-
【ほぼ惑ベストセレクション2014:第7位】ありきたりの「ファスト風土」論にはもう飽きた!「新しい郊外論」のためのマスタープラン――國分功一郎×濱野智史『常磐線から考える』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆
2014-12-28 11:10220pt
【ほぼ惑ベストセレクション2014:第7位】ありきたりの「ファスト風土」論にはもう飽きた!「新しい郊外論」のためのマスタープラン――國分功一郎×濱野智史『常磐線から考える』
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.12.28 号外
http://wakusei2nd.com
2014年2月より約1年にわたってお送りしてきたメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」。この年末は、200本以上の記事の中から編集長・宇野常寛が選んだ記事10本を、5日間に分けてカウントダウン形式で再配信していきます。第7位は、國分功一郎さん・濱野智史さんの対談企画「常磐線から考える」です!(2014年9月16日配信)これまでのベストセレクションはコチラ!
▼編集長・宇野常寛のコメント
この記事の取材のとき、僕はテレビの収録で同行できなかったんだけれど、合間に國分さんや濱野のツイッターを眺めていたらとても楽しそうで、すごく嫉妬した記憶があるんですね。
東京の西側とはまた違う文脈で形成されてきた、「東側」のベッドタウンとしての常磐線エリアには、戦後の中流文化とはまた違った意味での豊かさと貧しさが同居しているはず。前者を伸ばして後者に立ち向かうことが、これからの社会を考える上で大事なことになってくる。2020年の東京オリンピックを前にして、日本人の意識は、被災地を中心にした「衰退する地方」と、ますます人もお金も集中する都市部へと引き裂かれていっている。そのどちらを考えるときにも、「中間的な存在」である常磐線エリアの街について考えることが大きな手がかりになるのではないかということを、この原稿を読んでずっと考えていたりします。
Twitter上での熱いやりとりをきっかけに、7月のとある休日を使って行なわれたこの対談企画。濱野さんの生まれ故郷である新松戸を出発点に、途中PLANETSのエグゼクティブ・サポーターである「モウリス」の助力と提案で、つくばエクスプレスの駅周辺にあるショッピングモールを訪問し、最後に國分さんの故郷である柏を巡りました。
二人の思想家の「ジモト」を巡りながら見えてきた、「新しい郊外論」のためのマスタープラン(基本計画)とは――? 本日の「ほぼ惑」では、ダイジェスト版のレポートをお届けします。対談の全容は、何らかのかたちで全文公開を予定しています。今回の「ほぼ惑」ではその「新しい郊外論」のイントロダクションをお見せします!
▼プロフィール
國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。柏出身の哲学者。高崎経済大学経済学部准教授。専門は17世紀のヨーロッパ哲学、現代フランス哲学。また、哲学、倫理学を道具に「現代社会をどう生きるか」を「楽しく真剣に」思考する。著書に『暇と退屈の倫理学』(朝日出版)、PLANETSメルマガでの人気コーナーを書籍化した『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)、自らが積極的に関わった小平市の住民運動について書かれた『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)などがある。今回の「柏論」は國分さんたっての希望で実現することになった。
濱野智史(はまの・さとし)
1980年生まれ。新松戸出身の情報環境研究者/アイドルプロデューサー。慶應義塾大学大学院政策•メディア研究科修士課程修了後、2005年より国際大学GLOCOM研究員。2006年より株式会社日本技芸リサーチャー。2011年から千葉商科大学商経学部非常勤講師。著書に『アーキテクチャの生態系』(NTT出版)、『前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48』(ちくま新書)など。2014年より、新生アイドルグループ「PIP」のプロデュースを手掛ける。
◎構成:立石浩史、中野慧
■新松戸〜流山を歩く
7月12日、午後過ぎ。前日までの台風の影響が心配されましたが、この日は予想を覆す快晴となりました。暑すぎるくらいの天気の中、JR常磐線の新松戸駅前に集合。
▲駅の東側は住宅や畑が広がり、のんびりとした雰囲気です。
▲新松戸駅前にて。この日、國分さんはツイキャスで実況しながらの収録でした。
國分さん、濱野さん、P編集部2人の4人でまずは濱野さんの生まれ故郷である新松戸を歩きます。國分さん曰く『暇と退屈の倫理学』の延長線上の仕事であるとのこと。
■今一度、郊外論を問いなおす
國分 この20年くらい「郊外」が注目を浴び続けていますよね。僕は柏生まれ柏育ちなんですけど、柏はこの郊外というものの純粋形態ではないかと思っているんです。今日はその直観を、実際に濱野さんと街を歩きながら検証してみたい。
論壇では2000年代半ばから「ファスト風土」という言い回しが流行しました。けれども僕は、「今さら何を言っているんだ」という気持ちでした。「遅いよ」と。僕は自分が幼い頃から「ファスト風土」で生活してきて、そのことについてとても苦しいという感覚があった。ですから、その感覚に気づいてそれを理解しようとするひとがこれまでいなかったことに端的に驚いたのです。論壇なるものはなんと鈍感なのかと思った。
僕が感じていた苦しさというのは、幼い時の感覚であることもあってなかなか描写しづらいんですけれど、歴史の欠如と関係しているように思います。歴史の無い土地、荒野に、家だけが建てられて人が住んでいるというイメージですね。
都内に通勤しているサラリーマンの家庭であれば、親と子どもは週末以外顔を合わせない。土地にある歴史やコミュニティと人間が切り離されて、アトム化されて生きている場所――今からあの時の感覚を言葉にしてみるとそのように言えるかと思います。
90年代より積極的に郊外に言及されている論客に宮台真司さんがいらっしゃいます。以前、宮台さんとお話ししたときに出身地を聞かれたんです、「國分さんは小平の出身なんですか?」って。「いえいえ、今住んでいる小平ではなく、柏ですよ」と答えたら、「あんまりいいイメージがないな」とおっしゃっていた。その時、なんとなく「なるほど」って感覚があったんです。現代の新しい空虚を生きる若者についてずっと考えてこられた宮台さんが「なんとかしなければならない」と思われている街の典型が柏なのかも知れない、と。
濱野 テレクラが駅前にあって、援交が盛んで……というイメージですね。しかし、何故かはわからないですけど(笑)、國分さんが郊外出身というイメージがなかったんですよ。PLANETSの人生相談連載を読んでいると、失礼ですが地方の強固なコミュニティがあるところで育った方なのではないかと思っていました。だから柏出身と聞いたとき意外だったんですよ。
國分 そうなんだね。僕がそのような印象を与えるのはなぜだかよく分からないけど、『暇倫』で扱った問題、たとえば、消費社会の問題とか、何をしていいか分からないアイデンティティの不安の問題については、自分が柏のようなところで生まれ育ったからこそ敏感でいられたんじゃないかと思っているんだ。
街とそこに住む人とのアイデンティティについて考えたいというのが今回の課題です。その時に重要なのは、もともと荒野だったところに家を建てたようなイメージで捉えられる郊外にも、当然ながら歴史があるってこと。つまり「郊外」というレッテル貼りによって、町の歴史の地層を見えにくくしていることがある。これをはじめに言っておきたい。
そういう「見えにくくなっている歴史」の話を出すと、どうしても「ふるさとのよさを再発見する」的なノスタルジックなものになってしまいがちなんだけど、そうじゃない方法で街の歴史にアクセスできないか。それが僕自身の課題なんですね。
もう僕は柏には住んでいないけれど、そのアクセス方法についての考えを作って、自分の気持ちに対する決着をつけたい。要するに……僕は柏があまり好きじゃないんです。生まれ故郷だから愛着はあるんだけど、同時に強い違和感も持っている。そんなことを考えているときに濱野さんがお隣の新松戸出身であり、かつニュータウンの問題を真剣に考えていることを知りました。それで今回の企画にお誘いしたんですよ。
濱野 この企画に誘ってもらったきっかけは僕が藻谷浩介さんの『しなやかな日本列島のつくりかた』(新潮社)のブックレビューをネット上に書いたことですよね。僕も以前は國分さんと同じように、生まれ育ったニュータウンを空虚な場所だと思ってきました。新松戸で生まれ、小学校高学年からは千葉ニュータウンと「郊外から郊外」へと移り住みました。
当時は生き辛いとまでは思っていませんでしたが、確かにこの場所で生きている人間はアトム化されるしかないというか、國分さんがおっしゃるように自分の住んでいる町には歴史もなければコミュニティもないと思っていました。松戸と柏という町は兄弟という感じがしていて、國分さんとは同じバックグラウンドだと思います。
■かつて疎外的だった郊外は、意外といい町になっている!?
國分 柏と松戸は、地理的にも千葉県の北部で隣接しているし、東京に通勤する人が多いという点でも似ている。でも、濱野さんと新松戸を歩きながら違いも見えてきたね。たとえば道路の作り方が全然違う。新松戸の豊かな街路樹のある道には落ち着きを感じる。こういう道は柏にはあまりないと思います。
当然だけど、柏より松戸の方が東京に近いので開発が早い。駅前に関して言うと、松戸はうまく開発できなかった。柏はゆっくり開発できたからダブルデッキなどを作れて割とうまくいった。けれども道路に関して言うと、落ち着いた街路樹のある松戸の道路のようなものはうまく作れていない。松戸には、全国的に有名な桜の通りもありますよね。
▲新松戸の「けやき通り」の入り口。
▲並木道が整備されています。
濱野 僕が子どもの頃の80年代〜90年代にかけては、あんなに木が立派では無かったと記憶しています。20年かけて木が育ったのではないでしょうか? 『しなやかな日本列島のつくりかた』の書評にも書いたのですが、欧米などでは、街路樹が育ち景観がよくなり町が成熟すると、地価が下がらないらしいんですね。詳細を調べてみる必要はありますけれども。今日訪れた新松戸なんかは地価は下がっているでしょうけど、街路樹が育って、いい雰囲気の街になっていますよね。
國分 僕はこの景観を見て、なんとも言えない町の成熟を感じました。新松戸は予想以上にいいところでビックリ。
濱野 もう少しサバサバした「郊外」というイメージだったんですが、僕もいい意味で予想を裏切られました。
國分 新松戸を歩いてみて一番面白かったのは濱野さんの新松戸のイメージが変わったということだな(笑)。
濱野 「郊外」と言うとどうしても「疎外されている」という感覚を生みやすい。僕もこれまでの論客のように「疎外されたものへのひねくれた愛着」みたいなものを持っています(笑)。今日は「相変わらずサバサバしてんな〜」とか言って懐かしむのかと思いきや、ほぼ20年ぶりに訪れてみると町が成熟していて驚きでした。「新松戸は意外にいい町じゃん! 俺、ずっとここ住んでりゃよかったじゃん!」と逆に「疎外」されましたね(笑)。
町のビルがほとんど増えていないのも面白いと思いますね。新松戸って、開発時に家もマンションも区画を余らせずに作っちゃったので、今は街の流動性が下がっているんじゃないでしょうか。駅前の風景もあまり変わっていない。逆に言うとこれから再開発してもいいぐらいの、ある種穏やかすぎるぐらいの景観だと思います。
▲新松戸駅前の風景。奥には流鉄流山線の幸谷駅付近の踏切。赤いビルはかなり古そう。
■鉄道が変える町の歴史駅周辺をしばらく歩いてから、2人は常磐線と並行して走る「流鉄流山線」(単線鉄道)にもぶらりと乗車しました。流山線の幸谷駅は、常磐線の新松戸駅に隣接しています。
▲流鉄流山線の車両。
▲流山線の路線図。幸谷駅とJR常磐線の新松戸駅はすぐそば。國分 さきほど流山線に乗りましたが、二人とも乗るのは初めてだったね。新松戸から北部の方に行って戻って来ましたけど、途中の風景は、農村風景→ニュータウン→農村風景→ニュータウンのようになっているんですね。つまり流山は、新しいマンションやキレイな家が最近どんどん建設されている一方で、昔は柏や松戸よりも栄えていた土地なので、古い大きな農家なんかも残っている。それが交互に現れる。
それにしても、新松戸(幸谷駅)からちょっと電車に乗っただけで、大きな農家があるような場所に行けるというのは、大きな発見だったね。
濱野 この辺りは流山電鉄のロジックで町が作られていないんですね。普通は電車が通ると、町が付帯されてできあがるんですが、全くそういう感じではない。
國分 100年前に敷かれた電車だからね。それにしても歴史的に見ればこの辺りの町は栄枯盛衰がすごいよね。
流山は明治のはじめあたりはとても栄えた街だった。少し離れてるけど鰭ヶ崎(ひれがさき)なんかもそうですね。でも、常磐線の建設計画が出てきた時、流山や鰭ヶ崎はそれに反対したんですね。蒸気機関車からはき出される火の粉で火災が発生するのを恐れてのことだったらしいです。当時はかやぶき屋根だからそういう気持ちがでるのも当然かもしれない。
でも、柏はそれを受け入れたんですね。僕は松戸の方はよく知らないんだけど、実際、常磐線は松戸や柏の地域を通っている。その後、常磐線の沿線は発展を続けるわけだけれど、鉄道を拒んだ地域は発展から取り残されてしまった。
ところが最近は逆に、つくばエクスプレスが通ったことによって流山が活気づいている。マンションもバンバン建って、盛り上がっているね。つまり流山というのは明治以来、鉄道の敷設に関連する形で町が変動してきた。
▲流鉄流山線の車窓からの風景。新興の住宅も目立ちます。
▲流鉄流山駅にて。駅の改札では駅員が切符を切っており、ICカード式の改札はおろか、磁気乗車券の自動改札機も導入されていませんでした!ちなみに駅奥の森林は駅員さん曰く空き地とのこと。ほんの近くに流山市役所がある「旧」市街地です。
■郊外は使い捨て?
濱野 僕の郊外のイメージは「使い捨て」なんですよ。僕は家族で、手狭だった新松戸のマンションから千葉ニュータウンの一軒家に90年ごろに引っ越したんですけど、引っ越したときは空き地だらけで、コンビニもろくにありませんでした。「この町は明らかに失敗だ。マイホームなんていらねえよ!」と思ったんですよね。僕は千葉ニュータウンの都市計画は失敗していると思いますが、その理由は、当時人口が20万人ほどに増えていないといけないのに全然達しておらず、そこに電車を引いてしまたったことにあると思っています。
僕はその後中学受験して都内の学校に2時間かけて通っていたから、青春時代は千葉ニュータウンにほとんどいませんでした。だから何の思い入れもないんですよ。大人になってからも4回しか帰省していない。なぜなら帰りたくないから。何もないし、遠いし、親もうるさいから(笑)。
國分 少年時代の濱野さんはそういう思いだったんだ。俺も「何かおかしい」って感覚があったな。人間のそういう感覚は大事なんだと思う。でも、やはり新松戸の街路樹は象徴的だよ。「町というものがこうやって育っていくんだ」といういい感じがした。
濱野 樹って、植えてみるもんなんですね。他にも、駅から歩いて数分のところに流通経済大のビルができたりしていましたね。大学ができることで町はまた成熟するものだと思います。反面、新松戸は子どもの数が劇的に減っている印象を受けました。象徴的だったのが、住んでいたマンションの近くに妹が生まれた産婦人科があったのですが、その医院が看板を取り外していたことです。
つまり、産婦人科の病院がマンションの側からひとつ無くなることが意味していることですよね。これまたマンションのすぐ近くの「新松戸中央公園」で遊ぶ子どもの数が、土曜の昼下がりという時間帯にも関わらず、昔と比べて少なかったことも印象的でした。
▲流通経済大学・新松戸キャンパス。
▲左手前の屋上のある白い建物が濱野さんの妹さんが生まれた元・産婦人科の病院。濱野さんが住んでいたマンションの10階から望む風景です。
▲新松戸中央公園。広大な運動場ではスポーツチームの子供たちがクラブ活動のスポーツに興じていました。でも、子どもの数はまばら。
■幼少期のアーキテクチャが情報環境研究者・濱野智史を生成した濱野 今日10何年ぶりに新松戸に来てみて、郊外は意外と残っているものだなと感じました。逆に千葉ニュータウンのような町が今後どうなっていくのかにも興味があります。アメリカ風の車社会に最適化していくのだと思いますけど。 それにしても人間というものは環境ひとつでこんなにもどうにもこうにもなってしまうものなのかと。僕はもともとアーキテクチャが人に与える影響を社会学的に研究してきたわけですけれども、そういうことを研究するようになったのには、自分の出自や生育環境が多いに関係していると思います。僕は新松戸ではマンションの10階に住んでいて、4、5歳までエレベーターの10階のボタンを押せなかったんですね。だから家から下の階へは行けずに、上の階に住んでいた一つ年上のお兄さんの家に遊びに行ってファミコンをして、「ゲームすげえ!」と衝撃を受けたりしていました。「ブランコよりこっちだ!」みたいな感じで(笑)。
そこでの生活環境がこうして今の研究につながっていたりするわけです。単に10階に住んでいただけなんですけどね。環境が僕の幼少期の行動を決め、ゲームの環境が人をハマらせ……とか、先ほどの「郊外で生まれ育つと人間が疎外されていく」という話も、環境があっさり人間を作ってしまう典型例だと思います。
國分 街を考える上では、当然のことながらアーキテクチャの視点が重要になってくるということだよね。 -
【対談】國分功一郎×宇野常寛「いま、消費社会批判は可能か」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.229 ☆
2014-12-25 07:00220pt
【対談】國分功一郎×宇野常寛「いま、消費社会批判は可能か」
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.12.25 vol.229
http://wakusei2nd.com
今日のほぼ惑は、『帰ってきた「哲学の先生と人生の話をしよう」』が好評連載中の哲学者・國分功一郎さんと、宇野常寛の1万字に及ぶ対談のお蔵出しをお届けします。『暇と退屈の倫理学』から、現在連載中の人生相談まで、國分先生の活動に通底するテーマを掘り下げて語っていきます。
▲國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版、2013年)
(※連載第1期の内容をまとめた単行本です。)
好評連載中の國分先生による人生相談『帰ってきた「哲学の先生と人生の話をしよう」』、今月末の配信はお休みで、次回掲載は1月下旬を予定しています。
次回の人生相談のテーマは…「逃げること」。
國分功一郎×宇野常寛「いま、消費社会批判は可能か」初出:『PLANETS vol.8』
◎インタビュー:宇野常寛/構成:中野 慧
〈浪費〉とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収すること。必要を超えた支出であるから、それは贅沢の条件になる。そして、豊かな生活に欠かせないものである。物を受け取ることにも、吸収することにも限界があるから、〈浪費〉は満足をもたらし、どこかでストップする。しかし、〈消費〉は限界がないので止まらない。〈消費〉は満足をもたらさない。つまり、〈消費〉は退屈をまぎらわすために行われるが、同時に退屈を作り出してしまう。
――哲学者・國分功一郎が『暇と退屈の倫理学』で展開した議論は、その穏当な語り口とは裏腹に過激で、そして野心的なものだ。
形骸化し、それ自体が商品となることで陳腐化した左翼的消費社会批判を葬り去り、歴史的な視座から人間性それ自体を問い直す……哲学的思考のもつダイナミズムを存分に味わせてくれる同書の登場は圧倒的だった。
そんな國分はその一方で「哲学とは究極的には人生論でなければならない」と断言する。これはむろん、アイロニーではない。國分功一郎にとっての「哲学」はすなわち人生について正面から考えることだ。「メルマガPLANETS」の人生相談(「哲学の先生と人生の話をしよう」)を読めば一目瞭然だ。家族の問題、恋愛の悩み、仕事のトラブル……國分はどんな悩みも常にその人にとっての運命とは何か、性とは何か、社会契約とは何かという問いを交えながら答えてゆく。言いかえれば大きな人類の歴史と、小さな個人の人生のあいだをつなぐものとして、歴史から人生を考えるものとして國分の哲学は存在する。
だから、というわけではないのだろうけど、この日の議論はおもに「中間のもの」について交わされることになった。そこでは〈市民〉と〈動物〉、という概念がおもに取り上げられているが、それは同時に個人と世界をつなぐもの、歴史と人生をつなぐものでもあるだろう。
〈消費社会〉に〈情報社会〉としての顔が加えられたとき、この〈中間のもの〉はどう変化してゆくのか。〈消費〉と〈浪費〉のあいだにあるものをめぐるこの日の議論は、そんな新しい問いを浮き彫りにしたように思える。(宇野常寛)
■「消費社会」の可能性の中心はどこか
宇野 今日訊きたいことは、國分さんはなぜ消費社会批判にこだわるのか、ということなんですね。消費社会論のブームは、1980年代のニューアカデミズム以来、すでに一巡した感があります。でも國分さんの『暇と退屈の倫理学』(以下『暇倫』)って、その終わったはずの議論に独特の手つきで戻ろうとするものだったと思います。そして、その射程はたぶんものすごく長い。
國分 「なぜ再び消費社会論なのか?」という疑問はもっともだと思います。しかし、僕にとっては必然性がありました。簡単に言うと、かつての消費社会論や消費社会批判がまったくもって不十分であったというのがその理由です。僕は1993年に大学に入学していますが、当時はバブル時代への反省から「本当の豊かさとは何か?」という問題が、やたらと大袈裟に、そして説教口調で論じられていました。僕はそれに猛烈な反発があった。保守的な層の逆襲にしか思えなかったからです。あの頃の結論は結局「質素なのがいい」という話だったと思います。「清貧の思想」とかいうものも流行りましたし。
僕の出発点には「自分が自分の楽しみを肯定できないなら、何のために生きているのか」という思いがあります。「みんな我慢して質素に生きなさい」というのはライフスタイルとして絶対に許容できないし、そもそもこういう物言いには権力のにおいがします。既成の秩序に人を従わせようという気持ちが見え見えの言い方です。僕はそれに猛烈に反発していました。しかし、それにどう対抗したらいいのかがまだわからなかった。ずっと考えていたのです。
『暇倫』で提示した〈消費〉/〈浪費〉という概念は、そうした長い熟考の末に至りついたものです。この概念がボードリヤールから来ていることの意味を改めて考えていただきたいです。あれだけ騒がれた思想家を誰もきちんと読んでいなかった。そもそも彼についてのイメージが間違っています。彼はゴリゴリの左翼です。フランスによくいる古き良き左翼。そんなことは彼の本を読めばすぐにわかる。そんなことすらわからない連中が、1980年代あたりでしょうか、偉そうに「ボードリヤールがどうのこうの」とか言ったり、「ボードリヤールは消費社会の擁護者だ」というイメージを流布していたのです。僕は敢えてボードリヤールを使うことで、思想における消費社会批判なんて日本では誰もきちんとやっていなかったんじゃないかと問題提起したかった。もっと言うと、ボードリヤールへの愛着はそれほどなくて、ボードリヤールを使っていた連中に対する批判的意識が猛烈にある。
あと、僕自身は意外とエコなので(笑)、やっぱり消費社会の大量生産・大量消費・大量投棄は何とかしなければならないとずっと思っていました。これまでは理念として「消費か質素か」の二者択一しかなかったから、新しい軸を入れたかったんですね。この思いは3・11以降は強まっています。あの本を書いている時に福島の原発事故が起こりましたが、僕は自分の議論に全く訂正の必要性を感じませんでした。ボードリヤールの消費社会論に依拠する〈消費〉/〈浪費〉の概念をむしろもっと強く社会に訴えかけないといけないと思った。
宇野 1980年代の消費社会論はエコと質素が結びついていた。ところが國分さんの『暇倫』を中心とした消費社会論って、そこを反転したおもしろさがあると思うんですよ。
國分 そうかもしれない。とにかく「一生懸命やっていればいい」とか「質素にやっていればいい」というのがすごくイヤなんです。「楽しく真剣に難しいことを考えよう」というのが僕のモットーだから。
宇野 エコを倫理の問題から快楽の問題に読み替える、ということですよね。
國分 そうですね。ただ、あれだけでうまくいくとは思っていません。まずは〈消費〉と〈浪費〉を区別し、現在の事態と議論を整理し、その上で、どこに「最適解」があるのかを具体的に考えていかないといけない。この「最適解」というのは中沢新一さんの言葉です。欲望やモノの流れなど様々な流れがうまく収斂していって落ち着く地点というものをイメージするための言葉なんだけど、僕はこれが放っておいてもやって来るとは思えない。『暇倫』でも論じたハイデッガーは1950年代ぐらいから「放下(Gelassenheit)」ということを言い出して、これは第一には「落ち着き」という意味なんですけど、最近、ハイデッガーの中にも「最適解」がおのずとやって来るというイメージがあったのではないかと考えています。僕はどうもそこは違って、不均衡と揺り戻しが常にあるように思われるんですね。人々が〈浪費〉を楽しめるようになったら様々な流れはある程度落ち着いていくとは思いますが、おのずと「最適解」がやって来るとは思えない。ここは引き続き考えていきたいところなんです。
宇野 『暇倫』の続編を書くとしたらおそらくこの「エコを快楽に読み替えていく」回路の理論的整備に重点が置かれるような気がするんです。このとき僕がどうしても気になるのは前の対談(宇野常寛×國分功一郎「個人と世界をつなぐもの」『すばる』2012年2月号、集英社)でも指摘しましたが、情報社会の問題なんですね。國分さんが映画『ファイト・クラブ』を引いて論じているような、マスメディアとコマーシャリズムが人間に画一化された欲望を植え付けて「ほんとうの豊かさ」を奪っている、という状況は端的に言えばインターネット以降の情報社会の拡大で大きく揺らいでいる。現に、テレビ、広告といったオールドメディアはそのせいで従来通りのビジネスモデルが揺らいで、四苦八苦している。
逆に、ボーカロイドでもクラウドファンディングでもいいのだけど、自分で発見したものや自分が参加したもの、あるいは自分が応援したい人に対して発信することはとても気持ちのいいことなので、お金を払ってでもやりたい、という消費者像が台頭してきている。こうして考えると『暇倫』は消費社会批判のようでいて、同時に消費社会の可能性の中心を論じているようにも読めると思うんです。
國分 一応確認しておくと、僕はロハス派じゃないんですね(笑)。まぁ、そのように誤解されたことはないので、これは『暇倫』の論述が成功したということかもしれません。僕は情報化社会の肯定的側面を様々な場面でかなり強調している方だと思います。僕自身がTwitterやFacebookに大いに助けられているし、それに特に政治に関しては情報技術は革命的な変化をもたらしましたね。新しい人間の絆が情報化社会の手段を使って人工的に組み立てられるということもすごく大切だし、新しい可能性でしょう。
宇野 言ってしまえば、「資本主義の可能性をしゃぶりつくせ」ということでしょう?
國分 そこまで言えるかはわからないけれど、とにかく一人ひとりが〈浪費〉できる対象を発見していけることが何より大切で、もちろんその中には資本主義経済によって提供されるものもたくさんあるでしょう。当たり前です。これはあまり適切な例じゃないかもしれないけど、確か昔、「コンピューターゲームでオナニーしているようなヤツはアホ」みたいな議論に対して、浅田彰が、「しかし、もしかしたら彼らはマウスを握る“この手”に何か快楽を感じているかもしれない。それは簡単なイメージの問題じゃないんですよ」とか言っていた(笑)。テキトーな引用で申し訳ないんですが、確かにどこにどういう快楽があるかなんて、わからないんですよ。
宇野 バーチャルを〈消費〉している行為は現実でもあるわけですからね。
國分 そのバーチャル/リアルの区別は僕の次の本のテーマに深く関わってきます。たとえば性行為だったら「肉体と肉体がぶつかるリアルなものが良くて、バーチャルはくだらない」という語り口があります。でもバーチャルなものが関わらない性のあり方なんてありえるんだろうか? 妄想まったくなしで気持ちよくなるなんてありえない(笑)。妄想がまったくない性的快楽というのは、男性の場合だったら、単に身体の中の管を液体が通るという快楽ですけど、それで性的〈快楽〉が語り尽くせるわけがない。
つまり、〈快楽〉って、バーチャルなイメージと完全には切り離せない、不純なものだと思うんです。そうすると、〈快楽〉に不純物として入り込むバーチャルなものは、〈消費〉的なロジックとどう関係があるのかを考えないといけない。 -
國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第8回テーマ:孤独や寂しさについて ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.220 ☆
2014-12-11 05:50220pt
國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第8回テーマ:孤独や寂しさについて
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.12.11 vol.220
http://wakusei2nd.com
お待たせしました! 哲学者・國分功一郎先生による大人気連載『哲学の先生と人生の話をしよう』最新回をお届けします。今回のテーマは、「孤独や寂しさについて」です。
※ニコニコチャンネルツールのメンテナンス期間につき、いつもより1時間早く朝6時前に配信しています。ご迷惑をおかけしていますが、ご了承いただければ幸いです。
『哲学の先生と人生の話をしよう』連載第1期の内容は、
朝日新聞出版から書籍として刊行されています。
▲國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版、2013年)
書籍の続編となる連載第2期「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」の最新記事が読めるのは、PLANETSメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」だけ! 過去記事はこちらのリンクから。
みなさん、こんにちは。
すこし体調を崩しておりました。配信が遅れてしまい申し訳ありません。
早速本題に入ります。今回の相談テーマについて、前回、次のようなメッセージを皆様にお送りしました。
「さて、今回の相談を見ていても、更には世の中を見ていても、最近同じことを思うのです。人が孤独でいられなくなっている。孤独の大切さが忘れられている。皆が孤独でいられず、寂しさに苛まされ、他者をやたらと求めるようになっている。つながり、絆、コミュニティ、地域社会…、それらはとても大切。でも、どうもそうしたものが我々を浸食しつつあるのではないか。次回は孤独と寂しさについて考えたいと思います。孤独や寂しさについての相談をお寄せください。」
「孤独と寂しさ」、それが今回のテーマですが、実は驚くべきことに、これまでにない数の相談が編集部まで送られてきました。とてもすべてにお答えすることができない数です(何か、別の仕方を考えます)。それにしても、なんということでしょう、「孤独と寂しさ」というテーマが最も多くの相談を招き寄せたのです。
もちろん、偶然かもしれません。あるいは、編集部の努力のかいあって、プラネッツメルマガの読者が増えているということかもしれません。しかし、「恋人関係」でも「だらしなさ」でも「勉強」でも「人間関係」でもない、「孤独と寂しさ」こそが読者の皆さんの心に訴えかけ、「相談を寄せてみよう」と思わせたというこの事実に、私は心動かされずにはいられません。
現在、といっても、ここ10年かそこらという気がするんですが、コミュニティとかつながりとか地域社会といったものが世間で強調されるようになりました。これは20年前、私が大学生だった頃には考えられなかったことです。あの頃は、そういうタームを口にすることが自体が憚られました。
今思えば、あの頃は、「閉じられているのは悪いことで、開かれているのがいいことだ」というイデオロギーがあったように思います。「開くことがいいことだ」、「閉じられた共同体はダメであり、開かれた社会でなければならない」、そういったことが思想界で空虚に呪文のように唱えられ、僕のような頭でっかちのインテリぶった学生が何の疑問も持たずにそれらを口まねしていました。
開かれているとはどういうことなのか? いったい何を開くのか? よく考えずに、ただただ「閉じているのはよくないことだ」と思っていたのです。「コミュニティー」や「共同体」といったタームは僕にとって、人間を縛る悪しき束縛でしかありませんでした。
しかし、そのような思想は、具体的な生の現場を無視して頭の中で作り上げられた抽象的な物語にすぎないということがだんだんと理解されるようになっていきました。僕自身もそのことにだんだんと気づいていきました。
近くにいる人と協力するのは大切ですし、つながりといっても人を縛るものだけではありません。そもそも「コミュニティー」とか「共同体」という語が、ぼんやりと「ムラ社会」と同一視されていたようなところもありました。しかも、今思えば、「ムラ社会」の何たるかも曖昧でした。
ですから、コミュニティーや地域社会、さらにはつながりといったものが具体性をもって想像され、積極的な意味を込めて語られるようになったことを僕は歓迎しました。「なるほど、よくわかっていなかった、コミュニティーは大切だ」と思うようになったのです。いまもそう思っています。特に、自分が住民運動に関わっていた時はそれを強く実感したものです。
ただ、最近、それと同時にこういうことも考えるようになったのです──「コミュニティーやつながりは大切だが、どうも最近、コミュニティーやつながりの大切さだけしか論じられなくなっているのではないだろうか?」、と。つまり、それと並んで論じられるべき別のものが論じられなくなってしまった気がするのです。では、コミュニティーやつながりばかりが論じられることで論じられなくなってしまったものとは何か? それは個人であり、自由であり、孤独だと思うのです。
僕自身は、個人と自由と孤独のために哲学をやっています。もちろん、コミュニティーや社会、あるいは政治も自分の哲学研究の対象としています。というか、どちらかというとそれらが中心なんですが、自分の最終的な目標は、個人と自由と孤独です。なぜかといえば、僕自身、それらがなければ生きていけないからです。個人と自由と孤独を縛ろうとするコミュニティー、個人と自由と孤独が認められない社会、個人と自由と孤独を抑圧する政治──そうしたものを生み出さないために、哲学をやっています。
ですので、現在、個人と自由と孤独の大切さが顧みられなくなっていることがとても残念です。これらは誰にとっても大切なことだろうと思われるからです。そして、残念なだけではありません。僕は心配しています。何らかの危機を予想しています。これらが重視されなくなることはとても危険なことなのです。どういうことか? これら三つの語のうち、今回のテーマに掲げた孤独から出発してこれを考えてみましょう。
孤独を考える時、絶対に避けて通れないと思われるのは、哲学者ハンナ・アレントが大著『全体主義の起源』の中で強調した、「孤独solitudeはさびしさlonelinessではない」という考えです(ハンナ・アーレント、『全体主義の起源 3』、みすず書房、p.320)。
アレントはこのことを説明するために、ギリシャ生まれの解放奴隷で哲学者だったエピクテトスという人の言葉を引いています。エピクテトスは「孤独な人間は独りであり、それ故、自分自身と一緒にいることができる」と言いました。あるいはまた、孤独な人間は、「自分自身と話す」ことができて、「自分自身のもとにいられる」とも。 ここから次のように推論できます。さびしさを感じている人間は、さびしさゆえに、自分自身と一緒にいることができない。自分自身と話すことができず、自分自身のもとにいられない。これはたとえば、落ち着いて自分を見つめることができず、ただただ欠落感を抱えながら他者を追い求めてしまう状態を指しています。
アレントはまた、さびしさというものは、他の人々と一緒にいるときに最もはっきりと現れて来るとも述べています。周りに人はいる。しかし、自分はその中で孤立し、見捨てられているように感じる。だから誰かを追い求めてしまう…。どうして自分がそのように感じるのかを自分と話してみることもできず、自分と一緒に自分を見つめ直すこともできない…。
そのようなさびしさを抱えた時、人は何でも受け入れるようになります。とりわけアレントが重視したのは、そうしたさびしさを抱えた人間たちが全体主義的支配を受け入れるという事実でした。 -
國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第7回テーマ:「お金に関する悩み」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.190 ☆
2014-10-30 07:00220pt
國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第7回テーマ:「お金に関する悩み」
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.10.30 vol.109
http://wakusei2nd.com
一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ『哲学の先生と人生の話をしよう』。2ndシーズンの連載第7回となる今回のテーマは「お金に関する悩み」です。
▼連載第1期の内容は、朝日新聞出版から書籍として刊行されています。
國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版、2013年)
▼國分功一郎の人生相談「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
最新記事が読めるのはPLANETSのメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」だけ!
過去記事はこちらのリンクから。
それではさっそく、今回寄せられた「お金に関する悩み」をご紹介していきましょう。・・・・・・・・・・・・・・・
【1】クレジットカードのリボ払いに苦しんでいます
シックスマン 24歳 男性 京都府 大学生
大学生です。クレジットカードでの買い物をやめたいです。大きな買い物をするわけではないのですが、KindleやAmazonで書籍を購入したり、メルマガの購読、Huluなどの月額課金制のコンテンツにお金を使うことに躊躇いがありません。その他に交通費をクレジットカードで払っているため、定期券で行ける範囲外に行くのにもどんどん交通費を払ってしまいます。その結果、毎月のアルバイト代はクレジットカードのリボ払いにほとんど消えてしまう生活となっています。今までクレジットカードに支払った金額を計算すると海外旅行へ行けたり、良い服を買えたりします。そのようなことにお金を使えば良かったと後悔するものの、クレジットカードのリボ払いを一括払いに替えられるほどの資金はありません。それに無形のコンテンツにお金を払うことを何度かやめようと試みたものの、ついついワンクリックで買い物をしてしまいます。このまま卒業するまでクレジットカードの決済のためだけにアルバイトをしていくしかないのでしょうか。
【2】自分よりも収入の高い同世代の友人にコンプレックスを感じてしまいます
ぱたぱた 26 男性 東京都 大学職員
國分先生こんにちは。
僕の悩みはお金に対する強い執着がないことです。有名私大の経済学部を卒業しているためか、大学の友人は「もっと高い年収」を目指す非常に意識が強く、スキルアップ・転職・年収アップに日々いそしんでいます。対して僕は正直350万円程度もらえて、ハードカバーの本とCDを気兼ねなく買えるだけの財力があれば十分で、結婚にも子どもにもあまり興味がないので、将来の家族のために働くという意識もありません。
それで割り切れれば良いのですが、一方でキャリア志向の人々に会うとコンプレックスを感じている自分もいます。やっぱり高度資本主義社会の中で”Greed is Good”と刷り込まれているからなのかなあと推測しますが、お金を得て何に使いたいのかという根本的なところがわからないのです。
國分先生のように博士号まで取られている方は、長く同世代の友人より収入が少ない時期が長かったと(失礼ながら勝手に)推測していますが、僕のように彼ら彼女らに対するコンプレックスみたいなものは抱きませんでしたか。
何かアドバイスをいただければ幸いです。よろしくお願いします。
【3】婚活サイトで相手の年収ばかりが気になってしまいます
匿名希望 30歳 女性 神奈川県 会社員
私は今年30歳になりましたが、彼氏と呼べるような人は長らくおりません。
そこで、今は婚活サイトなどを利用して真剣に相手を探しています。
いろんな方からコンタクトいただいたり、自分からしたり…そんな時に気になってしまうのが、相手の年収なのです。
例えば30歳超えているのに500万円では低いんじゃないかとか、若いのに1000万円超えていたりすると、危険な人なんじゃないかとかそんなことばかり気になってしまいます。
というか、婚活サイトに紹介されている人たちは男女問わずいろんな数字がくっついていて、全部が気になってしまうようになってしまったんです。年齢、身長、年収、異性からアプローチを受けている数など……。
今までは男性の身長なんて気にしたことなかったのに、いつの間にか「高くなきゃ嫌だ!」とか思うようになってしまっています。それにアプローチを受けてる人数でも、少なすぎても多すぎてもいろいろ深読みしちゃうんです。
さらにたちが悪いのは、婚活サイトでは次から次に新しいコンタクトがあるので、ちょっとでもつまらない人だと感じたらどんどん切ってしまう感じもあります。それは男性側も同じ様なかんじなのですが……。
私はどうしても恋愛して好きな人となんの迷いもない心で結婚し、助け合って生きていきたいと強く思います。以前は自分一人でも構わないと思った時期もあったのですが、両親や祖父母夫婦の仲の良い様子を見ていると羨ましくてたまりません。
婚活サイトで相手を探しているけど、こんなに相手の条件ばかり気にして、私のしたい様な恋愛、結婚はできるのでしょうか? 結局お金だけでなく他のことにも関わってしまってすみません。何かアドバイスいただけるとうれしいです!
【4】学費のことを心配せずに勉強できる環境が欲しいです
どんちゃん 20代 女性 東京都 大学生
私立の美大に通っている大学生です。実家の家計が苦しく、奨学金とアルバイトで賄っていますが、毎日のアルバイトのために学業にあてられる時間が少なくてもどかしいです。 また、大学院の博士課程まで進学したいのですが、経済的にやっていけるのかとても不安です。 私は浪人をしたし、両親の結婚が遅かったので両親はすでに高齢で、身体障害もあります。本当なら私は普通に就職して家計を支えるべきなのだろうか、私のようなお金のかかる子どもがいなければ両親は楽だっただろうに、などと考えてしまいます。 それと同時に、経済的な事に疎くうまく立ち回れない両親に対して苛立つ事もあります。下着を二枚持っていたら、一枚も持っていない人にすぐあげてしまうような人達なのです。 お金のことを心配せずに勉強できる環境が欲しいです。
・・・・・・・・・・・・・・・
皆さん、こんにちは。
今月はお金に関する悩みを受け付けました。哲学というのはあまりお金の話をしないんですね。もちろん、経済を論じる哲学はあります。しかしそれは、抽象的な経済活動や経済構造を論じているのであって、ここにあるこのお金をどうするかという話ではありません。
また文化人類学経由で、負債や贈与についても多くの研究があります。しかし、それもまたどうお金を使うべきかという話ではない。
お金はとても大切なものです。ですからそれをどう使うべきかを考える倫理学が哲学的に打ち立てられるべきだと思うのです。僕は友人たちと「金融の哲学」という共同研究プロジェクトをゆっくりと進めていますが、これをやってみて分かったのは、哲学が驚くほどお金の使い方について考えてきていないということでした。
お金をどう使うべきかという問題について僕は「買い物の倫理学」みたいなものを構想しつつあるんですが、基本的には拙著『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)の問題設定がベースです。すこし遠回りしながら書いていきたいと思います。
お金を使う上で何よりも大切なのは満足です。満足は充実感をもたらすわけですから、それ以上の出費を抑える効果があります。お金を使っているのに満足がなければ出費は止まりません。きちんと贅沢すること、これこそがお金を使いすぎない最大のコツです。
ところが、いまの社会ではこの満足というものが実に軽視されている。今の社会で幅をきかせているのは安さです。チラシに載っている商品価格が10円でも安いと、わざわざ車を運転してそこまで買いに行くなんてことがあるわけです。
「とくし丸」という移動スーパー事業を始められた村上稔さんが、ご著書『買い物難民を救え!──移動スーパーとくし丸の挑戦』(緑風出版)の中で、安さに振り回されることのばかばかしさを語ってらっしゃいます。買い手はもちろんガソリン代を損しているわけですが、問題はそれだけじゃない。安売り競争は売り手を疲弊させます。
商品を安さという基準でしか考えられないというのは本当に残念なことです。もう少し思想的に考えてみましょう。
19世紀イギリスを生きた思想家・デザイナーであるウィリアム・モリス(1834−1896)は、商品を労働との関連で考えました。酷い労働条件で作られた商品にはどこかおかしなところがある。あるいはまた、酷い商品はやはり酷い労働条件で作られている。そう考えていたモリスは自分で友人たちと工房を経営し、芸術的価値の高い商品を市場に提供しようとしました。その事業にはうまく行った点もうまく行かなかった点もあるんですが、この考え方はとても興味深いし、重要だと思います(この辺り、最近、大学で出した『デフレーション現象への多角的接近』(日本経済評論社)という本に、「ウィリアム・モリスの「社会主義」」という論文を寄せてますので、よろしければお読みください)。
モリスに決定的な影響を与えたのが、批評家ジョン・ラスキン(1819−1900)の思想でした。ラスキンの芸術批評というのは実に興味深いもので、なんと芸術作品を、実際にそれを作り出した仕事のありようから考えるというものなんですね(ラスキン、『ゴシックの本質』、みすず書房、を参照してください)。
たとえば一般に建築はその形態から論じられます。ロマネスク様式は半円形アーチを利用した重厚な教会堂建築だが、それに続くゴシック様式は尖ったアーチ(尖頭アーチ)を利用した背の高い教会堂建築である云々。
ところが、ラスキンは、そうした形態の問題はさらりと片付けてしまう。そして、そうした形態よりもむしろ、そうした形態の建築を実際に作っていた職人たちの仕事が当時どうであったかを考えようとするんです。
「職人が完全に奴隷にされているところではどこでも建物の各部分は当然絶対に画一的なものになるはずである。というのは、彼の仕事が完全なものになっているのは、彼にひとつのことをやらせて、ほかには何もさせないことによってはじめて可能になるからだ。したがって職人がどの程度までおとしめられているかは、建物の各部分が均一かどうかをみれば一目瞭然であろう。そしてもしギリシアの建物のように、すべての柱頭がおなじで、すべてのモールディングが変わりなければ地位の下落はきわまったといえる。もしエジプトやニネヴェの建物のようにいくつかの彫像を制作するやり方がつねにおなじであっても、意匠【デザイン】の様式がたえず変化していれば下落は行き着くところまではいっていない。もしゴシックの建物のように意匠と施工の両方に不断の変化がみられるのならば、職人は完全に自由にされていたにちがいない」(『ゴシックの本質』、54ページ)
芸術作品の出来上がった形態を見比べて「あーだこーだ」言っているような批評はラスキンには物足りなかったわけです。まさに作品の発生する現場を具体的に論じるところにまで批評を推し進めた。それは、作品を実際に作っていた職人の労働についてまで考えることにつながったわけです。
別に誰もが批評家になるべきではないので、ラスキンやモリスのようにモノを眺めることができなければならないわけではありません。しかし、こういう視点は参考になると思うんです。
たとえば商品を買うときにこんなことを考えてみる。
これはどうやって作られたのだろう? どこで作られたのだろう? 作った人は誰だろう? 作った人は何歳だろう? どうしてこの値段なのだろう? 思ったよりも安いだろうか? 思ったよりも高いだろうか? これを買った時に得られる満足はどれほどだろう? その満足は作り手の願ったものだろうか? もしも作り手に会えて、その満足を伝えたら作り手は満足してくれるだろうか?
工場製品であっても、作り手がいます。僕は『シルシルミシルさんデー』というテレビ番組の工場レポートが大好きだったんですが、あれを見ていると様々な工場の方々が実に自信をもって製品を作っているのがよく分かる。
もちろんテレビですから、いいところばかりを見せていたのかもしれません。しかし、そこには何かしらの真理もあると思います。やはり作ることは楽しいのです。そして、自信をもって、誇りをもって製品を作れることは何ごとにも代え難い喜びを与えるのだと思います。
ですから、手作り製品でなくても、工場製品であろうとも、その商品を買う際に、その商品についていろんなことを考えられるはずです。
友人の服飾デザイナーは、「服を作るには布が必要、布を作るには糸が必要、糸を作るには綿花が必要…」と言っていて、綿花農家と付き合いながらデザインをしています。デザインする側でなくても、買い手として同じように考えられることがあるはずですね。
商品について想像を巡らすことは、楽しいことですし、また購入後に満足を得るためにも有効です。商品をより分析的に眺められるようになるからです。細かいところに目がいくようになるのです。
そういうクセをつけることが現代では難しくなってきています。商品のことなんか全く分からない粗いサムネイルの画像で、テキトーに書かれた商品説明を読んで、ワンクリックで買うというのが増えてきていますから。
しかし、若い頃から買い物に意識的になり、購入時にいろいろと考えるクセをつけ、少しずつ買い物のスキルをあげていくことはとても大切だと思います。
すこし大きな話をしてしまいました。もうすこし身近な話をしましょう。
現代社会においてお金の使い方が難しいのは、普及している消費モデルがいずれも、我々を「お金が足りない」という状態に至らせるようにできているからです。 -
國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第6回テーマ:「だらしなさに関する悩み」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.166 ☆
2014-09-26 07:00220pt
國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第6回テーマ:「だらしなさに関する悩み」
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.9.26 vol.166
http://wakusei2nd.com
一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ『哲学の先生と人生の話をしよう』。2ndシーズンの連載第6回となる今回のテーマは「だらしなさに関する悩み」です。
▼連載第1期の内容は、朝日新聞出版から書籍として刊行されています。國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版、2013年)
▼國分功一郎の人生相談「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
最新記事が読めるのはPLANETSのメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」だけ!
過去記事はこちらのリンクから。
【1】「だらしのない自分がとても許せません」おたこ 39歳 女性 近畿
絵をかいています。
「だらしない」を憎んでいます。心のそこから憎んでいます。
それなのに、わたしの仕事場は散らかり放題。消しゴムのカスや、描き損じの紙に、交換して整理されまいままの名刺、積み重なった本、文具、いろいろなものが散らかってまったくもってだらしない環境で働いています。
だらしのない自分がとても許せません。
所有するものを必要最低限におさえると、散らかりも最低限に抑えられるような気がしたので持ち物をとても少なくするよう心がけているのですが、最低限の持ち物でも、盛大に散らかります。
こうなったら少しだけ「だらしなさ」を寛容できるようになりたいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
【2】「羞恥心がなく、もっと他人を意識できるようになりたいです」ぽてりん 29歳 男性 東京都 会社員
國分先生こんにちは。いつも楽しく拝見させていだだいております。今回のテーマが『だらしなさ』と知り、思うことがございまして、メールをさせていだだきました。
率直に申し上げまして私、あまり羞恥心がございません。現在、女性ばかり(熟女)の職場で事務仕事をしているのですが、何度も社会の窓が空いているやら、シャツが出ているなど注意されます。社会人としてダメだと思うのですが、直そうと思う意識があがりません。
そもそも、未来において自分が存在すると仮定すると、現在は過去になります。常に過去を生きている。そんな風に考えているうちに細かいことが気にならなくなってしまいました。 あまり、羞恥心がない理由にはなっていませんが、どうすればもっと他人を意識できるか、ご助言いただければ幸いです。
【3】「お酒を飲み過ぎるのをやめられません」ぱたぱた 26歳 男性 東京都 大学職員
僕のだらしなさはお酒です。20代も後半になり体力も(相対的に)衰え、二日酔いになる頻度が上昇しているのにもかかわらず、適当なところで切り上げるということがどうしてもできません。二日酔いになった時の苦痛は筆舌に尽くしがたく、仕事にも影響するので毎回猛省するのですが、いざ飲みの場になると快楽が流されて飲みすぎてしまいます。そして後日「なぜ僕は愚かな過ちを繰り返すのだろうか」と強い自己嫌悪にさいなまれます。
一方で飲みの場でそれこそ適当なところで切り上げている友人・同僚をみると「つまらないやつだ」という感想がぬぐえません。適切な飲み方を心得て無茶をしなくなったらそれこそ老いてしまうような気がします。
ならば現状で良いのではないかと言う話ですが、この自分のスタンスの揺らぎをどのように解決すべきか、國分先生のご意見を聞かせていただければ幸いです。
【4】「周囲の人に気を利かせたりすることができません」もしプロ 31歳 男性 奈良県 会社員
國分先生こんにちは。
以前転職についてご相談させていただきました。お陰様で現在、新たな職場で頑張らせていただいてます。その節は本当にありがとうございました。
今回、だらしなさがテーマということなのですが。私はこれまで(幼稚園児の頃から)マイペースな性格と親や教員から言われ、整理整頓も得意ではありません。 たまに自分で「このくらいやっておけば良いだろう」と片づけてもみるのですが、周囲が満足するにはほど遠いようで、何かと文句を言われる事も少なくありません。
周りが気になる事に無頓着で、気が利かない事も指摘されることが多く、意識もしているのですが長くは持たないのです。
指摘してくれる方達のためにも、少しでも変わろうと意識をしているのですが。変わってるとしても、その程度がまだまだ少なすぎて周囲をイラつかせてしまっているように感じます。
今後、できるだけ周囲と自分の感覚の差を埋めて、気がまわるように変わっていきたいと思うのですが、いまいち自信がもてません。
どのようにすれば変われるでしょうか。何かヒントがいただけますと幸いです。
【5】「だらしない自分を変えたいと思っていながらなかなか変えることができません」もちもち 29歳 女性 東京都 無職
人生全体にだらしがなくて、困っています。部屋は片付けられず、いつも汚いです。ついクレジットカードで買い物をしてしまい、貯金もありません。昔はわずかながらも貯金できていたのに……。 無職になり、今就職活動をしていますが、「私は『本当に』なにがしたいのか?」と思うと、混乱し、「気分転換に」とインターネットの記事をダラダラと読んでは自己嫌悪に陥っています。本当にだらしない人生なのです。 こんなだらしない女じゃ結婚もできないし、子供ももてない、うまく人生を過ごせる自信がないです。
とりとめがありませんが、このだらしない自分を変えたく思っています。どうしたらいいでしょうか。
みなさん今日は。國分です。
今回のテーマは「だらしなさ」ということなんですが、はっきりいってこんなテーマはやめておけばよかったと思っています。というのも、あまりにも難しいテーマであることが、考えれば考えるほど分かってきたからです。
何か、誰か、手がかりになる哲学理論とかそういうのがないかと考えてみたんですが、どうも思いつきません。
実は「だらしない」という言葉の意味もよくわからない。調べてみたところ、これは「しだら」が無いという意味だそうで、「しだらない」がなまって「だらしない」になったみたいです。
とすると、「ふしだら」と「だらしない」は同義ということになりますが、ちょっとニュアンスが違いますよね。
何というか、最初に考えたのは、こういう人生相談に寄せられてくる悩みのほとんどは、「だらしなさ」に還元されるのではないかということだったんです。
つまり、自分で自分の人生のために「こうしよう」「ああしよう」と思っていることがいろいろありますよね。でも、それがうまくできない。だからうまくいかない。じゃあ、なぜ「こうしよう」と思ったのにできないのか。これは事例ごとに程度の差こそあれ、要するに「だらしない」ということじゃないかなと思ったんですね。
でも、ちょっと違う気がしてきました。というのも、「だらしない」と言う時、そこには何か特殊な意味というか思いが込められているように思われるからです。単に、「きちんとしていない」「整っていない」「節度がない」「しまりがない」「体力や気力がない」「根性がない」──すべて辞書に書いてある「だらしない」の意味です──という意味じゃないんですね。
難しい言い方をすると、だらしなさという言葉には、特殊な欲望が備給されているように思われるのです。
それは何かというと、自分はこれでもいいと思っているけれども、同時にそれを強烈に拒否もする気持ちです。「だらしない」と言う時、人は、「それでもいいではないか」と思いつつも、外部から注入された何らかの規範の圧力に負け、この規範に必死に一致しようとしている、そういう感じがします。
分かりやすくなるように、段階を追って説明してみます。 -
ありきたりの「ファスト風土」論にはもう飽きた!「新しい郊外論」のためのマスタープラン――國分功一郎×濱野智史『常磐線から考える』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.159 ☆
2014-09-16 07:00220pt
ありきたりの「ファスト風土」論にはもう飽きた!「新しい郊外論」のためのマスタープラン――國分功一郎×濱野智史『常磐線から考える』
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.9.16 vol.159
http://wakusei2nd.com
Twitter上での会話をきっかけに、「人生」を考える哲学者・國分功一郎×「情報環境」を考える研究者・濱野智史という、千葉出身の二人の思想家の「ジモト」を巡る企画がほぼ惑で実現。そのダイジェストをお届けします!
Twitter上での熱いやりとりをきっかけに、7月のとある休日を使って行なわれたこの対談企画。濱野さんの生まれ故郷である新松戸を出発点に、途中PLANETSのエグゼクティブ・サポーターである「モウリス」の助力と提案で、つくばエクスプレスの駅周辺にあるショッピングモールを訪問し、最後に國分さんの故郷である柏を巡りました。
二人の思想家の「ジモト」を巡りながら見えてきた、「新しい郊外論」のためのマスタープラン(基本計画)とは――? 本日の「ほぼ惑」では、ダイジェスト版のレポートをお届けします。対談の全容は、何らかのかたちで全文公開を予定しています。今回の「ほぼ惑」ではその「新しい郊外論」のイントロダクションをお見せします!
▼プロフィール
國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。柏出身の哲学者。高崎経済大学経済学部准教授。専門は17世紀のヨーロッパ哲学、現代フランス哲学。また、哲学、倫理学を道具に「現代社会をどう生きるか」を「楽しく真剣に」思考する。著書に『暇と退屈の倫理学』(朝日出版)、PLANETSメルマガでの人気コーナーを書籍化した『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)、自らが積極的に関わった小平市の住民運動について書かれた『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)などがある。今回の「柏論」は國分さんたっての希望で実現することになった。
濱野智史(はまの・さとし)
1980年生まれ。新松戸出身の情報環境研究者/アイドルプロデューサー。慶應義塾大学大学院政策•メディア研究科修士課程修了後、2005年より国際大学GLOCOM研究員。2006年より株式会社日本技芸リサーチャー。2011年から千葉商科大学商経学部非常勤講師。著書に『アーキテクチャの生態系』(NTT出版)、『前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48』(ちくま新書)など。2014年より、新生アイドルグループ「PIP」のプロデュースを手掛ける。
◎構成:立石浩史、中野慧
■新松戸〜流山を歩く
7月12日、午後過ぎ。前日までの台風の影響が心配されましたが、この日は予想を覆す快晴となりました。暑すぎるくらいの天気の中、JR常磐線の新松戸駅前に集合。
▲駅の東側は住宅や畑が広がり、のんびりとした雰囲気です。
▲新松戸駅前にて。この日、國分さんはツイキャスで実況しながらの収録でした。
國分さん、濱野さん、P編集部2人の4人でまずは濱野さんの生まれ故郷である新松戸を歩きます。國分さん曰く『暇と退屈の倫理学』の延長線上の仕事であるとのこと。
■今一度、郊外論を問いなおす
國分 この20年くらい「郊外」が注目を浴び続けていますよね。僕は柏生まれ柏育ちなんですけど、柏はこの郊外というものの純粋形態ではないかと思っているんです。今日はその直観を、実際に濱野さんと街を歩きながら検証してみたい。
論壇では2000年代半ばから「ファスト風土」という言い回しが流行しました。けれども僕は、「今さら何を言っているんだ」という気持ちでした。「遅いよ」と。僕は自分が幼い頃から「ファスト風土」で生活してきて、そのことについてとても苦しいという感覚があった。ですから、その感覚に気づいてそれを理解しようとするひとがこれまでいなかったことに端的に驚いたのです。論壇なるものはなんと鈍感なのかと思った。
僕が感じていた苦しさというのは、幼い時の感覚であることもあってなかなか描写しづらいんですけれど、歴史の欠如と関係しているように思います。歴史の無い土地、荒野に、家だけが建てられて人が住んでいるというイメージですね。
都内に通勤しているサラリーマンの家庭であれば、親と子どもは週末以外顔を合わせない。土地にある歴史やコミュニティと人間が切り離されて、アトム化されて生きている場所――今からあの時の感覚を言葉にしてみるとそのように言えるかと思います。
90年代より積極的に郊外に言及されている論客に宮台真司さんがいらっしゃいます。以前、宮台さんとお話ししたときに出身地を聞かれたんです、「國分さんは小平の出身なんですか?」って。「いえいえ、今住んでいる小平ではなく、柏ですよ」と答えたら、「あんまりいいイメージがないな」とおっしゃっていた。その時、なんとなく「なるほど」って感覚があったんです。現代の新しい空虚を生きる若者についてずっと考えてこられた宮台さんが「なんとかしなければならない」と思われている街の典型が柏なのかも知れない、と。
濱野 テレクラが駅前にあって、援交が盛んで……というイメージですね。しかし、何故かはわからないですけど(笑)、國分さんが郊外出身というイメージがなかったんですよ。PLANETSの人生相談連載を読んでいると、失礼ですが地方の強固なコミュニティがあるところで育った方なのではないかと思っていました。だから柏出身と聞いたとき意外だったんですよ。
國分 そうなんだね。僕がそのような印象を与えるのはなぜだかよく分からないけど、『暇倫』で扱った問題、たとえば、消費社会の問題とか、何をしていいか分からないアイデンティティの不安の問題については、自分が柏のようなところで生まれ育ったからこそ敏感でいられたんじゃないかと思っているんだ。
街とそこに住む人とのアイデンティティについて考えたいというのが今回の課題です。その時に重要なのは、もともと荒野だったところに家を建てたようなイメージで捉えられる郊外にも、当然ながら歴史があるってこと。つまり「郊外」というレッテル貼りによって、町の歴史の地層を見えにくくしていることがある。これをはじめに言っておきたい。
そういう「見えにくくなっている歴史」の話を出すと、どうしても「ふるさとのよさを再発見する」的なノスタルジックなものになってしまいがちなんだけど、そうじゃない方法で街の歴史にアクセスできないか。それが僕自身の課題なんですね。
もう僕は柏には住んでいないけれど、そのアクセス方法についての考えを作って、自分の気持ちに対する決着をつけたい。要するに……僕は柏があまり好きじゃないんです。生まれ故郷だから愛着はあるんだけど、同時に強い違和感も持っている。そんなことを考えているときに濱野さんがお隣の新松戸出身であり、かつニュータウンの問題を真剣に考えていることを知りました。それで今回の企画にお誘いしたんですよ。
濱野 この企画に誘ってもらったきっかけは僕が藻谷浩介さんの『しなやかな日本列島のつくりかた』(新潮社)のブックレビューをネット上に書いたことですよね。僕も以前は國分さんと同じように、生まれ育ったニュータウンを空虚な場所だと思ってきました。新松戸で生まれ、小学校高学年からは千葉ニュータウンと「郊外から郊外」へと移り住みました。
当時は生き辛いとまでは思っていませんでしたが、確かにこの場所で生きている人間はアトム化されるしかないというか、國分さんがおっしゃるように自分の住んでいる町には歴史もなければコミュニティもないと思っていました。松戸と柏という町は兄弟という感じがしていて、國分さんとは同じバックグラウンドだと思います。
■かつて疎外的だった郊外は、意外といい町になっている!?國分 柏と松戸は、地理的にも千葉県の北部で隣接しているし、東京に通勤する人が多いという点でも似ている。でも、濱野さんと新松戸を歩きながら違いも見えてきたね。たとえば道路の作り方が全然違う。新松戸の豊かな街路樹のある道には落ち着きを感じる。こういう道は柏にはあまりないと思います。
当然だけど、柏より松戸の方が東京に近いので開発が早い。駅前に関して言うと、松戸はうまく開発できなかった。柏はゆっくり開発できたからダブルデッキなどを作れて割とうまくいった。けれども道路に関して言うと、落ち着いた街路樹のある松戸の道路のようなものはうまく作れていない。松戸には、全国的に有名な桜の通りもありますよね。
▲新松戸の「けやき通り」の入り口。
▲並木道が整備されています。
濱野 僕が子どもの頃の80年代〜90年代にかけては、あんなに木が立派では無かったと記憶しています。20年かけて木が育ったのではないでしょうか? 『しなやかな日本列島のつくりかた』の書評にも書いたのですが、欧米などでは、街路樹が育ち景観がよくなり町が成熟すると、地価が下がらないらしいんですね。詳細を調べてみる必要はありますけれども。今日訪れた新松戸なんかは地価は下がっているでしょうけど、街路樹が育って、いい雰囲気の街になっていますよね。
國分 僕はこの景観を見て、なんとも言えない町の成熟を感じました。新松戸は予想以上にいいところでビックリ。
濱野 もう少しサバサバした「郊外」というイメージだったんですが、僕もいい意味で予想を裏切られました。
國分 新松戸を歩いてみて一番面白かったのは濱野さんの新松戸のイメージが変わったということだな(笑)。
濱野 「郊外」と言うとどうしても「疎外されている」という感覚を生みやすい。僕もこれまでの論客のように「疎外されたものへのひねくれた愛着」みたいなものを持っています(笑)。今日は「相変わらずサバサバしてんな〜」とか言って懐かしむのかと思いきや、ほぼ20年ぶりに訪れてみると町が成熟していて驚きでした。「新松戸は意外にいい町じゃん! 俺、ずっとここ住んでりゃよかったじゃん!」と逆に「疎外」されましたね(笑)。
町のビルがほとんど増えていないのも面白いと思いますね。新松戸って、開発時に家もマンションも区画を余らせずに作っちゃったので、今は街の流動性が下がっているんじゃないでしょうか。駅前の風景もあまり変わっていない。逆に言うとこれから再開発してもいいぐらいの、ある種穏やかすぎるぐらいの景観だと思います。
▲新松戸駅前の風景。奥には流鉄流山線の幸谷駅付近の踏切。赤いビルはかなり古そう。
■鉄道が変える町の歴史
駅周辺をしばらく歩いてから、2人は常磐線と並行して走る「流鉄流山線」(単線鉄道)にもぶらりと乗車しました。流山線の幸谷駅は、常磐線の新松戸駅に隣接しています。
▲流鉄流山線の車両。
▲流山線の路線図。幸谷駅とJR常磐線の新松戸駅はすぐそば。國分 さきほど流山線に乗りましたが、二人とも乗るのは初めてだったね。新松戸から北部の方に行って戻って来ましたけど、途中の風景は、農村風景→ニュータウン→農村風景→ニュータウンのようになっているんですね。つまり流山は、新しいマンションやキレイな家が最近どんどん建設されている一方で、昔は柏や松戸よりも栄えていた土地なので、古い大きな農家なんかも残っている。それが交互に現れる。
それにしても、新松戸(幸谷駅)からちょっと電車に乗っただけで、大きな農家があるような場所に行けるというのは、大きな発見だったね。
濱野 この辺りは流山電鉄のロジックで町が作られていないんですね。普通は電車が通ると、町が付帯されてできあがるんですが、全くそういう感じではない。
國分 100年前に敷かれた電車だからね。それにしても歴史的に見ればこの辺りの町は栄枯盛衰がすごいよね。
流山は明治のはじめあたりはとても栄えた街だった。少し離れてるけど鰭ヶ崎(ひれがさき)なんかもそうですね。でも、常磐線の建設計画が出てきた時、流山や鰭ヶ崎はそれに反対したんですね。蒸気機関車からはき出される火の粉で火災が発生するのを恐れてのことだったらしいです。当時はかやぶき屋根だからそういう気持ちがでるのも当然かもしれない。
でも、柏はそれを受け入れたんですね。僕は松戸の方はよく知らないんだけど、実際、常磐線は松戸や柏の地域を通っている。その後、常磐線の沿線は発展を続けるわけだけれど、鉄道を拒んだ地域は発展から取り残されてしまった。
ところが最近は逆に、つくばエクスプレスが通ったことによって流山が活気づいている。マンションもバンバン建って、盛り上がっているね。つまり流山というのは明治以来、鉄道の敷設に関連する形で町が変動してきた。
▲流鉄流山線の車窓からの風景。新興の住宅も目立ちます。
▲流鉄流山駅にて。駅の改札では駅員が切符を切っており、ICカード式の改札はおろか、磁気乗車券の自動改札機も導入されていませんでした!ちなみに駅奥の森林は駅員さん曰く空き地とのこと。ほんの近くに流山市役所がある「旧」市街地です。
■郊外は使い捨て?
濱野 僕の郊外のイメージは「使い捨て」なんですよ。僕は家族で、手狭だった新松戸のマンションから千葉ニュータウンの一軒家に90年ごろに引っ越したんですけど、引っ越したときは空き地だらけで、コンビニもろくにありませんでした。「この町は明らかに失敗だ。マイホームなんていらねえよ!」と思ったんですよね。僕は千葉ニュータウンの都市計画は失敗していると思いますが、その理由は、当時人口が20万人ほどに増えていないといけないのに全然達しておらず、そこに電車を引いてしまたったことにあると思っています。
僕はその後中学受験して都内の学校に2時間かけて通っていたから、青春時代は千葉ニュータウンにほとんどいませんでした。だから何の思い入れもないんですよ。大人になってからも4回しか帰省していない。なぜなら帰りたくないから。何もないし、遠いし、親もうるさいから(笑)。
國分 少年時代の濱野さんはそういう思いだったんだ。俺も「何かおかしい」って感覚があったな。人間のそういう感覚は大事なんだと思う。でも、やはり新松戸の街路樹は象徴的だよ。「町というものがこうやって育っていくんだ」といういい感じがした。
濱野 樹って、植えてみるもんなんですね。他にも、駅から歩いて数分のところに流通経済大のビルができたりしていましたね。大学ができることで町はまた成熟するものだと思います。反面、新松戸は子どもの数が劇的に減っている印象を受けました。象徴的だったのが、住んでいたマンションの近くに妹が生まれた産婦人科があったのですが、その医院が看板を取り外していたことです。
つまり、産婦人科の病院がマンションの側からひとつ無くなることが意味していることですよね。これまたマンションのすぐ近くの「新松戸中央公園」で遊ぶ子どもの数が、土曜の昼下がりという時間帯にも関わらず、昔と比べて少なかったことも印象的でした。
▲流通経済大学・新松戸キャンパス。
▲左手前の屋上のある白い建物が濱野さんの妹さんが生まれた元・産婦人科の病院。濱野さんが住んでいたマンションの10階から望む風景です。
▲新松戸中央公園。広大な運動場ではスポーツチームの子供たちがクラブ活動のスポーツに興じていました。でも、子どもの数はまばら。
■幼少期のアーキテクチャが情報環境研究者・濱野智史を生成した濱野 今日10何年ぶりに新松戸に来てみて、郊外は意外と残っているものだなと感じました。逆に千葉ニュータウンのような町が今後どうなっていくのかにも興味があります。アメリカ風の車社会に最適化していくのだと思いますけど。 それにしても人間というものは環境ひとつでこんなにもどうにもこうにもなってしまうものなのかと。僕はもともとアーキテクチャが人に与える影響を社会学的に研究してきたわけですけれども、そういうことを研究するようになったのには、自分の出自や生育環境が多いに関係していると思います。僕は新松戸ではマンションの10階に住んでいて、4、5歳までエレベーターの10階のボタンを押せなかったんですね。だから家から下の階へは行けずに、上の階に住んでいた一つ年上のお兄さんの家に遊びに行ってファミコンをして、「ゲームすげえ!」と衝撃を受けたりしていました。「ブランコよりこっちだ!」みたいな感じで(笑)。
そこでの生活環境がこうして今の研究につながっていたりするわけです。単に10階に住んでいただけなんですけどね。環境が僕の幼少期の行動を決め、ゲームの環境が人をハマらせ……とか、先ほどの「郊外で生まれ育つと人間が疎外されていく」という話も、環境があっさり人間を作ってしまう典型例だと思います。
國分 街を考える上では、当然のことながらアーキテクチャの視点が重要になってくるということだよね。 -
國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第5回テーマ:「勉強に関する悩み」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.146 ☆
2014-08-28 07:00220pt
國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
第5回テーマ:「勉強に関する悩み」
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.8.28 vol.146
http://wakusei2nd.com
一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ『哲学の先生と人生の話しよう』。2ndシーズンの連載第5回となる今回のテーマは「勉強に関する悩み」です。
▼連載第1期の内容は、朝日新聞出版から書籍として刊行されています。國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版、2013年)
▼國分功一郎の人生相談「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
最新記事が読めるのはPLANETSのメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」だけ!
過去記事はこちらのリンクから。
【1】難解な文献を理解できるようになるにはどうしたらよいでしょうか?(スーパームーン 48歳 女性 愛知県 病院リハビリ職)
國分先生
文献を読むということ…その難解さに悩んでいます。もっと分かりたいんです。どうしたらいいのでしょうか。やはり恋愛や仕事の習得と同じで練習の積み重ねでしょうか。
病院でリハビリ職をしています。ヒトの認知や情動や意識、言語に興味関心があり 更に深く仕事をしたいと文献を読んでいます。
難解と言われている文献を読むにあたって入門書やネットのあらすじも利用するのですが 分かるような分からんようなまさに抽象の世界です。
先日は13歳の時にスピノザを早読んでいたというヴィゴツキーという心理学者の『これで分かる~思考と言語』というセミナーに参加しました。
錚々たる大学教授の講義が続きましたが テーマが簡潔になるどころか
ますます巨大化して掴めない程の情報でした。
日常の業務はより実務的です。医者やナースに伝えるとき 起承転結で話していてはイヤがられます。結論から相手の立場の言語で言うことが求められます。
それから考えると圧縮できる知性が欲しいです。
國分先生は難解の文献を日々読まれていますね。どのように理解して身体的なことばに表現される技術をお持ちなのでしょうか。
才能だとは言わないでください。習熟とも言わないでください。
大学教員の文献を読むということがどんなことなのかの常識を先日、体験したばかりですので相談したく投稿致します。
社会人ですが 仕事をまとめて論文を書くのが第二の夢です。そのためには文献も読み込んで行かなくてはなりません。宜しくお願いします。
國分先生のご活躍、書籍やツイッター等から応援しています。
【2】高い学費を払って大学に通う意義が見いだせません(中村謙太 20歳 男性 北海道 大学生)
はじめまして、大学1年生です。大学の授業を受けてみましたがPLANETSの動画や書店に売ってる本の方がよっぽど勉強になります。このまま大学に通って教授のグダグダな授業1回ごとに3500円ちかく払う意味がどうしても見いだせません。また、大卒という学歴や大学名が企業の採用基準になっているのもよくわかりません。大学の授業より安くて内容の濃い情報が得られる今の世の中で大学に行ってまで学ぶ意味と学歴社会についての國分さんの考え方をお聞かせ下さい。宜しくお願いします。
【3】仕事が忙しくて、勉強したくても時間がなかなか確保できません(ブローノ・ブチャラティ2世 26歳 男性 埼玉県 会社員)
國分先生こんにちは。
社会人が勉強時間をどうやって確保するかについて相談したく、今回の人生相談に応募してみました。
私は東京で会社員をしているのですが、どうしても毎日の仕事(ちなみにごく普通の事務職です)が忙しく、帰宅時間が22時を過ぎることも多いです。ですが今の仕事以外に挑戦してみたいことがいくつかあり、今は寝る前の1時間ぐらいを使って、その分野の勉強をしようとしているのですが、毎日続けることがなかなかできません。
それで、じゃあ休日にまとめてやろう!と思うのですが、毎日の仕事の疲れが蓄積し、土曜日などはまともに活動することすらできず、ずっと寝たりスマホでネットを見てダラダラしたりして、日曜の夕方になってようやく重い腰を上げて勉強をしたりしています。
こんな感じなので、勉強したことがなかなか積み上がっていかず、いつまで経ってもかたちにならないので、不安であると同時に、続けるモチベーションも萎んでいくという悪循環に陥っています。
最近では、家から職場までの電車での通勤時間が片道1時間ぐらいかかって、しかも混雑する路線なので、それで疲れてしまって家で勉強できないのかとも思い、会社の近くに引っ越しちゃおうかとも考えています。(でも、「会社の近くに住むと時間に余裕ができるせいでダラダラ残業しちゃう」とか、「電車のなかでボーっと考え事をできる時間があるほうがいい」とか人は言うじゃないですか。それで微妙に二の足を踏んでいるところもあります。そもそも都心は家賃高いですし…)
ちなみに、私の勉強というのはプログラミングに関するもので、手を動かせない電車のなかでスキルを上げていくというのは難しいのです…
こんな感じで、何やらずっと足踏みの状態が続いております。
要するに、仕事で疲れていることを理由に、勉強への気持ちの切り替えがパッパとできなくてなんとなく不全感を抱えている、というのが私の悩みかなと思うのですが、こういう人はどうしたらよいでしょうか?
なんかこう、ざっくりとした相談ですみません…お答えいただければ幸いです。
【4】「もっと勉強しなければ」という強迫観念に囚われてしまいます(osakana 45歳 女性 東京都 非常勤講師)
まがりなりにも専門を持って人に教える立場になっているのにも関わらず、「自分は勉強が足りない」「もっと勉強しなければ」という強迫観念にとらわれていて、それがたまらなくストレスです。つまり、はっきりいって勉強・仕事=苦役という感覚から自由になれません。もっと生き生きと自然体で勉強というものに対峙したいのですが。
【5】大学院に進学するかどうか迷っています(ちゃんこ 19歳 男性 東京都 大学生)
國分さんこんにちは。ちゃんこと申します。僕はいま大学1年生なのですが。やはり大学卒業後の進路についてたびたび考えることがあります。そしてその選択肢の一つとして大学院への進学があります。僕はいま國分さんや宇野さんをはじめとした各種の学問や評論の本を読んだり、書いたり、考えたりというのが一つの趣味となっており、このようなことが仕事に出来たら良いなと漠然と考えています。もちろん、自分が将来、学者や評論家というような職業を生業として生きていけるかを見定めるにはまだ時期尚早であり、今後の努力や心情の変化等によって、進路の選択肢は変わってくるでしょう。
上記のようなことを考えている中で僕が主に悩んでいることは、①大学院進学を決めるキッカケ②大学院に進学した場合の、(院生における)生計の立て方です。②については、奨学金を得る、なにか自身で稼げるスキルを身につける、仕事しながらも大学院に通えるような企業に就職する、等の選択肢があると考えています。周りの友人の多くは卒業後に企業に就職することになるでしょう。そんな中で自分が大学院生として2年、6年過ごすことになるとしたら、なんだかんだいって今から考えても不安になります。この①、②について國分さんの経験も踏まえて、何かしらのアドバイスを頂けたら嬉しいです。
ちなみ、いま自身の専門にしたいと考えているのは理論社会学の分野です。大学は一応私立のトップのK大学に在学しております。勉強というより、進路の相談のような形になってしまい申し訳ありません。よろしくお願いします。
【6】大学生ですが「勉強する」という決断に迷いがあります(店長 20歳 男性 東京都 学生)
國分さんこんにちは。当方、早稲田の数学科3年生をやっている学生です。勉強に関する悩みということで、質問させていただきます。僕は今学期の定期試験の感触からして、5年生がほぼ確定致しました。大学一年生から大学の建物が嫌いで、授業の内容はともかく早稲田の建物に近寄ることに異常な嫌悪感を抱いており、それが故に単位はとれず、こうして留年という親不孝な結果を招いてしまいました。恥ずかしい程に子どもっぽかったと、今はとても反省しています。
しかしながら、授業をさぼって読んでいた野家啓一さんの本に衝撃を受けて、今自分が勉強していることに意外なおもしろさを見い出してしまいました。それで、理系ということもあって、院まで進学して改めて勉強したいという気持ちがありつつも、しかしもはやここまで勉強してなかったので今から勉強するには完全に出遅れてる上、留年しているにも関わらず院に進学するという、事実と気持ちの矛盾に、うしろめたさを拭えず、進路に迷っています。もうすこし、「勉強する」という決断を後押ししてくれる、説得力のある言説があれば、自信をもって院を視野にいれつつ勉強ようと奮起できると思うのですが、「はやく社会にでたほうが生涯年収がうんたら」とか「勉強しても役にたたないからねえ」とかそういった言説が多く、それらに対して何も言えない自分がいます。
もっと「勉強する」という行為を力強く「意義深い」と後押しする言説があってもいいのに・・・。と、こういった状況にいる身の上で感じているのですが、國分さんはそれについてどう思われますか?そして、ふわっとしてますが、國分さんの考える「勉強する意義」を教えていただけると幸いです。
皆さん、こんにちは。國分です。
いかがお過ごしでしょうか。
今回は勉強がテーマなんですけど、非常に書くのが難しいです。或る意味ではたくさん言いたいことがあるけれども、一般的な仕方で言うのが難しいんです。僕も研究者の端くれですが、研究者というのはいつも勉強しているわけですよね。だからこそ、あまりにも自分の日常すぎて書きにくい。でも、ものすごいこだわりがあるところでもあります。仕事ですから。
全般的な記述というのを求めず、思いついたことを書いていこうと思います。
僕はこの一年間、古典ギリシャ語をやってました。毎週土曜日に語学学校に通って勉強していました。後半に突入したあたりで予習復習がだんだん大変になっていって、冬あたりはギリギリな感じでしたが、春あたりになるとかなり勘が働くようになっていきました。
一つ、この経験をもとに考えたことを書いておきたいと思います。
久しぶりに新しい言語に挑戦して思ったのは、やはり勉強するには、
(1)誰かに教わる
(2)強制力がある
この二つが重要だということですね。一つずつ説明しましょう。
まず誰かに教わるという点ですが、これは深く論じると多分ものすごい大変なことになるんですが、かいつまんで言うとですね、教わる時に、人は明示的な内容以上のものを受け取っているということなんだと思います。
たとえば、ギリシャ語の動詞の活用はギリシャ語の教科書に書いてありますよね。だったら、それを読んで覚えればいいじゃんって思うわけです。でも、違うんですよ。それをただ本から読むのと、誰かから教わるのとでは全然違う経験なんです。
もちろん、教え方がいいとか、教える内容に付随してくるオマケ情報が面白いとかそういうこともありますが、それだけでもない。
どういうことかと言うと、ある教科を教わる時に、僕ら生徒は、先生がその教科に対して持っている態度とか精神、ちょっと大げさに言うと、思想のようなものを同時に受け取っているのです。
少し頑張って説明してみますね。
たとえば、A、B、C、D、Eという五つの項目からなる教科があるとします。すると、生徒は当然、Aから順にEまでの項目を教わるわけです。普通に考えれば、Aから順にEまでを教えてもらえるなら、誰に、あるいは何に、どうやって教わってもいいはずです。単に教科書を読むだけでもいいかもしれないし、毎回違う人に教わってもいい感じがします。
しかし、一人の教師からそれを教わると、ちょっと違うのです。なぜなら、教える人には、その教科に対する態度や精神、あるいは思想があるからです。
たとえば、五つの項目の中で、AとCとEという項目に力点を置いて、その教科を把握している先生もいるでしょう。AとDに力点を置いて全体を把握している先生もいるでしょう。先生ごとに異なった力点があるのは、先生たちの教科把握の背後に何らかの思想があって、それに基づいて、「こことここが重要なのだ」「こここそがポイントだ」と考えているからです。
誰かから教わるというのは、単にA、B、C、D、Eという五つの項目を教えてもらうということではなくて、その五つの項目の把握の仕方をも教えてもらうということです。AとCとEに力点を置けばこんな風に全体が見えてくるとか、AとDに力点を置けば五つの関係がこう把握できるとか、そうした全体の把握を教えてもらうことが大切なのです。
これは、言い換えれば、教科の教授にあたっては、明示的に口にはだされなくても、教えられることの全体から、ある種の思想が醸し出されているということでしょう。
単に教わることと、教わったことを体得することとは違います。体得するためには、全体を把握する何らかの思想をもっていなければなりません。だから、単にA、B、C、D、Eという五つの項目を教えてもらうだけではなくて、その五つの項目の体得している一つの事例を教員に示してもらうことが大切なのです。
小学校の算数ってすごく難しいですよね。たとえば小四ぐらいでかけ算の概念が拡張されます。それまでは個数を考えていたのに、0.1をかけるという事例にまでかけ算が拡張されるからです。この場合、小学生に「ここでかけ算の概念が拡張されているのだ」と言ってはダメですね(まぁ、子どもによってはそう教えてあげた方がいい場合もあるでしょうが…)。
でも、算数における概念の拡張について、教える側が一定の思想を持っていれば、子どもたちに対する説明の中にそれが現れるはずです。そして、ある程度の期間にわたって同じ人物が教えるのであれば、数学的概念の拡張についての同じ思想のもとで、複数の概念の拡張が──「概念の拡張」という言葉を使わずに──教えられるわけですから、子どもたちには理解しやすいはずです。子どもたちは「ああ、この前のあのパターンと同じだ」と思えるわけです。
こう考えてくると、教師から教わるということにはやはり大きな意味があると言えます。
但し、生身の教師でなければならないのかどうかというとちょっと話は難しくなります。
たとえば僕は、哲学者について勉強する時、その哲学者の思想をつかみ取ろうとします。実際に述べられていることではなくて、述べられていることの背後にある思想ですね。それをつかみ取ろうとする。
もしもそのような態度で算数の教科書に臨むことができるのであれば、やはり一冊の算数の教科書は一つの思想をもって書かれているでしょうから、その生徒は全項目を、その背後にある思想を含めて理解することができるでしょう。
しかし、このような仕方でのテキストからの思想の読み取りは、研究という仕方で一つのテキストに何度も何度もアタックする形で取り組めるから可能なのであって、毎ページに新しい項目が現れる算数の教科書に小学生が取り組む際や、今まで学んだことのない言語を勉強したりする際にはとても無理です。
だから、やはり生身の教師に教えてもらった方がいいのです。その教師の思想に基づいて、各項目を手取り足取り教えてもらった方がいいのです。
世の中には、生身の教師に教わらなくてもそうした思想を読み取れる人もいます。そういう人はしかし稀です。
やはり勉強する際には、誰かから教わった方がいい。繰り返しますが、それは教わる内容の把握の仕方、体得の仕方を教えてもらえるからです。
さて、ここまで随分と長くなってしまいましたが、次は簡単ですね。勉強するにあたっては強制があった方がいい。
僕はお金を支払って語学の学校に行ってました。もちろん、それまでも何度かギリシャ語の教科書とか買って自分でやろうとしたんです。でも全然ダメです。そういうことができる人もいると思うんですけど、ほとんどの人は無理だと思いますね。続かないんですよ。
僕の場合は研究の上で絶対にこれが必要でしたので、それが大きな後押しになりましたが、お金を払っているとか、毎週会っている先生と仲良くなるとか、そういうことも大切なんですね。「ああ、休むわけにはいかないよなぁ」とか思えるとか。
なんで強制がないとダメかって言うと、勉強はつらいものだからです。〝強〟いて〝勉〟めるんですよ。「勉強って楽しい!」というのは噓というか、少なくともミスリーディングですね。勉強を積み重ねて、どこかの時点で何かが分かった時がものすごく楽しいのであって、積み重ねていくこと自体はやはり苦労ですよ。
もちろん、勉強することそのものに慣れるということもあって、そうすると積み重ねるのに時間がかからなくなって、「分かった!」という結果にすぐにたどり着けるようになります。そういう場合には、勉強していても楽しいことが続くということになる。でも、これは上級編の話です。
つらいんだから、強いられないとダメ。それにはカネを払うとか、人間関係上の強制力を働かせるとか、学校に行くとか何か工夫すべきですね。
さて、そろそろご相談いただいた内容に入りましょう。まずは、スーパームーンさんのご相談ですね。文献を読むということについて。もっと読めるようになりたいということでしょうか。【1】スーパームーンさんは職業柄なのか、相談あるいは質問するのが得意な方のようです。
「國分先生は難解の文献を日々読まれていますね。どのように理解して身体的なことばに表現される技術をお持ちなのでしょうか。/才能だとは言わないでください。習熟とも言わないでください。」
そうですね、才能とか習熟とか言われても何も分かりませんよね。
才能も習熟も関係しているとは思いますが、大切なのは、最初からそれをやってみることだと思います。どういうことか。
スーパームーンさんは文献を深く理解したいわけですよね。そうしたら、深く理解したいその文献に、今すぐ、深く理解できるまで取り組んで下さい。
ふざけて言っているのではありません。どういうことかというと、「深く理解する」ということがいつかできるようになって、それから何かを深く理解し始めるのではないということです。単に、ある文献に対する浅い理解、別の文面に対する中途半端な理解、また別の文献に対するそれなりの理解……そうしたものがあるだけなのです。だから、深く理解したい文献があるなら、それを深く理解するよう今すぐに取り組む、それしかないのです。
深く理解したい文献が特にないのに、単に「文献を深く理解したい」とお考えならば、それはいつまでも達成はできません。言っている意味がわかるでしょうか。「理解したい」という欲望の問題とも関係していますが、それともちょっと違います。
ちょっと難しい言い方をすると、可能性としての能力が可能性として培われ、最終的に自分の中に内蔵される──そんな事態はないということです。
いや、そんな風に見える事態もあるかもしれないんですが、それは見かけであり、あるいは結果の話です。そういう状態になっているように見えるとしたら、それは単にその人がいくつも文献を深く理解したというただそれだけのことなのです。その状態を「可能性としての能力」という言葉で無理矢理に切りとると、「この人には文献を理解する能力が培われている」と見えるだけです。繰り返しますが、その人は単にそれまで複数回、文献を深く理解してきただけなんですよ。
これはいろいろな勉強に言えることです。
たとえば、フランス語で本が読みたいというなら、読みたい本を読めるように努力すればいいんです。「いつの日かフランス語でスラスラ本が読めるように…」ということを夢見て、読解能力を高める訓練を積み重ねても、無駄とは言いませんが、なかなかそういう時はやってこないように思います。 -
國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第4回テーマ:「恋人関係について」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.125 ☆
2014-07-31 07:00220pt
國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
第4回テーマ:「恋人関係について」
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.7.31 vol.125
http://wakusei2nd.com
國分功一郎の人生相談「哲学の先生と人生の話をしよう」最新記事が読めるのはPLANETSのメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」だけ! 過去記事はこちらのリンクから。
一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ『哲学の先生と人生の話をしよう』。連載再開第4回となる今回のテーマは「恋人関係について」です。
『哲学の先生と人生の話をしよう』第一期でも反響の大きかったこのテーマ。「ルールを決める」「フリをする」、「アニメキャラに恋している自分と向き合う」ーー國分先生ならではの切り口で、恋人関係に関するみなさんの悩みに答えていきます。
■【1】mさん 45歳 男性 埼玉 会社員
恋人とはどういう関係なのでしょう。
僕は一般的な恋人関係なつきあいかたも有りましたが
彼女にもまた違うパートナーが居ることもしばしばで
彼氏とも良好な関係でいてほしいと思っていました。
恋人で無くなっても友人関係で時々デートする人もいます。
仲の良い友達と、恋人の違いがよくわかりません。
セックスの有無というのもザックリしすぎてイマイチしっくり来ません。
何をもって友人と親友と恋人を分けるのか、どのくらいの関係の密さで分かつのでしょう。
よろしくおねがいします。
■【2】ぽてりんさん 29歳 男性 東京都 会社員
國分先生
いつも楽しく拝見させていただいております。
私は来年30になる男ですが、今まで女性と付き合ったことがありません。
今まで一目惚れした経験はあるのですが、いざ行動に移る前に以下のように考えてしまいます。
「人間は遺伝子に抗うことのできる唯一の生物だ。彼女への気持ちも、きっと私の中の遺伝子が子孫を残したいがために、生じさせているに違いない。この気持が遺伝子由来か、私自身から発しているものか精査しなければいけない。」
などと考えているうちに、時間だけが過ぎ、現在に至ります。
「恋愛関係について」とは少し議題が異なるかもしれませんが、恋愛状態において行動に至る契機、遺伝子ではなく、自分の意志で行動を起こしているという根拠、その行動が自分の意志から由来するものだと確実に分かる方法なないでしょうか。
話が抽象的で申し訳ありません。ご意見をいただけると幸いです。
■【3】シュンさん 22歳 男性 北海道 大学生
國分先生、初めまして。シュンと申します。
僕は現在22歳、大学4年生で、付き合って9ヶ月になる3つ年下の彼女がいます。今日相談したいのは、彼女との関係、および僕の不可解な精神構造のことについてです。
まず、僕が何を問題視しているかと言いますと、僕は心の底から他人を求めている一方で、心の底から他人を拒否していることです。僕はもともと寂しがりやで、常に他人が近くにいて欲しいと思っています。その一方、一定以上仲良くなろうとすると、なぜか拒否してしまうらしいのです。友達からは「なんか壁がある」と何度も言われたことがあります。
前は友達との関係だったので、それほど悩んでもいなかったのですが、彼女と付き合い始めてから、深い関係になろうとしてもなれないことに愕然としました。彼女が本当にいて欲しいところ、心の深い部分にいないのです。精神的にもっと近くにいて欲しいのになぜかそれが叶わないのです。
彼女の方に問題があるではないかと思われるかもしれませんが、彼女は僕を受け入れようとしてくれていますし、彼女には一切問題が見当たりません。そのことを彼女にも相談しましたが、「どうしたらいいのか分からないけど、できることがあるなら協力する」とのことでした。
ちなみに原因を(國分先生オススメの)二村ヒトシさんの「心の穴」理論で考えてみたのですが、他人を拒否するほどの傷は思い当たりませんでした。単純に傷つくのが怖いとかそういうことなんでしょうか・・・。
友達はまだしも、彼女と深いつながりを感じられないのは非常にツライです。何かアドバイスがあれば教えてください。よろしくお願いします。
■【4】イタイさん 20歳 女性 神奈川 学生
はじめまして。私はアニメが好きなオタク女子です。
突然ですが、私はとあるアニメのキャラクターと結婚したいと考えています。そのアニメは去年の夏、放送を終えましたが、その気持ちは収まっていません。
彼の誕生日には愛妻弁当(という設定のもの)をつくったり、自分の誕生日に購入したデジタル一眼には彼の名前をつけました。彼との結婚生活を妄想するのも日課になり、その内容をTwitterのbotで垂れ流しています。
そんななか、今年の夏にそのアニメの二期が始まることになりました。これは二期の放送前に書いていますが、二期に対して不安でしかありません。恐らくそれは、この一年の間に私が愛した彼と、二期のアニメに登場する彼は違う存在のような気がしてならないからだと思われます。
彼に出会ってからは、彼氏がいないことになんの不安も抱えなくなっていました。私にとって彼は擬似彼氏的存在になっており、心の支えなのです。しかし、二期が始まることでその支えはとても不安定なものとなってきました。
もし、この支えがなくなってしまったら私はどうすればいいのでしょうか。恋愛に対しての思考を全て彼に捧げてしまっているため、これから先自分がどうなってしまうか分かりません。私は彼にどう接していけば良いのでしょうか
何かアドバイスがいただけると嬉しく思います。何卒、よろしくお願いいたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
皆さんこんにちは。暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
今回は「恋人関係について」というテーマで相談を募集しました。条件として、「結婚あるいは結婚に相当する関係の問題は除く」としておきました。
このテーマを選んだのは、最近、学生に対して、「恋人関係は重要である。恋人関係は人生を大きく左右する」とお話しする機会が多くあったからです。
結婚は公的な関係ですから、周囲がいろいろ言ってくれることもあるんですね。まぁ、口出ししやすい。
けれども、いわゆる「付き合ってる」関係だと、全くもって私的な関係ですから、周囲はいろいろ言いにくい。しかし、それにもかかわらず恋人関係は生活に大きな影響を与えます。人生を左右することも稀ではありません。
最近、恋人間のDVがきちんと問題として取り上げられるようになりました。とてもよいことだと思います。恋人同士であろうと、暴力が許されないのは当たり前です。
でも、問題はそうした物理的な暴力だけではありません。言葉の暴力はもちろんですが、むしろ、そうしたDV的な関係の背景にある「心の支配」こそが最大の問題です。
相手に心が支配されていると、ただ一方的に尽くすだけになってしまいます。周りから見ると恋人から搾取されているのは見え見えなのに、自分ではそれに気づかない。それどころか、「自分が頑張らなければだめなのだ」と自分に言い聞かせたりする。しかも、心のどこかで、搾取されているが見え見えであることも分かっているのでしょう、そうした関係を他人に対して隠すこともあります。
二村ヒトシさんがこんなことを書いています。
《「与えることが愛情だ」と思い込んで彼に尽くしまくった結果、ひどく傷ついている女性が、あなたの周りにもいませんか?/恋人を甘やかして、彼のムチャクチャな要求に応えつづけたり、侮辱されたのに彼が謝らなくても、許してしまったり。無理をして金品を貢いでいたり、肉体的・精神的な暴力を受け続けていたり。/それでも「いつか彼が変わってくれるのを信じている。彼を『まとも』に変えてあげられるのは私の愛だけ」と思ってしまう。/そういう女性は、自分が傷つけられることでしか「恋愛しているという実感」を得られなくなってしまっているのかもしれません。あなたも、自分がガマンすることが「彼を愛することだ」と勘違いしたり「彼を変えてあげられるのは、私だけ」と必死になった経験はないでしょうか。/でも、それは「相手を愛している」ことには、なりません》(『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』、p.31-32)。
二村さんは「自分自身を受け入れていない人」がこうなる可能性が高いことを指摘しています。自分をきちんと肯定できていない人は、相手をきちんと肯定できないのでしょう。そして、きちんと自分を肯定できていない人を嗅ぎつける人間というのが世の中にはいて、近づいて来てその人間の心を支配するのです。
二村さんの本は基本的に女性に向けて書かれているので、自分をきちんと肯定できていない女性のことが主に書かれているわけですが、こうしたことは男性にももちろん起こります。つまり、恋人関係において、男性が女性に心を支配される場合もあります。
この「心の支配」の細かな分析はここではやりません。問題はそれに対処する方法です。僕はこれはそんなに難しくないと思います。周囲の人がきちんとそのことを指摘してあげればいいのです。
「心の支配」とは何か?などと難しく考える必要はありません。見ていればすぐに分かるからです。それが見て取れたら、遠慮などしないで「お前さ、あいつとの付き合い方、ちょっとおかしいんじゃない?」とか言ってあげるのです。
もしかしたら、そういうことを指摘されると怒り出す人がいるかもしれません。怒り出したら、その指摘が正しいということです。人は正しいことを指摘されると怒りだすのです。興奮が静まったら、そのことを言ってあげればいい。熱心にそれを否定し始める場合も同様ですね。
ただ、分かってはいるのだが、なかなかその問題について切り出せないとか、別れられないという場合が一番面倒ですね。この場合は相当仲がよい友人でないと、根気よく話を続けることはできないかもしれません。それでも、周囲から一言でも指摘されることには意味があります。
僕らは学校でいろいろなことを学びます。勉学はもちろんですが、それだけではない。クラスでの振る舞い方、対人関係なども学校で学んでいます。明らかに学校はそうした目的も考慮した上で設計されています。なぜならば、社会で生きていく上で、文章が読めたり、計算ができたりするのと同じように、対人関係が重要であるからです。学校制度はそのことを踏まえて作られているのです。
ところが、学校は恋愛関係の学習をその目的から除外しています。学校には恋愛関係を教える機能はありません。そして、学校以外のところにも、恋愛関係について教えてくれる場はありません。不思議です。人間は生きていたらどうしたって恋愛を経験します。ところがそれについて教えてくれる場はないのです。
僕は学校が恋愛を教えるべきだなどと言いたいのではありません(それは大変恐ろしいことです!)。学校が対人関係をも学ぶ場として機能していることの意味を考えれば、どこかで恋愛についても学べるようになっていて然るべきではないかと言いたいのです。
二村さんの本などは大変その意味で有益です。恋愛について考える上で参考になる本を、もう一冊、紹介します。こちらは女性が書いたものです。綾屋紗月さんの『前略、離婚を決めました』(理論社、2009年)という本です。綾屋さんはご自身が幼い頃から抱えていた生きづらさから話を始めています。僕は、綾屋さんが、後に結婚し、そして離婚することになる彼氏との関係の中で感じていた楽しさとつらさの描写が心に刺さりました。
また、これはとても勇気が要ることだったのではないかと思いますが、綾屋さんはセックスのことについてもお書きになっています。詳しくは説明しませんが、第五章「エッチと暴力」の「望まないセックスになだれこむ」という節はとても深く印象に残りました。 -
「2020年までに日本人が獲得すべき〈楽しみの哲学〉とは?」 哲学者・國分功一郎(+濱野智史)インタビュー ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.118 ☆
2014-07-22 07:00
「2020年までに日本人が獲得すべき〈楽しみの哲学〉とは?」哲学者・國分功一郎(+濱野智史)インタビュー
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.7.22 vol.118
http://wakusei2nd.com
今回のPLANETS vol.9 (P9) プロジェクトチーム連続インタビューに登場するのは、哲学者の國分功一郎さん。「娯楽は多いが、楽しみを知らない国、日本」は、果たして2020年のオリンピックをどのように迎えればいいのでしょうか?
【PLANETS vol.9(P9)プロジェクトチーム連続インタビュー第11回】 2011年に人文書としては異例の大ヒットとなった『暇と退屈の倫理学』の著者である哲学者・國分功一郎さん。2013年には自らが住む小平市の市民の一人として、都道328号線の建設計画の見直しを求める住民投票に積極的にコミットされました。そんな「行動する哲学者」が考え -
帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』 第3回テーマ:「職場内の人間関係に関する悩み」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.102 ☆
2014-06-27 07:00220pt
帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』
第3回テーマ:「職場内の人間関係に関する悩み」
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.6.27 vol.102
http://wakusei2nd.com
これまでの連載はこちらから
▲國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』朝日新聞出版
一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、
書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ
『哲学の先生と人生の話をしよう』。連載再開第3回となる今回のテーマは「職場内の人間関係に関する悩み」です。社内の非効率な運営に抗うために必要なものと、職場の同僚に恋してしまったときに取るべき行動には、ある共通点があった――?
それでは、さっそく今回寄せられた4つの相談を紹介していきましょう。
■匿名希望 23 女性 東京 IT会社のOL
はじめまして。都内のIT会社に勤めている者です。
昨年の末に今の会社に就職しました。周囲は若い人が多く、華やかな職場です。
そのせいか、男性の同席する飲み会に誘われることが多く、困っています。
私は世間話をするのがあまり得意ではなく、大勢で盛り上がるのも苦手です。
どちらかといえば、好きな映画の話や、今何が流行っていて、どんなものが面白いかを延々話しているのが好きです。
飲み会で真面目な話を始めると大抵顰蹙をかいますし、ぱーっと盛り上がって馬鹿みたいに騒ぐのは実りがなくて虚しく思ってしまいます。
かといって、同席している男性と真面目な話をひっそりと始めると、好意を持っているように取られて面倒です。
若くて華やかな女の子がいるだけで良いからと頻繁に声をかけられるのですが、そんなことに時間を割きたくないのにな……と落ち込んでいます。
それより家に帰って映画を見たり書き物をするのに時間を使いたいのですが、職場の女の子からは「モテるのは今の時期だけだよ。今遊ばないでどうするの?」と冷ややかな目で見られてしまいます。
何かと理由をつけては飲み会を断っているのですが、日に日に社内のチームの中から浮いてしまって、少し居心地が悪いです。(女子しかいない少数の仲良しチームで、私が一番年下です)
男性の話ばかりするチームの人たちと少し距離を取りたいのですが、同じチームの中でどのようにふるまったら淡々と仕事に集中できるようになるのかな、と悩んでいます。
小さな悩みかもしれませんが、ご助言いただければ嬉しいです。よろしくお願いいたします。
■illbevivi 22 男性 埼玉県 会社員
國分先生、はじめまして。いつも様々な媒体での書き物を拝読させて頂いております。突然ですが、今回私が相談させて頂きたいことは、職場の同期社員に対する恋愛感情への対処法についてです。
私はこの春大学を卒業し、就職した新社会人の男です。
慣れない社会人生活に四苦八苦しながら、少しずつ仕事に楽しさを感じ始め、何とか今日までやってこれています。
そんな生活の中で、同じ会社の同期社員の女性を好きになってしまいました。
彼女は誰に対しても平等に接し、正直に不器用に、一生懸命に生き、よく笑う方です。そんな彼女の笑顔は周りの人間を知らず知らずのうちに惹きつけ、彼女はいつも人の輪の中心にいるような子です。
そんな彼女の魅力にすっかり虜になってしまった私は、戸惑いのあまり、出会って日も浅いというのに想いを伝えてしまいました。(大学在学中から交流はありましたが、知り合ってから9ヶ月程度です。)
私の告白を彼女は真摯に受け止めてくれましたが、会社というコミュニティの中で恋愛関係を持つことは避けたい、本当に信頼出来るパートナーとしか男女の関係にならない、とお断りされてしまいました。
それからの二人の関係は以前の関係に戻りましたが、しかし、以前よりも互いに心を開くようになったと思います。
二人の間でしか話せない愚痴や相談もし合うようになり、心を許してくれたのではないかと思います。
そして時折好意を持たれているのではないか、という態度をされることも多くあります。私に「好き」と言わせるために意地悪な質問をしたり、私が彼女と仲の良い先輩社員に嫉妬してしまっていたら、その社員との関係を否定してきたり、都合良く解釈すれば、好意があるようにしか思えない態度です。しかし、事あるごとにあくまで友人だと釘を刺されてしまうのです。
確かに彼女は誰に対しても平等に接する方で、誰に対してもいわゆる「思わせぶり」な態度を無意識にとってしまう方なので、仕方がないのだとは思います。
そんな彼女と、近づきすぎず離れない、いびつな関係のまま、ここ数週間を過ごしています。
こんな関係のせいか、職場でも彼女のことばかり意識してしまい、仕事に集中出来ない日ばかりです。そしていつも人の輪の中心にいる彼女に対して、嫉妬心すら覚えてしまうことも多々あります。
私としては、仕事に集中するためにも早くこの不確かな感情、関係を処理してしまいたいと思います。
しかし今再び想いを伝えて男女の仲になることを望めば、拒否されてしまうでしょう。このまま自分の気持ちを押し殺す選択も出来るのかもしれませんが、耐えられる自信がありません。
やはり彼女がパートナーを選ぶ条件として望むように、本当に信頼出来るパートナーになるべく努力するしかないのでしょうか。
人に信頼される、人を信頼するとは、どのようなことなのでしょうか。
信頼とは、そもそも何なのでしょうか。
是非國分先生のお知恵をお借り出来ないでしょうか。よろしくお願いいたします。
■たまこ 20代 女性 東京都 会社員・事務
國分先生、はじめまして。
私は繊維関係の会社で内勤をしています。今年から社会人になりました。
職場にクソムカつく女性の先輩社員がいるのですが、この人と今後数十年にわたりうまくやっていく自信がありません。先日からその先輩は産休に入られているのですが、彼女が産休を終えて戻ってくる一年後までに、転職したいくらいの気持ちです。
何がムカつくかというと、まず初日から嫌にキツい。無駄に厳しい。入社初日にいきなり作業を任されて、ビクビクしながらやって見せたら「殆どダメ」…ったりめ~~だろがぁ!?!…と、言いそうになりました。
入社後一ヶ月経たない新入りに対して、「全体を見て行動しろ」「パートさんがやりやすいように気を配れ」だのいきなり言われて、それは自分の指導力の乏しさと怠慢を棚上げしてるんじゃないか…と、つい、恨みつらみを述べたくなってしまいます。
私に甘えがなかったとは言い切れないのですが…。
先輩社員が復帰してきた際に、私はどういう気持ちで迎えればいいのでしょうか。
アドバイスをいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。
■ピッピちゃん 20代 女性 埼玉県 学校教員
はじめまして。私は教員の仕事をしている20代です。
今年から新しい学校に配属されることになりました。
いまの学校では、細かいことにこだわる上司が多くて窮屈です。おおらかな先輩も少数ながらいらっしゃいますが、彼らの発言は軽視されてしまいがち。私はどちらかといえば大雑把な性格なので毎日しんどいです。
たとえば、賞味期限切れのヨーグルトが冷蔵庫の中にあっただけで、朝礼で「食中毒が広まったらたいへんだ」と注意されたりします。
また、仕事の性質上残業代がつかないのですが、『残業して遅くまで頑張ってる人は偉い』的な空気がどことなくながれており、だらだら残ってる人が多くて先に帰りづらいです。
そして『自分を追い込むこと』に酔ってる方が多く、精神疾患で休職する方が多いのにも頷けます。
子どもたちと触れ合うことはとても楽しいのですが、職員室の人間関係がとてもたいへんで、憂鬱な日々を送っています…。
なんとかやり過ごすアドバイスがあれば教えていただきいと思い、ご相談しました。どうぞよろしくお願い致します。
どうも、國分です。
「職場内の人間関係」をテーマに相談を募集しました。僕としては組織の問題、業務を円滑に進めるための組織運営の課題など、そういったことが相談として寄せられるのを予測していたんですが、ふたを開けてみると、そうななりませんでしたね。「ちょっとビジネスっぽいのもいいだろう」と思って出したテーマだったんですけど、やはり人が悩むのは、ビジネス的なことより、パーソナルなことなんでしょう。
でも、とりあえずはいつものように、最初に考えていたことを書きますね。相談にお答えするにあたっては全然役に立たない話かもしれないんですが、職場の問題として僕が考えていたのは、実は民主主義のことです。
最近、大きな流れとして民主主義は劣勢にあります。評判が悪い。「民主主義」という言葉そのものを挙げてこれを叩いていなくても、民主主義的な運営方法・決定方法そのものは、様々な場面で攻撃されています。その際、根底にある考えというのは次のようなものです。
民主主義的に皆の意見を汲み上げて決定を下すやり方は時間がかかるし、効率が悪い。それよりも、トップにいる者が決定を下す方が効率よく状況に対応できる。したがって、トップに判断の権限を集中させることは、民主主義という尊重されるべき建前こそ蔑ろにされるものの、組織を効率よく効果的に運営することにつながる…。
こんな考えですね。
僕はこの考えが間違っていると思うんですけど、それは「民主主義が大切だ!」「民主主義を蔑ろにするとは何ごとか!」といった教条主義的な民主主義信仰から言うのではありません。全然視点が違うんです。僕のは
「あのさ、トップに判断を任せれば効率よくなるなんて、本当考えていることの数が少ないよね。そういうことやってたら効率悪くなるってことも分かんないの?」
って発想なんです。つまり、効率的な組織運営を目指すならば、やはり民主主義的にならざるを得ないという発想です。そう発想する理由はいくつかありますが、いずれも簡単なことです。
まず、トップが何でも勝手に決定を下していたら、その決定に従わされる方はどう思うでしょうか。もちろん気にくわないわけです。自分たちの意見を聞いてもらえないのだから、やる気がなくなるわけです。いかなる組織運営もモラール[目的を達成しようとする意欲や態度のことで、道徳意識を意味するモラルとは区別されます]の問題を無視できない。特に経営というのはそういうところに細心の注意を払って行われるし、経営学ではモラールを高い水準で保つかについてたくさんの研究の蓄積があります。そういう経営あるいは経営学的な視点が全く欠けているのに、まるで自分がビジネス的センスを持っているかのように錯覚した人間が抱くのが、先のような「トップダウンの方が効率的」という短絡的発想です。
次にトップに立つ者の限界があります。トップに決定権を集中させると、その人間が独裁的になることが考えられ、またそれがしばしば批判されます。確かにそういうこともあります。しかし、現実に最も多く起こるのは、一人の人間が独裁的になるというより、その人間の周囲にいる取り巻きが、分野ごとにバラバラに勝手な決定を下すようになるという事態です。
一人の人間にできることは限られています。権限ならばどんな人間にもいくらでも付与できますが、しかし、その権限を使いこなす能力をその人間に付与することはできません。強大化した、あるいは肥大化した権限は、はっきり言って誰にも使いこなせない。するとどうなるか。その人は周囲に相談します。そして周囲にいる人間が事実上の決定を下すようになるのです。「あなたにこの件は任せる」となって、もはや相談すら行われなくなることもしばしばです。
そうした事態が増えていくと、各分野で行われる決定のプロセスに、もはや最終責任者であるトップの人間すら全く関われないようになってしまいます。しかも、形の上ではトップが決めていることになっているのだから、この事態をルールや権限に基づいて批判し、是正することもできない。アナーキーに近い状態が訪れることになるのです。しかも、事実上の決定者は各分野に別々に活動しているから全体のことを知りません。自分の見えている範囲の情報だけで決定を下すようになる。効率的な全体の運営が損なわれることは言うまでもありません。
三つめは失敗に関わることです。人は必ず失敗します。間違えます。そうした時には、失敗したり、間違えたりした人間は責任を取らなければなりません。すなわち、何らかの不利益を甘受しなければならない。責任を担うに際して与えられた地位からの降格などが、そうした甘受すべき不利益の代表です。ところが、もちろんそれは不利益ですから、蒙りたくないわけです。隠したり、ごまかしたりできるなら、そうしたいわけです。そして、隠したり、ごまかしたりするのに十分なだけの権限がその人間に与えられていたらどうするでしょうか。隠したり、ごまかしたりするでしょう。やりたくて、できるなら、やるんです、人間は。
しかし、そこで隠されたり、ごまかされたりしたのは、失敗であり、間違いです。それは何らかの不利益を組織の全体に及ぼすから失敗であり間違いであるわけです。では、それを隠したり、ごまかしたりしたらどうなるか。その不利益が是正されずに、そのまま残り続けることになります。一度、隠したり、ごまかしたりした人間は、もうそれを止められません。ですから、同じことは繰り返されます。隠され、ごまかされた失敗ないし間違いは、最終的に累積し、組織に壊滅的な打撃を与えることになるでしょう。分かりやすい例は粉飾決算なんかですね。
哲学者のハンナ・アレントが、ベトナム戦争時におけるアメリカ政府の政策決定過程を詳細に調査したCIAの秘密報告書「ペンタゴン・ペーパーズ」という文章を分析しているんですが(「政治における噓」、『暴力について』〔みすず書房〕所収)、その中に笑えない話が出てきます。ベトナム戦争遂行を支える理論として当時、「ドミノ理論」というのがありました。一つの国が共産主義化すると、周辺の国々もドミノを倒すように共産主義化するという理論です。僕もそういう理論に基づいてベトナムの共産主義化を阻止するという理由でベトナム戦争が行われたのだと思っていました。
ところがCIAが作成した「ペンタゴン・ペーパーズ」によると、政府内で「ドミノ理論」などというものを信じていたのはたった二人だけだったというのです。どういうことでしょうか。これは、泥沼化してもうどうしようもなくなった戦争に、もっともらしい理由を与えるためにでっち上げられた理論に過ぎなかったということです。噓に噓を重ねて続けられた戦争は、その噓を更に続けるための理論まで生み出したのです。
他にもいくらでも理由を挙げることができますが、トップに権限を集中することが組織運営の非効率化をもたらすというのは明らかです。というか、絶対王政の時代にそのやり方がどうしようもない事態を生み出し、それに対する反省から民主主義も出てきたのです。歴史的にこっちの方がいいという考えで採用されてきたものなのです。
民主主義は公開性を原則としています。様々なデータを原則的に民衆に公開するということです。そこから決定に至るまでには時間がかかります。しかし、長い目で見れば、このやり方こそが、組織の効率的運営を生むのです。「トップに判断の権限を集中させることは、民主主義という尊重されるべき建前こそ蔑ろにされるものの、組織を効率よく効果的に運営することにつながる」などと言っている人間は、歴史も現場もビジネスも分かっていないのに自分が現実を知っているかのように振る舞っているという意味で、ある種の中二病にかかっているようなものです。
そしてこうした判断の愚かしさは、仕事の現場にいれば、非常に強く実感できることであろうと思います。上が勝手に物事を決めていたら、誰でもイヤになります。権限がトップに集中すると取り巻きが強い影響力を持つようになります。失敗をごまかせるのはもちろん、権限が過剰だからです。モラールを高め、組織全体を考えた決定を下し、失敗の隠蔽を避ける、そのためには公開性に基づいた民主主義的な運営がはやり必要です。それがあればすべて問題なく事が運ぶという意味ではありません。そうではなくて、いかなる場合も、民主主義的な運営を基礎とし、その上で事業や運営に全力で取り組まねばならないということです。
さて、ここまで読んできて、「恋愛とか嫌な上司とかいわゆる付き合いの悩みに答えるのに何の役に立つんだよ」と思われた方も多いと思います。僕も最初は「毎回、最近考えていることを書くことにしているから、まずはとりあえず書くか」という気持ちで書き始めました。しかし、書いているうちに一つのことに気がつきました。そしていま書いたことは実は無意味ではないという考えに至りました。
今回の四つの悩みに共通しているのは、自分に対する自信のなさではないでしょうか。自分には飲み会よりも大切なことがあるのに、それをはっきりと打ち出せない。仕事に打ち込んで人に信頼されるようになりたいが、それができない。クソむかつく先輩社員のおかしな業務命令に対してはっきりとものが言えない。些末なことばかり気にする職場で、「自分を追い込む」ことに酔っている連中に囲まれていて、先に帰宅することもできない。
四つの悩みを並べてしまうのは乱暴かもしれませんが、僕には、「それはおかしい」とか「これが正しいのだから私は正しいことをやる」といった態度に出られない、自信のなさこそが悩みの根底にあるように思いました。ではどうしたらいいか。
2 / 5