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記事 11件
  • 『HUNTER×HUNTER』は「人間的な共感」の境界を示す。

    2016-06-07 20:27  
    50pt

     『HUNTER×HUNTER』最新刊をくり返し読み込んでいます。
     一度読んだだけでは理解し切れないレベルの複雑さと情報量。
     「グリードアイランド篇」もそうだったけれど、端から端まで完全に把握して読んでいる人は少数派なんじゃないかなあ。
     ということは100パーセントわからなくても読めるシンプルな構造があるということで、なんというかもうほとんど天才の仕業。
     いち凡人としてはただただ「すげえなあ」と感嘆するしかありません。
     この巻から物語は人跡未踏の「暗黒大陸」に渡航するための準備に入ったわけだけれど、少し前まで死闘をくり広げたキメラアントを凌ぐという未知の脅威が複数登場し、物語のスケールは一気に広がりました。
     さらには「デカすぎる」モンスターたちがあたりまえのように登場し、いったい人間の力は通用するのやら、しないのやら。
     あまりに極端なスケールアップを「インフレ」と見て批判す
  • 『HUNTER×HUNTER』における新世界とは「物語破壊の装置」である。

    2016-06-03 15:07  
    50pt

     全読者待望の『HUNTER×HUNTER』最新刊が出ました。
     さっそく電子書籍で落として読む、読む。もちろん雑誌で追いかけてはいたけれど、あらためてまとめて読むとあらためて面白いですね。
     前巻で、長かった「キメラアント篇」に続く「会長選挙篇」が完全に終わって、この巻から「暗黒大陸篇」が始まります。
     いままでの物語世界全体が広大な「暗黒大陸」に取り囲まれていたことがあきらかとなり(な、なんだってー)、一気にスケールアップするわけなんだけれど、あまりに突然の展開に、当初は正直、「大丈夫なのか?」という思いもありました。
     しかし、その後の展開を追いかけていくと、どうやら大丈夫であるらしい。
     なんといっても一向に物語のテンションが落ちない。第33巻にしてこの情報量とハイテンションは驚異的です。
     もちろん、実質的に週刊連載のスタイルを捨てたからこその高密度ではあるんだろうけれど、そういうことは関係ないですからね。面白さが正義。
     いったいこの先、「暗黒大陸」を舞台にどのような冒険が繰り広げられるのか、ほとんど想像を絶していますが、だからこそ楽しみでなりません。
     さて、このブログを長いあいだ追いかけている人ならご存知かと思いますが、「暗黒大陸」や『進撃の巨人』の「城壁の外の世界」から発想して、LDさんは「新世界系」という概念を生み出しました。
     『ONE PIECE』の「新世界」から採った名称です。『HUNTER×HUNTER』でも「新世界」という呼称が使われていますね。
     「新世界系」とは何か? 説明するのが面倒なので自分の記事から引用すると、こんな感じです。

     さて、ここで『HUNTER×HUNTER』の話に繋がるのですが、最近、ペトロニウスさんとかLDさんが「新世界」、あるいは「外の世界」といわれるヴィジョンについて話しています。
     これは、『ONE PIECE』や『HUNTER×HUNTER』などの作品で、いままでの世界よりも遥かに大きい「新しい世界」が存在する、という展開が描かれているという話です。
     『ONE PIECE』ではまさに新世界、『HUNTER×HUNTER』では暗黒大陸などと呼ばれている場所のことですが――これが、「現実」を意味しているのではないか、という指摘をLDさんがしているのですね。
     非常に興味深い話だと思うのですが、ここでいう「現実」とは、「努力や成長が意味を持つ少年漫画的な原理」が通用しない世界のことだと思うのです。
     通常、少年漫画のような物語は、四天王キャラが最弱の者から順番に襲いかかってくるように、主人公の成長に合わせて少しずつ進展する傾向があります。
     『ドラクエ』でもレベル1のところにいきなりギガンテスがやって来るというようなことはないわけです。しかし、いま述べたように、現実はそうではない。
     そこでは、判断を誤れば待つものは死であるのみか、最も正しい判断をしてなお、死しか待っていないかもしれない。そういう原理があるわけです。まさに、日本代表が最善の努力をしたかもしれないにもかかわらず、無残な敗北を喫したように。
     努力が正しく報われる世界、正義が必ず勝つ世界、そういう少年漫画的な原理が通用する世界を「正しい」とするならば、この世は正しくできていないし、まさに「クソゲー」としかいいようがないシステムで動いています。
     でも、その不条理さを受け入れること、そういう世界を折り合いをつけることが、「大人になる」ということでもあると思うんですよね。「いかにして成熟するか」という問題がそこにあります。
     そして、成熟した上で、さらに過酷な現実に立ち向かう覚悟を維持することができるか? おそらくその強靭な精神を持った者のみに、絶望的な難易度のクソゲーであるところの「外の世界」は扉を開くのでしょう。
     そこは努力とか、成長とか、誠意とか、愛情といったものが何の役にも立たないかもしれない世界。かたくななナルシシズムなど一顧だにされない世界。人間中心主義(ヒューマニズム)がまったく通じない世界です。
    http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar563640

     そう、「レベル1から敵が出て来るとは限らない、いきなりレベル99のラスボスが登場するかもしれない世界」、それが「新世界」です。
     こう書くとわかるかと思いますが、「新世界」においては通常の物語は成立しません。
     だって、 
  • 『HUNTER×HUNTER』と強さのインフレ、デフレ、そしてランダムウォーク。

    2016-04-27 12:05  
    50pt

     『HUNTER×HUNTER』が連載再開してしばらく経ちます。
     いまさらいうことではないかもしれませんが、めちゃくちゃ面白いですね!
     今週号はなつかしの「天空闘技場」を舞台とした、ヒソカとクロロの死闘。
     最初に「どちらかが死ぬまでやる」と宣言され、いったいふたりのうちどちらが勝者となり、敗者となるのか、目が離せません。
     普通に考えれば、両者とも物語にとっての重要人物であるわけで、ゴンやクラピカと無関係のところであっさり死んでしまうはずはないと思えるのですが、そこは『HUNTER×HUNTER』、予断を許しません。
     おそらく、この戦いが終わったとき、どちらか片方は闘技場に斃れることになるのでしょう。あるいは、両者ともが闘技場の土となる運命化も。
     この、先の予想をまったく許さない展開こそが『HUNTER×HUNTER』の本領です。
     ああ、戻ってきたのだな、という気がしますね。おかえりなさい。
     ただ、クロロにしろ、ヒソカにしろ、いままでの物語のなかでは最強の存在であった「キメラアントの王」メルエムと比べれば、実力的には劣るはずです。
     いかに「念能力に強弱という概念はない」とはいっても、メルエムはあまりに強すぎた。
     だから、いまさらクロロ対ヒソカ戦をやってみたところで、盛り上がりに欠けることになる――はずなのですが、じっさいにはそうはなっていません。
     この上なく緊張感のある死闘がくり広げられています。
     結局のところ、「もっと強く、もっともっと強く」という方向性だけが面白いわけではない、ということなのですね。
     たしかに、読者は一般に「もっと強いやつ」を求める傾向がある。
     しかし、その読者の声に応えつづけていると、はてしなく強さは数的に上がっていくことになってしまう。
     その「強さのインフレ」をまさに極限までやったのが『ドラゴンボール』であるわけですが、そこには「同一パターンのくり返し」でしかないという問題点があった。
     で、『ドラゴンボール』以降の漫画はそこから何かしら学んで、同じことをくり返さないようにしているわけです。
     その端的な例が『HUNTER×HUNTER』ということになる。
     この世界では、いったん極限まで行った強さの表現が、ふたたび下のレベルに戻ることがありえるのです。
     これについては、ペトロニウスさんが昔、『BASTARD!!』を例に「強さのデフレ」という言葉で説明していました。

     「強さのインフレ」ならよく聞きますが、「強さのデフレ」とはなんでしょうか?

     こういう表現を考える時に、視点の落差、、、、具体的に言うと、萩原一至さんの『BASTARD!!』を思い出すんですよね。ぼくこの第2部が、とても好きで、、、第2部って主人公が眠りについた後の、魔戦将軍とかサムライとの戦いの話ですね。何がよかったかって言うと、落差、なんです。『BASTARD!!』は、最初に出てきた四天王であるニンジャマスターガラや雷帝アーシェスネイなど、強さのインフレを起こしていたんですね。普通、それ以上の!!!ってどんどん強さがインフレを起こすのですが、いったん第2部からは、彼らが出てこなくなって、その下っ端だった部下たちの話になるんですよね。対するサムライたちも、いってみれば第1部では雑魚キャラレベルだったはずです。しかし、同レベルの戦いになると、彼らがいかにすごい個性的で強い連中かが、ものすごくよくわかるんですね。
     強さがいったんデフレを起こすと僕は呼んでいます。
     これ、ものすごい効果的な手法なんですよね。何より物語世界の豊饒さが、ぐっと引き立つんです、要は今まで雑魚キャラとか言われてたやつらの人生がこれだけすごくて、そして世界が多様性に満ちていて、下のレベルでもこれほどダイナミックなことが起きているんだ!ということを再発見できるからです。なんというか、世界が有機的になって、強さのインフレという階層が、役割の違いには違いないという感じになって、、、世界がそこに「ある」ような感じになるんですよ。強者だけが主人公で世界は成り立つわけではない!というような。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131228/p2

     世界は、絶対的強者だけで成り立っているわけではないということ。
     「頂点」の戦いがすべてで、そのほかの戦いには価値がないというわけではないということです。
     「底辺」は「底辺」で、きわめて熱いバトルをくりひろげているわけで、その「底辺」を描き出すこと(=強さをデフレさせること)は、「世界の豊饒さ」を描き出すという一点において、大きな意味を持ちます。
     つまり、ひたすら「強い奴」にフォーカスしている世界より、強い奴もいる、弱い奴もいる、それぞれがそれぞれのレベルで懸命に生きているということがわかる世界のほうが、より豊かに感じられるということだと思います。
     『HUNTER×HUNTER』の場合、ヒソカにしろクロロにしろ、「底辺」には程遠い最強の一角を争うひとりであるわけですが、メルエムのレベルには及ばないであろうことは間違いありません。
     しかし、そのふたりが、これほどの実力を持っているのだ、ということを示すことによって、世界はあらためて豊饒さを取り戻すのです。
     ところで、「レベル1のときにレベル99の敵が現れるかもしれないリアルな世界」のことを、ぼくたちはLDさんに倣って「新世界系」と呼んでいました。
     新世界系の物語は、「突然、異常に強い敵が現れるかもしれない物語」であるわけですが、いい換えるなら、「強い敵と弱い敵があらわれる可能性がランダムに設定されている物語」ということもできそうです。
     つまり、そこではひたすら「もっと強く、もっともっと強く」という方向には物語は進まない。
     「レベル1のときにレベル99の敵が現れるかもしれない」ともいえる一方で、その逆、「レベル99のときにレベル1の敵が現れるかもしれない」ということもできるわけです。
     これは、一見するとつまらないようにも思える。レベル99のときにはレベル1の敵なんて相手になるはずがありませんからね。
     しかし、「強さのデフレが豊饒な世界をもたらす」という視点で見ると、意味があることであるように思えてきます。
     ようするに、新世界の物語とは、強さが単純にインフレしたり、デフレしたりするのではなく、その時々で乱高下する「強さのランダムウォーク」の物語であるということです。
     『HUNTER×HUNTER』はだんだん 
  • 『暗殺教室』と多重レイヤー構造。少年漫画は「天才漫画」を過ぎ、弱者戦略の時代に突入している。

    2016-04-24 12:02  
    50pt

     『ひらめき教室 「弱者」のための仕事論』を読みました。
     漫画家の松井優征さんとデザイナーの佐藤オオキさんの対談集です。
     この場合の「弱者」とは、特別な才能に恵まれていない人の意味。
     圧倒的な才能を持つ「天才」たちがごろごろしている漫画業界やデザイン業界で、「弱者」がいかにして活躍するか、その方法論が語られています。
     松井優征さんにしろ、佐藤オオキさんにしろ、結果だけを見れば抜きんでた能力を持つ「天才」に見えるかもしれません。
     『魔人探偵脳噛ネウロ』、『暗殺教室』と二作続けて『ジャンプ』でヒット作を完結させた松井優征、400もの仕事をパラレルに展開するという佐藤オオキ、いずれも凡人とは思えません。
     しかし、かれらは自分の主観においてははっきりと「弱者」なのであり、「弱者である自分がどう戦うか」を考えに考え抜いてそれぞれの戦場で生き抜いてきたのだといいます。
     ちょっと本文から引用してみましょう。

    佐藤 まさに弱者戦略ですね。僕も絵を描くのが下手なんですよ。
    松井 そうなんですか?
    佐藤 デザインって、たぶん右脳型、左脳型タイプがいて、感性やセンスで戦える人がいるんです。ヨーロッパに行くと、ペンを手にした瞬間、魔法のように美しい曲線を描いちゃうような天才がゴロゴロいる。僕はそれを見て、「あ、自分にはできない。これは敵わないな」と最初に思ってしまった。じゃあ自分に何ができるのか考えたとき、曲線美や激しい色使いなどではなくて、本当に些細なアイデアを膨らませていくことで勝負できないかなと考えました。そこがスタート地点ですね。そういう意味では、早めに自分が絵がへたであると実感できたのは、貴重な経験でした。
    松井 自分の才能のなさ、弱点を一回認めた人は本当に強いですよ。
    (中略)
    佐藤 そういえば『暗殺教室』も、「弱者戦略」が大きなテーマになっていません?
    松井 そうなんです。暗殺も、弱い者が強い者を倒すための戦略なんですよね。

     「弱者戦略」。
     面白い言葉が飛び出してきました。
     弱者戦略とは、つまり、生まれつきの素質に恵まれていないものがそれでもどう戦うか? あるいは勝つか? そのための「戦略」だと考えられます。
     ぼくは、いまの少年漫画はこの「弱者戦略」の時代に突入していると思う。
     かつて、『少年ジャンプ』は「努力・友情・勝利」というテーマを掲げていました。
     しかし、時代の変遷によって、「努力すれば必ず勝利できる」というコンセプトが説得力を失ってきた。
     そこで「天才」を描く漫画が生まれた。
     少年漫画全体を眺めてみても、『H2』とか『SLAM DUNK』とか、いわゆる「天才漫画」が流行った時期がたしかにありました。
     それらは比類ない「天才」がその才能でぐんぐん成長していく姿を描く実に痛快な物語でした。
     しかし、同時に「天才漫画」は「それでは、才能がない者はどうしようもないのか?」というある種の絶望を呼び起こします。
     そうかといって、ひたすら努力すればいい、というアンサーも説得力がない。
     何しろ、半端な努力などとうてい通用しないような天才の圧倒的な実力を既に見てしまっているのですから。
     そこで生まれてきたのが「弱者戦略漫画」なのではないでしょうか。
     先駆けは『HUNTER×HUNTER』だと思う。

     『HUNTER×HUNTER』は「天才漫画」でもあるけれど、「弱者戦略漫画」を切り拓いた作品でもある。
     『HUNTER×HUNTER』が少年漫画に持ち込んだのは、「肉体的な意味での強さ」というひとつのレイヤーでのみ勝負が決まるわけではなく、ほかにもいくつものレイヤーが存在し、それぞれのレイヤーで勝負が存在するという「多重レイヤー的世界観」でした。
     ペトロニウスさんはこんなふうに書いています。

     さて強さの話に戻ると、『HUNTER×HUNTER』のもう一つの凄さは、前作の『幽☆遊☆白書』でもエピソードとして出てきていてこのテーマを追求する片鱗を感じさせるのですが、ゲームのルールを書き換えることが、最終的な勝利につながるということを、強く意識した設計がなされていることです。いや、このいいかたよりも、この現実世界には、いくつものレイヤーがあって、どのようなルールに支配されているレイヤーに生きているのか?ということを意識しないと、簡単に殺されてしまうという恐怖と悲しみが、彼の作品の大きなテーマにあります。これが2つ目です。
     ようは、チャンピオンを決めるランキング・トーナメント方式のバトルに、どのようなルール(=基礎構造)の変更をしたのかといえば、
    1)強さを一律の基準で決められない多様性をもちこみ、知恵と工夫で勝ったほうが勝つ、
    2)自分がいるレイヤーのルールを壊すか、新しくルールを作りだすことができたものが勝つ、
     という条件が設定されたんですね。ちなみに、2)は、凄い複雑で、
    3)自分がいるレイヤーから、異なるレイヤーに移ることができた場合、そのメタルールをどう利用するか?
     というような背景も隠れています。
     これって、物凄い発見ですが、、、、この物語類型を十全に使いこなせている物語は『HUNTER×HUNTER』ぐらいしかありません。日本のエンターテイメント、、、いや人類のエンターテイメント史に残る傑作だと思います。これ。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140526/p1

     シンプルに「強さ」の数的な大小(戦闘力530000とか)で勝負が決する『ドラゴンボール』のような古典的な少年漫画と比べて、『HUNTER×HUNTER』の勝敗論理ははるかに複雑です。
     ある人物が「肉体的な強さ」のレイヤーで劣っていたとしても、必ずしもそれで勝負は決まらない。
     たとえば「知性」や「特殊能力」のレイヤーに勝負を持ち込むことができれば、それで勝敗が逆転することが十分にありえる。
     『HUNTER×HUNTER』が生み出したのは、そういう世界観でした。
     これは非常に画期的なことだったと思います。
     もちろん、先例としてたとえば『ジョジョの奇妙な冒険』があり、また『ドラゴンボール』以前のさらにクラシックな少年漫画があることはたしかですが、『HUNTER×HUNTER』のバトルはそれらと比べても複雑な上に意識的です。
     『HUNTER×HUNTER』の登場をもって少年漫画は新たなステージに突入したといっていいと思います。
     ちなみに「多重レイヤー」意識の採用はおそらく 
  • あきらめのその先に続く世界。相田裕『イチゴーイチハチ!』が日常系の新境地を切り開く。

    2015-04-01 05:50  
    50pt



     相田裕の新作『イチゴーイチハチ!』を購入しました。
     『GUNSLINGER GIRL』が完結して以来、ひさしぶりの商業作品ですが、『バーサスアンダースロー』のタイトルで同人誌で出版されていた作品のリメイクとなります。
     第1巻でほぼ同人誌収録分を消化した感じですね。
     これが素晴らしい内容で、非常に読ませます。今年の漫画ランキング暫定首位は間違いないところ。
     それでは、この作品のどこがそれほど良いのか。
     いろいろな評価が既に出ていますが、ぼくはこれは「挫折」と「諦念」の先の「キラキラした日常」を描こうとしているのだと判断しました。
     運命に翻弄され、すべてを失い、夢をあきらめたその向こうにある「楽しさ」。それがこの作品のテーマなのではないかと。
     『妹さえいればいい。』もそうなのですが、「日常系」と呼ばれたジャンルはここに来ていっそう深みを増している印象がありますね。
     物語は、怪我によって野球の道を断念したひとりの少年が、その高校の生徒会に入って来るところから始まります。
     かれはほんらいプロを目ざせるほど優れた資質のもち主だったのですが、いまとなってはその道は断念せざるを得ません。
     その生徒会のほかの面々は、かれに「野球以外の楽しいこと」を教えようとするのですが――という話。
     ぼくはここにある種の「諦念」の物語を見ます。
     不条理な現実を受け入れ「あきらめること」の物語といってもいい。
     普通、「あきらめ」はネガティヴな文脈で使われる言葉です。しかし、ひとはあきらめることなしには先へ進めない局面がある。
     どんなに頑張っても自分の意志が世界に通じないという現実を受け止め、受け入れ、その上で前へ進むとき、「あきらめ」にはポジティヴな意味が宿るのではないでしょうか。
     高河ゆんの『源氏』に、平清盛に仕える嵯峨空也がその清盛に捨てられた白拍子の少女を祗王寺へと連れていくエピソードがあります。
     そこでは、彼女自身かつて清盛の愛妾であった女性祗王が、かれの無事を祈願していました。
     ただ一時愛された思い出だけでここまでできるものなのか、と問い質す空也に対し、祗王は平然と言ってのけます。

    「仕方がありませんわ 英雄色を好むと申します 女は華でございます 咲いて散るものです それが運命です 華と生まれたことになんの不満があるでしょう」

     そんな言葉を受け、空也は呟きます。

    「……わたしは「仕方ない」という言葉が好きです あきらめよりも何か決意を感じさせます」

     ぼくはこの場面と台詞が非常に好きです。初めて読んだとき以来、強く印象に残っています。
     それではこのやり取りをどう解釈するべきでしょうか。
     普通に読むぶんには「女は華でございます 咲いて散るのがさだめです」とは、やけに古風な女性観とも思えるし、男の心変わりを「仕方ない」と受け止める姿勢は後ろ向きとも思えます。
     しかし、空也はその「仕方ない」を好きだといい、ただの「あきらめ」と区別して「何か決意を感じさせます」と語っています。
     つまり、ここでは「仕方ない」にただの「あきらめ」以上の意味が見いだされているのです。
     それはどんな意味でしょう。結論から書くと、ここで語られているものは「ポジティヴな諦念」というべきものであるように思えます。「建設的なあきらめ」といってもいいでしょう。
     それはたしかに「あきらめ」には違いないのだけれど、決してネガティヴな意味での「あきらめ」ではない。あきらめることによって前へ進んでいこうとする、意思の力を秘めた諦念なのです。
     『イチゴーイチハチ!』の「あきらめ」も、この「建設的なあきらめ」だといっていいと思う。
     おかしなことをいっているように思えるでしょうか。
     そうではありません。正しい「あきらめ」はその人自身の意思によってなされるものです。
     そしてひとはその種のあきらめなしでは生きていけません。生きることとはあきらめつづけることである、ということもできるでしょう。
     それでは、負の意味でのあきらめと正の意味でのあきらめをどう区別すればいいのでしょうか。
     答えは単純ではないように思えます。たとえば、その道をあきらめることでほかの道を進めるようなあきらめ、ひとつあきらめることで最終的なゴールにより近づくようなあきらめ、そういうあきらめが「良いあきらめ」だ、ということはできるでしょう。
     しかし、そのいかにも合理主義的な選択に、ぼくは小さな、しかし見過ごせない違和を抱きます。ほんとうにそんな合理主義的にだけ考えることが正しいのか。
     為末大に『諦める力』という著書があります。まさにここでいう「ポジティヴな諦念」について書かれた本です。
     しかし、やはりそこでの諦念は「合理主義的な諦念」の次元に留まっている。
     ある道を行ってもどうせダメなのだとわかったらさっさとあきらめてほかの道へ行くべきだ、そちらの選択のほうが合理的だ、というような話なのです。
     ぼくは、この話に何かとげが刺さったような違和を感じます。
     『イチゴーイチハチ!』でいうなら、野球がダメだとわかった少年はべつの道で成功を目ざせばいい、野球にはもう見込みがないのだから、というような話になるでしょう。
     ですが、ほんとうにそんなふうに簡単に割り切れるものでしょうか。
     割り切るべきなのだ、という思想は正しいかもしれない。けれど、やはり割り切れない思いがある。
     『イチゴーイチハチ!』はそんな「どうしても割り切れない思い」を描いています。
     そして、「その先にあるもの」を描こうとしているように思います。
     為末さんの発想は、ある「競争」で敗者になることを受け入れることによって、べつの「競争」で勝者になろう、というものです。
     しかし、それでは、どんな合理的な手段を選んでもどの道でも勝利できない人間はどうすればいいのか。
     たとえば、不治の病にかかって余命いくばくもなくなってしまったとき、ひとはやはり絶望するしかないのだろうか。
     そうではない、そういうときにこそ「あきらめる力」が必要になってくるのではないか、というのがぼくの考えです。
     「あきらめる力」とは「受け入れる力」であり、自分の意志ではどうしようもない現実を受け入れる強さのことだと思うのです。
     どうにもままならない過酷な運命を受け入れて一歩一歩前進していこうとする意思――それをぼくの言葉で「戦場感覚」と呼びます。
     「あきらめ」と「絶望」は同じものに見えるかもしれない。しかし、ぼくとしてはこういいたいところです。
     絶望的な現実を前にしても絶望しないためにこそ、諦念が必要となるのだ、と。
     「あきらめる力」とは、ただ単に競争における勝利を目ざすための方法論ではない、一切の勝利がありえない状況をも受け入れるそのための力なのではないか、と。
     そして、『イチゴーイチハチ!』はそこから一歩進んで、「あきらめたその先」を描こうとします。ここがほんとうに凄い。
     「いつどんな不条理なことが起こるかわからない現実世界」を「新世界」と呼ぶなら、『イチゴーイチハチ!』はその「新世界の楽しみ方」を描こうとしているように思います。 
  • あなたは岡田斗司夫を「仲間」とみなしますか?

    2015-01-28 06:25  
    50pt


     いま、岡田斗司夫さんの『僕らの新しい道徳』という本を読んでいます。「道徳」をテーマにした対談集で、この本のなかに『週刊少年ジャンプ』が道徳の記事として良いのではないか、という話が出て来ます。

     たとえば、1980年代の『週刊少年ジャンプ』は「友情・努力・勝利」をテーマにしていましたが、この場合の「友情」は、フランス革命でいうところの「友愛(フラタニティ)」に近い。フランス革命はスローガンとして「自由・平等・友愛」を掲げていたけれど、これはあくまで目的を同じくするメンバー間の友愛であり、平等でした。フランス革命は全人類の平等を訴えたのではなく、共同体に属しているメンバーが平等であって互いに助け合おうと訴えたのです。
     道徳には、有効範囲が設定されています。自分が共感できる仲間の範疇でしか道徳は共有できませんし、時代によっても変化します。1980年代の『週刊少年ジャンプ』読者と、2010年代の読者では、道徳観は違って当然。普遍でも不変でもなく、流行がある。だからこその『週刊少年ジャンプ』です。

     この話は非常に面白い。ここでちょっと余談に走ると、個人的に「努力・友情・勝利」というスローガンから「努力」が抜け落ちて「友情」と「勝利」のみが強調されるようになったのがいまの『週刊少年ジャンプ』なのかな、と思っています。
     仮に「努力」が抜け落ちたところに何か言葉を入れるとしたら「個性」とか「工夫」といった表現が入るのではないでしょうか。これはやっぱり「努力すればそのぶん成功するものだ」という幻想が説得力を失った結果なのではないかと思うわけなのですが、まあそれはいい。
     重要なのは、ここで岡田さんが「道徳には有効範囲がある」として『ONE PIECE』を例に挙げていることです。これはすごくよくわかる話です。
     『ONE PIECE』の主人公である海賊少年ルフィは「仲間」を強調し、仲間のためなら命をも惜しまない姿勢を強調します。
     それが読む者の感動を呼ぶわけですが、一方でルフィは「敵」とみなした人間に対しては容赦しません。徹底的に暴力を振るうことでかれの考える正義を実行します。
     「仲間」とみなした人間には最大の共感を、「敵」とみなした人間には最大の攻撃を。これがルフィの道徳だといっていいのではないでしょうか。
     その態度は物語中ではポジティヴに描かれていますが、一面で独善性を伴うことも否定できない側面があり、だからこそ、『ONE PIECE』は超人気作でありながら賛否両論が分かれるところがあります。
     で、ぼくは『ONE PIECE』の話は裏返すと『HUNTERXHUNTER』の話になると思っています。つまり、ルフィの海賊団の話はそのまま幻影旅団のスライドするわけです。
     幻影旅団もルフィ海賊団と同じ道徳観を備えた集団です。仲間には絶対の忠誠を、敵には究極の無慈悲を。しかし、ルフィの海賊団と比べると、「仲間」と「敵」を明確に分けることのネガティヴな側面が強調されているように思います。
     ルフィが、いくらか身勝手ながらも「正義」に拘っているのに対し、幻影旅団は「仲間の利益」だけしか考えない、そんな印象がある。
     しかし、そのルフィにしても、自分にとって不快な人間の権益を代弁しようとは考えないでしょう。この世の何よりも「仲間」が大切。「仲間」の敵は自分の敵。ルフィはそう考えているように思えます。
     いずれにしろ、「道徳には、有効範囲が設定されてい」る以上、どこかで「仲間」と「それ以外」を区切らなければならない。
     そうなると、当然、それではどこまでを「自分が共感できる仲間の範疇」とみなすかという問題が出て来ます。つまり、どこまでを道徳的に共感できるフラタニティの友と考えるかということ。
     『HUNTERXHUNTER』の作中では、この問いは人間ですらないキメラアントをも「仲間」とみなすか否か、という形できわめて先鋭的に展開することになりますが、ここではもっと現実的な問いを考えてみましょう。
     つまり――「あなたは岡田斗司夫を「仲間」とみなしますか?」と。ぼくがいままでずっと書いて来たことは、あなたにこの問いに答えてもらうためなのです。
     これまで縷々と述べてきたように、岡田斗司夫という人はかなり個性的な人物です。最近は「いいひと戦略」に則ってなのかどうなのか、わりと社会道徳に適合するよう振る舞っているように見えますが、本質的にはあまり道徳を尊重しているようには思えません。
     というか、ぼくは岡田さんは内心では型通りの道徳なんて深く軽蔑しているに違いないと信じているんですけれど、まあ、まず「いいひと」とはいいがたいでしょう。
     そしてまた今回あきらかになったことは、岡田斗司夫という人は女性を人間として尊重せず、ほぼモノ扱いするタイプの人物だということです。
     何人愛人を作ろうと本人の自由ではありますが、それにしても相当共感しづらいパーソナリティというべきでしょう。
     しかし、相当に豊かな才能を持っていることはたしかで、その能力は社会的に有用だといえそうです。
     何といっても、岡田斗司夫がいなければGAINAXもなかったかもしれず、『トップをねらえ!』とか『ふしぎの海のナディア』といった作品もなかったかもしれないわけです。その能力は一定の評価に値します(もっとも、仮に『トップ』や『ナディア』がなかったとしても、ほかの作品が生まれただろうことは間違いありませんが)。
     さて、あなたはそんな岡田斗司夫に共感できますか? 岡田斗司夫を「仲間」だとみなすことができますか? ご一考ください。
     結論から書いてしまうと、「ぼくはできます」。岡田斗司夫さんのような人物もまた、同じ共同体の「仲間」として権利を与えられてしかるべきだと考えます。
    (ここまで2375文字/ここから3099文字) 
  • 努力も、成長も、誠意も、愛情も通用しない世界とは何か。

    2014-06-26 22:24  
    50pt
     最近やる気がないなあ、やたら眠たいなあ、と思ったらどうやら病気だったことがわかって愕然。そりゃまあそうだよな。1日の半分以上平気で寝ているんだから。
     いままで気づかなかったことがおかしいようなものですが、なまじ昼間寝ていてもだれにも文句をいわない環境にいたのでわからなかったのです。
     いや、鼻炎がひどいとは思っていて薬ももらっていたのだけれど、それが睡眠を阻害しているところまでは思い至らなかった。とりあえず新たにお薬をもらって来て呼吸がスッキリしたので、気分よくこの文章を書いています。
     いやー、今月は書かなかったですねえ。ひどいものです。これで会員が減るどころか増えているんだからありがたいというか。さすがにいいかげん書かなければならないと思います。書こう、書こう。
     さて、今月のトピックといえば、やはりワールドカップと『HUNTERXHUNTER』再開でしょうかねー。いやー、とても面白かったです、どちらも。
     ワールドカップの日本代表戦の三試合はすべて観たのですが、まあ、圧倒的な世界との格差を見せつけられた形の結末で、非常に残酷な展開と云えるでしょう。
     でも、これこそが「現実」なんですよね。現実は物語のように都合よく動かない。どんな真摯な努力も、ひたむきな想いも、扉を開けるとは限らない。
     こういう非情な事態に遭遇した時、多くのひとは「何が足りなかったのか?」と考えます。しかし、さらに残酷なことに、ひょっとしたら足りないものなんて何もなかったのかもしれないんですよね。
     日本代表は、あるいはほんとうに最善を尽くしたのかもしれない。それでも、届かないということがありえる。それが「現実」。
     現実はクソゲーだ、とは『神のみぞ知るセカイ』の桂木桂馬の口ぐせですが、今回の試合を観てまさに現実の不条理さを思い知ったひとも多かったのではないでしょうか。
     物語ならば、努力と成長の末にはそれなりの勝利が待っているもの。どんなにきびしくても、ただ悲惨なだけの展開で終わる物語はめったにありませんし、あってもウケません。
     しかし、現実はそういうふうにはできていません。シャレにならないくらい過酷で、ありえないほど残酷、「あってはならないこと」があたりまえのように起こることが現実なんですよね。
     この現実世界ではほんとうはいかなる人間的な「正しさ」も通用しません。そこはもとより人間中心に作られた世界ではないからです。
     「努力は報われるべきだ」とか「まごころは通じなければならない」といったことは、ある意味では「正しい」と思いますが、じっさいにはいつもそういうふうに行くわけではありません。現実はどこまでも非情なのです。
     さて、ここで『HUNTERXHUNTER』の話に繋がるのですが、 
  • 必要なのは「成長」ではなく「変化」。天才ゲーマーに学ぶ新しい時代の新しい価値観。(3067文字)

    2013-04-13 14:33  
    52pt




     先ほどまでペトロニウスさん(@Gaius_Petronius)とTwitterで話をしていたのだけれど(ぼくたちは時々、Twitterをチャットのように使って会話するのです)、その内容が非常におもしろかったので、忘れないうちにまとめておく。
     それは「成長」という言葉にまつわる話から始まる。ペトロニウスさんは最近、アルファブロガーのちきりんさんの影響で梅原大吾の『勝ち続ける意志力』を読み返しているらしいのだが、そこに「成長」という概念では括りきれない価値観を発見したのだという。
     「成長」という言葉には自然、進歩を意味しているところがある。そこにはどうしても「リア充」や「カースト上位」を目指して階段を登っていくようなイメージが付きまとう。しかし、梅原は「成長」というよりも「変化しつづけること」に価値を置いているように見えるというのだ。
     じっさいには「成長」という言葉を使っているのだが、よく読んでいくと、それが意味するものが「不断に変わりつづけること」であることがわかる。
     梅原はいうまでもなくゲーマーピラミッドの頂点に立つ有名人だ。しかし、じっさいにはかれの目的は「ゲーマーとして頂点を究めること」にはないと思う。
     あるいは一時期はそこに目的を置いていたかもしれないが、十代前半にして世界の頂上に到達してしまったこの麒麟児にとって、それはすでに最終的な目標ではないのではないか。梅原の目的はもっと高いところにある。そしてそのためにかれが選んだ方法論が「どこまでも変わりつづけること」なのである。
     かれはいう。

     築き上げたものに固執する人は結局、自分を成長させるということに対する優先順位が低いのだと思う。新しいことに挑戦する意欲も薄ければ、何かを生み出す創造性も逞しくないのだろう。
     それではいつまでもトップランナーを超えられない。

     今日の記事でふれた最近の『ファイブスター物語』の展開などを見ていると色々考えさせられる意見だが、それはともかく、これだけを読んでいると「トップランナーより上位のランキングを手に入れるために築き上げたものに固執するな」といっているように読めてしまう。
     しかし、ぼくは梅原がいわんとしているのはそういうことではないように思う。この本を読んでいると、梅原が決して「どのような手段を使おうと、勝ちさえすればそれでいい」などとは考えていないことがわかる。
     ただ単にランキングを上げるためだけなら、一度手に入れたものに固執してもかまわないはずだ。むしろ常に安全を確保しておくほうがまともなやり方だろう。梅原が「変化せよ」というのは、かれがほんとうに求めているものがそういうはっきりした形あるものではないことを表しているのではないか。
     「成長」という言葉を使ってはいるが、それが意味するものは自分自身の内面の充実であって、決して他者との比較において上位を目ざすということではないと思うのである。
     かれはペトロニウスさんがいうところの「ランキングトーナメント序列主義」にこだわっていない。かれが「成長」というとき、それが意味するものは「勝てばそれでいい」という価値観とはむしろ真逆の、美学とも哲学ともいうべき価値観なのである。
     そして、この価値観はいまの時代、しだいに浸透しつつあるのではないか。むろん、梅原ほど端的に表現することは凡人にはむずかしいにしろ。
     余談ではあるが、それはたとえば漫画の世界でも『HUNTER×HUNTER』のように多様な価値観を描き出す作品が出てきていることでもわかる。そこには「トーナメントで優勝すること」が最大の価値だというような価値観はすでに存在しない。その価値観が失効したところからこの作品はスタートしているのだ。
     それは作者が前々作『幽☆遊☆白書』で、「ランキングトーナメント序列主義」的な価値観の限界を見通したからこそたどり着けた境地だろう。冨樫義博は、おそらくはその天才的な感性でもって「すでにゲームのルールは変わった」ということを察知したのだと思う。余談終わり。
     さて、梅原のように「成長」を志しても、かれの言葉通りに常に変化しつづけることは普通はなかなかできない。なぜなら、変化することは恐ろしいからだ。それはいま持っているということを失うということかもしれないのだから、恐怖であってあたりまえだろう。
     だからひとは「永遠の愛」だとか「変わらない友情」といった不変のものに価値を見出し、それだけが本物であるかのように考える。そして「ずっといっしょにいられる恋人」だの「決して裏切らないほんとうの友達」といったものを探しつづけるのだ。
     
  • 『HUNTER×HUNTER』のゴンはなぜ病んだか。レバレッジで成長する代償は深刻。(2233文字)

    2012-12-20 03:28  
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    人生の各段階でやるべきことをやっておかないと後で辛くなるよー、という、あたりまえといえばあたりまえの話です。でも、ぼくはそのあたりまえのことが最近になるまでわからず、試練から逃げまくっていました。おかげで人生は大変なことになってしまいましたが、それもいまはいい思い出、でもないか。とにかく苦労はするべきときにしておいたほうがいいです。はい。
  • 復讐の甘く苦い味。『HUNTER×HUNTER』が描く世界の残酷な真実を見る。(2688文字)

    2012-12-10 13:40  
    52pt
    『HUNTER×HUNTER』の番外編「クラピカ追憶編」の感想にかこつけて「人間の本質」について語っています。ちなみにここで引用しているペトロニウスさんの記事は、ぼくがペトロニウスさんと知りあうきっかけとなったものです。もう6年半も前のことになるんですね。時が経つのは早いなあ。光陰矢のごとし。いや、そのあいだに色々色々あったような気もしますが。