• このエントリーをはてなブックマークに追加

  • 火の時代を生きる氷の少女たち。フェミニズムに失望したあなたを魅了する新世代ヒロイン群像を徹底解説してみた!

    2024-05-16 20:16
    300pt
    天幕のジャードゥーガル 1 (ボニータ・コミックス)


    【ほむらの時代】

     刮目し見よ、火の世紀は来た。過去の常識や法則が音を立てて乱れ、崩れ、滅び、まったく新しい芸術と物語とが轟々と燃えさかる焔の時代。

     21世紀の開幕からはや幾十年が過ぎ、世界はいまや革新の時を迎えている。そして、また、この混沌とした世情にあって、内面の苦悩と過重な責任を抱え、いまひとつ冴えない様子のヒーローたちに代わって出色の活躍を見せるのが、かつては塔のうえの姫君よろしくただ護られるだけであったヒロインたちである。

     彼女たちは一様に重たげなドレスを脱ぎ捨て、窮屈なコルセットをほどき、ガラスの靴を放り出して、あるいは血煙ただよう戦場へ、あるいは陰謀渦巻く宮廷へと躍り出る。

     わたしたちはそれが男性向けであるか女性向けであるかを問わず、さまざまな物語のなかに、ときに赤黒い鮮血に濡れ、ときに鋭い悪意の刃に切り刻まれながら、それでもなお、立ち上がり、立ち向かい、黄金の意思と漆黒の怒りで己を縛りつける支配と抑圧の鉄鎖を断ち切ろうとする可憐で勇敢な女性たちの姿を見て取ることができるだろう。

     彼女たちはみな命がけの戦いを戦う強靭な心の戦士だ。しかし、その手に持つ武器は刀剣や弓矢の類ばかりとはかぎらない。

     しばしばひたすらに死の衝動〈タナトス〉に取り憑かれ、ニヒリスティックなまでに戦うために戦うバトルマニアのヒーローたちと異なり、彼女たちの戦いには目的があり、理想があるのだから。

     たとえば『天幕のジャードゥーガル』の主人公ジャードゥーガルは、かつて彼女の愛するものを滅ぼした人類史上最大の帝国を崩すため、ありとあらゆる策謀を尽くすことだろう。

     また、『ONE PIECE FILM RED』の実質的な主役である歌姫ウタは、暴力と流血が支配する海賊の世界に弱者のための平和と平安を打ち立てるため、数知れぬ国家と権力を向こうに回したったひとり歌い、戦うことだろう。

     おお、策謀の海を悠々と泳ぎ切る知性と言葉の魔女! 血にまみれてなお華麗に歌い、踊り狂う美しい姫君! 何と壮絶な少女たちなのか。そして、何という清冽な物語たちなのだろうか。

     しかし――そう、ただ、それだけの娘なら、いままでにもまったくいなかったわけではない。わたしたちは幾多の古びた書物のなかに、お伽噺の英雄さながら故郷や国家を守るために戦ったヒロインたちのエピソードを見つけだすことができるだろう。

     その意味では「戦うヒロイン」は、少なくともこの国においてはとくべつめずらしいものではないのだ。

    【あたらしいヒロインとは?】

     だから、わたしがいくら新時代のヒロインたちを誇らしく称揚しても、そんなものは疾うに見飽きたと大あくびする人もいるに違いない。

     たしかにその通り。一理ある話。だが、そうはいっても『アンナ・コムネナ』の主人公、千年帝国ビザンツの皇女アンナが威風堂々と胸を張る姿を見るとき、これは、と思われはしないか。

     また、『薬屋のひとりごと』の一風変わったヒロインである猫猫が猛毒を食み陶然と笑うところを眺めたら、何かが違う、と感じられるのではないだろうか。

     少なくともわたしはそう思い、そう感じる。彼女たちにはいままでの「灼熱の運命に抗うヒロイン」たちにはなかった何かがある。自分たちを束縛する支配と抑圧の権力に対する凄まじい怒りはそのままに、そこにたしかに「何か」が加わっているのだ。

     それは、いったい何だろう。戦線に立つ男性たちに劣らぬ腕力か。否。ジャードゥーガルの二の腕はあいかわらずか細い。死をも滅びをも恐れぬ狂気にも似た蛮勇か。否。否。むしろ、アンナの健全さを見ればわかるように、そのような「ヒロイックな」精神風土からはまったく遠い何かである。

     それは、いうなれば生きるため、己が希みを叶えるために自身の感情を制御する氷の心、みずからの炎の怒りをも抑えつけ操り尽くす鉄の理性、そういったものなのである。

     くりかえそう。彼女たちを抑圧する暴力や権力に対する怒りのすさまじさは何ひとつ変わっていない。もし、剣でその心を斬ったなら憤怒は奔流のように吹き出すに違いない。

     しかし、そうでいて、そこには同時に、めったなことでは怒りのあまり我を失ったりしない「自制」がともなってもいるのだ。

     それこそは、彼女たちがこの狂った世界の脅威に復讐を遂げるため、どうしても身につけなければならなかったものであった。

     ただ力があるだけでは足りない。なぜなら、この世にはより怖ろしい力をそなえた敵がうじゃうじゃと群れを成しているのだから。

     ただ、烈火の如き復讐心を抱いているだけでは不足だ。なぜなら、その敵は強大にして奸佞、だれにも心を許さないようなあいてなのだから。

     そう――つまり、彼女たちが目的を達するためにはどうしても「戦略」が必要なのである。

     個々の局面の「戦術」において天才であるだけでは、到底足りぬ。全世界にも喩えるべき強大なあいてを敵に回して戦い抜くためには、長期にわたって未来を展望し、自分の力を最大限に発揮する能力が必須だということ。

    【インターミッション】

     この記事のここから下は有料です。サブスクリプションに入会することでお読みいただくことができます。月間10本前後の有料記事が公開予定です。よろしければご入会ください。

     また、海燕は何らかの文章を発表できるお仕事、メディアを募集中です。お仕事をご依頼の方などはメールアドレス〈kenseimaxi@mail.goo.ne.jp〉までご連絡ください。よろしくお願いします。

     現在、マルハンさま運営のウェブメディア「ヲトナ基地」にて、サブカルチャー系の記事を連載しています。4月公開の記事は2024年5月13日現在、人気記事ランキング1位です。そちらもご一読いただければ幸いです。

     それでは、続きをどうぞ。

     
  • 同人読者がどくさいスイッチを押すとき、あるいは「庵野、殺す!」の犯罪心理学。

    2024-05-14 13:16
    300pt

    「あきらめるもんか」彼は低声で言った。「聞こえるか? ぜったいにあきらめないぞ」

    スティーヴン・キング『ミザリー』

    【非論理的な妄説なのか?】

     はてな匿名ダイアリーに投稿された「同人女として、男性サークルへの毒マロが理解できてしまうので解説する」と題した記事が話題になっている。

     というか猛批判を受けて大炎上している。燎原を焼き尽くす猛火のごときいちめんの火の海、とでもいうべきか、すさまじいまでの燃えっぷりである。

     まあ、それはそうだろう、というべき内容なのは間違いない。このダイアリーの書き手、つまり「増田」は、何の権利があってのことか「同人女」全体を代表してある種の暴論を展開している。

    美しいものだけで構成された美しい作品を、現実の男が作っててその男の姿まで知ってしまったら、その絵・作品を見るたびサークルスペースで見てしまった作者男の映像が頭の中で再生されてしまって、その生々しさでオエーとなるのです。作品に没頭できなくなってしまう。
    別にこちらから積極的に作者の姿を探したわけでもないのに、ただイベントに一般参加しただけで作者の生々しいリアルな姿(醜さ)を見せられてしまい、脳内に刻まれてしまったのです。
    (くだんの男性作者さんの容姿が劣ってると言いたいのではない。女にとって男は一部の例外を除いてだいたい醜いのです)
    作り出した作者が醜くても作品に罪はないからこそ作品の世界に没頭したいのに、記憶の片隅にやきついた作者男の映像に邪魔されてしまう。これまで楽しんでいたものが楽しめなくなるという妨害行為をされてしまった。それが嫌で、そんな被害者を再発させないよう、男作者は予防してほしいのです。

     おまえは何をいっているのだ、というしかないめちゃくちゃなロジックで、あらゆる意味でツッコミどころ満載なので、批判的に分析しようと思えば簡単なのだが、ここではあえてそういう文脈では取り上げない。すでにたくさんの人がそうしているからである。

     そのかわり、ここで、ぼくはこの文章に対し、ある種の「共感」を込めて語ることにしたい。

     気でも狂ったか、といわれるかもしれない。このようなろくでもない自己中心的な妄論に共感するなど。

     しかし、この「増田」が考えていることが、じつはぼくには良く理解できるように思えるのである。それは、より本質的には「同人女」に限ったことでも、ルッキズムや男性嫌悪といった問題でもない、とぼくは感じる。

     それはむしろ、「人類のテーマ」とでもいうべき深く重い問題の一端なのであり、そして、また「創作とは何か? そして、だれかが創作した作品を受容するとはどういうことなのか?」といった問題ともつよく関係している。

     ぼくはそう思う。具体的にどういうことなのかは下記に記していこう。

    【天才作家キングと『ミザリー』という名作】

     そのキャリア50年に及び、数々の傑作を物してモダン・ホラーの巨匠とも呼ばれている天才作家スティーヴン・キングの初期の代表作のひとつに、『ミザリー』という小説がある。

     おそらく、この文章を読まれている方の多くもタイトルくらいは聞いたことがあるのではないかと思う。

     その名も『ミザリー』というタイトルの作品を書いた作家ポール・シェルダンが、その『ミザリー』の熱狂的ファンである女性アニーに監禁され、拷問されながら『ミザリー』を書き直すことを求められるという筋書きだ。

     キングがこの小説を書いた頃にはまだ「ストーカー」という概念はなかったとらしいが、キングは天才的な直感でまさに「作家につきまとうストーカー」の本質を的確に描き出すことに成功している。

     作品を熱狂的に偏愛する「ファン(この言葉は、ファナティック=狂気から来ているという説がある)」にとって、作家はしばしばただの「ノイズ」と化す。

     なぜなら、作家の生み出す作品は必ずしも自分の思い通りにならないからである。何もかも自分の願望をそのままに描き出された作品を理想の名作とするなら、現実の作家が生み出す新作はかならずその理想からズレていく性質を持つ。

     どんなに優れて天才的な作家であっても、自分とは異なるべつの人間である以上、どこかに「自分にとって都合の良くない存在」としての一面をそなえているからだ。

     しかし、どのような作品もその「都合の良くない存在」としての作家がいなければそもそも生まれないわけであり、作家を否定することは作品を否定することでもある。

     あたりまえといえば、これ以上ないくらいあたりまえの話だろう。しかし、それこそ作中作としての『ミザリー』のような超絶的に優れた作品と出逢ったとき、ぼくたちは(とあえて書くが)、しばしばそのあまりにもあたりまえのことがわからなくなる。

     自分の好みの作品を描いてくれない作家を恨み、憎み、攻撃しさえするのである。そのとき、ぼくたちはシェルダンに作品改変を要求するアニーと化しているといっても良いだろう。

     とくに現在のインターネットでは、このような「アニー」の姿をたくさん見ることができる。

     キングはほんとうに慧眼だった。かれには作品を愛する一方で作家を憎む「ファン」の真実がわかっている。また、日本にもこういった「アニー」的な心理を傑出した表現力で描写した作品がある。たとえば、庵野秀明監督による『新世紀エヴァンゲリオン』である。

    【インターネットの「アニー」たち】

     1997年に公開された『エヴァ』の劇場版には、ほんの一瞬、「庵野、殺す!」という言葉が映し出される場面がある。

     「アニメファン」というが人種がときにいかに傲慢で醜悪になりえるかが端的に表現されたセリフであり、また、「ヒトとヒトがどれほど理解しあえないか」を象徴する言葉でもあるのだろう、きわめて印象的な一場面だった。

     庵野監督はのちに、NHKの取材を受けて、この頃、インターネットで庵野秀明の殺し方を議論する掲示板のスレッドを見て、何もかもどうでも良くなり自殺を考えたという趣旨のことを語っている。

     インターネットに集まる「アニー」たちは、庵野というシェルダンをまさにあと一歩で殺害するところまで行っていたのである。

     庵野が天才的な映像作家であり、『エヴァ』が超絶的な傑作であったからこそ、たくさんの人が自他を分ける境界線(まさに『エヴァ』作中におけるA.T.フィールド)を認識できなくなり、人をひとり殺しかけたのだ。

     もしかしたら、そこに書き込んだ人たちはちょっとしたジョーク、あるいはストレスの発散のつもりだったかもしれないが、そういった悪意をぶつけられる側はたまったものではない。

     ぼくはひとりのファンとして、庵野監督が生きのびて新作を作ってくれたことを感謝するばかりだ。

     ただ、『ミザリー』や『エヴァ』の場合は極端な例ではあるが、古来、このようなことはくり返しくり返し起こってきたのだろう。ファンによる作家殺人事件。

     もちろん、その動機は「作品愛」である。作品をあまりにも深く愛しているがゆえに、作家の存在が邪魔になってしまったのだ。

     いや、待て。ほんとうにそうだろうか? このように身勝手に作家を攻撃するような人物、即ち「インターネットのアニーたち」が、ほんとうに作品を愛しているといって良いのか。

     それは、かれらの主観では愛であるかもしれないが、実際にはもっと自分勝手な心理なのではないだろうか。ぼくは思う。それはどこまでいっても作品を鏡像として自分自身を見つめているだけの自己愛(ナルシシズム)の域を出ないのではないかと。

     
  • 『異世界車中泊物語』は「ご都合主義異世界ファンタジー」の限界を乗り越えられるか?

    2024-05-09 12:49
    300pt

    【ただの「異世界もの」に見えるのだが……】

     マンガ『異世界車中泊物語』の最新刊である第四巻を読みました。これが、意外にといっては何だけれど、面白い。

     タイトルやあらすじだけを見たならよくある「異世界もの」のバリエーションのひとつでしかないように感じられるのだけれど、どういうわけか胸に迫るものがあるちょっと不思議な作品です。

     むしろ、この手の「異世界もの」に飽きてきている方にこそオススメしたい、そういう物語だといって良いでしょう。

     ただ、そうかといって、それではどこが具体的に面白いのかというと――うーん、どこだろう。

     物語は、仕事で大失敗をしたあげくテキトーないいわけをして逃げ出してしまったダメ人間の主人公が、偶然(かな?)、ある異世界に迷い込むところから始まります。

     そこでかれはお約束通りにひとりの少女と出逢い、彼女と心を通わせることによってほんの少しだけ成長します。そして、それから現実世界に戻り、社会人としてもわずかにレベルアップしていくことになるのです――と、こう書いてもこの面白さは伝わらないだろうなあ。

     というか、この記事を書いているぼく自身がまだうまく物語の核心を把握し、言語化できていない気がする。ペトロニウスさんのブログ「物語三昧」でも、やっぱり言語化できていないと語られていますね。

    仕事で失敗した主人公が、リカバーもせず、資料を持って会社を逃げ出してしまうんですね。せめて、資料置いて帰れよ、と思ったのですが、、、、そこではなくて、こんな難しい仕事与えた会社が悪い、とか他責にしまくって、馬鹿馬鹿しくてやってられねーって逃げ出すんですよね。

    この物語のコアは、車で「異世界転生して現実に帰ってきて行ったり来たりする」所に面白さがあるのですが、異世界に行ったことで、主人公が心を入れ替えて、仕事を頑張ったり、謝れるようになるんですよね。

    (中略)

    ちなみに、この記事では、では「何によって変わったか」が、まだペトロニウスの中で言語化できていません。なので、もう少し考えたいと思います。めちゃくちゃ好きになったので、何度も読み返しているので。


     そのくらい、一見すると非常にわかりやすいごく単純な異世界ハーレムラブコメの類型に見えるにもかかわらず、どこか異質な印象を受けるうまく把握しづらい作品なんですよね。

     いや、その「どこか違う」というのもあくまでぼくがいっているだけに過ぎないとそうなのだけれど、たしかにぼくのゴーストが囁いている、これはふつうの「異世界もの」とは何か違っていると。

     それじゃ、具体的に何が違うのかといえば――ぐぬぬ、何だろう。

     どうにもうまく表現できないのだけれど、あえて言葉にしてみるなら、この『異世界車中泊物語』は「現実」と向き合っていると思うのですね。