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記事 10件
  • 『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』は「ダメ部活もの」の到達点か。

    2016-06-26 04:41  
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     『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』を最終話まで見ました。
     いやー、面白かった。今季のアニメは豊作で、『カバネリ』とか『くまみこ』とか『マクロスΔ』とか面白そうな作品が色々あったけれど、終わってみるとこれがいちばん楽しかった。
     うーん、何なんでしょうね。特にどこが新しいとも思えないんだけれど、何か妙に面白い。
     体裁としては非常によくある「ダメ部活もの」。あるネットゲームに夢中になった面々が「ネトゲ部」という奇妙な部活を作って遊びまくるというそれだけのお話。
     まあ、『ハルヒ』とか『はがない』の直系ですね。
     この作品だけの特色というと特に思いつかないし、やたら胸を強調するカットとか、むしろ古くさいはずなんだけれど、どういうわけか楽しくてしかたない。
     めちゃくちゃ幸せなアニメでした。ぜひ二期を作ってほしい。無理かな。無理かも。こうなったら原作の続刊を読んでみるか、というくらい
  • 『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』は素晴らしく出来のいいダメ人間製造アニメだ。

    2016-05-08 01:50  
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     どもです。
     あまり根を詰めて記事を書いているとだんだん生産性が落ちてきますねー。30分で書けた記事が1時間かかるようになったりする。
     効率が良くないので、適度に休んだりする必要があるのだと悟りました。じっさいに疲れ切るところまでいかないと悟れないあたり、オレ、マジどうしようもないな。
     そういうわけで人生に疲れ果てたからアニメでも見るかということで、『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』を見ています。
     あー、これ、ほんと見やすい。異常に楽。心にストレスが一切かからない素晴らしいアニメだな。
     『灰と幻想のグリムガル』とか『甲鉄城のカバネリ』みたいなきびしい話もそれはそれでいいけれど、この種の願望充足萌えファンタジーも人類には必要だよなあ。
     これと『くまみこ』があればしばらく生きていける気がするよ。
     ただ、そういうふうに気楽に見れるには違いないのだけれど、リアルに考えるとけっこう切実な話だよなあとは思う。
     リアルに適応できない、ネトゲのなかでしか生きられないような人間はどうすればいいか?
     物語のなかでは亜子は仲間を見いだし、旦那まで見つけてそこそこ幸せそうに暮らしているわけだけれど、これが現実だったらひきこもり一直線でしょうねえ。
     そう考えるとかなり辛いものがある。「リアルはしんどいです」は非リアの魂の叫びだよなあ。よくわかるよ、ぼくもしんどいもん。
     アニメ見て漫画読んでゲームやるだけの暮らしをしたい――って、既にもうそういう生活をしているか。
     まあ、そうはいっても一切リアルとの交流を断つわけにはいかないので、それなりに色々あるのですよ。
     こういう限りなく楽な生活を送っているぼくですら辛いと思うのだから、真面目に学生とか社会人とかやっている非リアの人はほんとうに辛いだろうな、と思う。
     それはひきこもりも増えるわ。リアルは無理ゲーだもん。どう考えても。あんなもん。まともにプレイできる奴らのほうがおかしい。どっか狂っているに違いない(偏見)。
     「坑道のカナリア」ではありませんが、神経が繊細な人間はこの社会の異常さをだれよりも早く感じ取って苦しむものだと思うのです。
     もちろん、狂っていない社会など存在しないのかもしれないし、どうあがいてもそこから脱出することなどできるはずもないんですけれどね……。
     リアルに絶望した人間が、ネットゲームのなかに希望を見いだす話というと、『ソードアート・オンライン』もそうですよね。
     まったく違うように見えるけれど、ある意味では共通点があるお話ということになる。
     ただ、『ソードアート・オンライン』の世界まで行ってしまうと、学業とか仕事もネトゲのなかでこなせばいいような気がする(笑)。
     あの仮想現実の世界はゲームをはるかに超えているよね。
     いまの時代、それもプレイステーションVRとかでなかば現実になりかけているあたりが恐ろしい。
     これから実現するであろうヴァーチャルリアリティ・ネットゲームの依存度の高さはいままでのネトゲの比じゃないでしょうね。
     じっさいのところ、何かしらの対策を練らないとまずいんじゃないでしょうか。
     萌え萌えっていうレベルじゃねえぞ。出生率さらに下がるかもしれないぞ。
     まあ、『ヲタクに恋は難しい』がミリオンセラーを記録したりするところを見てもわかるように、我らオタク・トライブのイメージもだいぶ明るいものにはなりましたが、それでもリアルに適応できない人は一定数いるわけなのですよ。
     さらに進歩を続けるゲームの世界はそういう人にとって救いになりえるかもしれない。
     でも、そうやってゲームに耽溺すればするほどリアルがさらに耐えがたくなっていくという矛盾があるわけで、それはどうしようもないのかもしれないなあ、とも思います。
     あるいは、 
  • ハーレムラブコメのパラドキシカルな構造・基礎編。

    2016-01-30 12:03  
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     今月ももう終わりですね。
     つい最近、正月を迎えたばかりという気がしますが、いったいそのあいだ何があったのでしょうか。
     少なくともぼくは何もしていない気がします。どうなっているんだ。
     ところで、先日、人間ドックを受けたのですが、予想通りコレステロールが高すぎて食事を改善しないといけない模様です。
     さて、そうすると何を楽しみにしたらいいのか――本を読むのか、映画を見るのか、いずれにしろ趣味を充実させていきたいですね。寝ているだけでも時間は過ぎていくので。
     そういうわけで、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を読み返したりしていました。
     ここで新作に挑めないあたりがいまのぼくの現状を示している気もしますが、まあ、読まないよりは読んだほうがいいかと。
     『俺妹』はいわずと知れたラブコメライトノベルの名作です。
     いろいろな意味で画期的な作品だったのですが、結末だけ賛否両論が分かれて
  • 伏見つかさ『エロマンガ先生』の神がかった完成度にいまさらながら驚く。

    2015-09-19 20:39  
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     伏見つかさ『エロマンガ先生』の最新刊を読みました。
     ベストセラーになった代表作『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』に続く新シリーズであるわけですが、前作に負けず劣らず面白いです。
     始まったときは「ちょっと守りに入っているんじゃないの?」などと思っていたのですが、なかなかどうして、ここまで堅実に続けられると降参するしかない。
     圧倒的な完成度に全面降伏です。
     『エロマンガ先生』の主人公は高校生ライトノベル作家。
     そこそこ才能があり面白いものを書いてはいるものの、あまりヒット作には恵まれていないという状況。
     かれには義理の妹がひとりいるのだけれど、自室にひきこもって出てこない。
     ある日、ささいな偶然から、その妹が自作に絵を付けてくれているイラストレーター「エロマンガ先生」であることがあきらかとなるのだが――と話は進みます。
     人気作家やらイラストレーターがことごとく中高生であるあたり、荒唐無稽といえばそうですが、ライトノベルとしては十分に「あり」な設定でしょう。
     偶然にも、というか必然なのかもしれませんが、平坂読が同時期にやはりライトノベル作家を主人公にした『妹さえいればいい』を書いています。
     ぼくはどちらも好きなのですが、じっさい読み比べてみるとかなり作家性の違いを感じます。
     ネタがかぶったりしているから非常にわかりやすい。
     あえていうのなら、『妹さえいればいい』はわりに現実的な年齢の作家を主役に据え、徹底的にディティールに凝って見せているのに対し、『エロマンガ先生』は完全にファンタジーに走っている印象がある。
     いや、もちろん『妹さえいればいい』も非現実的な話ではあるのだけれど、そこにはひとさじの「毒」が垂らしてあって、奇妙にリアルに思えてくるのです。
     まあ、『エロマンガ先生』に毒がないわけでもないけれど、その毒は慎重に量が測られていて、決して一定のレベルは超えないよう調整されている、という感じを受ける。
     根本的に世界がひとに優しいというか、あまりひどいことが起こらないよう守られている世界なのだと思うのです。
     いや、物語の始まる前には交通事故で主人公の義母が亡くなっているので、何もかも幸福な世界、というわけではない。
     それなりに一定のリアリティに配慮が行われているのはたしかなのだけれど、それでも登場人物がみないい人で、深刻な裏切りがないという意味で、牧歌的な世界ということができると思います。
     それを指して、甘ったるいファンタジーに過ぎないという人はいるかもしれません。
     しかし、作者はこのファンタジーを成立させるためにどれほど繊細な努力をしていることか。
     それはなんというか、ほとんどジャック・フィニィあたりのファンタジー小説を思い起こさせるほどなのです。
     いや、ぼくもみんなが幸せで、みんなが互いに思い合っていて――というのは、やはりウソであるとは思うんですよね。
     でも、 
  • そこに童貞マインドはあるかい? 日常系ラノベがオタクファンタジーを捨てるとき。

    2015-04-03 12:46  
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     いまペトロニウスさんとLINEで話していた内容がちょっと面白かったのでメモ。
     平坂読『妹さえいればいい。』の話なのですが、これ凄いよね、さすがだよね、でも単純に面白いかというとどうなんだろう――という内容だったのでした。
     というのも、『妹さえいればいい。』は「あまりにも成熟しすぎている」作品に思えるからです。
     すべての登場人物がバランスよくトラウマとかコンプレックスを抱えていて、「特権的なリア充」とか「特権的な非リア」とかが存在しない。
     しかも各人物はみな自分の人生に責任をもてる大人で、特別大きな「欠落」といったものはない。
     したがって、極端な行動に出る動機がない。「いまこのとき」をひたすら幸せに過ごす――ただそれだけといえばそれだけの物語になっている。
     それは中高生向きの作品としてどうなのか、ということです。
     さすがペトロニウスさんはクリティカルなポイントを突いてくるなあ、と思うのですが、そうなのです。
     『妹さえいればいい。』は恐ろしくよくできた作品なのですが、それでもあえてひとつ足りないところを挙げるとすれば、「童貞マインド」が足りないとはいえると思うのです。
     世界が成熟しすぎている。童貞くささがない。中二病もない。
     いかにもそれっぽく装ってはいるけれど、じっさいはそこからは遥かに遠い。
     これは大人の小説なのです。
     前作『ぼくは友達が少ない』は「友達がいない自分たち」と「友達がたくさんいるリア充」を比較することによって、その「落差」でドラマを駆動していました。
     そう、面白い物語には必ず「落差」があります。
     王子とこじきでもいいし、光の鷹と狂戦士でもいいのですが、とにかく極端なコントラストが描けていればいるほどその物語は面白くなります。
     しかし、社会が成熟していけばいくほどに、そういう「格差」は失われていくのですね。
     『妹さえいればいい。』はあきらかに意識して「友達さがし系」の「次」を狙って来ているわけなのですが、そしてそれはきわめて考え抜かれた計算の結果だということもわかるのですが、「ぼくは友達が少ない」という呟きに続く世界は「ぼくは何もかも満たされている」としかいいようがないものだったのではないか、と思わざるを得ません。
     いや、正確にはちょっとした「欠落」は全員が抱えているのだけれど、もはや大騒ぎしてそのトラウマを叫びださないくらい状況が洗練されている。
     なぜなら、だれもが何かしらのことは抱えているということはわかっているのだから。
     それでどうなるかというと、もうほんとうにただ楽しいだけ、の世界にたどり着いてしまったのですね。
     悪くいうなら、ここには確固たるドラマツルギーがない。なぜなら、ドラマを牽引するモチベーションが存在しないからです。
     「何も欠けていない」のだから、あえて現状を変革する必要もないということ。
     あたりまえといえばあたりまえのことですが、しかし、ここには「それでは物語が存在する意義は何なのか?」という深刻な疑義が挟まれる余地があります。
     伏見つかささんの『エロマンガ先生』なんかもそうなんですけれどね。
     ある意味で、もはや「問題は解決してしまっている」のです。必死になって解決しなければならない問題は、もはやべつにない。
     したがって、 
  • 反リア充革命ラノベは『涼宮ハルヒの憂鬱』の夢を見るか。

    2015-03-26 03:30  
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     ども。絶賛風邪ひきちう海燕です。
     先ほどクスリをキメたのでだいぶ体調はよくなったけれど、まだ完調には遠い感じ。
     ほんとうなら横になって体を休めるべきなのでしょうが、暇なので記事を更新します。
     ほんとにこのブログはぼくにとって仕事なのか趣味なのかわかりません。このあいだ確定申告した時には「あー、そういえば、仕事だったっけ」と思い出したけれど。
     さて、きょう取り上げるのは電撃大賞銀賞受賞のライトノベル『いでおろーぐ!』。
     あまりインパクトのないタイトルですが、「反恋愛主義青年同盟部」を主催するひとりの少女と、彼女の活動に共鳴して同盟に入った同級生の少年のラブコメです。
     ――で、ですね。いつもだとここからいかにこの作品が面白いのか詳細に説明していくところなのですが、正直、微妙な出来なんだよなー。
     8000を超えるとかいうとんでもない量の応募作のなかから受賞作に選ばれているだけあって、アイディアは悪くないんだけれど、小説としての完成度はもうひとつ。
     いや、つまらないわけじゃないんですよ? キラリとしたところはありますし、もし次巻が出たら買おうかなと思うくらいなんだけれど――でも、さすがに一本の長編小説として粗が多すぎ。
     まず、ところどころあきらかに日本語がおかしい。
     こういうのって校閲でどうにかならないんですかね。べつにライトノベルに美文は求めないけれど、基礎的な文法くらいは守ってほしいところ。
     そして次に、設定に無理がある。
     ちなみにあらすじを引用するとこういう話です。

    「恋愛を放棄せよ! すべての恋愛感情は幻想である!」
     雪の降るクリスマスイブ、カップルだらけの渋谷。街の様子に僻易していた平凡な高校生・高砂は、雑踏に向かってそんなとんでもない演説をする少女に出会った。
    「我々、反恋愛主義青年同盟部は、すべての恋愛感情を否定する! 」
     彼女の正体は、同じクラスの目立たない少女、領家薫。演説に同調した高砂は「リア充爆発しろ! 」との想いを胸に、彼女が部長を務める"反恋愛主義青年同盟部"の活動に参加する。やがて集まった仲間とともに『バレンタイン粉砕闘争』への工作を着々と進めるのだが――!?
    「我々は2月14日、バレンタイン・デーを、粉砕する! 」

     ただ、ここで書かれていない重要な要素がひとつあって、それは作中で「女児」と呼ばれている異星人の存在。
     この神に等しい力をもつ(なぜか小学生女児の姿の)異星人、唐突に出て来て主人公とヒロインをくっつけようとするのですが、その理由がヒロインの反恋愛活動が彼女の目的にとって邪魔だからというもの。
     なんと人類に恋愛感情を与えたのは彼女で、その目的は人類を繁殖させて地球の全生命体を絶滅に追い込むことだというのです――って、いくらなんでも無理だろ、その設定。
     放っておくとヒロインの「活動」が全人類規模にまでひろがっていって人類を衰退させ、結果として人類以外の全生命を救う?
     いやいやいやいや、そんなばかな。たしかに彼女の演説はちょっと面白いけれど、人類全体を衰退させるほどとは思えないぞ。
     仮に紙面では伝わらない何か超能力めいたカリスマ性があると仮定しても、それならその子を殺してしまえばいいだけじゃん。地球の滅亡を企む異星人が何をためらっているんだか。
     物語の最後のほうではこの女児も無敵ではなく、なるべく直裁的な手段には出たくないことが語られているのですが、それにしても邪魔者は消してしまうほうが簡単だろうに。
     この点はAmazonレビューで的確に批評されています。

     女児が出るまではかなりおもしろかったです。しかし領家を「『自分の利益を損ないうる現実的な脅威』と見なし、対処しようとする強大な存在」である女児を出したせいで「馬鹿な話を大真面目に」にも「馬鹿な話をとことん馬鹿に」のどっちにも徹しきれなくなってしまった感じがします。

     まさにそんな感じ。
     この手の「とっぴな妄想だと思われていたものが実は真実だった」というアイディアの作品は昔からたくさんあって、パラノイアSFと呼ばれたりします。
     ライトノベルでも既に過去に大きな例がある。谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』ですね。 
  • 『ソードアート・オンライン』奇跡の第四部「アリシゼーション」が凄すぎる。

    2015-03-24 02:27  
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     ども。 何となくテレビゲームをプレイしたい気分になったので、『アサシンクリード』シリーズのナンバリングタイトル第四弾『ブラックフラッグ』を購入して来ました。
     新しいゲームを始めるときはいつもそうであるように、はてしなくひろがる世界に心踊ります。
     ただ、ヴィジュアル面では、やはりPS3の映像処理能力の限界は如何ともしがたい感じ。
     これがPS4だったらはるかにきれいなのだろうし、まだ見ぬ未来のゲームマシンではさらに美しい世界を仮想現実で体験できるのでしょうね。
     まさに『ソードアート・オンライン』。
     『SAO』の世界はもう既に夢物語ではなくなりつつあるのかもしれません。
     とりあえずSONYの「プロジェクト・モーフィアス」には期待したいところ。
     さて、『SAO』は現在、セールス1000万部を超え、ライトノベルの歴史上でも記録的な数字を叩き出しつづけているようです。
     ファンタジー世界を模した仮想現実空間で死の冒険を繰りひろげるというアイディアそのものはいまとなってはむしろ凡庸であるにもかかわらず、なぜ『SAO』はこれほど読者を惹きつけるのでしょうか?
     ――いやあ、これが正直、よくわからない。
     もちろん、『SAO』がでたらめに面白いことは論をまたないのだけれど、それにしてもいまどきめずらしいくらいのストレートな冒険小説であるわけで、「いまさらこういうのはちょっと……」という反応になっていてもおかしくなかったはず。
     じっさい、同種のアイディアを使用した作品はそこまであたっていないのだから、いったい『SAO』の何がそこまで特別なのか? はっきり言葉にすることは意外に簡単ではないようです。
     ひとつ考えられるのは、おそらく「いまどきめずらしいくらいストレートなヒーローものの冒険小説」であることが、かえってプラスに働いているんだろうな、ということです。
     『SAO』の最大の魅力が、主人公を務めるキリトという少年にあることは間違いないでしょう。
     長大な『SAO』のほぼ全作品に登場して無双しつづけるこの「黒の剣士」は、ほとんど孫悟空とかダルタニアンあたりに比肩する伝説的な存在感を有しています。
     ただ、どこか少女めいた容姿に、不世出の剣の腕前、などとその個性を並べあげると、むしろ凡庸なキャラクターに思える。
     なぜキリト少年だけがこうもスペシャルに読者を冒険へ誘うのでしょうか?
     いろいろと理屈は考えられるのですが、正直、やっぱりよくわかりません。
     すべては結局は『SAO』が「王道」の物語であること、そして「王道」はいつも最高に面白いのだということを示しているように思われます。
     しかし、その「王道」が限りなく通じにくくなっているのが現代なのであり、だからこそ何かしら「王道」をひねった作品が出現しているはずだったのではないでしょうか? 
     いったい『SAO』やキリトをほかの凡庸な「王道」的な物語と区別しているものは何なのでしょう。
     これはいまもってぼくの宿題で、はっきりした解答を示すことができていません。
     まあ、ひとつの決定的な答えがあるわけではなく、作家としての総合的な実力が抜きん出ていた結果なのかもしれませんが。
     じっさい、川原礫はその驚異的な執筆速度も含めて、現代最高のライトノベル作家といってもいいでしょう。
     特に物語がグレッグ・イーガンめいたオーバードライブを見せる第四部「アリシゼーション」の魅力は別格です。
     この「アリシゼーション」、電撃文庫版ではいまだに完結を見ていないのですが、ぼくはライトノベル史上最高のエンターテインメントだと思っています。 
  • いっしょに死んでくれる女の子はいりますか?

    2015-03-17 16:48  
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    「死に何か期待してる?」
    「少なくとも夜明けの船上でガキに撃たれてくたばりたくはなかったわけだ」
    ――『攻殻機動隊』

     ども。きょうも寝ころんでアニメを見つづける自称プロブロガーの海燕です。このところ、初期の『ドラクエ』並にシンプルなコマンドしかない人生を送っています。はっきりいってわたくし退屈! で、その無聊を慰めようと、三秋縋『三日間の幸福』を読んでみました。
     ひとに奨めてもらった作品を貶すのはどうかと思うものの、正直、ぼく的には微妙な出来。ただ、ネットを見て回ると評価は非常に高くて、Amazonでも読書メーターでも「泣ける」、「感動した」という意見がたくさんあります。
     ただ、ぼく的にはやはり疑問を解消し切れないので、その疑問点をここに晒しておきます。以下、完全ネタバレです。また、『三日間の幸福』で感動したひとは不快感を感じる内容かもしれないので、ご注意を。
     さて、『三日間の幸福』とはこういう話。まず、何となく人生に絶望している青年クスノキが主人公。かれは寿命をお金に代えられるという店で、残り30年の人生をわずか30万円で売り払ってしまう。
     かれの余命はのこりわずか3ヶ月となり、監視員としてミヤギという女性が送られてくる。実はミヤギも親の借金の弁済のため、同じ相手に自分の時間を売り、あと何十年もひとに見えない姿で生きていかなければならない身だった。
     クスノキはミヤギと仲良くなるうち、眠っていた絵画の才能を目覚めさせ余命の価値を高騰させる。しかし、かれはミヤギの借金を返済するためにその余命も売り払ってわずか3日しか生きられない身となる。
     ところが、そんなクスノキのまえになぜかミヤギがひとに見える姿で現れる。実は彼女も寿命を売って自分の人生を買い戻し、のこり3日の命となったのだった。
     オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」のように、互いのため大切なものを売り払い合い、そろって余命3日となったふたり。しかし、クスノキはその残された3日間は素晴らしいものになると確信するのだった――。
     よりくわしくは以下にあらすじがあります。
    http://blog.goo.ne.jp/s-matsu2/e/0526a05129b495dad3feb9d40cccfbc0
     で、ぼくはこの本を読み終えて、何とも首を傾げざるを得なかったんですね。たしかによくできた話で、作中のルールを裏切らず感動的な結末に持って行っていることはわかる。
     わかるんだけれど、どうしても納得がいかない。これが感動的だとはぼくには思えないんですよ。だって、せっかくクスノキが自分の寿命を売って買い戻してくれた人生を売り払ってしまうミヤギは愚かに思えませんか?
     名作「賢者の贈り物」に喩えられている最終章なのですが、正確には「賢者の贈り物」とは構造が違っていると思うのですね。
     「賢者の贈り物」では、ある夫婦が、互いが相手も自己犠牲を行っているとは知らずに自己犠牲します。これは納得できる。ですが、『三日間の幸福』ではミヤギはクスノキの自己犠牲を知った上で、いわば後追いで無意味な自己犠牲に走る。これはやっぱりばかげているんじゃないの、と思うわけです。
     いや、それくらいクスノキのことを愛していたのだ、ということにしても良いでしょう。ミヤギはクスノキと三日間を過ごせるだけの寿命だけ選んで売り払うこともできたわけだから、残り三日間を残してすべての人生を売ってしまったことは、あきらかに「クスノキのいない世界には生きて行きたくない」という意思表示です。それはまあわかる。
     愛する人といっしょに死んでしまいたいという想いは美しい純愛だといえなくもない。しかし、それに対するクスノキの反応が納得がいかないのです。ミヤギが目の前に現れたとき、クスノキはこういう態度を取ります。

    「あなたと同じです。全部売っちゃいました。あと三日しか、残ってません」
     頭が、真っ白になる。
    「クスノキさんが寿命を売った直後、あの代理監視員の人が連絡をくれたんです。あなたが自分の寿命を更に限界まで削って、私の借金の大半を返してしまったということを、彼は教えてくれました。話を聞き終える頃には、私はもう、決めていました。手続きも、彼がしてくれました」
     きっと俺は、そのことを、悲しむべきなのだろう。
     すべてを犠牲にして守ろうとした相手が、俺の気持ちを裏切り、再びその生を投げ打ってしまったことを、嘆くべきなのだろう。
     それなのに、俺は幸せだった。
     彼女の裏切りが、彼女の愚かさが、今は、何よりも愛おしかった。

     ――ふーん、そうなんだ。幸せなんだ。とぼくは何だか白けてしまうのですが、この反応、どう思いますでしょうか? 疑問には思わないでしょうか?
     だって、これ、「俺のために死んでくれてありがとう」、「きみがあと何十年も残っている人生を俺を慰めるため棒に振ってくれて嬉しいよ」という意味ですよね。そうとしか受け取れないわけなのですが。
     ここでぼくは「何だ、ほんとはたいしてミヤギの幸せなんて祈っていなかったんじゃん」、「結局は自分が死ぬ時にいっしょに死んでくれる相手ができて喜ぶ程度の愛情なんじゃん」と思ってしまうわけなのです。
     というか、こういうことが「愛」だという価値観なんだろうな、と思うわけなのですが。自分が何かを差し出す。相手も何かを差し出す。お互いに犠牲を出し合って満足に耽ることを称揚しているのでしょう。それはちょっとどうかと思うよ。
     これはあまりに意地の悪い見方でしょうか。けれど、ぼくはこういうのは自己犠牲とはいわないと思うんですよ。これはつまり、心中の話なのだと思います。人生に絶望したふたりが一緒に死んでしまうというお話ですよね。わずかに残されたその最後の日々だけは幸せだった、と。
     感動的な心中ものもあることはわかる。しかし、そもそもすべてがクスノキの30年もの人生を30万円(ほんとうは30円)で売ってしまうという愚行に端を発していることを思えば、やはり白けた気分は消せません。
     読書メーターでは乙一の作品と比較して論じている人もいましたが、ぼくにいわせれば乙一の作品とはまったく違う読み味の作品だと思います。
     たしかに乙一のいくつかの作品では「相手を救うために自分が犠牲になってもかまわない」という献身が描かれます。「Calling You」とか典型的ですね。
     しかし、それはどこまでも一方通行の献身であって、救われた相手はその後も生きて行くという構造になっています。つまり、自己犠牲に対する「報い」はない。
     それに対して、『三日間の幸福』は主人公が自己犠牲に対して「相手が一緒に死んでくれる」という「報い」を得ていて、それが感動を呼ぶという構造になっている。
     ここでぼくは思うのです。ああ、やっぱり善行をしたら報いが欲しいんだろうな、と。つまりここでは「無償の愛」というものが信じられていない。
     たしかにクスノキはミヤギのために無償で人生を投げ打ったかもしれませんが、でも、彼女が同じように人生を投げ打ったことを知って即座に「幸せ」を感じるのだからやっぱり「報い」が欲しかったのです。
     あるいはミヤギのクスノキに対する自己犠牲にしても、ただ「かれといっしょに死にたい」、「もうこれ以上生きていたくない」という想いから出ていることは明白ですから、純粋で無償とはいえません。
     もちろん、人間心理の描写としてこれは納得いくものではあるし、人間とはこういうものなのだ、という理解のほうがあるいはリアルではあるかもしれません。ただ、これが感動的かというと、ぼくにはそうは思えないのです。
     作者はあとがきでこのようなことを書いています。

    「馬鹿は死ぬまで治らない」という言葉がありますが、僕はこれについてもう少し楽観的な見方をしておりまして、「馬鹿は死ぬまでには治るだろう」くらいに考えています。
     ひと口に馬鹿といっても実に様々な種類の馬鹿がいますが、ここで僕のいう“馬鹿”は、自ら地獄を作り出す種類の人々のことです。
    (中略)
     ですが、ぼくはこうした馬鹿を、死ぬまでには治るものと考えているのです。より正確にいえば、「死の直前になって、初めて治るだろう」というのが僕の考えです。幸運な人はそうなる前に治るきっかけを得られるかもしれませんが、たとえ不運な人でも、自身の死が避けられないものであると実感的に悟り、「この世界で生き続けなければならない」というしがらみから解放されたそのとき――ようやく、馬鹿から解放されるのではないでしょうか。

     このあとがきが『三日間の幸福』の内容について語っていることはあきらかです。つまり、『三日間の幸福』とは、「死がせられないものであると実感的に悟」った主人公が「馬鹿から解放される」物語だというわけです。
     ペトロニウスさんふうにいえば、ナルシシズムの檻からの解放の物語ということになるでしょう。しかし、ぼくにいわせれば、作者は死に期待しすぎているように思えます。「死」を持ち上げるあまり、「生」を軽んじてはいないでしょうか。
     べつに「命は大切にしないとダメだよ」などと教訓めいたことをいいたいわけではありません。しかし、「生」を軽んじるならば、必然的に「死」もまた軽いものとならざるを得ません。
     ぼくにはクスノキにせよミヤギにせよ、まだ生きることの価値を知らないからこそ、それをたやすく投げ出せるに過ぎないように思えてしまうのです。つまり、クスノキもミヤギも「馬鹿」が治っていない。物語はテーマを全うできていないと感じられるのです。
     そもそも「馬鹿が治る」とは、「「この世界で生き続けなければならない」というしがらみ」という重くて面倒なものを、それでもなお受け入れるということではないでしょうか。
     生きて行くことが辛いから、苦しいから、それを投げ出して愛する人と一緒に死にたい、という想いを否定することはできませんが、しかし少なくともぼくはそういう考え方をする人物を「馬鹿から解放されている」とはいえないと思うのです。
     最後、この物語はこう閉じられています。

     多分、その三日間は、
     俺が送るはずだった悲惨な三十年間よりも、
     俺が送るはずだった有意義な三十日間よりも、
     もっともっと、価値のあるものになるだろう。

     ここにあるものは決定論的な人生観です。右に進めばこうなる、左に進めばこうなる、さて、どっちがいい? どれに価値がある? という人生観ですね。
     しかし、人生とは生きてみることによって初めて理解されるものであるはずです。それは「悲惨」とか「有意義」といった言葉で要約できるものではそもそもないのです。
     どんな悲惨な人生にも笑顔がこぼれる一瞬があるかもしれず、どんな幸福な日々にも憂鬱が棹さすひと時があるかもしれない。その「価値」を定量的に測って値打ちを決めることはそもそもできない。
     クスノキはそのことがわかっていないからこそ、人生を売る店で自分の人生に安値を付けられたとき自暴自棄になって30年を売り払ってしまった。まさに「馬鹿」です。
     そして物語が最後まで至ってもかれはまだ「生」の意味するところをわかっているようには見えない。この意味で、ぼくは『三日間の幸福』はテーマの完遂に失敗していると思う。
     でも、ネットを探し回ってもそういうことを書いている人は見あたらず、ぼくは首をひねってしまうのです。ぼくが間違えているのかな、と。どうにも合点が行かないのだけれど。
     「死」にあこがれ、心中を美しいと思う人がいることはわかる。いっしょに死んでくれる女の子がいたら泣けるという心理もわからなくはない。しかし、それはしょせん「自ら地獄を作り出す」ことと裏表の心理であるに過ぎず、「馬鹿」から解放されているとはいいがたい。ぼくはそう思うのですが、どうでしょう。 
  • 「好き」を仕事にするむずかしさをロリ萌えライトノベルで学んだよ。

    2015-03-15 01:32  
    50pt


    「これ、今日の売り上げ……です」 それから、用意しておいた巾着袋の中身を全て差し出した。
     ――合計、千円。たった二枚しか売れなかった本日のチケット代を。


     ふと、何かライトノベルを読んでみたいと感じたので、蒼山サグのロリータロックバンドラブコメディ『天使の3P!』を読んでみた。
     ――いや? 違いますよ? ぼくはロリコンじゃないですよ? でも、ほら、あれじゃないですか。小学生とか可愛いじゃないですか。ロックバンドとか格好いいじゃないですか。そのふたつが合わされば無敵じゃないですか。だから読んでいるだけで、決してロリコンじゃないのです。はい。
     と、不毛なイイワケは良いとして、作品について書こう。このシリーズ、3年くらい前に第1巻を読んだあと放置していたんだけれど、いつのまにか第5巻まで出ていた。第1巻は面白かった記憶があったので、粛々とKindleで続刊を購入したしだい。
     で、第2巻の冒頭からいきなりすごい。ある朝、主人公が目覚めると、妹(10歳)が自分の写真を拡大したポスターを壁やら天井に貼ってまわっているところから始まる。彼女がいうには、「ガス抜き」らしい。

    「お兄ちゃん、ここのところ小学生まみれの生活を送っているでしょ。しかもみんなかわいい子たちだから、いつかうっかりヤマシイ気持ちが生まれちゃうかも。そうなったら大変だから、タイホされるまえに私の写真で小学生欲を満たしなさい」

     ――すげえセリフだ。そんな超絶理論は初めて目にしたよ。センス・オブ・ワンダー。目からうろこ。人類には小学生欲という欲望があったのか。べつにロリコンじゃないけれど、ちょっと感心した。感銘すら受けた。 で、さらにこの会話はこう続く。

    「生まれないよ……」
    「だからそれは、私と一緒に暮らしているおかげでしょ。でなきゃ今ごろお兄ちゃんなんて見慣れない小学生の魅力にデレデレのメロメロだったに決まってるわ。感謝しなさい!」

     すげえロジックだ。圧巻の展開だ。感動せざるを得ない。ちなみにこの主人公、現在中学生なのだが、毎日、小学五年生の妹といっしょにお風呂に入っている。
     うむ。家族だからね、それくらいはあるよね。合法、合法。さすがにウケている(と思う)作品は冒頭からして平凡ではないなあ。色々と間違えている気もするけれど……。
     でもまあ、こういう「やりすぎている」感じは嫌いじゃない。おそらく一部の読者の拒否反応を生み出すくらいディープな描写なのだけれど、ぼくは「そういうもの」が好きなんだなあ、とあらためて思う。いや、ロリコン描写のことじゃなくてね……。救けて、ナボコフ先生!
     ともあれ、前作で些細な偶然からとある小学生ガールズバンドに関わり、彼女たちをプロデュースしていくことになった主人公は、今回、「小学生まみれ」になりつつも、現実の重く厚い壁を前に苦闘することになる。
     いままさに失われようとしているある教会を救うためには、このガールズバンドで一定額のお金を稼ぎ出さなければならないのだ。だが、その何とむずかしいことか。
     「音楽で食っていく」ことは、しばしば青くさい夢の代表のようにいわれるが、まして小学生のバンドで多額のマネーを生み出そうと思ったらことは簡単ではない。殊にいまは音楽がカネにならないといわれるご時世でもあることだし。
     いったいどうしたものかと思い悩む主人公たちは、それでも何とか行動を開始する。しかし――。うーむ、一見するとただの甘ったるいロリコンラノベのように見えて、意外にシビアな話である。
     というか、ロリコンにウケそうな甘ったるい「天使」たちの描写と、現実的にシビアな展開がマッチしてバランスを取っているのだろう。売れるエンターテインメントは甘いだけでも、シビアなだけでも成り立たないわけで、ここらへんの秀抜なバランス感覚はさすが。
     ここには「好きなこと」をお金に換えようとするときにひとが直面する普遍的な問題が描かれている。
     「好き」は、ただ好きなだけでいるうちは、楽しくて、面白くて、愉快で、痛快で、人生を実り豊かにしてくれるのだけれど、一転、それを「ビジネス」に変えようとすると、そこにはある種の困難が待ちかまえているのだ。
     ぼくも一応は「好き」を「お仕事」にしているひとりなので、その問題はよくわかる。まあ、このブログなんて、いいかげんかつ好き勝手に書いているように見えるかもしれないし、じっさい半分はその通りなのだが、残り半分で色々と試行錯誤しているのもたしかなんだよね。
     たぶん、読んでいるひとが想像するよりは色々なことを考えている。それはもう、この半月だけでも色々と試して、失敗をくり返して、それでも「その先」へ行こうと試みていたりするのである。
     基本的に「無理ゲー」である有料ブログに、「こうすればいい」という方法論はない。成功した先人のサンプルもない。だから、一から自分で考えて、自分なりの方法論を組み立てて行くよりほかないのだけれど、それって攻略法が見つかっていないゲームをひとりでクリアしようとするようなもので、まあ、無茶なのである。
     ロックバンドでお金を稼ぐ。ブログを書いてお金を儲ける。どちらも簡単なことではない。いや、あるいはじっさいにやっていないひとからすれば、「何であの程度のものがカネになるのか」と思うかもしれないし、じっさい、プロの作品でも大したことがないものはたくさんあるだろう。
     しかし、そうはいっても、「「好き」でお金を稼ぎつづける」ということは、じっさい、生半可なことではない。一時、偶然にウケてお金が転がり込んでくることはあるかもしれないが、それを続けるとなると、やはり一定以上の才覚や実力が必要となってくる。
     「ただたまたまウケているだけ」などということはありえないのだ。「ひとに受け入れられてお金をもらう」ということは、多くの人が思う以上に大変なことなのである。なぜなら、それは「自分以外の世界」という本来どうにもならないものを動かすことなのだから。
     ぼくにしても、ただ好きなものを好きなように書くだけでは成り立たない。ニコニコチャンネルで書く以上、はっきりとウケるネタとウケないネタというものがあって、ウケないネタをいくら書いたところで、会員は増えない。
     それなら、ウケるネタを集中的に書いていけばいいのか? そうすれば簡単にお金を稼ぎ出せるのか? というと、実は案外そうでもない。 
  • 傑作? 凡作? 伏見つかさ最新作は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を超えられるか。

    2015-03-11 00:24  
    50pt


     さて――このところアニメの話ばかり続けたので、きょうはライトノベルのことを書くことにしよう。
     ここに取り出したるは伏見つかさの最新シリーズ『エロマンガ先生』! その最新刊! きのう発売されたばかりのぴっかぴかの一冊。これをいまから罵倒の限りを尽くして口汚く貶してやろうと――うわっ、何する、何だお前ら、やめ(以下略)。
     というのはイッツジョーク(寒い)、ただ、昨日発売の『エロマンガ先生』最新刊を購入したことはほんとう。「本物のエロマンガ先生」を名のるなぞの人物登場というクリフハンガーで終わった前巻も良かったが、この巻も面白い。
     エロマンガ先生と正体不明のイラストレーター「エロマンガ先生G(グレート)」の間でイラスト勝負の火蓋が切って落とされるという燃える展開!
     はたしてエロマンガ先生Gとは何者なのか? 必殺の「エロマンガ閃光(フラッシュ)」は炸裂するのか? 某大手動画サイト(どこだろ?)を舞台にくり広げられる勝負の行方は萌えイラストの神のみぞ知る!
     というわけで、きょうは期待と興奮の『エロマンガ先生』第4巻の話。そもそも『エロマンガ先生』を知らないという不勉強な読者のために一応は解説しておくと、この作品は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』で大ヒットを飛ばした伏見つかさが『俺妹』に続いて電撃文庫から送り出したライトノベル。
     前作に続いて妹もの、イラストレーターも前作と同じかんざきひろということで、発売前には多くの読者に「どうなんだろ?」と思われていたであろう作品なのだけれど、現実に発売されたものを読んでみると、これがまあ良くできている。
     リーダビリティ抜群の文章といい、紙面狭しと躍動するキャラクターたちといい、あいかわらず可愛らしいイラストレーションといい、文句なしに出色の出来なのであった。
     じっさい、挑発的とも見えるタイトルに反し、お話の内容はすこぶる堅実。ライトノベルの書き方教室があったら教科書に採用したいくらいのクオリティ。
     中高生のベストセラー作家や天才イラストレーターが次々と出て来る設定にリアリティがないという批判もあるようだけれど、そもそもライトノベルで設定の現実性を問うことじたい意味がない。
     べつに現代文学の潮流に棹さす一作を目指しているわけではなく、あくまで一本のライトノベルとして面白いものを志しているだけなのだから、特に現実的な設定を採用する意味はないだろう。
     いや、ほんと、よく出来た少年読者向けエンターテインメントなのですよ。秀作。
     ――というところで終われれば良いのだけれど、残念ながらもう少し付言せざるを得ない。というのもこのシリーズ、きわめて完成度が高いことは論をまたないことながら、じっさい読んでみると、もうひとつ、ふたつ、物足りない印象が強いのだ。
     これはぼくの個人的な感想に過ぎないから、「めちゃくちゃ面白い!」と感じているひともいるだろうけれど、ぼくは高い完成度のわりにいまひとつ物足りないと思っている。
     間違いなく考え抜かれた作品ではあるんだけれど、何というか、「無難」だよなあ、と。『俺妹』の熱心な読者だったぼくとしてはどうしても『俺妹』と比較してしょんぼりしてしまうのである。
     いや、『エロマンガ先生』、あるいは作品のクオリティとしては『俺妹』よりさらに高いかもしれない。
     『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は作者としては計算外の要素が入った作品だったはずだ。純粋に構成だけを見れば『俺妹』の展開はわりとめちゃくちゃである。
     行き当たりばったりとはいわないまでも、勢いまかせなところがある。最終的にほとんどの伏線を拾ったことはたしかだが、ネットを見る限り、最終巻は賛否両論の内容だった。
     それに対し、『エロマンガ先生』は十分に計算して作品世界を構築している印象が強い。主人公とメインヒロインが血の繋がらない兄妹であることはあらかじめ示されているし、各キャラクターとも嫌味なく描かれている。
     萌え耐性がない一般読者はともかく、ライトノベルをそこそこ読み慣れている人間なら、この小説を読んでいやな気持ちになるひとは少ないだろう。
     何より、文章がでたらめに読みやすい。いったん物語のなかに入ったら、あっというまにラストまで連れて行かれるようなスピーディーな快感がそこにはある。
     読者にとって読みやすい文章を書くためには作者は恐ろしく苦労しなければならないわけで、伏見つかさが懸命な努力の末にこの作品を組み立てたことをぼくは疑わない。
     しかし――そう、しかし。それでもなお、ぼくはこの小説を読むとき、一抹の物足りなさというか、歯ごたえのなさを感じずにはいられないのである。もう少しで傑作にたどり着けるだけの出来ではあるのだけれど、どうにも「置きに行っている」印象が強いな、と。
     「置きに行く」とはもともと野球用語で、投手がフォアボールを恐れてストライクゾーンにボールを「置きに行っている」かのような配球を行うことを指している。
     そして、それが転じてお笑いなどで無難なネタで勝負することを意味するようにもなった。ここでぼくが「『エロマンガ先生』は置きに行っている」というのは、つまりはこの作品がいかにも無難なネタで勝負しているという意味である。
     そう、『エロマンガ先生』に読んでいてヘイトが溜まるような仕掛けはほとんどない。どこまで行っても、平和で、明朗で、穏やかな笑いが続いていて、晴れた日にひなたぼっこをしているような気分になれる一作なのである。
     作品のどこを切り取っても、文句を付けるようなポイントはないのだ。それはまあ、現実感に乏しいことはたしかだが、先述したようにそこはライトノベルにとって欠点にならない。とはいえ、それでもやはり物足りなさを感じることは事実。どこかに何か足りないものがあるのだ。何だろう?