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【対談】三宅陽一郎×中川大地 ゲームAIは〈人間の心〉の夢を見るか(後編) (PLANETSアーカイブス)
2018-04-16 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは、ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんと、評論家・編集者の中川大地さんの対談の後編をお届けします。日本のゲームとゲーム批評は、なぜダメになってしまったのか。圧倒的な技術力と資金力で成長を続ける欧米のゲームに、日本のゲームが対抗しうる方策とは? 『人工知能のための哲学塾』の三宅さんと『現代ゲーム全史』の中川さんが、日本のゲームと人工知能に秘められたポテンシャルについて語ります。(構成:高橋ミレイ)※この記事は2016年11月1日に配信した記事の再配信です。 ※この記事の前編はこちら。
【イベント情報】
中川大地さん出演 日本型スポーツの過去・現在・未来
日時:2018年4日24日(火) 19:00~21:30
会場:専門学校東京ネットウエイブ ガオ君シアター(東京都渋谷区千駄ヶ谷1-8-17)
料金:前売2,500 円/当日3,000 円(東京ネットウエイブの学生は無料)
詳細はこちら。
【書籍情報】
▲中川大地『現代ゲーム全史――文明の遊戯史観から』
▲三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』
ゲーム論壇の衰退とゲーム実況の登場
三宅 近年、日本のゲームが衰退していると言われています。その責任はもちろん開発者自身にありますが、ゲームを批評する言論の力の弱さも、原因の一端にあると思います。ゲーム産業が盛り上がった時期には、ゲームを語る文化も同時に盛り上がるのが常で、そうした時代には、ゲーム批評を担うスターが現れます。当時、『ゲーム批評』という雑誌がありましたが、今の時代にもそういうメディアや批評家の存在は必要です。
その点、中川さんの『現代ゲーム全史』は、コンピューターの黎明期から現代の『Pokemon GO』までを網羅した、ゲームの歴史を俯瞰するマップとして使うことができる。僕はこのマップを足がかりに、ゲーム批評を再興できるのではないかと期待しています。批評が盛り上がって言論が面白くなると、ゲーム開発の現場もエキサイティングになります。そうしてユーザーとゲーム開発者が高いレベルで応答できるようになれば、もう一度、「文化としてのゲーム」を取り戻せるかもしれません。今のメディアは売り上げばかりを報じていて、商業色が濃すぎますからね。
中川 ありがとうございます。ゲームがコンテンツカルチャーとして伸びていった2000年前後は、批評の文脈でゲームを語る人たちが、テキストサイト界隈で記事を書いていました。ところが、ちょうど三宅さんがゲーム業界に入った頃から、そういった論壇がどんどん弱くなっていった。日本のゲーム産業の停滞と共に、ゲームを批評的に語るモチベーションも衰退していって、2000年代後半に、その隙間を埋めるものとして現れたのが「ゲーム実況」でした。ニコニコ動画内で、ゲームをプレイしている動画を実況付きで放送する。このゲーム実況の登場によって、かつて批評の対象だったゲームが、ネット上のおしゃべりのネタとして共有されていきました。
ゲーム実況でプレイされるゲームは、すでに多くの人が共通体験を持っているレトロゲームとか、あるいは『青鬼』や『ゆめにっき』といった「RPGツクール」などで制作されたフリーゲームです。あの辺の作品は、スーパーファミコン時代のゲームシステムを踏襲しながら、ストーリーテリングの部分に工夫を加えたものです。基本的にファンコミュニティが有する共通のコミュニケーションコードに即したかたちでプレイヤーの心情を揺さぶる手法で、ゲームそのものの本質としては新しい体験が生み出されていないし、求められてもいないように見えます。
三宅 批評の役割のひとつは、その分野を他の分野とつなぐことです。例えば、ゲームと16世紀頃の絵画、あるいはゲームと別の産業のプロダクト、といったように、開発者が気付いていないような、他分野の事柄と関連づけることで新しい可能性を開拓します。確かに、ゲーム実況もこれはこれで興味深い文化なのですが、内輪の盛り上がりだけで終わってしまうのが難点です。
なぜ日本のゲームは衰退したのか
三宅 日本のゲームの衰退の背景には、コンピューターサイエンティストの少なさがあるように思います。ゲームプログラマーとして一流の人はたくさんいますが、ハイパフォーマンスのマシンに向けたゲームを制作する際に、コンピューターサイエンスの土壌の弱さが露呈してしまいます。その結果、相対的に欧米のゲームが伸びて、国内のゲームとその批評が衰退してしまうという連鎖が起きています。
中川 日本のゲーム文化がピークに達した2000年代初頭ぐらいまでは、それまで蓄積したシステムを使って、いかに先進的な表現ができるかを突き詰めていくような試みがありました。ところが本格的な3Dエンジンを使う時代に入ると、技術力の不足も相まって、日本のゲーム業界全体が目的や発想力を失ってしまい、語るべき新しさを持ったゲームが現れなくなってしまったように思います。
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ネットはV系の何を変えたのか?バンギャル漫画家と語るファンとバンドの変化・後編(市川哲史×藤谷千明『すべての道はV系に通ず』第13回)【不定期連載】
2018-04-06 07:00550pt
80年代以降の日本の音楽を「V系」という切り口から問い直す、市川哲史さんと藤谷千明さんの対談連載『すべての道はV系に通ず』。後編では、TwitterなどのSNSの普及が、ヴィジュアル系カルチャーにもたらした変化について、ゲストの蟹めんまさんと一緒に考えます。(構成:藤谷千明)
今のバンギャルは解散を恐れてお布施する
市川 めんまさんがいま中高生だったとしたら、バンギャルになっていたと思う?
めんま なっているとは思うんですけど、現代のバンギャルって私が中高生の頃のそれより、ずっと大変だと思うんですよ。
市川 あ、そっか。現代の子たちは〈商品を買うこと〉をまず、要求されてるもんね。
めんま そうなんですよ。「買わなきゃいけない」なんて義務はもちろん無いし、みんな好きで買ってるんですけど、「買わないと解散しちゃうんじゃないか」みたいな〈圧〉は私たちの頃よりずっとあると思うんですよ。「バンギャルはこういう気持ちでCDを買ってます!」ってひとくくりにするのは良くないんですけど、明らかに90年代とは空気が違います。
市川 圧かぁ。V系黄金時代だった90年代と較べれば、明らかにバンギャル一人ひとりに対するバンドの依存度は増したと思うよ。たしかに。
藤谷 分母が減ってるんで、それは仕方ないとは思うんですが。だってジャンル問わず、ミュージシャン自身が「活動を続けたいからCDを買って欲しい」「チケットを買ってライヴに来て欲しい」ということを公言する機会も増えましたし。
めんま 私が中高生の頃は、自分の好きなバンドが「(売れなくて)解散するかも」って考えたことなかったのに。現代で中高生バンギャルでいるということは、思春期に好きなバンドの解散をたくさん経験するってことなので、きっと辛いだろうなぁ。
藤谷 たとえば90年代のブーム期の解散の理由って、〈売れないから〉というより〈売れ過ぎて〉解散みたいなケースの方が印象に残っています。人気が出て急激に環境が変わって、いろいろなものが狂ってしまった上での空中分解ってパターン。
めんま 私は「人気過ぎるとミーハーなファンがつくから嫌だ」とか、「売れると誰かがソロ活動始めてバンド活動に支障が出るし嫌だ」とか本気で思ってた世代ですね。いまそういうバンギャルさんは、年齢問わず見なくなりました。
藤谷 インディーズならともかく、メジャー・デビューしている人たちが「CDを買わないと活動が立ち行かなくなりますよ」なんて言う状況、当時は考えたこともなかったんです。メジャー・デビュー後のインタヴュー記事で、皆が「外車買った」って話をしていた時代……(←遠い目)。
市川 V系に限った話じゃないよ。もうバンドブーム以前から続く、日本人のいじましい伝統だから。売れるとまず、収入が増えます。収入が増えると、バンドに大した貢献をしてない奴に限って外車買ったりするんだよ。大体、ドラマーとかベーシストに多い現象なんだけども(失笑)。するとそいつはさらに仕事をしなくなり、にもかかわらず「(印税が欲しいから)俺にも曲を書かせろ」だの「バンドは全員平等だから(曲を書いてようが書いてなかろうが)印税は均等割りだ」だの「表紙は全員写真、インタヴューは全員同じページ数で」だのと権利ばかり主張し始めて、あとはモメるだけとくらぁチョイナチョイナ。
藤谷 それはそれで大変でしょうけど! でもそれがゼロ年代以降、「もっと売れてたら解散しなかった」みたいなことを公言するバンドが増え始めるようになったんです。
市川 鉄道の廃線とか飲食店の閉店とか動物園や遊園地の閉園とか、営業終了をアナウンスしたらバーっと群がる身勝手な客を見て、「普段から来てくれていれば、もっと続けられたのに」みたいなね。
藤谷 そういう声がステージの上の人から聞こえるようになったのは、CDバブルが終わったゼロ年代からかなって思いますね。
SNSの普及でバンドマンは弱くなった?
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ネットはV系の何を変えたのか?バンギャル漫画家と語るファンとバンドの変化・前編(市川哲史×藤谷千明『すべての道はV系に通ず』第12回)【不定期連載】
2018-04-05 07:00550pt
※本記事は2018年4月5日7時に公開されましたが、弊社の設定間違いにより、ご購読者の皆さまへメールでの配信ができておりませんでした。ご購読者の皆さまへご迷惑をおかけし、メールでの配信が大変遅くなってしまいましたことを深くお詫び申し上げます。【2018年4月6日20時追記】80年代以降の日本の音楽を「V系」という切り口から問い直す、市川哲史さんと藤谷千明さんの対談連載『すべての道はV系に通ず』。今回は、バンギャル漫画家の蟹めんまさんをゲストに、ヴィジュアル系ブームのピークでありネット黎明期でもある90年代後半のファンコミュニティについて語ります。(構成:藤谷千明)
1999年のメジャーデビューラッシュ
藤谷 今回はゲストに『バンギャルちゃんの日常』シリーズで知られる、バンギャル漫画家の蟹めんまさんをお呼びして、「90年代からゼロ年代にかけてのV系シーン・バンギャルの変化」について伺いたいと思います。 要するに、90年代以前は情報がいわゆるトップダウン型でバンドが発した情報をメディアを通してファンに届けていた。もちろんファン同士のミニコミ活動や私設ファンクラブ活動もありましたが、それを広める手段は限られていました。 それがゼロ年代以降、iモードに代表されるモバイルインターネットの浸透から、ファン、バンギャル側も積極的に発信できるようになりました。バンド側もバンギャルのネタを取り入れるようになって……。例を挙げると人格ラヂオの“バンギャル症候群”、つまりファンの動きが創作にも影響を与えるようになったじゃないですか。ゴールデンボンバーの“†ザ・V系っぽい曲†”などです。そういう時代の境目だったのかなと思います。
市川 はいはいはいはい(←遠い目)。
藤谷 なんですかその〈心ここにあらず〉感は。
市川 だってV系最前線の現場からは撤退してた時期だもん♡
藤谷 (無視)そういうとてもとても重要な過渡期である1999年から2003年の間、私は自衛隊にいたので現世の出来事は雑誌とネットでしか知らないんですね。
市川 〈現世〉って何?
藤谷 いったん入隊したら届け出無しでは外に出られませんから、もう世間から隔絶されてるんです。なので、その時期に既にバリバリにバンギャルをやっていた蟹めんまさんをお呼びしたというわけです。めんまさんは98年前後のヴィジュアル系ブーム直撃世代ですよね。 蟹めんま(以下・めんま):はい。ヴィジュアル系に目覚めたのがまさにそのへんです。お呼びいただけて嬉しいです。
市川 めんまさんは藤谷さんが彼岸に幽閉されてたころ、いくつだったの?
めんま 99年に14歳、中学2年生でした。99年ってすごい年なんですよ。1月から7月くらいまでヴィジュアル系バンドのメジャー・デビューが続いたから、怒濤のリリースラッシュで。まず1月20日にDir en greyがメジャー・デビューして……。
市川 ちょっと待ちなさい。日付まで憶えてるのかあんたは。
めんま 普通憶えてません?
藤谷 (黙って頷く)。
市川 ひーっ。
めんま 5月にはJanne Da ArcとLAREINEが、7月にRaphaelがメジャーデビューしたんです。当時はまだお小遣い世代だから、やりくりするのが大変でした。一度に全部買う財力は無いので、CDショップの店員さんに取り置きをお願いしたり(苦笑)。1999年は《ノストラダムスの大予言》ってあったじゃないですか。私はそれ1月から7月までのリリースラッシュのことだと思ってたんです、本当にお財布が破滅したんで。
市川 ばははは。大丈夫かこのひと。
▲『バンギャルちゃんの日常』4巻©KADOKAWA
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福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』終章 「エフェクトの美学」の時代に【毎月配信】
2018-03-20 07:00550pt
文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。技術が「ジャンル」として確立されるには、そこに精神が宿らなければならない。最終回となる今回は、特撮を文化史として見つめ直してきた本連載の意義を改めて振り返ります。
終章 「エフェクトの美学」の時代に
技術に宿る精神
特撮(特殊撮影)であれ、アニメーションであれ、もとは技術の名前である。この技術が「ジャンル」として確立されるには、そこに精神が宿らなければならない。そして、ジャンルの精神は一つの魂の独白からではなく、複数の魂の対話から生み出される。とりわけ特撮の「精神」は、円谷英二からその息子世代への伝達を抜きにして語ることはできない。
ふつう世代論はもっぱらその世代に固有の体験を問題にする。それが書き手の私的体験と接続されると、しばしば他の世代にとっては退屈極まりない平板なノスタルジーに陥る(例えば、小谷野敦の『ウルトラマンがいた時代』はその典型である)。それに対して、私はむしろ世代と世代のあいだ、すなわち先行世代から後続世代への文化的な相続=コミュニケーションこそが重要だという立場から論を進めてきた。第三章で述べたように、もともと玩具作家であった円谷英二は、『ハワイ・マレー沖海戦』という「模型で作った戦争映画」において、ミニチュアの戦艦を戦時下の宣伝技術として利用した(その意味で、おもちゃの政治性は馬鹿にできない)。そして、ウルトラシリーズの作り手たちはこの「父」の遺産を改変しながら「子供を育てる子供」として巨大ヒーローと怪獣のドラマを作り出したのだ。
もとより、二〇世紀の総力戦体制とはエンターテインメントを含むあらゆる領域を戦争に関わらせ、戦争の外部を抹消するシステムであり、円谷英二の特撮も結果的にその一翼を担った。ただ、ここで重要なのは、映像のモダニズム的実験としての特撮に挑戦した円谷の仕事が、大人のプロパガンダだけではなく子供のエンターテインメント(おもちゃや模型)とも接していたことである。アメリカのレイ・ハリーハウゼンやジョージ・パルの仕事が示すように、本来ならば特撮が子供向けのエンターテインメントに傾斜する必然性はない。にもかかわらず、日本の特撮の「精神」は子供を触媒として成長し、やがてウルトラマンという不思議な巨人を生み出した。この子供への傾斜にこそ戦後サブカルチャーの特性がある。
私はここまで、戦前と戦後のあいだのメッセージ的不連続性とメディア的連続性に注目してきたが、それはウルトラシリーズという「子供の文化」に照準したことと切り離せない。大人の世界においては、戦後の日本は戦前の日本を反省し、それとは別の人格に生まれ変わらなければならなかった。しかし、円谷以来の子供向けのサブカルチャーは、戦前と戦後の溝を飛び越えて、軍事技術を映像のパフォーマンスとして娯楽化し、戦争の快楽を享受し続けた。特にウルトラシリーズの作り手たちはメッセージの次元では「戦後」の民主主義を左翼的に擁護しつつも、メディアの次元では「戦時下」のプロパガンダを右翼的に再現した。この種のイデオロギー的混乱は、特撮だけではなくアニメにも及ぶだろう(第四章参照)。子供という宛先は、大人向けの文化とは別のアイデンティティの回路を作り出した。しかも、その原点はやはり戦時下にまで遡ることができる。
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福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第六章 オタク・メディア・家族 2 子供を育てる子供(2)【毎月配信】
2018-03-06 07:00550pt
文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。大伴昌司と佐々木守が切り拓いた、子供に居直るのでもなければ、親として生きるのでもない、むしろ「子供がそのまま主体であり得る世界」に向けて文化を整理し製作し伝承しようとしたコミュニケーションのあり方の中に、「オルタナティヴなオタク」の像を見出します。
文化の統合装置としての少年
一八九六年生まれの加藤謙一編集長のもと、『少年倶楽部』は一九二〇年代以降、佐藤紅緑、江戸川乱歩、吉川英治、南洋一郎、大佛次郎、山中峯太郎、高垣眸、海野十三、平田晋策ら大衆作家による幅広いテーマの小説群を展開するとともに、川端康成、横光利一ら新感覚派の少年小説も掲載した。ヴィジュアルな方面でも、三〇年代以降の『少年倶楽部』では加藤や円谷英二と同世代の田河水泡の『のらくろ』や島田啓三の『冒険ダン吉』のような戦前を代表する漫画が連載された。紙芝居作家として出発し、そのデッサン力を活かして「絵物語」の分野を切り拓いた山川惣治も、この雑誌から台頭した。戦後に大ヒットした山川の絵物語『少年王者』や『少年ケニヤ』は『少年倶楽部』の仕事の延長線上に位置する。
少年の友情や成長を大きなテーマとする一方、小説と漫画を横断しつつ、ジャンルで言えば冒険小説、探偵小説、SF、時代小説まで、地理で言えばヨーロッパからアフリカ、戦国時代の日本までを含む『少年倶楽部』は、驚くほど雑多で「教育的」な雑誌であった。加藤謙一は「課外の読み物である子どもの雑誌は、一種の教科書であるのは当然のことだろう」という信念を抱いており[39]、その編集方針が『少年倶楽部』を教育的かつ娯楽的なエンサイクロペディアに近づけた(ちなみに、下中弥三郎率いる平凡社が看板事業となる『大百科事典』の刊行を開始したのは、『のらくろ』の連載が始まった一九三一年である)。明治以降の文学が「青年」を近代的な自意識(孤独や煩悶)と紐づけたとすれば、昭和のサブカルチャーは「少年」を文化の統合装置として利用したのだ。戦後の大伴昌司による雑誌の情報化=百科事典化は、まさにこの戦前の統合装置を再起動するような試みである。
もとより、『少年倶楽部』の作品群も、戦時下の愛国主義と無縁であったわけはない(加藤謙一は敗戦後にGHQの指令で公職追放にあった)。にもかかわらず、小川未明らの童話とは違って、戦前・戦中の『少年倶楽部』の企ては戦後サブカルチャーのさまざまな分野で継承された。この大胆な「遺産相続」は、戦後の精神史において異彩を放っている。例えば、加藤典洋は九〇年代後半の論考で「日本の戦前と戦後はつながらないことが本質である」と述べて、戦前と戦後を調和させる論理がないことを強調したが[40]、こと少年文化に限っては、むしろそのような断絶を屈託なく乗り越えようとする傾向があった。
現に、第二章で述べたように、高垣眸原作の『豹の眼』や『快傑ハリマオ』のように「帝国の残影」を帯びた宣弘社のドラマは、『少年倶楽部』の冒険小説的な海外雄飛のモチーフを再来させ、かつての大東亜共栄圏のヒーローをテレビにおいて蘇らせた。あるいは、内田勝も『少年マガジン』を『少年倶楽部』の伝統を引き継ぐ雑誌として位置づけており、同世代の梶原一騎に協力を依頼するときにも「『マガジン』の佐藤紅緑になって下さい」という口説き文句を使った[41]。
この内田の誘いに乗って『あしたのジョー』や『巨人の星』等のいわゆる「劇画」の原作者となった梶原もまた、『少年倶楽部』以降の少年小説の嫡子である。彼は自伝のなかで、劇画のルーツとして敗戦直後の少年誌ブームに言及しつつ、山川惣治に加えて『大平原児』『地球SOS』の小松崎茂、『黄金バット』の永松健夫、『砂漠の魔王』の福島鉄二ら「絵物語」の作家たちを挙げた[42]。同じように、大伴昌司も『少年マガジン』の一九七一年の特集「現代まんがの源流」で手塚治虫を「映画的表現法」の導入者として位置づける一方、山川や小松崎らの絵物語についても「後の少年誌が、まんがを中心とした視覚雑誌として発展していくための素地となった」と適切に位置づけている(山川の代表作『少年王者』を「七〇ミリ映画のような画面構成」と評するのも面白い)。この簡明な漫画史は『少年マガジン』の劇画、さらには大伴自身のヴィジュアル・ジャーナリズムの歴史的な「起源」を探索する試みでもあっただろう。
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福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第六章 オタク・メディア・家族 2 子供を育てる子供(1)【毎月配信】
2018-02-13 07:00550pt
文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。『少年マガジン』をオタク的な感性で総合化した大伴昌司が大きな影響を受けていたのは、『暮しの手帖』を編集し、家庭の「暮し」の向上を訴えた花森安治でした。一見対照的なイメージを持つ大伴と花森の間にある共通点を明らかにします。
2 子供を育てる子供
花森安治から大伴昌司へ
以上のように、大伴昌司の情報化と視覚化の企ては、四至本八郎譲りのテクノロジー志向に加えて、アメリカのグラフ誌、戦争報道とともに成長した画報、児童向けの絵物語や絵本、マルチチャンネルのテレビといった諸々のメディアを背景としながら、サブカルチャーのオタク的受容(情報化/二次創作化)の下地を整えた。と同時に、大伴の原点にはオタク的な虚構愛好とは異なるドキュメンタリーやジャーナリズムへの関心があった。彼は一九七〇年には「一日も早く、『タイム』『ライフ』のような巨大なウィクリーが、少年週刊誌のなかから現われるよう努力します」という抱負を記した年賀状を送っている[27]。オタク的な二次創作(編集)の欲望と非オタク的な報道(記録)の欲望が交差したところに、つまりジャーナリスティックなオタクであったところに、彼の仕事のユニークさがあった。
さらに、ここで強調したいのは、大伴が先行する雑誌編集者を意識していたことである。例えば、大伴にまつわる証言を集めた『証言構成<OH>の肖像』(一九八八年)の執筆者は、彼が「『アサヒグラフ』の伴俊彦を尊敬し、『新青年』的モダニズムの機知を感じさせる伴のエディトリアル・シップに学ぼうとしていた」ことを指摘しつつ、こう続ける。
大伴が、すぐれたエディターとして尊敬していた人物には、ほかに『暮しの手帖』の花森安治(故人)と『週刊朝日』時代の扇谷正造(評論家)がいる。彼は後に『少年マガジン』で日本人の戦争中の生活を特集したとき、『暮しの手帖』を意識したレイアウトをして、見出しも花森安治ふうの手書きのレタリングにした。特集の発想そのものも、暮しの手帖刊『戦争中の暮しの記録』と同じだった。[28]
『暮しの手帖』の創刊者である花森安治は一九六九年の『戦争中の暮しの記録』で、戦時下の衣食住の様子を再現しつつ、戦争体験者から寄せられた多くの手記を収録した。それを受けて、大伴は翌七〇年に『少年マガジン』の特集で「人間と戦争の記録 学童疎開」と銘打って、自分もその一員である「少国民世代」(小学生時代に愛国主義教育を受けた世代)の疎開先での体験を、読者からの投稿をまじえて再現した。その後も、大伴は『暮しの手帖』をパロディ化した「料理の手帖」という特集を組んだ。
むろん、花森と大伴の振る舞いは一見すれば対照的である。花森が長髪でスカート(実際は半ズボンかキュロットであったという説もある)を穿いた異性装者として自己演出しながら、家庭の「暮し」の向上を訴えたメディア・アイコンであったのに対して、大伴は自らを「構成者」や「企画者」のような裏方に留めながら、家庭人とは真逆の男性オタクの源流となった。誌面のデザインについても、花森の『暮しの手帖』が原弘らの新活版術運動にも通じる「タテ組みのうつくしさ」(津野海太郎)を発明したのに対して[29]、大伴の『少年マガジン』の特集は垂直的な軸を見せるよりも、絵と文字を平面的に組み合わせることを選んだ。
にもかかわらず、この両者は「大人の男性の社会人」ではなく、会社組織に属さないいわゆる「女子供」に呼びかけて、その知識や技術の教育に注力したという一点で重なりあう。ちょうど円谷英二が「貧者の技術」として特撮を利用したように、花森は『暮しの手帖』で乏しい素材で生活をやりくりする技術を読み手に教え、大伴は『ウルトラマン』の二次創作を介して子供たちに怪獣の遊び方、いわば「オタクの暮し」のモデルを提供した。花森と大伴はともにたんに敏腕の編集者であっただけではなく、受け手にも自らの生活世界を「編集」する能力を与えたのだ。
そもそも、戦前の講談社の『キング』のモデルになったのがアメリカの婦人雑誌『レディース・ホーム・ジャーナル』であったことを思えば[30]、戦後の『暮しの手帖』が講談社の『少年マガジン』の先行者になったのも決して不思議ではない。大衆消費社会の最前線に生きる編集者として、花森と大伴はそれぞれ「女性」と「少年」という宛先を出版メディアの進化の担い手に変えてみせた。してみれば、大伴昌司をオタク化した花森安治と呼んでも、あながち言い過ぎではないだろう。
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福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第六章 オタク・メディア・家族 1 大伴昌司のテクノロジー(2)【毎月配信】
2018-01-23 07:00550pt
文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。60年代末に大伴昌司が試みた、対象をヴィジュアル化・カタログ化する手法から、〈情報〉による世界把握の欲望の発生、そして後に全面化するオタク的想像力の萌芽について論じます。
情報論的世界把握の原型
このように、内田と大伴は「テレビの擬態」によって、六〇年代後半の『少年マガジン』を領域横断的な「総合雑誌」に変えた。後述するように、七〇年代以降の日本のヴィジュアル化した雑誌はファッション、音楽、アイドル、ポルノグラフィ等に機能分化していくが、『少年マガジン』はその分化の起こる一歩手前で、社会の「全体性」をカタログ化し、若い読者たちを教育しようとした。子供という宛先が強い文化的統合力を獲得したこと――、そこにこそ特撮も含めた戦後サブカルチャーの最大の特性があると言っても過言ではない。 ところで、大伴の強調した「情報」という概念は、世界把握の仕方そのものを変容させるものでもある。すなわち、情報論的な観点から言えば、世界はデータとして細かく分割できるし、また一度データ化してしまえば、そこに相互の関係性(メタデータ)を発見することもできる。有機的なまとまりを分解して断片(データ)の集積に変えた後、その断片どうしの関係から新たな意味を生じさせる――、情報社会ではこのような了解のステップが一般化するだろう(なおエドワード・スノーデンが告発したように、この了解の形式はそのまま大規模な「監視」の技術として展開されている)。 あらゆる対象を詳しくデータ化(解剖!)し、それらを大胆に統合する大伴の手法は、まさに情報論的世界把握の原型を示している。大伴が「オタク」の源流と言われる原因も、この情報の断片へのフェティシズムにある。なぜなら、後のオタクたちも作品の物語やメッセージ以上に、キャラクターの設定やデザインに強いこだわりがあったからだ。 例えば、東浩紀は一九六〇年前後生まれのオタク第一世代に見られる心理として、社会的には無意味なものにあえて耽溺するという「スノビズム」を挙げる一方、オタク系文化の主流が一九九五年頃を境にして、従来のスノビズムから、キャラクターの設定やデザインを集めた「データベース」の消費へと移行したと論じている。東の考えでは、九〇年代のアニメを代表する『エヴァンゲリオン』は「視聴者のだれもが勝手に感情移入し、それぞれ都合のよい物語を読み込むことのできる、物語なしの情報の集合体」として受容されていた[15]。 もっとも、このような現象は九〇年代に突然始まったわけではない。大伴の仕事はすでに六〇年代後半の時点で、スノビズムとデータベース消費の両方にまたがっていた。架空の怪獣の解剖図を真剣にでっちあげた大伴は、無意味なものに価値を与える「オタク的スノッブ」の典型だが、その「設定」へのフェティシズムにおいては、世界のデータベース的(情報論的)な把握を示す。現に、彼の『怪獣図鑑』はウルトラシリーズを「情報の集合体」に読み替えてしまった。現実も虚構も関係なく、あらゆる対象をひとしなみにヴィジュアルな情報として配列した『少年マガジン』の誌面もまた、情報データベースの原型だと言えるだろう。
「記録の時代」の編集者
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福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第六章 オタク・メディア・家族 1 大伴昌司のテクノロジー(1)【毎月配信】
2018-01-16 07:00550pt
文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。60年代末の少年マガジンで、図解による怪獣文化の「情報化」を試みた編集者・大伴昌司。その多彩な活動を追いながら、小松左京や眉村卓らSF作家たちと特撮の関わりについて論じます。
第六章 オタク・メディア・家族
日本の特撮史においては、円谷英二および円谷プロが決定的に重要な位置を占めている。「特撮の神様」と評された円谷に匹敵する名声を得た日本人の特撮作家はいない。このことは、戦時下の政岡憲三や瀬尾光世以来、手塚治虫を経て、高畑勲、宮崎駿、富野由悠季、押井守、庵野秀明といった優れた作り手たちが、戦争を主題化しながら、あたかもお互いを批評しあうようにしてジャンルを成長させてきたアニメとは、ちょうど対照的である。
ただし、それは円谷の「遺産」が貧困であったことを意味しない。六〇年代の円谷プロは特撮テレビ番組という当時の映像のフロンティアにふさわしく、雑多な才能の集合した「梁山泊」であった。したがって、その関係者の活動範囲も特撮だけに留まらず、しばしば多くの分野にまたがっていた。そのなかでも、ともに一九三六年生まれの編集者・大伴昌司と脚本家・佐々木守は六〇年代後半以降、メディアを横断する幅広い仕事を手掛け、後の「オタク」ないし「新人類」の先駆者となった興味深い存在である。円谷プロの特撮が出版メディアにも刺激を与えながら図らずもオタク文化の下地を作ったことは、ここで改めて強調しておきたい。ウルトラシリーズはたんに日本のテレビ史に残る特撮ドラマであっただけではなく、サブカルチャーのオタク的受容を組織した作品でもあるのだ。
そして、先駆者とはえてして、フォロワーにおいては失われていくような「過剰さ」を抱え込んだ存在である。私はここまで、生粋のホモ・ファーベルである円谷英二が、戦中と戦後を通じて「非転向」の技術者として活躍したのに対して、その息子世代に当たる上原正三らが特撮という「技術」のなかに、屈折した政治性を導入したと述べてきた。上原とほぼ同年齢の大伴昌司も、少年誌の特集を企画するなかで「情報化」に早くから注目した一方、単純な技術的合理性には収まりきらないものも抱え込んでいたように思える。では、この「息子」の世代から「父」の円谷英二とも「孫」のオタク第一世代とも異なる、いわばオルタナティヴなオタク像を引き出すことは可能だろうか?本章では大伴と佐々木を出版メディア史のなかに位置づけながら、この問いを掘り下げてみよう。
1 大伴昌司のテクノロジー
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福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か 2 敵を生成するサブカルチャー(2)【毎月配信】
2017-12-19 07:00550pt
文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。無邪気なアナクロニズムの結晶『宇宙戦艦ヤマト』や「敵」の姿を克明に描いた『機動戦士ガンダム』など、戦争映画と特撮の後継者としての日本の戦後アニメーションに宿った身体性について語ります。
アニメにおける敗戦の否認
その一方で、サブカルチャーの歴史を広く見ると、ちょうど『ウルトラマンレオ』放映中の一九七四年を大きな転換点として、特撮からアニメへと「戦争の物語」の中心が移ったことが分かる。この年には一九三四年生まれの西崎義展がプロデューサーを、金城哲夫や石ノ森章太郎と同じ一九三八年生まれの松本零士が監督を務めた『宇宙戦艦ヤマト』がテレビ放映され、その後の日本アニメの礎を築く画期的なブームを巻き起こした。
この軍事的なアニメ作品では、日本人の集団心理的な屈辱が栄光に変えられる。放射能汚染された地球を救うために、若い主人公の軍人たちは宇宙戦艦として蘇った戦艦ヤマトに乗り込んで「敵」であるガミラス人と宇宙海戦を繰り広げながら、慈母のような女性の住むイスカンダル星へと放射能除去装置(コスモクリーナー)を受け取りに赴く――、ここには敗戦国日本のトラウマを女性(母)からの承認によって解消しようとする動機がうかがえるだろう。日本の惨めな敗戦を象徴する二つの悲劇(原爆投下による放射能汚染と大艦巨砲主義の挫折)は、このSF的なファンタジーのなかで反転し、むしろ日本人に国際的な栄冠を授けるきっかけとなる。黒光りする巨大な男根のような宇宙戦艦は、まさに敗戦を「否認」しようとする露骨な欲望の結晶体であった。
私は第二章でウルトラマンと怪獣の闘いは「子供から見た戦争」だと記したが、それは西崎や松本らの生み出した『ヤマト』にも当てはまる。そもそも、太平洋戦争で沈んだ巨艦によって宇宙を旅行するとは、あまりにも荒唐無稽で子供じみたアイディアである。それに「大人」の戦争の世界では、大袈裟な巨砲を備えた戦艦そのものがすでに過去のものであった。例えば、成田亨は円谷プロ製作の特撮テレビドラマ『マイティジャック』(一九六八年)の主役たちが乗り込むM・J号を重巡洋艦「愛宕」を参考にしてデザインしたが、その設計思想について後にこう語っていた。
万能戦艦M・J号のデザインは、当時の世界の海軍の動きに合わせて描きました。まず、レーダーが発達して今までの高い櫓の司令塔が不要になり、ミサイルの発達によって巨砲が不要になり、つまり、戦艦不要の時代に入っていました。空母主体の機動部隊に巡洋艦が旗艦でついているという時代でした。この巡洋艦の形態に空母的性格も加え、自ら飛ぶというので、こんな形をデザインしました。[25]
成田は巡洋艦の形態をアレンジしながら、世界の軍事的先端に合わせたデザインを目指した。にもかかわらず、日本のサブカルチャー史の画期となったのが『マイティジャック』ではなく、成田の言う「戦艦不要の時代」に完全に逆行した『宇宙戦艦ヤマト』であったのは、きわめて皮肉なことである。このアナクロニズムの勝利はまさに大人に対する子供の勝利であり、特撮に対するアニメの勝利でもあった。
もっとも、後続のアニメ作家は『ヤマト』のデザインには必ずしも満足しなかった。例えば、一九七九年に『機動戦士ガンダム』を世に送り出すことになる一九四一年生まれの富野由悠季は『宇宙戦艦ヤマト』第四話のコンテを担当した際に、強い違和感を覚えたことを述懐している。「西崎さんの世代の持っているメカニック感みたいなものが陳腐過ぎて、僕にはとてもじゃないけれど許容出来なかったんですが、それでコンテをストーリーごと全部描き直しちゃったんです」[26]。富野にとって、西崎ら先行世代のもつメカニックの感覚は耐え難いものであり、実際『ガンダム』の兵器のデザインは『ヤマト』に比べて格段に充実している。だとしても、『ヤマト』の無防備なアナクロニズムと子供じみた欲望が、戦後のアニメのなかに架空の「戦争」を強力なテーマとして招き入れたことは間違いない。
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福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か 2 敵を生成するサブカルチャー(1)【毎月配信】
2017-12-05 07:00550pt
文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。日本の戦争映画が描いてこなかった「敵」は、特撮という技術を経て「怪獣」という姿で「発見」されることになりました。その後の怪獣の描かれ方を通じて、ウルトラシリーズにおけるイデオロギーの混乱と屈折、そしてその継承者としての庵野秀明に光を当てます。
2 敵を生成するサブカルチャー
戦争映画から怪獣映画へ
アメリカのプロパガンダ映画と比較すれば、日本映画は明らかに敵の映像的理解という仕事を軽視していた。それどころか、日本の戦争表象はときに人間としての敵とのコミュニケーションの代わりに、人間不在の環境を際立たせるという奇妙な傾向すら示してきた。この「敵の非人間化」という欲望が戦時下の亀井文夫、円谷英二、藤田嗣治から戦後の押井守まで広範に見られることは、ここまで述べた通りである。
振り返ってみれば、敗戦後に多くの傑作を生み出した日本映画のなかで、戦争映画の存在感は大きいものではなかった。名だたる巨匠たちも実写の戦争映画からは距離を置いた。戦中に兵役を逃れた黒澤明が、戦後は一連の時代劇映画によって「世界のクロサワ」となった一方で、二〇世紀の戦争を主要なテーマとしなかったのは、その最も象徴的な事例である(彼は一九六〇年代末に、真珠湾攻撃を題材とした日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』に日本側の監督として参加したが、結局降板した)。あるいは、中国戦線に兵士として従軍した小津安二郎にしても、戦後はミニマルな家族映画のなかに戦争の記憶を暗示的なサインとして忍び込ませるに留めた[19]。
逆に、D・W・グリフィス監督以来のアメリカ映画の巨匠たちは戦争映画と切り離せない。フォードやキャプラのプロパガンダを見れば、映画そのものが軍事力であったことは一目瞭然である。「戦争は政治の延長」というクラウゼヴィッツの有名なテーゼをもじって言えば「映画は戦争の延長」なのだ。戦後においても、キューブリック『フルメタル・ジャケット』、コッポラ『地獄の黙示録』、スピルバーグ『プライベート・ライアン』、イーストウッド『父親たちの星条旗』及び『硫黄島からの手紙』等から、ごく最近ではクリストファー・ノーラン『ダンケルク』――ノルマンディーへの凄惨な「上陸」作戦から始まる『プライベート・ライアン』の構図を反転させ、ダンケルクからのイギリス軍の撤退という「離岸」をテーマとする――に到るまで、アメリカの巨匠は二〇世紀の戦争を再現し続けてきた。それは戦後日本の戦記映画の作家性が総じて希薄であることと好対照をなしている。
とはいえ、言うまでもなく、日本の映像文化全体が戦争に無関心であったわけではない。結論から言えば、戦後日本においては、アメリカであれば実写の戦争映画として描かれるようなテーマが、むしろ特撮やアニメのようなサブカルチャーにおいて開花したように思える。敗戦国である日本は作品世界の虚構化という手続きを経て、ようやく戦争というテーマを自由に展開することができた。例えば、文芸批評家の加藤典洋は『ゴジラ』を戦争映画の変種として捉えている。
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