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  • 批評の言葉が足りない!

    2019-10-03 08:22  
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     てれびんが観に行くということで、いっしょに付いていって『銀河英雄伝説』の劇場版「星乱」の第一章を観て来ました。内容は、まあ、ようするにただの『銀英伝』です(笑)。良くも悪くも。
     テレビシリーズ全12話の続編なんですよね。ぼくはテレビシリーズは途中までしか観ていなかったのでいまさらながらあらためてびっくりしたんだけれど、テレビシリーズでは1クールかけて原作の第1巻が終わっていないんですね。
     第1巻のクライマックスであるアムリッツァ星域会戦にすら至っていない。劇場版で初めてアムリッツァが描写されるんですよ。
     これはまた、このご時世で悠長というか、非常に気の長い話で、この調子で行くといったいこの先はどうなるのかよくわからない。たぶん劇場版三部作のラストで第2巻のラストまで行くのかなと思いますが、それすらたしかではありません。
     こんなスピードではたして原作をすべて消化できるのか、それとも初めからそのつもりはなくて、途中で終わる予定なのか、微妙な感じですね。
     まあ、物語そのものはすでにマンガやアニメで何度となく語られているものをそのままなぞっているに過ぎないから、途中で終わるならそれはそれでまたまったくかまわない話であるとも思います。
     劇場で見ると戦闘シーンなどは映像的に非常に迫力があって、なおかつやはりものすごく情報量の多い完成されたシナリオなのだなということを再確認できるのですが、あえて悪く見るなら特に斬新さもない「いつもの『銀英伝』」でしかないともいうことができるので、影響的には好きな人が観に行くくらいに留まるでしょう。
     非常に出来は良いんですけれどね。もし原作を未読という人がいたらぜひ観てほしいのですが、でも、いまから新たに『銀英伝』の世界に飛び込むという人も少ないでしょうね。
     原作は戦後エンターテインメントの世界に屹立する超大傑作なので、ぜひ読んでほしいのですが。まあ、そうはいっても読まないよなあ。べつに時代の最先端にある作品でもありませんしね。
     とはいえ、やはり何といってもぼくの読書人生でも圧倒的に面白かった作品のひとつなので、オススメはするんですけれど。
     原作はいうまでもなく非常に高い評価を得ている作品ではありますが、ある意味では過小評価されているのではないかとすら思います。
     数百人もの人物が絡む大群像劇を全10巻できれいに完結させてのけたという意味で、実に日本のエンターテインメントの歴史のなかでもまったく類を見ない虚構の大伽藍であるといってさしつかえないでしょう。
     じっさい、この種の架空の設定で群像劇を描くタイプの小説でここまで容赦なく完璧に完結しているものって、ほかにはほとんど思いあたらないですね。同じ作者の『アルスラーン戦記』がこのあいだ完結したのがあるくらいです。
     『グイン・サーガ』も『十二国記』も未完だし、これほど人気のある、広げようと思えばいくらでも広げられる作品をわずか3年か4年ほどで完結させてその世界を閉じてしまったことはほんとうにすごい偉業としかいいようがありません。
     つまり、圧倒的に独創性のある仕事なんですよ。それにもかかわらず、過小評価されているというのは、この作品を批評的な観点から分析した文章をほとんど見たことがないからです。
     栗本薫の『グイン・サーガ』もそうなのだけれど、エンターテインメントとしての純度が高ければ高いほど、「ただのエンターテインメント」として処理されて終わってしまう傾向があると思うのですね。
     田中芳樹にしても栗本薫にしても、ものすごく優れた物語作家であって、特にその全盛期の作品の影響力は、はっきりいうならそこらへんの直木賞受賞作などよりはるかに大きいものがあるはずなのですが、批評家は取り上げない。
     というのは、これらの作品がまさに王道の「物語」であって、特定のジャンルに収まり切らないということが大きいのではないかと思います。
     『銀英伝』はSF、あるいはスペースオペラ、『グイン・サーガ』はヒロイック・ファンタジーといわれていますが、いずれもその企画に収まり切る作品ではありませんよね。
     あえていうなら群像劇というジャンルなのであって、戦後エンターテインメントのなかで仲間を探すなら宮崎駿の漫画版『風の谷のナウシカ』あたりになるのではないか、と思ったりします。
     いや、『ナウシカ』は批評家ウケするんですけれどね。『銀英伝』や『グイン・サーガ』は批評家ウケしないんだよなあ。
     ひとつには批評家はどうしても作品のテーマの同時代性を見るんですよね。だから、その結果として大きなものを取りこぼす危険がつねにある。
     たとえば、一時期、ライトノベル批評やエロゲ批評は非常にさかんでしたが、それらはそのジャンルのなかのごく一部の作品を集中的に語っていた印象があります。
     具体的には、『ブギーポップ』シリーズとか、西尾維新とか、葉鍵系とか、セカイ系の作品だとかね。どうしてもそういう「わかりやすく、語りやすい」作品ばかりを取り上げることになってしまうんですよ。
     その一方で、それらの作品よりさらに広く流通している、つまりはっきりいってしまえばずっと売れている『スレイヤーズ!』だとか、『魔術師オーフェン』あたりは看過されてしまう。エロゲでいえば『ランス』シリーズとかね。
     みんな読んではいるしやってはいるんだけれど、それらの作品を語る言葉が確立されていないのでスルーされてしまうんですね。それで、批評的な意味で語りやすい作品ばかりが高く評価されることになる。
     これはじつにいびつな構造だと思います。アニメの歴史を語るときも、やたら宮崎駿とか押井守とか、いまだと新海誠あたりがクローズアップされるでしょう。
     もちろんこれらの人たちが偉大な巨匠であることは論を俟たないのですが、ほかにも面白い作品は山のようにあるのに、そしてじっさいにヒットしているのに、あまりスポットライトがあたりません。
     いや、もちろん、そういうメジャーな作品こそが重要なんだと考えてそう発言する人たちは大勢います。でも、そういう人たちはそういう人たちで明確な「批評の言葉」を持っていないんですね。
     つまり、少なくとも現代日本では、エンターテインメントのエンターテインメント的な側面を批評的に語りつくす方法論が確立されていないということがいえるんじゃないか。
     ぼくが求めているのはそれこそ『銀英伝』のような「ただただ面白い」作品を、その面白さに対するリスペクトを持って「なぜ面白いのか」、「どう見たらより面白くなるのか」、分析した批評なのですが、なかなかそういうものは見ないですね。
     で、その結果、どういうことになるかというと、「この作品の良さはそこじゃないんだけれどな……」みたいな、何かがずれた批評ばかりが乱立する結果になる。
     これは良くないと思うんだけれど、あまり問題視されている気がしません。ただ、やっぱり問題は問題で、たとえば最近、Twitterで繰り広げられた『彼方のアストラ』をSFとして評価するべきかどうか、という議論も、そこら辺から来ているものであるように思います。
     これについてはまたあらためて書くべきですね。というわけで、この話、続きます。次回はその話です。 
  • 京都アニメーションの事件と、悪と狂気、そして人間の心に残された光について。

    2019-07-30 14:13  
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     どもです。本日、41歳になりました。ハッピーバースデー>オレ。てれびんからサーティワンアイスクリームのチケットをもらったので買ってこようと思います。
     野郎からしかバースデープレゼントをもらえないわが身の哀しみよ。奴の悪意が身に染みるぜ。でも、サーティワンのアイスクリームはおいしいけれど。
     まあ、それはどうでもいいので、ネットで見つけた興味深い記事の話をしましょう。批評家の宇野さんの記事と、アニメ監督の「ヤマカン」こと山本寛さんの記事です。
     まず、宇野さんは山本さんが新海誠監督の京アニスタッフの無事を祈るツイートに対し、「ちょっと黙ってて」と呟いて強い非難を受けたことに対し、こう述べています。

     山本監督は絶望していたのだと思う。起きてしまったあまりにも凄惨な現実に、そして、その現実を受け止めきれない人々が、かつての同僚を、先輩を、後輩を殺された相手にゲーム感覚で石を投げてくるもうひとつの現実に。彼は改めて直面してしまったのだと思う。京都アニメーションを襲った犯人の悪と、こうして自分に石を投げて楽しんでいる人々の悪とが、確実に地続きであるということを。あの涙は、たぶんそういうことなのだと思う。
    https://note.mu/wakusei2nduno/n/n617c6cdb8ea0

     「ゲーム感覚」。非常に違和を感じさせもする言葉遣いですが、とりあえずそれは措いておいてヤマカンさんの記事を見てみましょう。
     かれは、犯人の「狂気」は京アニが「「狂気」を自ら招き入れ、無批判に商売の道具にした」その「代償」だといいます。

    片や僕は12年間、その「代償」を少しずつ、いや少しどころではないが、断続的に払い続けてきた。
    本当に毎日のように「狂気」が襲いかかり、炎上は何百回したか解らない。
    「どうしてヤマカンは俺たちの言うことが聞けないんだ!俺たちのために奴隷のように働かないんだ!」という、支配欲の塊となった人間たちからの強要・脅迫。
    その声が高まるにつれ、友には見放され、代わりに周囲に集まってきた人間たちは僕を都合良く神輿に乗せては、崖から放り捨てた。
    僕は体調を崩し、遂に心身共に限界を感じ、廃業宣言に至った。
    その一方で、僕が12年間、何度も悔し涙を流しながら払い続けた「代償」を、京アニは今、いっぺんに払うこととなった。
    いっぺんにしてもあまりに多すぎないか?僕は奥歯をギリギリ噛みしめながら、そう思う。
    しかし、彼らにも遂に「年貢の納め時」が、来たのだ。https://gamp.ameblo.jp/kanku0901/entry-12497416248.html

     はっきりいってしまえば、言語道断の意見です。ヤマカンさんのいう「狂気」という言葉には、中身がない。京アニがそれを「自ら招き入れ、無批判に商売の道具にした」とすることにも根拠がない。
     このような凄惨きわまりない事件に際してなお、私怨にもとづいてかれのいう「オタク」を攻撃しようとするかとも見える態度は、醜悪とも、卑劣とも思えます。じっさい、ネットでは口をきわめて非難されている。
     しかし、その表現から受ける酷薄な印象をぬぐいさって見てみれば、ヤマカンさんの発言は宇野さんのそれと内容は同じです。
     つまり、「悪」と「狂気」と使っている言葉こそ違いますが、インターネットで自分たちに「石を投げる」人の「悪」や「狂気」と、京アニ事件の犯人の「悪」や「狂気」は連続したものである、と語っているわけです。
     これをどう受け止めるべきか。非常に迷うところですが、ここでいきなり、きょう見てきた映画の話をしたいと思います。新海監督の『天気の子』(傑作)や山崎貴監督の『アルキメデスの大戦』(大傑作)ではなく、ディズニーの『アラジン』。
     てれびんのろくでなしが見に行ってぼくに延々とネタバレ感想を話したから見に行こうという気になったのですが、これは意外な収穫でした。ぼくはオリジナルのアニメ版はべつに好きでも何でもないのだけれど、この実写版は素晴らしい。
     シナリオの基本線はそのままながら、人物造形が深みを増していて、非常に魅せます。
     物語の軸となっているのは、主人公アラジンと悪役ジャファーの対立です。アラジンはアラビアのある架空の国の孤児で泥棒の青年ですが、ジャファーもまたかつては泥棒であった身の上であり、ふたりは自分の凄さを知らしめたいという共通の野心を抱いています。
     そのため、ジャファーはどんどんダークサイドに堕ちていくのですが、魔法のランプを手に入れたアラジンもまた終盤でランプの精ジニーを自由にするという約束を破ろうとし、欲望のダークサイドに堕ちかけます。
     しかし、最終的にはアラジンは救われ、ジャファーはそのまま破滅することになります。ふたりの違いは何か? どこに差があったのか? 色々と挙げることはできるでしょうが、結局、それはアラジン自身、ジャファー自身が自分で選んだことなんですよね。
     ぼくはこの映画を見ていて、宇野さんはヤマカンさんのいうことをつくづく思いだしました。「悪」や「狂気」は連続したものであるという主張は、よくよく考えてみると、たしかにそのとおりであるとも思えるのです。
     しかし、それは宇野さんやヤマカンさんを非難する人々と京アニ事件の犯人の間でだけ連続しているのではなく、宇野さんやヤマカンさンを含むすべての人のなかにひそんでいるものだと思います。
     「悪」と「狂気」、少なくともその種子は、だれのなかにも、つまりアラジンとジャファーのなかにも、宇野さんとヤマカンさんのなかにも、かれらを非難する人のなかにも、そしてこのように語っているぼくのなかにも眠っている。
     あとはそれが芽吹くかどうかの違いでしかない。そして、それを芽吹かせるか抑え込むかを決めるのは自分。『アラジン』という映画はそういうことをいっているのではないかと。
     宇野さんはまだしも、ヤマカンさんの論理は論外です。自ら怒りや憎しみを集めに行っているとしか思われない。なぜ、自ら望んでこのような行動を取るのか、ぼくにはどうしても納得がいきませんでした。
     でも、かれは自分が引き寄せた「怒り」や「憎しみ」に対し同じ怒りや憎しみを返していくことであそこまでになってしまったのでしょう。
     自分は京アニ事件を予言した、自分は「狂気」と戦っていると主張して注目を集めようと画策するかとも見えるその姿は、まるで、かつての日の屈辱を晴らし、「自分は特別だ!」と思いこもうとするジャファーのよう。
     うん、やはりヤマカンさん自身もまた、自ら「狂気」というその心性と無縁ではないように思えます。かれは自分でその道を選んだ。
     ほんとうはだれでも、自分自身で愛と信頼に充ちた光の側へ行くか、怒りと憎しみに支配されて闇の側に堕ちるか、選ぶことができるのです。まさにアラジンとジャファーがそうしたように。
     もちろん、『アラジン』はただの映画であり、おとぎ話です。現実には、どんなに人を愛し、誠実に行動したとしても、だれもが地位を手に入れたり、プリンセスに選ばれるわけではない。
     それどころか、まさに京アニの無残な事件が表しているように、すべてが「悪」と「狂気」に蹂躙されることすらありえる。しかし、その「悪」と「狂気」に充ちたこの理不尽な世界のなかで、それでも、自分の意思だけは自分で決めることができるのですよね。
     ライトサイドを選ぶか、ダークサイドへ進むか、それを決定するのは自分以外にいないということ。愛すれば愛が、信じられば信頼が返ってくる。それに対し、怒りと憎しみに対してはやはり怒りと憎しみが押し寄せてくる。選ぶのは自分。
     宇野さんやヤマカンさんがいうことはたぶん一面では真実でしょう。でも、かれらは、特にヤマカンさんは自分の正義を信じるあまり、自らもまた「悪」や「狂気」を発芽させているようにも見える。
     ぼくはかれがなぜあえて怒りと憎しみしか返ってこないような行動を取るのか謎に思うけれど、その道を選んだのも結局はヤマカンさん自身なんですよね。
     ひっきょう、「おれはすごい! だれよりも特別なんだ!」と叫ぶほど人は孤立し、孤独に陥っていく。ジャファーのように。その反対に、何者でもない平凡な自分を認め、正直に世界と相対するとき、愛と信頼が返ってくる。アラジンのように。
     いや、それはウソだ。あるいは何ひとつ返って来ないかもしれない、それどころか愛に対しては面罵が、信頼に対しては裏切りがやって来るかもしれない。けれど、それでもなお、自分自身をライトサイドに留めるものは自分だ。
     古今東西、あらゆる物語で語られる光と闇の戦いって、つまりそういうことなんですよね。人間の内面の葛藤。そして選択。
     だれであれ、人は初めから「悪」と「狂気」に捕らわれているわけじゃない。生まれたときにはだれもが無垢なのだから。ただ怒りに対し怒りを、憎しみに対し憎しみを返しているうちにダークサイドに堕ちていくのでしょう。
     この世界で人間にはすべてが許されている。倫理だの法律だのといってみたところで、それはあくまで人間が作り出した人間のルール。神さまの法則というわけじゃない。神さまの作り出した理(ことわり)は人間にはどうにもならない。
     だから、巨大な暴力や悪意に対抗するすべはほとんどない。しかし、 「それでもなお」、ぼくたちは自分自身の行動だけは選択することができる。憎しみに対し愛で返すこともできるし、愛に対して憎しみで答えることもできる。そういうことをいっている映画だと思いました。素晴らしいですね。
     うむ。我ながらいいことを書いた気がする。41歳の海燕さんは違うな! お誕生日おめでとう! これからもよろしくお願いします。はい  
  • シンジくん問題を考える。あなたはほんとうに本物の大人になれましたか?

    2019-07-16 00:38  
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    エヴァ、ゼロ年代あたりはシンジくんといったらいわゆる「ヘタレ主人公」筆頭のように言われがちだったけど、人権意識の向上した今のオタク界隈では「ネルフがマジでクソ」「シンジくんかわいそう」で満場一致してる雰囲気がある
    https://mobile.twitter.com/batapys1/status/1149831007719190528

     と、こういうツイートがあるのですが、ぼくはぼくなりにずっと「シンジくん問題」を考えています。
     どういういい方がいちばん正しく伝わるかわからないのですが――えーとですね、つまり、ここでひどいといわれているネルフにしても、かつてはシンジくんのような子供だったと思うんですよね。
     仮に、ゲンドウのような親を持ったシンジくんがまともな大人になれなくてもしかたないと考えるとしたら、ミサトだってかつてはそうだったのだろうし、ゲンドウもそうだったかもしれない。
  • もしサノスの主張が「正義」なら、そのとき、アベンジャーズはどうしたのか?

    2019-06-14 15:57  
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     先日、見に行った映画『プロメア』のことを考えています。この映画、『天元突破グレンラガン』のスタッフによって制作されているのですが、ある意味、『グレンラガン』から「一歩も先に進んでいない」といえるところがあって、そこら辺が賛否両論を生んでいるようです。
     具体的にどういうことかというと、この作品の悪役(ヴィラン)であり、「ラスボス」であるところのクレイ・フォーサイトの主張(「悪の理論」)に対し、主人公たちの主張(「正義の理論」)が弱いのではないか、という話があるのですね。
     作中、クレイは滅亡に瀕した人類を救うためという理由で自分が選んだわずかな人たちとともに地球を脱出しようとするのですが、そのために新人類バーニッシュを犠牲にします。これは、ある意味でわかりやすい「悪」ではあるといえるでしょう。
     ですが、もしもクレイがほんとうに正義からこのやり方を選んでいたとしたら? そして、また、このクレイのやり方以外に人類を救う方法がないとしたら? そのとき、主人公たちはクレイを純粋な「悪」として告発することができるでしょうか?
     実際には、クレイには私心から行動しているという瑕疵があり、また人類が滅亡に瀕しているという問題には未発見の解決策がある。だから、クレイを「悪」として告発することには意味がある。
     しかし、もしクレイにそのようなエゴがなく、また、解決策が存在しなかったらどうでしょうか? そのとき、クレイを告発する理由は存在しなくなってしまうでしょう。これがつまり、『物語の物語』のなかでぼくたちが延々と話している「天使」の問題です。
     「天使」とはつまり、「倫理的に隙のない絶対善としてのラスボス」のことなのです。
     倫理的に隙のないラスボスを正義の名のもとに告発することはできません。クレイのように私心(エゴイズム)から行動していたり、あるいは人類と世界を救う方法が他になる場合は、ある意味で主人公にとって都合が良いといえるでしょう。
     そのときは彼の「悪の理論」を高らかに論破し、「おまえのいうことは間違えている!」と叫んで殴り飛ばしてしまえばいい。それで主人公は正義のヒーローとしての立場を守ることができます。
     問題なのは、ラスボスが語る悪の行動を正当化する理論がほんとうに正当だった場合です。たとえば、ほんとうにバーニッシュを利用すること以外に人類を救う方法がないとしたら? そのとき、ヒーローは倫理的な窮地に追い込まれることになるでしょう。
     いくら「おまえは間違えている!」と叫んでみても、説得力がないことはなはだしい。あるいは「正義」はほんとうに相手にあるかもしれないのですから。
     実は同じことが『アベンジャーズ/エンドゲーム』に対してもいえます。『エンドゲーム』のラスボスであるサノスは、宇宙の人口問題を解決するため、宇宙全体の人口を半分にしてしまうという目的を持って行動しています。
     その際にアベンジャーズと対立するわけですが、はたしてかれの行動はほんとうに間違えているといえるのでしょうか? 作中では、その問題はあいまいに処理されてしまった感があります。
     もちろん、作中ではサノスの主張の根拠はあいまいで、また、サノスはエゴを払拭しきれていない。そして、最後の最後では「わかりやすい悪役」に堕ちてしまう。
     つまり、サノスは「天使=倫理的に隙のないラスボス」ではなく「ヴィラン=倫理的に隙のあるラスボス」であるに過ぎなかったことになる。だからこそ、キャプテン・アメリカやアイアンマンの「正義」は相対的に保証されることにもなる。
     ですが、もしサノスに一切のエゴイズムがなく、またサノスの計画以外に問題を解決する方策がないとしたら? そのとき、やはり「天使」の問題が浮上することになってしまうでしょう。つまり、アベンジャーズはサノスに対する相対的な正義を主張することができなくなってしまうわけです。
     『エンドゲーム』は『プロメア』と同じく、サノスを「ヴィラン」の次元に留めることによって、この問題をごまかし、回避したように思えます。
     ですが、べつだん、それによってサノスの掲げた問題が解決したわけではありません。もしかしたら、サノスによって救われた人もいたかもしれないし、サノスのやり方のほうが正しかったかもしれないのです。ぼくはやはりそこに物足りなさを感じてしまう。
     ただ、『エンドゲーム』の圧倒的な好評を見る限り、そのような問題について真剣に考える人は少ないのかもしれません。そこにどのようなごまかしがあるとしても、大半の人は「天使」以前の物語、主観的な「正義」が主観的な「悪」を暴力で倒しておしまいという物語で満足なのかも。
     しかし、ほんとうにそうなのでしょうか? そういう意味では、これから先の『アベンジャーズ』と、ハリウッド映画の展開が楽しみです。はたしてハリウッドに「天使」は降臨するのか? 皆さんもお楽しみになさってください。
     では。 
  • 『けもフレ2』を叩いて喜ぶ人たちはサーバルちゃんから何を学んだのか?

    2019-04-04 10:47  
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     ども。きょうは『けものフレンズ2』の話です。このアニメ、ぼくはまだ見ていないのだけれど、ネットにただよう、あの「みんなで貶さないといけない」という空気がじつに気持ち悪いですね!
     べつに嫌いな作品を批判するのはいいけれど、だれもが否定的な意見でなければならないという雰囲気は嫌だよなー。人の価値観は多様であるわけで、こんな作品を許してはならないという「正義の怒り」を同調圧力で広めていくのはいかがなものなのかと。
     まあ、ぼくがひとりでその空気を感じているというだけなのかもしれないですが。でもなー、嬉々として作品を叩いている人たちを見ていると「ああはなりたくない」と思うことも事実。
     くり返しますが、批判してはいけないということではないですよ。でも、そもそもお金を払ってすらいない作品を口汚く罵る、ときには声優にまでバッシングが行くという事態は異常です。
     『欲望会議』ふうにいうならかれらはま
  • 『サイコパス』は脱「アベガー」的な二元論超克の物語に挑むのか?

    2019-04-03 22:51  
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     ども。先日、てれびんに無理強いされて映画『サイコパス』三部作を観てきたんですけれど、その関係でテレビ版の『サイコパス』を見始めました。
     ……うん、何をいっているのかわからないかもしれないけれど、そうなんだ、テレビシリーズを見ずに劇場版を見に行ったんだ。てれびんの野郎が「テレビは見ていなくてもだいたいわかるよ」といったものだから。
     いや、わからねえよ! 出て来る登場人物ひとりたりとも知らねえよ! そもそもシビュラシステムって何だよ! 理解の外だよ何もかも! と思いつつそれなりに理解できてしまうのが訓練されたオタクの哀しいさが。
     そういうわけで劇場版はかなり面白かったですね。テレビシリーズは当然ながらそれより前のエピソードになるのですが、こちらもなかなか面白い。
     映画のほうがコンパクトにまとまっているところはあるけれど、さすが続きが作られるだけはありますね。ヴィジュアル的にはあまり『
  • 『エヴァ』にカタルシスがないと感じる人へ。

    2019-04-02 13:08  
    51pt
     『アオアシ』が!面白すぎる。この作家さん、『水の森』の頃から追いかけていたんだけれど、いやー、良いですね。実に素晴らしい。弱い自分自身を乗り越えて成長していく者たちの物語。王道のスポーツ漫画です。
     で、この「自分を乗り越える」という概念について最近、いろいろと考えています。まずは自分自身の弱さ、愚かさ、醜さ、小ささ、与えられた環境への恨み、他者への妬み、怒りや憎しみといった負の感情などを「乗り越える」ことを「成長」と呼ぶことにしましょう。
     「自分を乗り越えるための戦い」とその結果としての「人間的な成長」は物語の大きなテーマで、結果として「乗り越えられた者」をここでは「大人」と呼ぶことにしたいと思います。
     少なくとも現代においては、どうやって「大人」になるかということは物語のひとつの大きなテーマとして存在しているといって良いでしょう。
     たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』は「乗り越
  • 『アリータ バトル・エンジェル』が凡庸に感じた理由。

    2019-03-01 18:09  
    51pt
     このところ、何作か続けて映画を観ています。
     『シティハンター 新宿プライベート・アイズ』、『コードギアス 復活のルルーシュ』、『PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.2「First Guardian」』、『アリータ バトル・エンジェル』と、すべてアニメか漫画原作ですね。
     どれも悪くなかったけれど、素晴らしい傑作というほどの作品もなかったかも。『シティハンター』については、「『Get Wild』良かったよね」という以外の感想は特になし。
     いや、面白かったんだけれどね。かつての『シティハンター』の演出や音楽をそのままに再現したノスタルジー映画で、一切新しいところはないのだけれど、ファンが期待しているものそのものではある。まあ、これはこれで、という作品。
     『復活のルルーシュ』は期待して観に行ったのですが、個人的にはいまひとつ、ふたつ。
  • 『宇宙よりも遠い場所』を見返す。すばら。

    2019-02-14 16:47  
    51pt
     BOOTHの同人誌の発送が遅延しているようです。「お知らせ」によると、どうも一気に本が集まりすぎてキャパシティをオーバーしてしまったようなのですね。
     ぼくたちも非常に困っているのですが、何しろBOOTHの問題であり、こちらではコントロールできません。同人誌を依頼された方はもう少々お待ちいただければと思います。
     お買い求めになってから随分と時間が経っている方もいらっしゃるはずで、あらかじめ多少の時間がかかることは述べていたとはいえ、ほんとうに申し訳ない限りです。商品はかならず届くはずですので、どうかそのままお待ちください。
     さて、ぼくはあいかわらず同人誌や電子書籍の作業を続けています。わりと膨大な量を書いているのですが、一向に終わりません。また、その文章が表に出るのはまだ先のことになります。あきらめることなくコツコツ続けなければ……。
     で、そのうちのひとつである「Azukiarai
  • ベジータ問題。あるいは『SSSS.GRIDMAN』における「正義」と「悪」とは何か?

    2019-01-21 15:03  
    51pt
     この記事は『劇場版「Fate/stay night [Heaven's Feel]」』と『SSSS.GRIDMAN』の全面的なネタバレを含みます。まだこれらの作品を未見の方は回れ右するか、「覚悟」のうえでお読みください。よろしくお願いします。
     さて、ペトロニウスさんの『SSSS.GRIDMAN』の記事が興味深いので、引用します。
     これ、もともとはぼくがTwitterでこの作品の名前を挙げたところから始まっている話なのですけれど、ペトロニウスさんはこのアニメを見て古い脚本だと思ったとのことです。
     それはそうで、アニメ的にも20年とかまえのスタンダードですし、SF的にはニューウェーブの内面宇宙とかの話と重なりますから、へたすると50~60年昔の話だったりするわけです。
     で、やはりいまひとつの作品だと思った(らしい)ペトロニウスさんは教えてLD先生!ということでLDさんにその内容につい