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記事 5件
  • 電子書籍『花の勲章』刊行。

    2016-10-01 06:01  
    51pt

     同人誌第一弾『BREAK/THROUGH』を『花の勲章 Breakthrough』と改題して電子書籍化しました。中身は、小説部分を削った以外ほぼそのままです。約10万文字あります。
     いま読むと、作品に関する情報は古びていますが、それでもなかなか面白いですねー。意外に悪くないな、と思います。ところどころ、『戦場感覚』に至るアイディアの萌芽が見られたりしますし。
     最後の第十章「花の勲章」のテンションの高さはいま見てもすごいものがあります。ぼくが書いたすべての文章の中で最もテンションが高い文章でしょう。
     よければ『戦場感覚』と合わせてお読みください。

     目次
    第一章「少年の夢。『プラネテス』が見る風景」
    第二章「世界が空気に溶けるまで――『ほしのこえ』から『けいおん!』へ」
    第三章「阿良々木暦の可能性殺し――『猫物語(白)』とハーレムブレイカー」
    第四章「『日本沈没』か『東のエデン』
  • どうすればレアキャラ女子と出逢えるのか?

    2016-09-21 05:38  
    51pt
     コメント欄でこんな質問をいただきました。

    海燕さんの本連載、傑作だとおもいます。
    ぼくは、FF8のスコールとキスティス、リノアの関係で理解しました。
    スコールはすべてをATフィールドで遮断します。ナルシシズムの塊です。
    一方、リノアはエロティシズム。
    リノアは「気持ち悪い」「うざい」のがオタクからの評判ですが、
    リノアと対話をするとナルシシズムの中に閉じこもっていられないからで、さもありなん、なのですね。自分の認知のゆがみを見る羽目になる。
    エロティシズムでスコールに接し、ついにはスコールを「コミュニケーション」と「共感」の世界にいざなっていきます。
    一方、キスティス先生は、スコールのことが好きだけれど、
    教員としてどうしたとか、若くてキャリアがどうとか、
    色々な「比較級」の自意識にさいなまれて、
    ATフィールドをまとったまま近づいてきますね。
    「壁にでも話してろよ」と言ってもやっても
  • ナルシシストの天才たちと日本一「スケベ」な男。

    2016-09-19 06:06  
    51pt

     まだしつこく恋愛工学のことを考えています。というか、恋愛工学に始まった思考をさらに進めている。
     先日は恋愛工学とはナルシシズムの理論なのだ、というところまで書きました。ここでいうナルシシズムとは自分以外の「他者」を持たない自己完結した心理のことです。
     それに対し、他人のなかに自分にコントロール不可能な「他者」を想定し、その「他者」と出逢うことで得られる快楽を求めることを、ここではエロティシズムと名付けましょう。
     人間は「他者」との交流によって快楽を感じ取ることができる生き物です。会話が楽しいのはそこに「他者」がいるからです。セックスが気持ちいいのはそこに「他者」との摩擦があるからです。
     「他者」とは自分とは異なる「内面」をもった永遠に理解不能でコントロール不能な存在であり、「決して支配されないもの」でもあります。支配できてしまったらそれは「他者」ではありません。
     「他者」と出
  • 『風立ちぬ』再考。堀越二郎はほんとうに冷血の天才なのか。

    2016-06-09 21:21  
    51pt

     瀬名秀明の『瀬名秀明ロボット学論集』と並行して、杉田俊作『宮崎駿論』を読んでいる。何度目かの再読である。
     宮崎駿の漫画や映画を題材にした批評書は何冊も出ているが、この本は際立って面白い。
     宮崎駿の過去の全作品を素材に、表現論、自然論、さらには宮崎駿その人の人物論に至るまで、縦横に語りつくしている。
     興味深いのが、宮崎監督の(いまのところの)最新/最終作である『風立ちぬ』への評価だ。この本にはこう記されている。

     ひたすら戦闘機を作っては失敗し、作っては墜ち、炎上した。そして夢の飛行機の制作にようやく成功しても、何の達成感も喜びもなかった。目の前には、あたり一面、夢の残骸と廃墟が広がっている。人生を賭した夢は、ついに誰をも生かさなかった。国民も、家族も、愛する人も、そして自分すらも。
     『風立ちぬ』は、そんな映画に思えた。
     
     (中略)
     堀越二郎の、あの、無表情な顔。あれ
  • 愛が理想をくじくとき。『まどマギ』と『風立ちぬ』の相違点について。

    2015-03-19 02:04  
    51pt


     一般に、男性作家は男性に都合のいい話を描き、女性作家は女性に都合のいい話を描くものです。あたりまえといえば、あたりまえのこと。
     もちろん、より公正な視点から物語を綴る作家もいるでしょうが、高尚な文学作品はしらず、通常のエンターテインメントではどうにもそういうふうになりがちなのではないでしょうか。
     たとえば宮﨑駿が監督した映画『風立ちぬ』などは、とても男性に都合のいい話だったと思います。 人物も世界も、すべてが男性主人公の「少年の夢」の輝きを照らしだすために存在しているような印象があった。
     ぼくはそのご都合主義的な開き直りが嫌いではありませんが、ふと、女性の目にはどう見えるのだろうと感じることもあります。
     非常にスタンダードな「男のロマン」の物語であるように見えるだけに、あるいは女性から見たらなんと身勝手な、と思えるのではないでしょうか。
     とはいえ、ぼくは男なのでやはり「男のロマン」の物語を好ましく感じます。 ある天才的な主人公が、大人になってなお、少年時代の夢を純粋に追い求めつづける――そういう「少年の夢」の物語がとても好きです。
     それは、まさに『風立ちぬ』がそうであったように、現実世界の理屈と衝突してときに血まみれの夢と化すことでしょう。 しかし、そうであればあるほどその純粋さは際立つわけです。
     『風立ちぬ』のほかには、漫画『プラネテス』のウェルナー・ロックスミスあたりがそういうキャラクターにあたるでしょうか。
     人道をも倫理をも汚辱してなお、自らの夢をどこまでも追いかけつづけるという奇怪な類型。 ぼくはそこにとても美しい、あえていうなら人間的なものを見るのです。
     『ジョジョの奇妙な冒険 スティール・ボール・ラン』のリンゴォ・ロードアゲインもそういう「男の美学」を体現したキャラクターでした。
     そういう態度そのものが、一面から見れば呪われたものであると理解してなお、ぼくはやはり「少年の夢」に強く惹かれます。 ある意味では男性のエゴイズムでしかないのかもしれませんが。
     それとは違うものの、「すがりつく女性を振りほどいて、ひとり死地へ向かう」というのも「男のロマン」のひとつのパターンですね。 『あしたのジョー』がこれに近いし、司馬遼太郎の『燃えよ剣』などもこのパターンに入るのではないでしょうか。
     最近の作品では、『ファイブスター物語』のダグラス・カイエンとミース・シルバーの物語がまさにこれそのままでしたね。
     男という生き物は、どうも死にロマンを見いだす「死にたがり」の傾向があるようで、美しく死にたいという欲望はかなり普遍的なものであるようにも思えます。
     ダグラス・カイエンはすがりつくミース・シルバーを気絶させ、騎士としての大義のため、ひとり邪悪な魔導師ボスヤスフォートとの決戦へと向かいます。 男の目から見ると非常に格好良く見えるのですが、あるいは女性から見ると違う風に見えるかもしれません。
     永野護は男性作家のわりには妙に女性心理に理解が深い作家だと思いますが、ここではあくまで「男のロマン」を優先させた描写をしています。
     おそらく女性読者には不評だったかもしれないと思うわけなのですが、まあ、『ファイブスター物語』全体がそうやって男性の夢をロマンティックに描いている傾向はありますね。だからこそ好きなのかもしれません。
     しかし、あたりまえのことですが女性には女性の想いがあって、それはそれでものすごい重みを持っているわけです。 ところが、いままでの「男のロマン」の物語では、女性の役割は脇役というか、あえていうなら添え物に留まってしまうことが常でした。
     ぼくはそこに微妙に不満があって、「ひとり死を決意した男を翻意させる方法はないのだろうか?」ということをずっと考えていました。
     個人的にこの文脈で革命的だったのが『神様のりんご』(『どんちゃんがきゅ~』)というゲーム。 ここでは、まさに「少年の夢」の完遂のため、すべてを捨て去ることを決意した男に対し、少女が死に物狂いで抵抗します。
     そこには「少年の夢」に匹敵する「少女の想い」が、「男のロマン」に対抗しうる「女のパトス」が描かれていたように感じられて、ぼくはとても好きな作品なのですが、まあ、どマイナーなのであまり詳しく語ることはやめておきましょう。
     で、もうひとつ、この文脈で革新的に感じられたのが、『魔法少女まどか☆マギカ』です。