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  • 町山智浩さんの「草薙素子の中身はおっさん」発言は正しいか?

    2019-04-27 22:10  
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     ども。 皆さんご存知の映画批評家の町山智浩さんが、

    ただ「攻殻機動隊」の草薙素子を始め、中身が男というか、男の作者の自我を投影したヒロインが多いんだけど。「幼女戦記」とか。中身はおっさん。

     という発言を行い、例によって例のごとく物議をかもしているようです。面白いですね。
     へー、そうなんだ、と意地悪く絡んでみたくなりますが、「『幼女戦記』は男の作者の自我を投影したヒロイン」ではなく、完全に男性人格を持ったキャラクターでしょ、というツッコミはすでに散々されているので、ぼくは触れません。
     その直前で語られている「「攻殻機動隊」の草薙素子」が、ほんとうに「中身はおっさん」であるかどうか、いやらしく追及してみることにします。
     ぼくは性格が善いので、個人攻撃に陥ることなく、なるべく客観的に、論理的に追求を試みたいと思います。なお、該当発言とその文脈はこのまとめをご覧ください。
    https://togetter.com/li/1341666?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
     さて、具体的に考えを進めるよりまえに、まず前提を確認しておくと、ひと口に『攻殻機動隊』といっても、大きく分けてそれぞれ設定が異なる四つのシリーズが存在します。
     個々の作品はタイトルと登場人物はほぼ共通しているものの、内容的には微妙に異なっており、また当然、主人公である草薙素子の性格付けについても異同があります。おおよそパラレルワールドの物語と考えて良いでしょう。
     この四つです。

    1)原作マンガ版『攻殻機動隊』のシリーズ。
    2)押井守監督によるアニメ映画版『攻殻機動隊』とその続編『イノセンス』。
    3)神山健司監督によるテレビアニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』のシリーズ。
    4)公安九課の成立を描く『攻殻機動隊 ARISE』。

     もっというとゲーム版の『攻殻機動隊』なんかもあるのですが、ここでは省略。
     たとえば草薙素子の全身サイボーグ化の経緯に関しても、「3」と「4」では異なる描写がなされており、「草薙素子の中身はおっさん」という命題が真か偽かと問うときには、そもそも「どの」草薙素子のことをいっているのか、と考えなければなりません。
     町山さんが『攻殻機動隊』の草薙素子、というとき、「1」から「4」のいずれの草薙素子を想定しているのか。
     単純に考えると、おそらく「2」の押井版でしょうね。仮にも映画評論家ですから、押井版の『攻殻機動隊』は見ていることでしょう。で、「1」を読んでいるかどうかは微妙、というところじゃないかな。読んでいない可能性も高い。
     「1」の素子は押井版の素子よりいくらか「女性らしい」描写がありますから、「1」を読んでいたらこういう発言はしなかったのではないかと思います。
     あと、まあ、「3」と「4」はたぶん見ていないでしょうね。見ていたらさすがにもう少し気をつけた発言をすると思う。わからないけれど。
     さて、町山さんが想定したのが「2」であるにしろ、あるいは「1」であるにしろ、ここで考えるべきことはひとつ、彼は簡単に「男の作者の自我を投影したヒロイン」といっていますが、何を根拠に「作者の自我を投影した」といっているのかです。
     もちろん、広い意味ではすべての創作のキャラクターは「作者の自我を投影」されているとはいえるでしょう。しかし、ここでいうのはあきらかにそのレベルの話ではない。
     男性作家が自分のジェンダー的特質を投影した結果を、明確に作品内に見て取ることができる、といっているのだ、と考えるしかありません。
     町山さんはその特質について具体的に説明してくれる気はないでしょうから、ぼくがかってに考えることにしましょう。考えられる可能性はいくつか存在します。
     いちばん単純なのは、男性作家は一様にヒロインに「自我を投影」しているものだ、と考えていることですが、彼のその後のツイート、

    押井守の「攻殻機動隊」では登場人物すべてが作者の投影だけど、そうでない描き手もちゃんといて、花沢健吾先生や押見修造先生の作品に登場する女性は、作者の自我の延長や都合のいい理想ではなく、自立した「他者」として描かれています。他にもそういう作品はいっぱいあると思います。

     を読む限り、それは違うのでしょう。うん、これを読むと、やはり町山さんが想定しているのは「2」の『攻殻機動隊』に限るようですね。
     ここで町山さんは単に「作者の投影」、あるいは「作者の自我の延長や都合のいい理想」とした描かれた「ヒロイン」、あるいは女性キャラクターと、そうではなく「自立した「他者」」として描かれたキャラクターがある、と主張しています。
     それでは、押井版の『攻殻機動隊』が、「登場人物すべてが作者の投影」であるとは、何を根拠に発言しているのでしょう。
     思うに、これにはあまり合理的な解があるようには思えません。たぶん、町山さんがそう思うというだけのことでしょう。
     ぼくももちろん、映画『攻殻機動隊』と『イノセンス』は見ましたが、町山さんのいいたいことはわからなくもない。両作品における素子やバトーは原作とはだいぶ性格付けが異なり、難解で哲学的(?)なセリフをのべつまくなくしゃべり倒します(たぶん電脳とネットを常時接続して検索しているのだと思う)。
     これは、おそらく押井監督の性格がそのままに投影されている側面が大きいと思います。それでは、やはり草薙素子は「中身はおっさん」なのかというと、必ずしもそうはいい切れない、とぼくは思います。
     そもそも、町山さんはあたりまえのように「自我の投影」として描かれたキャラクターと、「他者」として描かれたキャラクターを区別していますが、これはそれほど明瞭に区別できるものではありません。
     町山さんがこのように断定できるのは、たまたま押井守というクリエイターが世間的に有名な人物であり、また著書やインタビューなどを通してその性格や思想を開陳しているからに過ぎません。
     だからこそ、「ああ、この草薙素子はきっと作者の自我の投影に違いない」と判断できるわけです。
     しかし、あたりまえのことですが、ある程度、作者の自我が投影された側面があるとしても、だからといって「他者」として描かれている側面がないことにはなりません。
     また、仮に町山さんが語るように「花沢健吾先生や押見修造先生」(押井さんは呼び捨てでこっちだけ「先生」を付けるのね)の描く女性像が「他者」として描かれていると認めるとしても、作者が自我が投影された側面が皆無だというわけではないでしょう。
     先ほど述べたように、物語の創作においてはどのような作家も程度の差はあれ、作中人物に多少の投影は行っているに違いないはずで、こっちは「作者の投影」に過ぎない、こっちは「他者」だ、と語ることは、作品外の条件によるある種の先入観にもとづく固定観念以上のものではないと思います。
     町山さん自身にしても、たとえば「何となく話し方が押井守っぽくて、押井守っぽい考え方をしているから押井守の投影だ」とか、そういうレベル以上の根拠はないでしょう。もしあるのなら教えてほしいものですが、きっとないと思う。
     これは単なる揚げ足取りでしょうか? そうではありません。
     たとえば、まとめのコメント欄でもちょっと触れられているように、SFファンなら知っていることと思うジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、本名アリス・シェルドンというアメリカのSF作家がいます。
     この人、『たったひとつの冴えたやりかた』や『愛はさだめ、さだめは死』などで知られるSFの歴史上でも一、二を争う天才作家なのですが、女性でありながら男性名でいくつも「男性らしい」作品を書きました。
     その結果、彼女が女性であるはずはない、男性に違いないと考える人があらわれたのです。しかし、だれよりも「男らしい」小説を書いてのけたティプトリーは実際には女性だった。
     これは、作者の性別に対する判断がいかに間違えやすいものであるかを語る逸話であるように思えます。町山さんは押井さんが男性であることを知っているから素子を「作者の自我の延長や都合のいい理想」といい切っているに過ぎないのではないか、という疑いは残ります。
     はたして「作者が男性である」という作品外情報なしでも、彼が素子に対し「中身はおっさん」といい切れたかどうかは限りなく怪しいところです。
     しかし、それなら、町山さんの発言にはそれ以外には特に問題はないのでしょうか。
     いいえ。この場合の真の問題は、べつのところにあります。つまり、仮に作品のメタレベルで、草薙素子は「作者の自我の投影」であるに過ぎないと作品外世界にいるぼくたちには確認できるとしましょう。
     ですが、ほんとうの問題は作中世界において素子が「中身はおっさん」であることを匂わせるような行動なり言動を取っているかどうか、ということです。
     もし、作品内において素子が完全に「女性として」描かれているのなら、どれほど押井守が自我を投影していようと、彼女は女性だとしかいいようがありません。当然のことです。
     映画を語るときは本編の外の情報(たとえば作者のインタビューなど)に根拠を求めるべきではないのです。それでは、素子は「女性として」描かれているのか。
     この問いへの答えは単純ではありません。なぜなら、素子は全身サイボーグの「義体使い」であり、そもそも生まれたとき男性だったのか女性だったのか、性自認は女性なのか男性なのか、また、男性や女性というジェンダー意識を有しているのかどうなのかすらわからないからです。
     原作版においては彼女は男性の恋人を持つ一方、女性とも肉体関係を持ったりしていますが、これは原作の彼女がバイセクシュアルであることを示しはしても、彼女が男性なのか女性なのかを表してはいません。
     そして、最後には「人形使い」と融合して男性の義体に入ったりします。また、押井版の素子も、本質的には特定の性別に捕らわれない人物でしょう。いったい彼女に「性自認」という概念が通用するのかどうか、微妙なところです。
     ですが、ぼくはべつだん、だから町山さんのいう発言は間違えている、といいたいのではありません。繰り返しますが、そうではなく、そのようにジェンダー越境的に描かれ、しかし基本的には女性として行動し、活躍しているキャラクターを、「中身はおっさん」といい切る根拠は作品内のどこにあるのか、ということを問いたいのです。
     これには先ほどの考えがアンサーになるかもしれません。つまり、素子は作中において、それこそ作者の自我や理想が投影されているとしか思えないような行動と言動をしている。そこから「中身はおっさん」といえるのだ、と。
     しかし、どうでしょう。その「中身はおっさん」の根拠となる行動なり言動は、ほんとうに「おっさん」の中身なくしてはありえないものなのでしょうか。ぼくにはそうは思えません。
     つまり、町山さんの発言の根拠をあくまでも作中に求めるとするなら、人間には「女性らしい」行動や言動と、「男性(おっさん)らしい」行動や言動があり、素子は後者を選んでいるから「中身はおっさん」なのである、と思っていると考えるしかないことになる。
     これはあからさまに性差別的なジェンダー本質主義です。もっというなら、素子は作中で強く、賢く、統率力と洞察力に秀で、天才的な軍人であり警官でもあるような人物として描かれていますから、町山さんはそういう素子を見て、中身は「理想化されたおっさんの自我の投影」であって、決して「他者」としての女性ではありえない、と思っているのだろうという推論が成り立つ。
     ようするに、草薙素子のような女性などありえない、これはおっさんの投影や理想の産物に違いない、といっているわけです。
     実際問題、草薙素子には、彼女を女性として見て好きでいる女性ファンがたくさんいるはずなのですが、この町山さんの発言にのっとるなら、それは間違いだということになる。素子はあくまで「中身はおっさん」であって、女性ではないのですから。
     これはあきらかに問題でしょう。ぼくは仮に素子がもっと「おっさん」らしい行動を取っていてたとしても、だからといって「中身はおっさん」だ、などという発言を軽々に行うべきではないと考えます。
     たとえば、『マリア様がみてる』の佐藤聖は「セクハラオヤジ女子高生」などとあだ名されるようなキャラクターですが、決して「中身はおっさん」ではないでしょう。
     「おっさんらしい」行動を取っているキャラクターの中身はおっさん、という判断は、逆にいえば、「中身が女性」なのは「女性らしい」行動を取っているキャラクタ-だけである、という判断と裏腹です。これが性差別でなくて何でしょうか。
     ぼくは町山さんをリベラルな人だと思っていましたが、どうやらそれは間違いだったようです。まあ、『幼女戦記』のことを考えても、うっかり何も考えずに差別的な発言を行ってしまっただけなのだとは思いますが……。
     以上です。疲れたのでもう終わりますが、ぼくなりに「最善の相」で町山さんの発言を読んでみました。どうでしょうか。ご理解いただけると幸いです。では。 
  • なぜ人がイチローになってから打席に立とうとするのか、『シン・ゴジラ』で説明するよ。

    2016-08-14 09:56  
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     公開から数週間、そろそろ良いだろうということで『シン・ゴジラ』ネタバレ記事である。
     えー、以下の内容は『シン・ゴジラ』に対する致命的なネタバレを複数含んでいます。未見の方は決して読まないようにお願いします。
     さて、この話は一見、『シン・ゴジラ』とは無関係に見えるに違いないひとつの興味深い記事を引用するところから始まる。「イチローになってから打席に立とうとする人が多すぎる」と題された文章だ。

    もちろん準備は重要だが、打席に立つチャンスがあるのに立たない理由はない。
    どんなに頭が良くてどんなに情報をインプットしても、やってみなきゃわからない。
    バッターボックスの外からどんなに雄弁に分析できても、実際バッターボックスに入って見える風景は別世界だ。
    バッターボックスに入って体験する「カーブってこんな曲がるの!?!?!?」という衝撃は、相手がどのタイミングでカーブを投げてくるかより圧倒的に重要な情報なのだ。
    空振りしまくって、ボール球に手を出してしまって、三振して、そういう中で経験を詰んではじめてイチローになる可能性が出てくる。
    技術力が足りない、創業メンバーがいない、メンターがいない、競合がいる、全部バッターボックスの外から言っててもかっこ悪いだけだ。ダサすぎる。
    バッターボックスに立つチャンスがあるなら立てばいい。ストライクが来なくても死なないし、空振りしても死なない。むしろ、ボールの数だけストライクの可能性が高まるし、空振りの数だけヒットの可能性が高まる。
    http://hanaken.hatenablog.com/entry/2016/06/16/184421

     個人的に、なかなか面白いことをいっていると思う。正論といえば、正論である。しかし、同時に、この正論を理屈通りに実践できる人ばかりではないだろうとも思う。
     やはりどういいつくろったところで、失敗することは怖いし、三振することは格好悪いように思えるものなのだ。なぜなら、三振するということは、三振したことを非難されるということだからだ。
     なんであれ失敗すれば必ずだれかから批判される。嘲られるかもしれないし口汚くののしられるかもしれない。見下され、バカにされ、踏みにじられるかもしれない。
     それがまったく怖くないという人は少ないだろう。なんであれ行動する人間は、その恐怖と躊躇を乗り越えて行動している。
     イチローにしてもおそらくそうなのだろうと思う。イチローの生涯打率は、正確には知らないが、おそらく三割をいくらか超える程度だろう。
     ということは、世界最高峰の打者であるイチローですら、成功より遥かに多くの失敗を経験しているわけである。何千回もの失敗の山の上に初めて、イチローの偉業は屹立している。
     何もひとりイチローに限った話ではない。どれほど優れたトップアスリートであれ、生涯無敗という人はほとんどいないだろう。つまり、どんな分野であっても、あるいはどれほどの天才であってもなお、挑戦する人間は必ず失敗も経験するのである。
     それはアクションにともなう普遍的真理というべきことで、どうしたって避けることはできない。ひとは光り輝くサクセスにのみスポットライトをあて注目するが、その陰には必ず白鳥のもがきに似たトライアル&エラーの積み重ねがある。何十、何百、何千という屈辱的なエラーを経てようやく栄光のサクセスにたどり着けるものなのだ。
     それなら、もしそのエラーを犯すことがいやなら、どうすればいいか。ふつうに考えれば、エラーを犯さずに生きることはできないはずだが、ひとつだけ一切エラーしない方法がある。
     つまり、何もしないことだ。何も行動しなければ、ミスすることもない。挑戦しなければ、絶対に失敗しない。発言しなければ決して間違えないし、選択しなければ、無垢な絶対正義のままでいられる。
     そしてその無邪気な正義を振りかざし、必ず何らかの欠点を抱えている行動する者を好きなように批判し、叱責し、誹謗し、嘲笑することができる。何もしなければ、なんの責任を取らされることもない理屈である。
     ここでは、自分の行為の責任を引き受け、他者から攻撃されるリスクを背負った上で行動することを選んだ人間と、あくまで責任とリスクを回避し行動しないことを選んだ人間を、元々の正確な定義とは異なるかもしれないが、「インサイダー(責任当事者)」と「アウトサイダー(責任回避者)」と呼ぶことにしよう。
     あくまで、この場で利用するために考え出した概念に過ぎないので、本来の意味と違うことは気にしないでほしい。
     さて、この言葉の使い方に従うなら、イチローはあきらかにインサイダーである。イチローは常に責任から逃げない。リスクを避けることもしない。
     上記したように彼もいつも成功してきたわけではなく、それこそ何千回と打ち損ねてきたはずだが、それでもインサイダーであることを貫いてきた。
     一方、イチローを批判するアウトサイダーは数多い。彼らは自分でバッターボックスに立つことはしない。ただ、その外からイチローを批評し、ときに批判するだけである。
     「イチローなんてたいしたことないよ。だって、長距離安打は少ないわけだしさ。イチローを過剰評価しているのは日本人だけだよね」といった言説はその典型である。
     こういった言説を自由に語れることはアウトサイダーの特性といっていいだろう。どうしようもなく失敗と敗北を含む現実に直面せざるを得ないインサイダーに対し、アウトサイダーはどこまでも万能で無敵のポジションなのだ。
     また、しばしばその責任の重さに背骨をへし折られてしまうインサイダーと比べ、アウトサイダーは気楽だ。彼らは現実には何ひとつ行動に移さないが、まさにそうだからこそおれだってこれくらいやればできるという幻想にひたっていることができる。
     じっさいに野球をやっている人間は否応なくイチローの偉大さと、イチローと自分の格差を実感せざるを得ないだろう。プロの野球人ならなおさらである。
     しかし、じっさいに責任を引き受けて行動することがないアウトサイダーは一切その種の実感を抱くことはない。だから、アウトサイダーはどこまでも無責任に他人を批評し断罪することができるのだ。
     その意味で、アウトサイダーは自由である。その代わり、アウトサイダーは必然的に一生何ひとつ成し遂げることなく終わる。
     何かを成し遂げるのは常にインサイダーだ。ときに失敗し、ときに挫折し、ときに批判され、ときにくじけそうになりながらも、そして結果が不完全であっても、何らかの業績を達成するのはインサイダーだけである。
     この世に完全な成功は空想のなかにしかない。イチローの業績にしても、「ホームラン王を取ったわけではない」とか「日米通算で安打数をカウントするのはおかしい」といった瑕疵を見つけることはできる。
     しかし、そういった現実を生きる者の宿命を理解した上で、それでも現実を選ぶ人間こそがインサイダーなのである。
     アウトサイダーは空想的な理想のなかを生き、インサイダーは不完全な現実を生きる。
     さて、ここでようやく『シン・ゴジラ』の話に移る。「ニッポン対ゴジラ」というキャッチコピーからもあきらかであるように、『シン・ゴジラ』は日本という国をテーマに据えた映画である。
     ゴジラという天災めいた怪獣を通して、日本社会の現状を描く。アプローチとしては、それほど新しくはない。むしろ、ごく王道の正統的なやり方だといえるだろう。
     それでも日本をテーマにした物語作品として、『シン・ゴジラ』が革命的に新しいのは、これが徹底してインサイダーの物語であることだ。
     その数が数百名に及ぶというこの映画の登場人物たちは、そのほとんどが何かしらの責任を背負って「ゴジラ災害」に立ち向かう者たちばかりである。
     よく民間人やゴジラの被害者がほとんど出て来ないという批判を目にするが、それはこの映画のコンセプトがそこにはないからだとしかいいようがない。
     この映画は「いかに災害の当事者たちが山積する問題に立ち向かい、克服するか」に焦点をあてた作品であり、そこ以外は非情にカットされて当然なのだ。
     そして、まさにそのコンセプトこそが、『シン・ゴジラ』の斬新さである。
     いままで、アウトサイダーの立場から日本の現状を批判し、告発する物語はたくさんあった。その一方で、インサイダーの立場から日本を称賛し、熱烈に支持する物語も大量にあった。
     前者を左翼的といい、後者を右翼的ということも許されるかもしれないが、いずれにしろ、『シン・ゴジラ』はそのどちらの類型にも収まり切らない。
     この映画は日本の現状とその社会構造の根本的欠陥をフェアでフラットな視点で描写した上で、未来に希望を託している。
     「希望」。それこそ、『シン・ゴジラ』が描き出すことに成功したものだ。このレベルで現代日本に希望を見いだした作品というと、ちょっと思いつかない。
     もちろん、過去にも希望を見つけ出そうとした作品は多くあった。たとえば『踊る大走査線』は警察を舞台にした日本型組織の欠陥を告発する物語だったが、このシリーズの最終作は「新たなる希望」と題されている。

     しかし、どうだろう、『踊る大走査線』はほんとうに未来に希望を感じさせる作品だっただろうか。ぼくにはむしろ、シリーズを重ねるごとに「いくら個人が偉くなっても組織は変えられない」という絶望感だけがつのっていったように思える。
     たしかに「いつの日かは警察組織も変わる日が来るかもしれない」という意味での「希望」は示されているだろうが、じっさいに「その日」が描かれることはない。
     結局のところ、『踊る大走査線』はテーマを完遂することができなかったように思う。なぜだろうか。それは結局、「現場」を偏重しすぎたためだろう。
     『踊る大走査線』の映画のなかで、主人公である青島刑事は「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」と叫ぶ。
     そこにあるものは「現場」と「会議室」を対置し、あくまでも現場を重視する思想だ。しかし、現場とはつまり、巨大な人的システムの末端を意味するわけであり、巨大な問題に対してはトップが決断と命令を下して初めて機能する場合がありえる。
     一定以上のマクロ的な判断は現場ではなくトップが下すしかないのだ。もちろん、そのトップが『踊る大走査線』で繰り返し描かれていたように無能で無策なら、組織は腐敗する。
     しかし、現実にはトップもまたさまざまな意図や思惑をもって行動しているわけなのであり、「無能」のひと言で切り捨てることはできない。
     その意味では「事件は会議室でも起きている」。より正確にいうなら「事件は会議室と現場で同時に起きている」のである。
     『踊る大走査線』は現場を偏重するあまり、この「会議室で起きている事件」を魅力的に描き出すことができなかった。それを成し遂げたのが『シン・ゴジラ』である。『シン・ゴジラ』においてはまさに事件は会議室と現場で並行して起こっている。
     『踊る大走査線』のほかにも「日本告発型」の物語は少なくない。具体的には押井守監督の『劇場版機動警察パトレイバー2』がすぐに思い浮かぶ。これもまた、トップの無能と迷走を「現場」が独走して解決するというシナリオだった。

     この映画の主役である後藤や特車二課の面々は、それぞれが責任をもって行動している人間であり、ここでいうところのアウトサイダーでは決してないが、しかしこの作品では無策を晒すトップの実像は描かれない。
     それはあたかも「顔のないシステム」のようなものとして描写され、後藤たちはひたすらにそのシステムに怒りといら立ちを募らせる筋立てになっている。
     とにかくこの政治への不信、もっというなら政治への絶望が、これ一作のみならず『機動警察パトレイバー』シリーズの最大のテーマであるように思う。
     現場はみな頑張っている。しかし、上はダメだ。そういう決めつけがあるといってはいいすぎだろうか。
     『パトレイバー』よりさらにアウトサイダー的な視点から日本を告発した作品もある。たとえば、一色登喜彦『日本沈没』である。

     この作品は『シン・ゴジラ』と比べるとはるかにアウトサイダー的な視点から日本型組織の構造的欠陥を告発している。特に『日本沈没』ではどこまでも批判的に、もっというなら侮蔑的に日本のシステムを否定している。
     この作品によれば、日本は世界でもまれに見る幼稚な国であり、世界の「大人の国」に仲間入りするためには大きな犠牲を払わなければならないということのようだ。
     『日本沈没』の作中にははっきり「絶望の国」という表現が出てくる。これは『シン・ゴジラ』が「希望」を描こうとしたことと、はっきり対照的である。
     『日本沈没』では日本列島のすべて沈没し切るというフィクションが、じっさいにそうしてしまうわけにはいかないというリアルと対置して描写されていた。
     この漫画の最終章では、登場人物のひとりが主人公に対してこんなふうに語る場面がある(ちなみに夢オチである)。

    「現実のこの国は、沈まない故に… 絶望的にどうしようもない数多くの事を、チャラにすらできない… まさに… 役の台詞で君が言っていたように こんな国、こんな現実、本当は一度滅んで亡くなった方が、はるかに希望的な再スタートが切れるんじゃないか?」

     この漫画では、くり返しくり返し「絶望」という言葉が登場し、日本がいま置かれている状況がいかに絶望的か告発しつづけている。
     その結果、日本はすべて沈没してしまうわけだが、最後の最後になって「沈んだ方がましだったかもしれない」と提示されるわけだ。作者の一色がいかに現代日本という国を嫌い、呪っているのかわかるような描写である。
     それにしても、ここには誘惑がある。「絶望的にどうしようもない数多くの事」を「チャラ」にしてしまうことで絶望的状況に希望を見いだせるなら、そうしたほうがいいのではないかという誘惑。
     『シン・ゴジラ』の脚本にしても、アメリカに原爆を落とさせてしまうという選択肢もありえたのではないだろうか。「それでもゴジラは死ななかった」とした上で、凝固剤注入に踏み込んだほうがシナリオ的には盛り上がったかもしれない。
     原爆によって東京、ひいては日本が「チャラ」になってしまったという結末のほうがスカっとする人も大勢いるだろう。いかにも庵野秀明らしい残酷さだし。しかし、『シン・ゴジラ』は最終的に原爆によって問題を「チャラ」にしてしまう道を選ばなかった。
     ゴジラは最終的に日本の科学技術によって凍結され、ものいわぬ死のオブジェのように東京の真ん中に立ち尽くしつづける。いつの日か核のカウントダウンは再開されるかもしれない。
     そんな、あるいはエンターテインメントとしては中途半端にも思えるかもしれない結末をあえて選択したのだ。これはあきらかにいつふたたび惨禍をもたらすかもしれない原発と共存する現代日本を連想させるリアルな結末である。
     はっきりとしたカタルシスには欠けるかもしれない。だが、ついに現実世界に対し絶望しか見せることができなかった『日本沈没』に対し、『シン・ゴジラ』は本物の希望を見せてくれる。
     それは未来が素晴らしいものになるに違いないというばら色の保証ではない。日本の前途は依然としてきびしい。しかし、それでもなお、まさに絶望的な事態を収拾しようとした努力した人々がおり、現実に収拾に成功した。その事実が希望なのである。
     人間の愚かさが生み出した問題は人間によって解決できるということ。それが『シン・ゴジラ』が示す希望だ。その希望は、この巨大な群像劇の登場人物ひとりひとりが表している。
     『シン・ゴジラ』の登場人物は、だれもが自分の責任を引き受けて、逃げない。その判断が正しかったのかどうか、だれにもわからない。否、おそらく間違えた判断も多々あったことだろう。
     初めから自衛隊を投入して攻撃していれば惨禍は未然に防げたかもしれない。しかし、この物語にはそういったことを無責任な立場から告発するアウトサイダーは登場しない。
     登場するのは、完璧ではなくてもなんとか事態を解決しようと試みつづけるインサイダーたちばかりである。
     そしてまた、ここには特権的ヒーローとしての碇シンジはいない。したがって、ひとりヒーローだけが巨大すぎる責任に押しつぶされることもない。
     『シン・ゴジラ』にヒーローの居場所はないのだ。そこにいるのはただ純然たるプロフェッショナルだけである。彼らはほとんど不可能とも思える作業をあくまで「仕事」として淡々と遂行していく。
     作中で語られているとおり、感動的な場面ではある。ただ、だからといって、そこに「国に殉ずる」といったヒロイズムはない。
     そもそも彼らを動かしているのは国家というシステムに対する忠誠心という意味での愛国心ではないように見える。彼らはただゴジラから地域や共同体を守ろうとしているだけなのだ。
     いまから20年ほど前、庵野秀明が監督した『新世紀エヴァンゲリオン』は「ゼーレ」と呼ばれるなぞの組織が世界を支配しているというある種、陰謀論的な物語だった。
     その物語は「社会」を飛ばして「個人」と「世界」を直結させた作品を意味するセカイ系という言葉を生んだ。しかし、いま、ぼくたちの目の前にある映画はセカイ系とはあまりに遠い、むしろ、その対極にある物語である。
     この映画でテーマとなっているものは、だれがどう見ても政治であり、軍事である。『シン・ゴジラ』のひとつのエポックは、日本人特有の政治に対する不信と、軍事に対する拒否感を乗り越えた点にある。
     ここでは政治家にはちゃんと「顔」がある。彼らは特別に有能ではないかもしれないが、ちゃんと自分なりの責任をもって行動しているのだということが端的に示されている。
     そして、ほかの権力中枢の人物たちにも「顔」はある。だから、この映画には「顔のないシステム」としての政治を批判し告発するという側面はない。
     それが良くないのだ、という人はいるだろう。政治とは悪なのであって、常に批判され告発されつづけなければならない存在なのだ。間違えても格好よく描かれたりしてはいけないのだ。それは幻想に過ぎないのだから、と。
     だが、そのように政治を単純化して考えることは不毛としかいいようがない。『シン・ゴジラ』で描かれている政治とは、きわめて複雑な人間の権力関係から成り立つ力学の問題である。
     それがどこまで現実に沿っているかはともかく、シンプルに「悪い奴」、「無能な奴」で済ませてしまえるほど、現実の政治も簡単ではないはずだとはいえるだろう。
     また、『シン・ゴジラ』ではだれもが責任当事者として自分の仕事を果たしていく。だから、映画を見ている我々も、自然、「自分がこの場にいたら、当事者として何ができるだろう?」と考えずにはいられない。
     かつての『新世紀エヴァンゲリオン』は「あなたならエヴァに乗りますか?」と問いかける作品だったが、『シン・ゴジラ』は「あなたならこの状況で何をしますか?」と問うてくる物語なのである。
     ともかく、『シン・ゴジラ』はきわめて地味とも思える結末を選んだ。その地味さをエンターテインメントとして消化してのけた手際はさすが庵野秀明としかいいようがないが(無人在来線爆弾!)、東京に原爆を落とさなかった以上、問題はまったく「チャラ」にはなっていないわけである。
     したがって、この道を選んだ以上、「絶望的にどうしようもない数多くの事」を解決するための方法は、そのひとつひとつを丁寧に議論の訴状に挙げ、膨大な時間をかけて地道な努力によって成し遂げていくことしかない。
     面倒な方法だ。うんざりするような迂遠さだ。しかし、その面倒と迂遠を避けるなら、そこに「希望」は生まれない。『日本沈没』がそうだったように、あとには「絶望」しか残らないだろう。
     庵野秀明総監督本人もまた、一貫してインサイダーとして仕事をしてきた人物である。
     20年前、『エヴァ』のあたりではそんな庵野秀明に対する評価は賛否両論といったところだったと思う。その頃は、アウトサイダー的な姿勢がいまより格好よく見えていた気がする。
     なんといっても、アウトサイダーは無謬なのに対し、インサイダーは不完全で傷だらけなのだから、当然といえば当然だ。
     しかし、どうだろう、いま、時代は変わったといっていいのではないだろうか。もちろん、いまなお、相変わらずアウトサイダーの立場から庵野や『シン・ゴジラ』を批判する層は存在する。また、すべては「ブラック・ジョーク」に過ぎないといってのける人もいる。
    http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyayukiko/20160814-00061097/
     しかし、そうはいっても、いま、インサイダーとして『シン・ゴジラ』を生みだしてのけた庵野や樋口やスタッフに対するまっとうなリスペクトは、『エヴァ』のときと比べ、各段に増しているように思う。
     そして、アウトサイダーの立場から『シン・ゴジラ』を冷笑する人はもうあまり格好よくは見えない。これは個人的な感想に過ぎないが、ネットを見わたしているとそういうふうに思える。
     完璧で無謬ではあるものの、責任を背負おうとしないアウトサイダーの「ダサさ」がいまになってようやくはっきりと見えてきたのではないだろうか(もちろん、見えている人にはずっと見えていたわけだが)。
     アウトサイダーは、アウトサイダーである限り、一生、いや何度生まれ変わっても永遠にイチローになることはありえない。もちろん庵野秀明になることもない。なんらかの業績を残すこともなければ、作品を作り出すこともありえない。
     それは実践者と批評家の差「ではない」。批評家もまたまっとうな人物なら責任とリスクを引き受けて発言するものだからだ。アウトサイダーとは批評家ではないのだ。彼らはつまり無責任にヤジを飛ばす群衆であるに過ぎない。
     イチローは百万もの称賛を受けてきた天才バッターだ。しかし、それと同じくらい、あるいはそれ以上の非難を受けてもいる。イチローですらそうなのだ。
     そして、大半のインサイダーはイチローほどの圧倒的成功を達成できない。また、イチローにしても、初めから成功を約束されていたわけではない。彼はただ自分の人生をコインにして賭けに出て、その上で勝利しただけである。敗北する可能性もあったし、現実に局所的には敗北している。庵野秀明でも同じだろう。
     それに比べ、アウトサイダーは自由で万能で無敵で完璧だ。しかし、それでもぼくは不自由で傷だらけのインサイダーであることを選びたい。それはぼくがイチローや庵野秀明のような生き方をリスペクトするからだ。
     インサイダーは決して無傷ではない。成功の保証も何もない。その上、どこまでいってもアウトサイダーからの揶揄や面罵や嘲弄は飛んでくる。
     そしてまた、ほとんどのインサイダーは3000本安打を達成することもなければ、『シン・ゴジラ』を監督することもない。生涯無名のまま、特にだれからも褒められることもなく職責を終える。
     その意味でインサイダーとはあまりにも損な生き方である。責任を放棄してアウトサイダーであることを選んだほうがよほど気楽だし、安全でもある。しかし、それでも――そう、「それでも」なのだ。
     『シン・ゴジラ』のなかで首相が、閣僚が、矢口が、泉が、巨災対の面々が、自衛隊の人々がその責任から逃げなかったように、ぼくもそのようにして行きたいと思う。
     彼らは『エヴァンゲリオン』ふうにいうなら、「エヴァに乗ること」を選んだ者たちである。しかも、彼らは自分の仕事として、あたりまえに「エヴァに乗ること」を選択している。
     碇シンジのように逃げちゃダメだ、と呟くことすらない。彼らには長い人生のなかで見つけ出してきた守るべきものがあるのだろう。だから、逃げることはありえないのだ。
     それはまさに日本が見失ってきた大人の姿である。課せられた責任から逃れてアウトサイドに立つことはたやすいし、楽だし、安全でもある。
     しかし、「それでも」大人たちはインサイダーであることを選ぶ。彼らが完全な人間だからではない。彼らは彼らなりに、欠点もあるし間違うこともある。また、組織と政治とに縛られていて、必ずしも迅速に行動することはできない。
     その意味で彼らはヒーローになることができない。ただ、有能なプロフェッショナルに徹することはできる。それはどこまでいっても組織と歯車になることでしかありえないのかもしれない。だが、「それでも」職責を全うするべく懸命に活動する人々の姿は見る者の胸を打つ。
     ヒーローのいない物語。この独創的なイマジネーションは、あきらかに碇シンジをヒーローの座から追放した『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の延長線上にある。
     だからこそ、『シン・エヴァンゲリオン』もこの路線を踏襲した作品になる可能性が高い。個人的には『シン・エヴァ』は碇シンジがほんとうの意味で大人へと成長する物語になることを期待したい。
     何しろ庵野秀明のことだからひと筋縄ではいかないことは間違いないが、いつか『シン・エヴァ』を見れる日が来ることを祈りたいものだ。
     『シン・ゴジラ』も、ほかのあらゆる名作と同様に、完璧ではないだろう。ただそれらの欠点を批判するだけで済ませ、あるいはすべては皮肉なのだ、ブラックジョークに過ぎないのだ、とシニカルに冷笑してみせるのなら、たしかに「どうにもならない現実をよくわかっている冷静な自分」をアピールすることができるかもしれない。
     しかし、そんなアウトサイダー的態度では永遠に現実は動かない。たしかに現実はあまりにシビアであり、人の手ではいかにも動かしがたいように見える。だが、現実が可変的なものであり、人の力でどうにかしていけるものであると認識することなくして、どうして未来に希望を抱けるだろうか。
     『シン・ゴジラ』は希望の物語だ。それは決してヒロイックな活躍を礼賛してはいない。プロフェッショナルな行動を恬淡と描写しているだけである。
     そして『エヴァ』を見てそこに「「お前ら全員バーカ」みたいなノリ」を見て取ってしまう人には伝わらないだろうが、庵野秀明の作品はそのすべてが一貫して真剣であり、希望を模索していた。
     たしかにその模索の末に絶望的な現実と直面してしまうこともあったが、それはその模索が真摯なものであったことを示している。ぼくはその模索を支持する。そしてついに『シン・ゴジラ』においてここまでの希望を見いだせたことに感嘆する。
     それは庵野秀明その人がインサイダーでありつづけたからこそ可能になったことだ。なるほど、三振することは格好悪い。イチローになってから打席に入ったほうが、つまりイチローになるまではアウトサイダーでいたほうが、はるかに格好いいには違いない。
     しかし、庵野秀明の、格好悪いところまでもすべてさらけ出して格闘する泥くさい姿を見ていると、そういうやり方が卑怯なものに思えてきてしまう。
     だから、まずはバッターボックスに立とう。三振するにせよ、見事ヒットを打つにせよ、話はそれからだ。
     責任を背負って行動する者だけが現実を変えることができる。それは、まさにあなた自身のことなのかもしれないのだ。 
  • 人生における「勝利条件」とは何か?

    2014-04-06 10:29  
    51pt



     積んでいる本が崩し切れませぬ。というのも読む端から買ってくるからで、いまとなっては漫画ですら読み切れずにいる始末。てれびんに薦められて買った『機工魔術師』全19巻とか、未だに封もひらいていません。赦せ、てれびん。  で、いま読んでいるのは押井守の『仕事に必要なことはすべて映画で学べる』。ずいぶん前に買ったものの、読みさしで放置していた本ですね。
     ところがこれが面白い。タイトルが端的に示しているように、映画監督の著者が色々な映画を枕に仕事を語った一冊で、さまざまな局面での「勝利条件」の話が延々と続きます。
     勝利条件。それはつまり「自分がその勝負に勝利したと考えられる条件」のこと。押井守は人生において(仕事においても)大切なのは各局面での勝利条件を明確にすることだ、と主張しているように思えます。
     まだ読み終わっていないので本としての評価は何とも云えませんが、いまのぼくにとっては実に示唆に富む本です。というのも、ぼくもまた「人生における成功とは何か?」と考えているところだからです。
     お金か? 地位か? 名声か? 美女か? 家族か? そのすべてか?
     世の中にはじっさい、ありとあらゆる意味で成功しているのにちっともハッピーには見えないひとがいます。たとえば、マイケル・ジャクソン。
     かれの資産が何百億円あったのかわかりませんし、ファンは何千万人もいたでしょうが、だからといってかれが幸せで仕方なかったとは思えません。
     押井守はジョージ・ルーカスとハリウッドの「ある秘密の部屋」でに出逢ったとき、かれもまた少しも幸せそうには見えなかったと云っています。
     つまり、一般的な意味での成功は、必ずしも人生そのものの成功に結びつかない。それならば、ほんとうに幸せになるためにはどのようにすれば良いのか? そういう話であるわけです。
     押井守には、何と云っても、30年間に渡って映画を撮りつづけてきた実績があります。だから、その言葉にはそれなりの重みがある。かれは万人に通用するその答えはない、と云い切っていますが、しかしそれでもなお、かれの考え方は参考になるのです。
     本書のなかではいろいろな映画が取り上げられていますが、それらの作品のなかには昔観ただけであいまいな記憶で語っているものもあるので、厳密な映画批評とは云えません。
     しかし、クラシックな傑作から最近の映画に至るまで、さすがにその洞察は深いものがあります。成功とは何か? 幸福とはどういう状態か? そのことについて考えるためには非常に役に立つオススメの一冊です。
     ただ何となく給料を上げてそのうち結婚して、というオリジナリティに欠けた人生ではイヤだ、というひとにとっては必読の名著と云えるかもしれません。
     それでは、 
  • 押井守と神山健治で考察する映画におけるファンサービス。(1276文字)

    2012-11-14 12:00  
    53pt
    神山健治監督は、押井守監督の一番弟子です。かれは初め「押井守のコピー」を目ざしたといいますが、映画『009』の制作にいたって、ついにそのことをあきらめたようです。それでは、押井守と神山健治の落差とは何なのか。ぼくには、それはたとえばファンサービスという形で表れているように思えます。神山作品と押井作品を比較して、その点について考えてみました。