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記事 2件
  • 「どこか遠くへ行きたいな」。海外移住という見果てぬ夢。

    2015-05-07 21:55  
    51pt

     「どこか遠くへ行きたいな」。
     大林宣彦監督の名画『ふたり』のなかで、主人公の姉は口癖のようにそう呟く。
     いま在るここではないどこか遠いところへ行ってしまいたいという想いは、非常に普遍的で、共感を呼ぶものだろう。
     ぼくも時々、「いま・ここ」を離れて遥か遠くへ旅立ってしまいたくなる。
     しかし、その想いを実行に移す勇気もないので、たとえばこんな本を読むのである。
     『ロングステイ入門ガイド』。
     世界各地で「ロングステイ」する方法について書かれた一種の入門書だ。
     アジア、ヨーロッパ、北米、オセアニアなど、さまざまな場所でのオススメ都市が書かれている。
     こういう本を読むと、「どこか遠くへ行きたい」という熱はいっそう高まる。
     いつかはほんとうに旅立つかもしれないが、その前に「言葉を覚えて、貯金を貯めて」などと瑣末なことに意識が行ってしまうあたりが凡人のつまらないところだ。
     日常の重力を振りきる第二宇宙速度に達するためには、いかにも覚悟が足りない。
     とはいえ、ぼくも一応、ノマドワーカーの端くれの土くれくらいのポジションにいる人間なので、その気になれば世界中どこに住んでも問題がないはずである。
     だから、こうしてガイドブックを読みながら、「いつかは――」と夢見たりするのだ。
     まとまった額のお金が貯まり、片言でいいから英語を話せるようになったら、その時は日常の重力圏から別世界へと旅立とう、と。
     いくら狭くなったといわれていても、じっさい旅しようと思えば、世界はあまりにも広い。数しれない選択肢が存在する。
     また、お金が続くかぎり移動しつづけることもできるし、どこか一箇所に長期滞在することも自由だ。
     自由――そう、ひとが「いま・ここ」から遠くへ行きたがるのは、その旅路自体が自由を象徴しているからなのだろう。
     どこか遠い場所には、さまざまな桎梏と軋轢に満ちた日常生活からかけ離れた自由が存在しているように考えるに違いない。
     たとえそれが幻想に過ぎないとしても、やはりひとは「どこかにあるかもしれない」楽園を夢見てやまないものなのだ。
     不世出のファンタジー作家としてしられるロード・ダンセイニに「ロンドンの話」と題する短編がある。 
  • 書き出しが良いとそれだけで傑作に思える症候群。

    2015-04-15 01:27  
    51pt
     ども。
     なんかめちゃくちゃ長い記事を書いてしまったので、すぐには内容のある記事を書く気になれません。
     あの長さの記事をだれが読むのかという気がしますが、何人かには読んでいただけたようで幸いです。
     我ながらひきこもりの身の上でよくこれだけ書けるものだと思いますにょろ。だれも褒めてくれないから自分で褒めておこう。
     まあとにかくやる気が湧き出てこないので、ひとつコピペだけで安直な記事でも作ろうかと思います。
     ちょうどTwitterで「印象にのこる小説の書き出し」に関するツイートが流れてきたので、これに便乗することにしましょう。
     ぼくが、個人的に印象に残っている小説の書き出しです。
     まずは、そう、

     九歳で、夏だった。

     乙一ですね。
     「夏と花火と私の死体」。

     極限まで簡潔な――というかほとんど極限を超えて文法的におかしいのではないか、と思われる一文が印象的です。
     16歳でこれが書けてしまうということは、やはりただ者ではない。天才の片鱗は既にここに表れています。
     続いては、

     申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。

     太宰治の「駈込み訴え」。

     この疾走的なリズム感。こういう小説を書かせると太宰は日本文学最強の書き手ですね。「生かして置けねえ」と崩れるところの迫力が凄い。
     ちなみにこの小説は青空文庫で読めます。かなり泣かせる傑作短編なので、オススメ。
     香気馥郁たる美文、ということでは、やはり連城三紀彦の文章が印象深いものがあります。
     特にこれ、と挙げるのなら「花緋文字」でしょうか。「花葬」シリーズのなかでも凶悪ともいうべき一作ですが、その冒頭の美しいこと。

     石畳に水でも打ったように滲む茶屋の灯を小波だたせ、一陣の秋風が吹きぬけるなか、三津が、私の呼び停めた声につと高下駄の音をとめてふり返り、
    「――兄さん」
     思わずそう呟いたものの、まだ誰か思い出せぬように、首を傾げて立ち竦んでいたのを、今でもはっきりと憶えております。


     また、個人的に気に入っているところでは、石田衣良『波のうえの魔術師』があります。
     石田衣良の全作品のなかでも、この作品の書き出しはスペシャルに格好いいと思う。凡手が真似できない匠の切れ味。

     灰色のデジタルの波が、水平線の彼方から無限に押し寄せてくる浜辺。夜明けの青い光りのなか、馬鹿みたいに砂遊びをしているおれが目をあげると、遥か沖合いにダークスーツの小柄な老人が見える。つま先を波頭に洗われながら、魔術師は灰色の波のうえに立っている。足元で砕け散る波は、細かな数字の飛沫を巻きあげ、老人の全身に浴びせかける。だが、魔術師は濡れもせず、波のうねりに揺れもしないで、視界を圧して広がる海原のただなかにまっすぐ立っている。
     波のうえの魔術師だ。

     秀抜な文章もさることながらイメージそのものが美しい。
     「灰色のデジタルの波」、「細かな数字の飛沫」、そして「波のうえの魔術師」。
     こういう繊細なイメージを味わえるのが小説の醍醐味ですね。
     石田衣良は格好つけるとほんとうに格好いい。天才的です。
     さて、ここらへんで有名どころをひとつ押さえておきましょう。ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』。

     港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった。
    「別に用(や)ってるわけじゃないんだけど--」
     と誰かが言うのを聞きながら、ケイスは人込みを押し分けて《チャット》のドアにはいりこんだ。
    「――おれの体がドラッグ大欠乏症になったみたいなんだ」
     《スプロール》調の声、《スプロール》調の冗談だ。《茶壺(チャツボ)》は、筋金入り(プロ)国外居住者用のバーで、だからここで一週間飲みつづけても、日本語はふた言と耳にしない。


     うん、一読して「は?」となった人もいるかもしれませんが、「空きチャンネルに合わせたTVの色」とは、つまり曇り空の灰色のことです。
     この小説の冒頭の舞台ははるか未来の「千葉市(チバ・シティ)」なのだけれど、いったいどこの千葉なのだろう……。
     個人的にあらゆる書き出しのなかでもベストに近いと思っているのが、