• このエントリーをはてなブックマークに追加

タグ “映画” を含む記事 170件

映画『映画大好きポンポさん』を庵野秀明や宮崎駿と比較し語る。

映画版『映画大好きポンポさん』が腑に落ちない。  先日、すでに各地で好評を集める『映画大好きポンポさん』を観て来たのですが、いまひとつ自分のなかでどう評価するべきなのか納得が行っていないところがあって、考え込んでしまいました。  特にクライマックスのあたりをどう解釈するべきなのか、正直、良くわからなかったんですね。  通常、映画作りテーマの作品でも光があたることが少ない「編集」という作業にスポットライトをあてていることはわかるのだけれど、それが何を意味しているのか、主人公のジーンくんが何を選び、何を捨てているのか、明確には理解できなかった。  そのあたりのとまどいは哲学さんと放送したYouTubeを聴いていただければわかるかと思います。 https://youtu.be/Ivcr1xm0XGs  思いっきり腑に落ちない感じで話している。  そのことについて語るまえにまずは物語のあらすじから話をしますと、この映画の主人公は映画の都ニャリウッドへやって来て天才プロデューサー・ポンポさんのアシスタントをしている青年ジーン・フィニ。  「えっ、ポンポさんが主役じゃないの!?」と思われるかもしれませんが、ポンポさんはあくまでそのジーンくんが召使いのごとく忠実に仕える美少女プロデューサー。『ドラえもん』でいえばジーンくんがのび太、ポンポさんがドラえもんの役どころですね。  ジーンくんは、伝説の超大物映画プロデューサーから地盤も人脈も才能もすべて受け継いだニャリウッドいちの敏腕プロデューサーであるポンポさんのもと、映画作りのノウハウを学んでいくのですが、あるとき、ポンポさんが書いた脚本を映画化するというビッグチャンスが舞い込んできて――というところからストーリーは始まります。  まあ、おおまかなあらすじはほぼ原作通りですね。少なくとも前半前半のあたりはほぼ原作そのまま。原作に出てこないキャラクターが顔を見せたりして気になるところもあったのですが、原作既読のぼくは「まあまあかな」などと偉そうに思いつつ、スムーズに見れました。  ところが、映画は後半に入ると、お話は大きく原作から逸脱しはじめます。 いったい「それ」は何を意味しているのか?  それは、具体的には、映画の撮影が終わったあと、監督であるジーンくんが自ら映像を編集するくだりです。原作ではわずか数ページしかないこの場面が、映画では物語のクライマックスとして長々と語られます。  じつはぼくはここがわからなかったんですよね。どう考えたら良いのか、どうにも釈然としなかった。良い話のような気はするのだけれど、いまひとつ心から納得はできないというか、ナチュラルに受け止めることができなかったのです。  というのも、この後半で、ジーンくんはいままで撮った膨大なシーンを片端からカットしていくのですね。  良い映画を作るためには不要なシーンを捨てなければならないという信念のもと、いままで苦労して撮ったシーンの数々を捨て去っていくわけなのですが、それでは、そうやって「いらないもの」を捨てていったあとに残るものは何なのか? かれにとっての選択の基準とはどういうことなのか? そこがいまひとつわからなかった。ピンと来なかったんです。  良い映画を作り出すためには、スタッフがどれだけ苦労して撮ったシーンであっても、捨てなければならないことはある。それはよくわかる。その通りだと思う。でも、それでは、その良い映画、優れた作品とは何なのか?  この『ポンポさん』という映画は一種のメタ構造になっていて、物語が進んでいくにつれ、作中のジーンくんと、作中作(映画内映画)『Meister』の主人公、天才指揮者のダルベールとが重なり合っていくようになっているのですが、そのダルベールが最後に指揮に成功する「アリア」とはどのような性質のものなのか? ええ、白状しますと、もうさっぱり理解できませんでした。  作中の設定によると、アリアとは感情を乗せなければ表現できない曲であり、孤独で尊大なダルベールはいったんその指揮に失敗してしまいます。  その後、ヒロインのリリィと出逢って過去の感情や思い出を取り戻し、再度挑戦して成功するのですが、そのことは具体的に何を意味しているのか? ここがどうしても判然としなかった。 二度目の鑑賞に挑んでみた。  そこで、しかたないので、もういちど映画館に行って同じ映画を見てきました! 日々、赤貧にあえぐぼくとしては同じ映画を二度も見に行くというのはきわめてめずらしいことです。それくらい、この映画のことが気になっていたのですね。  ぼくがこの映画について抱いていた「謎」とはこのようなものでした。作中で、ダルベールは「感情」がなければ指揮できないアリアを成功させる。ということは、かれはリリィと出逢ったあと、「感情や思い出」を取り戻したと解釈できるはず。  したがって、そのダルベールと重ね合わせられて描かれているジーンくんもまた「感情や思い出」、いい換えるなら「愛」を取り戻したと見ることができるはずなのだけれど、作中の描写を見ると、かれはひたすら「友情」や「生活」といったものをカットしていっている。  これはなぜなのか? いったいジーンくんは捨てているのか得ているのか、どちらなのか? うーん、わからないよう、と。  どうも同じような感想を抱いた人はやはりいたようで、某映画感想サイトにはこのような意見が載っています。 「一番気になったのが追加撮影からのジーン。 まず追加撮影で何を撮りたかったのかが、イマイチピンとこない。 何よりマイスターのダルベールは作中劇でリリーと出会い、忘れてたものを取り戻し、それを音楽に還元したのでは? ジーンが映画以外を削ぎ落として作品を完成させたのならそこが一致してないのがモヤモヤする点だった。 結局削ぎ落とすのか、拾うのかがわからなかった。 「アリア」というワードも急に出てきた感じがしてしまう。後半にテーマ(情報量)が増えてちょっと集中しにくかった。」 https://eiga.com/movie/91732/review/02568914/  そうそう、ぼくもそう思ったのよ。ジーンくんは自分にとって大切なその他のものを捨てて、犠牲にして、映画を選んだように見える。  しかし、作中作のダルベールは「忘れていたもの」を取り戻して、アリアの指揮を成功させている。その意味でふたりは同じではない。それにもかかわらず、かれらは重ねあわされて演出されている。これは矛盾ではないのか、と。 ジーンくんは「映画の鬼」になったのか?  もし、ジーンくんは映画を作るという目的のためだけにすべてを捨て去って、ただ最高の映画を撮ることだけを目指す一匹の修羅になり果てただ、ということならそれで良いし、それはそれで凄い話なのですが、どうもそういうふうにも見えない。  創造や芸術の傲慢と狂気を描く、たとえば芥川龍之介の「地獄変」とか、そういう系統の物語だとは思えないのです。  たしかにかれは自らの「狂気(映画作成を至上目的とする傲慢なエゴ)」の命じるまま、「映画にとって不要なもの」すべてをカットし、自らの人生を重ね合わされた映画を編集しつづけるのですが、論理的に考えるなら、かれが最終的に「これがぼくのアリアだ!」と叫ぶほどの傑作を作ることができたのは、そこに「愛」があったからであるはず。  そうでなければ、「ただの傑作」はともかく、「かれにとってのアリア」は撮ることができなかったと思うのですね。  LINEで色々と話をしたところ、狂ったように編集にこだわるジーンくんの姿に、『シン・エヴァ』の庵野秀明さんを重ね合わせて見た人もいたのですが、ぼくが思い出したのはむしろ『かぐや姫の物語』の高畑勲さんでした。  高畑さんは映画を一本作るために、ほんとうに人が死んでしまうところまで追い込むような作り方をしているわけですよね。作品至上主義をつらぬいて、それでほんとうに死者が出ている、ということはまことしやかに語られているところです。  これはもう、映画の鬼というか修羅というか、そういう境地であるわけですが、ジーンくんがめざしたのもそういうところなのか。それだったらそれで凄いけれど、どうにもそうは思えない。  いや、高畑勲ではなく、宮崎駿の『風立ちぬ』でもかまいません。あの映画は、おれは自分が美しいと思うもののためなら人も殺すし国も滅ぼすんだ、良い仕事をするとはそういうことでしかありえないんだ、というテーマであったように思います。  『風立ちぬ』はそれによってものすごい傑作になっているのですが、ジーンくんもあの映画のなかの堀越二郎と同じような道を往こうとしているのか? ジーンくんはなぜ「かれにとってのアリア」を撮れたのか?  そう、ジーンくんが捨てて捨てて、最後に残そうとしたものは何だったのか?と思ったのですね。作中作のダルベールの場合、それは家族との思い出、家族への愛だった。それでは、その作中作を撮っているジーンくんにとっては何だったのか?  映画はかれとダルベールが重なるように作られているので、かれにもまた何らかの愛があるはずであるという結論が出て来そうなのだけれど、そうなのか? ジーンくんは映画しか愛していない男だったのではないのか? そんなかれの「アリア」とはどのようなものなのか? そこがどうしても解釈し切れなかった。  ダルベールは家族への愛があったから感情がこもるアリアを指揮できた。それはわかる。理解できる。では、ジーンくんはなぜかれにとってのアリアである『Meister』という映画を作れたのか? そこがわからない。  ただ映画しか愛していない男にダルベールにとってのアリアに相当するような映画が作れるのか?  ここで気になるのがジーンくんがすべての撮影が終わったあと、スケジュールを延長してまで追加撮影するシーンです。  それはダルベールと家族との確執と別れの場面であるわけなのですが、これはつまり、ジーンくんはダルベールが家族を愛していることを説明するシーンがこの映画には必要不可欠だ、それがダルベールの音楽の核心なのだから、とそう思ってその場面を撮影したのだと見るべきだと思うのです。  しかし、それだったらこの『映画大好きポンポさん』という映画にも、ジーンくんにとってのコアのところにあるものを説明する箇所が必要なんじゃないの?と思ったんですよ。  まあ、随分と長々と話してしまいましたが、ぼくはその点がどうにも納得がいかなくて、それでこの映画の評価を保留していたわけです。「どうやら傑作のような気はするけれど、まだ断定できないぞ」と。  

映画『映画大好きポンポさん』を庵野秀明や宮崎駿と比較し語る。

傑作? 迷作? 『劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト』を観た!

ひたすら「ぽかーん」。理解を絶する暴風映画。  先ほど、映画『劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト』を観て来ました。いやあ、めちゃくちゃ面白かったけれど、まったくわからなかった(笑)。  だれだよ、初見でも大丈夫とかいったの! 全然ちっともこれっぽっちも大丈夫じゃねえよ!! こんな映画、事前情報なしで見て理解できるわけないだろ!!!  テレビシリーズの総集編だと聞いていたので、見ているあいだじゅう「???」が頭のなかを飛び交い、「こんな総集編があってたまるか!」と思っていたけれど、いや、新作だよね、これ。良かった。  いや良くないけれど、テレビシリーズ続編の新作ならまだ理解できる。理解できなさが理解できる。これがほんとうに総集編だったならどうすれば良いのかわからなくなるところだった。  まあ、どうやらある演劇系の名門学園に集った舞台少女たちの友情と葛藤の物語らしいのだけれど、もうストーリーはあってないようなもの、ひたすらヴィジュアルの絨毯爆撃が続くモンスタームービーですね。  あるいはもしかしたらぼくが理解できていないだけという可能性もありますが、一般的なストーリーの構成から逸脱している作品であることは間違いありません。逸脱しているというか、だれが主人公なのかも良くわからない。  でもまあ、テレビシリーズを見ていたらわかるのだろうけれど……いや、ほんとにそうか? これ、ひょっとしてテレビシリーズを見ていてもなおぽかーんとするやつなんじゃないのか?  アニメーションの快楽を感じさせることはたしかだけれど、それにしても視聴者を信頼しすぎ。こんなシロモノがちゃんとエンターテインメントとして、何なら『ラブライブ!』あたりのお仲間みたいな顔をして、堂々と劇場公開しているあたり、ぼくらの日本という国は凄いと思います。  文化的に成熟し過ぎやろ。いったい何をどうしたらこんな映画ができて来るんだ? しかもふつうにアイドル的な萌え美少女映画として見れなくもないし。何が何やら。  

傑作? 迷作? 『劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト』を観た!

結婚の夢と現実を描く映画『ストーリー・オブ・マイライフ』が傑作。

 映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』を観た。観てしまった。  タイトルの通り、オルコットの名作『若草物語』の映画化である。ぼくはあまりくわしくないが、過去、何度も映像化されている作品であり、日本でも「名作劇場」枠でアニメになっている。この映画はその最新のバージョンというわけだ。  ただ、現代において、古典的な傑作を映画にする以上は、何かしら新たな解釈を求められる。だからぼくは最初、さてお手並み拝見といった感じで余裕しゃくしゃくに観ていたのだが、シリアスなテーマが浮かび上がって来るにつれてしだいに余裕がなくなり、最後には真剣に観入った。  いやあ、これは素晴らしいですわ。まさに現代の傑作。ハリウッド映画ってまだこんなに美しい映画を撮れるのだなあ。凄い。  物語の基本的な骨子は良く知られている『若草物語』そのままだ。メグ、ジョー、ベス、エイミー。それぞれ異なる個性を持つマーチ家の四人姉妹の少女時代が暖かな映像とともに綴られる。  この四人の性格描写が絶妙で、長女としての責任を感じ大人びたメグ、奔放で破天荒なジョー、内気でおとなしいが優しい心を持ったベス、しょっちゅうジョーと喧嘩している勝ち気で頑固なエイミーと、四者四様のキャラクターが丹念に描かれていることはご存知の通り。  しかし、この映画ではただオルコットの『若草物語』をそのまま再現するに留まらず、彼女たちの過去(少女時代)と現在(大人になってから)を交錯させながら描写することで、女性の生き方のむずかしさを描き切っている。  女性の幸せが「結婚」にしかないと見られていた時代、自由な生き方を貫くにはどうすれば良いのか? はたしてほんとうに愛さえあれば人は幸せになれるのか?  「愛」という感情と「結婚」という制度から構成されるいわゆるロマンティック・ラブ・イデオロギーに正面から疑義を突きつけていく展開は、まさに端正なフェミニズム映画といって良いだろう。  もっとも、必ずしもそのような頭でっかちな解釈で見る必要はないかもしれない。何といってもそれぞれ負けず劣らずに美しく可憐な四人の少女たちを見ているだけで楽しい。  長女メグを演じたエマ・ワトスンを初め、あたりまえのようにハリウッド映画らしい美人女優がそろっていて、きわめて花やかな映画である。  ただし、『若草物語』のストーリーをまったく知らないと、過去と現在が錯綜する内容、特に序盤はいくらか混乱する可能性がある。おそらく、制作側は観客が『若草物語』の筋書きをそれなりに知っていることを前提に映画を作っているのだろう。  そこは欠点といえば欠点なのだが、映画全体の素晴らしさを考えればささやかな瑕疵に過ぎない。これから観る人はひとつの愉快なエンターテインメントを観るつもりで気軽に鑑賞してほしい。  物語の実質的な主人公は作家を目指すジョーである。四人姉妹のうち最も男まさりで自由闊達な性格をした彼女は、作家として身を立ててひとりで生きていくことを望んで幼馴染みのローリーのプロポーズも断わってしまう。  だが、どうにかニューヨークに出て作家にはなったものの、「刺激的な」作品を求める編集者に合わせ、どうしようもなく俗悪なストーリーを綴る日々が続いている。  いったい自分は何をやっているのか? 心中では疑問に思いながらも家族を養うためといいわけして自分の心をごまかしつづける彼女のもとに、妹のベスが病に臥せっているという報せが届く。ジョーは仕事を投げ捨てて家に帰るのだが、というところから物語は始まる。  そこに昔日の家族の想い出の回想がインサートされていくわけだ。そのジョーたちの少女時代は全体に暖かな色調で描かれているのだが、一方で「現在」は寒々としたカラーが貫かれている。  四人が四人とも、貧しい生活ではあっても、それぞれに自由で素直でいられた少女時代と、それぞれ生活の現実に追い立てられている大人時代が対比されているのである。  そういう意味では、ロマンティックなラブストーリーに終始する作品ではまったくない。むしろ、「アンチ・ラブストーリー」といったほうが良さそうですらある。  そう、全体を通して観てみると、この映画のテーマはあきらかだ。女性にとって「自由」と「結婚」は矛盾する、自由でありつづけたいと願うなら安易に結婚したりしてはいけないということなのである。  ジェンダーフリーやリベラリズムが浸透し、女性もまたさまざまな生き方を選択できるようになった現代でもなお、どうしても愛や結婚に夢を見がちな女性たちに向け、シビアな現実を突きつけているといえるだろう。  いや、ほんとうに凄い映画だ。感心したし、感動もした。しかも、物語そのものは単純に面白いのだ。うーん、素晴らしい。  さて、この先は映画のクライマックスのネタバレを含みます。また、ここからは300円の有料部分となっているので、その点、よろしく。サブスクリプションに入会してもらうとこの記事はもちろん、他の記事の有料部分も読めます。 

結婚の夢と現実を描く映画『ストーリー・オブ・マイライフ』が傑作。

シャカイ系と新世界系とはどこが決定的に違うのか?

 ども。ここしばらく更新が途絶えていて申し訳ありません。ここら辺でちょっと読みごたえのある記事を書いて今月を締めることにしたいと思います。  ぼくたち〈アズキアライアカデミア〉でいうところの「新世界系」のまとめと、「その先」の展望です。  新世界系の発端である『進撃の巨人』の連載開始から11年、『魔法少女まどか☆マギカ』の放送から9年、いわゆるテン年代が終わり、2020年代が始まったいま、新世界系は新たな展開を迎えつつあるように思います。  そこで、ここで「新世界系とはいったい何だったのか?」を踏まえ、「これからどのような方向へ向かうのか?」を占っておきたいと思うのです。  まず、新世界系の定義についてもう一度、振り返っておきましょう。新世界系とは、そもそも『ONE PIECE』、『HUNTER×HUNTER』、『トリコ』といった一連の作品において「新世界」とか「暗黒大陸」と呼ばれる新たな冒険のステージが提示されたことを見て、「いったいこれは何なのか?」と考えたところから生まれた概念でした。  そして、この「新世界」とは「まったくの突然死」すらありえる「現実世界」なのではないか、と思考を進めていったわけです。  物語ならぬ現実の世界においては、『ドラゴンクエスト』のように敵が一段階ずつ順番に強くなっていって主人公の経験値となるとは限りません。最初の段階で突然、ラスボスが表れてデッドエンドとなることも十分ありえる、それが現実。  したがって、ある意味では、新世界においては「物語」が成立しません。いきなり最強の敵が出て来ました、死んでしまいました、おしまい、では面白くも何ともないわけですから。  そこで、「壁」という概念が登場します。これは、たとえば『進撃の巨人』のように、物理的、設定的に本物の壁である必要はありません。あくまでも「新世界(突然死すらありえる現実世界)」と「セカイ(人間の望みが外部化された世界)」を隔てる境界が存在することが重要なのだと思ってください。  それは『HUNTER×HUNTER』では「海」でしたし、『約束のネバーランド』では「崖」の形を取っていました。とにかく残酷で過酷な「新世界」と「相対的に安全なセカイ」が何らかの形で隔てられていることが重要なのです。  この「壁」の存在によって初めて新世界系は「不条理で理不尽な現実」をエンターテインメントの形で描くことが可能となった、といっても良いでしょう。  それでは、なぜ、ゼロ年代末期からテン年代初頭にかけてこのような新世界系が生まれたのか? それは、つまりは高度経済成長からバブルの時代が完全に終わり、社会に余裕(リソース)がなくなり、状況が切迫してきたからにほかなりません。  生きる環境がきびしくなっていくにつれ、人間の内面世界を描く「セカイ系」的な作品群からよりリアルな世界を描く「新世界系」へ関心が移ってきたわけです。  これはどうやら、日本だけの現象というよりは、アメリカを含めた先進国である程度は共通していることらしい。ヨーロッパあたりのエンターテインメントがいま、どのような状況になっているのか不勉強にしてぼくは知らないのですが、おそらくそちらでも同じようなことが起こっているのかもしれません。  さて、ここで以前も引用して語った評論家の杉田俊介氏による『天気の子』評をもう一度引いてみましょう。 それに対し、帆高は「陽菜を殺し(かけ)たのは、この自分の欲望そのものだ」と、彼自身の能動的な加害性を自覚しようとする、あるいは自覚しかける――そして「誰か一人に不幸を押し付けてそれ以外の多数派が幸福でいられる社会(最大多数の最大幸福をめざす功利的な社会)」よりも「全員が平等に不幸になって衰退していく社会(ポストアポカリプス的でポストヒストリカルでポストヒューマンな世界)」を選択しよう、と決断する。そして物語の最終盤、帆高は言う。それでも僕らは「大丈夫」であるはずだ、と。 象徴的な人柱(アイドルやキャラクターや天皇?)を立てることによって、じわじわと崩壊し水没していく日本の現実を誤魔化すのはもうやめよう、狂ったこの世界にちゃんと直面しよう、と。 しかし奇妙に感じられるのは、帆高がむき出しになった「狂った世界」を、まさに「アニメ的」な情念と感情だけによって、無根拠な力技によって「大丈夫」だ、と全肯定してしまうことである。それはほとんど、人間の世界なんて最初から非人間的に狂ったものなのだから仕方ない、それを受け入れるしかない、という責任放棄の論理を口にさせられているようなものである。そこに根本的な違和感を持った。欺瞞的だと思った。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66422  「狂った世界」。ここで何げなく使用されているこの言葉はじつに新世界系とその時代を端的に表現するキーワードだといえます。  世界は狂っているということ、過酷で残酷で不条理で理不尽で、「間違えて」いるということこそが、新世界系の端的な前提なのです。  新世界系とは、「この狂った世界でいかにして生きる(べき)か?」という問いに答えようとする一連の作品を示すといっても良いでしょう。  しかし、杉田氏はここでその「狂った世界」は是正されるべきだという考えを示し、そういった想像力を「シャカイ系」と名づけます。杉田氏によればそういった「シャカイ系の想像力」こそ『天気の子』に欠けているものなのです。かれはさらに続けます。  「君とぼく」の個人的な恋愛関係と、セカイ全体の破局的な危機だけがあり、それらを媒介するための「社会」という公共的な領域が存在しない――というのは(個人/社会/世界→個人/世界)、まさに「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観そのものだろう。そこでは「社会」であるべきものが「世界」にすり替えられているのだ。  「社会」とは、人々がそれをメンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである。その意味でセカイ系とはネオリベラル系であり(実際に帆高や陽菜の経済的貧困の描写はかなり浅薄であり、自助努力や工夫をすれば結構簡単に乗り越えられる、という現実離れの甘さがある)、そこに欠けているのは「シャカイ系」の想像力であると言える。  以前にも書きましたが、この認識は致命的なまでに甘い、とぼくは考えます。というか、若者層のシビアな実感からあまりにもずれているというしかありません。  もちろん、我々個人と世界のあいだには中間項としての「シャカイ」が存在することはたしかであり、それを民主的な方法によって改善していかなければならないということは一応は正論ではあるでしょう。  しかし、あきらかに時代はその「狂った世界」を変えることは容易ではなく、ほとんど不可能に近いという実感を前提にした作品のほうに近づいている。  『フロストパンク』というゲームがあります。これは大寒波によって全人類が滅んだ時代を舞台に、「地球最後の都市」の指導者となってその街を導いていくという内容です。  ぼくはまだプレイしていませんが(その前に遊んでおかないといけないゲームが無数にあるので)、プレイヤーが指導者として人を切り捨てたり見捨てたりするという倫理的に正しいとはいえない選択肢を迫られる内容であるらしい。  このゲームの内容はある意味、現代という時代をカリカチュアライズしていると感じます。倫理的に正しく生きようにも、その「正しい選択」を行うためのリソースが不足しているというのが現代の実感なのだと思う。  もっとも、これは必ずしも社会が衰退していることを意味しません。それこそ『ファクトフルネス』あたりを読めばわかるように、地球人類社会は全体としては確実に前進しているし、成長している。問題は、その結果として生まれたリソースが平等に配分されることはありえないということなのです。  「狂った世界」とは、たとえば、一部に富が集中し、多くには不足するというモザイク状の状況を意味しています。日本を含めた先進国でも中産階級が崩壊し、都市市民はかなりギリギリのところにまで追いつめられているのがいまの現状でしょう。  もちろん、これは放置していて良い問題ではない。だから、あるいは中長期的にはこの問題すらも解決されていくかもしれません。しかし、その解決策は短期的状況には間に合わないであろうこともたしかです。  つまり、おそらく生きているあいだはぼくたちの多くはあらゆるリソースが不足する過酷な環境を生き抜くしかない。このきびしい認識は、いまとなっては若者層の「所与の前提」となっていると思うのです。  そして、そこから新世界系の物語が生み出されてくる。余裕(リソース)がない環境とはどのようなものか? 『フロストパンク』を見ていればわかるように、それは「正しい答え」が絶対に見つからないなかで、どうにか選択して生きていかなければならないという状況です。  いい換えるなら、そもそも「正解の選択肢」が存在しないなかでそれでも選択していかなければならないということ。ここで、ぼくは山本弘さんが新世界系の代表作のひとつである『魔法少女まどか☆マギカ』について、ブログに書いていた文章を思い出します。  この記事の無料公開はここまで。後半は会員限定です。海燕のニコニコチャンネルは週一回+αの生放送、無数の動画、ブロマガの記事を含んで月額330円です。海燕の記事を読みたい人は良ければ入会してみてください。よろしくお願いします。 

シャカイ系と新世界系とはどこが決定的に違うのか?

『二ノ国』はべつに障害者差別じゃないよ。

 話題の作品――でも何でもないが、映画『二ノ国』を見てきた。以下、ネタバレ。  さて、見る前からあまり期待はしていなかったのだけれど、この作品、まあ、わりとどうしようもない映画である。よくいっても、せいぜいが凡作止まりというところだろう。  人気テレビゲームの映画化ということで、ひょっとしたら原作をプレイしていたら違うのかもしれないが、少なくとも映画だけを見ている限り、まるで話の整合性が取れていないように見える。  キャラクターデザインを含めた映像表現は、いかにも「スタジオジブリの亜流」という印象ではあるものの(じっさい、元ジブリのスタッフが関わっているらしい)、そこまで悪くないだけに、物語展開の強引さが際立つ。  コンセプトのレベルでやりたいことはひと通り理解できるものの、それを物語に落とし込む段階で致命的に失敗している印象だ。これは、端的には脚本家の力量の問題だろう。  とにかく、あえて一見を薦められるほどの出来ではないことは間違いない。で、そこまではいい。どう考えても良い映画とはいえないだろうが、しかしそれはある意味でしかたないことである。  だれだってできれば傑作を撮って大ヒットさせたいに決まっているのだ。それが、どうしようもなく力及ばず、凡作、駄作、愚作、そのあたりに終わってしまうということは、ひとつの悲劇ではあるにしろ、ありえることである。  ぼくは、現実の映画の出来を嘆きはしても、そこを責めるつもりはまったくない。よく気に食わない映画に対して「金を返せ!」という人がいるが、そういう人は定価以上の価値がある映画を見たら「もっと金を払わせてくれ!」と叫ぶのだろうか。そうは思えない。  映画の価格はじっさいにどのような作品が出て来るかわからないところも含めて設定されているのであって、見てみて気に入らなかったからといって「金を返せ!」などと述べることは上品とはいいがたいと、「ぼくは」考える。  ちなみに、ぼくは20年間以上ブログを続けているが、何かしら作品を評価するために「駄作」という言葉を使ったことは一度もない。そんなふうに思ったことがないからである。  ただ、この世にはたしかにろくでもない出来の映画もあることはたしかなので、ぼく自身はそんなふうに思ったことは一度もないにしろ、「見て損した」と思う気持ちはある程度はわかる。  その感情を批判の言葉にしてネットに上げることも「あり」ではあるだろう。しかし、作品を「差別」という言葉を使って作品を非難するとなるとまったく話は別である。  あえてそういう言葉を使うときは、作品内に明確な差別意識が見て取れることを論理的に明示できなければならない、と考える。差別とは、それくらい重たい言葉だ。  このようにいうのは、じっさいに『二ノ国』が障害者差別だという意見を見かけたからだ。ぼく自身はまったくそんなふうには感じなかったので、驚いた。  たしかに、作中での車いすの少年の描写はリアリティを感じさせるものではなかったが、それをして差別とはいえないだろう。そんなことをいいだしたら、何らかのマイノリティに未熟な低い表現はすべて差別だということになる。  現実には特に差別意識がなくても、単に知識が足りないとか、興味が湧かないなどの理由でリアルではない描写になってしまうことはありえるし、ある。  それは映画としてはひとつの欠点であり、批判されてしかるべきではあるだろうが、その点のみを見て単純に差別だとはいえない。たとえば、海外映画で日本人が妙な描写をされているからといって、一概に差別であるとはいえないのと同じことである。  それでは、そのことを踏まえて、『二ノ国』が障害者差別である、という意見を見てみよう。ネット上にはいくつか同様の意見が見られるようだが、今回はそのなかで最も目立ち、なおかつ論旨がわかりやすい以下の記事を選んで考えていきたいと思う。 障害者への向き合い方として最悪であり、子どもに絶対に見せたくない理由を記しましょう。 問題となるのは以下の2点です。 主人公の少年のユウは足が不自由で車椅子生活をしています。そして… (1)異世界の二ノ国に行く(もしくは現実世界に戻る)ためのトリガーは「命の危険にさらされる」ということが提示される。ほぼ自殺行為である。 (2)その異世界に行くと足が不自由だったユウは歩けるようになっている。 https://kagehinata-movie.com/ninokuni/  ぼくは、この記述を読んでもこの描写のどこが「障害者への向き合い方として最悪」なのかわからなかった。具体的には、以下のような論旨のようである。 それはともかく、この(1)と(2)を、足が不自由であり、歩けるようになりたいと考えている、障害を持つ子どもの立場になってみればどう思うでしょうか? 「僕も命の危険にさらされれば(自殺をすれば)ひょっとすると二ノ国に行けて歩けるようになれるかもしれない」 もちろん、子どもがフィクションに影響されてそんなバカげた自殺行為を取るわけがないだろう、という指摘は正しいです。 ですが、障害は本人にとってはとても深刻に感じている問題でしょう。 こんなことを、例えフィクションのファンタジー作品だとしても提示してしまっていいのでしょうか。 たとえ0.0000001%でも、そんな考えを誘発してしまう可能性のあるこの映画『二ノ国』を自分は許すことはできません。  ひとつの意見として理解はできるが、まったく納得がいかない。まず第一に、そんなバカな子供はいないと思うし、仮にいたとしてもそれは映画の責任ではない、としかいいようがないと思うのだ。  たしかに「そんなバカげた自殺行為を取る」子供は、「0.0000001%」かどうかは知らないが、いるかもしれない。しかし、それは『アンパンマン』を見て人に殴りかかる子供が出ることが『アンパンマン』の責任ではないのと同様、映画の責任とはいえないだろう。  もし、この理屈で映画の評価を決めるなら、たとえば子供がジャイアンの影響を受けていじめをする可能性が「たとえ0.0000001%でも」ありえるから『ドラえもん』は良くない、ということもいえてしまう。  しかも、この理屈は障害の部分を除いても成立するし、その場合、似たような物語はいくらでもあるのだ。  たとえば、「命の危険にさらされると真の力が解放されて強くなる」という設定の物語があるとしよう。まあ、少年マンガあたりではよくある設定だ。『ドラゴンボール』とか。  上記の理屈でいくと、この設定もまた、その作品を見た子供が「僕も命の危険にさらされれば(自殺をすれば)ひょっとすると真の力が解放されて強くなるかもしれない」と考える可能性が排除できないので最悪だ、ということになってしまう。  あたりまえのことだが、映画を見た人間が何を考えるかは見た人の数だけ答えがあるわけで、「見た人間が現実と混同してバカげたことを考えてバカげたことをする可能性がまったくない」映画など作りようがない。  いや、これは映画でなくてもそうである。たとえば、上記のブログを読んだ人が何を思うかだって、じっさいにはまったくわからないはずだ。  このような「だれかを傷つけるかもしれない作品は悪だ」という批判は表現規制議論でたびたび出るものだが、このような理屈を認めることはできない。「0.0000001%の可能性」すらあってもならない、というのなら、あらゆる人間のあらゆる表現を否定しなければならなくなるだろう。  記事はさらに続く。 障害者であるユウが自身を「邪魔者」と自己卑下してしまう切ないセリフを覆すことなく、ファンタジー世界ではお姫様と添い遂げられ障害も治るという“逃げ”を使って、「邪魔者がいなくなって良かった」ということを、ハッピーエンドとして描いているというわけです。 前述した自殺行為も酷いのですが……これを子供や障害を持つ方が観たらどう思うでしょうか。「障害者はいない方がいい」ような価値観を強化してしまわないでしょうか。 日野晃博はおそらく「そんなつもりはない」と答えるでしょう。実際そうでしょうよ。ていうか「え、だって障害者がファンタジー世界で足も治ってお姫様と添い遂げられるからいいじゃん」と思っているでしょうよ。 だからこそものすごく不快なんです。そういう視点を全く考えずに、これを良い話として描いてやがるんだから!  不快に思うのは自由だが、これもどこがまずいのかぼくにはさっぱりわからなかった。  「これを子供や障害を持つ方が観たらどう思うでしょうか。「障害者はいない方がいい」ような価値観を強化してしまわないでしょうか」といわれても、「それは人による」としかいいようがない。  ひと口に「子供や障害を持つ方」といっても、その価値観は千差万別であり、当然ながら同じ映画を見ても多様な感想を抱くことが想像できるからである。  もちろん、例によってだれかの「「障害者はいない方がいい」ような価値観を強化してしま」う可能性はないとはいえない。  しかし、くり返すが、それはどこまでいっても架空の可能性の話であり、映画が具体的に「障害者などいない方がいい」と主張しているわけではない。そのような描写もない。  そうである以上、この映画から「障害者などいない方がいい」というメッセージを読み取るべきではないのだ。「だれかがこんなことを思うかもしれないから良くない」などといいだしたら、だれが撮ったどんな名作でも否定できてしまうだろう。  『ローマの休日』を見て「王族に人権はないのだ」と感じて傷つくプリンセスもどこかにいるかもしれないではないか?  それから、これは揚げ足取りになるかもしれないが、「強化」といっている以上、もとからそのような価値観を持っていることが前提である。つまり、この文章では、「子供や障害を持つ方」は一般にある程度「「障害者はいない方がいい」ような価値観」を持っているものとされているわけである。  ある障害者差別を批判しているにもかかわらず、この言葉の使い方は良くないと思う。  その後、記事はこのように続く。 言うまでもないことですが、ファンタジー世界は現実にはありません。 この映画の中ではファンタジー世界に逃げることができて、なおかつ障害が治る。 でも現実ではそんなことはない、障害は一生付き合わねければいけない。その絶対的な事実がある以上、障害を持つ子供が観たら、この邪魔者がいなくなる結末に絶望してもおかしくないですよ(しかもそのファンタジー世界に行く手段は“自殺行為”である)。  あたりまえだが、「障害は一生付き合わねければいけない」かどうかはケースバイケースである。障害にも色々な種類があるし、何らかの手段で完治するものだってなかにはあるだろう。  あるいは完治まではいかないにしろ、改善することは十分にありえる。「障害は一生付き合わねければならない」ことを「絶対的な事実」と呼ぶのはどう考えてもおかしい。  いや、まあ、そこは「治りようがない障害」だけの話をしているのだと考えてもいい。しかし、治しようがない障害を抱えている人が大勢ことが事実であるとしても、だから映画はそれが治るところを描いてはならない、ということにはならない。  たとえば、一生にわたって重い心臓病を抱えて生きていかなければならない人がいるからといって、映画で心臓病で治るところを描いてはならないということにはならないだろう。  たとえば『ブラック・ジャック』などでは現実ではとうてい治りそうもないような難病が奇跡的に治癒する物語がよくあるが、ああいう描写は一生、難病と付き合っていかなければならない子供たちを絶望させるだろうか。  いや、もちろん、そういうことではないのだろうということは想像できる。  問題は「ある障害を抱え、そのために自分を「邪魔者」と自嘲した人間がいなくなることによって物語がハッピーエンドになる」という結末が、障害を持った子供にショックを与えたりするかもしれない、ということなのだろう。  「障害を持つ子供が観たら、この邪魔者がいなくなる結末に絶望してもおかしくないですよ」とはそういうふうに受け取るべきなのだと思う。  だが、べつだん、映画は「障害者は邪魔者だからいなくなったほうがいい」と表現しているわけではない。作中のだれひとりとしてそのように主張してはいない。  それでもそこにそのような差別的主張を読み取るべきだろうか? 当然、読み取るべきだと上記記事は主張しているように思えるのだが、ぼくはそうは思わない。  ユウはどのような意味でも「ザ・障害者」という人間ではなく、かれが映画のなかでどのような行動を取るかは障害者一般がどのような行動を取るべきかとは無関係である。  そうである以上、そこから過剰な意味を読み取るべきではない。たしかに、障害者が異世界へ行ったらなぜか障害が治ってしまうという展開が安易だという批判は成り立つだろう。しかし、それは映画脚本としての瑕疵ではありえても、べつだん、差別ではない。何ら障害者一般に単一のイメージを押しつけてはいないからである。  押しつけていると感じる人は、そもそも障害者とひと口にいってもその内実も性格も多様である、という事実を無視しているのではないだろうか? ぼくにいわせれば、それこそがまさに差別なのだが。  ある種の物語のなかでは、障害者の障害が治る(あるいは少なくとも改善する)場面は、しばしば感動的な場面として描かれる。  たとえば『アルプスの少女ハイジ』ではクライマックスでそれまで立てなかった少女クララが立つし、『バジュランギおじさんと小さな迷子』ではやはりクライマックスでそれまで声が出せなかった少女が声を出す。  たしかに、これらの作品の障害者描写がステレオタイプであるという批判は成り立つだろう。しかし、「クララを立たせたりしたら、決して立てないという事実を抱えた子供が絶望するかもしれないではないか」という角度での批判はやはりおかしい。  クララも、ユウも「ザ・障害者」として生きているわけではないからだ。クララは障害者であるまえにまずクララなのであり、ユウもまた同じなのである。  障害はかれらのアイデンティティの一側面であるに過ぎない。たしかに、おそらくユウが二ノ国に残る決断をしたとき、その地では自由に歩くことができるという判断もその事情に関わったことだろう。  しかし、それは悪いことだろうか? それは「障害者はみな二ノ国のようなところへ行ってしまえばいい」という意味なのだろうか? どう考えてもそうは思えない。  その決断はどこまで行ってもユウという個人が自分自身のために下した性質のものであり、「障害者みなかくあるべし」ということを意味してはいない。そこに「障害者みなかくあるべし」の規範を読み取ってしまうとしたら、何かが歪んでいるのである。  上記の文章を読んでいてつくづく思ったのが、この人はユウのキャラクターの「障害者」という一面をきわめて大きく捉えているのだな、ということだ。  これも繰り返しになるが、じっさいにはユウは当然ながら多面的な人間であって、足の障害はかれという人格の無数にある属性のひとつに過ぎない。  ユウがコトナたちのまえで自分のことを「邪魔者」といったときには、たしかに足の障害のことも関わっていただろうが、それが理由のすべてではなかったはずだ。  むしろ、カップルの間にもうひとり男が入り込むなんて邪魔者だ、というニュアンスのほうがずっと強かっただろう。  それを捉えて、このような描写は障害者を絶望させるかもしれないと非難するのは、ぼくにはいかにも筋違いに思える。  そもそも差別とは何か?という話なのだ。もちろん色々な表現ができるだろうが、ひとつには差別とは「現実の多様性を無視した過度の一般化」であるといえる。  つまり、現実に色々な障害者がいることを無視して「障害者はみな性格が暗い」といったり、さまざまな同性愛者がいる事実を看過して「同性愛者はみな女っぽい」といったりと、多様な集団にたったひとつの個性を烙印のように押しつけることが差別だということだ。  そうであるとしたら、ユウというある個人が下した判断に対して、障害者一般が下すべき判断だと見て取るのは、それこそ差別的ではないだろうか? ユウのことをただ障害者としてしか見ないのは、かれの複雑な人格に対する侮辱である。  べつだん、ユウは全障害者を代表して二ノ国に残ることを決断したわけでもないし、障害者ならだれもが同じようにするべきだ、ともいっていない。それにもかかわらずそのように感じるとすれば、それは見るほうの問題だろう。  そもそも障害者はいついかなる場合も絶対に邪魔者扱いされてはいけないし、物語のなかでそのように描写されてはいけないのだろうか? そうでなければ多くの障害者たちが傷つき、悩み、苦しんでしまうのだろうか?  そんなはずはない。現実には障害者だろうが邪魔者扱いされることもあるだろうし、自分を邪魔者だと感じることもあるだろう。それ自体はまったくもって当然のことであり、それが差別にあたるかどうかはケースバイケースだ。  たしかに障害者がその障害を原因として社会から排除されることはあるべきではない。しかし、何らかの障害を抱えた者ならいついかなる場合も気を使ってもらって当然、というのもそれはそれでおかしいのだ。  たしかに『二ノ国』の結末はいかにも甘ったるく、他愛なく、思索性が足りないかもしれないが、それと差別であるかどうかとはまったくべつの話である。  ぼくは『二ノ国』が障害者に対して差別的な描写を行っているとは特に思わない。そして、それはぼくが差別に対し鈍感だからだ、というわけではないと考える。違いますかね?  上記記事の結末にはこのように書かれている。 結論としては、こんな脚本を書いた日野晃博が法律で罰せられることを期待しています。  何の法律なんだか。現代において実在する差別が批判されることは当然だが、火のないところの煙を見て取って正義の怒りに燃えることもそれはそれで問題である。差別について考えるときはどこまでも慎重でなければならない。当然のことではないだろうか。  以上、ご一読ありがとうございました。 

『二ノ国』はべつに障害者差別じゃないよ。

もしサノスの主張が「正義」なら、そのとき、アベンジャーズはどうしたのか?

 先日、見に行った映画『プロメア』のことを考えています。この映画、『天元突破グレンラガン』のスタッフによって制作されているのですが、ある意味、『グレンラガン』から「一歩も先に進んでいない」といえるところがあって、そこら辺が賛否両論を生んでいるようです。  具体的にどういうことかというと、この作品の悪役(ヴィラン)であり、「ラスボス」であるところのクレイ・フォーサイトの主張(「悪の理論」)に対し、主人公たちの主張(「正義の理論」)が弱いのではないか、という話があるのですね。  作中、クレイは滅亡に瀕した人類を救うためという理由で自分が選んだわずかな人たちとともに地球を脱出しようとするのですが、そのために新人類バーニッシュを犠牲にします。これは、ある意味でわかりやすい「悪」ではあるといえるでしょう。  ですが、もしもクレイがほんとうに正義からこのやり方を選んでいたとしたら? そして、また、このクレイのやり方以外に人類を救う方法がないとしたら? そのとき、主人公たちはクレイを純粋な「悪」として告発することができるでしょうか?  実際には、クレイには私心から行動しているという瑕疵があり、また人類が滅亡に瀕しているという問題には未発見の解決策がある。だから、クレイを「悪」として告発することには意味がある。  しかし、もしクレイにそのようなエゴがなく、また、解決策が存在しなかったらどうでしょうか? そのとき、クレイを告発する理由は存在しなくなってしまうでしょう。これがつまり、『物語の物語』のなかでぼくたちが延々と話している「天使」の問題です。  「天使」とはつまり、「倫理的に隙のない絶対善としてのラスボス」のことなのです。  倫理的に隙のないラスボスを正義の名のもとに告発することはできません。クレイのように私心(エゴイズム)から行動していたり、あるいは人類と世界を救う方法が他になる場合は、ある意味で主人公にとって都合が良いといえるでしょう。  そのときは彼の「悪の理論」を高らかに論破し、「おまえのいうことは間違えている!」と叫んで殴り飛ばしてしまえばいい。それで主人公は正義のヒーローとしての立場を守ることができます。  問題なのは、ラスボスが語る悪の行動を正当化する理論がほんとうに正当だった場合です。たとえば、ほんとうにバーニッシュを利用すること以外に人類を救う方法がないとしたら? そのとき、ヒーローは倫理的な窮地に追い込まれることになるでしょう。  いくら「おまえは間違えている!」と叫んでみても、説得力がないことはなはだしい。あるいは「正義」はほんとうに相手にあるかもしれないのですから。  実は同じことが『アベンジャーズ/エンドゲーム』に対してもいえます。『エンドゲーム』のラスボスであるサノスは、宇宙の人口問題を解決するため、宇宙全体の人口を半分にしてしまうという目的を持って行動しています。  その際にアベンジャーズと対立するわけですが、はたしてかれの行動はほんとうに間違えているといえるのでしょうか? 作中では、その問題はあいまいに処理されてしまった感があります。  もちろん、作中ではサノスの主張の根拠はあいまいで、また、サノスはエゴを払拭しきれていない。そして、最後の最後では「わかりやすい悪役」に堕ちてしまう。  つまり、サノスは「天使=倫理的に隙のないラスボス」ではなく「ヴィラン=倫理的に隙のあるラスボス」であるに過ぎなかったことになる。だからこそ、キャプテン・アメリカやアイアンマンの「正義」は相対的に保証されることにもなる。  ですが、もしサノスに一切のエゴイズムがなく、またサノスの計画以外に問題を解決する方策がないとしたら? そのとき、やはり「天使」の問題が浮上することになってしまうでしょう。つまり、アベンジャーズはサノスに対する相対的な正義を主張することができなくなってしまうわけです。  『エンドゲーム』は『プロメア』と同じく、サノスを「ヴィラン」の次元に留めることによって、この問題をごまかし、回避したように思えます。  ですが、べつだん、それによってサノスの掲げた問題が解決したわけではありません。もしかしたら、サノスによって救われた人もいたかもしれないし、サノスのやり方のほうが正しかったかもしれないのです。ぼくはやはりそこに物足りなさを感じてしまう。  ただ、『エンドゲーム』の圧倒的な好評を見る限り、そのような問題について真剣に考える人は少ないのかもしれません。そこにどのようなごまかしがあるとしても、大半の人は「天使」以前の物語、主観的な「正義」が主観的な「悪」を暴力で倒しておしまいという物語で満足なのかも。  しかし、ほんとうにそうなのでしょうか? そういう意味では、これから先の『アベンジャーズ』と、ハリウッド映画の展開が楽しみです。はたしてハリウッドに「天使」は降臨するのか? 皆さんもお楽しみになさってください。  では。 

もしサノスの主張が「正義」なら、そのとき、アベンジャーズはどうしたのか?
弱いなら弱いままで。

愛のオタクライター海燕が楽しいサブカル生活を提案するブログ。/1記事2000文字前後、ひと月数十本更新で月額わずか300円+税!

著者イメージ

海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

https://twitter.com/kaien
メール配信:ありサンプル記事更新頻度:不定期※メール配信はチャンネルの月額会員限定です

月別アーカイブ


タグ