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記事 11件
  • 教養主義が崩壊した時代における教養とは。

    2016-06-13 01:28  
    51pt

     積読の夏です。
     いやー、目の前に読みたい本が溜まって溜まって、くらくらします。
     少なく数えても十数冊は積読していて、しかもそのほとんどがお堅いハードカバーと来る。
     いったいどこから崩したらいいものだと迷いますが、『フルーツバスケット』でこういうときは目の前の作業に集中することと語られていたので、とりあえず一冊ずつ消化していくことにしましょう。
     並行して消化するべき映画やアニメや漫画やゲームもたくさんあり、また基礎勉強もしたいし、色々大変です。
     この状況はひょっとしたら「忙しい」といってもいいのではないかと思いますが、まあ、ほんとうに忙しい人と比べたらやっぱり十分暇があるほうなのだろうなあ。
     そもそも締め切りがあるわけではないので、いくら時間をかけてもいいのだけれど、そういうこといっていると短い人生があっというまに終わってしまいそうな気がする。
     さて、きょうはそういうプロ
  • 学校なんて行かなくていい、とはいうものの。

    2016-06-06 11:43  
    51pt

     有名ブロガーのちきりんさんと格闘ゲーム界の「神」梅原大悟さんの対談本を読みました。
     なんでも3年にわたり、100時間以上対談しているそうで、本になったのはそのなかの精髄といえる部分なのでしょう。
     話のテーマは「学校」。
     本来、プロゲーマーのウメハラは「学校の授業はみんな寝ていた」という学校嫌いで知られた人、その人物に学校ネタを振るとは、さすがちきりん、恐ろしい子!
     まあ、こういう無茶ぶりは話が空中分解して木っ端みじんになって終わるリスクもあるわけですが、結果としてはこの本はとても面白い内容になっています。
     何が面白いかといって、冒頭から最後までちきりんさんと梅原さんの意見がまったく合わないことが素晴らしい。
     普通、対談って、相手の意見を受けて「ですよね」、「そういうことですよね」みたいな形で意見を交換していくものだと思うのですが、この対談ではふたりとも真っ向から意見を衝突さ
  • ソーシャルメディアは「きっと何者にもなれない私たち」を中毒させる危険な魔法。

    2016-04-26 14:37  
    51pt

     ソーシャルメディア中毒。
     なんとも恐ろしげな響きですが、それはぼくたちネット民のきわめて近いところに実在している「依存症」です。
     本書はそんなソーシャルメディア中毒の「つながりに溺れる人たち」について綴られた一冊。
     「新SNS世代の闇に迫り、解決策を探る!」と帯の文句にあるように、この本のなかで主に語られるのはティーン(十代の若者)のソーシャルメディアとのかかわり方です。
     いやー、これが、もう、とんでもない話が続出で、すっかりおっさんになった自分を思い知らされます。
     と同時に、あまりに過酷な世界で生きているティーンに同情が沸き、自分がティーンのときはソーシャルメディアなんてものがなくて良かったとつくづく思います。
     ソーシャルメディアはたしかに便利ですし、「つながり」の実感が持てますが、見方を変えればひとに余計な「つながり」を強要するメディアでもあるわけです。
     ほんとうに成熟した大人なら、ソーシャルメディアの限界を意識し、その範囲内で有効に使いこなすことができるでしょう。
     しかし、未だ未成熟なティーンにとって、ソーシャルメディアを適度に活用することはとても困難です。
     というか、大人ですら中毒になる人は続出しているわけで、そんなものを自我が未発達なティーンに与えたら依存することは目に見えている。
     ただ、だからといってティーンからスマホを取り上げればそれでいいかというと、そんなはずはない。
     いずれにせよ現代人は何かしらの形でソーシャルメディアとかかわって生きていかなければならないのだから、その正しい使い方を知ることが大切なのです。
     とはいえ、そのなんとむずかしいことか。こうしているいまも、ぼくはLINEで複数の部屋を追いかけていますし、たまにTwitterやmixiを開いてチェックしたりもします。
     ぼく自身が「中毒」すれすれのソーシャルメディア・ディープユーザーだと思う。
     だから、自分のことを棚に上げてひとにお説教などできるはずもないのだけれど、それにしても本書で示されているティーンのソーシャルメディア利用の実態は衝撃的です。
     いや、ほんと、これはきついよね。
     どこまで満たしても満たしきれない承認欲求を渇望しつづける承認地獄。
     それがいまのティーンが生きている世界の実像なのです。
     著者は書きます。

     ティーンは、始終SNSを利用する。テレビを見ながら、お風呂に入りながら、ベッドに入ってからも、食事中や友達と会っている時も、「ながら利用」をする。一日の利用時間は数時間に上る。SNSを使ったからといってお金をもらえるわけでもなく、やらなければならないわけでもない。格別面白いエンターテインメントというわけでもない。
     それだけの時間と手間をかける理由は、孤独な彼らがつながりを感じられるからだ。
     誰にも認めてもらえない彼らが、認めてもらえるからだ。
     ストレスに苦しめられる彼らが、ストレスを解消できるからだ。
     自己肯定感の低い彼らが、自分を認めることができるからだ。

     承認欲求。
     それがすべての謎を解く鍵です。
     なぜ、ティーンは格別面白いわけでもないSNSに夢中になるのか。
     それは「自分はそこにいてもいい」という肯定感を与えてくれるから。
     「集団から価値ある存在として認められ尊重される」感覚がそこにあるから。
     しかし、承認欲求はときに際限なく肥大化し、ソーシャルメディアの利用者はまさに「中毒」のようにそれを使いつづけることになります。
     そして、ソーシャルメディア上でさまざまな問題に遭遇するのです。
     リアルでのいじめとパラレルに展開する「ネットいじめ」はそのひとつですし、また、「ソーシャル疲れ」というべき鬱や疲労感を感じる人もいます。
     じっさいのところ、勉強や部活動などの明確な目標を持って活動している子供は、ソーシャルメディアを利用しはしても中毒になることは少ないといいます。
     「つながりに溺れる」のは、ソーシャルメディア上でのつながりのほかには何も持っていないような子たちです。
     そう、「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」という言葉が、ここでも聞こえてくるようです。
     ソーシャルメディアとは、そのままでは「きっと何者にもなれない」子供たちが、特別な才能や面倒な努力なしで「何者かになる」ための魔法のアイテムなのです。
     『輪るピングドラム』でこのセリフを生み出した幾原監督はつくづく天才ですね。
     しかし、同時にその魔法はどこか歪んだブラック・マジックの側面を持ってもいます。
     ソーシャルメディアを使えばすぐにでも「人気者のわたし」というイメージを演じることができる。
     けれど、当然ではあるものの、現実の自分はそのことによって少しも変化するわけではない。
     このようにしてリアルとネットは乖離し、使いこなさなければならない「ペルソナ」は増える一方になる。
     また、「人気者のわたし」のイメージを維持するために、色々な欺瞞を使いこなさなければならないことにもなりかねない。
     たとえばTwitterでひとの発言を盗用することを意味する「パクツイ」などは典型的な問題でしょう。
     だれかがいった面白いツイートを、そのまま自分の発言として流用する。
     そうすると、たくさんの「ふぁぼ」や「りつい」を得られて、一時、幸せな気分になれる。
     「パクツイ」の仕組みとは、そういうもののようです。
     ですが、しょせんひとのツイートはひとのツイート。自分の才覚で生み出したものでない以上、いくら一時の承認を得られたとしても、むなしいことこの上ない。
     そして、そのむなしさがさらに「パクツイ」を継続させる。
     それは著作権を無視した盗用であり、法的にも問題がある行為なのですが、そういうことにはなかなか気づかない。
     そのようにして「パクツイ」の連鎖は、その子が何かしら破たんするまで続きます。
     そのほかにもソーシャルメディア中毒は多様な問題を引き起こします。
     ただでさえ他人の顔色をうかがい、承認の機会を逃がすまいと必死になっているティーンにとって、ソーシャルメディアは甘すぎる果実です。
     だから、どれほど問題が発生するとしても、ティーンはなかなかソーシャルメディアの使用をやめることができません。
     「既読無視」が罪悪とされ、メッセージが来たらすぐに返信しなければならないルールを、内心では鬱陶しいと思っている子も少なくないはずなのですが、それをいいだすことは赦されない。
     そんなことをいったら即座に仲間外れにされ、罪びととしていじめの対象になる。
     ソーシャルメディア上に築かれた承認のラビリンスはきわめて抜け出しがたい構造をしているのです。
     それでは、このような深い迷宮から抜け出るためにはどうすればいいのか。
     著者は最後にひとつの希望を提示します。それは 
  • 『暗殺教室』と多重レイヤー構造。少年漫画は「天才漫画」を過ぎ、弱者戦略の時代に突入している。

    2016-04-24 12:02  
    51pt

     『ひらめき教室 「弱者」のための仕事論』を読みました。
     漫画家の松井優征さんとデザイナーの佐藤オオキさんの対談集です。
     この場合の「弱者」とは、特別な才能に恵まれていない人の意味。
     圧倒的な才能を持つ「天才」たちがごろごろしている漫画業界やデザイン業界で、「弱者」がいかにして活躍するか、その方法論が語られています。
     松井優征さんにしろ、佐藤オオキさんにしろ、結果だけを見れば抜きんでた能力を持つ「天才」に見えるかもしれません。
     『魔人探偵脳噛ネウロ』、『暗殺教室』と二作続けて『ジャンプ』でヒット作を完結させた松井優征、400もの仕事をパラレルに展開するという佐藤オオキ、いずれも凡人とは思えません。
     しかし、かれらは自分の主観においてははっきりと「弱者」なのであり、「弱者である自分がどう戦うか」を考えに考え抜いてそれぞれの戦場で生き抜いてきたのだといいます。
     ちょっと本文から引用してみましょう。

    佐藤 まさに弱者戦略ですね。僕も絵を描くのが下手なんですよ。
    松井 そうなんですか?
    佐藤 デザインって、たぶん右脳型、左脳型タイプがいて、感性やセンスで戦える人がいるんです。ヨーロッパに行くと、ペンを手にした瞬間、魔法のように美しい曲線を描いちゃうような天才がゴロゴロいる。僕はそれを見て、「あ、自分にはできない。これは敵わないな」と最初に思ってしまった。じゃあ自分に何ができるのか考えたとき、曲線美や激しい色使いなどではなくて、本当に些細なアイデアを膨らませていくことで勝負できないかなと考えました。そこがスタート地点ですね。そういう意味では、早めに自分が絵がへたであると実感できたのは、貴重な経験でした。
    松井 自分の才能のなさ、弱点を一回認めた人は本当に強いですよ。
    (中略)
    佐藤 そういえば『暗殺教室』も、「弱者戦略」が大きなテーマになっていません?
    松井 そうなんです。暗殺も、弱い者が強い者を倒すための戦略なんですよね。

     「弱者戦略」。
     面白い言葉が飛び出してきました。
     弱者戦略とは、つまり、生まれつきの素質に恵まれていないものがそれでもどう戦うか? あるいは勝つか? そのための「戦略」だと考えられます。
     ぼくは、いまの少年漫画はこの「弱者戦略」の時代に突入していると思う。
     かつて、『少年ジャンプ』は「努力・友情・勝利」というテーマを掲げていました。
     しかし、時代の変遷によって、「努力すれば必ず勝利できる」というコンセプトが説得力を失ってきた。
     そこで「天才」を描く漫画が生まれた。
     少年漫画全体を眺めてみても、『H2』とか『SLAM DUNK』とか、いわゆる「天才漫画」が流行った時期がたしかにありました。
     それらは比類ない「天才」がその才能でぐんぐん成長していく姿を描く実に痛快な物語でした。
     しかし、同時に「天才漫画」は「それでは、才能がない者はどうしようもないのか?」というある種の絶望を呼び起こします。
     そうかといって、ひたすら努力すればいい、というアンサーも説得力がない。
     何しろ、半端な努力などとうてい通用しないような天才の圧倒的な実力を既に見てしまっているのですから。
     そこで生まれてきたのが「弱者戦略漫画」なのではないでしょうか。
     先駆けは『HUNTER×HUNTER』だと思う。

     『HUNTER×HUNTER』は「天才漫画」でもあるけれど、「弱者戦略漫画」を切り拓いた作品でもある。
     『HUNTER×HUNTER』が少年漫画に持ち込んだのは、「肉体的な意味での強さ」というひとつのレイヤーでのみ勝負が決まるわけではなく、ほかにもいくつものレイヤーが存在し、それぞれのレイヤーで勝負が存在するという「多重レイヤー的世界観」でした。
     ペトロニウスさんはこんなふうに書いています。

     さて強さの話に戻ると、『HUNTER×HUNTER』のもう一つの凄さは、前作の『幽☆遊☆白書』でもエピソードとして出てきていてこのテーマを追求する片鱗を感じさせるのですが、ゲームのルールを書き換えることが、最終的な勝利につながるということを、強く意識した設計がなされていることです。いや、このいいかたよりも、この現実世界には、いくつものレイヤーがあって、どのようなルールに支配されているレイヤーに生きているのか?ということを意識しないと、簡単に殺されてしまうという恐怖と悲しみが、彼の作品の大きなテーマにあります。これが2つ目です。
     ようは、チャンピオンを決めるランキング・トーナメント方式のバトルに、どのようなルール(=基礎構造)の変更をしたのかといえば、
    1)強さを一律の基準で決められない多様性をもちこみ、知恵と工夫で勝ったほうが勝つ、
    2)自分がいるレイヤーのルールを壊すか、新しくルールを作りだすことができたものが勝つ、
     という条件が設定されたんですね。ちなみに、2)は、凄い複雑で、
    3)自分がいるレイヤーから、異なるレイヤーに移ることができた場合、そのメタルールをどう利用するか?
     というような背景も隠れています。
     これって、物凄い発見ですが、、、、この物語類型を十全に使いこなせている物語は『HUNTER×HUNTER』ぐらいしかありません。日本のエンターテイメント、、、いや人類のエンターテイメント史に残る傑作だと思います。これ。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140526/p1

     シンプルに「強さ」の数的な大小(戦闘力530000とか)で勝負が決する『ドラゴンボール』のような古典的な少年漫画と比べて、『HUNTER×HUNTER』の勝敗論理ははるかに複雑です。
     ある人物が「肉体的な強さ」のレイヤーで劣っていたとしても、必ずしもそれで勝負は決まらない。
     たとえば「知性」や「特殊能力」のレイヤーに勝負を持ち込むことができれば、それで勝敗が逆転することが十分にありえる。
     『HUNTER×HUNTER』が生み出したのは、そういう世界観でした。
     これは非常に画期的なことだったと思います。
     もちろん、先例としてたとえば『ジョジョの奇妙な冒険』があり、また『ドラゴンボール』以前のさらにクラシックな少年漫画があることはたしかですが、『HUNTER×HUNTER』のバトルはそれらと比べても複雑な上に意識的です。
     『HUNTER×HUNTER』の登場をもって少年漫画は新たなステージに突入したといっていいと思います。
     ちなみに「多重レイヤー」意識の採用はおそらく 
  • ジャンクヌードで自慰することは悪なのか?

    2016-04-23 12:05  
    51pt

     坂爪真吾『男子の貞操』読了。
     坂爪さんの本はこれで『セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱』、『はじめての不倫学』に続いて三冊目になりますね。
     立て続けに読み耽っているのはそれだけ面白いからなのですが、この本も期待に違わずすばらしい内容でした。
     海燕、絶賛。
     ただ――ただね、本の内容を素直に一から十まで受け入れることはできない自分があることもたしかです。
     理屈で考えれば書かれていることは正論だと思うのだけれど、感情が受け入れを拒絶する。
     どうにも納得がいかないというか、あまりにも理想論ではないかと思ってしまう。
     具体的にどのようなことが書かれているのか。
     まず、著者は「僕らを射精に導くのは「誰の手」なのか?」と問いかけます。
     そして、こう答えるのです。それは自分の手などではなく「お上(かみ)の見えざる手」なのだと。
     つまり、ぼくたちは「お上」の作り出した規制を破る「タブー破り」によってしか欲望を喚起されないようになっているということ。
     著者は書きます。

     もし、あなたが「女子高生」という記号に性的興奮を覚えるのであれば、それは、決して、女子高生の裸が、他の年代の女性の裸と違って、特別に魅力的だから、女性構成のセックステクニックが、他の世代の女性よりも上だからではありません。十八歳未満の女子高生との性的接触を、お上が法律や条例によって規制しているからです。「禁じられているからこそ、魅力的に見える」だけの話です。

     一理ある、と思います。
     より正確には、単に「お上」ではなく、社会全体の倫理や道徳がかかわっているのだろうけれど、大筋としては納得がいく。
     ジョン・ヴァーリィに「八世界シリーズ」と呼ばれる遠未来社会を描いたSF小説があります。
     その世界では完全な衛生コントロールが実現していて、はだかで歩く人もめずらしくありません。
     しかし、そうなるともうだれもはだかなどに性的欲求を喚起されないのです。
     それはひとつの「あたりまえの風景」でしかなくなっているわけです。
     ひとの欲望は「禁止されることによって燃え上がる」。
     その意味で、ぼくたちの欲望はたしかに「お上」によって、社会道徳によってコントロールされているのかもしれない。
     著者はそういう「タブー破り型」の快楽は長続きしないものだと考えます。
     タブーを破ったその瞬間には興奮なり感動があるが、それは時間を経て冷めていく。ようするに「タブー破り」は簡単に飽きるのです。
     そこで、著者はそれに対するもうひとつの欲望の形を提示します。「積み重ね型」です。
     それは「特定の相手との人間関係や思い出を積み重ねることで、その相手に対する感情的な信頼を深めていく過程で得られるタイプの快楽」だといいます。
     著者はこの「積み重ね型」の快楽を推奨します。
     それは「エゴ(利己的)」ではなく「エコ(他者と環境に配慮した)」性生活であり、中長期的に性を楽しんでいくためにはこの「エコ」な快楽を得られるように自分自身を慣らしていく作業が不可欠である、ということのようです。
     うーん、正しい。なんとも正しい理屈です。
     ただ、なんというかなあ、あまりにも「正しすぎる」論理だと思うのですよね。
     ロジックとしてはたしかにその通りだと思う。しかし、それをパーフェクトに実践できる人がどのくらいいるかというと――無理じゃね?と思ってしまう。
     たしかに、女性を「巨乳」「痴女」「女子高生」といった記号に分類して、生身の女性そのものではなく、その記号にしか欲望できない性は「貧しい」。
     しかし、だからといって「エコで豊かな性」に移行できるかというと――まあ、できる人はできるのでしょうね、というしかありません。
     著者によれば、現在、社会にあふれるはだかは本来のヌードとしての魅力や価値を失った「ジャンクヌード」でしかないということです。
     そのようなジャンクヌードで「抜く」ことは性差別や貧困の拡大に加担する行為にほかならない。
     それなら、どうすればいいかというと、 
  • だれも欲望に逆らえない。不倫と家族の不埒な関係。

    2016-04-22 01:27  
    51pt

     最近、乙武洋匡さんの不倫事件が発覚し、話題になっています。
     清廉潔白とはいかないまでも、温厚な常識人と見られていた人物のことだけに、事件性は大きいものがありますね。
     信じていたのに失望した、という人も多いでしょう。
     いったい人はなぜ不倫するのでしょうか? 不倫のどこにそれほどの魅力が?
     さて、坂爪真吾さんの本をもっと読んでみたいということで、『はじめての不倫学』を読み上げました。まさに不倫とその予防について解説した新書です。
     この頃、新書ばかり読んでいますね。お手軽な新書ばかり読みつづけるのではなくもう少し読みごたえのある本を読んでみようかな、という気もするのですが、なかなか読みたい本も見あたらないのが現状です。ハードカバーは金額的にも高いしね。
     もっとも、『はじめての不倫学』は「「社会問題」として考える」というサブタイトルからわかる通り、必ずしも「お手軽」とはいえない一冊です。
     不倫という「現象」を、いち個人の倫理観の欠如や意志の弱さと決めつけるのではなく、「わたしたちの社会の問題」として考えていこうと提唱している本だといっていいと思います。
     不倫のどこが社会問題なのか、どこまでいっても個人の不貞の問題に過ぎないではないか、と考える方もいらっしゃるでしょう。
     しかし、著者によると、現実に不倫は貧困や家庭崩壊といった諸問題と結びついているのであって、もはや個人の問題と割り切ることはできません。
     そして著者は、不倫はたとえばインフルエンザのようにだれでも陥ることがありえる問題なのであって、個人の咎を追求することには意味がないという立場を採ります。
     これは極論であるかもしれませんが、同時に正論でもあるでしょう。
     もっとも、一般の既婚者は自分は(自分とパートナーは)不倫などとは無縁だ、と信じているかもしれません。
     ですが、だれだって事故のよう突然にに恋に落ちることはありえるわけです。
     じっさいに不倫してしまった人物も、自分が不倫するなど思ってもいなかったと証言しています。
     それでは、不倫を社会問題として捉えるとはどういうことなのか。
     それは不倫問題を社会全体で考えて防止していくということです。
     なぜ防止する必要があるのか、著者はその理由を五つ挙げています。
     第一の理由は、単純な話ですが高確率で周囲にバレるから。
     特に男性の不倫はきわめてバレやすいといいます。そして、バレてしまったら、家庭の平穏は崩壊します。
     それまでどれほど信頼と愛情でつながっていたパートナーだとしても、一瞬でその関係は崩れ去り、あとに残るものは不信と敵意だけなのです。
     仮に離婚しないで済んだとしても、一生、パートナーから愚痴や嫌味を聞かされつづけることになる可能性があります。
     第二の理由は、不倫後、仮に現在のパートナーと別れて不倫相手と結婚しても大半はうまくいかないから。
     うまくいくのは25%で、75%は結局別れるというデータもあるそうです。
     第三の理由は、不倫ウィルスは当事者だけではなく、その子供にも「感染」し、子供が成人後、親と同じように不倫をしてしまうリスクがあるから。
     第四の理由は、じっさいに不倫まで踏み込まなくても、「不倫未遂」、つまり配偶者以外に恋をしてしまい、日常生活に支障が出るパターンがありえるから。
     そして第五の理由は、不倫に中毒性があるからです。
    「アルコールやタバコ、DVやストーキングと同じ」で、不倫は常習化しやすい。
     セックスの快楽は「落差」に比例するため、不倫相手との初めてのセックスは、その背徳感と高揚感によって、通常の性行為よりも圧倒的に強度が増すそうです。
     ゆえに、不倫のセックスを一度体験してしまった人は、多くの場合、それ以前には戻れない。
     そして、どうしようもなく不倫の関係に耽溺していくのです。
     その果てに待っているものが破たんでしかないとわかってはいても。
     著者は不倫がインフルエンザのようなもので、だれでも罹患する危険があるとし、そのためそれを事前に防止する「不倫ワクチン」が開発される必要があると語ります。
     いったい不倫という行為を防ぐためにはどのようなワクチンが有効なのか? 
  • 隠ぺいするほどにいやらしくなる。セックスの逆説。

    2016-04-21 00:05  
    51pt

     坂爪真吾さんの新書本『セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱』を読みました。
     これがもう、素晴らしい本で、なんとしてもブログでお奨めしなければならないと考えたしだい。
     坂爪真吾と非営利組織「ホワイトハンズ」のことはいままで薄っすらと知ってはいたましたが、あまり興味を抱いていませんでした。
     しかし、この本を読んだいまは、なぜもっと早く関心を抱かなかったのかと思うくらい。
     ホワイトハンズはまず新潟で活動を開始しているので、もしもっと早く知っていたら直接著者と逢って話をすることもできたかもしれない。
     著者の主張は必ずしも世間の常識に沿っていませんが、ロジカルに考えれば自然と出て来る結論であり、納得性は高いものがあります。
     この人の本はちょっと追いかけて行きたいところ。気になる気になる。
     それでは、「セックス・ヘルパー」とは何で、ホワイトハンズは何をする団体なのか。
     簡単にいってしまうと、セックス・ヘルパーは男性障碍者の性の介助をする職業で、ホワイトハンズはセックス・ヘルパーを斡旋するNPOです。
     本文中には「射精介護」という言葉が出て来ますが、セックス・ヘルパーの目的は文字通り、ひとりでは射精できない障碍者の射精を手助けすること。
     ひとりでは自慰すらできない重度障碍者にとって、射精できないということは重いストレスになっている。
     しかし、いままでは「障碍者は天使」といったあいまいなイメージによって「障碍者にも性はある」というあたりまえの事実は押しつぶされてきた。
     坂爪さんはその現実を踏まえた上で、ホワイトハンズによって状況に革命をもたらそうとします。
     かれは東大の上野千鶴子ゼミで性風俗を研究した人物。
     牛丼屋でバイトして貯めた資金でひとりホワイトハンズを立ち上げ、運営しているという変わり種です。
     ホワイトハンズを立ち上げた当初は関心を持ってくれる人も少なく、だれもいない部屋でひとりで講義を行っていたといいます。
     ああ、そんなことをやっている人がいると知っていたらぼくは聴きに行ったのに。情弱乙、ですねえ。
     著者はまず、既存の性風俗を「ジャンクフード」であり、風俗嬢や経営者を含め、「関わった人全員が、もれなく不幸になるシステム」であると定義します。
     ジャンクフードと性風俗の共通点は以下の三つ。

    ・美味しいけれど、不健康。
    ・素材の産地が不明。
    ・中毒の危険がある。

     つまり、性風俗とはサービスと呼ぶべき水準に達していないサービスが横行し、情報公開も行われておらず、またいったんその業界に足を踏み入れた人はなかなか出られなくなるという特徴を持つ世界なのだというのです。
     それはまさに「関わった人全員が、もれなく不幸になるシステム」とも呼ぶべきものです。
     じっさいには経営者も、風俗嬢も、客も、幸せになることができない、それにもかかわらず延々と自律的に続いているシステム、それが風俗業界なのだ、と著者は喝破します
     ぼくはここで少々反感を覚えました。
     そうはいっても、風俗で働くことで幸せになっている風俗嬢もいれば、客もいるのではないか、と。
     しかし、著者が語っているのはそういう幸運な例のことではないでしょう。
     なんといっても、風俗業界が「日があたらない業界」であるためにきわめて不健全な状況に置かれていることは客観的な事実です。
     「全員」、「もれなく」とはいかなくても、相当数の人が風俗業界に関わることによって不幸になっている。この事実を見逃すべきではない。その解決のためにどうすればいいのか。
     売買春を一切禁止する? しかし、現在の段階ですでに売春禁止法という法律があり、売買春は公的に禁じられているわけです。ただ、有名無実化しているだけで。
     いくら売春禁止法があっても、デリヘルやソープランドを利用すれば女性とセックスできることはだれでも知っています。
     つまり、日本社会は売春禁止という「建前」と、売春を認める「本音」に分裂しているわけです。
     これはあきらかに良くないし、売春禁止という方法は結局はこういう結末に行きつきそうです。
     それでは、どうする? 著者はそこでホワイトハンズの活動を持ち出すわけですが、ホワイトハンズだけでは片手落ちだとぼくは考えます。
     やはり、一方ではセックス・ビジネスの健全化がなされなければならない。
     そのためにはどういう方法があるでしょう。
     ここから先は 
  • いまどきの若者たち「つくし世代」のふたつの条件と五つの特徴。

    2016-04-16 21:11  
    51pt

     藤本耕平の新書『「つくす」若者が「つくる」新しい社会』を読みました。
     同著者による『つくし世代』という本の続編的な位置づけの本らしいのですが、ぼくは『つくし世代』のほうは未読です(続けて読んでみるつもり)。
     タイトルからわかるようにいわゆる「若者論」に属する一冊ですが、ほかの若者論本と一風変わっているのは現代の若者(「つくし世代」)をあくまでも肯定的に捉えていること。
     この本のなかで書かれていることのなかには、「ほんとうにそれは良いことなのか?」と疑いたくなることも含まれているのですが、著者はあくまでポジティヴに受け止めます。
     その姿勢をどう評価するかはひとによって違ってくるでしょうが、とりあえずここではどこまでも若者に寄り添う態度に敬意を表することにしておきましょう。
     著者は現在31歳以下の若者世代を「つくし世代」と名づけています。
     これはちょうどぼくが仮に「新世代」と呼んだジェネレーションと重なっています。
     しかし、著者による分析はぼくなどとはまったく違う。
     なるほど、同じ事実を材料にして正反対の結論を出すこともできるのだな、と感心しました。
     著者によれば、漫画『ONE PIECE』のルフィ海賊団のように「仲間」のために「つくす」ことを第一に考える世代、それがつくし世代だといいます。
     かれらにとって最も大切なものはなんといっても自分をあたたかく受容してもらえる「居場所」であり、その居場所のためなら努力することも惜しまないのだと。
     この観測がどこまで正しいのか、ぼくにははっきりとはわかりませんが、著者のものの見方はそれほど外れていないようにも感じます。
     というのも、この本ではぼく自身が実感している社会の変化を反映した若者像が描かれているからです。
     しょせん世代論とか若者論といったものは一定の限界を抱えたものであり、最終的にはひとはひとりひとり違っているという現実があることを合わせて考えるなら、当面は「こういうものなのかな」と受け止めておくことも問題ないでしょう。
     著者はつくし世代の個性を五つ並べ上げているのですが、ぼくにはそれらは主にこの世代のふたつの特徴、「チョイス」が豊かであることと「デジタル・ネイティヴ」であることから来ているように思えます。
     もちろん、このふたつは密接に関わりあっている。
     チョイス(選択肢)の豊かさについてはいうまでもないでしょう。
     この社会はかつてないほど色々なチョイスを許すように成熟してきている。
     そして、デジテルネイティヴ。
     つくし世代は 
  • アニメオタクは汚い? 友達がいない? 知性が低下している? 裸を見ると吐く? 中村淳彦『ルポ 中年童貞』を読む。

    2016-04-13 00:46  
    51pt

     ども、PS4の『ダークソウル3』に手を出そうかと考えている海燕です。
     まあ、確実に投げ出すだろうから買わないけれど、ちょっと惹かれるものがある。
     いや、その前にクリアするべき積みゲーが何本もあるのですが。
     うん、おとなしく『ドラゴンクエストビルダーズ』の続きをやろ。
     さて、先ほどパスタを食べた帰りにTSUTAYAで本を買ったので、きょうはその話でも。
     タイトルは『ルポ 中年童貞』――って待て待て待て、ブラウザのタブを閉じるな。
     一応、マジメな本なんだから。
     まあ、だれも中年童貞の話なんて聞きたくないかもしれませんが、ぼくは大いに興味があるのです。
     いや、正確にはべつに中年童貞そのものに興味があるのではなく、この社会の「見えない格差」に興味があるといえばいいか。
     だから、これからきわめて真剣な話をします。どうか、ブラウザを閉じるのは読み終えたあとにしていただきたい。いや、ほんと。
     ここでいう中年童貞とはつまり中年以上の年齢で女性との性交渉の経験がない男性のこと。
     著者によると、現代日本では30~34歳の男性のうち4人にひとりが童貞なのだそうです。
     この割合を多いと見るか少ないと見るかはひとそれぞれでしょうが、著者から見ると大いに問題がある数字らしい。
     なぜなら、かれにいわせれば、中年童貞とは「社会の根幹に関わるネガティヴな問題」を抱えた存在だから。
     童貞だろうが処女だろうが個人のかってだしいいじゃないかと思うわけですが、そういうふうにはいかないらしい。
     そういうわけで、著者は秋葉原へ行ったり(童貞が多そうだから)、AV業界を探ったり(童貞にくわしそうだから)といった過程をたどって中年童貞の現実をあきらかにしようとします。
     ただ、結論から書いておくと、この本を読んでも、現代社会の「見えない格差」をあきらかにしてくれているのではというぼくの期待はまったく満たされませんでした。
     はっきりいって著者の意見はどう考えても偏見と憶測でしかない側面が強く、客観性を欠いているように思われるからです。
     著者はよっぽど中年童貞にひどい目に遭わされたのか、中年童貞へのバイアスが凄い。
     中年童貞は「物事の考え方や行動が周囲とはズレてい」て職場でもトラブルを起こすことが多いとしています。
     しかし、ぼくが思うに、もしその観測が正しいとしても、それは原因と結果が主客転倒しているのではないでしょうか。
     仮に「物事の考え方や行動が周囲とはズレてい」る人たちが一様に中年童貞だということが事実だとしても、それは童貞が原因でそういう性格になっているわけじゃなく、そういう性格だから童貞になったのだと思います。
     中年童貞でもほがらかで魅力的な人はいくらでもいるでしょう。著者はそういう存在を無視しているようにしか思えない。
     あと、オタクがものすごくひどい扱い(笑)。
     著者は秋葉原へ行ってオタクにくわしいという人物に会うのですが、この人がどうにも納得いかないことをいいだします。
     長くなりますが、引用させてもらいましょう。

    「二次元しか愛せないっていうオタクがいるけど、そのほとんどは方便ですよ。実際は現実の女の子に相手にされないから、二次元が好きというのが一般的です。最近はネットで叩かれるからみんな言わなくなったけどね。二次元しか好きになれないって言い訳、自己暗示。オタクの人に見られる傾向だけど、自己正当化するわけですね。非モテって言葉も同じように使われている。俺たちはモテないのではなく、モテたくないと。もちろん例外もあって現実の女の子からモテるルックスだけど、二次元しか興味がないって人もいる。それは若い世代に多いですね。
     アニメの専門学校の学生から聞いたけど、学校でデッサンの授業がある。モデルの女の子が学校に来て裸でポーズをとって、それをデッサンする。そうすると嘔吐とか体調を崩す学生が続出するらしい。理由を聞くと、リアルな女は毛穴があって気持ちが悪いみたいなことを言ったりする」

     えー、ほんとかよー(疑)。都市伝説じゃないの?
     まあ、たしかにそういう人がいないとはいい切れませんが、超少数派だと思いますよ。違うのかなあ。
     この後にも「アニメ好きに共通しているのは年齢に関係なく、中学生や高校生のときに学校でモテなくて、不遇な環境の中で美少女キャラクターを性的対象にして、現実の世界から逃避していることです。(後略)」とか、「多くのオタクは、処女以外は人間じゃない、といった思想を持っています。(中略)処女信仰は、処女であることがなにより重要であるという考えです。処女じゃないと人間ではないっていうのは異常ですが、オタクにとっては当然の思考。(後略)」とか、どうにも偏見としか思えない話が出て来る。
     そりゃ、そういうオタクも一定数いるだろうけれど、そうじゃないオタクも大勢いるわけで、「オタクとはそういうもの」みたいに語られると困ってしまうのだけれども。
     とにかくこういった話を聞いて真に受けた著者は考えます。

     二次元に依存するオタクのほとんどは、全員がそのまま死んでいく――。その言葉を聞いて呆然とした。どこにもないファンタジーを信じて、現実をなにも知らないまま死んでいくのはあまりに淋しくないか。

     どうしてそうなる(笑)。
     このような文章を読むと、こういう方は虚構を虚構として楽しむということが理解できないのかもな、と思わずにはいられません。
     少なくともぼくがオタクコンテンツを消費するのは、「どこにもないファンタジーを信じて」いるからではなく、エンターテインメントとして面白いと感じているからです。
     たしかに一部のオタクには処女的な美少女との恋愛幻想を抱いている人もいるでしょうが、オタクが全員そうだというわけではまったくない。
     それこそ「オタクのほとんど」は、虚構を虚構と割り切って楽しんでいるはずではないでしょうか。
     と、思うんだけれどなあ。どうなんだろ。
     まあ、たしかに好きなキャラクターが処女じゃないとわかったら作者にいやがらせのメールを送ったりする輩もいるようだから、一概に嘘だとはいえないけれど。
     でも偏見だと思うぞ。
     その一方で、「昔のオタク」はわりといい印象で捉えられている。
     著者はまたべつの人物にこんな話を聞きます。

    「今は、リアルのアイドルが好きなオタクとアニメ好きは仲が悪い。昔のオタクは岡田斗司夫みたいな感じで、オタクコンテンツ全体を俯瞰してチェックするのが普通だった。彼らにとってオタクはコレクターだし、マニアだからいろんな情報を知っていることが誇り。だから昔のオタクは博識だし、今でも40代以上のオタクは高学歴でいろんな知識がある。若いオタクになるとアニメしか知らない、アイドルしか知らないという人が増えている。インテリジェンスが低下して、ひたすら好きなものだけに逃避することが一般的なオタクになってしまった(後略)」

     いやいやいやいや、「昔のオタク」、つまりオタク第一世代にインテリジェンスがあったっていうのは幻想だってば。
     で、いまのオタクのインテリジェンスが低下しているというのも嘘だと思う。
     ここでいう「昔のオタク」って、岡田斗司夫さんなり唐沢俊一さんたちのことであるわけでしょう。
     いってはなんだけれど、相対的に見ていまのオタクの平均的な若者のほうがよっぽどしっかりしていると思いますよ、ぼくは。そりゃ、岡田さんはヤリチンだけれどさ。
     そしてまた、このような話を聞いた著者はまたも思うのです。

     コンテンツの消費を続けるオタクは、企業に消費活動を操られながら、死ぬまで仮想商品を購入し続けるだけの一生を送る。過去の日本に前例がないだけに幸せなのか、不幸なのかよくわからない。好きなものに囲まれて、好きなものを買い続けている人生は幸せかもしれないが、それがリアルな女性の代替である二次元美少女となると、簡単には想像ができないディープな哀愁を感じる。

     いや、だから二次元美少女はべつに「リアルな女性の代替」とは限らないのですって。
     ぼくなどは二次元美少女そのものが好きなのであって、それはべつに何かの代替とかではないのですから。
     それにオタクの生き方が幸せなのか不幸なのかなんて、大いに余計なお世話です。
     その生き方に「哀愁を感じる」というのなら、明治の文士にだってそれを感じるべきでしょう。
     フィクションに一生をかけているという意味では同じことなのだから。
     さらに、話はオタクのファッションや生活にまで及びます。

    「あのファッションはダサいんじゃなく、服にお金を限界までかけないと、結果論としてあの服に行きつくわけです。(中略)アイドルファンはお風呂も入るし、清潔。一方、アニメ好きは厳しい。ズボンのチャックが壊れても、そのまま歩いているとか、社会的に逸脱するオタクもたくさんいる。アニメ好きのオタクは服装が汚いダサいだけじゃなくて、他者がないから友達もいないし。まあ、そういう人たちです」

     そういう人たちです、じゃないでしょう。長年オタクやっているけれどそんな奴に逢ったことないよ。
     まあ、絶対にいないとはいわない。ある程度はいるのかもしれないけれど、大半のオタクはお風呂くらい入りますよ(笑)。
     友達だって普通にいるだろうし。
     ウルトラマイノリティを例にだして全体を評価しないでほしい。
     なんなんだろうな、この何十年前から一向に変わらない偏見は。
     いや、そうじゃないのか?
     ひょっとしたらほんとうにこういうオタクばかりのグループがあって、ぼくがそれを知らないだけなのか?
     オタクのなかでも格差があるとか?
     そうだとしてもそれをオタクすべての代表のようにいわれることは心外だけれど、ちょっとわからなくなってきた。
     そういう側面はあるのではないか?
     くらくら。くらくら。
     まあ、やっぱり単なる偏見が大きいとは思うけれどもねえ。
     いや、 
  • 正義は血を求める。

    2015-08-24 22:42  
    51pt

     安田浩一『ネット私刑(リンチ)』を読んだ。
     長年、ヘイトスピーチ問題に取り組んでいる著者が「ネットを利用した個人情報晒し」について語った一冊である。
     テーマはズバリ、「インターネットの暴走する正義」。
     最初から最後まで延々と暗鬱な話が続く。読んでいてどうしようもなく気が重くなる本だ。
     本書には、見ず知らずの人間を罵倒し、揶揄し、攻撃してやまない人間が多数登場する。
     そういった人物たちの正体は何者か。ぼくやあなたの隣にいる「普通の人たち」なのである。これで気が滅入らずにいられるだろうか。
     しかし、すべてはわかっていたことだ。
     「普通の人たち」こそ最も怖い。最もおぞましい。
     そして、ぼくやあなたにしてからが、そういう「邪悪な凡人」にならないとは限らないということ。
     人間の底知れない醜さと邪さを思い知らされ、しかも他人ごととして処理することを許されないという意味で、ほんとうに重たい一冊だった。ぐったり。
     それにしても、人はなぜ、ネットを利用して「悪」を狩ろうとするのだろうか。素直に司法に任せておくことはできないのか。
     できないのだ。なぜなら、司法による裁きは何千年にも及ぶ検討の末にできあがったもので、苛烈な制裁を望む者にしてみれば甘いのである。手ぬるく感じられるのだ。
     また、司法はすでに腐敗していて、正義を行うのに十分ではないという疑いもある。
     見なれた退屈な陰謀論ではあるが、その種の意見が「正義」を求める。一点のしみもない酷烈きわまりない「正義」を。
     それは見方を変えればきわめて悪質かつ醜悪な「私刑」にほかならないが、その種の「私刑」を実行しようとする者にとってはその残酷さは必然である。
     なぜなら、少しでも妥協してしまったなら、その「正義」は意味を失うからだ。
     どこまでも濁りのない純色の「正義」こそが求められている。
     そして、その「正義」の執行においては、法的に定められている手順はスローに感じられる。
     たとえば「性犯罪者は全員死刑にしてしまえ!」といった極端な主張を展開する際、「いや、性犯罪者にも人権があって……」といった主張はいかにもまだるっこしく感じられるに違いない。
     だから、手順はすっ飛ばされることになる。手順を踏むのは面倒くさいのだ。
     ほんとうはその省かれた部分こそが致命的なものであるのかもしれないのだが、「正義」に酔いしれている人々はそのことに気づかないし、気づきたいとも思わない。
     こうして、「炎上」事件が起こる。やり玉に挙がるのは、特定の犯罪者やその家族、共謀者、とされる人たちだ。
     火のないところに煙は立たないはず