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記事 33件
  • この狂った世界をどう描くべきか?

    2019-07-13 10:10  
    50pt
     夏コミで同人誌『栗本薫カレイドスコープ』を出すべく、色々と準備を重ねています。
     この本はぼくの〈アズキアライアカデミア〉とは離れた個人同人誌の出版計画のいちばん最初のものになる予定なのですが、まあ、いい換えるなら「お試し」でもあります。
     これがちゃんと100冊なり150冊も売れるようであれば「次」も考えられるのですが、どうだろうなあ。まったく売れなかったら恐ろしいですね。十分にありえることですからね。ああ、いつものことながら同人誌は怖い。
     さて、今回はテーマが栗本薫ということで、ペトロニウスさんにも寄稿をお願いしました。叩き台の原稿を読ませていただいたのですが、これが面白い。
     やはり、ぼくとかペトロニウスさんの物語評価の根本は「そこ」にあるんだよなあ、とつくづく思います。
     何をいっているのかわからないでしょうからかるく説明すると、「そこ」とはつまり、「「世界」を描こうとすること」です。ぼくもペトロニウスさんも、「「世界」を描いた」物語が好きなんですね。これでもわからないか。
     ここでいう「世界」とは何か? それはつまり「ありのままの世界」のことです。このことについては、たびたび例に挙げて申し訳ありませんが、山本弘さんの『魔法少女まどか☆マギカ』の解釈が面白いので、引用させていただきます。

     スタッフのみなさん、ありがとう。 
     『魔法少女まどか☆マギカ』は本当に大傑作でした。
     DVD1~5巻、すでに予約済みです。
     震災の影響で完結が危ぶまれていた作品だが、むしろこんな時代だからこそ、この作品にこめられたテーマが胸を打つ。 
     「誰かを救いたい」 
     その願いや努力が報われない世界は間違っている。
    http://hirorin.otaden.jp/e173632.html

     なるほどなあ、『まどマギ』を見てこういう感想になるのか、といっそ感心してしまうのですが、この「間違っている」というところがポイントです。
     何を基準にして「世界」を「間違っている」というのか。それは、つまり、人間の価値、倫理、道徳、法律、感情、欲望、そういった「人間的なるもの(ヒューマニズム)」でしょう。
     本来、世界は人間の価値観とはまったく無関係に「在る」のであって、そこに「正しい」も「間違っている」もないはず。それにもかかわらず、それを「間違っている」といえるのは、人間の価値観を中心に世界を判断しているからに他なりません。
     「誰かを救いたい」という「願いや努力が報われない世界は間違っている」と山本さんはいいます。しかし、現実にはこの世界はそういう場所です。
     どんな真摯な願いや努力も報われる保証はまったくないのであって、むしろ真摯であればあるほどまったく報われないで終わることはめずらしくありません。
     つまり、山本さんはそういうこの世界の現実の形を、かれのヒューマニズムにもとづいて「間違っている」といっているわけですね。
     そして、前々回の記事で見たように、かれは物語においてはそういう「間違っている」世界ではなく、「正しい」世界を描くべきだ、と考えているのだと思われます。
     つまり、「ありのままの世界」ではなく、人間的な意味で「正しい」世界を描くことが物語だ、と考えているわけです。そういう意味で、山本さんが好み、また書こうとしている物語は「ファンタジー」である、といえるかと思います。
     これはこれで、わかる話ではあるんですけれど、栗本薫が描いた物語は、これとはまったく違う。まず、栗本薫の世界においては、ありとあらゆるヒューマニズムはまったく通用しません。
     そこでは、弱者は強者に利用され、搾取され、凌辱され、ときにはむさぼり食われすらするのであって、「正義」も「倫理」もまったく通用しないのです。
     つまり、栗本薫は「ありのままの世界」、山本さんが「間違っている」と告発するその意味での「世界」を描いている。その意味で、彼女の作品は「ファンタジー」ではなく「リアリズム」です。
     ここがわからないと、栗本薫の作品は読み解けない。栗本薫の世界はリアリズムであるが故に、人間的な倫理とか、善悪とか、価値とかがまったく通用しません。まさに山本さんがいう「「誰かを救いたい」 その願いや努力が報われない世界」なのです。
     したがって、作家は自分の正義を作品世界に投影するものだ、そうであるべきだ、という山本さん的な価値観では栗本薫の作品はまったく読み解けないことでしょう。
     面白いですね。大変面白いと思うのですが、いかがでしょうか。
     栗本薫が「世界」を描く作家だ、というのはそういうことです。栗本さんの物語は、何らかの「正義」や「正しさ」を伝えるためにあるわけではありません。
     そうではなく、ぼくたちが生きるこの世界の「ありのまま」の形をそのままに描きとることが目的とされているのです。
     山本さんがいうように、その世界は人間的な価値観から見れば、あまりといえばあまりに「間違っている」。しかし、栗本薫はその「狂った世界」をそのままで良しとします。
     そして、その「世界の法則(=「グランドルール」=「大宇宙の黄金律」)」を曲げることをこそ「間違っている」とみなすのです。
     こう考えてみると、栗本薫と山本弘がまったく正反対の価値観と作風のもち主であることがわかります。
     ここでは山本さんがいうようなヒューマニズムが一応は通用するところを仮に「社会」と呼ぶことにしましょう。そう定義すると、人間は「世界」のあまりの残酷さを恐れ、怯え、憎み、「世界」のなかに「社会」を作って自分たちを守ってきたといえると思います。
     しかし、人間がいくら社会を洗練されていっても、本来の「世界の法則」は変わらない。人間がどんなに「この世界は間違っている!」と叫んだところで、世界は小ゆるぎもしないのです。
     いい換えるなら、世界の在り方はつねに「正しい」。それがどんなに残酷で陰惨で理不尽であるとしても(人間の目から見てそう思えたとしても)、世界はいつもそのままで「正しい」。
     人間がたとえば人権は守られるべきだといっても天災が起これば人は死ぬし、こういうことは犯罪だから良くないといったところでその行為を実際に行う人間が絶えることはありません。
     栗本薫はその現実から目を逸らさない。そして、その、人間的な価値観からすれば「間違っている」、しかし現実にはどうしようもなく「正しい」世界のなかで、人々がどのように生き、そして死んでいくかを淡々と描きつづけるのです。
     それが栗本薫という作家です。山本さんのような価値観から見れば、その作風は邪悪とも醜悪とも映るでしょう。人間的な「正義」や「倫理」からかけ離れた描写が延々と続くわけですからね。
     しかし、ぼくは山本さんの現実をねじ曲げ、この世界の在り方を否定する「ファンタジー」よりも、栗本薫の「リアリズム」のほうが好きです。そちらのほうが前向きだと思うのです。
     まあ、ここで話したことも、山本さんのように「正義」や「倫理」の普遍性を信じる人にはどういったところで通用しない話ではあるのですけれどね。
     山本さんは「懐疑主義者」を自任していますが、ぼくから見ると「普遍的な倫理」の幻想を盲信しているように見えてしまいます。そして、それにもとづいてかれは人を裁く。それは「何者をも裁かない」栗本薫の作風と対極にあります。
     それもまた、わかる人にはわかる。わからない人には決してわからない話ではありますが……。
     なかなか良く書けたと思うので、前々回の記事とこの記事は、加筆修正の上、『栗本薫カレイドスコープ』に収録しようと思います。栗本薫作品未読者でもわかるように書くつもりなので、どうか、ぜひ、お買い求めください。
     貧しい海燕に愛の手を!
     よろしくお願いします。 
  • 栗本薫作品の魅力とはつまりどこにあるのか?

    2019-07-08 11:08  
    50pt
     はいどーも、キズナアイ――じゃない、海燕です。先ほど、ペトロニウスさんと電話で話していたんですけれど、編集作業ちうの同人誌『栗本薫カレイドスコープ』の話題になりました。
     この本、ペトロニウスさんにもご寄稿いただく予定なのですが、「それでは、栗本作品の魅力とは何か?」と話しあったとき、ぼくは「作中人物に天罰を下したりしないこと」と答えました。
     いい換えるなら、「登場人物を善悪でジャッジしないこと」ということもできます。
     栗本薫は、作中で「悪人」を裁くということをしません。どのような残忍な所業の人間であっても、あるいは怪物、化け物の類であるとしても、自ら、生存競争の戦いに敗れ去らない限り、無理やりに物語から退場させられることはないのです。
     これがどういうことかわかるでしょうか? 栗本薫の世界に勧善懲悪は存在しないということです。そこにあるものは、完全なるリアリズムだけです。
     弱いものは敗れ、強いものが生き残る。そういう、どうしようもない過酷、苛烈な「パワーゲーム」を彼女は好んで描きます。暴力が渦巻く修羅の螺旋――その果てに、「それでもなお」、人間は愛と平等をつかみ取ることができるかということがテーマとなっているわけです。
     優しいといえば優しいし、きびしいといえば、この上なくきびしい。そのフェアな態度が最も象徴的に表れているのが、〈グイン・サーガ〉の一巻、『闇の中の怨霊』のいち場面です。
     この巻で、策士アリストートスは、何の罪もない無垢な少年リーロを無残にも殺害してしまいます。そして、あろうことか、天地に自分の無実を宣言します。それでは、その結果、何が起こったか? じつは、何も起こりはしないのです。

     天が裂け、地がまっぷたつに割れてかれのみにくいからだを飲み込むことも起こりはしなかった。
     また、うらみをのんだ小さな亡霊があらわれて、血だらけの指で誰かを指差してみせるようなことも。
     さんさんと陽光は床にふりそそぎ、アリの青ざめた醜い顔を照らしていたが――神々の怒りのいかづちがとどろいて世界を闇にとざすこともなく、また空にあらわれた炎の指が宿命の神宣を告げる文字を昏い空に描いてみせることもなかった。
     ただ、人々がしんとなって、この情景を見つめていただけのことであった。

     この後の巻でアリストートスは死ぬことになりますが、それは単にパワーゲームに敗れただけであって、作者が自ら裁いたわけではありません。
     これがつまり、「天罰を下さない」、「善悪でジャッジしない」ということです。どれほど残忍な悪行を為そうとも、それだからといって「悪」と認定されて物語から追放されることがないということ。
     したがって、栗本作品ではしばしば必然として強者が弱者を踏みにじり、食い物にすることになります。「それが現実だ」と彼女はみなすのです。そして、そのなかでいかに弱い人々が生き、死んでいくのかを描写する。そこがたまらなく好きですね。
     一方、非常に象徴的なことですが、たとえば山本弘さんなどは明確に「天罰」を下します。何しろ、本人がそう書いている。『神は沈黙せず』という小説のなかに、加古沢という「悪役」が登場するのですが、この人物を山本さんは物語の外の「作者の倫理」で裁き、殺しています。
     そのことを、かれはこのように語っています。

     僕は悪役としての加古沢に愛着を抱いていた。同時に、彼がのうのうと生き延びることは絶対許せなかった。現実世界では、悪が罰せられないことがあまりにも多い。しかし、せめて自分の創造した世界の中だけは、悪が滅び、主人公の苦闘が報われるものにしたかった。この世界ではどうだろうと、フィクションの世界では、神は正義を行なうべきであると。
    (『出エジプト記』において、神がエジプト王の心を操りながら、同時にエジプト人に罰を与えたことも、神とは作者のことだと考えれば矛盾はない。現代の小説においても、作者は悪を操りつつ、悪を許さないものである)
     もちろん、加古沢を滅ぼす自然な手段は他にもあった。たえば優歌に彼を殺させることもできた。しかし、それは正しくない、と僕は感じた。それではプロットとしては筋が通っていても、何かが決定的に間違っている。そこには「真の神」が介在する余地がない。
     だから、作家としてのタブーを破り、加古沢には自ら手を下すべきであると決心した。
    http://kokorohaitsumo15sai.la.coocan.jp/kamiwaatogaki.htm

     これが山本弘なんだよなあ、と思います。山本さんは「フィクションの世界では、神は正義を行なうべきである」と本気で信じている。
     これは山本さんの信念なのでしょうが、ぼくから見ると、きわめてアンフェアな態度に思える。まあ、もちろん、山本さんの「正義」を評価する人もそれはそれでいるでしょうが、ぼくはいやですね。
     もっとも、「フィクションは正義や倫理を表すものであるべきだ」と信じている人は、ひとり山本弘だけではなく、大勢います。そういう人たちにとって、フィクションは自分の奉じる正義を表現するためのひとつの手段であるに過ぎないのかもしれません。
     これが、つまりぼくが栗本薫の作品を好きな理由であり、山本弘の作品を好んで読みながらも、ときにうんざりしてしまう理由でもあります。
     山本さんには「正義が正義である世界」という短編もあるのですが、この世界を「正義が通用しない、理不尽で狂ったところ」とみなすまでは、栗本薫も山本弘も同じだと思うのです。
     ただ、栗本さんがこの残酷な世界、狂った世界をそれでもあくまでも肯定していこうとするのに対し、山本さんは「そんなことは間違えている!」と否定する。そして、それが正しい立場だと信じている。そこに差がありますね。
     この点、皆さまはどのようにお考えでしょうか? 『栗本薫カレイドスコープ』、よろしくお願いします。 
  • 夏コミで『栗本薫ハンドブック』を出す(つもりで頑張る予定だ)よ!

    2019-06-16 23:27  
    50pt
     先ほど、夏コミで何か気楽な薄い本を出したいなー、でもエッチなマンガとか描ける才能はないしどうしよう、ということでLINEに巣くっている妖怪のてれびんに話しかけてみたところ、「栗本薫のハンドブックとか作ったらいいんじゃね?」といわれたので、「それは奥の手じゃろ」と思いつつ、ちょっと作ってみることにしようかと思いました。
     もちろん、ほんとの本気で究極の一冊を作ろうと思うと、たぶんとてもではないが夏コミには間に合わないと思うので、まあ、今回は「初心者向けの入門編」という位置づけの本を制作しようかと。
     つまり、栗本作品を一冊も読んでいないけれど興味はある、というような方に向けた内容です。ネタバレありきの分厚い批評本はいずれペトロニウスさんといっしょに作ったりするんじゃないでしょうか。たぶんね。
     まあ、そういうわけで、仮題『栗本薫ハンドブック(入門編)』を夏コミで売りたいなあと考えています。
  • 『栗本薫と中島梓 世界最長の物語を書いた人』を読んでいるなう。

    2019-05-27 11:24  
    50pt
     まだ五月というのに、酷く暑くなって来ましたね。むき出しの肌に降りそそぐ陽ざしはすでに白刃の鋭さ、この後にやって来るはずの真夏のことがいまから思いやられます。
     さて、ぼくはいま、里中高志『栗本薫と中島梓 世界最長の物語を書いた人』という本を読んでいます。その題名がまさに示しているように、作家・栗本薫、批評家・中島梓として知られる人の人生を追いかけた一冊です。
     この不世出の作家がどのようにして生まれ、数かずの焔のような作品を書き、そうして非命に斃れたのか、その全貌について、ときに作品評を交えながら、生い立ちにまでさかのぼって綴られています。
     栗本薫没後十年を飾る出版といえるかもしれません。この作家のいち愛読者として、いま読んでおかなければならない本だと感じて購入しました。
     栗本薫という人は、一時代を画した流行作家であったわけですが、その波乱の(といい切って良いであろう)人生が、いかに
  • 『エヴァ』にカタルシスがないと感じる人へ。

    2019-04-02 13:08  
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     『アオアシ』が!面白すぎる。この作家さん、『水の森』の頃から追いかけていたんだけれど、いやー、良いですね。実に素晴らしい。弱い自分自身を乗り越えて成長していく者たちの物語。王道のスポーツ漫画です。
     で、この「自分を乗り越える」という概念について最近、いろいろと考えています。まずは自分自身の弱さ、愚かさ、醜さ、小ささ、与えられた環境への恨み、他者への妬み、怒りや憎しみといった負の感情などを「乗り越える」ことを「成長」と呼ぶことにしましょう。
     「自分を乗り越えるための戦い」とその結果としての「人間的な成長」は物語の大きなテーマで、結果として「乗り越えられた者」をここでは「大人」と呼ぶことにしたいと思います。
     少なくとも現代においては、どうやって「大人」になるかということは物語のひとつの大きなテーマとして存在しているといって良いでしょう。
     たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』は「乗り越
  • 栗本薫、至純のダークファンタジー『トワイライト・サーガ』を紹介するよ。

    2018-12-19 10:33  
    50pt
     どもです。
     ここ三日ほど、小説やビデオゲームに材を取って、少々、趣味に走った話を展開してきたわけですが、ひっきょう、ぼくは自由かつ奔放な想像力を十分に駆使し、究めて濃密な人工世界を築きあげてのけたような作品が好きなのだと思います。
     ダークファンタジーとかサイバーパンクが好きだというのは、そのジャンルそのものが好きだというより、そこにそういう作品を数多く発見できるというだけのことでしょう。
     そういう趣味をどこで身につけたのかといえば、やはり栗本薫の作品になるんですけれどね。
     さて、そういうわけで、きょうは栗本薫の『トワイライト・サーガ』という小説を紹介しようと思います。以前にも名前を挙げたことがあるかもしれませんが、たぶん、正式に紹介するのは初めてじゃないかな。
     というか、いちど書いた作品でも再び紹介する意味は十分にあるんですよね。これは五年まえに扱ったとか、十年まえに語ったとか
  • たとえだれからも愛されなくても。

    2018-01-16 15:34  
    50pt
     栗本薫『翼あるもの』は、まだボーイズ・ラブとかJUNEといわれるジャンルが存在しなかった頃に書かれた作品です。 この作品は上下巻で同じ出来事を別の視点から描くという凝った構成になっているのですが、ぼくが取り上げたいのは主に下巻で描かれている森田透の物語です。 透は、上巻の主人公である今西良の、いわばシャドウとして生きてきた若者です。良と同じグループで芸能人としてデビューしたものの、良の影であることに甘んじることができずに脱退、その後は転落の人生を送っていきます。
     しかし、そうなってなお、透は良のことを忘れることができません。いつもスポットライトのなかにいる良、光のサークルのなかで常に輝き、だれからも愛され、栄光と讃嘆をほしいままにする良を、だれよりも愛しているのは他ならぬかれだったのかもしれません。
     そして、そんなかれを保護しようとするひとりの男が現われます。オオカミのような不器用で大きな男、巽竜二。巽は限りなく破滅的で自暴自棄な透に惚れ込み、かれがいまやトップスターになった良に対するあこがれと恨みを忘れられずにいることを嘆きます。
     かれは透に愛しているといい、くり返しかれを慰め、透もやがてかれを愛するようになっていきますが、それでも透は良に対する想いを消せません。
     その結果、巽は、そんなに良に執着するなら自分が良のことをめちゃくちゃにしてやるといって、良に近づいていきます。透は、良に近づけばあなたも良のことを愛するようになってしまうと危惧しますが、巽はそんなことはありえないと笑います。
     ところが、何と、結局は透のいう通りになってしまうのです。巽は良を愛するようになり、そして、それによって、かれが透に向けていた感情は、本物の愛でもなんでもなく、単なる傷ついた子供に対する同情、ほのかな憐憫に過ぎなかったことがあきらかになります。
     巽は透にどんなに怒ってもいい、ののしってくれ、殴ってくれといいますが、透はわかっていたことだと薄く笑うだけ。
     『翼あるもの』の下巻「殺意」は、こういう、限りなく整った白皙の美貌に生まれながら、どうしてもだれからも愛されない、本物の愛情を得られない運命を背負った森田透の物語です。
     しかし――さらにここから先があります。やがて、巽が危機に陥ったとき、透は、自分を愛してくれなかったかれのために自らを犠牲として投げ出すのです。なぜか? もちろん、愛しているから。決して自分を愛してはくれなかった巽を、それでもかれは愛していたからです。
     ぼくはね、ここを読むと毎度毎度、ほんとうに泣けるんですよ。もう、ボーイズ・ラブがどうとか、JUNEだから何だとか、そういう次元にある話じゃない。これは世にも美しい、愛と献身の物語です。
     ここから読み取れるメッセージとは何か? それは、人は、愛を求めて泣き叫ぶ子供であるうちは苦しみつづけなければならないけれど、いつだって愛する側に、大人の側に回ることができるということです。
     ぼくは栗本薫の実に全作品のテーマはこれだったと思っています。愛されたい、愛してほしいと嘆く子供であることを脱却して、愛をささげる大人になること。
     『グイン・サーガ』では、ヴァレリウスがアルド・ナリスに向かって、わたしはあなたを愛していますよ、何を怖がっているんですか、と語りかけますが、すべては同じテーマの変奏曲です。
     人は愛を、承認を、讃嘆を、栄光を、肯定を、モテを求めつづけているうちは幸せにはなれません。たとえひとたびそれを手に入れたと思っても、決して満足することはないからです。
     そういう人間はブラックホールのように他者の賞賛を求めつづける人生を送るしかありません。たとえば、『グイン・サーガ』のイシュトヴァーンがそうであるように。そういう人格は「泣き叫ぶ子供」のそれなのです。前回の記事で書いた不機嫌な子供と何ら変わりありません。
     直接的には、かれのそういう人格ができあがった責任は、たとえば両親にあるかもしれません。しかし、それはしかたないことです。受け容れなければならない現実です。どんなに嘆いても、もがいても、愛は決して降っては来ないのです。
     あるいは、仮に愛されたとしても、自分の側に準備が整っていなければ、それを受け入れることはできません。そして、もっと、もっととさらなる愛を望みつづけることになります。愛情飢餓とはそういうものです。
     一見すると、「モテ」のように見える人が限りなく「非モテ」的な行動、言動を取りつづけることがあることはここに理由があります。非モテはモテてもそれだけは幸せにはなれないんですよ。心が非モテだからです。魂が飢えているからです。
     だれかに承認されればいっときは幸せになれるかもしれない。でも、それは本質的な解決になりません。泣き叫ぶ子供でいるうちは人はほんとうに幸せになれないのです。それが、この世の真実です。 
  • 親に愛されなかった子供はどうすればいいのか?

    2018-01-16 14:37  
    50pt
     ラジオで山口じゅり陛下に教えられた「甥っ子が承認欲求のおばけになっていく」という記事を読んでみました。
    http://d.hatena.ne.jp/Yashio/20180106/1515256382
     ひとことでいうと、自分の甥っ子が承認欲求を満たせないためにわがままな怪物のようになっていくのを見ることが心苦しい、というような内容です。
     で、陛下もいっていたけれど、正確な事情がわからないのでたしかなことはいえないものの、これ、たぶん親のフォローが足りないんですね。愛情不足だと思うんですよ。
     文章の端々から伺える事情を見ると、両親が離婚していたり、上に聞き分けのいい兄がいたりすることが関係しているのだろうけれど、まあはっきりとはわかりません。
     でも、この「症状」は、まず自己肯定感の欠如から来ていることはわかります。
     自己肯定感とは、「自分はこのままでいい」、「勉強ができなくても、
  • C・A・スミスからG・R・R・マーティンまで。ダークファンタジーの黒い血脈。

    2017-12-12 07:00  
    50pt
     いまさらながら『ダークソウル3』が面白いです。やたら複雑な操作があるダークファンタジーアクションゲーム。暗鬱で陰惨な世界設定にダークファンタジー好きの血が騒ぎますね。
     ダークファンタジーというジャンルは昔からあって、たとえばクラーク・アシュトン・スミスという作家がいます。
     栗本薫の『グイン・サーガ』などにも影響を与えたといわれる伝説的な作家で、クトゥルー神話ものなども書いているのですが、その作品は暗く重々しく、現代のダークファンタジーに近いものがあります。
     100年ほど前のパルプ雑誌でその名を響かせた作家であるにもかかわらず、なぜか現代日本で再評価され、何冊か新刊が出ているようです。悠久の過去とも久遠の未来とも知れぬ世界を舞台に、闇黒と渇望の物語が展開します。く、暗い。でも好き。
     栗本さんの作品でいうと、このスミスの影響が直接ににじみ出ているのは『グイン・サーガ』よりむしろ『トワイライト・サーガ』のほうかもしれません。
     『グイン・サーガ』の数百年、あるいは数千年後、世界そのものがたそがれに落ちていこうとしている時代を舞台にしたダークファンタジーの傑作です。
     全2巻しかないのだけれど、その妖しくも頽廃したエロティックな世界の美しいこと。主人公の美少年ゼフィール王子と傭兵ヴァン・カルスの関係は、のちにJUNEものへと発展していくものですね。
     あとはやはり、マイケル・ムアコックが書いた〈白子のエルリック〉もの。いまの日本では『永遠の戦士エルリック』として知られる作品群は素晴らしいです。
     この物語の主人公であるエルリックは、一万年の時を閲するメルニボネ帝国の皇子として生まれながら、生まれつき体が弱い白子の身で、斬った相手の魂を吸う魔剣ストームブリンガーなしでは生きていけません。
     しかし、この意思をもつ魔剣は、時に主を裏切り、かれが最も愛する者たちをも手にかけていくのです――。この絶望的パラドックスと、〈法〉と〈混沌〉の神々の対立と対決という壮大な世界が、何とも素晴らしい。
     一時期、映画化の話があったようですが、さすがに実現しなかったようですね。まあ、ひとことにファンタジーとはいっても『指輪物語』よりはるかにマニアックな作品ですからね。
     ちなみにムアコックは『グローリアーナ』というファンタジーも書いています。これはマーヴィン・ビークの『ゴーメンガースト三部作』に強い影響を受けたと思しい作品で、とにかく凝った文体と世界を楽しむものですね。
     エンターテインメントとして読むならエルリックとかエレコーゼのほうがはるかに面白いでしょうが、この作品には文学の趣きがあります。そういうものが好きな人は高く評価するでしょう。
     ただ、かなり読むのに骨が折れる作品には違いないので、気軽に手を出すことはできそうにない感じ。よくこんなの翻訳したよなあ。
     あと、最近日本では、アンドレイ・サプコフスキの『ウィッチャー』シリーズも翻訳されています。ぼくはいまのところ未読ですが、売れないと続編が出ないそうなので、先の展開が心配です。
     早川書房は時々こういうことがあるんだよなあ。ぼくはマカヴォイの『ナズュレットの書』の続きを楽しみに待っていたんだけれど、ついに出なかった……。
     この手のヒロイック・ファンタジーものとは系列が違いますが、ダークファンタジーを語るなら天才作家タニス・リーの偉業は外せません。
     彼女の作品は数多く、すべてが日本に紹介されているわけではありませんが、訳出されたものを読むだけでもその恐るべき才幹は知れます。その代表作は何といっても『闇の公子』に始まる平たい地球のシリーズでしょう。
     「地球がいまだ平らかなりし頃」を舞台に、数人の闇の君たちの悪戯や闘争を描いた作品で、アラビアンナイトの雰囲気があります。耽美、耽美。すべてが徹底的に美しく、あるいは醜く、半端なものは何ひとつありません。
     主人公である闇の公子アズュラーンは邪悪そのもので、人間たちの意思をからかって遊びます。しかし、この世界に神はおらず、いや正確にはいるのですが人間たちに関心を持っておらず、かれの悪戯を止める者はだれもいないのです。
     まあ、こういう作品たちがダークファンタジーの世界を切り拓いてきてくれたからこそ、ぼくはいま『ダークソウル3』を遊ぶことができるわけですね。
     はっきりいってめちゃくちゃ好みの世界だけれど、クリアまで行けるかなあ。ちょっと無理そうな気がする。いまの時点で操作の複雑さ、多彩さにココロが折れそうだもの。
     それから、もちろん、現代におけるダークファンタジーの巨峰として、以前にも何度か触れたことがあるジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌(ゲーム・オブ・スローンズ)』があるのですが、これはスケールが壮大すぎてダークファンタジーの枠内にも入りきらないかもしれません。
     世界的に大人気の作品ですので、未読の方はぜひどうぞ。 
  • 短編小説のラビリンスに迷い込んでみませんか。

    2017-11-26 07:00  
    50pt
     きょうは山本周五郎の記事が更新されているはずなので(予約更新なのです)、それに合わせて短編の話でもしたいと思います。
     その記事で書いた通り、山本周五郎は短編の達人でした。で、日本でも海外でも、文学者として名を成した人はそのほとんどが名作短編を書いています。
     SFやミステリといったエンターテインメント小説の世界でも短編は非常に重要です。短編は、単に「短い長編」ではありません。短いなかにぎゅっと内容を凝縮するためにはそれなりの計算と技巧を要求されるわけで、長編以上に精密なテクニックの見せ場なのです。
     そもそも、小説では(漫画でも)、構成の基本となるものは短編です。優れた短編を書く能力は作家の構成力の基本となるものだといっていいでしょう。
     20世紀最高の短編作家といわれたボルヘスの作品などを見てもわかる通り、短編が描ける世界は決して小さくはありません。必ずしも壮大な世界を描き出すために