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記事 15件
  • 今季アニメもひと通り出そろったわけですが。

    2018-01-29 01:31  
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     ども、海燕です。ここ数日、インフルエンザでボロボロになっていました。
     いまもほとんど食欲がありませんが、どうにかインスタントラーメンを一杯食べて元気が出て来たので更新します。うん。どうにか椅子の前に坐っていられるようになりました。
     さて、インフルエンザの間中は意識がぼうっとしているので本を読んだりすることもできなかったのですが、ようやく治ってきたのでアニメを見ています。
     『けものフレンズ』をひと通り見直して(やっぱり傑作ですね)、いまは『エロマンガ先生』。
     いやー、面白い。原作も面白いけれど、アニメもよくできています。
     スタッフには何だかなつかしい名前が並んでいてりして驚かされたりもするのですが、それはともかく、一本のアニメとして鉄壁の完成度です。
     そもそも原作にしてからが非常に完成度の高い作品なのですが、それをアニメはほぼ忠実に再現している。
     うまいなー。ほんとによくでき
  • 「次」は、こっちだ! ポスト脱ルサンチマンラブコメライトノベルの時代が来る。

    2017-12-01 02:40  
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     そういうわけで、「ライトノベルは次なる時代へ。「オタク」対「リア充」の向こう側へ。」の続きです。
     「リア充」と「オタク」という対立構造をなくしたラブコメに残る問題点とは何か?ということなのですが、その前にちょっと整理しましょう。
     ぼくはここ数年のラブコメライトノベルを「リア充へのルサンチマン」という視点から見ています。もちろん、それでは整理し切れない作品はあるでしょうが、まあ、べつに万能の理論を作ろうとしているわけでもないからそれはそれでいい。
     この「リア充へのルサンチマン」が「リア充」と「オタク」ないし「ぼっち」という対立軸を生み出し、その対立軸を基準にして物語を展開していったのが『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『僕は友達が少ない』といった作品でした。
     漫画やアニメでも同種の作品が色々ありますね。で、そのリア充を敵視するプロセスのなかで、しだいに「自分たち自身が最高のリア
  • ライトノベルは次なる時代へ。「オタク」対「リア充」の向こう側へ。

    2017-11-30 07:00  
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     うん、きょう(11月29日)のラジオは短いながらも面白かった。例によって「リア充」がひとつのテーマとなっているのですが、今回はいままでと扱い方が違うような気がします。
     いままでは多少なりと「リア充ばくはつしろー」な気分があったけれど、今回はもう、何というか「リア充の皆さんご自愛ください」くらいの優しい心境(笑)。
     こう書くといかにも上から目線のようだけれどそうじゃなくて、自分が幸せいっぱいだから他人を下に見る必要性はないのです。何かを下に見てそれに比べて自分は上だ、と悦に入るのはしょせんエセリア充に過ぎません。
     ほんとうのリア充は決して驕らないし、高ぶらない。ぼくもだいぶそこに近く――なっていないかな? まあでも、少しは近づいたと思います。ええ、まあ、ただの虫けらですけれど。
     先日開いた富士山麓の合宿は、ぼく(たち)の長いイベント開催の歴史のなかでも特筆すべきものだったと思います
  • 電子書籍、次々と刊行~。

    2016-09-29 22:13  
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     電子書籍がさらに3冊出ました。
     『『進撃の巨人』はなぜ残酷な現実を描くのか?』は「新世界系」の記事のまとめで250円、『伏見つかさを読む 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のメタラブコメ構造』は伏見つかさ作品の書評のまとめで99円、『傑作漫画書評集 ファンタジーは女性をどう描いてきたか』は「Something Orange」時代の漫画書評のまとめで99円です。よければお買い求めになるか、Kindle Unlimitedで読むかしてみてください。

     これでKindle Storeの電子書籍も10冊になりました。それぞれ、ぼちぼち売れています。あとはロングテールでちょこちょこ売れてくれることを期待したいところですが、さて。
     まあ、電子書籍は儲からない、金にならないとはよくいわれるところですが、ぼくはやりようはあるのではないかと思っています。べつにベストセラーを出す必要はないのです
  • 「友達探し系」ライトノベルをリアルに実践してみたら?

    2016-06-02 17:36  
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     こんな記事を読みました。

     もちろん現実社会のつながりが1番大切だけれど、SNS上のお友達も当たり前になってきた世の中。
     スマホやゲームに夢中になりすぎるのは問題だけれど、ゲームみたいに自分の周りにたくさんワールドがあることを知るのは、子供の生きやすさにつながる気がしている。
     私自身友達がいなかった中学時代にスマホやゲームやTwitterがあったらどれだけ救われただろうと思うから。
    http://yutoma233.hatenablog.com/entry/2016/06/01/073000

     うーむ、どうなんでしょうね。
     たしかに「スマホやゲームやTwitter」は友達がいない孤独を癒やしてくれるかもしれないけれど、「LINE疲れ」とか「バカッター」みたいな話を聞くと、SNSがないほうがよほど楽だったのではないかと思わないこともありません。
     まあ、そういいながらもぼくはもうLINEなしでは生きられない身体になってしまったので、自分より若い層にSNSをやるなとはとてもいえないのですが。
     でも、リアルとネットで同じ人間関係を維持しないといけないのって疲れるよね。
     SNSも過去のメディアと同じく、プラスの面とマイナスの面を備えているようです。と、ここまでは話の枕。
     ぼくはいまとなってはそれなりに友達もできて、その意味ではわりに充実した生活を送っているわけですけれど、そうかといって友達がいない生活が良くないと思っているかというと、そうでもないのです。
     もしぼくに友達がいなかったら、それはそれで、ひとりで本を読んでブログを更新していたでしょう。それもまた悪くない人生だったかもしれないとも思う。
     ぼくはインターネットに出逢うまで20年くらい理解者ゼロのままひたすら本を読む生活をしていたわけで、本質的にはそんなに孤独はいやだと思っていないのです。
     何より、読書とはそもそも孤独な行為です。
     電子書籍や感想サイトの充実でいくらかソーシャル化が進んではいるにしても、基本的にはひとりで本を向かい合わないといけないことに変わりはない。
     その孤独に耐えられる者だけが読書の豊穣を知ることになる。
     それはあるいはFacebookで友達が何百人いるとかいうことを誇っている「リア充」には理解できない楽しさであるのかもしれません。
     でも、いまなお、ぼくは読書以上の歓びを知らないのです。
     本を読み始めてから30年以上経って何千冊読んだか知れないけれど、一向に飽きない。たぶん1000年くらいは余裕で読みつづけられるだろうと思う。孤独には孤独なりの歓びがあるのです。
     ペトロニウスさんがよく「お前のいうことはわからないとずっといわれつづけてきた」と話しているけれど、べつにペトロニウスさんに限らず、一定以上個性的な人間は周囲に理解者など見つけられないのが普通なのですね。
     本なんて読めば読むほど周囲の人にわかってもらえなくなるものですから。
     SNSの発達によってひとは孤独から逃れやすくなったかもしれませんが、そのぶん、「ひとり孤独に自分の内圧を高める」訓練をしづらくなったのかもしれないとも感じます。
     しかし、まあ、そうはいっても自分が考えたことをだれかと「共有」できることはやっぱり嬉しいものです。
     ここ何年かのライトノベルで流行った、ぼくが「友達さがし系」と呼んでいるパターンの物語は、大抵が趣味を共有できる仲間を探してグループを作るという形を採ります。
     それは「SOS団」であったり、「隣人部」であったり、あるいは『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のオタク仲間集団であったりするわけですが、ああいうものを作りたくなる気持ちはぼくはリアルにわかります。
     というか、 
  • 『エロマンガ先生』アニメ化おめでとう。でも……。

    2016-03-12 15:44  
    51pt

     伏見つかささんの人気ライトノベル『エロマンガ先生』がアニメ化決定したようです。
     ぼくは第1巻が発売された頃から「この作品はアニメ化する」といってきたので、予想があたったことになります。
     べつに自分の先見の明を誇るつもりはありませんが(普通に読めばだれだって予想できるでしょう)、「ああ、やっぱり」とは思いますね。
     伏見さんにとっては『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』に続くアニメ化になるわけで、二作続けてきちんとあてて来るあたり、さすがだなあ、とも感じます。すごいすごい。
     ただ、この作品に関しては微妙に絶賛しきれないものを感じるのもたしかではある。
     文章やキャラクター造形力やバランス感覚はものすごいレベルに達しているのだけれど、そのぶん、新しいチャレンジがないと感じてしまうのですね。
     もちろん、堅実に作品を作りこんでいくのはひとつの手ではあるのだけれど、どこか保守的になってしまっているのではないか、という懸念を覚えます。
     いったんディフェンスに入ってしまったら、いくら才能と実力を兼ね備える作家といえども新しい読者を獲得していくことはむずかしいでしょう。
     まあ、ぼくがそう思うだけではあるのですが、はっきりいってしまうなら、『エロマンガ先生』は『俺妹』から、批判を受けそうな要素をすべて取り除いた作品であるように感じられるのです。
     『俺妹』における「毒」の部分は薄くなり、実の兄妹のラブストーリーという物議をかもすテーマも義理の兄妹という設定になった。
     おかげで、この作品に特に批判するべきところはないように思われます。でも、なんだろう、この隔靴掻痒な感じは?
     たしかにずば抜けて完成度の高い、素晴らしい作品ではある。
     しかし、あまりにもチャレンジとサスペンスがないように思えてならない。
     ぼくの言葉を使うなら「置きに行っている」ということになりますが、勝率の高い安全圏で勝負しているという印象が強いのです。
     まあ、それの何が悪いのだといわれたらそうなのだけれど、もう少し挑戦してくれてもいいのになあと思ってしまう。
     『俺妹』の最終巻が賛否両論の内容だっただけに、今回は批判を受けないように調整して来たのかもしれませんが、ぼくにはそういう態度はあまり好ましくないように思われます。
     いや、ほんとうにものすごくよくできたお話ではあるのですよ。
     第6巻にしてアニメ化が決まるくらいの人気もうなずける、最高に洗練されたライトノベルだといっていいでしょう。
     「エロマンガ先生」なんていうタイトル自体、前作に続いてうまいところ突いて来るなあと思うし、各キャラクターの活き活きとした描写は素晴らしいのひと言です。
     文字のなかの存在であるにすぎないのに、あたかもそこに生きて動いているかのような躍動感。
     これはほんとうに優れた作家だけが生み出すことができる「生きた」キャラクターの存在感です。
     そういう意味ではほんとうに文句を付けるのが申し訳なくなるくらい、非常に素晴らしい作品であることは間違いない。
     ただ、 
  • 日常系作品の四象限図を作りたい。

    2015-12-03 01:29  
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     先ほど、『よつばと!』の第13巻と『イチゴ―イチハチ!』の第2巻を購入して来ました。
     どちらも待ち望んだ新刊で、もったいなくてすぐには読めない。
     こういう作品の存在はそれ自体が生きる張り合いになりますね。
     この2冊を同時に読めるなんて、生きていて良かったと思うもん。
     『よつばと!』にしろ『イチゴ―イチハチ!』にしろ、いわゆる日常系の物語なのだけれど、その描写はかなり進歩して来ているように思います。
     日常系の魅力はいかに平穏な日常の楽しさを描くことができるかに尽きるわけですが、最近の日常系ってそこがほんとうに洗練されているなあ、と。
     いやまあ、まだ読んでいないのでこれらの巻についてはわかりませんが、既刊の描写はそうだったのです。
     三つほど前の記事で書いた「いま、青春群像劇が面白い」ということも、この日常系というジャンルと密接に関わっています。
     というか、ぼくがいうところの新しい世代の青春群像劇もまた、日常系の成果として生まれて来たものだと思うのですよね。
     『妹さえいればいい。』とか『エロマンガ先生』がやたら生活のディティールに拘るのも、日常のリアリティを演出したいからに違いありません。
     それは『よつばと!』とか『海街diary』といった作品がありふれた日常をどこまでもていねいに描き出して来たことに通じています。
     『妹さえいればいい。』はオタクネタが飛び交うので異質なものに見えるかもしれませんが、本質的には『よつばと!』などと同じ日常を楽しく過ごすことの賛歌だと思うのですね。
     あるいは四象限の図とか作れるかもしれません。
     「オタク⇔非オタク」、「目標がある⇔目標がない」の二軸で作る日常系マトリクス。
     そこに『よつばと!』、『イチゴ―イチハチ!』、『けいおん!』、『響け!ユーフォニアム』、『ゆゆ式』、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』、『心が叫びたがってるんだ。』、『バクマン。』(映画)、『SHIROBAKO』、『エロマンガ先生』、『妹さえいればいい。』、『海街diary』、『ちいさいお姉さん』、『冴えない彼女の育てかた』、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』あたりをマッピングしてみると、色々なことが見えて来るかも。
     いや、これはぼくが反射的に思い浮かべたタイトル群なので、まだ欠けているものがいくらもあるに違いありませんが。
     ちなみに目標意識が強ければ強いほど日常系っぽくなくなると思います。
     ちょっと『バクマン。』を日常系と呼ぶのは抵抗がありますよね。
     でも、ぼくの目から見ると、あの作品もまた紛れもなく同時代的な精神の産物と映るわけです。
     Excelとかでちょっと作ってみるといいのだろうけれど、もうニート生活が長すぎてExcelの使い方なんて忘れたよ……。だれか作らない?
     これらの作品を見ていくと、 
  • いまの時代ならではの青春群像劇が面白くてしかたない。

    2015-11-29 05:57  
    51pt

     ども。11月も終わりですねー。
     今年も残すは12月のみとなるわけで、毎年のことながら早いなあと思います。
     ほんと、歳取ると一年が過ぎ去るのが速く感じますね。
     今年のベストとして挙げたい作品はいくつかあるのですが、気づくとどれも青春物語ばかりです。
     ぼくはもともと青春ものは大好きなのだけれど、今年はその方面に特に収穫が多かった気がします。
     具体的には『妹さえいればいい。』であったり、『心が叫びたがってるんだ。』や『バクマン。』だったりするのですが、それぞれ共通点があるように思えます。
     どうでもいいけれど、みんなタイトルのラストに「。」が付きますね。なんなんだろ、モーニング娘。リスペクトなのか?
     まあいいや、その共通点とは「集団である目標を目ざして努力していること」です。
     となると、『冴えない彼女の育てかた』あたりもここに含まれますね。
     『エロマンガ先生』や『妹さえいればいい。』の場合、各人は個別で頑張っているわけですが、「良い小説を書きたい」という志は共通しています。
     まあ、もちろん、集団で目標に向かうことは青春もののきわめてオーソドックスなパターンです。いま新しく生まれ出た物語類型というわけではありません。
     しかし、いまの時代の作品がいくらか新しいのは、集団に必ずしも「一致団結」を求めない点です。
     バラバラな個性の持ち主がバラバラなまま同じ夢を目ざす。そういう物語が散見されるように思います。
     それは、やはりある種の「仲良し空間」であるわけですが、目標がある以上、もはや単なる仲良し同士の集まりではありえません。
     そこにはどうしようもなく選別が伴うし、淘汰が発生する。実力による差別が介在してしまうのです。
     それを受け入れたうえで、それでもなお、高い目標を目ざすべきか? それとももっとゆるい友人関係で満足するべきなのか?
     その問いは、たとえば『響け! ユーフォニアム』あたりに端的に見られます。
     そして、何かしら目標を目ざすことを選んだなら、そこに「祭」が生まれます。
     ぼくたちの大好きな非日常時空間、「祭」。
     その最も象徴的なのは文化祭だと思いますが、文化祭はいつかは終わってしまう。
     それでは、終わらない祭を続けるためにはどうすればいいか?と考えたときに、お仕事ものに接続されるのだと思います。
     『SHIROBAKO』ですね。あれは最も都合のいいファンタジーに過ぎないという批判はあるかと思いますが、でも、その裏には救いのない現実が存在するという視点はあるでしょう。
     その上で、ファンタジーを描いている。終わりのない「祭」の夢を。
     それは創作の作法として十分に「あり」なのではないでしょうか?
     ちなみに、 
  • 友達さがしの向こう側で見つけた世界。

    2015-11-21 22:13  
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     けれども、いま2015年後半以降になって、連続で見たものを全部思い出してみても、特にライトノベルの最前線は、男女同数のように男性キャラクターがバランスよく出てくるようになってきている感じがするんですよね。大御所である『妹さえいればいい。』とこの伏見さんの『エロマンガ先生』も、なんというか、そういう感じになっている気がする。
     なんか、みんな同じ設定、同じ何かを見ている気がするんですよね。その「なにか」が、まだ言葉にできていないんですが、なんか似ているんですよね。黒猫一択のような、ヒロインにはまってしまうというのとは違う感じの魅力で、、、、伏見さんの『エロマンガ先生』も『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』も、どっちもやっぱり大事なのは、友だちを得ていくこと、それが大きな基盤のテーマですよね。ほとんどテンプレで、ほとんど同じなんだけど、、、、何かが決定的に違うんですよね。『エロマンガ先生』と『妹さえいればいい。』は、その何かがはっきり見えている感じがします。それが何なんだろう?って凄い思うんですよね。http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151121/p1 いま、それ考えています(笑)。


     平坂読『妹さえいればいい。』と伏見つかさ『エロマンガ先生』の共通項を考えていくと、まずは当然、両者ともライトノベル作家を主人公にした作品であるということが挙がると思います。
     もちろんそれはどちらが真似したとか追随したという次元の話ではない。
     むしろ同じコンセプトを追求した結果、必然的に同じシチュエーションに至ったということなのではないかと思いますけれど、とにかく似たような設定を用いている。
     問題はそれが何を意味しているかということで、そこのところがよくわからない。
     わからないけれど、でも、「何か」があるとは感じるんですよね。
     なんだろう。それはたぶんこの二作品だけじゃなくて、最近、ぼくが感動した青春系の映画『バクマン。』とか『心が叫びたがってるんだ。』とも共通しているものなのだと思います。時代の最先端の精神。
     まず、これらの作品にあきらかに共通しているのは、何かしらの仕事ないし作業に集団でのめり込み、熱中し、夢中になって没頭するということです。
     『バクマン。』の結末を見れば自明ですが、ここでほんとうの目標になっているのは社会的成功ではない。他人の評価でもない。
     むしろ、熱中することそのものが価値となっていると思うのです。
     何かに夢中になって努力する。そのことそのものが目的なのであって、それが社会的にどう見られているかは問題ではないということ。
     『妹さえいればいい。』の最新刊で、主人公である伊月はもっと成功したいという夢を赤裸々に語りますが、それはべつだんベストセラーを出したいということではないということも並行して描かれています。
     かれが目指しているのは究極的には形がないスピリットであって、具体的な成功ではないのです。
     『バクマン。』は『少年ジャンプ』的な「努力・友情・勝利」を描きますが、「勝利」の描き方が以前とは異なっています。
     べつにナンバー1になることだけが勝利なのではない。敗北の苦い味を噛みしめることもまたそこではバリューなのです。
     で、大切なのはここでは男女入り混じった集団でひとつの目標を目ざしているということ。
     それは『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』ではライトノベルやイラストであり、『バクマン。』では少年漫画であり、『心が叫びたがってるんだ。』ではミュージカルでしたが、とにかく主人公たちに共通の目標というか志が設定してあるところが同じです。
     そしてかれらはその目標に向かって一心不乱に頑張りつづける。
     それは一種の「仲良し空間」には違いないでしょう。
     たとえば『ペルソナ4』や『仮面ライダーフォーゼ』で描かれたような。
     しかし、ただの「仲良し空間」ではなく、互いに切磋琢磨する関係であることもたしか。
     その結果、男女や友達の描きがどうなるか? 
  • オシャレでアクティヴな「リア充オタク」はほんとうにオタクなのか?

    2015-10-10 23:52  
    51pt

     一昨日のことになるでしょうか、『ZIP』という番組で「リア充オタク」の特集を放送したそうで、Twitterなどの各種SNSでこのワードが話題になっていました。
     この番組そのものはもう確認しようがないので(探してみればどこかにアップされているかもしれないけれど)、「リア充オタク」という言葉の元ネタであるらしい原田耀平『新・オタク経済』を読んでみました。
     結論から書くと、それほど目新しいことは書かれていません。
     だいたいいままで出た情報で説明できるというか、予想通りの内容。
     一冊にまとめたことに価値があるかも、って感じ。
     ぼくが観測している限り、「ライトオタク」と呼ばれるオタクカルチャーのカジュアル消費層がネットで語られ始めたのは10年くらい前。
     その頃は批判的なトーンでの意見が多かったように思います。
     オタクは本来、過酷な修行の末にたどり着く崇高な境地であるべきなのに、最近のオタクのぬるさたるや何ごとじゃ、みたいな内容ですね。
     『新・オタク経済』にも記されているように、この「ガチオタによるヌルオタ批判」という行為はその後も延々と続き、いまでもまだ続いています。
     今回、「リア充オタク」という言葉が出て来たときに巻き起こった「そんなのオタクじゃない!」という意見は、典型的なガチオタによるライトオタクへの反発に思えます。
     たしかに、本書で著者が定義している「リア充オタク」の多くは、旧来型の定義ではオタクに含まれない存在かもしれません。
     しかし、じっさいにかれらがオタクを名乗り、また周囲からもオタクと認められているという事実はあるものと思われます。
     第二世代や第三世代のオタクがいくら「そんなのオタクじゃない!」と叫んでも、実態が変わってしまっているのだからその声は届かない。あまり意味のある批判にはなりえないのですね。
     じっさい、オタク文化へのカジュアル層の流入という現象はこの10年間で至るところで目にしていて、岡田斗司夫さんが「オタク・イズ・デッド」とかいい出したのもその関連でしょうし、『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』などという本ではヤンキー文化との接近という形で同じ現象が語られています。
     オタクのライトオタク化とヤンキーのマイルドヤンキー化はパラレルな現象なのですね。
     だから、まあ、「リア充オタク」と呼ぶべき層の出現は、必然といえば必然なのです。
     この傾向の端緒はニコニコ動画の開設であると思われるので、ぼくらニコ動利用者にとっても無関係とは思えません。
     もっとも、ぼくのブログを「リア充オタク」が読んでいるとはあまり思われませんが……。
     そんなに長いスパンの話ではなく、ここ2、3年だけを取ってみても、オタク文化は相当普及したように思えます。
     『ラブライブ!』のソーシャルゲームが国内1000万ユーザーを突破したとか聞くと、隔世の感がありますね。
     アクティヴユーザーがどれだけいるかは別に考えるべきだとしても、1000万という数字はコアなファンだけでは獲得できません。
     もはや、スマホで『ラブライブ!』をプレイしている若者は「普通」であり、特筆するべき存在ではなくなっているのでしょう。
     ボカロ小説が何百万部売れた、とかいう話を聞いても同様の感慨を抱きます。
     時代は変わったんだなあ、ということですね。
     で、この現象をどのように受け止めるかなのですが、ぼくは基本的には「良いこと」だと思っています。
     カジュアル層が広がらなければ文化の発展はないわけで、一部のマニアだけに好まれていた文化が大衆的に広まっていくことは良いことかな、と。
     もちろん、そのなかには本書で書かれているような「エセオタク」も混じっていたりするでしょうし、旧来のオタクとしては面白くないことも多いかもしれません。
     ですが、いつだって時代はそういうふうにして変わっていくもの、変化を否定しても始まりません。
     もうひとつ付け加えておくなら、オタク自己言及ライトノベルの「脱ルサンチマン」の流れもこのオタク文化のカジュアル化とパラレルな関係にあるでしょう。
     時代的にはわりと新しいけれど内容的にはちょっと古い印象を受ける『冴えない彼女の育てかた』と、その同時代作品ながら当時としては斬新だった『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『僕は友達が少ない』、そして最新型の『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』を読み比べてみると、ライトノベルのオタク描写が変わっていっている様子がわかると思います。
     ぼくはそれを「脱ルサンチマン」と呼ぶわけですが、「リア充」を敵視し、オタク文化の神聖不可侵を守ろうとする気概が、あきらかになくなって来ている。
     同じ平坂読の『僕は友達が少ない』と『妹さえいればいい。』を比べるのがいちばん明瞭でしょうが、オタク文化は既にコンプレックスとかルサンチマンとは無縁のところまで来ているのです。
     それはオタク漫画の代表格である『げんしけん』の内容的な変遷を見てもあきらかでしょうし、また、『ヲタクに恋は難しい』みたいな漫画が出て来ることもひとつの必然なのでしょう。

     ネット上では「リアリティがない」とか「こんなのオタクじゃない」とこき下ろされたりもしていますが、『ヲタクに恋は難しい』で描かれているような「リア充オタク」は普通に実在するようになっていると考えるべきです。
     そこまで状況は変わって来ているのですね。
     そういうわけで『新・オタク経済』の基本的な論旨には文句はないのですが、脇の甘いところがいくつかあって、なかでも旧来のオタクに対する描写には苦笑させられるばかり。
     結局のところ、「オタクは暗くて非社交的、ファッションはダサくてモテないが自分の好きなことには夢中」というイメージは残存され、それがほんとうにそうなのかの検証は行われないのです。
     この本のなかで前世代のオタクの代表的イメージとして語られているのは、映画『電波男』の主人公なのですが、この映画がどれだけ的確に当時のオタクを代表し、あるいは象徴しているか、という検証は一切実施されません。
     本書のなかではかつてのオタクが「ダサくてイタい人たち」だったことは既成事実として語られているように思います。
     ぼくはべつにそういう傾向がなかったとはいいませんが、当時のオタクが全員が全員そういうふうだったわけではないはずで、ここらへんの偏見をそのまま使用していることには疑問を感じざるを得ません。
     まあ、本書のテーマが第四世代以降の新しいオタクたちである以上、そこはどうでもいいのかもしれませんが、どうも偏見を助長するカテゴライズであるように思えてならないんですよね。
     これはあらゆるカテゴライズにいえることですが、じっさいには大半の人はそれらのカテゴリにきれいに収まりきるというよりは、グレイゾーンのところにいるわけです。
     それを「リア充オタク」はこうだ、「イタオタ」はこうだ、といってしまうと、途端に見えなくなるものがある。
     特に腐女子に関する記述は強烈なバイアスの存在を感じさせずにはいられません。本書にはこう記されています。

     当然、イタオタは男性ばかりではありません。BL(男性同士の恋愛)モチーフの作品を好み、自らを「腐女子」と自称する女性たちも、多くはイタオタに分類されます。彼女たちは、そもそも自分たちの趣味嗜好を同好の士以外に啓蒙しようという気がないため、非オタクに対する社交性は低い傾向にあります。

     そして、腐女子の特徴として、特徴のあるイラストとともにこう列挙されている。

    ・変わり者が多い
    ・Twitterではやたらとテンション高い
    ・男性声優のツイートをリツイート
    ・イケメンを見ると脳内でカップリングにしてしまう
    ・ゴスロリ系と思しき服装
    ・一人称が「ボク」な子もいる
    ・家ではジャージで過ごしているがコミケなどのお出かけは気合をいれた服装
    ・普段の外出は母のおさがりの婦人服
    ・郊外にある大型衣料店で買ったバッグ
    ・手作りのビーチアクセが目いっぱいのおしゃれ
    ・薄い本(BL同人誌)大量購入
    ・スカートは嫌いだけどちょっとおめかし

     こんな奴いない、とはいいません。ある程度はこういう人もいるでしょう。
     しかし、