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アニメとは「真実の器」である~私的アニメ概論|山本寛
2020-11-12 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第14回。今回は個々の作品考察から一歩離れて、山本さんにとって改めてアニメとは何か、そしていま「アニメを愛する」とはどういうことかについて考えます。
山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第14回 アニメとは「真実の器」である~私的アニメ概論
そもそも僕にとってアニメとは何か、を語る機会がこの連載でなかったことに気づいたので、今回は具体的な作品分析をすることなく、概論としてアニメを論じてみたい。 いつもよりさらに観念的・美学的な考察になるかも知れないが、容赦願いたい。
まだ業界に入りたて、木上益治氏に弟子入りしてすぐの頃だ。彼にこう訊かれた。 「君はどんなアニメを作りたいんだい?」 僕はこう答えた。 「作りたいアニメなんかありません」 呆気にとられた師匠に、僕はこう続けた。 「作らなければならないアニメがあるだけです。それが具体的にどんなものかはまだ解りません」。 狐につままれたような師匠の顔を今も覚えている。
僕にとってアニメへの期待は、「ロボットアニメをやりたい!」とか「異世界系!」「萌え!」とか、そんなジャンル論ではもちろんなく、欲望のイメージすらなく、ただ描きたい内容はその都度出る、というか、自然に顕れるものだと、当時から思っていたし、今も思っている。 それを僕は「真実」と呼ぶ。
もうついてこれていない読者のために念のため言っておくが、ここで言う「真実」とは「かくかくじかじかの理由で俺の言っていることは正しい!」とドヤ顔で説明するものではない。 むしろ僕自身が「発見」するものなのだ。 第9回で触れた「ピュシス」に近いものと言ってもいい。
真実は理論化や言語化できるものではなく、体験するものだ、と言ったのはかつての名指揮者、セルジュ・チェリビダッケだが、僕も同様の理由でアニメという職を選んだ。 まぁ選んだ当時(中学三年)はそこまで深くは考えず、ただ無我夢中で憧れていただけなのだが、大学に入って美学・芸術学を学んで、自分の道は間違っていないと確信した。 きっかけとなったのが、哲学者・ヘーゲルが提唱した「芸術終焉論」である。 タイトルの通り「芸術はもう終わりだ!」と宣言するその論には面食らったが、内容は以下の通りである。
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『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に見る「愛への視線」~「京アニ」現代史|山本寛
2020-10-15 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第13回。今回は、山本さんの古巣・京都アニメーション制作の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』をめぐる分析です。近年の京アニ作品の作画技術の結晶と言われる本作について、視線やモチーフ演出の面から検証します。
山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第13回 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に見る「愛への視線」~「京アニ」現代史
『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(2020)が公開された。 この作品について書こうか、書くまいか、ずっと悩んできたのだが、どこかでこの作品を含めた「京アニ現代史」を、学術的には到底無理にせよ直観的に捉えることは自分の今後の仕事にとっても重要だと思い、TVシリーズ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(2018)と共に、ここに記すことに決めた。 なお繰り返すが、僕は近年の京アニ作品をほとんど見ていないので、少なくともアニメ史的価値のある文章は書けないと断言しておく。
まずこの作品は、言わずとも解るはずだが、「手」のドラマのはずである。 手を失った主人公が「手」を、換言すれば「身体性」を取り戻す物語だ。 「手の映画」と言えばロベール・ブレッソンを思い出すのだが、それを本作が意識しないはずがない。 「手」がいかに語るか、顔の芝居以上に、そこを注目しない手はない。
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『日本沈没2020』をカルトムービーとして観る~「正気」と「狂気」との狭間|山本寛
2020-09-14 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第12回。今回は、Netflixオリジナルアニメシリーズ『日本沈没2020』をめぐる考察です。小松左京の原作を大胆に再解釈し、東日本大震災以降のリアリティで映像化した本作を、山本監督はどう観たのか?
山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第12回 『日本沈没2020』をカルトムービーとして観る~「正気」と「狂気」との狭間
『日本沈没2020』(2020)は、正直観るつもりがまったくなかった。 しかし、やはり先の震災を想起させる要素が多くあるらしく、僕のファン界隈でそこに違和感を持つ人が少なからず出始めたので、知りませんではまずいなと思い、観た。 ああ、こりゃアカン……。 最初はただ呆れた。
しかし、巷によくある批判としての「震災に対する冒涜」「反日」という感想とは、何か違う印象を持ち始めた。 そして気が付けば、全話完走してしまっていた。
あれれ、こんなに惹き付けられるとは? どういうことだろう? ある種の懐かしさまで感じた。
そうか、『日本沈没2020』は、カルトムービーとして観ればかなりのケッサク(傑作とは書かない)なのだ。 カルトムービーというのは、江戸木純の定義する「サイテー映画」とほぼ同義と考えていただいていい。 僕らは大学生の頃「バカ映画」とも称していた。
どの名称にしても穏やかではないが、それは『日本沈没2020』という作品に対する、情け容赦ない否定には必ずしも当てはまらないのが大きなポイントだ。むしろリスペクトの要素さえある。 この「狂気」と「正気」の寸分しかない境界に奇跡的に誕生したとも言える、希有な存在『日本沈没2020』について語ってみたい。
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『魔法少女たち』に込めるもの~「希望」により抑圧されたアニメは|山本寛
2020-08-11 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第11回。今回は、目下PV制作中の新作『魔法少女たち』のコンセプトに関するセルフプレビューです。一貫して「日常」を描き続けてきた山本監督が、いま改めてファンタジーに臨む真意とは?
山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第11回 『魔法少女たち』に込めるもの~「希望」により抑圧されたアニメは
現在、PV(パイロットフィルム)を制作中の新作『魔法少女たち』だが、多分に漏れず所謂「コロナ禍」の煽りを受け、2か月の完全な作業中断の末、その後もスケジュールの切り直しなど、苦戦を強いられている。 フィルム自体は8月頃には完成する予定だが、今度は予算面に限界が出てきた。 完全自主制作のこの作品はまとまった出資者がいない。やむなく、2回目のクラウドファンディングを行うことになった。 以下、URLを載せておくので、興味のある方は是非ご支援願いたい。
『魔法少女たち(仮)』制作中のPV、追加予算集めさせてください!
宣伝はこのくらいにして、やはりクラウドファンディングで集められる額には限界がある。 ましてや他のコンテンツに比べても巨額の制作費がかかるアニメでは、全額クラウドファンディングで賄うことは到底不可能だ。 もちろん本編制作の営業、製作組成も同時並行で進めていたのだが、これもやはり「コロナ禍」で止まってしまい、仕切り直しの状態だ。 恐らく今はほとんどの業種・業態で同じような苦境が想像されるので、ひとり被害者ぶるつもりもないのだが、しかしこれはキツい。
まぁ「コロナ禍」はひとまず置いておいて、ところでこの『魔法少女たち』についてだが、最初のクラウドファンディングで宣言した通り、きっかけはあの「京アニ事件」である。 一応そのURLも載せておく。
山本寛新作アニメプロジェクト『魔法少女たち(仮)』のPV、作らせてください!
この時の「声明文」は、事件直後なのもあって、今読むとかなり過激な文章となっている。 しかし、その時の想いは、今も変わっていない。
「京アニ事件」がアニメ業界と現代社会にどれだけの禍根を残したかについては連載第6・7回で分析したのでそれを読んでほしいのだが、さてその分析をどう『魔法少女たち』に盛り込むのか? 僕はここで「ファンタジー」の機能に着目した。
「ファンタジー」とは、言わば「たとえ話」だ。 現実に対し直接的な批判や風刺が難しい時(政治情勢など)、ファンタジーは雄弁となる。 宮﨑駿は『風の谷のナウシカ』を生み出した時、当時のバブル期全盛の浮かれた世相には直接的な批判を加えられないと判断し、ファンタジーの力を利用したという。 結果、必ずしも彼の本意通りではなかったにせよ、環境問題他多くのテーマが『ナウシカ』を通して世間に広く顧みられるようになった。 同様のことを海外ではアーシュラ・K・ル=グウィンやミヒャエル・エンデなどのファンタジー界の巨匠たちが実行しており、人種問題や文明・社会批判などの要素を「たとえ話」として描出している。
さて、僕がどうして今「魔法少女」を選んだのか? これまでの創作は『Wake Up, Girls!』(2014~2015)や『薄暮』(2019)など、ファンタジー要素皆無の現実・日常路線の作品が続いた。 それは、二作とも東日本大震災を「批判」することではなく、むしろそのまま「語り継ぐ」必要があると判断したからだ。 だから被災地の様子もそのまま絵に起こし、原発問題も現実問題として登場人物の中に設定した。 これはつまり高畑勲の言う「現実を描き起こす」機能として、アニメを活用したのだと言える。因みに彼も『火垂るの墓』(1988)では(若干のファンタジー要素はありつつも)戦争の惨状を徹底したリアリズム志向で描いている。
過去の悲劇や災禍をまずはそのまま「伝え残す」、そのためには当然、ファンタジーよりリアリズムが相応しいと、僕は考える。
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「聖地巡礼」とは~アニメは地域に何をもたらしたか? | 山本寛
2020-07-09 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第10回。今回取り上げるのは、いまやアニメビジネスの定番の手法となった「聖地巡礼」ムーブメントについてです。エポックとなった『らき☆すた』から13年、地域に様々な恩恵と軋轢をもたらしてきたアニメ発のコンテンツツーリズムの成り立ちと現状、そして功罪について、仕掛け人の立場から振り返ります。
山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第10回 「聖地巡礼」とは~アニメは地域に何をもたらしたか?
「聖地巡礼」という言葉は、今やもう当たり前のように使われているように思える。 僕はこのテーマで既に10回近く講演をさせてもらっているが、しかし地方の一般市民に「聖地巡礼って宗教のことだと思ってる人?」と訊くと、お年寄りを中心にまだ手が上がる。
今回は数多い講演の経験から、改めてこの「聖地巡礼」の意義を問いたいと思う。 ただし、「聖地巡礼」の定義については、講演ならば最初に説明するところだが、この稿では省略させていただく。
2016年、「アニメツーリズム協会」が設立され、いよいよアニメ業界総出で「コンテンツツーリズム」=「聖地巡礼」を盛り上げようとしている、かのように思える。 『君の名は。』(2016)では、舞台とした岐阜県飛騨市で1年間だけで185億円もの経済効果をもたらしたのだから、ビッグビジネスのチャンスを狙うのも無理はない。
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『風の谷のナウシカ』を読む~アニメの「黄昏」に立つ僕たちへ | 山本寛
2020-06-09 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第9回。今回取り上げるのは、原作漫画版の『風の谷のナウシカ』です。アニメ映画版とは一線を画す、宮﨑駿の「思想」が凝縮された不朽の名作は、コロナ禍を経たいま、どのように読み返せるのでしょうか?
山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第9回 『風の谷のナウシカ』を読む~アニメの「黄昏」に立つ僕たちへ
アニメで「思想」が語られなくなって、もう随分と経った。 もちろん宇野常寛氏ら、何人かはまだ気を吐いている。しかしアニメ専門誌に載るのは日銭稼ぎの軽佻浮薄な文章ばかりとなった。
第8回でアニメの「モダニズム」を説明したが、僕はまだアニメに「モダニズム」が残っていることを信じている。 ある意味、今までの僕の論説では「時計の針を元に戻す」作業なのかも知れない。 しかし、たとえ時代錯誤であろうと、昨今のアニメ業界の荒廃ぶりを見るに、道なき道を進まなければならない。そう覚悟した。
今回は僕が恐らく、アニメに「モダニズム」を見出しただろう最初の作品、『風の谷のナウシカ』(徳間書店)について語ろうと思う。 ただし、アニメーション映画の方ではなく、原作漫画の方だ。 ご存知の通り、原作と映画とは似て非なる別物だ。
尚、僕は普段宮﨑さんのことを心の師として「御大」と称しているが、この文章では敢えて客観性を持たせるため、敬称略とさせていただく。 加えて、僕にとっての言わば「聖書」に対して批判的な総論を行うなんてとんでもない話で、仮に真剣に書こうと思えば本一冊分にはなるはずなので、今回に限っては雑感に近い文章になることをご容赦願いたい。
さて、今の若者、特に中高生で『ナウシカ』を読んだことのある人がどれくらいいるだろうか? 僕は悲観的になるしかない。
僕にとって『ナウシカ』は大袈裟ではなく、中学高校の頃から「聖書」のようなものだった。それだけ僕の精神史には決定的な作品となった。 既に『天空の城ラピュタ』(1986)で宮﨑駿を「発見」し、『風の谷のナウシカ』(1984)の映画を経て原作本に入ったが、その衝撃は凄まじいものだった。 描かれていることの深みが、重みが、段違いに違った。 人間とは、自然とは、世界とは、生とは。 すべての根源的な疑問が僕たちに突き付けられているような気がした。
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すべては『エヴァ』から始まった~『エヴァンゲリオン』を巡るカラー・ガイナックスの25年史 | 山本寛
2020-05-19 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第8回。今回取り上げるのは、新劇場版完結編の公開を控える『エヴァンゲリオン』について。日本アニメの転換点となった巨大なインパクトの一方で、以降の歴史を狂わせた拭いきれない負の側面とは?
山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第8回 すべては『エヴァ』から始まった~『エヴァンゲリオン』を巡るカラー・ガイナックスの25年史
2019年の年末、「ガイナックス」の社長が逮捕された。僕には寝耳に水のことで、え、山賀(博之)さんが!?と一瞬戦慄したが、件の社長は、どこの誰だかまったく解らない人だった。ここに改めて、ガイナックスという会社が抱え続けてきた「闇」を感じた。
その直後、現「カラー」の庵野秀明監督が手記を発表した。
【庵野監督・特別寄稿】『エヴァ』の名を悪用したガイナックスと報道に強く憤る理由
そこには赤裸々に、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~)を巡る、庵野監督を含めたガイナックス経営陣・メインスタッフの激しい葛藤が語られている。
とうとう『エヴァ』が泥仕合に巻き込まれていたことが白日の下に晒されてしまったのだが、僕はその時既に、「さもありなん」と思っていた。
僕は既に、この空気に気付いていた。
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山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法 第7回 京都アニメーションとオタクの12年②~パンドラの箱は開いた
2020-04-07 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第7回。昨年7月の京アニ放火事件の惨劇は、何によって引き起こされたのか。その悪意の根源に、自身が手がけた『涼宮ハルヒの憂鬱』が解き放った「闇」があることが、深い自戒のもとに告発されてゆきます。
この連載でも繰り返し取り上げているが、僕の2016年7月の講演「アニメ・イズ・デッド」で、いろんな作品のタイトルを槍玉に挙げ、アニメの「ポストモダン化」(連載第5回参照)を分析したのだが、その中に敢えて入れなかった作品がある。 『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006)である。
「俺のこの仕事だけは、時代の波に飲まれない、むしろそれに立ち向かうものだったんだ!」と、当時の僕は言いたかったのだろう。信じたかったのだろう。
しかし、それは惨めな欺瞞に過ぎなかった。
「京アニ事件」の直後、下の記事が出た時、僕は茫然となった。
「”アニメオタク差別”を変えた京都アニメーションの偉業と追悼と。」https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190720-00134932/ 京都アニメーションは、私たちアニメオタク(―あえて私たちと複数形で記するのは、筆者である私自身がアニメオタクのひとりであるからに他ならない)にとって、”アニメオタク差別”を変えた、つまり”アニメオタク差別”を超克する分水嶺を作った社として歴史に名を刻まれることになったアニメ製作会社である。その分水嶺とは、間違いなく2006年に京都アニメーションが製作した『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズである。 京都アニメーションは、端的に言えばこの『涼宮ハルヒの憂鬱』で大ブレイクし、日本はおろか世界に冠たるアニメ制作会社としての地位を築いた。そして『涼宮ハルヒの憂鬱』を基準として、「それ以前」「それ以後」で、アニメオタク全般に対する社会の許容度は劇的に変革されたのである。
僕はこの記事を読んだ時、今までの持論が明らかに間違っていたのだと確信した。 そう、僕は間違いなく「共犯者」、いや、「主犯」に近いのだと。
この連載の過去2回(第5回・第6回)を読んでいただいた方々には、もうお解りだろう。 「アニメオタク差別」を克服したオタクたちが、その後どうなったのか?
アニメを攻撃し始めたのだ。
この文章をしれっと書いた古谷経衡氏のような盲目的なオタク(同様のことを日野百草氏も著書『ルポ・京アニを燃やした男』で書いている)を世に放ち、京アニ事件が起きてもただひたすら被害者面して自己憐憫に勤しむような連中を増産したのは、彼らの言うところによると、『ハルヒ』だったのだ。
では『ハルヒ』で何が起こったのか? 何を起こしたのか?
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山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法 第6回 京都アニメーションとオタクの12年①~オタクがアニメを壊した
2020-03-11 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第6回。山本さんにとって、絶対に忘れ去られることの許せない古巣・京都アニメーションへの放火事件とオタクという存在の頽廃について、事件から8ヶ月を経たいま、改めてかつての当事者の視点から語り始めます。
この連載をPLANETS編集部から依頼された時、それは2019年9月だったはずだが、書く内容を打ち合わせした際、僕は真っ先に「京アニ事件について書きたい」と強く提案した。
結果それには難色を示され、今の体になるのだが、2020年2月現在、僕にはますますいろんな感情、特に違和感が積もっている。
なんだこの空気は? なんだこの触れちゃいけない感じは? PLANETSでさえ及び腰だ。
お前ら、この事件を歴史上から消し去るつもりか?
僕はずっと公式ブログを通じて「触れずにいられるものか!」とひとり怪気炎を上げていたが、この連載でもしっかりと語らせてもらう。
まずは、「京アニ事件」を、絶対風化させてはならないから。 そして、この事件が間違いなく、日本アニメ史・オタク史が「道を間違えた」末のひとつの大きな結果だからだ。
念のため申し上げておくが、僕は1998年3月~2007年6月、9年4ヶ月間にわたって、京都アニメーションに正社員として在籍していた。
2019年7月18日、僕は大阪に向かっていた。 前の月から公開されていた拙作『薄暮』が大阪・京都でも上映され、半ばゲリラ的だが、劇場のポスターにサインでもさせてもらおうと考えていた。 その前々日には宇野さんの番組にも出演し、とにかく『薄暮』を宣伝しないと、と焦っていた。
JR中央線で東京駅に向かっていた時だ。何気にTwitterを覗いていたら、 「ヤマカンが京アニに放火した」
また失礼なことを書く奴がいるもんだなと思っていたが、ちょっと引っかかった。 放火?
その瞬間、心がゾワッとしたことを今も覚えている。
早速検索をかけて、画像を開いて、凍り付いた。 これはボヤレベルの話じゃない、大炎上だ。 1スタ(第1スタジオ)が燃えている。
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山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法 第5回「萌え」とは何か?~アニメが囚われ続ける呪縛
2020-02-12 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第5回。今回はこれまでの作品分析から視点を変えて、1990年代初頭に遡る「オタク」と「萌え」の文化史的な省察から、それが現代におけるアニメ文化の危機にどのように帰結していったのかを考えます。
「オタク」という言葉(とその定義)同様に、僕らアニメに関わる人間を長年悩ませてきたのが「萌え」という言葉だ。 思えばこの言葉が生まれた時から、アニメ界隈では様々な「不文律」のようなものが崩れ、無法状態になり始めた(つまり僕の言う「ポストモダン化」)ように思う。 それは僕が度々引用する岡田斗司夫氏の2006年の講演「オタク・イズ・デッド」でも見られることだ。 岡田氏はここで「萌え」という概念が「オタク」という文化民族を崩壊させた、と(世代論を踏まえながらだが)断言している。
ただそう言い切る前に、「オタク」とは?「萌え」とは?という定義付けが、今途方もなく曖昧模糊になりすぎていると僕は考える。 今回は岡田氏他文化民族・オタクを苦しめ続けたと言っても過言ではない「萌え」について考えてみたい。
「萌え」に一番近いと思われる言葉は「カワイイ」だろう。 つまり男性オタクが美少女などに興奮して使う言葉だった。 それが次第に美男子にも向けられ、併せて「異性に欲情している状態」と考えられるようになった。
ここまでは誰も異論がないだろう。 しかし、ことはそれでは済まない。
ところで、僕は「萌え」の誕生の瞬間を目撃している。 正確には目撃ではないのだが、僕が大学に入り、アニメーション同好会で活動するまで、「萌え」という言葉はなかった。
「萌え」の語源に関しては諸説あるようだが、僕は『セーラームーンS』(1994)の土萠ほたるが最有力だと考える。 僕が記憶する「萌え」の誕生とちょうど同じタイミングだからだ。 あと、彼女を評して「萌え!」とオタク仲間が騒いでいたのも覚えている。 先述の岡田氏は『恐竜惑星』(1993)のヒロイン・萌だとしているが、この辺ははっきりしないので断定しないでおこう。しかし、間違いなくこの時期、「萌え」は生まれた。
それから十数年して「オタク・イズ・デッド」に至るのだが、そこで岡田氏は「萌え」が良く解らない、と告白している。 そして同時に、「萌え」がオタク世界に浸透していく過程への違和感にも言及している。 「萌え」は、あまりにも同調圧力を強いるものだったのだ。
岡田氏いわく、
たとえばミリタリーファンがいますよね、彼らは「俺ティーゲルⅠのこととか良く解らないんです」って言った時に、「岡田はティーゲルⅠも解らないからオタクじゃない!」とは、絶対言わないんですね。なぜかって言うと、ミリタリーファンには常識があるからです。「俺たちはミリタリーファンであって、ミリタリーの世界の中ではティーゲルⅠが解らなかったらお前何だ!?って話になるけれど、あんたはその世界じゃない、同じオタクの住人でも、あんたはジャンル違いだから解らなくて当たり前だよな」っていう常識が働く。ところが、「萌えが解らない」と言ったら、「え!? お前オタクなのに萌えが解らないってなんで?」って話になっちゃう。 (語尾など若干の修正有)
彼はオタクという「大陸」に漫画・アニメ・ゲーム・ミリタリー・鉄道など、様々なファンという「人種」がいて、それぞれの「人種」が過度に干渉しない、排除しないようなイメージを説明する。 さながらアメリカ合衆国のようなものだろう。
ところがそこに突如「萌え」族が押し寄せた。 既存の「人種」たちはパニックとなった。
「萌えが解らないならオタクではない!」 これ、僕が業界に入ってから徐々に言われ始め、困ったものだ。 だから最初の頃は薄気味が悪く、「萌え」と呼ばれるものを避けてファミリー向けやギャグなどの仕事をしていたものだ。 今では「ヤマカンは『萌え』で食わせてもらってきたのに!」と言われるようになったが、そもそも「萌え」に手を出したのはほんの数作だ。 僕のキャリアで言うと半分も遥かに満たないだろう。
【新刊】宇野常寛の新著『遅いインターネット』2月20日発売!
インターネットは世の中の「速度」を決定的に上げた一方、その弊害がさまざまな場面で現出しています。世界の分断、排外主義の台頭、そしてポピュリズムによる民主主義の暴走は、「速すぎるインターネット」がもたらすそれの典型例といえます。インターネットによって本来辿り着くべきだった未来を取り戻すには今何が必要なのか、提言します。
宇野常寛 遅いインターネット(NewsPicks Book) 幻冬舎 1760円
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