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  • どうすれば物語は面白くなるのか?

    2015-04-12 22:39  
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     アニメ『アルスラーン戦記』が面白いです。
     アニメーションとしての演出にそれほど傑出したものがあるというわけではないのですが、極上の物語をお金をかけて演出している凄みがある。
     何しろ原作は日本の架空歴史ものを切り開いた傑作ですから、きちんと映像に仕上げればそれなりのものが出来上がるはずなんですよね。
     そう、『アルスラーン戦記』はひとつの途方もなく面白い「物語」です。それでは、物語とは何なのかという話をいまからしたいと思います。
     学術的、あるいは辞書的な定義がどうなっているのかはともかく、ぼくにとっては、物語とはあるコンセプトに則り、一連の出来事を語った話ということになります。
     この「コンセプト」というものが大切で、そう、物語を語るためにはそれだけの目的があるわけです。
     何か伝えたいテーマなりメッセージがあって、それを伝えるためにこそ物語という形式を採るということが一般的だと思います。
     このコンセプトは、まったく何でもかまいません。べつだん、偉いことや崇高なことに限らない。
     ただ「主人公を格好良く描きたい」でもいいし、「日本海軍の凄さを知らしめたい」でも「繊細な恋愛心理の妙を描きたい」でもかまわない。
     しかし、とにかく通常は何らかの「その物語を通して伝えたいこと」があって、初めてひとは物語を語ろうとするものだと思うのです。
     まあ、いわゆるワナビのなかにはただ作家になりたいだけで特に語るものがないというひともいるかもしれませんが……。
     そして、これも重要なことですが、物語には「始点」と「終点」があります。
     始めた物語はいずれ終わらなければならないわけですから、当然のことです。
     『アルスラーン戦記』第一部の物語を例に取るとわかりやすいでしょう。この物語は王子アルスラーンの軍勢が敵国ルシタニア軍に敗れ去るところから始まり(始点)、やがてルシタニア軍を打倒し国を奪い返すところまでを描いています(終点)。
     物語のすべてはこの始点と終点の間で語られることになります。
     そして、作者はその物語をなるべく面白くするべく、始点から終点に至るルートにいろいろな事件を配し、可能な限り緻密に「構成」しようとします。
     その構成の力量を「構成力」といい、また構成の方法論を「ドラマツルギー」といいます。
     この構成が不十分であったり、また終点に至るルートや終点そのものがはっきりしないまま物語を語り始めてしまうと、作者自身にも物語がどこへ行き着けばいいのかわからなくなり、物語が未完に終わってしまったりします。
     いわゆる「エタる(エターナルする)」という現象ですね。哀れ、港を出た船は目的地にたどり着くことなく、永遠の漂流者となってしまうわけです。
     とにかく、物語を緻密に語っていくためには始点と終点、そしてその間のルート設定が大切だということです。
     世の中にはこのすべてを天然の感覚でやってのける「天才」と呼ばれる人たちがいますが、ぼくには理解できない存在なので解説できません。わけがわからないよ……。
     まあ、それはともかく、普通の人たちはそこでなんらかの計算を行います。
     たとえば、終点の時点で主人公が幸せになっているためにヒロインを出そうとか、それでではつまらないからヒロインは悪漢に浚われてしまうことにしようとか、そういうことですね。
     天才はしらず、一般的には、物語は終点、少なくとも先の展開が見えていて初めて厳密に構成できるものです。
     たしかに全何十巻にも及ぶ長大な漫画とか小説はあり、そういう作品では終点までのルートがはっきりしていないまま書き始めていたりするのでしょうが、その場合はやはり構成の緻密さに限界があると思います。
     大抵は途中で話を区切って構成するんですけれどね。
     さて、この「終点」に近いけれど異なる言葉で、物語のすべての展開が行き着くところのことを、LDさんの言葉で「結晶点」といいます。クリスタライズポイントですね。
     その物語のさまざまな展開はそこで結晶するべく進展していっているということでしょう。
     わかりにくいでしょうか?
     これも『アルスラーン戦記』を持ち出すとわかりやすいのですが、この物語では実にいろいろな謎があり、事件があり、伏線があります。
     しかし、それらすべてはやがて王都エクバターナ奪還という一点に集約していくのです。
     その瞬間にほとんどすべての登場人物が集まり、対決しあい、雌雄を決しあいます。
     これは、よく考えてみると不自然といえば不自然なことです。
     現実的には、なぞの銀仮面卿はどこかで偶然に足を滑らせ落馬して死んでいたかもしれず、王子アルスラーンはどこかでもたもたして見せ場に間に合わなかったかもしれないわけですから。
     現実にはそういうことも十分ありえるわけですよね。しかし、物語を演出しようとして構成する以上、それはあってはならないことです。
     やはりクライマックスにはいちばん盛り上がるように構成されていなければならないのです。
     ちなみにこのクライマックスを意図して外すこともあって、そういう展開はアンチクライマックスとか呼ばれたりします。
     旅の勇者が苦難の末、魔王を倒そうとしたらもう寿命で死んでいたとか、そういう展開が想像できますね。元々は修辞法の言葉だそうです。
     が、それは、あとで説明しますが、あくまで例外。通常、面白い物語はちゃんと盛り上がるべきところで盛り上がるよう計算されているものだといっていいでしょう。
     そして、面白い物語とは普通、始点と終点のあいだで波乱万丈の展開を迎えるよう構築されているものです。
     何ひとつ事件が起こらず、老人がひたすら日向ぼっこをしているだけという物語は、少なくとも一般的な尺度では面白くない。
     次々と深刻な事件が起こって、「いったいこの先どうなるんだ?」と読者/視聴者を惹きつけるのが良くできた物語というものです。
     それでは、波乱万丈とは具体的にどういうことなのか。
     単純にいって、それは状況の「落差」で表現できます。善と悪、明と暗、天国と地獄――そういった状況のコントラストが激しいほどドラマティックな展開ということになる。
     これも『アルスラーン戦記』が非常に良いテキストになるでしょう。
     今回、パルス国の王子として何不自由ない身分にいたアルスラーンは、敗戦によって一気に流浪の身に叩き落とされます。
     一国の王侯から追われる身の旅人へ。この、普通の人の人生にはまずめったに起こらないような巨大な「落差」をもつ展開が、見るものにドラマティックな印象を与えるわけです。
     べつだん、戦記ものでなくても、どんな物語でもこのことはあてはまります。
     ペトロニウスさんが「強さのデフレ」という文脈で、この「落差」のことを語っているので、ちょっと長くなるけれど引用しておきましょう。

     こういう表現を考える時に、視点の落差、、、、具体的に言うと、萩原一至さんの『BASTARD!!』を思い出すんですよね。ぼくこの2部が、とても好きで、、、2部って主人公が眠りについた後の、魔戦将軍とかサムライとの戦いの話ですね。何がよかったかって言うと、落差、なんです。『BASTARD!!』は、最初に出てきた四天王であるニンジャマスターガラや雷帝アーシェ・スネイなど、強さのインフレを起こしていたんですね。普通、それ以上の!!ってどんどん強さがインフレを起こすのですが、いったん第二部からは、彼らが出てこなくなって、その下っ端だった部下たちの話になるんですよね。対するサムライたちも、いってみれば第一部では雑魚キャラレベルだったはずです。。。。しかし、同レベルの戦いになると、彼らがいかにすごい個性的で強い連中かが、ものすごくよくわかるんですね。
     強さがいったんデフレを起こすと僕は呼んでいます。
     これ、ものすごい効果的な手法なんですよね。何より物語世界の豊饒さが、ぐっと引き立つんです。要は今まで雑魚キャラとか言われてたやつらの人生がこれだけすごくて、そして世界が多様性に満ちていて、下のレベルでもこれほどダイナミックなことが起きているんだ!ということを再発見できるからです。なんというか、世界が有機的になって、強さのインフレという階層が、役割の違いには違いないという感じになって、、、世界がそこに「ある」ような感じになるんですよ。強者だけが主人公で世界は成り立つわけではない!というような。
     そこで、、、、ヒロインのヨーコが、、、、圧倒的な敵に対して、主人公(覚醒前のね)を抱きしめて絶望的に空を見上げるシーンがあります。グリフォンだったか、、、一匹でもみんな大事な仲間がバタバタ死んでいくのに、それがものすごい数が現れたのを見て、、、、
     そして、そこで主人公が覚醒して、、、、そしてガラやネイが戻ってくる、、、、という話になるのですが、僕は、このシーンがとても好きで、、、、というのは、一つは、
     どうにもならない絶望感
    と、
     ありえないような絶望のどん底から一筋の光明のような希望が舞い降りる瞬間
     が、見れるからなんですよね。物語って、そういうドラマトゥルギーの落差が欲しいなと僕は思うのです。
     けれども、、、、この絶望のどん底感を描けるのって、とても難しいのです。なぜならば、主人公は、当然強者であり、世界を救うものじゃないですか。基本的にそういう前提が隠れているのが普通で、なかなかこの絶望が描けない。この絶望は、まったく力がない、一兵卒や一市民の視点からでないとわからないからです。そして、勇者やヒーローと呼ばれる存在の、「凄み」というのも、このどん底の絶望との「落差」を通してでないと、実はわからないんじゃないか、といつも思っています。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131228/p2
     そう――ぼくやペトロニウスさんのような「物語読み」は、何よりもこの「落差」のコントラストを見たくて物語を見ているところがあります。
     最もひよわで幼げな王子がやがて大陸に覇を唱える大王になるとか、その反対に天才的なジェダイの素質をもつ少年が悪のダース・ベイダーにまで堕ちていくとか、そういう日常にはありえない落差が物語にとってとてもとても大切なのです。
     つまり、始点と終点のあいだでなるべく落差が大きくなるよう状況を変化させていく話が「面白い物語」であると、とりあえずはいうことができるでしょう。
     そのための方法論がドラマツルギーであり、展開の「定石」です。
     定石とは、だいたいこういう展開にしておけば面白い物語ができあがるというパターンのことですね。
     それはたとえば「フラグ」といった概念で理解することができます。脇役が急に昔の話を始めたら死んでしまう予兆だというようなあれです。
     このような「死亡フラグ」は、もちろん現実には存在しません。物語のなかだけにある概念です。
     物語はただなんとなく語られるわけではなく、状況の落差を生みだし、その上で結晶点を目指そうとして計算して語れるわけですから、効果的に落差を生むために伏線やフラグが多用されるわけです。
     たとえば、主人公が昔いっしょに過ごした可愛い幼馴染みの女の子のことを思い出したら、これは伏線に決まっています。
     ただたまたま思い出しただけで、その女の子がその後一切物語に関わってこなかったら読者は怒ることでしょう。
     それが現実と物語の違いです。現実世界にはすべてを面白くするよう計算して事象を配している存在はいませんが、物語世界には作者という神がいるのです。
     したがって、物語世界には始点があり、終点があり、結晶点があり、ドラマツルギーがあり、また定石があって、それらが物語を面白くしています。
     しかし――しかしです。世の中にはなんとこの「定石」にあてはまらない物語が実在するのですね。
     それは、 
  • TONOとよしながふみの落差。

    2014-01-24 18:34  
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     さて、ふたつほど前の記事で書いたように、山梨のてれびんの家に二日ほど居座って漫画を読んで来ました。ちょうどTONO『カルバニア物語』が床に散らばっていたので、拾い集めて再読してみたのですが、いや、これ、ほんとすばらしいですね。
     掲載誌がいつのまにかボーイズ・ラブ雑誌になっていた『Chara』ということもあって、あまり一般的な知名度は高くない漫画だと思いますが、でもこれは必読クラスの名作といっていい。
     てれびんもいっていたけれど、おがきちかさんの『Landreaall』に近い気がする。まあ、ペトロニウスさんがいつだったか書いていたように、ほぼミクロの関係性に終始する少女漫画なので、つまらないと思う人もいるだろうけれど、ぼくにとっては至上の作品です。
     何が面白いのか。ひとつにはやっぱり性差の問題を繊細に描き込んでいることがあるでしょう。
     主人公はカルバニア王国のうら若き女王タニアと公爵令嬢のエキュー・タンタロット、彼女たちは国を統べる頑固な男たちとさまざまな局面で対決させられます。そしてしばしば性差別的ともいえる「壁」にぶつかって悩んだり怒ったりすることになるのです。
     しかし、それなら「性差別反対!」「女性に権利を!」的な物語なのかといえばまったくそうではないあたりが面白い。
     いや、たしかにタニアたちは差別的な扱いにうんざりしながら抵抗を続けていくのですが、だからといって彼女やエキューが常に正しいというわけでもないんだよね。
     時には頭の硬いおっさんたちのほうが正論をいっていることもあるし、どっちもどっちということもある。重要なのは決して物語が「政治的正しさ」の奴隷に堕ちないということです。
     すべてのエピソードはあくまでナチュラルに、スムーズに進んでゆくのです。で、ぼくとしてはたとえばよしながふみの『きのう何食べた?』とか『フラワー・オブ・ライフ』あたりと比べると、格段にこちらのほうが好みなんですね。
     このふたりの作品、どこが違っているんだろうとよく考えます。表面的にはそう大きな違いがないように見える。どちらも非常に政治的に公正で、ユーモラスで、マイノリティへの配慮が行き届いている。それにもかかわらず、ぼくにとってはまったく違う作風です。
     たとえば志村貴子さんという作家さんがいますが、彼女の作品に対してはぼくは特段の違和は感じません。『青い花』であれ、『敷居の住人』であれ、とても楽しんで読むことができます。
     それに対し、『きのう何食べた?』に対しては何かこう、いいようがない読後感を覚える。いったいどこが違っているのか? さっぱり言葉にならないのですが、あえていうなら