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記事 10件
  • 「小説家になろう」の作品が自己満足に終わらない理由。

    2016-04-13 00:10  
    50pt

     先日のラジオは『やる気なし英雄譚』の津田彷徨さんがゲストだったのですが、創作のスタイルという点で面白い話を伺えました。
     「小説家になろう」で書いている作家さんの多くは「読者に喜んでもらうため」という目的で書いている人が多い、という話ですね。
     これはあたりまえといえばあたりまえの話ではあるでしょうが、過去の作家たちは必ずしもそういう動機がメインではなかったはずです。
     少なくとも通説として巷間いわれていたことは、作家とは内面になんらかの執筆動機を抱えていて、その動機に従って書くものである、と。
     つまり、たとえ読者がいなくても書くのが作家なのであって、その動機を持っていない人間は作家としてふさわしくないというのが、いわば常識だったと思います。
     それは究極的には「作家の自己満足」ということになるわけですが、それでもとにかくなんらかの内発性があって初めて創作は行われるものだとする考え方だったわけですね。
     ところが、「小説家になろう」では――ニコニコ動画でも同じかもしれませんが――必ずしもそこのところがそうなっていない。
     まず読者(消費者)がいて、その読者のために書く、という書き手が大勢いるのだといいます。
     もちろん、これは程度問題であって、自分のなかにこれっぽっちも書きたいものがない人は、やはり書き手にはなりづらくはあるでしょう。
     しかし、「なろう」ではまさにその「程度」が違っている。
     より読者に奉仕する形での創作が行われやすいと思うのです。
     そうなる理由はあきらかで、「なろう」においては書き手と読み手の距離がきわめて近いからです。
     一般的にプロの作家が読者の感想を知るのは、ファンレターか、ネットのエゴサーチくらいでしょう。
     いや、ほかにもあるかもしれないけれど、それらはめったにあるものではない。
     作家と読者の距離は、かなり「遠い」といってもいいわけです。
     それが「なろう」においてはごく「近い」。
     「近すぎる」といってもいいくらいで、作家は読者の意見を相当に意識しながら執筆せざるを得ないのです。
     もちろん、強い意志を持ってそれらをすべて無視する人もいれば、最初から感想蘭を閉じてしまう人もいるでしょうが、おそらくそうでない人のほうが多い。
     だって、自作の感想を知りたいから書くという側面があるわけですからね。
     「自分の作品を認めてほしい、可能なら褒めてほしい」という欲望を持っていないアマチュア作家は少数でしょう。
     そういうわけで、「なろう」などの投稿サイトにおいては、書き手と読み手は密接な関係を形作ります。
     だから、書き手は読み手のことを思いながら、読み手のために書くことになりがちではある。
     これが、良いことなのか悪いことなのかというと、まあ、そうだな、どうなんだろう。
     一概にいえることではないと考えます。
     書き手の内発性を重視する思想から行けば、「なろう」のありようは邪道ともいえます。
     内面の燃えたぎる炎があって初めて傑作を書けるのだという思想はいまなお強く、そういう思想の持ち主からすればいちいち読者のの顔色をうかがうような書き手は情けない存在といえるでしょう。
     しかし、高尚な文学作品ならいざしらず、エンターテインメントにおいては、読者の心理を把握することがきわめて重要であることはいうまでもありません。
     そういう文脈で考えるなら、「読者のために書く」ということはエンターテインメントの王道といってもいいでしょう。
     じっさい、そうやって読者のために書かれた作品は、多くは完成度から行けばプロフェッショナルの作品に及ばないにもかかわらず、しばしば非常に好評を得るわけです。
     それを考えると、「なろう」のスタイルはとても良い長所を持っていることになる。
     もしそういう環境でなければ、大半の作家が作品を途中で投げだす、いわゆる「エタる(エターナルする)」ことになってるかもしれません。
     いや、あるいは初めから書き出すことすらないかも……。
     創作する側から見ると、「なろう」の最大の魅力は、この「感想をもらいやすい」というところにあるのです。
     いったいどれくらいの素人作家が、自作の感想に飢えて来たかを考えると、「なろう」はまさに画期的なシステムといっていいでしょう。
     ただ、もちろん作家と読者の距離が近いこと、そして作家が「読者のために書く」ことにはネガティヴな側面もあるはずです。
     それは 
  • 『無職転生』と大海小説の面白味。

    2016-04-07 19:29  
    50pt

     雨です。
     雨の日は外に出るのが億劫なので、自宅でアニメを見たり記事を書いたりします。
     GoogleのChromecastを買ったので、dアニメストアのアニメが見放題です。
     nasneで録っているものと合わせると、ほとんどのアニメが視聴可能になりました。つくづくありがたい時代だと思います。
     『くまみこ』面白い。
     ほんとうは晴れているときも怠らず仕事をしなければならないのだろうけれど、つい遊んでしまうんですよね。
     さて、先日出た漫画版『無職転生』最新刊を読みました。
     原作でいうと第3章、魔大陸に飛ばされたルーデウスとエリスがルイジェルドと出逢って旅を始めるあたりですね。
     ここら辺、原作ではいくらか間延びした印象もある展開だったのですが、その処理のうまいこと、うまいこと。適度にショートカットして、さくさくっと話が進みます。
     巻末にはシルフィを主役にしたオリジナルの番外編も載っていてお得感ありあり。
     この漫画版は素晴らしいクオリティなので、原作既読者にも未読者にもオススメです。このまま行くと全何十巻になるかわからないけれど……。
     「小説家になろう」で人気を集めている作品はどれも長いことが特徴ですが、『無職転生』も相当の大長編です。
     たぶん、この調子で全巻が書籍化されると、全30巻くらいになるのではないかと思う。
     おそらく厳密に構成していけばもう少し短くなるはずなんだけれど、あっちへ行ってみたりこっちへ行ってみたりと脱線をくり返す展開が連載の醍醐味でもあるわけで、一概に否定的に語れるものではないでしょう。じっさい、面白いし。
     そもそも、全数十巻などという超大長編小説は、もはや人間がきれいにコントロールし切れる限界を超えていると思うのです。
     笠井潔がいっていたことだけれど、人間が厳密に構成し切れる限界はドストエフスキーやトルストイの大長編あたりにあるのではないだろうかと。
     『罪と罰』だとか『戦争と平和』のレベルですね。
     一般的な厚さの文庫にして5、6冊というあたりでしょうか。
     それを超える長さとなると、もはやどこかに「ゆるみ」や「計算外」が出て来る。
     でも、それもまた大長編の味なんですよね。
     昨日の記事で書きましたが、必ずしもきびしく構成された物語ばかりが優れているというわけではない。
     どこかでゆるかったりする物語にも、それなりの面白みがあるものなのです。
     文庫にして何十巻というスケールで展開し、読者の支持がある限り無限に長大化しうるとも思える超大長編小説の類を、笠井潔は「大海小説」と呼びました。もはや大河どころではないということでしょう。
     「なろう」で連載されている大海小説は数多いわけですが、『無職転生』がそのなかでも最高の人気を誇っていることはご存知の通り。ぼくも素晴らしい作品だと思います。
     先述したように、連載というスタイルのため、時々、物語が「ゆるむ」こともあるわけですが、それもまた、楽しみのひとつというべきでしょう。
     「なろう」を読んでいて思うのですが、 
  • オリジナリティ・イズ・デッド。オタク第一世代による現代ファンタジー批判を考察する。

    2016-04-06 23:11  
    50pt

     ども。
     人気声優さんが出演しているという噂のアダルトビデオを見たものかどうか迷っている海燕です。
     いや、ぼく、声優さんについてはくわしくないから見てもしかたないのだけれど、下種な好奇心がうずくんですよねえ。
     さて、それとはまったく無関係ながら、きょうもウェブ小説の話です。
     いままでの内容をまとめた上で、ネットにおける混乱した言説を解きほぐす「交通整理」を試みてみようかと思います。
     キーワードは「オリジナル幻想」。
     ちょっと長いですが、最後まで読んでいただければありがたいです。
     まず、ウェブ小説や「現代日本の異世界ファンタジーの多く」を巡る、山本弘さんや野尻抱介さんの発言を振り返ってみるところから始めましょう。
     山本さんはこんなことを語っていたのでした。

     どうも現代日本の異世界ファンタジーの多くは(もちろん例外もあるが)、「異世界」じゃなく、「なじみの世界」を描いてるんじゃないかという気がする。 
     じゃがいもなどの、この世界に普通にあるものや、エルフやゴブリンやドラゴンなど、ファンタジーRPGでおなじみの要素ばかり使っている。それを読んだ読者も「異世界とはこういうものだ」という固定観念に縛られている。 
     「異世界」と呼んでいるが、実は読者が知っている要素だけで構成されている。 
     想像力や創造力という点で、100年前のバローズより後退してるんじゃないだろうか。 
     もう少しだけ異世界を異世界っぽく描いてもばちは当たらないと思うんだが。

     一方、野尻さんはこんなことを述べています。

     トラック転生して異世界という名の想像力のかけらもないゲーム世界に行って、なんの苦労もせず女の子がいっしょにいてくれるアニメを見たけど、コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ。少しは向上心持とうよ。
     バローズが描く異世界は、少なくとも刊行当時はオリジナリティがあって、読者が知らないものを描出していた。それを読み取るだけでも素晴らしい読書体験になる。「はいはい、みなさんご存知のゲーム風異世界ですよ」とばかりに差し出すものとはちがう。

     これらは、両方ともいわゆるオタク第一世代のクリエイターによる、より下の世代の創作活動に対する批判だといっていいと思います。
     内容にも共通項が多く、いまのファンタジー(と呼ばれている小説やアニメ)は「想像力」が足りないというものです。
     そしてここでターゲットにされているファンタジーとは、一部のライトノベルや、「小説家になろう」などで発表されているウェブ小説のことだといっていいでしょう。
     これらの言説が面白いのは、山本さんにしろ野尻さんにしろ、自己否定に繋がってしまっている一面があることです。
     山本さんも野尻さんもかつては何作ものライトノベルを書いてきた作家なのだから、自分の作品もそういう「想像力を欠いた」側面がある。
     したがって、後発の作品を批判することは、天に唾するたぐいの発言といえなくもないわけです。
     それにもかかわらず、なぜかれらは後発の作品を熱く批判するのでしょうか。
     それは当然、自分の作品と後発の作品に何らかの差異を見出しているからでしょう。
     山本さんや野尻さんの発言を丹念に見ていくと、「たしかに自分の作品にも想像力に欠ける一面はあるが、それでも最近のファンタジーとは違う」という想いが透けて見えるような気がします。
     それでは、その「違い」とは何か。
     それは「だれも見たことがない異世界を想像し創造しようとする努力や工夫」だと思われます。
     つまり、山本さんも野尻さんも後発のファンタジーの「オリジナリティのなさ」を批判するとともに、そもそもオリジナルな異世界を作り出そうと努力しようとしない姿勢を非難しているのでしょう。
     なぜなら、かれら自身は多々ある制約のなかでも、少しでもオリジナルな世界を作り出そうと努力してきたという自負があるから、後発作家の「手抜き」が腹立たしく思えるのだと見ています。
     これを「老害」といって即座に却下してしまうこともできますが、ぼくはそういう不毛な年齢差別を好みません。
     むしろ、山本さんや野尻さんの意見には一理あると受け止めます。というか、無理もない話だと思うのですよ。
     かれらの目から何万ものゲーム風異世界を舞台にした冒険劇を見ていたら、どうしたってそれは「手抜き」に見えるでしょう。
     これに対して、「ゲーム風のキャラが出てこない作品もある」といってみてところで、山本さんたちが求めているのは「見たことがあるものが出てこない」世界ではなく「見たこともない何かが出て来る」世界を希望しているわけですから無意味です。
     しかし、だれも見たことがない世界? そんなものがほんとうにありえるでしょうか。
     実はここがこの話のポイントだと思うのです。
     山本さんはバローズを引いて、こんなことをいっていました。

     馬に相当する生物を、「ソート」と呼んでも、作中では何の支障もない。 
     だったら、じゃがいもに似た作物だって、たとえば「ボルート」とかいう名前で呼んでもいいんじゃないだろうか? 
     けっこう安直に異世界感が出ると思うんだが、なぜみんなそうしない? 

     ここで、山本さんはあきらかにじゃがいも(に似た作物)を「ボルート」と呼ぶ工夫に意味があると考えているわけです。
     つまり、そういう工夫をすればそうしないよりもより想像力を発揮したことになるという思いがある。
     しかし、そう、どうやら山本さんが考える斬新な異世界とは、よく使われる固有名詞の代わりにオリジナルの名詞を使うといったレベルのことに過ぎないらしいのですね。
     いや、あるいはもう少し突飛な、たとえばあたりまえの馬のかわりに八本足の生物が出て来るとか、距離や単位が地球のものとはまったく違うとか、そういうレベルのことでもあるかもしれませんが、とにかく山本さんや野尻さんは、そのレベルで工夫されているに過ぎないバローズの世界を「そんな問題は100年も前にエドガー・ライス・バローズが通り過ぎている」とか、「少なくとも刊行当時はオリジナリティがあって、読者が知らないものを描出していた」などと評価しているのです。
     ぼくはバローズの小説を読んだことがないので、それがじっさいに「オリジナリティがあ」る作品なのかどうか判断することができません。
     しかし、少なくとも山本さんが書くレベルの工夫のことは、特にオリジナルだとは思いません。
     現代のファンタジー作家がバローズに倣おうとしないのは、そのやり方がむずかしすぎて真似できないからではなく、そういうことになんの意味も見出していないからだと思われます。
     だって、じゃがいも(に似た作物)を「ボルート」と呼んだところで、それはしょせんじゃがいも(に似た作物)でしかないではありませんか。
     その程度のことが「オリジナル」と呼ぶに値するとは、ぼくはまったく考えない。
     それでは、真の「オリジナル」とはどんなものなのか?
     ぼくは究極的には「真のオリジナル」と呼んでいい作品など、この世に存在しないと考えます。
     もちろん、相対的に独創的な表現を駆使している作品はあるでしょう。
     が、そういった作品もどこかでほかの作品から影響を受け、あるいは自然世界のなんらかの現象を模倣しているのであって、純粋なオリジナルとはいえない。
     人間には純粋なオリジナルの表現は不可能なのだと考えるべきです。
     その意味で、この世のすべての表現は「二次創作」でしかないとはいえる。
     しかし、世の中には自分が作ったものは自分だけの表現であって、まさにオリジナルといえるものなのだ、と信じる人々がいます。
     その幻想をここでは「オリジナル幻想」と呼びましょう。
     ぼくがこの話で思い出すのは、竹熊健太郎さんと大泉実成さんの対談です。その対談のなかで、竹熊さんはこんなことを書いています。

    竹熊 例えば僕の世代から宮崎さんの作品を見ると、やっぱりパワーが桁違いに凄いんですよ。でも、オリジナリティーがないんだよね。つまり僕の世代が批評家的に見ると、宮崎さんの元ネタが分かっちゃう。僕らが創作をやろうとすると、元ネタを露骨に示して、パロディになってしまうわけですよ。ところが宮崎さんは、元ネタがあるにしても、それを自分の「オリジナルと信じて」出せるわけ。そこが下の世代である僕にしても庵野さんにしても、できないところです。心底、これは俺のオリジナルだと信じて、世の中に提示することができないんです。
    大泉 庵野秀明の場合はエヴァの時に、その時の自分の状態を「ドキュメンタリー」にして、作品化しなければならなかった。少なくとも自分はオリジナルだから。
    竹熊 それをやるしかなかった、彼の場合はね。基本的にクリエイティブって全部パクリですからね。元ネタがないクリエイティブはありえませんから。作者が天から降ってきた霊感だと感じられるものでも、それは過去の人生で触れてきた多くの作品や、知識や、出来事が元ネタにあるわけですよね。それを「パクリ」と自覚するか、それも天から降ってきた霊感のように信じられるかどうかが、「本物のクリエイター」とパロディ世代の分かれ目だと思うんですよ。
     手塚(治虫)にしてもなんにしても、彼らは霊感を信じている。創作することに対する疑いがない。そこは世代の差としか言い様がありませんね。だから、僕もオタク第一世代とか新人類とか言われましたけども、そう言われる僕たちは批評家にはなれるにしても、創作家にはなれないですね。なったとしてもエクスキューズのある創作(パロディ)しかできない。80年代からこのかた、ずっとそうだったんじゃないですかね。僕の場合は、それが『サルまん』だったわけですけども。
    http://web.soshisha.com/archives/otaku/2006_1123.php

     つまり、オリジナル幻想には世代的な差があるということですね。
     宮崎駿とか手塚治虫の世代、プレオタク世代とでも呼んだらいいでしょうか、その頃のクリエイターたちは自分の作品を「天から降ってきた霊感だと感じ」て創作していた、しかし、それより下の作品はそこまで無邪気に自分の作品のオリジナリティを信じることができない、という話です。
     もちろん、宮崎駿とか手塚治虫の世代が純粋にオリジナルな作品を生み出せていたのかというと、違う。
     やはりかれらの作品にも「元ネタ」はある。その意味で、宮崎駿といえど、手塚治虫といえど、パロディ的、オマージュ的に創作しているわけです。
     しかし、この世代のクリエイターたちがのちの「パロディ世代」のクリエイターと決定的に違うのは、そのしょせんパロディでしかありえない作品を、ほんとうに自分のオリジナルだと信じていることです。
     それはしょせん錯覚であり、幻想であるかもしれませんが、下の世代のクリエイター、たとえば庵野秀明にとっては、その錯覚すら不可能なことなのです。
     だから、庵野さんたちの世代は「パロディ」とか「オマージュ」といった作法にこだわる。
     先行する無数の作品から引用をくり返し、「あえてやっている」自分を演出する。
     それしかできないのです。
     いいえ、最終的には庵野さんはその境地にも飽き足らず、その「パロディ」を乗り越えて「自分自身という最後のオリジナリティ」を表現するためにある種の「ドキュメンタリー」として『新世紀エヴァンゲリオン』を生み出したわけですが、それは血反吐を吐くような作業だったことでしょう。
     ちなみに、これらの経緯に関しては『パラノ・エヴァンゲリオン』、『スキゾ・エヴァンゲリオン』という二冊の対談集にくわしいです。
     最近、電子書籍化されたそうなので、興味がおありの方はぜひどうぞ。
     さてさて、世代的には山本さんも野尻さんも庵野さんと同じく「オタク第一世代」に属しているものと思われます。いま50代くらいの人たちですね。
     この世代は、たしかに上の世代ほど無邪気にオリジナル幻想を信じてはいないはずです。
     何しろ、山本さんにしても、野尻さんにしても、たとえばJ・R・R・トールキンやアーサー・C・クラークの先行作品を参照しながら作品を作って来たのですから(『ふわふわの泉』なんて、タイトルといい、アイディアといい、『楽園の泉』のパロディですよね)。
     よほど鈍感でない限り、その自覚があるはずです。ぼくはまさか自覚がないとは思わない、きっとそれはあることでしょう。
     ただ、おそらくかれらは、それでも自分たちの作品は先行作品のデッドコピーではない、と信じている。そこにプライドを抱いている。
     だからこそ、より下の世代の作品の、先行作品のデッドコピーに徹したとも見える「オリジナリティの欠如」が気になるのだと思うのです。
     ようするにかれらから見ると、自分たちが努力し、工夫したポイントで手を抜いているように感じられると思うのですね。
     かれらにしてみれば、その点こそが「単なるパクリ」と「面白いオマージュ」を分かつ聖なるポイントなのであって、そこを省くとは何事か、という想いがあるのだと思う。
     ですが、これはじっさいには手を抜いているというより、その手の工夫に価値を見出していないと見るほうがより正確だと思われます。
     そう、オリジナル幻想を無邪気に信じられたプレオタク世代、そこに疑念を感じながらもなんらかの工夫を凝らして少しでもオリジナルな表現を工夫した「パロディ世代」であるオタク第一世代と来て、それ以降の世代はもはや自分たちの表現の「オリジナリティのなさ」に悩みすらしなくなっているのです。
     ちなみに、オタク第一世代による「お前たちはオリジナリティがなくてけしからん!」という批判に対し、反発し、反論するのはオタク第二、第三世代くらいまでではないかと思ったりします。
     第四世代となると、もはや第一世代の人たちが何をいっているのかピンと来ないから腹も立たないのではないでしょうか。
     いい換えるなら、この世代においてはオリジナル幻想は蘇りようもないほど完全に死んでいるということです。
     オタク第二世代はまだしも、第三・第四世代はもはや「パロディ世代」ですらありません。
     その証拠に、山本さんたちが批判する最近のファンタジーは、もはや「元ネタ」を明確に引用することがありません。
     ただ、あきらかにオリジナルではありえないことが見え透いた「どこかで見たようなファンタジー」を平然と展開する。
     オリジナリティ・イズ・デッド。
     ですが、だからといって山本さんなり、野尻さんの批判が端的に間違えているということではないと思うのです。
     むしろ、かれらの批判は、かれらの価値観では正鵠を射ている。
     しかし、問題なのは、その価値観そのものが古びて過去のものになってしまっているということです。
     もはや、最先端のファンタジーではその表現の前提となっている「パクリ」は問題視されていない。というか、ほとんど意識すらされていない。
     だからこそ、「どこかで見たようなファンタジー」が氾濫することになっているわけです。
     ただ、ここでひとつ浮かぶ疑問があります。
     オリジナリティがないのは当然として、オリジナルに見せかける工夫すらしなくなった作品のどこが面白いのか?
     いったい読者は何を求めて「現代日本のファンタジーの多く」を読んでいるのか?
     その答えは、奇しくも山本さんが否定的な文脈で使っている「なじみの世界」という言葉にあると思われます。
     そう、「小説家になろう」などの読者はまさに「なじみの世界」を求めてファンタジーを読んでいるのだと思うのです。
     これは考えてみると奇妙なことです。
     異世界ファンタジーとは、「異」世界のファンタジーなのであって、どこかに異質なところ、見なれないところがあることが自然なわけですから。
     しかし、日本でファンタジーというジャンルが勃興してはや30年余り、小説と漫画とアニメと、なによりゲームを通してファンタジーの表現はあまりに拡散し、陳腐化しました。
     もはやファンタジーといえば、だれでもエルフとゴブリンとドラゴンといった世界を連想します。
     ゲーム的なファンタジー世界は「なじみの世界」となったのです。
     そう、読者が心からの安心感を持って旅に出かけることができるほどに。
     もちろん、その世界には退屈な日常を覚醒させるようなセンス・オブ・ワンダー、「発見の喜び」はありません。
     読者なり視聴者は、その世界に出かけて、なんとなくだらだらと状況を楽しむのです。
     いや、たしかになかには破格に娯楽性の高い作品もあるでしょう。
     ですが、たとえば「小説家になろう」で大量に生産されているファンタジーのほとんどは、そこまで独創的な仕事とはいえないと思います。
     そんなものが面白いのか。
     面白いのです。
     もっとも、それは既存のエンターテインメントの面白さとはまた一脈違うものであるかもしれません。
     既存のエンターテインメントが、SFであれ、ファンタジーであれ、灰色の日常を輝かせるセンス・オブ・ワンダーを追求していたとするなら、最近のファンタジーなりウェブ小説が提供するものは、「だらだらした日常の安心感」とでもいうべきものです。
     見なれたなじみの世界へ行って、ちょっとした冒険を楽しむ。いわゆる「なろう小説」は多くがそういうものでしょう。
     それを堕落と捉えることはたやすいでしょうが、無意味なことです。
     旧世代とはエンターテインメントが持つ意味が決定的に変わってしまっているのですから。
     何が変わったのか。
     簡単にいうなら、いま、エンターテインメントは日常化したのです。
     かつて、エンターテインメントを楽しむということは、日常のなかに非日常的なひと時を約束するものだったでしょう。
     また、そういう体験をもたらす作品こそが傑作とみなされていたと思います。
     ですが、いまやエンターテインメントを消費することは、少なくともアニメを見たり、漫画を読んだり、ウェブ小説に耽ったりすることは、日常の一部に組み込まれた営為なのです。
     ぼくはそう思っている。
     それでは、なぜ、エンターテインメントは日常化したのか。
     それは、まずエンターテインメントの絶対量が大きく増えたということ、そして高速で定期的にエンターテインメントを提供するインターネットというメディアが普及したことが原因だと思われます。
     毎週放送されるアニメを見る。同じく毎週刊行される漫画雑誌を読む。そして、毎日更新されるウェブ小説を読む。
     これらは容易に「習慣」となり、日常の一部を構成します。
     そしてまた、膨大な量が提供されることによって、消費者は自然と「いくらがんばっても全部を消費しようがない」状況に置かれ、フィクションを消費する体験は特別性を失ったと思うのです。
     これは、音楽配信サービスの普及によって、音楽体験が特別さを失ったことと近いでしょう。
     とはいえ、ほんとうに素晴らしい傑作なら、いまでもぼくたちは「心で正座」して読むわけですが、「なろう小説」の大半はそういう性質のものではない。
     野尻さんなどがいうように、それらは、いってしまえば凡庸な、オリジナリティに欠ける仕事です。
     しかし、いい換えるなら、その魅力はその没個性さにあるともいえるのです。
     だから、「小説家になろう」で見られるいくつかの例外的に面白い作品を例に取って、こういう作品があるから「なろう」は素晴らしいと語ることはあたっていない。
     やはりなんといっても全体の99%を占める「凡作」の山こそが「なろう」の魅力なのです。
     いま、「凡作」と書きました。
     けれど、これは旧来的な価値観に則れば凡庸な作品といえるということであって、「なろう」を読む読者にとって無価値な作品ということではない。
     なんといっても「なろう」という「場」は、そういう作品によってこそ維持されているのですから。
     そもそも、SFであれ、ミステリであれ、ホラーであれ、ファンタジーであれ、ジャンルフィクションというものは、ある意味では凡人のためにあるわけです。
     天才はジャンルなんてなくても自分で独創的な世界を切り開いていきますから。
     もちろん、見方を変えればそれすらも純粋なオリジナルとはいえないわけだけれど、少なくとも独創的であろうとする「志」は高いとはいえる。
     ジャンルフィクションはそういう「志」を持たない作家に、ロケットや、宇宙人や、密室や、吸血鬼や、エルフを提供する。
     これらの素材を使いこなせば、比較的凡庸な作家でもちゃんといい作品を作れるというわけです。
     「なろう」はジャンルフィクションが持つそういう特性を極限まで特化した「場」であるといえます。
     個々の作品ではなく、その「場」そのものを楽しむという読者は多いことでしょう。
     そういう読者は「なろう」という「場」に日常的に出入りして、そこからお気に入りの作品を探し出しては耽溺します。
     はっきりいってそれらは旧来の価値観から見れば他愛ない作品であるかもしれません。
     ですが、エンターテインメントが日常化したいま、それらの作品を日常の一部として味わうことには意味があるのです。
     もちろん、何万という作家のなかには、特別に才能がある人も混じってはいることでしょう。
     そもそもジャンルフィクションには、時々、「お前はこの仲間じゃないだろう」といいたくなるような、特別な存在感を持つ作家が混じって来たりするものなのです。
     ぼくはそういう作家たちを、大森望さんの言葉から採って「魔法の名前」と呼んだりしています。
     まあ、SFでいうスタージョンとかティプトリー、コードウェイナー・スミスあたりのことですね。
     ミステリにおいては麻耶雄嵩、ジャンプ漫画においては諸星大二郎、エロゲにおいては瀬戸口廉也なんて作家が、その「特別なる1%」にあたるとぼくは考えます。
     「小説家になろう」にここまで特異な存在がいるかどうかは知らないけれど、近い存在を挙げるとしたら『魔法科高校の劣等生』の佐島勤さんあたりでしょうか。
     『Re:ゼロから始まる異世界生活』だとか、『本好きの下克上』あたりもかなり異端の雰囲気を放っていますね。
     ただ、そういう異端の作家をジャンルや「場」の代表として語ることは違うかな、という気がします。
     異端の傑作は、ある意味で語りやすい。いってしまえば、『孔子暗黒伝』のほうが『ダイの大冒険』より遥かに語りやすいわけです。
     ですが、それらだけを特別視することはただ語りやすい作品だけを語るという罠に陥ることでもある。
     だから、特にぼくなどは「凡庸な」「オリジナリティのない」作品をどう評価し、どう語るかという問題を真剣に考えなければならないと考えています。
     旧来的な価値で見れば凡庸な作品にも、少なくとも日常の一部として人生をより豊かにするというバリューがあることは、先述した通り、あきらかなのですから。
     もちろん、 
  • 甘ったるい萌えアニメに腰までひたっても、なお。

    2016-04-04 09:00  
    50pt

     さて、昨日の記事に続いて、ペトロニウスさんが最新記事のもうひとつの論点として挙げている「向上心がない物語はダメなのではないか」という話を語りましょう。
     これは、20年くらい前から延々と形を変えていわれつづけていることのバリエーションだと思うのですが、まあ、じっさいのところ、どうなんでしょうね?
     元々の野尻さんの発言は「コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ」というものでした。
     「コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品」とは、具体的には『このすば』のことらしいのですが、これがほんとうに問題なのかというと、正直、ぼくにはよくわからないです。
     たしかに、こういう作品ばかりになってしまったらいかにも退屈だし、良くない状況だとは思う。
     しかし、現実にそうなっているかというとね、なっていないんじゃないでしょうか。
     ここ最近ヒットしたアニメなりウェブ小説を見ていくと、必ずしも甘ったるいばかりの作品がウケているとはいえないと思うのですよ。
     もちろん、ぼくはそのすべてをチェックしたわけではないのでたしかなことはいえませんが、少なくとも『進撃の巨人』もあれば『魔法少女まどか☆マギカ』もある、『SHIROBAKO』もあれば『1週間フレンズ』もあるわけで、業界全体が一色に染まっているとはいいがたいでしょう。
     むしろ、過去に比べても多彩な作品が提供されるようになって来ていると思います。
     もし、それらの作品が一色に見えるとすれば、やはりパッケージの問題でしょう。
     現代のアニメには色々な作品があるけれど、そのほとんどに何らかの形で美青年や美少女が出て来ることもたしかで、そのキャラクターたちの画一的なイメージが作品に多様性がないという印象を与えているのだと思います。
     じっさいには、当然、キャラクタ―デザインにある程度の差異があるのですが、それは「わかる人が見ればわかる」種類のものであることもたしかです。
     わからない人が見ればやはり似たり寄ったりに思えるでしょう。
     そして、そのパッケージの印象を、野尻さんは「かっこ悪い」といって批判しているのだと思います。
     これは良く考えるとなかなか深い問題で、一理はあると思う。ただ、いまさら美少女を出してはダメだといってもね、それは届かないことでしょう。
     それに、ここ十数年くらいで、アニメに登場する美少女たちも(決してリアルになったわけではないにしろ)相当に多様化が進んでいると思うのです。
     ここらへんは「暴力ヒロイン問題」と密接な関わりがあるのですが、たとえば『俺妹』の桐乃なんかは一方で強烈な反発を受けるくらい過激なキャラクターであるわけですよね。
     そういうキャラクターもいまは例外とはいえないくらい普通に存在している。
     まあ、その手のキャラは必然的に「女の子は天使じゃないと許せない派」からは過剰な反発を受けるわけですが、そうかといっていなくはならない。
     あいかわらず色々な形で出て来ては視聴者の自意識を告発したりするわけです。
     そういう告発に耐えられない視聴者層はたしかにいます。
     しかし、いまとなっては、その手の告発すら平気で受け止められる視聴者層も熟成されて来ているように思います。
     野尻さんは「コンプレックスまみれの視聴者」と決めつけていますが、これはアニメ視聴者に対するかなり古いバイアスです。
     かつてはともかく、いまは特に大きなコンプレックスがないアニメ視聴者も相当の割合でいるはずです。
     そういう視聴者は必ずしも慰撫だけを求めてアニメを見ているわけではない。
     いや、当然、見ていて不快になるようなものを求めているわけではないでしょうが、野尻さんが考えているほど甘ったるいばかりの物語を求める「弱い」視聴者層ばかりではないと思う。
     その証拠に、『このすば』の主人公もさんざんあざけられ、ばかにされ、笑い者にされているではありませんか。
     まあ、たしかにかれはご都合主義的に美少女といっしょに旅をすることにはなります。
     ですが、その旅も美少女も必ずしも主人公を慰め、いい気分にさせてくれるだけの装置ではない。
     一見してそう見えるにしろ、じっさいには色々あるのであって、その色々が作品の個性となっています。
     「いや、そうではなく、もっと視聴者の自意識の欺瞞を徹底して告発するきびしい物語が必要なのだ」という意見もあるでしょう。
     それもわからなくはない。ある程度は共感できる意見です。
     しかし、 
  • ウェブ小説にオリジナリティはあるか。

    2016-04-03 13:20  
    50pt

     ペトロニウスさんの最新記事が例によって面白いです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160402/p1
     長い記事なので、いちいち引用したりはしませんが、つまりはウェブ小説は多様性がないからダメだ!という意見に対する反論ですね。
     ペトロニウスさんは「OS」と「アプリ」という表現で事態を説明しようとしています。
     つまり、物語作品には「物語のオペレーションシステム」ともいうべき根本的なパターンがある一方で、その「OS」を利用した「物語のアプリケーション」に相当する作品がある。
     そして、新たに「OS」を作り出すような作品は少なく、「アプリ」にあたる作品は数多い、ということだと思います。
     この場合、「OS」にあたるパターンを作り出した作品は「偉大なる元祖」と呼ばれることになります。
     ペトロニウスさんはトールキンの『指輪物語』やラヴクラフトの神話体系がそれにあたるとしているようですが、ほかにも、たとえば本格ミステリにおけるエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイル、モダンホラーにおけるスティーヴン・キング、SFにおけるH・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌといった存在が「OSクリエイター」にあたるでしょう。
     オタク系でいえば『機動戦士ガンダム』は「リアルロボットもの」というジャンルを作りましたし、『魔法使いサリー』は「魔法少女もの」の嚆矢となっています。
     最近の作品ではVRデスゲームものにおける『ソードアート・オンライン』、日常系萌え四コマにおける『あずまんが大王』などはまさにOS的な作品ということができるでしょう。
     これらの作品のあとには、まさに無数のアプリ的な作品が続いているわけです。
     こういった「OSクリエイター」はまさにあるジャンルそのものを作り上げた天才たちであり、その存在は歴史上に燦然と輝くものがあります。
     しかし、逆にいえば、このレベルの業績はそう簡単に挙げられるものではない。
     ある種の天才と幸運と時代状況がそろって初めて「ジャンルを作り出す」という偉業が成し遂げられることになるわけです。
     また、こういった「OS的作品」にしても、100%完全なオリジナルというわけではない。それ以前の作品にいくらかは影響を受けているわけです。
     さかのぼれるまでさかのぼれば、それこそ聖書や神話といったところに行きつくことでしょう。
     その意味では、この世に新しい物語とかオリジナルな作品は存在しない、ということができると思います。
     つまりは単に「OS的な作品」はその存在の巨大さによって模倣される割合が相対的に高いというだけのことなのです。
     ある意味では、それ以上さかのぼれない「究極のOS」は人類文明発祥時期の古代にのみ存在し、それ以降のOSは「OS的なアプリ」に過ぎないといういい方もできるでしょう。
     あるいは、神話や聖書の物語こそが「究極の一次創作」なのであって、それ以降の作品はすべて二次創作的なポジションにあるといえるかもしれません。
     いや、おそらくはこのいい方も正確ではないでしょう。
     ようするに人間が考えること、あるいは少なくとも人間が快楽を感じる物語類型は似たり寄ったりだということです。
     古代の作品、たとえば『イリアス』がオリジナルのOSであるように感じられるのは、たまたまその発表時期が古いからであって、必ずしものちの作品が直接に『イリアス』を模倣しているわけではありません。
     人間は放っておけば似たようなことを考え出し、発表するものなのです。
     ただ、何かしらOSにあたる作品があればそれは模倣され、「影響の連鎖」がより見えやすくなるというだけです。
     もちろん、OSとアプリの差はわずかなもので、アプリにあたる作品もまた模倣されます。
     神話のような原始的な物語を一次創作とし、OSにあたる作品を二次創作、アプリにあたる作品を三次創作とするなら、それをさらに模倣した作品は四次創作とか五次創作と呼ばれるべきでしょう。
     具体的な例を挙げるなら、謎解き物語の嚆矢であるところの『オイディプス王』を一次創作とするなら、そこから近代的な本格ミステリを生み出したポーの「モルグ街の殺人」は二次創作、それを模倣した本格ミステリの作品群、たとえばアガサ・クリスティやエラリー・クイーンの作品は三次創作、そこから影響を受けた日本の新本格は四次創作、それを破壊しようとした若手作家による「脱本格」は五次創作、ということになるでしょうか。
     まあ、じっさいにはこれほどわかりやすく「×次」と名づけることができないのは当然のことです。これはすべてあえていうなら、ということになります。
     こういった「模倣の連鎖」が良いことなのか? もっとオリジナリティを重視するべきではないのか? そういう意見もありえるでしょうが、それはほとんど意味がありません。
     こういう「影響と模倣の系譜」をこそひとは「文化」と呼ぶからです。
     ある意味では地上のすべての創作作品がこの「影響と模倣の一大地図」のどこかに位置を占めているということになります。
     その意味では純粋なオリジナルとは幻想であり、新しい作品などこの世にありません。
     オーソン・スコット・カードの「無伴奏ソナタ」ではありませんが、比類を絶した天才を人類文明とまったく無縁のところに閉じ込めて一から創作させたなら、あるいはまったく新しいOS的作品を生み出すことができるでしょうか。
     いいえ、決してそんなことにはならないでしょう。
     なぜなら、先にも述べたように、人間は放っておけば似たような物語を生み出すからです。
     いい換えるなら、人間の脳こそが「究極のOS」なのであって、そこから生み出される物語は神話であれ聖書であれ、アプリにしか過ぎないということになります。
     たとえば『ドラゴンクエスト』は多くの模倣作品を生み出したという意味で「OS的作品」であるといえます。
     しかし、『ドラクエ』が究極のOSなのかといえばそんなことはなく、それもたとえば『Wizardly』やスペンサーの『妖精の女王』といった先行作品の影響を受けているのです。
     その意味では、オリジナルかどうかを問うことにはまったく意味がない。どんな作品もどこかしら他作品の影響を受けているに違いないのですから。
     シェイクスピアが同時代のほかの作家の作品を模倣して新作を生み出していたことは有名です。
     偉大なシェイクスピアですらそうなのですから、この世に新しいOSなどありようもないということはできるでしょう。
     ただ、だからといってオリジナルさになんの価値もないかといえば、そんなことはないでしょう。
     ペトロニウスさんが書いているように、ようは程度問題なのです。
     完全なオリジナルなどというものがありえるはずもないけれど、だからといって一字一句までコピペしただけの作品が許されるわけでもない。
     ある程度はコピーであることを受け入れた上で、何かしらのオリジナルさを追求することが、現実的な意味での創作活動ということになるでしょう。
     それでは、その「オリジナルさ」とは何か。
     これは、『ヱヴァ』の庵野秀明監督が20年前に答えを出しています。すなわち、「その人がその人であること」そのものがオリジナルなのだと。
     『新世紀エヴァンゲリオン』は『ウルトラマン』や『ガンダム』、『マジンガーZ』、『宇宙戦艦ヤマト』といった先行作品の模倣にあふれた作品です。
     その意味で、まったく新しくないアニメだとはいえる。
     しかし、同時に『エヴァ』ほど個性的な作品はめったにないことでしょう。
     さまざまな設定やシチュエーションが先行作品からのコピーであるからこそ、庵野監督独自の個性がひき立つのです。
     これについては、『東のエデン』の神山健二監督が述べていたことが思い出されます。
     神山監督は、既に押井守監督による傑作劇場映画が存在する『攻殻機動隊』というコンテンツをテレビアニメ化するというオファーを受けたときに、あえて押井監督と同じものを目指したのだそうです。
     普通、クリエイターならまったくだれも見たことがない『攻殻』を、と考えることでしょう。
     しかし、神山さんは意識して先行作品を模倣した。その結果として、逆に押井さんと違うところ、つまり神山さんだけの個性が浮かび上がったというのです。
     この話はきわめて示唆的です。
     つまり、同じようなシチュエーションを活用したとしても、まったく個性がない作品が出て来るとは限らないということ。
     むしろ、才能あるクリエイターであれば、同じようなシチュエーションを設定すればするほど、その人だけの個性が浮かび上がるものだということです。
     これは、同じようなシチュエーションを多用するジャンルフィクションがなぜ面白いのか、という問いへのアンサーでもあります。
     ある前提条件を徹底してコピーすればするほど、作品のオリジナリティは際立つ。少なくとも才能ある作家ならそうなるのです。
     美術史では聖書や神話など同じ題材を使用した作品が多数あります。
     ですが、同じ題材を使っていてもクリムトとピカソではまったく表現が違う。
     むしろ同じ題材を使うからこそわかりやすくその差異が際立つわけです。
     これが「ジャンル」というもの、「文化」というものの面白さです。
     しかし、それならば、なぜ「ウェブ小説はオリジナリティに欠けている」といった批判が寄せられるのか。 
  • オタク文化はどこまで政治的に正しくないか。

    2016-04-02 23:26  
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     ここ数日、ひとりでうちにやって来た甥っ子(6歳)の世話に追われていた海燕です。
     エネルギーにあふれる子供の相手ってほんとうに疲れますね。
     わが家に滞在しているあいだ、ほぼぼくがメインで子守りをしていたので、甥が帰宅したあとはスイッチが切れたようになりました。疲れた!
     ちなみに本人は初めは小声で喋っていたものの、慣れるにつれて大きな態度になり、しまいには「あっち行け!」とかいいだすまでに。いや、ここ、ぼくの家なんだけれど。
     そのうち「バトルごっこしようよ。ぼく、仮面ライダー全部とウルトラマン全部ね」などといった迷言も飛び出すありさま。お前は何をいっているんだ。
     最後は上機嫌で帰ってくれたのが救いですが、そのあいだプライベート時間がないのはしんどかった。世のパパさんママさんの偉大さが身に沁みます。いや、ほんと、偉いなあ。
     まあ、楽しかったけれどね。
     さて、それとはまったく関係ありませんが、「最近オタクとして生きるのがつらい」という匿名記事を読みました。
    http://anond.hatelabo.jp/20160330144201
     この手のタイトルに対しては「辛いならやめれば」としか思わないぼくなのですが、この記事は論旨の展開がちょっとだけ面白かった。
     つまり、オタクとオタク文化の政治的な「正しくなさ」が耐えられないという意見なのですね。
     具体的には『涼宮ハルヒの憂鬱』はセクハラだとか書かれています。
     はっきりいっていまさらな話ではあるし、具体的な指摘にはツッコミどころもあるのですが、まあ、そういう考え方はありえるだろうな、とは思います。
     厳密に見ていけば、それはオタク文化なんて問題含みに決まっている。
     ライトノベルであれ、ウェブ小説であれ、差別的な表現なんていくらでも見つかることでしょう。
     この記事自体は実に他愛ない内容に過ぎませんが、現代のオタク文化に差別性があるという指摘そのものは否定できない一面があると考えます。
     しかし、だからといってこの文化が堕落した良くないものなのだ、とはぼくは考えないのですね。
     結局のところ、それもまた人間の一面である、と考えるからです。
     昔からの読者の方は、ぼくが『らくえん』というエロゲを好きなことをご存知なことでしょう。
     このゲームはムーナスという名のエロゲメーカーに就職した主人公を描いているのですが、そこではオタク文化のダメな側面がこれでもかというほど語られます。
     ひっきょう、オタク文化のことを語るとき、そのポルノ性を否定することはできない。
     オタク文化とは欲望の文化なのであって、どうあがいてもお綺麗な表現だけで表し切ることはできないのです。
     しかし、『らくえん』はだからオタクであることが辛いなどといいだすことはありませんし、シニカルに「それはしかたないことだよね」と訳知り顔をしてみせることもしません。
     「欲望の文化」としてのオタク文化を正面から見据えた上で、そこに人間の人間らしさを見るのです。
     上記記事ではオタク文化を「果実」と「クソ」に分けて、前者を肯定し、後者を否定しています。
     オタク文化にはいい側面もあるけれど、政治的におかしい部分もあって、悩ましいといういい方ですね。
     しかし、ぼくにいわせればそうやって良いところと悪いところに分けて考えられるほど問題は単純ではない。
     オタク文化であれほかの文化であれ、「偉い思想にのっとって書かれた素晴らしい作品」と「そうではないくだらない作品」を分けて、前者にだけ価値があるのだとする時点で、何かが間違えている。
     そうやって清と俗を分けた段階で、人間の本質を見落としているのだと感じるのです。
     むしろ、 
  • 究極の異世界ファンタジーとは。

    2016-03-23 08:27  
    50pt

     山本弘さんが「現代日本の異世界ファンタジーの多く」を批判的に語って話題になっているようです。
    http://togetter.com/li/952223
     いきなりですが、この意見が、炎上とは行かないまでも賛否を呼ぶ背景には、わりと典型的なディスコミュニケーションの問題がある気がしてなりません。
     というか、ある意見が非難を集めるときは、しばしばそこに何かしらの誤解が生じていると思うのですよ。
     これは非常にむずかしい話ではあるとも考えるのですが、だれかの意見を理解しようとするときには、ただ言葉の表面だけを追っていけばいいというものではなくて、その奥底にある「その人がほんとうにいいたいこと」を慎重に探っていかなければなりません。
     しかし、それと同時に、かってに憶測をたくましくして、その人がいってもいないことをわかったと思ってはいけないのです。
     この一見矛盾する条件を満たそうと努力することが「読む」ということなのであって、ただあいまいな印象だけを受け取るとそこに誤解が生まれます。この場合もそのパターンだと思う。
     論者である山本さんとそれを批判するほうで、認識にずれが生じている可能性が高い。
     ぼくはこういうやり取りを見るたびにもう少しどうにかならないかなあと思うのです。
     情報を発信する側と受け取る側のどちらに責任があるともいえないし、またどちらにも責任があるともいえるというケースだと思うのですが、責任の所在はともかく、あまりにも話が不毛すぎる。
     だれもが自分だけは正しい、自分だけは正確にひとのいわんとするところをわかっていると思い込んでいて、結果として誤解が広まっている。
     このパターンを、いったいどれくらい見てきたか。
     ネットで「議論」とか「論争」と呼ばれているものの正体は、大抵が放置されたディスコミュニケーションに過ぎないのではないかと思うくらいです。
     こういうやり取りを見ていると、簡単にひとのいわんとするところを理解したつもりになってはいけないのだなあと思いますね。
     もちろん、ぼく自身、山本さんのいわんとするところをわかっていると思ってはいけなくて、誤解が生じていると思うこと自体が誤解なのかもしれませんが……。
     それはともかく、「どうも現代日本の異世界ファンタジーの多くは(もちろん例外もあるが)、「異世界」じゃなく、「なじみの世界」を描いてるんじゃないか」という意見は、ある程度は正しいものだと思われます。
     山本さんは作家ひとりにつきひとつの世界があってもいいという前提で考えているわけで、それに比べれば「現代日本の異世界ファンタジー」の多くはよりシンプルに規定された世界を描いているに過ぎない、これは想像力の貧困じゃないか、という指摘は、まあありえると思う。
     問題は 
  • 情報洪水の時代をいかに生きるか。あるいはウェブ小説と音楽定額配信の共通点。

    2016-03-21 21:45  
    50pt
     敷居さんがブログで「ウェブ小説を読むことの気楽さ」について語っていますね。
    http://d.hatena.ne.jp/sikii_j/20160314/p1
     なぜわざわざ素人が書いた小説を読みあさるのかという問いへの解答です。
     曰く、「小説家になろう」を読むときは「ちょー気楽に、面白くない場合もあるってことを織り込み済でとりあえずパラパラ読む」。
     なるほど、納得です。多くのアマチュア小説は、最低限の面白さすら保証されていないわけですが、なぜそういうものをあえて読むのかといえば、まったく期待せずに読むから労力を使わなくていいのだということですね。
     いい換えるなら、「心が正座していない」ということができるかもしれません。
     真剣な姿勢で物語に向き合っているのではなく、ごく気楽にページをめくってみるという態度。
     あるいはそれは小説に向き合う態度として不遜なものとそしられるかもしれませんが、じっさいのところ、ウェブ小説のような媒体を読むためには必然的なスタイルだと思われます。
     敷居さんはこの姿勢を「雑誌」を読むときに喩えていますが、ぼくはむしろ音楽の定額配信を連想します。
     ウェブ小説を読む気楽さは、1000万曲とか3000万曲といったまさに途方もない数の楽曲をてきとーに流して聴いていく気楽さと、一脈通じているのではないか。
     その昔、といってもわずか数十年前のことに過ぎませんが、その頃には音楽はある程度「正座して聴く」ことが普通のものだったでしょう。
     日常生活のなかで音楽を聴く方法がレコードを聴くことくらいしかなく、「好きな楽曲を好きなように好きなだけ」聴くというスタイルは困難だったからです。
     人間のアートの受容のしかたはテクノロジーに規定されるわけで、その時代には音楽を聴くということはいまよりいくらかシリアスなことだったと思われます。
     もちろん、そのさらに昔、レコードすら存在しない頃にはさらに真剣だったことでしょう。
     トーマス・マンの『魔の山』で、山上のサナトリウムでモーツァルトか何かのレコードを流す場面がありましたが、とても神聖な時間として描写されていた記憶があります。
     ようするにテクノロジーの進歩は、ひとが小説なり音楽といったアートに向き合うことをきわめて気楽なことにしてしまったのです。
     それが良いことなのかどうかは一概にはいえません。
     見方を変えるなら、ぼくたちは作品にほんとうに真剣に向き合うことを忘れてしまっているということもできるかもしれません。
     あまりにも大量の小説やら映画やらアニメやらがあふれているいまの時代、かつてのように「人生で数少ない貴重な体験」として物語を味わうことは不可能に近いように思われます。
     いまではもう一期一会の真剣さで物語と付き合うことは非常にむずかしい。
     どうしたって、ある程度は「気楽」なスタイルで膨大な物語を次から次へと消費していくという形にならざるをえません。
     しかし、 
  • 『ウェブ小説の衝撃』の、ここはほんとに納得いかなかったところ。

    2016-03-06 01:20  
    50pt
     三つ前の記事に対し、「最近、ウェブ小説が流行っているが、一部の人向けの、特定の傾向の作品ばかりが流行っていて多様性がない。けしからん」という構図に持って行きたがっていた記者に対して、ひとつひとつつぶしてゆくQ&Aだということを伏せて、対話のやりとりの一部だけ抜粋して、話を誘導するのは、フェアじゃないと思います。」というコメントが付きましたので、この「抜粋」についてもう少し詳しく解説したいと思います。
     まず、問題になっているのは以下のQ&Aなので、再掲します。公正を期して、前回は中略していた部分も復元しておきましょう(前回中略したのは全文を書き移すのが面倒だったからで、それ以上の意図はありません。念のため)。

    Q. ウェブ発のほうが紙よりウケるとか売れるとかいう以外の軸で、小説の文化的な価値をもっと考えた方がいいんじゃないですか? 売れないけれども文学的な価値の高い「いい本」だってあるでしょう?
    A. もし紙の世界の作家や記者が、出版ビジネスの商売の部分を否定して文化的な価値だけを称揚するのであれば、今すぐ自分の本や雑誌に値段を付けて売るのをやめて、ウェブ小説のプラットフォームにアップして無料で読めるようにしたらいい。「売れなくてもいい」「多くの人に読まれなくても、自分の作品の価値を信じる」という書き手はウェブにもたくさんいる。無料で読めるようにしている時点で、神で値段を付けて売っているくせに「商売よくない! 文化大事!」などと言っている人間よりも、純粋に文化というものを信じていると思う。どうしてタダで広く読めるようにしないのか? どうしてウェブの作品には紙に載っている作品より価値がないような言い方ができるのか?

     こうしてみると、中略しないほうがよりぼくの意見がよりわかりやすくなりますね(中略されていてもわかるとも思いますが)。
     ぼくはこの意見は「Q」に対する「A」になっていないと考えます。「Q」と「A」で話がずれている。
     まず、そもそもここでの「Q」は「文化的な価値」だけが大切で「商売の部分」なんてどうでもいいといっているわけではないと思うのですよね(それ以前にこの「Q」自体、著者が自分の記憶に沿って書き記したものなので、じっさいの記者の考えそのものとはかけ離れている可能性もあるわけですが、それはとりあえず置いておく)。
     この「Q」はただ、どこまでも「商売の部分」を重視する著者に対し、「小説の文化的な価値をもっと考えた方がいいんじゃないですか?」と問うているだけだと考えるほうが常識的だと思えるわけです。
     だから、その意見に対し、「もし紙の世界の作家や記者が、出版ビジネスの商売の部分を否定して文化的な価値だけを称揚するのであれば」という前提で答えていくことはおかしい。だれもそんなことはいっていないわけですから。
     ただ単に「文化的な価値をもっと考えようよ」というだけの意見がなぜかあっさりと「商売の部分を否定して文化的な価値だけを称揚する」意見にすり替わっている。
     また、中略されていたところを元に戻したことであきらかになったように、なぜか突然、「商売よくない! 文化大事!」と叫ぶ架空の人物が登場させられてしまっている。
     だれがそんなことをいっているのでしょう? 少なくとも「Q」からはそんな趣旨は読み取れませんよね。
     だから、ぼくは「そういうことではないでしょう」といったのです。
     「ビジネス」だけを考えるのではなく、「文化」だけを考えるのでもなく、「ビジネス」と「文化」の両方を考えていくことが大切なのではないか、と。
     これに対して、もし仮に「いや、ビジネスだけが重要で、文化など重要でないのだ」という答えが返って来るとしたら(じっさいにはそこまではいわないでしょうが)、それは「文化」だけを重視し「ビジネス」を軽視する考え方をそのまま裏返しただけの思想に過ぎないとしかいいようがありません。
     だから、ぼくは「「文化」と「ビジネス」はいわば鳥の両翼です。文化なくしてビジネスが栄えつづけることなく、また、ビジネスなくして文化が花ひらくこともない。両方が大事なのです。「こんなに売れているのだからいい作品に決まっている」というのでは、「いい作品」の条件の片方しか満たしていません。」と続けるのです。
     おわかりいただけるでしょうか。
     ちなみに、同じQ&Aのほかの部分になりますが、「特定のタイプの、程度が低いくだらない作品ばっかり流行っていて、作品の多様性がないんじゃないかと思うんですが、どうなんですか?」という質問に対し、「流行りがあること、流行りに乗っかった作品が目立ち、そうでない作品が埋もれがちなのはウェブ小説に限らず、どのジャンルのエンタメでも起こっていることにすぎない。それをもってウェブ小説を断罪するのであれば、規制の紙の小説も同様に批判すべきである。(後略)」と答えているやり取りもずれていると思います。
     「くだらない作品ばっかり流行っているんじゃないの?」という問いに対して「流行りはどのジャンルにもある」と答えるのは、あきらかにずれているでしょう。意図的にやっているんじゃないかと邪推したくなるくらいです。
     もし著者が真にウェブ小説の価値に自信を持っているのなら、ストレートに「くだらない作品ばっかり流行っているなんてことはない。素晴らしい作品が多い。」と答えればいいところですからね。
     可能性として想定できるのは、著者自身、内心では「程度の低いくだらない作品ばっかり」という意見を否定しきれないと考えているということですが、真相はわかりません。
     しかし、どうやらこの「Q&A」では「「最近、ウェブ小説が流行っているが、一部の人向けの、特定の傾向の作品ばかりが流行っていて多様性がない。けしからん」という構図に持っていきたがっていた記者およびその上司の思惑」を潰し切れているとはいいがたいようです。ぼくはそう考えます。 もうひとつ念のために付け加えておくとしたら、ぼく自身は「くだらない作品ばっかり」とは考えていません。
     では、何か異論があったら、どうぞ。 
  • 飯田一史『ウェブ小説の衝撃』で納得したところと物足りないところ。

    2016-03-03 01:34  
    50pt

     飯田一史『ウェブ小説の衝撃』読了。
     ここ数年、「小説家になろう」や『E★エブリスタ』から始まって無数の作品を世に出しているウェブ小説を特集した一冊。
     ぼくは「ウェブ小説」ではなく「ネット小説」という表記を使いますが、内実は同じことです。
     「インターネット上で発表された小説」のことですね。
     昨今、「なろう」や「エブリスタ」から生まれた作品は数多くが出版され、商業的にも成功し、注目を集めています。
     しかし、そうはいっても「しょせんウェブ小説」と見られる傾向はなくならないわけで、そういう意見に反論する本といってもいいでしょう。
     で、その反論の内容がどうだったかというと――うーん、イマイチ?
     いや、誤解してほしくはないのですが、この本の内容に特に問題があるというわけではないのです。
     むしろ、全体が限りなく見通しづらいウェブ小説の世界をともかくも一覧したということで、画期的な意味のある本だと思う。
     今後、ウェブ小説について語る人は、肯定するにせよ否定するにせよ、この本の内容を参照せざるをえなくなるはずです。
     そういう意味ではなかなかエラい一冊といってもいいかと考えます。
     しかし、やはりこの本だけだと片手落ちという印象は否めない。
     この本で語られていることは、どこまでも「ウェブ小説ビジネス論」でしかないわけで、「ウェブ小説文化論」とでもいうべき本が必要だと感じます。
     そうじゃないと、いくら「こんなに売れている」、「こんなにウケている」といわれたところで、もうひとつ納得できないのですね。
     どんなに売れていても、ウケていても、くだらないものはくだらないとしか思えないわけですから。
     セールスを絶対の尺度とするような見方は、インターネットではわりとメジャーになりましたが、ぼくはそういう尺度で物事を考えようとは思わないのです。
     だから、この本のどこが悪いというわけではないのだけれど、「ビジネスではなく文化の側面からウェブ小説を熱く語った本が欲しいな」という思いは残ります。
     ビジネスと文化。両方の側面がそろって初めて、「なるほど、ウェブ小説ってすごいんだな」と心から納得できるでしょう。
     だれかそういう本を書きませんか。ものすごく大変だと思うけれど。
     この本のなかで語られているものは、