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恋愛弱者は死なず、ただ消え去るのみ。
2016-05-07 17:3151pt
その昔、孫子さんはいいました。「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」と。
「敵のことと自分のことがよくわかっていればいくら戦っても負け知らずになれるかもよ?」という意味だと思います。
異性愛者の場合、恋愛における男性にとっての「彼」とは女性。
じっさいのところ、女性たちは恋愛についてどう考えているのか? そこを知りたくて、アルテイシアさんの『オクテ女子のための恋愛基礎講座』を読んでみました。
結論から書くと、とても面白かったです。
この本が恋愛指南本として画期的なのは、恋愛のいろはについてくわしくない恋愛初心者、「オクテ女子」にターゲットを絞り、不特定多数の異性に好かれる「モテ」よりも特定の異性と建設的な関係を築く「マッチング」を重視していること。
色々あって「モテ」の不毛さに絶望したらしい著者は、幸せになるためには「モテ」より「マッチング」が重要だと力説します。
そのために必要なのは、受け身になって王子さまが訪れるのを待つのではなく、「みずから選ぶ」という姿勢。
結婚さえできればいいなら、男受けのみを追求して、男の望む理想像を演じればそれで済む。
しかし、結婚したあとも人生は続く。死ぬまでガラスの仮面を被って別人を演じ切るつもりでないかぎり、率直に自分自身を出してみずから伴侶を選んでいったほうがいい。
また、「どういう男を選ぶべきか?」を突き詰めると「自分にとっての幸せは何か?」に突きあたる、と著者は語ります。
そして、それでは、あなたにとっての幸せは? あなたがほんとうに欲しいものは何? 何を捨てられて何を捨てられない? その優先順位は? と、矢継ぎ早に問いかける。
この問いに答えられるようになることが、まずは「自分にとっての幸せ」を自覚するということらしい。
自分にとっての結婚の条件をあいまいにしないということ。すべてをきちんと言語化して、認識しておくということ。それが大切だという話のようです。
まったくその通りだなあ、とぼくも思います。
その後も色々と的確な(適格だと思われる)アドバイスが続くのですが、どれも非常に面白いです。
いや、女性の側も悩みやら劣等感を抱えて必死になっていたりするんだなあというあたりまえのことがわかります。
いや、読んでよかった。読んでよかったのですが―― -
異性と付き合いたいオクテ男子がまずやるべきこととは?
2016-05-06 12:4551pt
『ゼロから始めるオクテ男子愛され講座』。アルテイシアさんのブロマガをまとめ、加筆修正した本です。
しばらく前に購入して既に読みあげているのですが、山田ズーニーさんの本を読んだことでなんとなく思い出して、読み返してみました。
ひと、この場合は異性と、どう向き合い、どう親しくなり、どう自分の意思を伝えるか。共通点のある内容だと思ったのですね。
ひとりのコミュ障男子として、ぼくはコミュニケーションに深い興味があります。
どうすれば人と穏やかな会話ができるのか? 自分の意見を正しく伝えることができるのか? あるいは、人から好意をもってもらうにはどうすればいいか?
いまでもわからないけれど、昔はほんとうにわからなかった。
十数年前のぼくはほんとうに「空気が読めない奴」だったと思います。
あの頃から付き合っている人が何人かいますが、どう思われていたのやら。まあ、自分ではその頃とはだいぶ変わったつもりでいます。
ただ、男性とばかり付き合っているから、女性とやり取りするための方法論はまったくわからない。
何しろ、関心領域も違っていれば、人生経験も違う人たちですから、どういうふうに話したらいいのかわからない。
向き合っているだけで緊張するし、挙句の果てにはパニックに陥る。「あわあわあわ」とか思っているうちに時間が過ぎ、あとで深く落ち込むことになってしまったりする。
いや、まったく我ながら救いがたい話です。ウソみたいだろ。37歳なんだぜ。これで。
まあ、何歳になっても学習しない人はしないものです。
しかし! いくらぼくだってもう少し異性と親しく話ができるようになりたい! 恋人やパートナーはともかく、異性と緊張しないで話ができるようにはなりたい! なりたいったらなりたいのだ!
そんなことが可能なのでしょうか? 十分に可能である、とこの本は主張しているように思います。そのためにはこうすればいい、ということも書かれています。
具体的には、まず、「GAPと美容院へ行け!」というところからスタートします。
GAPはわりとお安くお洋服が買えるファッションブランドです。ぼくもたまに利用します。
まあ、つまり、小ぎれいにしろ、ということですね。まったく正しいアドバイスだと思います。
山田ズーニー的にいうと、これは「メディア力」を高めるための方法論だと考えられます。
いくらいいことをいっていても、メディア力が低ければ相手に伝わらない。あるいは歪んで伝わってしまう。まずはメディア力を高めることなのです。
そのための方法論が『あなたの話はなぜ「通じない」のか』には色々記されていますが、それ以前に身ぎれいにしておくことが大切ということ。
よく「美容院に着ていく服がない」という人がいますが、そういう人はまずGAPに行って服を買えばいいわけです。
とにかくまずは恰好から入る、これが大切ですね。べつにオサレの達人になる必要はない。ただ、清潔感のある恰好をしていればいいだけのこと。
非モテ界隈ではよく「オレはキモメンだから女子に冷たくされてきてうんぬん」とか延々と恨み節を並べ立てている人がいますが、仮に女子に冷たくされたことが事実だとしても、その原因はべつのところにあると思われます。
そういう人はまずはGAPでもUNITED ARROWSでもメンズファッション+でもなんでもいいからお洋服を買うのだ! そしてきちんと洗濯しつづけるのだ! というのが、アルテイシアさんの主張だと思われます。正しいにゃー。
意外に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ぼく、最近になって、お洋服を買う快感に目覚めてしまいまして(笑)、 -
コミュニケーションのクオリティは「メディア力」で決まる!
2016-05-06 11:5151pt
山田ズーニー『あなたの話はなぜ「通じない」のか』読了。ひと言、素晴らしかった。
「山田ズーニー」という奇妙な筆名に偏見を抱いていたが(まさか本名じゃないだろう)、読んでみれば実に骨太で説得力に富む一冊だった。
いままでぼくが抱えていて、しかも抱えていることに気づいてすらいなかったいくつもの問題点に対する解答が明快に記されていた。
コミュニケーションというより、「ひとに自分の意見を伝えること」について悩んでいる人すべてに対する適切なアドバイスである。
これほどに実りのある本だとは思っていなかったのでさらさらと一読してしまったが、もういちどていねいに読み直さないと、と感じるくらい。
これほど多くの「発見の感動」があった本は、アドラー心理学について解説した『嫌われる勇気』以来だ。
本書は、初めから終わりまで実に無駄がない本である。どこにも埋め草めいた個所がなく、ぎゅうぎゅうに中身が詰まっている。
そのなかでも印象深いのは、本書がただ「主張の内容が論理的であればいい」とはしていないところだ。
本書によれば、いくらロジカルな主張であっても通じないことがある。
相手に嫌われていたり、そうでなくても不信感を抱かれている場合だ。
人間をひとつのメディアだと考えると、「メディア力」が下がっているのである。
新聞のようなメディアに喩えるとわかりやすい。たとえば同じニュースを伝えるにしても東スポと朝日新聞ではメディアとしての性質が違う。
どちらが優れているという単純な話ではなく、両者は別ものなのだ。
それは人間でも同じことだということ。
このメディアとしての性質、徳望、信頼感などのことを、著者は「メディア力」と呼んでいるわけだ。
この本が優れているのは、その「メディア力」を築く方法について紙幅が割かれていることだ。
この本によれば、メディア力を上げることこそが話を通じさせるためのいちばんの基礎である。
この本では、どうしたら自分という人間への信頼と共感を高めながら、相手にいいたいことを伝えればいいか、そのための技術が記されている。
そういう意味では、この本は「ディベートのように強い自己主張で相手を言い負かす論法とは決定的に違う」と著者はいう。
ただ主張を押し通せばそれでいいというものではないのだ。
主張は通したが、相手には嫌われてしまったでは、本末転倒である。
それでは、自分のメディア力を上げるために、多少のうそを吐くことは赦されるのか。自分のほんとうにいいたいことはいくらかごまかして、相手に合わせるべきなのだろうか。
そうではない、と著者は語っている。
表現は「何をいうか」より「どんな気持ちでいうか」が大切である。
根っこに愛情があれば、「バカ!」といっても温かい。逆に、根っこに軽蔑をためた人から発せられる言葉は「おりこうさん」といってもバカにしている。
その人の根っこのところにある想い、あるいは発言の動機、著者はそれを「根本思想」という。
根本思想は、短い発言でもごまかしようがなくにじみ出て、相手に伝わってしまう。
ふだん環境に関心がない人が、テクニックを駆使して環境保護を訴えても人の心に響かない。
そう、ただ技術だけ磨けばいいというものではないのだ。
逆にいえば、根本思想はそれだけ強いものだから、根本思想と言葉が一致したとき、非常に強く人の心を打つ。
あくまでも「自分の想いにうそを吐かない」ことが大切なのだ。
しかし、あくまでも自分の想いにこだわるなら、相手と衝突することは避けられないのではないだろうか?
そこで、技術である。
この本には、いかにして相手を不快にさせずに自分の想いを正確に伝えるのか、そのための技術と思想と論理がいっぱいに記されている。
著者は、通じ合えずに苦しむ人の志は高い、という。
もし相手を決めつけて切り捨ててしまっているなら、その苦しみもないはずだからだ。
志が高いからこそ、傷つき、また苦しむのだ。
それでは、ぼくたちはそんな苦しいコミュニケーションを通じて何を目指しているのだろう? コミュニケーションのゴールとはどこにあるのだろうか?
ただ阿諛追従を使ってでも相手の賛意を得れればそれでいいのか? そういう人もいるかもしれない。しかし、「志が高い」人間はそうではないはずだ。
著者はいう。「自分の想いで人と通じ合う、それが私のコミュニケーションのゴールだ」と。
単なるきれいごとに聞こえるだろうか。しかし、 -
面白いブログ記事を書くためにまずやるべきこととは?
2016-05-04 18:1251pt
山田ズーニー『あなたの話はなぜ「通じない」のか』を読んでいます。
なぜこの本を選んだのかといえば、前の記事でも書いた通り、コミュニケーションの技術を学びたかったからです。
Amazonで「コミュニケーション」でサーチするとこの本が最前列に出てきたのですね。
しかし、読んでみると、あにはからんや、単に対人コミュニケーションで役立つという次元を超えて、ブログの書き方にも参考になる点多数でした。
いや、めちゃくちゃ参考になりましたよ。
まあ、最も広い意味でのコミュニケーションについて書かれた本だから、あたりまえといえばあたりまえの結果なのですが、いかにこの本がコミュニケーションの本質を鋭く突いているかということだと思います。
それでは、この本のどこがどうブログの執筆に役立つと思うのか?
まあ、細かい文章の技術などについては書かれていませんし、役に立ちません。文章技術の本ではないのだから当然です。
そうではなく、文章の構成の仕方そのものについて非常に有益な情報が多かったと思うわけです。
ぼくはこのブログの記事を書くとき、何かしら「コンセプト」を設定しています。
あるいは「主張」といったほうが良いかもしれないけれど、まず初めに「この記事は何をいいたい記事なのか?」を考えるのですね。
それは最終的にタイトルに象徴されることになるわけだけれど(タイトルは最後に考えているのです)、たとえば前の記事だったら「ナンパとコミュニケーションスキルについて書こう」という程度のことは考えてから書き始める。
ここがあいまいだと、あまり面白い記事が仕上がらない。「ナンパとコミュニケーションスキルについて書こう」もけっこうあいまいだから、前の記事はそこまで面白くないと思います。
自分でそんなことをいってしまっていいのだろうかという気もしますけれど、まあ、いいでしょ。
さらにいうと、まったくコンセプトを考えないでいきなり書き始めている記事もあります。
以前はそういう記事が多かった。たとえば本の紹介なんかは、コンセプトがなくてもそこそこ書けてしまうのです。
あらすじを書いて、それに対する感想を書いて、あとひとつふたつ雑談を付け加えておけば、それで一応、文字数は埋まる。
でも、そういう記事は概して面白くない。まあ、なかにはそういう記事もあっていいのかもしれないけれど、ぼくとしては力が入っていない記事なのですね。
こういうふうに書くと、おそらく読者の皆さまも「ああ、あの記事はそれだな」と思いあたるものがあると思います。そして、おそらくそれはあたっています。
やっぱり力を抜いた記事は読むほうにしてもわかるものなんですよ。どうしたって内容が薄くなりますから。
だからぼくは「コンセプトがない記事はダメだ」と思っています。
ただ、それなら具体的にどうやってコンセプトを設定すればいいか? そして、どのようにしてそのコンセプトからロジカルに文章を展開すればいいか? それがいままで良くわかっていなかった。
ぼくはいままでそこを「ただなんとなく」やっていた。
ただなんとなくでできるのだからぼくもそこそこ偉いものだと思うけれど(増長)、やはり手なりで書いているから根本的に実力が足りなかったと思います(反省)。
そう、十数年間ネットに文章を書いてきて、読みやすい文章を書くための細々とした技術はだいぶ身についたと思うんだけれど、根っこになる構成力がいまひとつなのです。
うーん、致命的じゃね?
で、構成力とはつまり論理力なんですね。いかに明晰なロジックに基づいて書くかということが大切。
そのことはわかっていたんだけれど、それでは、どのようにすれば論理力を鍛えられるかということがわかっていなかった。
「こういうふうに書けばいい」と解説している本はいくらでもあるのだけれど、そういう本を読めば読むほど反発しちゃうので(笑)、身につかないのですよね。
しかし、この『あなたの話はなぜ「通じないのか」』を読んで、初めてわかりました。
文章のコンセプトとは「問い」のことで、そのロジカルな展開とは「いかにして問いに答えていくか」なのだと。
つまり、ある事実が初めにある。たとえば、前の記事だったら「ナンパ」という「テーマ」が存在している(より正確には、ナンパについて書かれた漫画があって、そこからナンパというテーマをひっぱりだしてきているわけですが、まあ、それはいいとしましょう)。
その「テーマ」に対し、なんらかの「問い」を設定するのが「コンセプト」なのですね。
前の記事でいえば、ぼくはなかば無意識的に「どうすればナンパができるくらいコミュニケーションがうまくなるのか?」という「問い」を設定していた。
それが即ちあの記事のほんとうの「コンセプト」であり、記事全体を端的に象徴するタイトルにもつながっているわけです。
言葉の正しい使い方として合っているかどうかはともかく、ぼくの理屈としてはそういうことになる。
ようするに、記事の「コンセプト」を発見するためには、目の前にある「テーマ」に対し、なんらかの「問い」を仕立てればいいということになる。
これは、ぼくにとっては非常に画期的な発見でした。
いいえ、
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