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記事 164件
  • シャカイ系と新世界系とはどこが決定的に違うのか?

    2020-05-29 17:42  
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     ども。ここしばらく更新が途絶えていて申し訳ありません。ここら辺でちょっと読みごたえのある記事を書いて今月を締めることにしたいと思います。
     ぼくたち〈アズキアライアカデミア〉でいうところの「新世界系」のまとめと、「その先」の展望です。
     新世界系の発端である『進撃の巨人』の連載開始から11年、『魔法少女まどか☆マギカ』の放送から9年、いわゆるテン年代が終わり、2020年代が始まったいま、新世界系は新たな展開を迎えつつあるように思います。
     そこで、ここで「新世界系とはいったい何だったのか?」を踏まえ、「これからどのような方向へ向かうのか?」を占っておきたいと思うのです。
     まず、新世界系の定義についてもう一度、振り返っておきましょう。新世界系とは、そもそも『ONE PIECE』、『HUNTER×HUNTER』、『トリコ』といった一連の作品において「新世界」とか「暗黒大陸」と呼ばれる新たな冒険のステージが提示されたことを見て、「いったいこれは何なのか?」と考えたところから生まれた概念でした。
     そして、この「新世界」とは「まったくの突然死」すらありえる「現実世界」なのではないか、と思考を進めていったわけです。
     物語ならぬ現実の世界においては、『ドラゴンクエスト』のように敵が一段階ずつ順番に強くなっていって主人公の経験値となるとは限りません。最初の段階で突然、ラスボスが表れてデッドエンドとなることも十分ありえる、それが現実。
     したがって、ある意味では、新世界においては「物語」が成立しません。いきなり最強の敵が出て来ました、死んでしまいました、おしまい、では面白くも何ともないわけですから。
     そこで、「壁」という概念が登場します。これは、たとえば『進撃の巨人』のように、物理的、設定的に本物の壁である必要はありません。あくまでも「新世界(突然死すらありえる現実世界)」と「セカイ(人間の望みが外部化された世界)」を隔てる境界が存在することが重要なのだと思ってください。
     それは『HUNTER×HUNTER』では「海」でしたし、『約束のネバーランド』では「崖」の形を取っていました。とにかく残酷で過酷な「新世界」と「相対的に安全なセカイ」が何らかの形で隔てられていることが重要なのです。
     この「壁」の存在によって初めて新世界系は「不条理で理不尽な現実」をエンターテインメントの形で描くことが可能となった、といっても良いでしょう。
     それでは、なぜ、ゼロ年代末期からテン年代初頭にかけてこのような新世界系が生まれたのか? それは、つまりは高度経済成長からバブルの時代が完全に終わり、社会に余裕(リソース)がなくなり、状況が切迫してきたからにほかなりません。
     生きる環境がきびしくなっていくにつれ、人間の内面世界を描く「セカイ系」的な作品群からよりリアルな世界を描く「新世界系」へ関心が移ってきたわけです。
     これはどうやら、日本だけの現象というよりは、アメリカを含めた先進国である程度は共通していることらしい。ヨーロッパあたりのエンターテインメントがいま、どのような状況になっているのか不勉強にしてぼくは知らないのですが、おそらくそちらでも同じようなことが起こっているのかもしれません。
     さて、ここで以前も引用して語った評論家の杉田俊介氏による『天気の子』評をもう一度引いてみましょう。

    それに対し、帆高は「陽菜を殺し(かけ)たのは、この自分の欲望そのものだ」と、彼自身の能動的な加害性を自覚しようとする、あるいは自覚しかける――そして「誰か一人に不幸を押し付けてそれ以外の多数派が幸福でいられる社会(最大多数の最大幸福をめざす功利的な社会)」よりも「全員が平等に不幸になって衰退していく社会(ポストアポカリプス的でポストヒストリカルでポストヒューマンな世界)」を選択しよう、と決断する。そして物語の最終盤、帆高は言う。それでも僕らは「大丈夫」であるはずだ、と。
    象徴的な人柱(アイドルやキャラクターや天皇?)を立てることによって、じわじわと崩壊し水没していく日本の現実を誤魔化すのはもうやめよう、狂ったこの世界にちゃんと直面しよう、と。
    しかし奇妙に感じられるのは、帆高がむき出しになった「狂った世界」を、まさに「アニメ的」な情念と感情だけによって、無根拠な力技によって「大丈夫」だ、と全肯定してしまうことである。それはほとんど、人間の世界なんて最初から非人間的に狂ったものなのだから仕方ない、それを受け入れるしかない、という責任放棄の論理を口にさせられているようなものである。そこに根本的な違和感を持った。欺瞞的だと思った。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66422

     「狂った世界」。ここで何げなく使用されているこの言葉はじつに新世界系とその時代を端的に表現するキーワードだといえます。
     世界は狂っているということ、過酷で残酷で不条理で理不尽で、「間違えて」いるということこそが、新世界系の端的な前提なのです。
     新世界系とは、「この狂った世界でいかにして生きる(べき)か?」という問いに答えようとする一連の作品を示すといっても良いでしょう。
     しかし、杉田氏はここでその「狂った世界」は是正されるべきだという考えを示し、そういった想像力を「シャカイ系」と名づけます。杉田氏によればそういった「シャカイ系の想像力」こそ『天気の子』に欠けているものなのです。かれはさらに続けます。

     「君とぼく」の個人的な恋愛関係と、セカイ全体の破局的な危機だけがあり、それらを媒介するための「社会」という公共的な領域が存在しない――というのは(個人/社会/世界→個人/世界)、まさに「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観そのものだろう。そこでは「社会」であるべきものが「世界」にすり替えられているのだ。
     「社会」とは、人々がそれをメンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである。その意味でセカイ系とはネオリベラル系であり(実際に帆高や陽菜の経済的貧困の描写はかなり浅薄であり、自助努力や工夫をすれば結構簡単に乗り越えられる、という現実離れの甘さがある)、そこに欠けているのは「シャカイ系」の想像力であると言える。

     以前にも書きましたが、この認識は致命的なまでに甘い、とぼくは考えます。というか、若者層のシビアな実感からあまりにもずれているというしかありません。
     もちろん、我々個人と世界のあいだには中間項としての「シャカイ」が存在することはたしかであり、それを民主的な方法によって改善していかなければならないということは一応は正論ではあるでしょう。
     しかし、あきらかに時代はその「狂った世界」を変えることは容易ではなく、ほとんど不可能に近いという実感を前提にした作品のほうに近づいている。
     『フロストパンク』というゲームがあります。これは大寒波によって全人類が滅んだ時代を舞台に、「地球最後の都市」の指導者となってその街を導いていくという内容です。
     ぼくはまだプレイしていませんが(その前に遊んでおかないといけないゲームが無数にあるので)、プレイヤーが指導者として人を切り捨てたり見捨てたりするという倫理的に正しいとはいえない選択肢を迫られる内容であるらしい。
     このゲームの内容はある意味、現代という時代をカリカチュアライズしていると感じます。倫理的に正しく生きようにも、その「正しい選択」を行うためのリソースが不足しているというのが現代の実感なのだと思う。
     もっとも、これは必ずしも社会が衰退していることを意味しません。それこそ『ファクトフルネス』あたりを読めばわかるように、地球人類社会は全体としては確実に前進しているし、成長している。問題は、その結果として生まれたリソースが平等に配分されることはありえないということなのです。
     「狂った世界」とは、たとえば、一部に富が集中し、多くには不足するというモザイク状の状況を意味しています。日本を含めた先進国でも中産階級が崩壊し、都市市民はかなりギリギリのところにまで追いつめられているのがいまの現状でしょう。
     もちろん、これは放置していて良い問題ではない。だから、あるいは中長期的にはこの問題すらも解決されていくかもしれません。しかし、その解決策は短期的状況には間に合わないであろうこともたしかです。
     つまり、おそらく生きているあいだはぼくたちの多くはあらゆるリソースが不足する過酷な環境を生き抜くしかない。このきびしい認識は、いまとなっては若者層の「所与の前提」となっていると思うのです。
     そして、そこから新世界系の物語が生み出されてくる。余裕(リソース)がない環境とはどのようなものか? 『フロストパンク』を見ていればわかるように、それは「正しい答え」が絶対に見つからないなかで、どうにか選択して生きていかなければならないという状況です。
     いい換えるなら、そもそも「正解の選択肢」が存在しないなかでそれでも選択していかなければならないということ。ここで、ぼくは山本弘さんが新世界系の代表作のひとつである『魔法少女まどか☆マギカ』について、ブログに書いていた文章を思い出します。
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  • 『二ノ国』はべつに障害者差別じゃないよ。

    2019-09-15 05:37  
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     話題の作品――でも何でもないが、映画『二ノ国』を見てきた。以下、ネタバレ。
     さて、見る前からあまり期待はしていなかったのだけれど、この作品、まあ、わりとどうしようもない映画である。よくいっても、せいぜいが凡作止まりというところだろう。
     人気テレビゲームの映画化ということで、ひょっとしたら原作をプレイしていたら違うのかもしれないが、少なくとも映画だけを見ている限り、まるで話の整合性が取れていないように見える。
     キャラクターデザインを含めた映像表現は、いかにも「スタジオジブリの亜流」という印象ではあるものの(じっさい、元ジブリのスタッフが関わっているらしい)、そこまで悪くないだけに、物語展開の強引さが際立つ。
     コンセプトのレベルでやりたいことはひと通り理解できるものの、それを物語に落とし込む段階で致命的に失敗している印象だ。これは、端的には脚本家の力量の問題だろう。
     とにかく、あえて一見を薦められるほどの出来ではないことは間違いない。で、そこまではいい。どう考えても良い映画とはいえないだろうが、しかしそれはある意味でしかたないことである。
     だれだってできれば傑作を撮って大ヒットさせたいに決まっているのだ。それが、どうしようもなく力及ばず、凡作、駄作、愚作、そのあたりに終わってしまうということは、ひとつの悲劇ではあるにしろ、ありえることである。
     ぼくは、現実の映画の出来を嘆きはしても、そこを責めるつもりはまったくない。よく気に食わない映画に対して「金を返せ!」という人がいるが、そういう人は定価以上の価値がある映画を見たら「もっと金を払わせてくれ!」と叫ぶのだろうか。そうは思えない。
     映画の価格はじっさいにどのような作品が出て来るかわからないところも含めて設定されているのであって、見てみて気に入らなかったからといって「金を返せ!」などと述べることは上品とはいいがたいと、「ぼくは」考える。
     ちなみに、ぼくは20年間以上ブログを続けているが、何かしら作品を評価するために「駄作」という言葉を使ったことは一度もない。そんなふうに思ったことがないからである。
     ただ、この世にはたしかにろくでもない出来の映画もあることはたしかなので、ぼく自身はそんなふうに思ったことは一度もないにしろ、「見て損した」と思う気持ちはある程度はわかる。
     その感情を批判の言葉にしてネットに上げることも「あり」ではあるだろう。しかし、作品を「差別」という言葉を使って作品を非難するとなるとまったく話は別である。
     あえてそういう言葉を使うときは、作品内に明確な差別意識が見て取れることを論理的に明示できなければならない、と考える。差別とは、それくらい重たい言葉だ。
     このようにいうのは、じっさいに『二ノ国』が障害者差別だという意見を見かけたからだ。ぼく自身はまったくそんなふうには感じなかったので、驚いた。
     たしかに、作中での車いすの少年の描写はリアリティを感じさせるものではなかったが、それをして差別とはいえないだろう。そんなことをいいだしたら、何らかのマイノリティに未熟な低い表現はすべて差別だということになる。
     現実には特に差別意識がなくても、単に知識が足りないとか、興味が湧かないなどの理由でリアルではない描写になってしまうことはありえるし、ある。
     それは映画としてはひとつの欠点であり、批判されてしかるべきではあるだろうが、その点のみを見て単純に差別だとはいえない。たとえば、海外映画で日本人が妙な描写をされているからといって、一概に差別であるとはいえないのと同じことである。
     それでは、そのことを踏まえて、『二ノ国』が障害者差別である、という意見を見てみよう。ネット上にはいくつか同様の意見が見られるようだが、今回はそのなかで最も目立ち、なおかつ論旨がわかりやすい以下の記事を選んで考えていきたいと思う。

    障害者への向き合い方として最悪であり、子どもに絶対に見せたくない理由を記しましょう。
    問題となるのは以下の2点です。
    主人公の少年のユウは足が不自由で車椅子生活をしています。そして…
    (1)異世界の二ノ国に行く(もしくは現実世界に戻る)ためのトリガーは「命の危険にさらされる」ということが提示される。ほぼ自殺行為である。
    (2)その異世界に行くと足が不自由だったユウは歩けるようになっている。
    https://kagehinata-movie.com/ninokuni/

     ぼくは、この記述を読んでもこの描写のどこが「障害者への向き合い方として最悪」なのかわからなかった。具体的には、以下のような論旨のようである。

    それはともかく、この(1)と(2)を、足が不自由であり、歩けるようになりたいと考えている、障害を持つ子どもの立場になってみればどう思うでしょうか?
    「僕も命の危険にさらされれば(自殺をすれば)ひょっとすると二ノ国に行けて歩けるようになれるかもしれない」
    もちろん、子どもがフィクションに影響されてそんなバカげた自殺行為を取るわけがないだろう、という指摘は正しいです。
    ですが、障害は本人にとってはとても深刻に感じている問題でしょう。
    こんなことを、例えフィクションのファンタジー作品だとしても提示してしまっていいのでしょうか。
    たとえ0.0000001%でも、そんな考えを誘発してしまう可能性のあるこの映画『二ノ国』を自分は許すことはできません。

     ひとつの意見として理解はできるが、まったく納得がいかない。まず第一に、そんなバカな子供はいないと思うし、仮にいたとしてもそれは映画の責任ではない、としかいいようがないと思うのだ。
     たしかに「そんなバカげた自殺行為を取る」子供は、「0.0000001%」かどうかは知らないが、いるかもしれない。しかし、それは『アンパンマン』を見て人に殴りかかる子供が出ることが『アンパンマン』の責任ではないのと同様、映画の責任とはいえないだろう。
     もし、この理屈で映画の評価を決めるなら、たとえば子供がジャイアンの影響を受けていじめをする可能性が「たとえ0.0000001%でも」ありえるから『ドラえもん』は良くない、ということもいえてしまう。
     しかも、この理屈は障害の部分を除いても成立するし、その場合、似たような物語はいくらでもあるのだ。
     たとえば、「命の危険にさらされると真の力が解放されて強くなる」という設定の物語があるとしよう。まあ、少年マンガあたりではよくある設定だ。『ドラゴンボール』とか。
     上記の理屈でいくと、この設定もまた、その作品を見た子供が「僕も命の危険にさらされれば(自殺をすれば)ひょっとすると真の力が解放されて強くなるかもしれない」と考える可能性が排除できないので最悪だ、ということになってしまう。
     あたりまえのことだが、映画を見た人間が何を考えるかは見た人の数だけ答えがあるわけで、「見た人間が現実と混同してバカげたことを考えてバカげたことをする可能性がまったくない」映画など作りようがない。
     いや、これは映画でなくてもそうである。たとえば、上記のブログを読んだ人が何を思うかだって、じっさいにはまったくわからないはずだ。
     このような「だれかを傷つけるかもしれない作品は悪だ」という批判は表現規制議論でたびたび出るものだが、このような理屈を認めることはできない。「0.0000001%の可能性」すらあってもならない、というのなら、あらゆる人間のあらゆる表現を否定しなければならなくなるだろう。
     記事はさらに続く。

    障害者であるユウが自身を「邪魔者」と自己卑下してしまう切ないセリフを覆すことなく、ファンタジー世界ではお姫様と添い遂げられ障害も治るという“逃げ”を使って、「邪魔者がいなくなって良かった」ということを、ハッピーエンドとして描いているというわけです。
    前述した自殺行為も酷いのですが……これを子供や障害を持つ方が観たらどう思うでしょうか。「障害者はいない方がいい」ような価値観を強化してしまわないでしょうか。
    日野晃博はおそらく「そんなつもりはない」と答えるでしょう。実際そうでしょうよ。ていうか「え、だって障害者がファンタジー世界で足も治ってお姫様と添い遂げられるからいいじゃん」と思っているでしょうよ。
    だからこそものすごく不快なんです。そういう視点を全く考えずに、これを良い話として描いてやがるんだから!

     不快に思うのは自由だが、これもどこがまずいのかぼくにはさっぱりわからなかった。
     「これを子供や障害を持つ方が観たらどう思うでしょうか。「障害者はいない方がいい」ような価値観を強化してしまわないでしょうか」といわれても、「それは人による」としかいいようがない。
     ひと口に「子供や障害を持つ方」といっても、その価値観は千差万別であり、当然ながら同じ映画を見ても多様な感想を抱くことが想像できるからである。
     もちろん、例によってだれかの「「障害者はいない方がいい」ような価値観を強化してしま」う可能性はないとはいえない。
     しかし、くり返すが、それはどこまでいっても架空の可能性の話であり、映画が具体的に「障害者などいない方がいい」と主張しているわけではない。そのような描写もない。
     そうである以上、この映画から「障害者などいない方がいい」というメッセージを読み取るべきではないのだ。「だれかがこんなことを思うかもしれないから良くない」などといいだしたら、だれが撮ったどんな名作でも否定できてしまうだろう。
     『ローマの休日』を見て「王族に人権はないのだ」と感じて傷つくプリンセスもどこかにいるかもしれないではないか?
     それから、これは揚げ足取りになるかもしれないが、「強化」といっている以上、もとからそのような価値観を持っていることが前提である。つまり、この文章では、「子供や障害を持つ方」は一般にある程度「「障害者はいない方がいい」ような価値観」を持っているものとされているわけである。
     ある障害者差別を批判しているにもかかわらず、この言葉の使い方は良くないと思う。
     その後、記事はこのように続く。

    言うまでもないことですが、ファンタジー世界は現実にはありません。
    この映画の中ではファンタジー世界に逃げることができて、なおかつ障害が治る。
    でも現実ではそんなことはない、障害は一生付き合わねければいけない。その絶対的な事実がある以上、障害を持つ子供が観たら、この邪魔者がいなくなる結末に絶望してもおかしくないですよ(しかもそのファンタジー世界に行く手段は“自殺行為”である)。

     あたりまえだが、「障害は一生付き合わねければいけない」かどうかはケースバイケースである。障害にも色々な種類があるし、何らかの手段で完治するものだってなかにはあるだろう。
     あるいは完治まではいかないにしろ、改善することは十分にありえる。「障害は一生付き合わねければならない」ことを「絶対的な事実」と呼ぶのはどう考えてもおかしい。
     いや、まあ、そこは「治りようがない障害」だけの話をしているのだと考えてもいい。しかし、治しようがない障害を抱えている人が大勢ことが事実であるとしても、だから映画はそれが治るところを描いてはならない、ということにはならない。
     たとえば、一生にわたって重い心臓病を抱えて生きていかなければならない人がいるからといって、映画で心臓病で治るところを描いてはならないということにはならないだろう。
     たとえば『ブラック・ジャック』などでは現実ではとうてい治りそうもないような難病が奇跡的に治癒する物語がよくあるが、ああいう描写は一生、難病と付き合っていかなければならない子供たちを絶望させるだろうか。
     いや、もちろん、そういうことではないのだろうということは想像できる。
     問題は「ある障害を抱え、そのために自分を「邪魔者」と自嘲した人間がいなくなることによって物語がハッピーエンドになる」という結末が、障害を持った子供にショックを与えたりするかもしれない、ということなのだろう。
     「障害を持つ子供が観たら、この邪魔者がいなくなる結末に絶望してもおかしくないですよ」とはそういうふうに受け取るべきなのだと思う。
     だが、べつだん、映画は「障害者は邪魔者だからいなくなったほうがいい」と表現しているわけではない。作中のだれひとりとしてそのように主張してはいない。
     それでもそこにそのような差別的主張を読み取るべきだろうか? 当然、読み取るべきだと上記記事は主張しているように思えるのだが、ぼくはそうは思わない。
     ユウはどのような意味でも「ザ・障害者」という人間ではなく、かれが映画のなかでどのような行動を取るかは障害者一般がどのような行動を取るべきかとは無関係である。
     そうである以上、そこから過剰な意味を読み取るべきではない。たしかに、障害者が異世界へ行ったらなぜか障害が治ってしまうという展開が安易だという批判は成り立つだろう。しかし、それは映画脚本としての瑕疵ではありえても、べつだん、差別ではない。何ら障害者一般に単一のイメージを押しつけてはいないからである。
     押しつけていると感じる人は、そもそも障害者とひと口にいってもその内実も性格も多様である、という事実を無視しているのではないだろうか? ぼくにいわせれば、それこそがまさに差別なのだが。
     ある種の物語のなかでは、障害者の障害が治る(あるいは少なくとも改善する)場面は、しばしば感動的な場面として描かれる。
     たとえば『アルプスの少女ハイジ』ではクライマックスでそれまで立てなかった少女クララが立つし、『バジュランギおじさんと小さな迷子』ではやはりクライマックスでそれまで声が出せなかった少女が声を出す。
     たしかに、これらの作品の障害者描写がステレオタイプであるという批判は成り立つだろう。しかし、「クララを立たせたりしたら、決して立てないという事実を抱えた子供が絶望するかもしれないではないか」という角度での批判はやはりおかしい。
     クララも、ユウも「ザ・障害者」として生きているわけではないからだ。クララは障害者であるまえにまずクララなのであり、ユウもまた同じなのである。
     障害はかれらのアイデンティティの一側面であるに過ぎない。たしかに、おそらくユウが二ノ国に残る決断をしたとき、その地では自由に歩くことができるという判断もその事情に関わったことだろう。
     しかし、それは悪いことだろうか? それは「障害者はみな二ノ国のようなところへ行ってしまえばいい」という意味なのだろうか? どう考えてもそうは思えない。
     その決断はどこまで行ってもユウという個人が自分自身のために下した性質のものであり、「障害者みなかくあるべし」ということを意味してはいない。そこに「障害者みなかくあるべし」の規範を読み取ってしまうとしたら、何かが歪んでいるのである。
     上記の文章を読んでいてつくづく思ったのが、この人はユウのキャラクターの「障害者」という一面をきわめて大きく捉えているのだな、ということだ。
     これも繰り返しになるが、じっさいにはユウは当然ながら多面的な人間であって、足の障害はかれという人格の無数にある属性のひとつに過ぎない。
     ユウがコトナたちのまえで自分のことを「邪魔者」といったときには、たしかに足の障害のことも関わっていただろうが、それが理由のすべてではなかったはずだ。
     むしろ、カップルの間にもうひとり男が入り込むなんて邪魔者だ、というニュアンスのほうがずっと強かっただろう。
     それを捉えて、このような描写は障害者を絶望させるかもしれないと非難するのは、ぼくにはいかにも筋違いに思える。
     そもそも差別とは何か?という話なのだ。もちろん色々な表現ができるだろうが、ひとつには差別とは「現実の多様性を無視した過度の一般化」であるといえる。
     つまり、現実に色々な障害者がいることを無視して「障害者はみな性格が暗い」といったり、さまざまな同性愛者がいる事実を看過して「同性愛者はみな女っぽい」といったりと、多様な集団にたったひとつの個性を烙印のように押しつけることが差別だということだ。
     そうであるとしたら、ユウというある個人が下した判断に対して、障害者一般が下すべき判断だと見て取るのは、それこそ差別的ではないだろうか? ユウのことをただ障害者としてしか見ないのは、かれの複雑な人格に対する侮辱である。
     べつだん、ユウは全障害者を代表して二ノ国に残ることを決断したわけでもないし、障害者ならだれもが同じようにするべきだ、ともいっていない。それにもかかわらずそのように感じるとすれば、それは見るほうの問題だろう。
     そもそも障害者はいついかなる場合も絶対に邪魔者扱いされてはいけないし、物語のなかでそのように描写されてはいけないのだろうか? そうでなければ多くの障害者たちが傷つき、悩み、苦しんでしまうのだろうか?
     そんなはずはない。現実には障害者だろうが邪魔者扱いされることもあるだろうし、自分を邪魔者だと感じることもあるだろう。それ自体はまったくもって当然のことであり、それが差別にあたるかどうかはケースバイケースだ。
     たしかに障害者がその障害を原因として社会から排除されることはあるべきではない。しかし、何らかの障害を抱えた者ならいついかなる場合も気を使ってもらって当然、というのもそれはそれでおかしいのだ。
     たしかに『二ノ国』の結末はいかにも甘ったるく、他愛なく、思索性が足りないかもしれないが、それと差別であるかどうかとはまったくべつの話である。
     ぼくは『二ノ国』が障害者に対して差別的な描写を行っているとは特に思わない。そして、それはぼくが差別に対し鈍感だからだ、というわけではないと考える。違いますかね?
     上記記事の結末にはこのように書かれている。

    結論としては、こんな脚本を書いた日野晃博が法律で罰せられることを期待しています。

     何の法律なんだか。現代において実在する差別が批判されることは当然だが、火のないところの煙を見て取って正義の怒りに燃えることもそれはそれで問題である。差別について考えるときはどこまでも慎重でなければならない。当然のことではないだろうか。
     以上、ご一読ありがとうございました。 
  • もしサノスの主張が「正義」なら、そのとき、アベンジャーズはどうしたのか?

    2019-06-14 15:57  
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     先日、見に行った映画『プロメア』のことを考えています。この映画、『天元突破グレンラガン』のスタッフによって制作されているのですが、ある意味、『グレンラガン』から「一歩も先に進んでいない」といえるところがあって、そこら辺が賛否両論を生んでいるようです。
     具体的にどういうことかというと、この作品の悪役(ヴィラン)であり、「ラスボス」であるところのクレイ・フォーサイトの主張(「悪の理論」)に対し、主人公たちの主張(「正義の理論」)が弱いのではないか、という話があるのですね。
     作中、クレイは滅亡に瀕した人類を救うためという理由で自分が選んだわずかな人たちとともに地球を脱出しようとするのですが、そのために新人類バーニッシュを犠牲にします。これは、ある意味でわかりやすい「悪」ではあるといえるでしょう。
     ですが、もしもクレイがほんとうに正義からこのやり方を選んでいたとしたら? そして、また、このクレイのやり方以外に人類を救う方法がないとしたら? そのとき、主人公たちはクレイを純粋な「悪」として告発することができるでしょうか?
     実際には、クレイには私心から行動しているという瑕疵があり、また人類が滅亡に瀕しているという問題には未発見の解決策がある。だから、クレイを「悪」として告発することには意味がある。
     しかし、もしクレイにそのようなエゴがなく、また、解決策が存在しなかったらどうでしょうか? そのとき、クレイを告発する理由は存在しなくなってしまうでしょう。これがつまり、『物語の物語』のなかでぼくたちが延々と話している「天使」の問題です。
     「天使」とはつまり、「倫理的に隙のない絶対善としてのラスボス」のことなのです。
     倫理的に隙のないラスボスを正義の名のもとに告発することはできません。クレイのように私心(エゴイズム)から行動していたり、あるいは人類と世界を救う方法が他になる場合は、ある意味で主人公にとって都合が良いといえるでしょう。
     そのときは彼の「悪の理論」を高らかに論破し、「おまえのいうことは間違えている!」と叫んで殴り飛ばしてしまえばいい。それで主人公は正義のヒーローとしての立場を守ることができます。
     問題なのは、ラスボスが語る悪の行動を正当化する理論がほんとうに正当だった場合です。たとえば、ほんとうにバーニッシュを利用すること以外に人類を救う方法がないとしたら? そのとき、ヒーローは倫理的な窮地に追い込まれることになるでしょう。
     いくら「おまえは間違えている!」と叫んでみても、説得力がないことはなはだしい。あるいは「正義」はほんとうに相手にあるかもしれないのですから。
     実は同じことが『アベンジャーズ/エンドゲーム』に対してもいえます。『エンドゲーム』のラスボスであるサノスは、宇宙の人口問題を解決するため、宇宙全体の人口を半分にしてしまうという目的を持って行動しています。
     その際にアベンジャーズと対立するわけですが、はたしてかれの行動はほんとうに間違えているといえるのでしょうか? 作中では、その問題はあいまいに処理されてしまった感があります。
     もちろん、作中ではサノスの主張の根拠はあいまいで、また、サノスはエゴを払拭しきれていない。そして、最後の最後では「わかりやすい悪役」に堕ちてしまう。
     つまり、サノスは「天使=倫理的に隙のないラスボス」ではなく「ヴィラン=倫理的に隙のあるラスボス」であるに過ぎなかったことになる。だからこそ、キャプテン・アメリカやアイアンマンの「正義」は相対的に保証されることにもなる。
     ですが、もしサノスに一切のエゴイズムがなく、またサノスの計画以外に問題を解決する方策がないとしたら? そのとき、やはり「天使」の問題が浮上することになってしまうでしょう。つまり、アベンジャーズはサノスに対する相対的な正義を主張することができなくなってしまうわけです。
     『エンドゲーム』は『プロメア』と同じく、サノスを「ヴィラン」の次元に留めることによって、この問題をごまかし、回避したように思えます。
     ですが、べつだん、それによってサノスの掲げた問題が解決したわけではありません。もしかしたら、サノスによって救われた人もいたかもしれないし、サノスのやり方のほうが正しかったかもしれないのです。ぼくはやはりそこに物足りなさを感じてしまう。
     ただ、『エンドゲーム』の圧倒的な好評を見る限り、そのような問題について真剣に考える人は少ないのかもしれません。そこにどのようなごまかしがあるとしても、大半の人は「天使」以前の物語、主観的な「正義」が主観的な「悪」を暴力で倒しておしまいという物語で満足なのかも。
     しかし、ほんとうにそうなのでしょうか? そういう意味では、これから先の『アベンジャーズ』と、ハリウッド映画の展開が楽しみです。はたしてハリウッドに「天使」は降臨するのか? 皆さんもお楽しみになさってください。
     では。 
  • 『アリータ バトル・エンジェル』が凡庸に感じた理由。

    2019-03-01 18:09  
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     このところ、何作か続けて映画を観ています。
     『シティハンター 新宿プライベート・アイズ』、『コードギアス 復活のルルーシュ』、『PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.2「First Guardian」』、『アリータ バトル・エンジェル』と、すべてアニメか漫画原作ですね。
     どれも悪くなかったけれど、素晴らしい傑作というほどの作品もなかったかも。『シティハンター』については、「『Get Wild』良かったよね」という以外の感想は特になし。
     いや、面白かったんだけれどね。かつての『シティハンター』の演出や音楽をそのままに再現したノスタルジー映画で、一切新しいところはないのだけれど、ファンが期待しているものそのものではある。まあ、これはこれで、という作品。
     『復活のルルーシュ』は期待して観に行ったのですが、個人的にはいまひとつ、ふたつ。
  • ベジータ問題。あるいは『SSSS.GRIDMAN』における「正義」と「悪」とは何か?

    2019-01-21 15:03  
    51pt
     この記事は『劇場版「Fate/stay night [Heaven's Feel]」』と『SSSS.GRIDMAN』の全面的なネタバレを含みます。まだこれらの作品を未見の方は回れ右するか、「覚悟」のうえでお読みください。よろしくお願いします。
     さて、ペトロニウスさんの『SSSS.GRIDMAN』の記事が興味深いので、引用します。
     これ、もともとはぼくがTwitterでこの作品の名前を挙げたところから始まっている話なのですけれど、ペトロニウスさんはこのアニメを見て古い脚本だと思ったとのことです。
     それはそうで、アニメ的にも20年とかまえのスタンダードですし、SF的にはニューウェーブの内面宇宙とかの話と重なりますから、へたすると50~60年昔の話だったりするわけです。
     で、やはりいまひとつの作品だと思った(らしい)ペトロニウスさんは教えてLD先生!ということでLDさんにその内容につい
  • 『魔法少女リリカルなのは Detonation』は混沌とした定食屋アニメだ!

    2018-10-20 15:16  
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     ふらっとうちに『スーパーマリオパーティ』をやりに来たてれびんに誘われて、映画『魔法少女リリカルなのは Detonation』を観て来ました。
     ちなみにぼくは『魔法少女リリカルなのは』シリーズを見るのは初めて。この映画、前後編の前編にあたるのですが、その前編すら見ていません。正真正銘の初なのはです。
     このシリーズ、14年にわたって続いているので、当然、「いままでの作品を観ていないと理解できないのでは? ぽかーんとしているうちに終わってしまうのでは?」と思うところですが、てれびんの野郎が「大丈夫、大丈夫、最初に「これまでのあらすじ」みたいなやつをやるから、それでわかるよ」とのたまったので、「そうかなー」と思いつつもいっしょに観てみることにしました。
     で、たしかにありました、「これまでのあらすじ」。あったのですが――こんなものでわかるかー! さっぱり何のことだか理解できないぞ!
     いや、
  • 映画『若おかみは小学生!』微ネタバレありレビュー。

    2018-10-04 13:41  
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     ネットでやたらに評価が高い(が、興行収入は振るわない)映画『若おかみは小学生!』を観て来ました。
     上映している映画館がちょっと遠いところにあるので行くのが大変だったけれど、結論としては観て良かったです。
     高い世評も納得の秀作。一本のアニメーションとしての出来が抜群に良く、ファミリー映画として、大人も子供も楽しめる作品です。むしろ、子供より大人のほうが「刺さる」かも。
     ただ、個人的には気になる点もなくはなく、文句なしの絶賛とまでは行きませんでした。
     物語は主人公の少女「おっこ」が両親とともに自動車に乗っているとき、事故に遭うところから始まります。その事故で両親は亡くなり、おっこは母がたの祖母に引き取られることに。
     そこで彼女はその祖母がおかみを務める旅館に住み着いた幽霊や鬼と交流しながら、「若おかみ」として少しずつ成長し、また癒やされていくことになるのですが――というお話。
     原
  • 細田守は家族と血脈を愚直に描く「骨太の物語作家」だ。しかし――

    2018-08-08 11:29  
    51pt
    ◆細田守の「聖母」。
     細田守という映画監督のことを考えています。
     いままでどうにも捉えどころがないような作家だと思っていたのですが、『未来のミライ』を見たことで、ちょっとわかったように思います。
     この人は、たぶん、本来、シンプルでプリミティヴな物語を作りたい人なのですね。
     でも、時代が時代だから、なかなかそれができない。それで、その歪みが作品に刻印されることになる。そういうことなのかな、と。
     もう少しわかりやすく説明しましょう。
     細田監督のいまのところ最もかれらしい作品にして、いちばん賛否両論を呼んだのは『おおかみこどもの雨と雪』だと思います。
     これはまあ、ぼくの目から見ても批判が生じるのはよくわかるような映画なんですよね。
     何といっても、女性の、あるいは母親の描き方にまったくリアリティがない。現代の映画としてはいかにも受け入れがたい。
     でも、同時に、この「リアリティのな
  • 『未来のミライ』は『未来のミライ外伝』のほうが正しいタイトルだ!?

    2018-07-29 11:01  
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    ■『未来のミライ外伝 くんちゃんの不思議なお庭』?■
     先日、細田守監督の新作映画『未来のミライ』を観て来ました。
     その感想はニコニコブロマガのほうに書いたのですが(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar1635302)、こちらではちょっとだけネタバレの感想を書いておきたいと思います。以下、ほんとにちょっとだけネタバレです。
     で、これはブロマガのほうにも書いたのだけれどぼくは傑作だと思っていて、世間の賛否両論がぴんと来ない。いや、これはごくごくわかりやすい作品でしょ。
     まあ、でも、あまりこの手の映画を見なれていない人にとっては唐突に感じられたり、無理がある展開に思えるであろう事態が頻出することもたしか。
     そもそもこの映画が何を描いていて、どこが面白いのかわからない人も多いかも。
     思うに、「未来のミライ」というタイトルの設定が悪い
  • 『ヲタクに恋は難しい』実写映画化! オタクのパンピー化は止まらない。

    2018-07-29 10:53  
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    ■『ヲタクに恋は難しい』映画化! え、実写?■
     何やらベストセラー漫画『ヲタクに恋は難しい』が実写映画化するらしいですねー。何というかもう、「ついに時代はここまで来たか」という感じです。
     オタク大迫害時代に青春を過ごしたアラフォーのおっさんとしては、感慨無量というか感動ですよ。
     まあ、映画のクオリティに関しては何ともいえないわけだけれど、とりあえずオタクが普通のティーン向け恋愛映画(だろう、きっと)の主役になる日が来ようとは、思いもしないことでした。
     いや、『ヲタ恋』が出て来たあたりではっきりと時代の変わり目は感じていたんだけれど、それにしてもこの流れの速さは凄いですね。
     いったいこのままどこまで行ってしまうのだろう? 一億総オタク化して、「オタク」という言葉が死語になったりして。うーん、まったくありえない話じゃない気がするあたり、時代の変化は恐ろしい。
    ■オタクの四世代■
     そ