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  • 國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第7回テーマ:「お金に関する悩み」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.190 ☆

    2014-10-30 07:00  
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    國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第7回テーマ:「お金に関する悩み」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.30 vol.109
    http://wakusei2nd.com

    一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ『哲学の先生と人生の話をしよう』。2ndシーズンの連載第7回となる今回のテーマは「お金に関する悩み」です。
    ▼連載第1期の内容は、朝日新聞出版から書籍として刊行されています。
    國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版、2013年)
     

    ▼國分功一郎の人生相談「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
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    過去記事はこちらのリンクから。

     
    それではさっそく、今回寄せられた「お金に関する悩み」をご紹介していきましょう。・・・・・・・・・・・・・・・ 
    【1】クレジットカードのリボ払いに苦しんでいます
    シックスマン 24歳 男性 京都府 大学生
     
    大学生です。クレジットカードでの買い物をやめたいです。大きな買い物をするわけではないのですが、KindleやAmazonで書籍を購入したり、メルマガの購読、Huluなどの月額課金制のコンテンツにお金を使うことに躊躇いがありません。その他に交通費をクレジットカードで払っているため、定期券で行ける範囲外に行くのにもどんどん交通費を払ってしまいます。その結果、毎月のアルバイト代はクレジットカードのリボ払いにほとんど消えてしまう生活となっています。今までクレジットカードに支払った金額を計算すると海外旅行へ行けたり、良い服を買えたりします。そのようなことにお金を使えば良かったと後悔するものの、クレジットカードのリボ払いを一括払いに替えられるほどの資金はありません。それに無形のコンテンツにお金を払うことを何度かやめようと試みたものの、ついついワンクリックで買い物をしてしまいます。このまま卒業するまでクレジットカードの決済のためだけにアルバイトをしていくしかないのでしょうか。
     
     
    【2】自分よりも収入の高い同世代の友人にコンプレックスを感じてしまいます
    ぱたぱた 26 男性 東京都 大学職員
     
     國分先生こんにちは。
     僕の悩みはお金に対する強い執着がないことです。有名私大の経済学部を卒業しているためか、大学の友人は「もっと高い年収」を目指す非常に意識が強く、スキルアップ・転職・年収アップに日々いそしんでいます。対して僕は正直350万円程度もらえて、ハードカバーの本とCDを気兼ねなく買えるだけの財力があれば十分で、結婚にも子どもにもあまり興味がないので、将来の家族のために働くという意識もありません。
     それで割り切れれば良いのですが、一方でキャリア志向の人々に会うとコンプレックスを感じている自分もいます。やっぱり高度資本主義社会の中で”Greed is Good”と刷り込まれているからなのかなあと推測しますが、お金を得て何に使いたいのかという根本的なところがわからないのです。
     國分先生のように博士号まで取られている方は、長く同世代の友人より収入が少ない時期が長かったと(失礼ながら勝手に)推測していますが、僕のように彼ら彼女らに対するコンプレックスみたいなものは抱きませんでしたか。
     何かアドバイスをいただければ幸いです。よろしくお願いします。
     
     
    【3】婚活サイトで相手の年収ばかりが気になってしまいます
    匿名希望 30歳 女性 神奈川県 会社員
     
    私は今年30歳になりましたが、彼氏と呼べるような人は長らくおりません。
    そこで、今は婚活サイトなどを利用して真剣に相手を探しています。
    いろんな方からコンタクトいただいたり、自分からしたり…そんな時に気になってしまうのが、相手の年収なのです。
    例えば30歳超えているのに500万円では低いんじゃないかとか、若いのに1000万円超えていたりすると、危険な人なんじゃないかとかそんなことばかり気になってしまいます。
    というか、婚活サイトに紹介されている人たちは男女問わずいろんな数字がくっついていて、全部が気になってしまうようになってしまったんです。年齢、身長、年収、異性からアプローチを受けている数など……。
    今までは男性の身長なんて気にしたことなかったのに、いつの間にか「高くなきゃ嫌だ!」とか思うようになってしまっています。それにアプローチを受けてる人数でも、少なすぎても多すぎてもいろいろ深読みしちゃうんです。
    さらにたちが悪いのは、婚活サイトでは次から次に新しいコンタクトがあるので、ちょっとでもつまらない人だと感じたらどんどん切ってしまう感じもあります。それは男性側も同じ様なかんじなのですが……。
    私はどうしても恋愛して好きな人となんの迷いもない心で結婚し、助け合って生きていきたいと強く思います。以前は自分一人でも構わないと思った時期もあったのですが、両親や祖父母夫婦の仲の良い様子を見ていると羨ましくてたまりません。
    婚活サイトで相手を探しているけど、こんなに相手の条件ばかり気にして、私のしたい様な恋愛、結婚はできるのでしょうか? 結局お金だけでなく他のことにも関わってしまってすみません。何かアドバイスいただけるとうれしいです!
     
     
    【4】学費のことを心配せずに勉強できる環境が欲しいです
    どんちゃん 20代 女性 東京都 大学生
     
    私立の美大に通っている大学生です。実家の家計が苦しく、奨学金とアルバイトで賄っていますが、毎日のアルバイトのために学業にあてられる時間が少なくてもどかしいです。 また、大学院の博士課程まで進学したいのですが、経済的にやっていけるのかとても不安です。 私は浪人をしたし、両親の結婚が遅かったので両親はすでに高齢で、身体障害もあります。本当なら私は普通に就職して家計を支えるべきなのだろうか、私のようなお金のかかる子どもがいなければ両親は楽だっただろうに、などと考えてしまいます。 それと同時に、経済的な事に疎くうまく立ち回れない両親に対して苛立つ事もあります。下着を二枚持っていたら、一枚も持っていない人にすぐあげてしまうような人達なのです。 お金のことを心配せずに勉強できる環境が欲しいです。
     
    ・・・・・・・・・・・・・・・
     
     皆さん、こんにちは。
     今月はお金に関する悩みを受け付けました。哲学というのはあまりお金の話をしないんですね。もちろん、経済を論じる哲学はあります。しかしそれは、抽象的な経済活動や経済構造を論じているのであって、ここにあるこのお金をどうするかという話ではありません。
     また文化人類学経由で、負債や贈与についても多くの研究があります。しかし、それもまたどうお金を使うべきかという話ではない。
     お金はとても大切なものです。ですからそれをどう使うべきかを考える倫理学が哲学的に打ち立てられるべきだと思うのです。僕は友人たちと「金融の哲学」という共同研究プロジェクトをゆっくりと進めていますが、これをやってみて分かったのは、哲学が驚くほどお金の使い方について考えてきていないということでした。
     お金をどう使うべきかという問題について僕は「買い物の倫理学」みたいなものを構想しつつあるんですが、基本的には拙著『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)の問題設定がベースです。すこし遠回りしながら書いていきたいと思います。
     お金を使う上で何よりも大切なのは満足です。満足は充実感をもたらすわけですから、それ以上の出費を抑える効果があります。お金を使っているのに満足がなければ出費は止まりません。きちんと贅沢すること、これこそがお金を使いすぎない最大のコツです。
     ところが、いまの社会ではこの満足というものが実に軽視されている。今の社会で幅をきかせているのは安さです。チラシに載っている商品価格が10円でも安いと、わざわざ車を運転してそこまで買いに行くなんてことがあるわけです。
     「とくし丸」という移動スーパー事業を始められた村上稔さんが、ご著書『買い物難民を救え!──移動スーパーとくし丸の挑戦』(緑風出版)の中で、安さに振り回されることのばかばかしさを語ってらっしゃいます。買い手はもちろんガソリン代を損しているわけですが、問題はそれだけじゃない。安売り競争は売り手を疲弊させます。
     商品を安さという基準でしか考えられないというのは本当に残念なことです。もう少し思想的に考えてみましょう。
     19世紀イギリスを生きた思想家・デザイナーであるウィリアム・モリス(1834−1896)は、商品を労働との関連で考えました。酷い労働条件で作られた商品にはどこかおかしなところがある。あるいはまた、酷い商品はやはり酷い労働条件で作られている。そう考えていたモリスは自分で友人たちと工房を経営し、芸術的価値の高い商品を市場に提供しようとしました。その事業にはうまく行った点もうまく行かなかった点もあるんですが、この考え方はとても興味深いし、重要だと思います(この辺り、最近、大学で出した『デフレーション現象への多角的接近』(日本経済評論社)という本に、「ウィリアム・モリスの「社会主義」」という論文を寄せてますので、よろしければお読みください)。
     モリスに決定的な影響を与えたのが、批評家ジョン・ラスキン(1819−1900)の思想でした。ラスキンの芸術批評というのは実に興味深いもので、なんと芸術作品を、実際にそれを作り出した仕事のありようから考えるというものなんですね(ラスキン、『ゴシックの本質』、みすず書房、を参照してください)。
     たとえば一般に建築はその形態から論じられます。ロマネスク様式は半円形アーチを利用した重厚な教会堂建築だが、それに続くゴシック様式は尖ったアーチ(尖頭アーチ)を利用した背の高い教会堂建築である云々。
     ところが、ラスキンは、そうした形態の問題はさらりと片付けてしまう。そして、そうした形態よりもむしろ、そうした形態の建築を実際に作っていた職人たちの仕事が当時どうであったかを考えようとするんです。
     

    「職人が完全に奴隷にされているところではどこでも建物の各部分は当然絶対に画一的なものになるはずである。というのは、彼の仕事が完全なものになっているのは、彼にひとつのことをやらせて、ほかには何もさせないことによってはじめて可能になるからだ。したがって職人がどの程度までおとしめられているかは、建物の各部分が均一かどうかをみれば一目瞭然であろう。そしてもしギリシアの建物のように、すべての柱頭がおなじで、すべてのモールディングが変わりなければ地位の下落はきわまったといえる。もしエジプトやニネヴェの建物のようにいくつかの彫像を制作するやり方がつねにおなじであっても、意匠【デザイン】の様式がたえず変化していれば下落は行き着くところまではいっていない。もしゴシックの建物のように意匠と施工の両方に不断の変化がみられるのならば、職人は完全に自由にされていたにちがいない」(『ゴシックの本質』、54ページ)

     
     芸術作品の出来上がった形態を見比べて「あーだこーだ」言っているような批評はラスキンには物足りなかったわけです。まさに作品の発生する現場を具体的に論じるところにまで批評を推し進めた。それは、作品を実際に作っていた職人の労働についてまで考えることにつながったわけです。
     別に誰もが批評家になるべきではないので、ラスキンやモリスのようにモノを眺めることができなければならないわけではありません。しかし、こういう視点は参考になると思うんです。
     たとえば商品を買うときにこんなことを考えてみる。
     これはどうやって作られたのだろう? どこで作られたのだろう? 作った人は誰だろう? 作った人は何歳だろう? どうしてこの値段なのだろう? 思ったよりも安いだろうか? 思ったよりも高いだろうか? これを買った時に得られる満足はどれほどだろう? その満足は作り手の願ったものだろうか? もしも作り手に会えて、その満足を伝えたら作り手は満足してくれるだろうか?
     工場製品であっても、作り手がいます。僕は『シルシルミシルさんデー』というテレビ番組の工場レポートが大好きだったんですが、あれを見ていると様々な工場の方々が実に自信をもって製品を作っているのがよく分かる。
     もちろんテレビですから、いいところばかりを見せていたのかもしれません。しかし、そこには何かしらの真理もあると思います。やはり作ることは楽しいのです。そして、自信をもって、誇りをもって製品を作れることは何ごとにも代え難い喜びを与えるのだと思います。
     ですから、手作り製品でなくても、工場製品であろうとも、その商品を買う際に、その商品についていろんなことを考えられるはずです。
     友人の服飾デザイナーは、「服を作るには布が必要、布を作るには糸が必要、糸を作るには綿花が必要…」と言っていて、綿花農家と付き合いながらデザインをしています。デザインする側でなくても、買い手として同じように考えられることがあるはずですね。
     商品について想像を巡らすことは、楽しいことですし、また購入後に満足を得るためにも有効です。商品をより分析的に眺められるようになるからです。細かいところに目がいくようになるのです。
     そういうクセをつけることが現代では難しくなってきています。商品のことなんか全く分からない粗いサムネイルの画像で、テキトーに書かれた商品説明を読んで、ワンクリックで買うというのが増えてきていますから。
     しかし、若い頃から買い物に意識的になり、購入時にいろいろと考えるクセをつけ、少しずつ買い物のスキルをあげていくことはとても大切だと思います。
     すこし大きな話をしてしまいました。もうすこし身近な話をしましょう。
     現代社会においてお金の使い方が難しいのは、普及している消費モデルがいずれも、我々を「お金が足りない」という状態に至らせるようにできているからです。 
  • 國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第6回テーマ:「だらしなさに関する悩み」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.166 ☆

    2014-09-26 07:00  
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    國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第6回テーマ:「だらしなさに関する悩み」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.9.26 vol.166
    http://wakusei2nd.com


    一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ『哲学の先生と人生の話をしよう』。2ndシーズンの連載第6回となる今回のテーマは「だらしなさに関する悩み」です。
    ▼連載第1期の内容は、朝日新聞出版から書籍として刊行されています。國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版、2013年)
    ▼國分功一郎の人生相談「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
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    【1】「だらしのない自分がとても許せません」おたこ 39歳 女性 近畿
     
    絵をかいています。
    「だらしない」を憎んでいます。心のそこから憎んでいます。
    それなのに、わたしの仕事場は散らかり放題。消しゴムのカスや、描き損じの紙に、交換して整理されまいままの名刺、積み重なった本、文具、いろいろなものが散らかってまったくもってだらしない環境で働いています。
    だらしのない自分がとても許せません。
    所有するものを必要最低限におさえると、散らかりも最低限に抑えられるような気がしたので持ち物をとても少なくするよう心がけているのですが、最低限の持ち物でも、盛大に散らかります。
    こうなったら少しだけ「だらしなさ」を寛容できるようになりたいです。
    どうぞよろしくお願いいたします。
     
     
    【2】「羞恥心がなく、もっと他人を意識できるようになりたいです」ぽてりん 29歳 男性 東京都 会社員
     
    國分先生こんにちは。いつも楽しく拝見させていだだいております。今回のテーマが『だらしなさ』と知り、思うことがございまして、メールをさせていだだきました。
    率直に申し上げまして私、あまり羞恥心がございません。現在、女性ばかり(熟女)の職場で事務仕事をしているのですが、何度も社会の窓が空いているやら、シャツが出ているなど注意されます。社会人としてダメだと思うのですが、直そうと思う意識があがりません。
    そもそも、未来において自分が存在すると仮定すると、現在は過去になります。常に過去を生きている。そんな風に考えているうちに細かいことが気にならなくなってしまいました。 あまり、羞恥心がない理由にはなっていませんが、どうすればもっと他人を意識できるか、ご助言いただければ幸いです。
     
     
    【3】「お酒を飲み過ぎるのをやめられません」ぱたぱた 26歳 男性 東京都 大学職員
     
    僕のだらしなさはお酒です。20代も後半になり体力も(相対的に)衰え、二日酔いになる頻度が上昇しているのにもかかわらず、適当なところで切り上げるということがどうしてもできません。二日酔いになった時の苦痛は筆舌に尽くしがたく、仕事にも影響するので毎回猛省するのですが、いざ飲みの場になると快楽が流されて飲みすぎてしまいます。そして後日「なぜ僕は愚かな過ちを繰り返すのだろうか」と強い自己嫌悪にさいなまれます。
    一方で飲みの場でそれこそ適当なところで切り上げている友人・同僚をみると「つまらないやつだ」という感想がぬぐえません。適切な飲み方を心得て無茶をしなくなったらそれこそ老いてしまうような気がします。
    ならば現状で良いのではないかと言う話ですが、この自分のスタンスの揺らぎをどのように解決すべきか、國分先生のご意見を聞かせていただければ幸いです。
     
     
    【4】「周囲の人に気を利かせたりすることができません」もしプロ 31歳 男性 奈良県 会社員
     
    國分先生こんにちは。
    以前転職についてご相談させていただきました。お陰様で現在、新たな職場で頑張らせていただいてます。その節は本当にありがとうございました。
    今回、だらしなさがテーマということなのですが。私はこれまで(幼稚園児の頃から)マイペースな性格と親や教員から言われ、整理整頓も得意ではありません。 たまに自分で「このくらいやっておけば良いだろう」と片づけてもみるのですが、周囲が満足するにはほど遠いようで、何かと文句を言われる事も少なくありません。
    周りが気になる事に無頓着で、気が利かない事も指摘されることが多く、意識もしているのですが長くは持たないのです。
    指摘してくれる方達のためにも、少しでも変わろうと意識をしているのですが。変わってるとしても、その程度がまだまだ少なすぎて周囲をイラつかせてしまっているように感じます。
    今後、できるだけ周囲と自分の感覚の差を埋めて、気がまわるように変わっていきたいと思うのですが、いまいち自信がもてません。
    どのようにすれば変われるでしょうか。何かヒントがいただけますと幸いです。
     
     
    【5】「だらしない自分を変えたいと思っていながらなかなか変えることができません」もちもち 29歳 女性 東京都 無職
     
    人生全体にだらしがなくて、困っています。部屋は片付けられず、いつも汚いです。ついクレジットカードで買い物をしてしまい、貯金もありません。昔はわずかながらも貯金できていたのに……。 無職になり、今就職活動をしていますが、「私は『本当に』なにがしたいのか?」と思うと、混乱し、「気分転換に」とインターネットの記事をダラダラと読んでは自己嫌悪に陥っています。本当にだらしない人生なのです。 こんなだらしない女じゃ結婚もできないし、子供ももてない、うまく人生を過ごせる自信がないです。
    とりとめがありませんが、このだらしない自分を変えたく思っています。どうしたらいいでしょうか。
     みなさん今日は。國分です。
     今回のテーマは「だらしなさ」ということなんですが、はっきりいってこんなテーマはやめておけばよかったと思っています。というのも、あまりにも難しいテーマであることが、考えれば考えるほど分かってきたからです。
     何か、誰か、手がかりになる哲学理論とかそういうのがないかと考えてみたんですが、どうも思いつきません。
     実は「だらしない」という言葉の意味もよくわからない。調べてみたところ、これは「しだら」が無いという意味だそうで、「しだらない」がなまって「だらしない」になったみたいです。
     とすると、「ふしだら」と「だらしない」は同義ということになりますが、ちょっとニュアンスが違いますよね。
     何というか、最初に考えたのは、こういう人生相談に寄せられてくる悩みのほとんどは、「だらしなさ」に還元されるのではないかということだったんです。
     つまり、自分で自分の人生のために「こうしよう」「ああしよう」と思っていることがいろいろありますよね。でも、それがうまくできない。だからうまくいかない。じゃあ、なぜ「こうしよう」と思ったのにできないのか。これは事例ごとに程度の差こそあれ、要するに「だらしない」ということじゃないかなと思ったんですね。
     でも、ちょっと違う気がしてきました。というのも、「だらしない」と言う時、そこには何か特殊な意味というか思いが込められているように思われるからです。単に、「きちんとしていない」「整っていない」「節度がない」「しまりがない」「体力や気力がない」「根性がない」──すべて辞書に書いてある「だらしない」の意味です──という意味じゃないんですね。
     難しい言い方をすると、だらしなさという言葉には、特殊な欲望が備給されているように思われるのです。
     それは何かというと、自分はこれでもいいと思っているけれども、同時にそれを強烈に拒否もする気持ちです。「だらしない」と言う時、人は、「それでもいいではないか」と思いつつも、外部から注入された何らかの規範の圧力に負け、この規範に必死に一致しようとしている、そういう感じがします。
     分かりやすくなるように、段階を追って説明してみます。 
  • 國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第5回テーマ:「勉強に関する悩み」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.146 ☆

    2014-08-28 07:00  
    220pt

    國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
    第5回テーマ:「勉強に関する悩み」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.28 vol.146
    http://wakusei2nd.com


    一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ『哲学の先生と人生の話しよう』。2ndシーズンの連載第5回となる今回のテーマは「勉強に関する悩み」です。
    ▼連載第1期の内容は、朝日新聞出版から書籍として刊行されています。國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版、2013年)

    ▼國分功一郎の人生相談「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
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    【1】難解な文献を理解できるようになるにはどうしたらよいでしょうか?(スーパームーン 48歳 女性 愛知県 病院リハビリ職)
     
     國分先生
     
     文献を読むということ…その難解さに悩んでいます。もっと分かりたいんです。どうしたらいいのでしょうか。やはり恋愛や仕事の習得と同じで練習の積み重ねでしょうか。
     
     病院でリハビリ職をしています。ヒトの認知や情動や意識、言語に興味関心があり 更に深く仕事をしたいと文献を読んでいます。
    難解と言われている文献を読むにあたって入門書やネットのあらすじも利用するのですが 分かるような分からんようなまさに抽象の世界です。
    先日は13歳の時にスピノザを早読んでいたというヴィゴツキーという心理学者の『これで分かる~思考と言語』というセミナーに参加しました。
    錚々たる大学教授の講義が続きましたが テーマが簡潔になるどころか
    ますます巨大化して掴めない程の情報でした。
     
     日常の業務はより実務的です。医者やナースに伝えるとき 起承転結で話していてはイヤがられます。結論から相手の立場の言語で言うことが求められます。
    それから考えると圧縮できる知性が欲しいです。
    國分先生は難解の文献を日々読まれていますね。どのように理解して身体的なことばに表現される技術をお持ちなのでしょうか。
    才能だとは言わないでください。習熟とも言わないでください。
    大学教員の文献を読むということがどんなことなのかの常識を先日、体験したばかりですので相談したく投稿致します。
    社会人ですが 仕事をまとめて論文を書くのが第二の夢です。そのためには文献も読み込んで行かなくてはなりません。宜しくお願いします。
    國分先生のご活躍、書籍やツイッター等から応援しています。
     
     
    【2】高い学費を払って大学に通う意義が見いだせません(中村謙太 20歳 男性 北海道 大学生)
     
    はじめまして、大学1年生です。大学の授業を受けてみましたがPLANETSの動画や書店に売ってる本の方がよっぽど勉強になります。このまま大学に通って教授のグダグダな授業1回ごとに3500円ちかく払う意味がどうしても見いだせません。また、大卒という学歴や大学名が企業の採用基準になっているのもよくわかりません。大学の授業より安くて内容の濃い情報が得られる今の世の中で大学に行ってまで学ぶ意味と学歴社会についての國分さんの考え方をお聞かせ下さい。宜しくお願いします。
     
     
    【3】仕事が忙しくて、勉強したくても時間がなかなか確保できません(ブローノ・ブチャラティ2世 26歳 男性 埼玉県 会社員)
     
    國分先生こんにちは。
    社会人が勉強時間をどうやって確保するかについて相談したく、今回の人生相談に応募してみました。
     
    私は東京で会社員をしているのですが、どうしても毎日の仕事(ちなみにごく普通の事務職です)が忙しく、帰宅時間が22時を過ぎることも多いです。ですが今の仕事以外に挑戦してみたいことがいくつかあり、今は寝る前の1時間ぐらいを使って、その分野の勉強をしようとしているのですが、毎日続けることがなかなかできません。
     
    それで、じゃあ休日にまとめてやろう!と思うのですが、毎日の仕事の疲れが蓄積し、土曜日などはまともに活動することすらできず、ずっと寝たりスマホでネットを見てダラダラしたりして、日曜の夕方になってようやく重い腰を上げて勉強をしたりしています。
     
    こんな感じなので、勉強したことがなかなか積み上がっていかず、いつまで経ってもかたちにならないので、不安であると同時に、続けるモチベーションも萎んでいくという悪循環に陥っています。
     
    最近では、家から職場までの電車での通勤時間が片道1時間ぐらいかかって、しかも混雑する路線なので、それで疲れてしまって家で勉強できないのかとも思い、会社の近くに引っ越しちゃおうかとも考えています。(でも、「会社の近くに住むと時間に余裕ができるせいでダラダラ残業しちゃう」とか、「電車のなかでボーっと考え事をできる時間があるほうがいい」とか人は言うじゃないですか。それで微妙に二の足を踏んでいるところもあります。そもそも都心は家賃高いですし…)
    ちなみに、私の勉強というのはプログラミングに関するもので、手を動かせない電車のなかでスキルを上げていくというのは難しいのです…
     
    こんな感じで、何やらずっと足踏みの状態が続いております。
    要するに、仕事で疲れていることを理由に、勉強への気持ちの切り替えがパッパとできなくてなんとなく不全感を抱えている、というのが私の悩みかなと思うのですが、こういう人はどうしたらよいでしょうか?
    なんかこう、ざっくりとした相談ですみません…お答えいただければ幸いです。
     
     
    【4】「もっと勉強しなければ」という強迫観念に囚われてしまいます(osakana 45歳 女性 東京都 非常勤講師)
     
    まがりなりにも専門を持って人に教える立場になっているのにも関わらず、「自分は勉強が足りない」「もっと勉強しなければ」という強迫観念にとらわれていて、それがたまらなくストレスです。つまり、はっきりいって勉強・仕事=苦役という感覚から自由になれません。もっと生き生きと自然体で勉強というものに対峙したいのですが。
     
     
    【5】大学院に進学するかどうか迷っています(ちゃんこ 19歳 男性 東京都 大学生)
     
     國分さんこんにちは。ちゃんこと申します。僕はいま大学1年生なのですが。やはり大学卒業後の進路についてたびたび考えることがあります。そしてその選択肢の一つとして大学院への進学があります。僕はいま國分さんや宇野さんをはじめとした各種の学問や評論の本を読んだり、書いたり、考えたりというのが一つの趣味となっており、このようなことが仕事に出来たら良いなと漠然と考えています。もちろん、自分が将来、学者や評論家というような職業を生業として生きていけるかを見定めるにはまだ時期尚早であり、今後の努力や心情の変化等によって、進路の選択肢は変わってくるでしょう。
     上記のようなことを考えている中で僕が主に悩んでいることは、①大学院進学を決めるキッカケ②大学院に進学した場合の、(院生における)生計の立て方です。②については、奨学金を得る、なにか自身で稼げるスキルを身につける、仕事しながらも大学院に通えるような企業に就職する、等の選択肢があると考えています。周りの友人の多くは卒業後に企業に就職することになるでしょう。そんな中で自分が大学院生として2年、6年過ごすことになるとしたら、なんだかんだいって今から考えても不安になります。この①、②について國分さんの経験も踏まえて、何かしらのアドバイスを頂けたら嬉しいです。
     ちなみ、いま自身の専門にしたいと考えているのは理論社会学の分野です。大学は一応私立のトップのK大学に在学しております。勉強というより、進路の相談のような形になってしまい申し訳ありません。よろしくお願いします。
     
     
    【6】大学生ですが「勉強する」という決断に迷いがあります(店長 20歳 男性 東京都 学生)
     
    國分さんこんにちは。当方、早稲田の数学科3年生をやっている学生です。勉強に関する悩みということで、質問させていただきます。僕は今学期の定期試験の感触からして、5年生がほぼ確定致しました。大学一年生から大学の建物が嫌いで、授業の内容はともかく早稲田の建物に近寄ることに異常な嫌悪感を抱いており、それが故に単位はとれず、こうして留年という親不孝な結果を招いてしまいました。恥ずかしい程に子どもっぽかったと、今はとても反省しています。
    しかしながら、授業をさぼって読んでいた野家啓一さんの本に衝撃を受けて、今自分が勉強していることに意外なおもしろさを見い出してしまいました。それで、理系ということもあって、院まで進学して改めて勉強したいという気持ちがありつつも、しかしもはやここまで勉強してなかったので今から勉強するには完全に出遅れてる上、留年しているにも関わらず院に進学するという、事実と気持ちの矛盾に、うしろめたさを拭えず、進路に迷っています。もうすこし、「勉強する」という決断を後押ししてくれる、説得力のある言説があれば、自信をもって院を視野にいれつつ勉強ようと奮起できると思うのですが、「はやく社会にでたほうが生涯年収がうんたら」とか「勉強しても役にたたないからねえ」とかそういった言説が多く、それらに対して何も言えない自分がいます。
    もっと「勉強する」という行為を力強く「意義深い」と後押しする言説があってもいいのに・・・。と、こういった状況にいる身の上で感じているのですが、國分さんはそれについてどう思われますか?そして、ふわっとしてますが、國分さんの考える「勉強する意義」を教えていただけると幸いです。 

    皆さん、こんにちは。國分です。
     いかがお過ごしでしょうか。
     今回は勉強がテーマなんですけど、非常に書くのが難しいです。或る意味ではたくさん言いたいことがあるけれども、一般的な仕方で言うのが難しいんです。僕も研究者の端くれですが、研究者というのはいつも勉強しているわけですよね。だからこそ、あまりにも自分の日常すぎて書きにくい。でも、ものすごいこだわりがあるところでもあります。仕事ですから。
     全般的な記述というのを求めず、思いついたことを書いていこうと思います。
     僕はこの一年間、古典ギリシャ語をやってました。毎週土曜日に語学学校に通って勉強していました。後半に突入したあたりで予習復習がだんだん大変になっていって、冬あたりはギリギリな感じでしたが、春あたりになるとかなり勘が働くようになっていきました。
     一つ、この経験をもとに考えたことを書いておきたいと思います。
     久しぶりに新しい言語に挑戦して思ったのは、やはり勉強するには、
    (1)誰かに教わる
    (2)強制力がある
     この二つが重要だということですね。一つずつ説明しましょう。
     
     まず誰かに教わるという点ですが、これは深く論じると多分ものすごい大変なことになるんですが、かいつまんで言うとですね、教わる時に、人は明示的な内容以上のものを受け取っているということなんだと思います。
     たとえば、ギリシャ語の動詞の活用はギリシャ語の教科書に書いてありますよね。だったら、それを読んで覚えればいいじゃんって思うわけです。でも、違うんですよ。それをただ本から読むのと、誰かから教わるのとでは全然違う経験なんです。
     もちろん、教え方がいいとか、教える内容に付随してくるオマケ情報が面白いとかそういうこともありますが、それだけでもない。
     どういうことかと言うと、ある教科を教わる時に、僕ら生徒は、先生がその教科に対して持っている態度とか精神、ちょっと大げさに言うと、思想のようなものを同時に受け取っているのです。
     少し頑張って説明してみますね。
     たとえば、A、B、C、D、Eという五つの項目からなる教科があるとします。すると、生徒は当然、Aから順にEまでの項目を教わるわけです。普通に考えれば、Aから順にEまでを教えてもらえるなら、誰に、あるいは何に、どうやって教わってもいいはずです。単に教科書を読むだけでもいいかもしれないし、毎回違う人に教わってもいい感じがします。
     しかし、一人の教師からそれを教わると、ちょっと違うのです。なぜなら、教える人には、その教科に対する態度や精神、あるいは思想があるからです。
     たとえば、五つの項目の中で、AとCとEという項目に力点を置いて、その教科を把握している先生もいるでしょう。AとDに力点を置いて全体を把握している先生もいるでしょう。先生ごとに異なった力点があるのは、先生たちの教科把握の背後に何らかの思想があって、それに基づいて、「こことここが重要なのだ」「こここそがポイントだ」と考えているからです。
     誰かから教わるというのは、単にA、B、C、D、Eという五つの項目を教えてもらうということではなくて、その五つの項目の把握の仕方をも教えてもらうということです。AとCとEに力点を置けばこんな風に全体が見えてくるとか、AとDに力点を置けば五つの関係がこう把握できるとか、そうした全体の把握を教えてもらうことが大切なのです。
     これは、言い換えれば、教科の教授にあたっては、明示的に口にはだされなくても、教えられることの全体から、ある種の思想が醸し出されているということでしょう。
     単に教わることと、教わったことを体得することとは違います。体得するためには、全体を把握する何らかの思想をもっていなければなりません。だから、単にA、B、C、D、Eという五つの項目を教えてもらうだけではなくて、その五つの項目の体得している一つの事例を教員に示してもらうことが大切なのです。
     小学校の算数ってすごく難しいですよね。たとえば小四ぐらいでかけ算の概念が拡張されます。それまでは個数を考えていたのに、0.1をかけるという事例にまでかけ算が拡張されるからです。この場合、小学生に「ここでかけ算の概念が拡張されているのだ」と言ってはダメですね(まぁ、子どもによってはそう教えてあげた方がいい場合もあるでしょうが…)。
     でも、算数における概念の拡張について、教える側が一定の思想を持っていれば、子どもたちに対する説明の中にそれが現れるはずです。そして、ある程度の期間にわたって同じ人物が教えるのであれば、数学的概念の拡張についての同じ思想のもとで、複数の概念の拡張が──「概念の拡張」という言葉を使わずに──教えられるわけですから、子どもたちには理解しやすいはずです。子どもたちは「ああ、この前のあのパターンと同じだ」と思えるわけです。
     こう考えてくると、教師から教わるということにはやはり大きな意味があると言えます。
     但し、生身の教師でなければならないのかどうかというとちょっと話は難しくなります。
     たとえば僕は、哲学者について勉強する時、その哲学者の思想をつかみ取ろうとします。実際に述べられていることではなくて、述べられていることの背後にある思想ですね。それをつかみ取ろうとする。
     もしもそのような態度で算数の教科書に臨むことができるのであれば、やはり一冊の算数の教科書は一つの思想をもって書かれているでしょうから、その生徒は全項目を、その背後にある思想を含めて理解することができるでしょう。
     しかし、このような仕方でのテキストからの思想の読み取りは、研究という仕方で一つのテキストに何度も何度もアタックする形で取り組めるから可能なのであって、毎ページに新しい項目が現れる算数の教科書に小学生が取り組む際や、今まで学んだことのない言語を勉強したりする際にはとても無理です。
     だから、やはり生身の教師に教えてもらった方がいいのです。その教師の思想に基づいて、各項目を手取り足取り教えてもらった方がいいのです。
     世の中には、生身の教師に教わらなくてもそうした思想を読み取れる人もいます。そういう人はしかし稀です。
     やはり勉強する際には、誰かから教わった方がいい。繰り返しますが、それは教わる内容の把握の仕方、体得の仕方を教えてもらえるからです。
     
     さて、ここまで随分と長くなってしまいましたが、次は簡単ですね。勉強するにあたっては強制があった方がいい。
     僕はお金を支払って語学の学校に行ってました。もちろん、それまでも何度かギリシャ語の教科書とか買って自分でやろうとしたんです。でも全然ダメです。そういうことができる人もいると思うんですけど、ほとんどの人は無理だと思いますね。続かないんですよ。
     僕の場合は研究の上で絶対にこれが必要でしたので、それが大きな後押しになりましたが、お金を払っているとか、毎週会っている先生と仲良くなるとか、そういうことも大切なんですね。「ああ、休むわけにはいかないよなぁ」とか思えるとか。
     なんで強制がないとダメかって言うと、勉強はつらいものだからです。〝強〟いて〝勉〟めるんですよ。「勉強って楽しい!」というのは噓というか、少なくともミスリーディングですね。勉強を積み重ねて、どこかの時点で何かが分かった時がものすごく楽しいのであって、積み重ねていくこと自体はやはり苦労ですよ。
     もちろん、勉強することそのものに慣れるということもあって、そうすると積み重ねるのに時間がかからなくなって、「分かった!」という結果にすぐにたどり着けるようになります。そういう場合には、勉強していても楽しいことが続くということになる。でも、これは上級編の話です。
     つらいんだから、強いられないとダメ。それにはカネを払うとか、人間関係上の強制力を働かせるとか、学校に行くとか何か工夫すべきですね。
     
     さて、そろそろご相談いただいた内容に入りましょう。まずは、スーパームーンさんのご相談ですね。文献を読むということについて。もっと読めるようになりたいということでしょうか。【1】スーパームーンさんは職業柄なのか、相談あるいは質問するのが得意な方のようです。
     「國分先生は難解の文献を日々読まれていますね。どのように理解して身体的なことばに表現される技術をお持ちなのでしょうか。/才能だとは言わないでください。習熟とも言わないでください。」
     
     そうですね、才能とか習熟とか言われても何も分かりませんよね。
     才能も習熟も関係しているとは思いますが、大切なのは、最初からそれをやってみることだと思います。どういうことか。
     スーパームーンさんは文献を深く理解したいわけですよね。そうしたら、深く理解したいその文献に、今すぐ、深く理解できるまで取り組んで下さい。
     ふざけて言っているのではありません。どういうことかというと、「深く理解する」ということがいつかできるようになって、それから何かを深く理解し始めるのではないということです。単に、ある文献に対する浅い理解、別の文面に対する中途半端な理解、また別の文献に対するそれなりの理解……そうしたものがあるだけなのです。だから、深く理解したい文献があるなら、それを深く理解するよう今すぐに取り組む、それしかないのです。
     深く理解したい文献が特にないのに、単に「文献を深く理解したい」とお考えならば、それはいつまでも達成はできません。言っている意味がわかるでしょうか。「理解したい」という欲望の問題とも関係していますが、それともちょっと違います。
     ちょっと難しい言い方をすると、可能性としての能力が可能性として培われ、最終的に自分の中に内蔵される──そんな事態はないということです。
     いや、そんな風に見える事態もあるかもしれないんですが、それは見かけであり、あるいは結果の話です。そういう状態になっているように見えるとしたら、それは単にその人がいくつも文献を深く理解したというただそれだけのことなのです。その状態を「可能性としての能力」という言葉で無理矢理に切りとると、「この人には文献を理解する能力が培われている」と見えるだけです。繰り返しますが、その人は単にそれまで複数回、文献を深く理解してきただけなんですよ。
     これはいろいろな勉強に言えることです。
     たとえば、フランス語で本が読みたいというなら、読みたい本を読めるように努力すればいいんです。「いつの日かフランス語でスラスラ本が読めるように…」ということを夢見て、読解能力を高める訓練を積み重ねても、無駄とは言いませんが、なかなかそういう時はやってこないように思います。 
  • 國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第4回テーマ:「恋人関係について」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.125 ☆

    2014-07-31 07:00  
    220pt

    國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
    第4回テーマ:「恋人関係について」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.7.31 vol.125
    http://wakusei2nd.com

    國分功一郎の人生相談「哲学の先生と人生の話をしよう」最新記事が読めるのはPLANETSのメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」だけ! 過去記事はこちらのリンクから。
    一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ『哲学の先生と人生の話をしよう』。連載再開第4回となる今回のテーマは「恋人関係について」です。
    『哲学の先生と人生の話をしよう』第一期でも反響の大きかったこのテーマ。「ルールを決める」「フリをする」、「アニメキャラに恋している自分と向き合う」ーー國分先生ならではの切り口で、恋人関係に関するみなさんの悩みに答えていきます。
    ■【1】mさん 45歳 男性 埼玉 会社員
     
    恋人とはどういう関係なのでしょう。
    僕は一般的な恋人関係なつきあいかたも有りましたが
    彼女にもまた違うパートナーが居ることもしばしばで
    彼氏とも良好な関係でいてほしいと思っていました。
    恋人で無くなっても友人関係で時々デートする人もいます。
    仲の良い友達と、恋人の違いがよくわかりません。
    セックスの有無というのもザックリしすぎてイマイチしっくり来ません。
    何をもって友人と親友と恋人を分けるのか、どのくらいの関係の密さで分かつのでしょう。
    よろしくおねがいします。
     
     
    ■【2】ぽてりんさん 29歳 男性 東京都 会社員
     
    國分先生
     いつも楽しく拝見させていただいております。
    私は来年30になる男ですが、今まで女性と付き合ったことがありません。
    今まで一目惚れした経験はあるのですが、いざ行動に移る前に以下のように考えてしまいます。
    「人間は遺伝子に抗うことのできる唯一の生物だ。彼女への気持ちも、きっと私の中の遺伝子が子孫を残したいがために、生じさせているに違いない。この気持が遺伝子由来か、私自身から発しているものか精査しなければいけない。」
    などと考えているうちに、時間だけが過ぎ、現在に至ります。
    「恋愛関係について」とは少し議題が異なるかもしれませんが、恋愛状態において行動に至る契機、遺伝子ではなく、自分の意志で行動を起こしているという根拠、その行動が自分の意志から由来するものだと確実に分かる方法なないでしょうか。
    話が抽象的で申し訳ありません。ご意見をいただけると幸いです。
     
     
    ■【3】シュンさん 22歳 男性 北海道 大学生
     
    國分先生、初めまして。シュンと申します。
    僕は現在22歳、大学4年生で、付き合って9ヶ月になる3つ年下の彼女がいます。今日相談したいのは、彼女との関係、および僕の不可解な精神構造のことについてです。
    まず、僕が何を問題視しているかと言いますと、僕は心の底から他人を求めている一方で、心の底から他人を拒否していることです。僕はもともと寂しがりやで、常に他人が近くにいて欲しいと思っています。その一方、一定以上仲良くなろうとすると、なぜか拒否してしまうらしいのです。友達からは「なんか壁がある」と何度も言われたことがあります。
    前は友達との関係だったので、それほど悩んでもいなかったのですが、彼女と付き合い始めてから、深い関係になろうとしてもなれないことに愕然としました。彼女が本当にいて欲しいところ、心の深い部分にいないのです。精神的にもっと近くにいて欲しいのになぜかそれが叶わないのです。
    彼女の方に問題があるではないかと思われるかもしれませんが、彼女は僕を受け入れようとしてくれていますし、彼女には一切問題が見当たりません。そのことを彼女にも相談しましたが、「どうしたらいいのか分からないけど、できることがあるなら協力する」とのことでした。
    ちなみに原因を(國分先生オススメの)二村ヒトシさんの「心の穴」理論で考えてみたのですが、他人を拒否するほどの傷は思い当たりませんでした。単純に傷つくのが怖いとかそういうことなんでしょうか・・・。
    友達はまだしも、彼女と深いつながりを感じられないのは非常にツライです。何かアドバイスがあれば教えてください。よろしくお願いします。
     
     
    ■【4】イタイさん 20歳 女性 神奈川 学生
     
    はじめまして。私はアニメが好きなオタク女子です。
    突然ですが、私はとあるアニメのキャラクターと結婚したいと考えています。そのアニメは去年の夏、放送を終えましたが、その気持ちは収まっていません。
    彼の誕生日には愛妻弁当(という設定のもの)をつくったり、自分の誕生日に購入したデジタル一眼には彼の名前をつけました。彼との結婚生活を妄想するのも日課になり、その内容をTwitterのbotで垂れ流しています。
    そんななか、今年の夏にそのアニメの二期が始まることになりました。これは二期の放送前に書いていますが、二期に対して不安でしかありません。恐らくそれは、この一年の間に私が愛した彼と、二期のアニメに登場する彼は違う存在のような気がしてならないからだと思われます。
    彼に出会ってからは、彼氏がいないことになんの不安も抱えなくなっていました。私にとって彼は擬似彼氏的存在になっており、心の支えなのです。しかし、二期が始まることでその支えはとても不安定なものとなってきました。
    もし、この支えがなくなってしまったら私はどうすればいいのでしょうか。恋愛に対しての思考を全て彼に捧げてしまっているため、これから先自分がどうなってしまうか分かりません。私は彼にどう接していけば良いのでしょうか
    何かアドバイスがいただけると嬉しく思います。何卒、よろしくお願いいたします。
     
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     
     皆さんこんにちは。暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
     今回は「恋人関係について」というテーマで相談を募集しました。条件として、「結婚あるいは結婚に相当する関係の問題は除く」としておきました。
     このテーマを選んだのは、最近、学生に対して、「恋人関係は重要である。恋人関係は人生を大きく左右する」とお話しする機会が多くあったからです。
     結婚は公的な関係ですから、周囲がいろいろ言ってくれることもあるんですね。まぁ、口出ししやすい。
     けれども、いわゆる「付き合ってる」関係だと、全くもって私的な関係ですから、周囲はいろいろ言いにくい。しかし、それにもかかわらず恋人関係は生活に大きな影響を与えます。人生を左右することも稀ではありません。
     最近、恋人間のDVがきちんと問題として取り上げられるようになりました。とてもよいことだと思います。恋人同士であろうと、暴力が許されないのは当たり前です。
     でも、問題はそうした物理的な暴力だけではありません。言葉の暴力はもちろんですが、むしろ、そうしたDV的な関係の背景にある「心の支配」こそが最大の問題です。
     相手に心が支配されていると、ただ一方的に尽くすだけになってしまいます。周りから見ると恋人から搾取されているのは見え見えなのに、自分ではそれに気づかない。それどころか、「自分が頑張らなければだめなのだ」と自分に言い聞かせたりする。しかも、心のどこかで、搾取されているが見え見えであることも分かっているのでしょう、そうした関係を他人に対して隠すこともあります。
     二村ヒトシさんがこんなことを書いています。
     
    《「与えることが愛情だ」と思い込んで彼に尽くしまくった結果、ひどく傷ついている女性が、あなたの周りにもいませんか?/恋人を甘やかして、彼のムチャクチャな要求に応えつづけたり、侮辱されたのに彼が謝らなくても、許してしまったり。無理をして金品を貢いでいたり、肉体的・精神的な暴力を受け続けていたり。/それでも「いつか彼が変わってくれるのを信じている。彼を『まとも』に変えてあげられるのは私の愛だけ」と思ってしまう。/そういう女性は、自分が傷つけられることでしか「恋愛しているという実感」を得られなくなってしまっているのかもしれません。あなたも、自分がガマンすることが「彼を愛することだ」と勘違いしたり「彼を変えてあげられるのは、私だけ」と必死になった経験はないでしょうか。/でも、それは「相手を愛している」ことには、なりません》(『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』、p.31-32)。
     
     二村さんは「自分自身を受け入れていない人」がこうなる可能性が高いことを指摘しています。自分をきちんと肯定できていない人は、相手をきちんと肯定できないのでしょう。そして、きちんと自分を肯定できていない人を嗅ぎつける人間というのが世の中にはいて、近づいて来てその人間の心を支配するのです。
     二村さんの本は基本的に女性に向けて書かれているので、自分をきちんと肯定できていない女性のことが主に書かれているわけですが、こうしたことは男性にももちろん起こります。つまり、恋人関係において、男性が女性に心を支配される場合もあります。
     この「心の支配」の細かな分析はここではやりません。問題はそれに対処する方法です。僕はこれはそんなに難しくないと思います。周囲の人がきちんとそのことを指摘してあげればいいのです。
     「心の支配」とは何か?などと難しく考える必要はありません。見ていればすぐに分かるからです。それが見て取れたら、遠慮などしないで「お前さ、あいつとの付き合い方、ちょっとおかしいんじゃない?」とか言ってあげるのです。
     もしかしたら、そういうことを指摘されると怒り出す人がいるかもしれません。怒り出したら、その指摘が正しいということです。人は正しいことを指摘されると怒りだすのです。興奮が静まったら、そのことを言ってあげればいい。熱心にそれを否定し始める場合も同様ですね。
     ただ、分かってはいるのだが、なかなかその問題について切り出せないとか、別れられないという場合が一番面倒ですね。この場合は相当仲がよい友人でないと、根気よく話を続けることはできないかもしれません。それでも、周囲から一言でも指摘されることには意味があります。
     僕らは学校でいろいろなことを学びます。勉学はもちろんですが、それだけではない。クラスでの振る舞い方、対人関係なども学校で学んでいます。明らかに学校はそうした目的も考慮した上で設計されています。なぜならば、社会で生きていく上で、文章が読めたり、計算ができたりするのと同じように、対人関係が重要であるからです。学校制度はそのことを踏まえて作られているのです。
     ところが、学校は恋愛関係の学習をその目的から除外しています。学校には恋愛関係を教える機能はありません。そして、学校以外のところにも、恋愛関係について教えてくれる場はありません。不思議です。人間は生きていたらどうしたって恋愛を経験します。ところがそれについて教えてくれる場はないのです。
     僕は学校が恋愛を教えるべきだなどと言いたいのではありません(それは大変恐ろしいことです!)。学校が対人関係をも学ぶ場として機能していることの意味を考えれば、どこかで恋愛についても学べるようになっていて然るべきではないかと言いたいのです。
     二村さんの本などは大変その意味で有益です。恋愛について考える上で参考になる本を、もう一冊、紹介します。こちらは女性が書いたものです。綾屋紗月さんの『前略、離婚を決めました』(理論社、2009年)という本です。綾屋さんはご自身が幼い頃から抱えていた生きづらさから話を始めています。僕は、綾屋さんが、後に結婚し、そして離婚することになる彼氏との関係の中で感じていた楽しさとつらさの描写が心に刺さりました。
     また、これはとても勇気が要ることだったのではないかと思いますが、綾屋さんはセックスのことについてもお書きになっています。詳しくは説明しませんが、第五章「エッチと暴力」の「望まないセックスになだれこむ」という節はとても深く印象に残りました。 
  • 帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』 第3回テーマ:「職場内の人間関係に関する悩み」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.102 ☆

    2014-06-27 07:00  
    220pt

    帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』
    第3回テーマ:「職場内の人間関係に関する悩み」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.6.27 vol.102
    http://wakusei2nd.com


    これまでの連載はこちらから
     

    ▲國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』朝日新聞出版
     
    一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、
    書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ
    『哲学の先生と人生の話をしよう』。連載再開第3回となる今回のテーマは「職場内の人間関係に関する悩み」です。社内の非効率な運営に抗うために必要なものと、職場の同僚に恋してしまったときに取るべき行動には、ある共通点があった――?
    それでは、さっそく今回寄せられた4つの相談を紹介していきましょう。




    ■匿名希望 23 女性 東京 IT会社のOL
     
    はじめまして。都内のIT会社に勤めている者です。
    昨年の末に今の会社に就職しました。周囲は若い人が多く、華やかな職場です。
    そのせいか、男性の同席する飲み会に誘われることが多く、困っています。
    私は世間話をするのがあまり得意ではなく、大勢で盛り上がるのも苦手です。
    どちらかといえば、好きな映画の話や、今何が流行っていて、どんなものが面白いかを延々話しているのが好きです。
    飲み会で真面目な話を始めると大抵顰蹙をかいますし、ぱーっと盛り上がって馬鹿みたいに騒ぐのは実りがなくて虚しく思ってしまいます。
    かといって、同席している男性と真面目な話をひっそりと始めると、好意を持っているように取られて面倒です。
    若くて華やかな女の子がいるだけで良いからと頻繁に声をかけられるのですが、そんなことに時間を割きたくないのにな……と落ち込んでいます。
    それより家に帰って映画を見たり書き物をするのに時間を使いたいのですが、職場の女の子からは「モテるのは今の時期だけだよ。今遊ばないでどうするの?」と冷ややかな目で見られてしまいます。
    何かと理由をつけては飲み会を断っているのですが、日に日に社内のチームの中から浮いてしまって、少し居心地が悪いです。(女子しかいない少数の仲良しチームで、私が一番年下です)
    男性の話ばかりするチームの人たちと少し距離を取りたいのですが、同じチームの中でどのようにふるまったら淡々と仕事に集中できるようになるのかな、と悩んでいます。
    小さな悩みかもしれませんが、ご助言いただければ嬉しいです。よろしくお願いいたします。
     
     
    ■illbevivi  22 男性 埼玉県 会社員
     
    國分先生、はじめまして。いつも様々な媒体での書き物を拝読させて頂いております。突然ですが、今回私が相談させて頂きたいことは、職場の同期社員に対する恋愛感情への対処法についてです。
    私はこの春大学を卒業し、就職した新社会人の男です。
    慣れない社会人生活に四苦八苦しながら、少しずつ仕事に楽しさを感じ始め、何とか今日までやってこれています。
    そんな生活の中で、同じ会社の同期社員の女性を好きになってしまいました。
    彼女は誰に対しても平等に接し、正直に不器用に、一生懸命に生き、よく笑う方です。そんな彼女の笑顔は周りの人間を知らず知らずのうちに惹きつけ、彼女はいつも人の輪の中心にいるような子です。
    そんな彼女の魅力にすっかり虜になってしまった私は、戸惑いのあまり、出会って日も浅いというのに想いを伝えてしまいました。(大学在学中から交流はありましたが、知り合ってから9ヶ月程度です。)
    私の告白を彼女は真摯に受け止めてくれましたが、会社というコミュニティの中で恋愛関係を持つことは避けたい、本当に信頼出来るパートナーとしか男女の関係にならない、とお断りされてしまいました。
    それからの二人の関係は以前の関係に戻りましたが、しかし、以前よりも互いに心を開くようになったと思います。
    二人の間でしか話せない愚痴や相談もし合うようになり、心を許してくれたのではないかと思います。
    そして時折好意を持たれているのではないか、という態度をされることも多くあります。私に「好き」と言わせるために意地悪な質問をしたり、私が彼女と仲の良い先輩社員に嫉妬してしまっていたら、その社員との関係を否定してきたり、都合良く解釈すれば、好意があるようにしか思えない態度です。しかし、事あるごとにあくまで友人だと釘を刺されてしまうのです。
    確かに彼女は誰に対しても平等に接する方で、誰に対してもいわゆる「思わせぶり」な態度を無意識にとってしまう方なので、仕方がないのだとは思います。
    そんな彼女と、近づきすぎず離れない、いびつな関係のまま、ここ数週間を過ごしています。
    こんな関係のせいか、職場でも彼女のことばかり意識してしまい、仕事に集中出来ない日ばかりです。そしていつも人の輪の中心にいる彼女に対して、嫉妬心すら覚えてしまうことも多々あります。
    私としては、仕事に集中するためにも早くこの不確かな感情、関係を処理してしまいたいと思います。
    しかし今再び想いを伝えて男女の仲になることを望めば、拒否されてしまうでしょう。このまま自分の気持ちを押し殺す選択も出来るのかもしれませんが、耐えられる自信がありません。
    やはり彼女がパートナーを選ぶ条件として望むように、本当に信頼出来るパートナーになるべく努力するしかないのでしょうか。
    人に信頼される、人を信頼するとは、どのようなことなのでしょうか。
    信頼とは、そもそも何なのでしょうか。
    是非國分先生のお知恵をお借り出来ないでしょうか。よろしくお願いいたします。
     
     
    ■たまこ 20代 女性 東京都 会社員・事務
     
    國分先生、はじめまして。
    私は繊維関係の会社で内勤をしています。今年から社会人になりました。
    職場にクソムカつく女性の先輩社員がいるのですが、この人と今後数十年にわたりうまくやっていく自信がありません。先日からその先輩は産休に入られているのですが、彼女が産休を終えて戻ってくる一年後までに、転職したいくらいの気持ちです。
    何がムカつくかというと、まず初日から嫌にキツい。無駄に厳しい。入社初日にいきなり作業を任されて、ビクビクしながらやって見せたら「殆どダメ」…ったりめ~~だろがぁ!?!…と、言いそうになりました。
    入社後一ヶ月経たない新入りに対して、「全体を見て行動しろ」「パートさんがやりやすいように気を配れ」だのいきなり言われて、それは自分の指導力の乏しさと怠慢を棚上げしてるんじゃないか…と、つい、恨みつらみを述べたくなってしまいます。
    私に甘えがなかったとは言い切れないのですが…。
    先輩社員が復帰してきた際に、私はどういう気持ちで迎えればいいのでしょうか。
    アドバイスをいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。
     
     
    ■ピッピちゃん 20代 女性 埼玉県 学校教員
     
    はじめまして。私は教員の仕事をしている20代です。
    今年から新しい学校に配属されることになりました。
    いまの学校では、細かいことにこだわる上司が多くて窮屈です。おおらかな先輩も少数ながらいらっしゃいますが、彼らの発言は軽視されてしまいがち。私はどちらかといえば大雑把な性格なので毎日しんどいです。
    たとえば、賞味期限切れのヨーグルトが冷蔵庫の中にあっただけで、朝礼で「食中毒が広まったらたいへんだ」と注意されたりします。
    また、仕事の性質上残業代がつかないのですが、『残業して遅くまで頑張ってる人は偉い』的な空気がどことなくながれており、だらだら残ってる人が多くて先に帰りづらいです。
    そして『自分を追い込むこと』に酔ってる方が多く、精神疾患で休職する方が多いのにも頷けます。
    子どもたちと触れ合うことはとても楽しいのですが、職員室の人間関係がとてもたいへんで、憂鬱な日々を送っています…。
    なんとかやり過ごすアドバイスがあれば教えていただきいと思い、ご相談しました。どうぞよろしくお願い致します。
     どうも、國分です。
     「職場内の人間関係」をテーマに相談を募集しました。僕としては組織の問題、業務を円滑に進めるための組織運営の課題など、そういったことが相談として寄せられるのを予測していたんですが、ふたを開けてみると、そうななりませんでしたね。「ちょっとビジネスっぽいのもいいだろう」と思って出したテーマだったんですけど、やはり人が悩むのは、ビジネス的なことより、パーソナルなことなんでしょう。
     でも、とりあえずはいつものように、最初に考えていたことを書きますね。相談にお答えするにあたっては全然役に立たない話かもしれないんですが、職場の問題として僕が考えていたのは、実は民主主義のことです。
     最近、大きな流れとして民主主義は劣勢にあります。評判が悪い。「民主主義」という言葉そのものを挙げてこれを叩いていなくても、民主主義的な運営方法・決定方法そのものは、様々な場面で攻撃されています。その際、根底にある考えというのは次のようなものです。
     民主主義的に皆の意見を汲み上げて決定を下すやり方は時間がかかるし、効率が悪い。それよりも、トップにいる者が決定を下す方が効率よく状況に対応できる。したがって、トップに判断の権限を集中させることは、民主主義という尊重されるべき建前こそ蔑ろにされるものの、組織を効率よく効果的に運営することにつながる…。
     こんな考えですね。
     僕はこの考えが間違っていると思うんですけど、それは「民主主義が大切だ!」「民主主義を蔑ろにするとは何ごとか!」といった教条主義的な民主主義信仰から言うのではありません。全然視点が違うんです。僕のは
     「あのさ、トップに判断を任せれば効率よくなるなんて、本当考えていることの数が少ないよね。そういうことやってたら効率悪くなるってことも分かんないの?」
     って発想なんです。つまり、効率的な組織運営を目指すならば、やはり民主主義的にならざるを得ないという発想です。そう発想する理由はいくつかありますが、いずれも簡単なことです。
     まず、トップが何でも勝手に決定を下していたら、その決定に従わされる方はどう思うでしょうか。もちろん気にくわないわけです。自分たちの意見を聞いてもらえないのだから、やる気がなくなるわけです。いかなる組織運営もモラール[目的を達成しようとする意欲や態度のことで、道徳意識を意味するモラルとは区別されます]の問題を無視できない。特に経営というのはそういうところに細心の注意を払って行われるし、経営学ではモラールを高い水準で保つかについてたくさんの研究の蓄積があります。そういう経営あるいは経営学的な視点が全く欠けているのに、まるで自分がビジネス的センスを持っているかのように錯覚した人間が抱くのが、先のような「トップダウンの方が効率的」という短絡的発想です。
     次にトップに立つ者の限界があります。トップに決定権を集中させると、その人間が独裁的になることが考えられ、またそれがしばしば批判されます。確かにそういうこともあります。しかし、現実に最も多く起こるのは、一人の人間が独裁的になるというより、その人間の周囲にいる取り巻きが、分野ごとにバラバラに勝手な決定を下すようになるという事態です。
     一人の人間にできることは限られています。権限ならばどんな人間にもいくらでも付与できますが、しかし、その権限を使いこなす能力をその人間に付与することはできません。強大化した、あるいは肥大化した権限は、はっきり言って誰にも使いこなせない。するとどうなるか。その人は周囲に相談します。そして周囲にいる人間が事実上の決定を下すようになるのです。「あなたにこの件は任せる」となって、もはや相談すら行われなくなることもしばしばです。
     そうした事態が増えていくと、各分野で行われる決定のプロセスに、もはや最終責任者であるトップの人間すら全く関われないようになってしまいます。しかも、形の上ではトップが決めていることになっているのだから、この事態をルールや権限に基づいて批判し、是正することもできない。アナーキーに近い状態が訪れることになるのです。しかも、事実上の決定者は各分野に別々に活動しているから全体のことを知りません。自分の見えている範囲の情報だけで決定を下すようになる。効率的な全体の運営が損なわれることは言うまでもありません。
     三つめは失敗に関わることです。人は必ず失敗します。間違えます。そうした時には、失敗したり、間違えたりした人間は責任を取らなければなりません。すなわち、何らかの不利益を甘受しなければならない。責任を担うに際して与えられた地位からの降格などが、そうした甘受すべき不利益の代表です。ところが、もちろんそれは不利益ですから、蒙りたくないわけです。隠したり、ごまかしたりできるなら、そうしたいわけです。そして、隠したり、ごまかしたりするのに十分なだけの権限がその人間に与えられていたらどうするでしょうか。隠したり、ごまかしたりするでしょう。やりたくて、できるなら、やるんです、人間は。
     しかし、そこで隠されたり、ごまかされたりしたのは、失敗であり、間違いです。それは何らかの不利益を組織の全体に及ぼすから失敗であり間違いであるわけです。では、それを隠したり、ごまかしたりしたらどうなるか。その不利益が是正されずに、そのまま残り続けることになります。一度、隠したり、ごまかしたりした人間は、もうそれを止められません。ですから、同じことは繰り返されます。隠され、ごまかされた失敗ないし間違いは、最終的に累積し、組織に壊滅的な打撃を与えることになるでしょう。分かりやすい例は粉飾決算なんかですね。
     哲学者のハンナ・アレントが、ベトナム戦争時におけるアメリカ政府の政策決定過程を詳細に調査したCIAの秘密報告書「ペンタゴン・ペーパーズ」という文章を分析しているんですが(「政治における噓」、『暴力について』〔みすず書房〕所収)、その中に笑えない話が出てきます。ベトナム戦争遂行を支える理論として当時、「ドミノ理論」というのがありました。一つの国が共産主義化すると、周辺の国々もドミノを倒すように共産主義化するという理論です。僕もそういう理論に基づいてベトナムの共産主義化を阻止するという理由でベトナム戦争が行われたのだと思っていました。
     ところがCIAが作成した「ペンタゴン・ペーパーズ」によると、政府内で「ドミノ理論」などというものを信じていたのはたった二人だけだったというのです。どういうことでしょうか。これは、泥沼化してもうどうしようもなくなった戦争に、もっともらしい理由を与えるためにでっち上げられた理論に過ぎなかったということです。噓に噓を重ねて続けられた戦争は、その噓を更に続けるための理論まで生み出したのです。
     他にもいくらでも理由を挙げることができますが、トップに権限を集中することが組織運営の非効率化をもたらすというのは明らかです。というか、絶対王政の時代にそのやり方がどうしようもない事態を生み出し、それに対する反省から民主主義も出てきたのです。歴史的にこっちの方がいいという考えで採用されてきたものなのです。
     民主主義は公開性を原則としています。様々なデータを原則的に民衆に公開するということです。そこから決定に至るまでには時間がかかります。しかし、長い目で見れば、このやり方こそが、組織の効率的運営を生むのです。「トップに判断の権限を集中させることは、民主主義という尊重されるべき建前こそ蔑ろにされるものの、組織を効率よく効果的に運営することにつながる」などと言っている人間は、歴史も現場もビジネスも分かっていないのに自分が現実を知っているかのように振る舞っているという意味で、ある種の中二病にかかっているようなものです。
     そしてこうした判断の愚かしさは、仕事の現場にいれば、非常に強く実感できることであろうと思います。上が勝手に物事を決めていたら、誰でもイヤになります。権限がトップに集中すると取り巻きが強い影響力を持つようになります。失敗をごまかせるのはもちろん、権限が過剰だからです。モラールを高め、組織全体を考えた決定を下し、失敗の隠蔽を避ける、そのためには公開性に基づいた民主主義的な運営がはやり必要です。それがあればすべて問題なく事が運ぶという意味ではありません。そうではなくて、いかなる場合も、民主主義的な運営を基礎とし、その上で事業や運営に全力で取り組まねばならないということです。
     さて、ここまで読んできて、「恋愛とか嫌な上司とかいわゆる付き合いの悩みに答えるのに何の役に立つんだよ」と思われた方も多いと思います。僕も最初は「毎回、最近考えていることを書くことにしているから、まずはとりあえず書くか」という気持ちで書き始めました。しかし、書いているうちに一つのことに気がつきました。そしていま書いたことは実は無意味ではないという考えに至りました。
     今回の四つの悩みに共通しているのは、自分に対する自信のなさではないでしょうか。自分には飲み会よりも大切なことがあるのに、それをはっきりと打ち出せない。仕事に打ち込んで人に信頼されるようになりたいが、それができない。クソむかつく先輩社員のおかしな業務命令に対してはっきりとものが言えない。些末なことばかり気にする職場で、「自分を追い込む」ことに酔っている連中に囲まれていて、先に帰宅することもできない。
     四つの悩みを並べてしまうのは乱暴かもしれませんが、僕には、「それはおかしい」とか「これが正しいのだから私は正しいことをやる」といった態度に出られない、自信のなさこそが悩みの根底にあるように思いました。ではどうしたらいいか。 
  • 帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』 第2回テーマ:「他人と一緒にいること」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.082 ☆

    2014-05-30 07:00  
    220pt

    帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』第2回テーマ:「他人と一緒にいること」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.5.30 vol.82
    http://wakusei2nd.com

    かつてこのメルマガで連載されたあの伝説の人生相談が、満を持して再登場! 連載再開2回では、「他人と一緒にいること」にまつわる悩みに國分先生が答えていきます。
    『哲学の先生と人生の話をしよう』連載第1期の内容は、
    朝日新聞出版から書籍として刊行されています。

    ▲國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版、2013年)
     
    書籍の続編となる連載第2期「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」の最新記事が読めるのは、PLANETSメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」だけ!過去記事はこちらのリンクから。
     
    連載再開第2回のテーマは、「他人と一緒にいること」。
    恋人でも結婚相手でも、友達でも同僚でも、子どもでも――。
    誰かと一緒にいることについての悩みに、國分先生が答えていきます。
    それでは、さっそく今回寄せられた相談を紹介していきましょう。
     
    ■Q1.「母親が遺した飼い犬がどうしても好きになれません」
    コクリコ 37歳 女性 大阪府 自営業
     
     國分先生こんにちは。37歳自営業の兼業主婦です。昨年母が亡くなり、飼っていた犬を引き取りました。一緒に暮らし始めてから一年余りになりますが、正直可愛いと思ったことは一度もありません。母が甘やかしたため我儘放題で、仕事や家事で疲れている時に吠えまくられたりすると「早く死ねばいいのに。」としか思えません。
     もともと犬が苦手というのもあるのですが、それ以上に母との関係が影響しています。
     うちは母一人子一人の母子家庭だったのですが、私が赤ん坊の頃に母が失踪し、5歳まで祖母に育てられました。6歳から再び母と暮らすことになったのですが、母は家事をあまりせず、異性関係も派手で、私はかなりほったらかされて育ちました。しかし5歳まで離れていたせいか「この人に母親らしいことを求めても無駄だ。」と早い段階で悟り、グレたりはしませんでした。
     大人になってからは、母とは親子というより友人のような関係で、最後まで仲は良かったです。
     母は昔から犬を欲しがっていましたが、私はずっと反対していました(母にちゃんと世話ができるとは思えなかったため)。しかし母は10年前、ペットショップで一目惚れしたトイプードルを私に相談もなく衝動買いしたのです。
     私は犬との生活が嫌で家を出て一人暮らしを始めました。数年後母が病に倒れたため実家に戻り、その後私が結婚するまでの5年間はまた一緒に暮らしましたが、母が入院中などどうしても世話ができない時を除いては、犬の存在は極力無視して暮らしました。
     母は予想に反し、犬の面倒をよく見ました。昔から「低血圧で朝は起きられない。」が口癖で、朝食も弁当も作らなかった母が、犬にはちゃんと午前中に起きてご飯をあげていました。
     恥ずかしいことですが、私は犬に嫉妬したのです。私が母にもらえなかった愛情を、何故犬がもらえるんだと。國分先生ともんじゅ君との対談にもあった「私は我慢してきたのに」という感情にとらわれているのだと思います。おそらくこの感情を完全に消すことは一生できませんが、何とかこの感情と、そして犬と、上手くつきあっていくヒントをご教示いただければ幸いです。
     
    ■Q2.「他人の欠点に目が行ってしまい、嫌いな人には真逆の態度をとってしまいます」
    もちぷに 22歳 女性 東京 学生
     
    國分先生、始めまして。ご相談させていただきます。
    私は、現在22歳の学生です。
    (相談に関係のない蛇足ですが、哲学科の者で、先生が書かれた御本をとても面白く読ませていただきました)
    私の悩みは、他人と一緒にいる時に、いちいちその人の欠点に目が行ってしまうことです。
    もともと、誰かと接する時には、この人はこういう考え方や性格の特徴がある人かな、と考えることが好きなのですが、最近それに加えて「この人は子供っぽいな、あんまり関わりたくないなあ」とか「この人はこういうところが頭が悪いなあ」などという判断をしてしまうようになっていました。
    さらに、特に悪い評価や印象を受けた人に対して、私の実際の態度は、なぜか真逆に現れます。
    やさしくしなければ!という思いが出てきて、親しいコミュニケーションを取るようになり、表面上は普通の友だちのようになってしまいます。
    相手に対する評価をしてしまうことと、実際の行動がちぐはぐになってしまうことが、今回のご相談です。
    拙文ですが、お返事を頂けると幸いです。
    よろしくお願いします。
      人生相談再開第二回のテーマは「他人と一緒にいること」にしました。
     このテーマは最近僕が強い関心をもって取り組んでいるものです。実は哲学ではなぜ人が人と一緒にいたいのかについて十分に考えられてきていません。個人がどう生きるべきか、社会の中でどう生きるべきかなどはたくさん論じられています。また、愛とは何かとか、友情とは何かなどもたくさん論じられています。しかし、もっと素朴な問い、なぜ人は誰かと一緒にいたいと思うのか、これが論じられていないんです。
     但し、この問いを逆側から考えた哲学者はいます。それがルソーです。ルソーは『人間不平等起源論』の中で自然状態について考えました。これは一七世紀から盛んに論じられていた概念で、社会や決まり、権力や権威などが一切存在しない状態のことです。生のままの自然の中にいたら人間はどう振る舞うか、それが様々な仕方で考えられたのです。いくつかのバージョンがあるんですが、ルソーのは次のようなものです。
     ルソーによれば、人は自然状態においてはバラバラに過ごしています。なぜなら人は好き勝手に自分の好きなことをしたいからです。食べたい時に食べ、寝たい時に寝る。ですから、平和です。もちろん、小さな小競り合いなどはあるでしょう。しかし、人がバラバラなんだから集団がない。集団がないから戦争もない。ケンカがあるだけです。
     ルソーの自然状態論は、しばしば性善説のように理解されることがあります。しかしそういうことではありません。そうではなくて、自然状態では人間が邪悪になるような条件が整っていないのです。たとえばジル・ドゥルーズはルソーの自然状態を説明して、「相続という制度が発明されれば、人が他人の死を望むことは避けがたい」と言っています。地位や身分が作られれば、人を妬んだり恨んだりもするでしょう。しかし自然状態ではそういうものはない。だから邪悪になりようがない。比較的平和に、そしてバラバラに生きている。
     ルソーはこのバラバラに生きているという点にこだわっており、それを理解せずに半端な自然状態論を展開したジョン・ロックを批判しました。ロックは自然状態にも所有権が認められており、家族があると言いました。男女は交わりを経験すると、生まれる子どもへの自然な愛情を抱き、それによって結びつくと考えたのです。ルソーに言わせれば、ロックは実に抽象的に考えています。セックスをしてから子どもが生まれるまでは10ヶ月ある。この妊娠期間中に男が女に付いて離れずにいる理由はないというのです。「なるほど」と言わざるをえません。ロックという人の思想は、僕に言わせれば全然哲学になっていない。単なる主張です。ルソーの言う通りでしょう。
     さて、ルソーは人々は自然状態ではバラバラに生活していると言いました。そこにはある種の説得力があります。人は何の規制もなければ好き勝手に生きていたいと望むであろうからです。しかし、我々はそうではありません。本当に少数の例外を除き、人は誰かと一緒にいたいと感じます。これはなぜなのでしょうか? ルソーが言っていることと、僕らの現実の感覚と、いったいどちらを信じたらいいのでしょうか?
     おそらく次のように考える必要があります。ルソーは確かに人間のある種の本性を理論的に正確に考察した。しかし、そこで扱われているのはあくまでも本性です。この本性は具体的な人間が経験してきたような歴史をもっていません。僕らはしかし、本性をもっていると同時に、これまで生きてきた歴史をもっている。
     おそらく、この、一人ひとりの歴史というものが、誰かと一緒にいたいという気持ちを生み出しています。ではこの歴史とは何でしょうか? それはもちろんいろいろな特徴を持っています。ですがここで注目したいのは、人が生きてくる中で経験してきた傷です。
     人は様々に心に傷を負っています。そもそも、突然、母体の外に放りだされて息をしなければならなくなること自体が心の傷です。おっぱいを飲みたいのにすぐにおっぱいが飲めないのも傷です。親がいて欲しいときにいないのも傷です。自分が感じたことを話しても全然分かってもらえないのも傷です。友達とケンカしたり、嘘をつかれたり、悪口を言われたりするのも傷です。
     こうして考えてくると僕らは傷だらけなのです。歴史があるというのは傷があるということです。本性には傷はありません。当たり前です。傷がないピュアな状態を理論的に想定した上で論じられるのが本性でるからです。だから、確かに──現実には絶対にあり得ませんけれど──そういうピュアな状態を生きている人間がいるとしたら、ルソーの言うようなことが起きるかも知れません(しかし、息を吸って現実に身を置いているということ自体が傷なので、これは絶対にあり得ないことです。あり得ないことだからこそ、哲学的な思考によって考えなければならないわけです)。
     さて、傷は癒さねばなりません。僕らは数えきれぬほどの傷を負いながら、それを様々に癒しつつ生きている。こういうものなのだと自分に言い聞かせる。何度も反芻してそれに慣れる。他人のせいにする。やり方はいろいろあるでしょうが(しかしここが問題で、いま僕はこの点に最も関心があり、しかもこれは僕の専門のドゥルーズの『差異と反復』という本の反復概念に関わってくるところでして……ここはいつか本に書きます)、とにかくなんとか癒している。
     しかし、たまに自分一人では癒せない傷もあります。それが酷いと精神疾患になったりします。日常生活を送ることが困難になる。
     とはいえ、治癒は必ず一人で癒さねばならないわけではありません。他人の力を借りて癒すこともできるのです。たとえば、自分だけではどうしても慣れることのできないショックな経験。それを人と共有することで治癒できる場合があります。例えば誰かと話す。苦しい思いを人に話すと楽になるというのは、対話作用を通じて何らかの治癒が起こっているだと考えられます(繰り返しますけど、それが具体的に何なのかが問題で、いまそれを僕も反復概念を通じて考えているんですけどね……)。あるいはそうした癒しの作用が互いに心地よいものであれば、二人は愛し合うということもある。というか、馬が合うとか、お互いに好きになるということの根拠には、こうした作用があるんじゃないだろうか。つまり、人と人とが引かれ合うことの根拠には、歴史という名の、人が負ってきた傷の総体が関係しているのではないでしょうか。
     もちろんこの場合の傷は人間の精神作用では一つ一つを確認することができない無数のミクロの傷です。ですから、人と人が惹かれあう作用は、そうした無数のミクロの傷が総体としてマクロ的にもたらす傾向として考えねばなりません。そして、それは現段階の科学や人間の知では確認できませんので、以上述べたことはあくまでも仮説です。しかし、僕はこの仮説にかなり傾いています(繰り返しますが研究中です)。なお、以上の考えは、歴史という名の傷の総体が人間の性格や存在を規定しているという考えにつながるわけですが、この考えは、「断念の積み重ねが人間の性格を形成する」というフロイトの説とも一致しますし、僕はかなり信頼できるものではないかと思っています。
     さて長々と話しました。ここから相談に取り組んでいきたいと思います。
     もちぷにさんの相談は、「他人と一緒にいること」についての相談ではありません。自己意識の問題です。 
  • 「哲学の先生と人生の話をしよう」特別編!――國分功一郎×二村ヒトシ×有村千佳「ある高校の哲学的な一日」を誌上でほぼ完全に再現 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.075 ☆

    2014-05-21 07:00  
    306pt

    「哲学の先生と人生の話をしよう」特別編!――國分功一郎×二村ヒトシ×有村千佳「ある高校の哲学的な一日」を誌上でほぼ完全に再現
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.5.21 vol.75
    http://wakusei2nd.com

    本日の「ほぼ惑」は、哲学者の國分功一郎さんとAV監督の二村ヒトシさん、AV女優の有村千佳さんが出席したイベント「ある高校の哲学的な一日」のレポートです。身近な恋愛論からスピノザの理論にまで迫っていく知的刺激にあふれた議論を紙上で再現しました。

     
    ■登場人物 國分功一郎
    −1974年生まれ。哲学者。高崎経済大学経済学部准教授。著書に『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)、PLANETSメルマガでの人気コーナーを書籍化した『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)など。
     
    二村ヒトシ
    −1964年生まれ。AV監督。慶応大学文学部中退。1997年アダルトビデオ監督デビュー。「女が強く、男が弱いAV」の第一人者として人気を博す。著書に『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(イースト・プレス)社会学者・上野千鶴子の解説と、二村×國分との対談が話題を呼んだ『すべてはモテるためである』(イースト・プレス)など。
     
    有村千佳
    −1990年生まれ。AV女優。2010年AVデビュー。「かわいくてエロい」魅力と、M男を虜にする「チカッチワールド」の絶妙なトークで世の男性たちを魅了し続けている。出演作に二村が監督する『マブダチとレズれ!』(outvision)など。
     本日の「ほぼ惑」は、2014/3/16(日)に東京ミッドタウンで行われた猫町倶楽部特別イベント、「ある高校の哲学的な一日」の様子をお届けします。本誌の人生相談でおなじみの哲学者・國分功一郎扮する「先生」が、学ラン姿のAV監督・二村ヒトシ、セーラー服姿のAV女優・有村千佳や猫町倶楽部の「生徒」に愛について哲学的授業をするというこの異色の試みは、100名以上が参加し大盛況となりました。
     猫町倶楽部は、毎回一冊をテーマに、時には著者も招いて読書会を行う、日本最大級の読書会サークル。今回、PLANETSでの連載がもとになった『哲学の先生と人生の話をしよう』をテーマにした回でなにやら面白そうな試みがあるらしいということを聞きつけ、PLANETS編集部は特別な許可を得て会場に潜入。本誌の人生相談連載とも関係の深い二村さんの「心の穴」理論から、國分先生の愛の哲学の紹介までを、お二人からも加筆を受けた完全バージョンでお届けします。
     
    ◎構成:立石浩史+中野慧
     

    ▲國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』朝日新聞出版、2013年
     
     さて、今回のイベントは、國分功一郎さんが「高校の先生」に扮し、二村ヒトシさん演じる不良高校生や、有村千佳さん演じる優等生の女子高生と対話しながら哲学の授業をするという形式で進行していきました。
     
    ほんのさわりですが、イベント開始時の様子を2分ほどの動画にまとめています。まずはこちらで当日の雰囲気だけでも味わってみてください。
     

     
     トークは、有村さんから國分先生に対する以下のような問いかけでスタートしました。果たして哲学者・國分功一郎は、この悩みにどう答えていったのでしょうか――?
     

    ▲國分功一郎
     
     
    ■「AV女優になりたい」のはいけないことなのか?
     
    有村 先生、あたし、将来AV女優になりたいんですけど、お父さんやお母さんとか、彼氏に猛反対されるんです。AV女優はちゃんとした仕事で、そんなに恥ずかしいことだとは思わないのに……。AV女優になるって、いけないことなんですかね?
    國分 まあ、とにかくAVでもそうでなくても、一般的に「女優」の仕事ってやっぱり大変なんじゃないかな。「アイドルになりたい」「有名人になりたい」っていう夢を持ってる子に対して、親が厳しいことを言うというのはあるかもしれないな、有村がどうしてAV女優になりたいと思っているのかまだわかっていないんだけど、どれくらい大変かは想像してみたの?
    有村 どれくらい大変かとか、仕事量とかはわからないけど、いまのAV女優さんってすごい可愛い子が多くて、なんかアイドル的な存在になっているから、私もそこに入りたいと思ってて……。
    國分 反対してくる彼氏とか親っていうのは、有村にどうしてほしいって言ってるの?
    有村 「そんなはしたないビデオなんかに出るな」「真面目な仕事をしろ」って言われちゃって……。
    國分 有村がやりたいと思ってることを否定されて、親や彼氏が持っている「こういう仕事がいいんじゃないか」という考えを押し付けられた、ってことだね。
     ひとつポイントになるのは、有村が女優という仕事をどれだけ現実味を持って想像しているのか、ということだよね。もしかしたら「お前が思っているほど楽じゃないんだよ」とか、「ちゃんと現実的に考えられてるのか?」という意味もあるかもしれない。
     ただ、有村が今言ったような悩みはみんなも持っているものだよな。周りが求めているものと、自分がしたいことが一致しなかったり、「他人から期待される自分」のようなものに合わせてしまったりして苦しい思いをしたりする。
     

    ▲國分先生の授業を聞く生徒たち(左から2番目=有村千佳さん、右端=二村ヒトシさん)
     
     
    ■この社会で、「女性である」ということ
     
    國分 それと、有村の悩みに関しては、「男と女の差」も少しあるような気がするな。この社会に生きていると、男のほうが「許されている」と感じたりしないか? 女の子のほうが、社会からの「こうしろ」という圧力がすごく強い、という。
    有村 「守ってあげたい」「外敵に触らせたくない」のような感じで、親の意見を押し付けやすい、というのはある気がします。
    二村 たとえば俺が「AV監督になりたいです」って言うと、止める人も中にはいるけど、わりと放っておかれるね。
     有村が「AV女優になりたい」って言ったら、有村のことが好きな男は傷つくかもしれない。かといって「俺は有村のこと好きだけど、やりたいんだったら応援したい気持ちもある」って言うと有村も複雑な顔をするじゃん。それってAV女優がエッチな仕事だからじゃなくて、普通の仕事をやっていても、たとえば会社でセクハラされたりとかそういう心配もあるし、仕事をいつまでやっていつ結婚するのかというような、女性であることで出てくる問題があると思う。男が「俺は俺だ」というとき、「俺は男だ」ということと矛盾しないのに、女の人は「私は私だ」って言うのと、「私は女だ」、というのは矛盾している感じがするんだよね。
    國分 そうなんだよね。前提としてこの社会で男女平等が全然実現していないのは事実なんだけど、それはそれとして、そもそも個人としての男と、個人としての女にかかってくるプレッシャーの質が違う感じがするよね。
     男なら、自分が男であることを全面に打ち出して仕事をしても許される。でも女だとそれがなぜか否定されてしまうよね。
    二村 先生、昔の偉い哲学者は、こういう問題を抱えた女の人を救う方法を提示してないの?
    國分 昔の偉い哲学者じゃないけど、二村ヒトシっていうAV監督が書いたこの本(『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』)にはそのヒントが書かれているかもな。たとえばこの本には、女の人が母親や年上の女性から「男の選り好みしてないでとにかく適当な男と結婚して、とっとと子供産んじゃいなさい。産めばわかるから」とアドバイスされることが多い、と書いてある。
     俺なりに解釈をすると、まさしく俺の研究していたスピノザという哲学者の言っていることと繋がってくる。スピノザは「人間の根本的な感情は、人を妬むというところにある」と言っているんだ。
     なぜその先輩の女性は「あんた子供産みなさい。そうすりゃわかるよ」と言うかというと、おそらくその人は結婚して子どもを産むときに何かを断念したんだと思う。「結婚したり子どもを産んで、自分の人生の可能性が狭められるのはちょっと嫌だけど、でも周りから求められるから仕方なかったんだ」と自分を納得させているんだよね。
     そうすると人間は「あなたは諦めなかったらずるい」「私だって我慢したのにあんたたちだけずるいよ」と、娘や年下の女性に圧力をかけたりすることはあるんじゃないかな。
     たとえば俺のお袋は、女性の専業主婦の割合が一番高かった1970年代半ばに主婦だったんだけど、あの頃主婦だった人たちのなかにはそういう気持ちを持っていた人が多かったと思う。だから、この社会が男中心になっていることももちろん問題だけれど、「負の感情が連鎖して続いていってしまう」という仕組みも、どこかでうまく断ち切っていかないといけないんだ。

    ▲二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』イースト・プレス、2014年
     
     
    ■「私はこうしたんだから、あなたがそうしないのは許せない」という憎しみの連鎖を断ち切るには
     
    二村 でも、問題を抱えたお母さんだけがそれをやるんじゃなくて、先生や男たちもそういういうことをやったりするよね。俺が親になったときに子供にどう接すればいいんだろう?
    國分 まず、自分がされて嫌だったことは子どもに対してしないということが大事だよな。二村は親にどういうことをされて嫌だった?
    二村 殴られたりしてはいないけど、家で酔っ払っているのは嫌だったね。
    國分 でも自分がやられた嫌なことって、けっこう他の人に対してやってしまうんだよね。じゃあ、どうやったらやらないようになるかっていうことだよな。
    二村 そこで言うと、自分がやられて嫌で傷ついていることって、大抵は親にされたことじゃないかな?
    國分 そうかもしれない。やっぱり親にやられたことってすごく心に残っていて、それを繰り返してしまう。ただ、それを繰り返さないで、うまく自分で乗り越えていったこともあっただろ?
    有村 でも先生、それって「我慢」じゃないですか? 「人にやられたことを自分ではしない」って思ってやらないってことは、自分は我慢しているんですよね。そういうのって、負の連鎖を断ち切っていることにはならないと思うんですけど……。
    國分 つまり、「やられて嫌なことを本当は自分も繰り返したいと思っちゃうけど、それはやめておこう」と思って我慢するのであれば、それは全然解決になっていないということだね。
     そうではなくて、何か別のものによって、それが解消されなければならない。スピノザは、それを「よろこび」と言っているんだ。簡単にいうと「幸せ」のことなんだけどね。スピノザは「幸せの気持ちが高まっていくと、人を妬んだりすることはなくなっていく」と言っている。
    二村 あまっちょろいことをいうと、相手が大事な人だと思っていればその人に対して悪いことをしなくて済むと思うんだ。でも、その「相手が大事」というのがどういうことか、よくわからない。
     「相手が好みのタイプだから」「この人はいいことをしてくれたから」と思っているとそれは有村の言うような「我慢」になるし、たとえ「本当に好きだから大事にしよう」と思えたとしても、それってつまるところ性欲じゃないの? って思うんだけど。
     
    ▲二村ヒトシさん
     
     
    ■「心の傷」を持っているのは、「人の心を持っている」ということ
     
    二村 子どものときってみんな愛されたと思ってるけど、本当はなにか「足りないもの」があって、大人になって恋人ができたときに、「本当はこういうふうにしてもらいたかった」というのをその恋人にぶつけて、だいたい喧嘩になるよね。
    國分 その「足りないもの」を二村ヒトシさんは「心の穴」って表現しているんだよね。人は小さい頃からのいろいろな境遇や人間関係で、心に穴が開けられている。その穴を埋めるように恋をしてしまうと、失敗してしまうと彼は言っている。
     先生が研究している哲学の考えでは、それはどっちかというと「心の傷」って感じかな。人間は生まれたときからとにかくずっと傷を受け続ける。もともと「生まれた」ということ自体が傷なんだ。
     生まれる前にお母さんのお腹の中にいるときって、どこかよくわからない静かなところにいて、栄養も何もかもが勝手に運ばれてきて、静かに穏やかに10ヶ月くらい生きていたわけだ。それがブチンとへその緒を切られて、生まれてくるというのはすごいショッキングな出来事なんだ。そして、その赤ちゃんはずっと傷を負って生きていく。
     ルソーという哲学者が、社会がなくて自然状態のなかに人間がいたら……ということを想像して、その中の人間を「自然人」と呼んでいる。自然人は何も拘束を受けずに一人で勝手に行動しているから、誰かと一緒にいようとしない。誰かとぶつかって喧嘩したり、それこそゆきずりのセックスをしたとしても、次の日の朝になったら、前の晩にゆきずりのセックスをしたその人と一緒にまた次の晩を過ごす謂われはない。ルソーは、人間がもし自然状態だったらバラバラに好き勝手生きていると考えた。そういうルソーの考えって、理屈で考えたらそうかもしれないけど、ちょっと納得いかないよね。
    有村 その自然人っていうのは、心がない人のことを言うんですかね。
    國分 「心がない人」って表現はいいね。適切な表現だ。つまり、なんか具体的な人間である感じがしないんだよね。先生は、ルソーの言う自然人というのはあくまでもモデルみたいなものだと思っている。で、どのあたりがモデルであるかというと、自然人には「心の傷」が欠けているというところなんだよね。人間っていうのは必ず、心に傷をいろんなかたちで負っている。それがひとつの人間の個性にもなっていくんだけど、ルソーの自然人にはこれがないんだよ。だから、もし本当に心に傷を負っていないような人間がいるとしたら、ルソーの言ったような自然人になるかもしれない。
     
     
    ■「悩んでいたら誰かに相談してみよう」ってどういう意味なの?
     
    國分 たとえば、赤ちゃんがおっぱい飲みたいと思うとき、泣けば親がすぐ来る。だけど、だんだんお母さんも面倒くさくなったりするし、そろそろ離乳食だという時期になると、泣いても自分の思い通りにならない場合が増えてくる。それだって「自分がこうしたいのにそれが満たされない」という心の傷だよね。そういう細かなところでたくさん心に傷を負っていくわけだ。
     ただ、「ああ、泣いてもすぐにおっぱいがくるわけじゃないんだ」というふうに人間はだんだん慣れていくわけだ。でも、それでもなかなか慣れることができない傷があると思う。たとえば、有村はいま、色々と辛いことがあるよね。辛いことがあったとき、有村はどうしてる?
    有村 友達とか、誰かに相談する。
    國分 そうだね。相談するとどうなる?
    有村 すごい気が楽になります。
    國分 不思議だよね。実は先生さ、最近まで「悩みを誰かに相談すると楽になる」ってことを知らなかったんだ。有村は高校生のころからそれを実践しているけど、その一方で哲学とかをやっている俺みたいな人間が、ぜんぜん人生のことをわかってないんだよね(笑)。
     でも、これって面白くて不思議じゃない? その友達が抜群のアイディアとか出してもらえなくても、話を聞いてもらうだけで楽になる。
     多くの場合、自分の中で反省したりして、心の傷って跡は残るけれど傷そのものは癒えていく。でも、なかなか治せない傷とか、あるいは自分で気づかない傷があって、それを誰かを経由して考えてるんじゃないか、と。自分ひとりでは治せない、誰かの手助けがあって初めて治せる傷があるんじゃないかと思う。
     
     
    ■「心の傷」は、心と心が通じ合う根拠になる
     
    國分 では、人間はどうして誰かと一緒にいたいと思うのか。なぜ人間は、ルソーの言ってる自然人のようではないのか。これは俺の仮説だけど、人間には必ず心に傷があって、しかもその心の傷って一人では癒やせない場合があるから、それを癒やしたり、気遣ったり、あるいは心の傷が似ているとか似てないとか、そういったことで人と人は惹かれ合うんじゃないかな。そんな風に思うんだ。
     二村が言うように、恋ってすごくよくない形へ行くこともある。しかも、恋の根拠って今言った心の傷みたいなネガティヴなものかもしれない。でも、「この人と一緒にいると自分の心の傷がうまく癒える」とか「すごく心地がいい」とか、やっぱりそれがいい方向にいくことはあって、それがうまくいったときに、人は誰かのことを「この人は大事だ」と思うようになるんじゃないかな。
    二村 それは、先生には先生の、俺には俺の大事な人がいるってことなの? それとも、誰にでも優しくできるすごい癒やしの力を持ってる人がいるんだろうか。
    國分 うーん、たぶん、そういう人間もいるだろうなぁって思うな。たぶん教祖みたいな人間よね。たとえばイエスみたいな天才はそういう力を持っていたんじゃないか。それは、能力というよりは偶然できてしまったものだと思う。だけど普通はそうはいかなくて、この人とだとうまく傷が癒えていくだとか、そういう形で決まっていくと思う。
    有村 心の傷を癒やすのと、「頼る」のは違うんですか?
    二村 その頼る相手がいなくなって、生きていけなくなったらどうするの?
    國分 うーん。ここは難しいなあ。先生としては「たくさん浮気しろ」とか言うわけにもいかないしなあ。
     

    ▲有村千佳さん
     
     
    ■誰もが、普段は自分が何かに依存しているとは思わない
     
    二村 先生、俺も最近、難しい本読んだ! 小児科医で自分も小児麻痺の熊谷晋一郎さんの本なんだ。ほら、障害のある人って、車椅子とか補聴器とか、生きていくために頼らなきゃいけないものがたくさんあるじゃない。障害があると言われている人も、「これがないと生きていけない」というライフラインを分散することができれば、広い意味で差別がなくなっていくんだろうな、とその本を読んで思った。
     

    ▲熊谷晋一郎『リハビリの夜(シリーズ ケアをひらく)』医学書院、2009年
     
     でも、それを恋愛に当てはめるとちょっと違うのかもしれない。人は自分を肯定しないと生きていけないけど、男が「自分はこれでいいや」と思っているのは、男という生き物が社会になんとなく許されているからこその「インチキ自己肯定」だったりするでしょ?  俺は、「俺の心の傷はたくさんの女じゃないと癒やされない」と思ってたんだけど、理屈っぽい女から「そんなのインチキな分散型じゃない」って言われてギャフンとなった。それはたとえば、恋愛の相手だけじゃなくて、「妻」と「仕事」に分散していても、妻が怒ることはあるじゃん。
    國分 熊谷さんが言ってるのは、みんな普段いろいろなことに依存して生きているけど、それが分散しているから依存している事実を気にかけずにすんでいるってことだよね。だから、依存先が少なくなると、「私はこの人がいないと生きていけない」って状態になって、依存の事実が重くのしかかってくるようになる。だからいろんなところに依存先を増やしていくことが実は自立だって話。
     いまの二村の話はヒントになるね。つまり、頼る先は人だけじゃない。仕事とか趣味とか、あるいは評判とかでもいい。「自分の心を満たす」「傷を癒やす」というときに、別に恋人との関係だけに頼る必要はない。
     恋愛関係ってのは依存先の中でも非常に濃度が濃いものではあるけど、いろいろな依存先の一つとして恋人がいるとか、恋愛関係があるって考えればいいんじゃないの。ちょっと優等生的な答えかもしれんが、恋人もいるし、仕事もあるし、趣味もあるし、友達付き合いもあるみたいな。どうだろう、それはインチキ分散型じゃないよね。
     
     
    ■人間は過剰なものを抱えていても、色んなやり方で解消できる
     
    二村 でもさ、やっぱり「いろんな女とセックスしたい」と思うじゃん! まあ、そういう部分をやり過ごすために、男はみんな色んなAVを見るということなのかもしれないけどさ。
    國分 えーと、先生は既婚者なのでそういうことは答えずらいです。
    二村 でも、先生もそう思うんでしょ(笑)。「AV見てれば気が済むはず」というのはキレイゴトで、色んな人とセックスできる人を、他人はうらやむんだよね。女の子で言うと、イケメンなのかセックスが上手そうなのかわかんないけど、ヤリチンを好きになるじゃん。で、女の子がヤリチンを好きなのは、いろんな女とやってほしいわけではなくて、いろんな女とやってる男が私だけのものになると、「してやったり」って思うからでしょ。
    有村 してやったりとは思うけど、いざ自分のものになったらちょっと冷めちゃうかな。
    國分 有村、結構激しいこと言ってるな(笑)。それは要するに、「相手を支配したい」という欲望としての「恋」が極限的に大きくなってる状態だよな。だからそうやっていると、ぜんぜん「愛」へ移行しないんだよ。
     
  • 帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』 ~第1回:「新しい環境」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.062 ☆

    2014-04-30 07:00  
    306pt

    帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.4.30 vol.062
    http://wakusei2nd.com

    かつてこのメルマガで連載され、迷える子羊たちをときに励まし、そして時に突き落として来たあの伝説の人生相談が、満を持して再登場!!哲学者の國分功一郎さんが、ほぼ惑読者から寄せられた人生相談に答えていきます。
    ■もしプロさん(男性(30歳)奈良県、会社員)
     
    國分先生
    こんにちは。
    私は先日、業績等の理由から、今の職場を離れる事になりました。
    要するに近い内の解雇を言い渡されたのですが。
    一瞬、凹みましたがまだ独身ですし、これと言ったリスクもありませんでしたので、すぐに新しい仕事について考えだすことにしました。
    しかし、思いつきません。
    これまではキャリア系のITから教育の方面へと移ってきたのですが、それは「人のキャリアの形成のされ方」などに興味を持っていたからです。
    働き続ける中でそれらへの興味が徐々に後退していたのでしょうか、いま、改めて仕事を探そうという時に何を軸に探すべきか分からず、求人サイトの検索欄に何を入れることも出来ていません。
    是非何か、次の職をどうさがすべきか、アドバイスを頂ければ幸いです。
    よろしくお願いいたします。
     
     
    ■ 匿名希望(女性(42歳)愛知県、公務員)
     
    結婚11年目。夫が家計に5万以上入れなくなって半年。夜の生活がなくなって10年。私自身仕事しているため、あまりの不平の多さに耐えられず食事も作らなくなって8年程になります。同床に在らず同食もせず、勿論子供も出来るわけもなく、これでは夫婦とはいえません。又、安物の洋服を次々買い込む、読まない本などをいつまでも溜め込む性癖で、一部屋ゴミの山になっており、一度黙って捨てようとしたところ、私の私物を窓から次々に捨てられ、手術直後の身体を突き飛ばされました。勿論私の両親とも折り合いが悪く、人としても大いに疑問を感じざるを得ない状況です。
    いい加減愛想が尽き果てそうなものですが、何故か憎めずダメ息子のように面倒を見てしまいます。
    しかしながら、私とてまだ枯れたくありませんし、産んだ覚えもない40代のダメ息子の世話に残りの人生捧げたいとは思っていません。
    しかしどうしても別れ難い。それはくまのプーさんとかアンパンマンに似た風貌のせいなのか、はたまた子犬のように「棄てないで」と無言で訴える目のせいなのか、笑いの壺が同じであることなのか、日本の神々と天皇を心から崇敬している共有部分のせいなのか。
    私は夫と別れるべきなのか、新しい人生を見つけるべきなのか、悩んでいます。
     
     
    ■ 無縁社会の芥(男性(24歳)兵庫県、裁判所職員)
     
    はじめまして。いつも各種メディアでのご活躍を拝見・拝読しております。國分先生のざっくばらんな語り口調と物事の核心を突こうとする言説的態度が好きで、ファンになりました。
    今回、私は、「環境遷移と人間関係の構築」についての悩みを相談させていただきます。
    私は、地方公務員の両親の下に生まれ、18歳まで九州の地方都市で育ち、大学から関西で一人暮らしを始めて、かれこれ6年が経ちます。昔から「哲学的なもの」が好きで、学問としての哲学にも興味がありましたが、高校時代は「大学」のイメージがつかめず、また理系コースでもあったため、大学は広く浅く理工系の学問を学ぶ学部に進みました。大学では、武道系のサークルに所属し、3年生が終わるまで武道に没頭し、就活もしなかったため、今度は「就職」に対する具体的なイメージが掴めず、大学院に推薦入学しましたが、ブラックな研究室の環境に心身を擦り減らし、わずか半年で休学し、入学して1年で退学しました。
    一方、大学院に入学した頃から自然現象よりも「人間」の介在する社会現象に対する興味が強くなり、休学後、広く社会科学・人文科学を学ぶために、また同時に就職先を確保するために、公務員試験の勉強を始めました。半年ほど集中して勉強し、国家公務員・裁判所職員・某政令指定都市に合格し、悩んだ挙句に、司法への好奇心から裁判所を選び、今年の1月から働き始めました。
    私は、発達心理学的な「基本的信頼感の欠如」のために、幼い頃から内気で情緒が不安定であり、友人作りが極端に苦手でした。また、「仲良くしようとしてくる親が気持ち悪くて…」のケースと類似した家庭環境であったため、就職し、経済的に自立してからは親との縁を切りました。
    幸い、大学では武道を通じた人との出会いにより、ある程度自信がつき、また性格も明るくなりました。
    また、大学4年生の頃に、たまたま研究室が同じだったことから、当時学園のマドンナ的な存在だった女性(現在は某大手放送局のアナウンサー)と恋愛関係になりました。私の嫉妬心の強さが祟って、彼女には大学卒業前に振られてしまいましたが、彼女のおかげで異性に対する苦手意識もなくなりました。
    しかし、現在でも、恋人はおろか友人すら殆どおりません。
    私は、極めて真面目で完璧主義的な性格ですが、一方で自己愛と劣等感(および虚栄心)が強く、それ故に人生の各フェーズにおいて尽く自己開示に失敗し、人間関係を自ら破壊してきました。
    また、昔から、表層的には大変優良(上品、知的などの雰囲気から、見た目的なものも含め)な人物評価をいただくことが多く、元恋人のキャラクターを研究し、社交的・社会的な振る舞い方を習得してからは、話しやすさや爽やかさ、穏やかさに磨きがかかり、いっそう対人的な「見栄え」は良くなりました。
    しかし、私としては作りあげられた自分の表層的なキャラクターに不自然さを感じており、今まで転々と古い環境(人間関係)を捨てて(あるいは捨てられて)新しい環境を求めてきましたが、他者から承認されるのはいつも「魅力的に作った(作られた)私」であり、根暗な性格など悪い部分をも含めた「素直な私」を開示できる環境がなく、また他者のまなざしに対する自意識が枷となり、なかなか親密かつ長期的な人間関係を形成することができません。人間関係におけるキャラクター戦略に対してアイロニカルな没入の仕方をしてしまうため、環境には馴染めても孤独感は払拭できず、社会関係資本の乏しい自分の人生に空虚さを感じております。
    私は、今また、新しい環境を求めて転職活動をしておりますが、内心、際限のない「自分探し/居場所探し」的な活動を続けるべきか否かの判断に悩んでおります。
    全体としてまとまりがなくなってしまいましたが、人生に空虚さを感じる私に、何らかのご啓発を賜れればと思います。
    ※書き上げた文章を読み返してみると、段落の頭が殆ど「私は」で始まっていることに気づき、内心における他者の不在と自意識の強さを改めて感じました。
    ※相談の分量の目安を大きく超えてしまいましたが、私のナラティブを、今後、何らかの哲学的考察の種に使っていただければ幸いです。
     
     
    ■ 美和(女性(28歳)和歌山県、専門職)國分先生こんにちは。新生活とは少しかけ離れた質問かもしれないのですが。今までの自分とは決別したい気持ちがあり、また4月から仕事環境が変わることもあって、その気持ちが更に大きくなっています。決別したいと思っているのは、自分が何か希望していることがあってもそれを欲していることを自分から周りに伝えることが出来ず、しかし(私は無意識にしていることが多いですが)結果的に周りを振り回してしまっていたり、いつまでも手に入らなかった事柄などに執着しなかなか受け入れられないことなどです。どこかで、欲しいと思っていても結果的に手に入らなかった場合、私にとってはそれが非常に惨めで受け入れられず、だからこそ表面的には欲していることを出さなかったり、手に入らなくても傷ついていない振りをしているんだと思います。そんなことを何となく意識し始めた時に職場に気になる男性が現れました。尊敬出来るところが思く、また私とは違い素直な部分に惹かれました。今までの自分であれば、自分から行動せず、何も起こらなければそのままで、しかしながらいつまでも気持ちだけ引きずっているように思います。しかし、この4月から職場が変わったこともあり、今後1度は仕事で会う予定があるので、そこで思い切って自分の気持ちを伝えようかと考えています。しかし、私の中でどうしてもすっきりしない気持ちや不安があり、だからと言って、それが具体的に何なのか分からず。日々、もやもやしたままで居てもたっても居れず、相談のメールをしてしまいました。抽象的でまた相談内容がはっきりせず、申し訳ありませんが、何かお言葉を頂けると幸いです。よろしくお願い致します。
     
     
    ■ 黒七味(男性(26歳)東京都、雑誌編集者)国分先生、こんにちは。
    今年の春で社会人4年目の26歳男です。3年間働いてもほとんど成果を出せず、自分には現在の仕事に対する適性がないのだろうという思いが確信になりつつあり、この仕事への情熱も失ってしまいました。精神的にも肉体的にも疲弊しており、抗不安薬に頼ることもあります。検査では問題ないものの、さまざまな体調面の不良にも悩まされています(医者には自律神経失調症といわれ、ストレスをためないようにと言われています)。
    不規則な生活のため、このままではとても体が持たないと思い、転職をしたいと思っているのですが、そんな思いとは裏腹に体が動きません。現在の仕事に打ち込むこともできず、新しい環境を得るために動くこともできず、砂を噛むような思いで日々を過ごしています。会社でこのような悩みを相談できる人もいません。いったいどうすれば、この状況から抜け出すことができるでしょうか?
     
     
    ■連載再開 第1回:「新しい環境」
     
     皆さん、こんにちは、國分功一郎です。
     この度、プラネッツ・メルマガでの人生相談を再開することになりました。それについていろいろと思うところがありますので、まずそれを書きます。
     僕はこのメルマガで2012年から2013年にかけて毎週、人生相談の連載をしていました。これはかなりの人気になりまして、なんと、『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版、2013年)という本にまでなりました。
     毎週の連載というのは本当に大変なんですが、僕自身もとても楽しくやっていました。締め切りギリギリの木曜の夜、眠い目をこすりながら書いていたんですけど、配信日である金曜日にツイッターなどで寄せられる読者の皆さんの感想がとてもうれしくて、それが力になっていました。
     本の後書きで書いたんですが、あれは一種の「人生相談運動」でした。読者の皆さんと僕が一体になって、なんだかよく分からない猛烈な力が出てきて、僕はそれに巻き込まれて書いていたんですね。だからはっきりと後書きで、あの運動の雰囲気はメルマガを講読して読んでくださっていた方々にしか分からないだろう、と書きました。本で読んでも分からないのです。それは「あまちゃん」を今からDVDで見てもあの時のおもしろさは全く分からないということと同じです。
     ワルター・ベンヤミンが、現代の複製技術の芸術作品はアウラを失っているということを言いましたけど、メルマガみたいなものであっても、アウラをもちうるのです。それは“時間”が関係しているからです。メルマガは定期的に配信されるものですが、当然のことながら、絶対に後から再構成できない、持続する時間の中で配信され、読まれている。それが取り戻せない、かけがえのない、持続を作り出します。
     ちょっと難しい言い回しをしてしまいましたが、僕が言ってるのは簡単なことであって、プラネッツ・メルマガでの人生相談は僕もとってもおもしろかったし、読者の皆さんにもかなり楽しんでいただけて、本当によかったんだけど、「あの人生相談をもう一度!」とどれだけ願っても、それはもう無理だということです。
     あの人生相談はもう終わりました。
     あの人生相談はもう二度とできません。
     書籍化された『哲学の先生と人生の話をしよう』を読んでくださった方からたくさん感想などをいただきました。メルマガと書籍を比べたら、読者の数は比較になりません。なんだかんだ言って、今でも書籍の力はすごいので、それまでとは比べものにならない数の読者の方にお読みいただけました。
     もしかしたら、そうした方々からご相談をお寄せいただけるかもしれません。でも、そうなると前回とは条件が全く異なることになりますね。以前連載していた時には、國分がどう答えるのかも未定だし、連載がどうなっていくのか全く分からないし、相談内容もあっち行ったりこっち行ったりだし、だいたい相談が集まらない(笑)。
     そういう中で、当時の読み手と書き手と、そして編集部の力であの連載が作り上げられたわけですね。とにかく相談が集まらないというのがキツい。そのキツさを乗り越えようと努力するところに、何か面白いものを作り出す力が生まれたわけです。「こんな相談、くだらねーからボツ!」とか思ってたけど、他に相談が来ないから、仕方なくこのボツ相談を何とか面白く読むとか(笑)。
     さて、こういうことを考えながら再開する連載です。ですから、連載ペースとか形式なんかも以前と同じにするわけにはいきませんでした。あれと同じことをやるというのは叶わないことだからです。
     で、今回、テーマを決めて、月一で、複数の相談に答えるということだけは決めたんですが、それ以外のことは決めておらず、またどうやっていいのかも分かりません。或る意味で、初めてやるよりも難しい状況です。
     ですので、あまり形式を決めることにこだわらず、その場で思いついたやり方で進めていきたいと思います。その点、どうかご了承ください。
     さて、今回は「新しい環境」をテーマにしました。四月ですので、新しい学校なり新しい職場なり、これまでとは異なる環境に入った人も多いと思います。まずは僕が「新しい環境」というテーマのもとで考えていることを書きます。 
  • 哲学の先生と人生の話をしよう★最終回★:「好きな女性が進路に悩んでいます」

    2013-05-27 12:00  
    105pt
    「好きな女性が進路に悩んでいます」相談者:うらさむさん(神奈川県在住・25歳男性・学生)Q. 初めて投稿させていただきます。今、好きな女性がいます。その彼女は同じ大学で、アルバイト先で知り合いました。中国文学を学ぶ為に大学進学をしたようなのですが 自分が元々夢見てた道を捨てきれず、そもそも大学というシステムに馴染めず成績不良で二留目を迎える事になるそうです。このまま大学を辞めるか、それとも語学系の専門学校に進むorフリーターになるか悩んでいます。彼女曰わく、社会に貢献するような仕事につくこと(就職すること)は諦めた、とのこと。私は二浪で二留の大学四年生です。精神的に不安定さが原因で、他人との摩擦を恐れ所 謂引きこもり生活を繰り返してしまい、現在に至ります。目下9月卒業を目標に就活やアルバイト生活をしながら日々暮らしています。二人で学生生活を楽しんでるのを想像しながら今後の糧に就職まで精進しようと思ってたのですが、それは自己満足であることもわかっています。相談内容は、1これからのモチベーションをどのように維持したらいいのか。2今後の彼女との付き合い方。3もし彼女の考えを変えれるチャンスがあればどんな言葉で諭すべきか。正直この状況で付き合えても、あまり嬉しくはありません。これじゃない感は拭えないです。自分は二人の関係性が良好であれば大学を卒業しアルバイトを辞め就職しても9月以降付き合いを続けたいと思っています。と言うか、言い換えれば彼女と長く一緒にいれる努力をしたいと思っています。何卒ご回答の程よろしくお願いします。A. ご相談ありがとうございます。 何か胸がときめく想いです。人を好きになるのはとても素敵なことですね。まずそれを忘れずにいてください。つきあうといろいろあります。はっきりいって苦しいことがたくさん出てきます。相手に対する気持ちは絶えず変化していきます。でも、一つ、最初のあの素敵な想いというのは大切にしておいていいと思います。それを思い出すと、相手のいいところが見えてきたりするものです。 彼女の状況がいまいち見えないので、アドヴァイスが難しいですね。よく分からないのは、主として、 1)なぜ「社会に貢献するような仕事につくこと」=「就職すること」なのか? 2)中国文学を大学で学ぶことと彼女の元々の夢はどういう関係にあるのか?です。 3)捨てきれない「夢」と大学を辞めることはどういう関係にあるのか?ですね。 どうも、うらさむさん自身がよく分かってないのではないかという気がします。 
  • 哲学の先生と人生の話をしよう:「抑え難い復讐心があります」

    2013-05-20 19:01  
    105pt
    「抑え難い復讐心があります」相談者:小谷さん(東京都在住・23歳男性・学生)Q.私は現在二回目の大学4年生をやっている23才の小谷といいます。私は2年前に大学のある文化系のサークルに入っていましたが、そこでいじめにあいました。まず二年の時に、ある同学年の女性(以下Sとします)と本の貸し借りをするようになり、一緒に映画に行こうと私が誘い、二人で会いました。しかしSは待ち合わせ場所に非常に不機嫌な表情でおり、二人でいる間はずっと険しい表情でした。そして私に対してひたすらその不機嫌な感情をぶつけてくるのです。 私の話には全くと言っていいほど反応せずに、「この前は同じサークルのYと映画を観にいって楽しかった」と言って映画のチケットを目の前に出してきたり、「別な大学の男にいい顔してたら飲みに行きたいと言われている。私はまた「同じ過ち」を繰り返した」、と何度も言ってきました。これは彼女を映画に誘った私を揶揄してのことだと思います。「昨日何で電話に出なかったの?」と聞いたら、同じサークルのAと電話で話していた、と言われました。また映画が始まり、近くの席に座ろうとしたら、蝿を払うような仕草で手を振られ、離れた席で映画を鑑賞しました。その直後、Sはサークルの飲み会に参加して、私との事を笑い話として披露していたそうです。そしてSはなぜか携帯電話を机の上に置いており、それを他のサークルの男性が操作して、その携帯から私の事を嘲笑うようなメッセージが送られてきました。「まだまだだな」とか「そんなことよりも俺の事を見ろ!」などです。これはSが私と映画に行っている間に別な男性の話ばかりをしていた事を聞いたからだと思います。Sはこの件に関して後日サークルの中の男、女一名ずつに相談をしたのですが、何故か自分が被害者であるように言っており、完全に私の立ち位置が悪くなってしまいました。Sが相談した男と、私はサークル内であるイベントをやることになっていましたが、その男はメーリングリストで「今度の会は僕一人でやる事になりそうです。だから皆協力してくれ!」とメールを一斉に流しました。彼女が相談した先ほどの女性と話す機会がありましたが、「○○っていうメール送ったんでしょ」と言われ、自分が送ったメールの内容(非常にプライベートな性格のものでした)を揶揄されました。その時は本当に死にたかったです。後日、Sは私にメールを何通も送ってきました。始めは謝ってきていたのですが、私が泣き寝入りをしているのを好い事に「いつまでもあなたの本が手元にあっても困る」という様な威丈高なメッセージを送って来るようになりました。サークル内の力関係で強い立場にある男女一名づつを味方につけた事が手伝ったのだと思います。Sはサークルの男性Aを伴って私が貸していた漫画を直接、私の一人暮らしの家まで届けに来ました。私が居留守を使っていると、Sはインターフォンを何度も押して、ふざけた口調で「ほんとにすみませんでした?」などと私を馬鹿にするような言葉を何度も吐きました。殺してやろうと思いましたが、思い留まりました。その辺りの時期から心身の状態が非常に不安定になっていきました。夜中に全くと言っていいほど眠れなくなっていき、体力が極端に低下していきました。Sはその後すぐに留学に行き、私は一年くらいそのサークルに居続けましたが、体調不良が元で活動にあまり参加できなくなっていきました。出席に厳しいサークルであったため、次第に白い目で見られ始め、幹事長から睨まれたり、頼んでいた仕事を前日になって「知らない」と言われたり、仲良くしていて自分のバイト先にも遊びにきたような関係の先輩から話しかけても、「俺がお前の話を聞く必要がない」と言われたりしました。サークルのOB(33才)からも「君さ?女の子(Sの事)に〈ロスト〉したんだってぇ??聞いたよ?」と後輩の前で言われました。自分がやる事になっていた企画が知らない間に別な人がやることになり、告知のメーリングリストでそれを知る、という事もありました。サークルの会議の時に「小谷君の○○の仕事はどうなってますか?」と私に直接言えば済むような事をわざわざ皆の前で言われるという、吊るし上げの様なこともされました。そして三年の夏に私はそのサークルを辞めました。サークルの活動費の一部を私が立て替えていましたが、今もって返済を彼らはしません。 現在も四六時中、頭、体が重く、室内にこもりがちです。また急に泣き出してしまったり、恐怖心にとらわれて不安で仕方なくなったり、部屋で急に怒鳴り声をあげたり、壁を殴ったりしてしまいます。落ち込んでいる事が非常に多く、体調不良もずっと続いています。自分がこんなにも弱い人間だとは思いませんでした。そのせいで、大学からも足が遠のき単位が全然取れなくなり留年を致しました。現在は一応通院をしておりますが、良くなる気配は一向になく就職活動も全く出来ていません。心の中でいじめてきた連中に対する復讐心が日毎に大きくなっていっています。そのサークルは大学の学生棟で禁止されている飲酒をしたり、普段の飲み会で一気飲みの強要や未成年の飲酒をしています。手元にその画像や動画がありますので、このネタを脅しに使ってやろうかと日々思ってしまっています。そして、呼び出して、自分をいじめてきた奴らをめちゃくちゃに殴っているところや、お金を脅し取る事を空想しては、自己嫌悪になったり、虚脱感に襲われたりしています。既に元サークル幹部の人間に、脅しのようなメッセージ、(「学生生活課に言いに行く」、というようなものです)を送りつけ、彼らからは返信が来ましたが、まだ見れていません。この件に関して、私にも落ち度は様々にあると思いますが、ここまで理不尽かつ陰湿にいじめられるようなことはしてはいないと思います。私が彼らに復讐をすることは許されるのでしょうか。また、自分自身の気持ちにどう整理をつければいいのでしょうか。國分先生の意見をどうしてもお伺いしたいです。どうか取り上げて下さい。本当にお願いします。A. ご相談ありがとうございます。 端的に言いますと、小谷さんの相談は大変長文でしたが、それにも関わらず、ほぼ間違いなくいくつかの事実が隠蔽されています。 まず、なぜ女性Sはあなたとのデートに応じたのか? それが全く謎めいています。あなたとのデートに大した期待もなかったのになぜ断らなかったのか? 当日不機嫌な気持ちになるほどの不満を抱えていたのに、なぜ事前にデートの約束を反故にするわけでもなく、当日待ち合わせ場所に現れたのか?  これはこのケースに関わっている人物であれば、簡単に説明ができることであるはずです。そしてこれは小谷さんのケースの出発点にある重要な事項です。しかし、なぜそれが書かれていないのか? 小谷さんはもしかしたらそれに気付いているのに、わざと書き落としているのではないでしょうか? あるいは、そこから無意識に眼をそらしているのではないでしょうか? そのように想像されるのには理由があります。 このケースは単純化すると……