここ数年やってきた屋内でのインスタレーションや空間演出のアートの集大成で、「プラネッツ」は2年前の「DMM.プラネッツ Art by teamLab」(以下「DMM.プラネッツ」)のアップデートで、「ボーダレス」に比べれば小さい。「ボーダレス」は半日かけても回りきれないから2〜3回は行かなきゃって感じだけど、「プラネッツ」は2、3時間あれば全部観れる。でも、後者の方が遊び心があるよね。普通に考えたら「ボーダレス」の方がド本命なんだろうけど、僕は「プラネッツ」の実験性も捨てがたい。
猪子 「プラネッツ」では世界と自分との関係を考え直させるような作品を一個一個作って、とにかく圧倒的なクオリティで没入させるようにしているんだよ。
宇野 いや、本当にそうで。これは「小説トリッパー」(朝日新聞出版)の連載(『汎イメージ論』)でも書いたことだけど、ここ数年のチームラボは「作品と作品」「人間と人間」「人間と作品」という3つの境界を撹乱しようとしている。今回の「プラネッツ」はそのうち、「人間と作品」のところに集中していて、そこに特化しているところが面白い。
俺なんか、そんなに他人と融解したいなんて思ってないし(笑)、批評家だから作品同士を繋げて考えるのは、作品にやってもらわなくても自分でできるからさ。でも、自分でできないのは、自己と世界、この場合は鑑賞者と作品との境界線がなくなって、作品に没入することなんだよ。
猪子 なるほど、おもしろい。
宇野 「ボーダレス」は「作品と作品」「人間と人間」「人間と作品」という3つの境界を全部撹乱しようとしている。なので、一番総合性があるし、完成度は高いんだけど、「人間と作品」の境界線の消滅に特化した「プラネッツ」の方が針が振り切れている。一個一個の作品で、どうなるかわからないけど遠くにボールを投げてみようとしているのは「プラネッツ」の方なんだよね。だから、僕にとっては「プラネッツ」の方が刺激的だった。
たとえば「ボーダレス」は、入り口に猪子さんのメッセージが言葉で掲げてあって、ここから先はチームラボの演出する「境界のない世界」だってことを宣言するんだけど、「プラネッツ」はそんなお行儀のいいことはしないで、いきなり鑑賞者を水の中に入らせるとか(『坂の上にある光の滝』)、クッションの中を弾ませるとか(『やわらかいブラックホール - あなたの身体は空間であり、空間は他者の身体である』)、前回の「DMM.プラネッツ」でやっていたことのパワーアップバージョンなんだけど、「ここから先は完全に別世界ですよ」「警戒心を解いていいんだよ」ってことを問答無用で体感させる。こっちのアプローチの方がチームラボらしいと思う。
▲『坂の上にある光の滝』
▲『やわらかいブラックホール - あなたの身体は空間であり、空間は他者の身体である』
猪子 あのメッセージはね……。「ボーダレス」はあまりにも新しい概念すぎて、関係者内覧会でクレームの嵐だったの。「地図はないのか!」って。だからメッセージを置いて、ここは今までとは概念が違うんだってことを強く示しておかないと、もう苦情だらけだから。
宇野 それ自体がコンセプトだと分かってもらえなかったわけか。普通に迷うし、どこに何があるかも分からないから、特定の作品を観ようとしてもできないしね。「ボーダレス」も、あれはあれですごく良いんだけど、「プラネッツ」では問答無用で、しかも視覚だけじゃなくて触覚に訴えかけて入っていくところに感心した。
だから逆にね、もう問答無用で水の中に放り込む、くらいのほうが逆にいいと思うんんだよ。というか、アートとしてはむしろそれが正しいと思う。この「プラネッツ」は触覚に訴える作品が多いけれど、こうやっても視覚や聴覚以外の触覚や嗅覚といった人間の五感をハックすることで没入感を上げる表現には、まだまだ伸びしろがあると思ったね。
あと、『The Infinite Crystal Universe』(以下、『ユニバース』)は、今までの中でもダントツに完成度が高いと思う。
▲『The Infinite Crystal Universe』
猪子 そりゃそうだよ(笑)。
宇野 作っている本人は「そりゃそうだ」って感想かもしれないけどさ、過去にいろんなバージョンの『ユニバース』を観てきた僕からすると、やっぱり隔世の感があるよね。
以前からずっと言っていることだけど、『ユニバース』って部屋の広さが肝なんだよね。人間の想像力が勝って「この先に壁がある」と思われたら、ああいう空間の中に人間が飲み込まれてしまうような錯覚を起こさなきゃいけないタイプの作品は機能しない。やはり作品への没入感を出すためには、人間に空間を正確に把握「させない」工夫がいる。そのためにはどうしても『ユニバース』には「広さ」がいると思う。あれはまさに規模が質を担保している作品で、あの鏡張りの天井の高さと敷地の広さによって、本当に完成度が高くなっている。猪子さんが表現したかった没入感は、あれぐらいの規模があって初めて成立するんだなと思った。
あと、インタラクションが強化されていたのが地味に大きいんじゃないかな。目の前のインスタレーションの変化のどこからどこまでが自分に反応しているのか分かりづらいという『ユニバース』の弱点が明確に改良されていて、相当完成に近づいていると思うよ。
『人と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング』(以下、『鯉』)はいつも通りなんだけど、ビジュアルはもうちょっと派手な方がいいと思った。前回の『鯉』の方が分かりやすい。今回の『鯉』は、なんとなく色が薄くなって、ちょっと上品になった気がした。
▲『人と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング』
猪子 うーん、前回と特に変わっていないはずなんだけどね。解像度や輝度が上がってるから、そのせいかもしれない。あと、水を温かくしているから、気付かない程度に湯気が出ちゃうんだよね。それでぼやけているのかも。すぐ調整しよう。
宇野 唯一そこが気になったかな。
猪子 『冷たい生命』は?
▲『冷たい生命』
宇野 原型の『生命は生命の力で生きている』の方がいいと思った。まあ、裏側のワイヤーフレームが見えていないと『冷たい生命』とは言えないんだけどさ。これは単純な話で、「3DCGであること」自体が何か特別な意味を、はっきり言えば新しい視覚体験の象徴だった時代って、とっくに終わっているように感じちゃうわけね。本当はつい最近のことなんだけどさ。だから、ああいうものを見せられたときに新時代を感じるよりも、単に「普段僕らが見ているものはこう作ってるんだろうな」っていう舞台裏を見せられた気になっちゃうんだよね。「プラネッツ」は没入感を大事にしているわけだから、舞台裏を見せられた感じになるものは置かずに、もっと別のものを置いたほうがよかったかもしれない。贅沢を言うと、あそこに「書」があった方がいいと思った。たとえば『円相』とか。
猪子 なるほどね……面白い。
色のハックと密度のコントロールで没入感をつくる
宇野 今回一番良かったのは『意思を持ち変容する空間、広がる立体的存在 - 自由浮遊、平面化する3色と曖昧な9色』だね。一見、カラフルな球体が鑑賞者に反応していって、空間全体の色と音が変化するというタイプの作品なんだけど、意外といろいろな実験が試みられていて、ものすごく刺激的だった。
特に、色の変化の中で一瞬、目の前の視界が原色に覆われて空間がまるで平面のように見えるという仕掛けが良かった。
▲『意思を持ち変容する空間、広がる立体的存在 - 自由浮遊、平面化する3色と曖昧な9色』
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宇野常寛 NewsX vol.1 ゲスト:猪子寿之「デジタルアートの使命」
2018-10-05 07:00550pt
宇野常寛が火曜日のキャスターを担当する番組「NewsX」(dTVチャンネル・ひかりTVチャンネル+にて放送中)の書き起こしをお届けします。9月4日に放送された第1回のテーマは「デジタルアートの使命」。ゲストにチームラボ代表の猪子寿之さんを迎えて、チームラボが国内外で開催している展覧会や、今後のビジョンなどについてお話を伺いました。(構成:籔和馬)本記事内の情報に誤りがありました。心からお詫び申し上げますとともに、訂正して再配信いたします。今後、同様の事態が起こらないよう編集部一同、再発防止に努めてまいります。このたびは誠に申し訳ございませんでした。(2018年10月5日13時25分)
NewsX vol.1「デジタルアートの使命」2018年9月4日放送ゲスト:猪子寿之(チームラボ代表) アシスタント:加藤るみ(タレント) アーカイブ動画はこちら
宇野常寛の担当する「NewsX」火曜日は毎週22:00より、dTVチャンネル、ひかりTVチャンネル+で生放送中です。アーカイブ動画は、「PLANETSチャンネル」「PLANETS CLUB」でも視聴できます。ご入会方法についての詳細は、以下のページをご覧ください。 ・PLANETSチャンネル ・PLANETS CLUB
境界のないアート群、「森ビル デジタルアート ミュージアム:エプソン チームラボ ボーダレス」
加藤 NewsX火曜日、初めてのゲスト、チームラボ代表の猪子寿之さんです。よろしくお願いします。今日のテーマは「デジタルアートの使命」。猪子さん率いるチームラボ、現在も各地で様々な展示があります。その映像を観ながらお話を伺いたいと思います。まず猪子さんと宇野さん、お二人のご関係からお聞きしてもよろしいでしょうか。……なんかニヤニヤしてますね(笑)。
宇野 どう思っているの?
猪子 いやいや愛してますよ(笑)。
宇野 俺も愛してるよ。
加藤 相思相愛ということで。実はお二人はお仕事も一緒にされているんですよね?
宇野 月一でうちのメールマガジンで対談している感じで。
『猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉』過去の配信記事はこちら。
猪子 なにか作品をつくったり展覧会を開いたときに、観ていただいたりしていて。あまり言葉になっていないものを、宇野さんに言葉にしてもらって。してもらった言葉を僕自身も使っているという。
宇野 二人で一つなわけ(笑)。
加藤 二人で一つ(笑)。合体していますね。
宇野 合体しているわけ。『バロム・1』的にね。
加藤 ということで、まずはこちらの映像を観ていただきたいと思います。
(映像が流れる)
加藤 東京お台場にある常設展、「森ビル デジタルアート ミュージアム:エプソン チームラボ ボーダレス」(以下、「ボーダレス」)でした。猪子さん、こちらはどういった展覧会でしょうか?
猪子 僕は「境界のないアート群」と呼んでいるんだけど、それによってつながっている一つの世界。その中を自分の身体で彷徨いながら、探索して、いろんな発見をしていくという場所。それぞれまったく違うコンセプトのアートが、境界なく連続的につながっていたり、影響を受け合ったり、アートそのものが移動していったりっていう。ちょっと何を言っているのかわからないよね?
加藤 それがボーダレスという意味にもなっている……?
宇野 この説明でわかった?
加藤 あ、でも、わかります。いろんなものがつながっているんだなっていう。
猪子 宇野さんにちょっと説明してもらおうか。
宇野 ある作品で蝶が飛んでいたら、その蝶が別の作品に侵入していっちゃうの。ある作品で楽器隊が笛を吹いていたりしたら、それが行列になって廊下を歩いて行って、中央のでっかい部屋に行って、また別の行進や演奏をしたりする。作品同士がどんどんどんどんないまぜになっていく。どこからどこまでが、ひとつの作品なのかちょっとわからないような形になっているんだよね。
猪子 ある空間の作品があったら、その作品が空間から出て、通路を通って、ほかの空間に入っていったり。あとは、作品が他の作品とコミュニケーションをとっていて。たとえば、ある空間に入ろうとしたら、他の作品があると「今は入らないで」みたいことになって、諦めてまた違うところに行ったり。とにかく影響を受け合い続けるという。一個一個はもちろん違うコンセプトなんだけど、その作品ごとの境界が曖昧で、連続的につながっている一つの世界。その中を彷徨ってもらいたいなと思ってつくったんですね。
宇野 真っ暗な空間にいろんなインスタレーションがあって、しかもその作品がどんどん入れ替わっていくから、マジで迷うわけ。たぶんチームラボで泣きながら設営していたスタッフ以外、全員迷う。
猪子 とにかく広いんですよ。1万平米くらいあって、その中を本当に彷徨うことになる。 全作品を完全に観られる人はいないぐらいの複雑さ。作品も移動していくので。
加藤 それじゃあ、何回行っても楽しめるといった作品なんですね。宇野さんも当然行かれたんですよね?
宇野 僕は工事中の頃から見せてもらって、都合3〜4回行っているかな。ヘルメットを二人で被ってね(笑)。
加藤 工事中のところが見れるのはレアですね。
宇野 これは猪子さんがここ2〜3年やってきたことの集大成だと思うんだよね。2〜3年前から猪子さんは作品同士の境界を超えていくものを手がけているんだけど。それを最初にやったのは2017年のロンドンなんだよね。あれはブレグジットの翌年だったんだけど、それが僕はすごく大事だと思っていて。せっかく情報化やグローバル化で境界がなし崩し的になくなっていこうとしている世界に、今、もう一回線を引いてやれという人たちの声が大きくなっている。それがイギリスでいうとブレグジットだし、アメリカでいうとトランプの当選だし、日本でいうとヘイトスピーカーの台頭だよね。ああいったものに対して、猪子さんはすっごい真面目だから、もう一回「境界のない世界」の気持ちよさとか優しさというものを味わってみないか、ということをやっているんだよね。
猪子 そうですね。本来は世界には境界がなくて。たとえば、森に行くと多様な生物がいるんだけど、見た目上、どこが境界かわからないように入り組んでいて。すべての生命は連続性の上に成り立っているんだけれども、都市で生活しているとその連続性みたいなものが感じられないし、何か境界だらけで、まるで世界の境界がもともとあったかのような重い気持ちになってしまう。連続性の上に自分が成り立っていることを忘れてしまう。世界本来の境界がないような体験を都市の中でつくりたかったんですね。
宇野 現実の世界が境界だらけだからこそ、チームラボ・ワールドの中は境界のない世界を実現したいという。
加藤 それがボーダレスという言葉に込められた意味ですね。
猪子 そうですね。はい。
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(4)【金曜日配信】
2018-09-14 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。戦後中流的な核家族による〈対幻想〉は共同幻想に飲み込まれ、糸井重里的な「モノへの回帰」による〈自己幻想〉の更新も無効化される、「自立」の思想はいかにして可能か。吉本隆明が重視しなかった〈兄弟/姉妹的な対幻想〉にその端緒を探ります。(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
3 共同幻想からハイ・イメージへ
戦後社会を支えた「大衆の原像」――戦後中流的な核家族――というかたちでの対幻想への立脚も、そしてそんな戦後社会の黄昏に出現した消費社会下における「モノ」の消費を用いた自己幻想強化も、今日において情報技術に支援されて拡大するボトムアップの共同幻想の前には無力だ。 では、どうするのか。ここでは予告したようにその手がかりを吉本隆明自身が遺した思考に求めていきたい。 糸井重里による「モノ」への回帰は、吉本隆明が、いや戦後日本が思想的に乗り上げた暗礁からの、吉本隆明的なものの批判的継承によって試みられた脱出法の模索だったといえる。 このときの糸井のアプローチは(かつての吉本がコムデギャルソンに身を包んで雑誌に登場したときのように)自己幻想の水準で行われている。 では、同様の批判的継承を対幻想の次元で行うことは可能だろうか。 『共同幻想論』にはふたつの対幻想が登場する。ひとつは夫婦や親子といった核家族的な対幻想であり、時間的な永続と結びついている。もうひとつは兄弟姉妹的な対幻想で、これらは空間的な永続と結びついている。つまり前者は閉ざされた関係性をつくり、子を再生産することで時間的な永続をその幻想の中核にもつ。対して近親姦の禁忌によって開かれた関係性を構築する後者は、子を再生産しないために時間的永続の幻想を持ち得ないが、代わりに空間的な永続を保持する。 そして吉本は同書で、本来「逆立」するはずの後者の対幻想が共同幻想と結びつくメカニズムを――私たちが国家を擬似家族的な共同体として捉えたがってしまうメカニズムを――解き明かしている。吉本によれば古代社会における国家とは、後者の兄弟姉妹的な対幻想が、共同幻想に転化することで氏族社会が拡大したものだ。この時期の吉本の思想的、政治的な実践において、夫婦/親子的な核家族的な対幻想が二〇世紀最大の共同幻想である国家への抵抗の拠点として選択されるのはそのためだ。
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(3)【金曜日配信】
2018-09-07 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。情報社会化の進行にともなう人々の共同幻想への依存、その処方箋のひとつに糸井重里の「ほぼ日」があります。「モノからコトへ」の時代に、あえてモノに回帰することで自立を促す。糸井が提案する洗練されたスタイルの意味と射程について考えます。(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
2 モノからコトへ、そしてもう一度モノへ?
ではどうするのか。 ここではこの問題を少し違った角度から検討してみよう。 今日における吉本隆明の紹介者として糸井重里の仕事を、とりわけ「ほぼ日刊イトイ新聞」を補助線的に参照したい。 糸井重里にとっての「ほぼ日刊イトイ新聞」(一九九八年開設、以下「ほぼ日」)は言ってみればまだ人々がモノの消費で自己を表現していた時代の黄昏に、インターネットという新しいメディアというかたちで出現したコトの消費の先駆けだった。そのメッセージは一言で言えば「現代の消費社会に対してはこれくらいの距離感と進入角度で接すると自分も気持ちよく、他人にも優しくできる」というものだ。インターネット上の文章という、無料の、それもインターネットに接続されたパソコンさえあればいつでも、どこでもアクセスできる文章を日常の中に置く。当時糸井が提示したインターネットとは、個人が自分でちょうどよい進入角度と距離感を調節できるメディアだった。天才コピーライターの糸井がこの自らのメディアに与えた「ゴキゲンを創造する、中くらいのメディア」とは、要するに消費社会に対する気持ちのいい進入角度とほどよい距離感とを提案するメディア、という意味だと思えばよいだろう。それは言い換えればモノ(消費社会)とうまく距離を取るためのコト(情報社会=インターネット)ということでもある。初期の「ほぼ日」は、この時期のインターネットのウェブサイトの大半がそうであったように「読みもの」主体の「テキストサイト」だった。まさに「ほぼ毎日」更新されるコラムや対談記事は、そのテキストの指示する内容よりも、「語り口」をもってして世界との距離感を表明していた。それは吉本的に述べれば、明らかに「指示表出」よりも「自己表出」に力点が置かれたメディアだった。 しかし今日の、上場後の「ほぼ日」は違う。
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(2)【金曜日配信】
2018-08-24 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。吉本隆明は『共同幻想論』で、かの有名なテーゼ「共同幻想は自己幻想に逆立する」を提示しますが、高度化した情報技術は両者の結託と同一化を促します。逆立するはずの自己幻想と対幻想が巧妙に共同幻想に囚われてゆく、戦後日本の欺瞞的な社会構造を暴き出します(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
ナチズムの記憶がまだ新しく、スターリニズムの脅威がまだ現実のものだった『共同幻想論』の執筆当時の吉本の戦略は、共同幻想からの自己幻想の自立を維持するために、対幻想に立脚することだった、とひとまずはまとめることができるだろう。
しかし今日において共同幻想は自己幻想を飲み込み、埋没させるものではない。むしろ自己幻想の側が自ら共鳴し、他の自己幻想と同一化し、共同幻想と化す。私たちは自らそう欲望して、共同幻想に同一化する。これまでもそうであったのかもしれない。しかし情報技術の支援がそれをより簡易に、強力にしたことは明らかだ。私たちはソーシャルメディアのアカウントを使い分けることで――分人的アイデンティティのもとに――よりためらいなく、よりリスクなく共同幻想に同化するのだ。
今日において情報環境的に自己幻想は共同幻想に対する「逆立」の度合いを低下させている、いや、むしろ同化の度合いを高めている。これに対する処方箋はふたつある。それはかつて吉本が主張したように、あくまで自己幻想の、そして対幻想の逆立を保持することでこれから自立すること。もうひとつは共同幻想の発生メカニズムの変化(インターネット的分散化)を逆手に取って、いや正当に用いて私たちがこれに埋没し、思考停止しづらい主体を獲得すること、言い換えればインターネット以降、自然発生的に定着した分人的なアイデンティティを、「信じたいものだけを見る」ための方便ではなく、多様性の確保のために用いることだ。
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(1)【金曜日配信】
2018-08-10 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。吉本隆明の『ハイ・イメージ論』で提出された「世界視線」と「普遍視線」の概念は、情報技術の発達により前者が後者に飲み込まれ、共同体に最適化された自己幻想によって、ヘイトスピーチや陰謀論が跋扈します。それはボトムアップから生まれる単一的な共同幻想への依存という、新しい病理の現れでした。(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
0 ハイ・イメージ化する情報社会
『ハイ・イメージ論』の冒頭は「映像の終りから」と題された小文からはじまる。「映像の終り」という問題設定は、今日においては同書が執筆された八〇年代とはまったく異なる意味を持って私たちの前に浮上する。吉本の同文に登場する「映像の終り」とは(当時の)コンピューターグラフィックスの与えるイメージから、新しい情報環境の出現を予感しているに過ぎない。しかし、二一世紀の今日において二〇世紀的な「映像」は本当に終わろうとしている。いや、既に「終わって」いる。映像とは二〇世紀の社会を形成した原動力だ。文字メディアよりも、聴覚メディアよりも人々に負担なく、駆動的にメッセージを伝達する表現手法、それが一九世紀末に発明された「映像」だった。この発明は同時期に発達した放送技術と同調することで、二〇世紀の社会の大規模化を支えたものだった。 自動車と映像は一九世紀の末にヨーロッパで生まれ、二〇世紀前半にアメリカの広大な大地とそこに住む多民族をつなぐために、ばらばらのものたちをつなぐために発展したものだ。ただし自動車が内燃機関で動く一トン前後の鋼鉄の塊という強大かつ危険な力を個人が所有し、場合によっては制御するという個人のエンパワーメントによって「ばらばらのもの」をつないでいたのに対し、映像は不特定多数の人々が同じものを見ることによってそれを実現するものだった。前者が自己幻想の水準でのアプローチだったとするのなら、後者のそれは共同幻想を水準としたものだったと言えるだろう。したがってその「映像」の終わりとは、共同幻想の社会におけるかたちの変化に他ならない。具体的には私たちはいま、「映像の世紀」から「ネットワークの世紀」への変貌期を生きている。現代という時代はトップダウン的な映像から、ボトムアップ的なネットワークへ、共同幻想の発生メカニズムの形態を変化させつつある、その途上なのだ。 ここでは、この観点から「映像の終り」という問題提起からはじまる吉本の『ハイ・イメージ論』を読み直してみよう。 『ハイ・イメージ論』の中心的な概念として登場するのが「世界視線」と「普遍視線」だ。世界視線とは、この世界の全体像を俯瞰して捉える神の視点だ。対して普遍視線とは私たちがこの生活空間の中で世界を捉える等身大の視点のことだ。前者は共同幻想の視線であり、そして後者は対幻想、自己幻想の視線であると言い換えることもできるだろうし、前者を「政治」、後者を「文学」の視線と言い換えることもできるだろう。そして前者を「公」の、後者を「私」の視線と言い換えることもできる。そして吉本は現代の(当時の)情報環境の進化はこの両者の関係を決定的に変化させていると指摘する。
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猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第31回 テロの起きたパリで「境界のない世界」を実現したい!
2018-07-04 07:02550pt
チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は、パリのラ・ヴィレットで開催中の展覧会「teamLab : Au-delà des limites」について、現地で話しました。多文化主義を体現しているパリの街。そこから見えてきたのは、デジタル・アートならではの「接続の美」のあり方でした。「本格的に作品同士が越境する」展覧会で実現されるその形とは?(構成:稲葉ほたて)
▲今回は、パリの展示会場にて猪子さんに語っていただきました!(収録は、展覧会のオープン前である2018年5月13日に行われました)
パリ、到着日に起きたテロ
猪子 今回は、パリのラ・ヴィレットで9月9日まで開催中の大規模展覧会、「teamLab : Au-delà des limites」について話していきたいと思います。まず宇野さん、パリまで来てくれてありがとう。宇野さんに実際に展示を体験してもらったから、その感想を聞いてみたいな。
宇野 そうね……ただその前に、昨日(5月12日)のテロ事件の話をちょっとだけしてもいい? 昨日の夜、ナイフを持った男が5人の民間人を襲う事件があって、事件が起きた時に僕はその現場から500〜600メートルのところでご飯を食べていたんだよね。全然気づかなくて、インターネットのニュースで初めてそのことを知ったんだけどさ。
やっぱり今日は、まずその話に触れずにはいられない。それで、僕が思い出すのは、Brexitから半年ちょっと経った2017年のロンドンで、チームラボが個展「teamLab: Transcending Boundaries」をやったときのこと。あの時あの場所で、「境界のない世界」というテーマで個展をやることに、猪子さんは強い意味を感じていたわけだよね。
猪子 そうだね。当時、この連載でも話したよね。
【参考】猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第16回「アートによって、世界の境界をとりはらいたい!」
宇野 今のパリって、言ってしまえばテロの標的として定着してしまっていて、実際に昨日も事件が起きた。それに対して、どんな文化的なアプローチが可能かというのは、今このパリという場所でチームラボが問われていると思うんだよ。つまり、これだけ酷いことがあっても、果たしてパリにいる人々に「境界のない世界のほうがいい」と思ってもらうことができるのか――これはかなり重要なことだと思う。
実際、カリフォルニアン・イデオロギーや多文化主義って、現状はまだ「境界のない世界」の構築に失敗しているわけだよ。カリフォルニアン・イデオロギーというのは、言ってしまえば、コンピュータと経済のパワーを使えば境界を超えられるという思想だよね。一方の多文化主義は、「境界がたくさんあっても、みんな気にしなければいいじゃん」というもので、他人は他人、自分は自分の思想。まさにこのパリという街は、後者だと思うんだけどさ。
猪子 ただ、まだ成功と言うには力が及んでいないかもしれないけど、パリの人たちはそれを選んでいるんじゃないかな。
宇野 そこはすごいよね。実際、僕が昨日のテロの一件でびっくりしたのは、みんな翌日も普通にランニングして、ご飯を食べて、街を歩いて過ごしていたことなんだよ。そこに、テロのようなものも日常に溶け込ませてしまう力を感じた。ある意味、慣れてしまっているということかもしれないけどね。
猪子 街全体がとてもハッピーな雰囲気なんだよね。さっき宇野さんと一緒に行こうとして、人が多くて入れなかったカフェがあったけど、あれもたぶん誰かが演奏会をやっていることで人が集まっているんだよね。そんなふうに、今日もちゃんと日常を楽しみ続けていて、テロに全く屈服していない。
宇野 この街の持つ幸福感は、ある意味では既にテロに勝っている気がするんだよね。多文化主義は破綻した理想だと思っていたけど、舐めちゃいけないなと思い直したよ。現に色々な問題が起こっているので、まだまだ力不足でアップデートは必要なのかもしれないけどね。
猪子 あと、フランス人って本当に「どこの国で生まれた人間か」とかについてほとんど気にしないんだよね。肌の色が何であれ、教養があってフランス的に振る舞うならば、それはフランス人なんだよ。最低限のルールさえ守って人間らしくあれば、多様であっていい。今日も、展示会場の近くで、おじいさんと若い女性がフォークダンスを踊っていたり、若者がその横でヒップホップの練習をしたりで……カオスだったよね(笑)。
今回のパリの展示をした場所も、元は移民街で治安が良くなかったらしいんだよね。そこに対して、ラ・ヴィレットという緑地であり、科学や音楽の専門施設や子どもの遊べる場所やアートに溢れた公園をつくって、街の雰囲気が変わっていっているんだよ。
公園内には運河が通っていて、建築であり彫刻でもあるオブジェが点在して、アートに溢れているんだよね。隣には、昔この連載でも取り上げた、ジャン・ヌーヴェルの「パリ・フィルハーモニー」という音楽ホールもある。あのヤバい建物を見るたびに落ち込むんだよね……どうやったら、あんなかたちに行き着くことができるのか、そして、どうやったら、あれを国が建ててくれるのか全くわからない(笑)。
▲フィルハーモニー・ド・パリ
宇野 昨日見たけど、あれはやばかった。変態的な建物だよね(笑)。
それにしても、今日はこの街をぶらぶらしながら、これから日本の都市はどうなっていけばいいのか、考えさせられたよ。だって、東京ってパリに比べて歴史の長さは負けるかもしれないけど、街や人の規模と財力では勝っているはずだからね。方向性として、例えばアメリカみたいに人口100万人いかない都市を全国につくって車で維持する分散型にするか、ヨーロッパみたいに大都市集中型にしていくのかの二択があると思うけど、今回のパリでは大都市で人が集積していることのメリットの方を感じられたね。
猪子 そんな街で大きい展覧会をやると、フランス中どころかEU中からメディアが来てくれるんだ。さっきはドイツのテレビ局が来たし、明日なんて100社以上の取材が来る。「ル・モンド」が「内覧会の前に撮りたい」とわざわざ取材に来てくれた大きな記事も出る予定だし、APF通信も大きく出してくれている。しかも今、そんなパリの街中に、チームラボのポスターが貼られまくっているんだよ。本当に優しいし、ありがたいよね。
宇野 単純に素晴らしいよね。例えばソウルと東京の文化状況とかが、距離的には全然離れていないのに全然共有されていないこととかを思うと、ちょっとこの街に嫉妬してしまうね。
デジタルアートは接続の快楽を生む
宇野 さて、ちょっと前置きが長くなってしまったけれど、ここから展示そのものについて解説してもらっていいかな。まず、入り口が二つあるよね。
猪子 「エキシビジョン」と「アトリエ」の二つに分かれているんだよね。世界の美術館って、教育的な意味合いで子どもがワークショップをするスペースがあることが多いんだけど、このアトリエというのはまさにそれ。入るとすぐに、『グラフィティネイチャー - 山と谷』の絵なんかを描く、お絵かきルームがあるんだよね。花や蝶、カエルやトカゲを描くんだ!
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(4)【金曜日配信】
2018-06-22 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。共同幻想と個人幻想の戦前的な短絡を乗り越えるため、対幻想の概念に立脚しながら戦後日本社会を肯定した吉本隆明。しかし、押し寄せるグローバリズムと情報化の波は、吉本の想像を超えた形で、ポピュリズムの暴走へと繋がっていきます。(初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )
八〇年代の吉本隆明をめぐる諸言説の半ば水掛け論的な混乱は、奇しくも今日のこの国の情報社会の混乱を予見するかのような相似を見せている。 今日のこの国の言論状況を見渡してみればよい。局所的には(当人の主観としては)啓蒙的な(しかし、実質的には陰謀論的な)左右の二〇世紀的なイデオロギーへの回帰があちらこちらで噴出し、そして彼らの一人相撲を嘲笑うかのように全体としては、「大衆の原像」に立脚したポピュリズムが蔓延している。 より具体的に述べるのなら、アカデミズム/ジャーナリズムのレベルでは左右の二〇世紀的なイデオロギー回帰が拡大し、あたかもかつての五五年体制下の保革の対立関係(を装った共犯関係)を再演している。 この共犯関係を下支えするのが、再三指摘するこの国の情報社会を覆い尽くしたソーシャルメディア(とりわけTwitter)上の「下からのポピュリズム」だ。週刊誌/ワイドショーに指定されたターゲットに対し、「正義」の側に立って石を投げる。「~ではない」という否定の言葉でつながり、自分たちは「まとも」な側にいると確認し、安心する。この国の言論空間はマスのレベルではこの「大衆の原像」に依拠した「下からの全体主義」と、専門家のレベルで演じられる左右の対立を装った共犯関係との住み分けが行われている。前者は国民的な大衆娯楽として実質を担当し、後者はその権威付けとして名目を担当する。そう、この国は戦後一貫して左右のみならず、上下のレベルでも棲み分けを――対立関係を装った共犯関係を――行って来たといえる。 左右の表面的な対立を装った実質的な共犯関係という「横の構造」と、この茶番を下支えする「縦の構造」――ジャーナリズム/アカデミズムの政治「ごっこ」と「大衆の原像」としてのメディアポピュリズムとの対立を装った共犯関係――戦後の進歩的な知識人を代表した丸山真男的なものと、「大衆の原像」に立脚して批判した吉本隆明的なものにこそ、もう一つの擬制(対立を装った共犯関係)が存在したのだ。そして、この二つの棲み分け、二つの共犯関係は今日においてもかたちを変えて反復されているのだ。
4 ハイ・イメージのゆくえ
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(3)【金曜日配信】
2018-06-08 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。前回に引き続き、吉本隆明『共同幻想論』の思想とそこに加えられた批判から、現在の情報化社会の陥ってしまった状況を整理します。 (初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )
3 吉本隆明と戦後消費社会の「隘路」
吉本自身が『共同幻想論』における(国民国家的な)共同幻想からの「自立」という問題設定が過去のものになったと述懐するように、二〇世紀末の消費社会の進行と情報環境の変化は、かつて吉本が前提としていた状況を根底から覆していく。
たとえば、上野千鶴子は六〇年代の状況を加味して『共同幻想論』を再解釈した上で、その「自立」の思想を近代的な核家族主義、さらには当時、上野が標的にしていた戦後日本の中流幻想を支えた「マイルドな家父長制」とも言うべき核家族中心主義に対し批判を加えている。
上野は吉本の提示した三幻想の区分に高い評価を与え、その上で(二〇世紀的な現実を前に)自己幻想が対幻想を経由することで、共同幻想に対して強い抵抗力を得るとする吉本の主張を支持する。しかし、その一方で上野は、『共同幻想論』における自己幻想の対幻想を経由した共同幻想への(自立を前提とした)接続、という吉本の主張が、彼の述べる「大衆の原像」と実質的に結びついていることを問題視する。
要するに、個人(自己幻想)はたとえば「この人のために生きる」(対幻想)を得ることで変容し、「天皇陛下/革命のために命を投げ出すべきだ」というイデオロギー(共同幻想)に取り込まれることはない。しかし、当時の日本において吉本が述べる「大衆の原像」として機能したのは、むしろ「妻子のため」に外で「七人の敵」と闘う、といった共同幻想の方だった。上野はこの吉本の理論と実践、文学と政治との間に発生した微細な、しかし決定的な差異に注目する。上野によれば、対幻想として機能するのは性愛関係であって、その延長線上に発生する家族は既に共同幻想を形成しているのだ。
〈自己幻想とは、「それ以上分割できない」個人、つまり身体という境位に同一化した意識の謂にほかならない。しかし意識は、身体のレベルをこえて同一化の対象を拡張することができる。たとえば「妻子のため」に外で「七人の敵」と闘う男は、家族に自己同一化している。「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬ兵士は、自己同一化の対象をオクニのレベルにまで拡大している。(略)しかし対幻想は違う。他者は「わたくしのようなもの」という類推を拒み、しかも「もうひとりの私」として私と同じ資格を私に要求してくる。(略)対幻想の中では、自己幻想は構造的な変容をとげている。自己幻想から対幻想への過程は、したがって不可逆であり、こうやって一度構造変容した自己幻想は、共同幻想からのとりこみに強い抵抗力を示す。それは共同幻想とはべつのものになっているからである。人は、対幻想と共同幻想というべつべつの世界をふたつながら持つことができる。だが人は、両者間を往復するだけであって、ふたつを調和させているわけではない(3)〉
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