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  • オリジナリティ・イズ・デッド。オタク第一世代による現代ファンタジー批判を考察する。

    2016-04-06 23:11  
    51pt

     ども。
     人気声優さんが出演しているという噂のアダルトビデオを見たものかどうか迷っている海燕です。
     いや、ぼく、声優さんについてはくわしくないから見てもしかたないのだけれど、下種な好奇心がうずくんですよねえ。
     さて、それとはまったく無関係ながら、きょうもウェブ小説の話です。
     いままでの内容をまとめた上で、ネットにおける混乱した言説を解きほぐす「交通整理」を試みてみようかと思います。
     キーワードは「オリジナル幻想」。
     ちょっと長いですが、最後まで読んでいただければありがたいです。
     まず、ウェブ小説や「現代日本の異世界ファンタジーの多く」を巡る、山本弘さんや野尻抱介さんの発言を振り返ってみるところから始めましょう。
     山本さんはこんなことを語っていたのでした。

     どうも現代日本の異世界ファンタジーの多くは(もちろん例外もあるが)、「異世界」じゃなく、「なじみの世界」を描いてるんじゃないかという気がする。 
     じゃがいもなどの、この世界に普通にあるものや、エルフやゴブリンやドラゴンなど、ファンタジーRPGでおなじみの要素ばかり使っている。それを読んだ読者も「異世界とはこういうものだ」という固定観念に縛られている。 
     「異世界」と呼んでいるが、実は読者が知っている要素だけで構成されている。 
     想像力や創造力という点で、100年前のバローズより後退してるんじゃないだろうか。 
     もう少しだけ異世界を異世界っぽく描いてもばちは当たらないと思うんだが。

     一方、野尻さんはこんなことを述べています。

     トラック転生して異世界という名の想像力のかけらもないゲーム世界に行って、なんの苦労もせず女の子がいっしょにいてくれるアニメを見たけど、コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ。少しは向上心持とうよ。
     バローズが描く異世界は、少なくとも刊行当時はオリジナリティがあって、読者が知らないものを描出していた。それを読み取るだけでも素晴らしい読書体験になる。「はいはい、みなさんご存知のゲーム風異世界ですよ」とばかりに差し出すものとはちがう。

     これらは、両方ともいわゆるオタク第一世代のクリエイターによる、より下の世代の創作活動に対する批判だといっていいと思います。
     内容にも共通項が多く、いまのファンタジー(と呼ばれている小説やアニメ)は「想像力」が足りないというものです。
     そしてここでターゲットにされているファンタジーとは、一部のライトノベルや、「小説家になろう」などで発表されているウェブ小説のことだといっていいでしょう。
     これらの言説が面白いのは、山本さんにしろ野尻さんにしろ、自己否定に繋がってしまっている一面があることです。
     山本さんも野尻さんもかつては何作ものライトノベルを書いてきた作家なのだから、自分の作品もそういう「想像力を欠いた」側面がある。
     したがって、後発の作品を批判することは、天に唾するたぐいの発言といえなくもないわけです。
     それにもかかわらず、なぜかれらは後発の作品を熱く批判するのでしょうか。
     それは当然、自分の作品と後発の作品に何らかの差異を見出しているからでしょう。
     山本さんや野尻さんの発言を丹念に見ていくと、「たしかに自分の作品にも想像力に欠ける一面はあるが、それでも最近のファンタジーとは違う」という想いが透けて見えるような気がします。
     それでは、その「違い」とは何か。
     それは「だれも見たことがない異世界を想像し創造しようとする努力や工夫」だと思われます。
     つまり、山本さんも野尻さんも後発のファンタジーの「オリジナリティのなさ」を批判するとともに、そもそもオリジナルな異世界を作り出そうと努力しようとしない姿勢を非難しているのでしょう。
     なぜなら、かれら自身は多々ある制約のなかでも、少しでもオリジナルな世界を作り出そうと努力してきたという自負があるから、後発作家の「手抜き」が腹立たしく思えるのだと見ています。
     これを「老害」といって即座に却下してしまうこともできますが、ぼくはそういう不毛な年齢差別を好みません。
     むしろ、山本さんや野尻さんの意見には一理あると受け止めます。というか、無理もない話だと思うのですよ。
     かれらの目から何万ものゲーム風異世界を舞台にした冒険劇を見ていたら、どうしたってそれは「手抜き」に見えるでしょう。
     これに対して、「ゲーム風のキャラが出てこない作品もある」といってみてところで、山本さんたちが求めているのは「見たことがあるものが出てこない」世界ではなく「見たこともない何かが出て来る」世界を希望しているわけですから無意味です。
     しかし、だれも見たことがない世界? そんなものがほんとうにありえるでしょうか。
     実はここがこの話のポイントだと思うのです。
     山本さんはバローズを引いて、こんなことをいっていました。

     馬に相当する生物を、「ソート」と呼んでも、作中では何の支障もない。 
     だったら、じゃがいもに似た作物だって、たとえば「ボルート」とかいう名前で呼んでもいいんじゃないだろうか? 
     けっこう安直に異世界感が出ると思うんだが、なぜみんなそうしない? 

     ここで、山本さんはあきらかにじゃがいも(に似た作物)を「ボルート」と呼ぶ工夫に意味があると考えているわけです。
     つまり、そういう工夫をすればそうしないよりもより想像力を発揮したことになるという思いがある。
     しかし、そう、どうやら山本さんが考える斬新な異世界とは、よく使われる固有名詞の代わりにオリジナルの名詞を使うといったレベルのことに過ぎないらしいのですね。
     いや、あるいはもう少し突飛な、たとえばあたりまえの馬のかわりに八本足の生物が出て来るとか、距離や単位が地球のものとはまったく違うとか、そういうレベルのことでもあるかもしれませんが、とにかく山本さんや野尻さんは、そのレベルで工夫されているに過ぎないバローズの世界を「そんな問題は100年も前にエドガー・ライス・バローズが通り過ぎている」とか、「少なくとも刊行当時はオリジナリティがあって、読者が知らないものを描出していた」などと評価しているのです。
     ぼくはバローズの小説を読んだことがないので、それがじっさいに「オリジナリティがあ」る作品なのかどうか判断することができません。
     しかし、少なくとも山本さんが書くレベルの工夫のことは、特にオリジナルだとは思いません。
     現代のファンタジー作家がバローズに倣おうとしないのは、そのやり方がむずかしすぎて真似できないからではなく、そういうことになんの意味も見出していないからだと思われます。
     だって、じゃがいも(に似た作物)を「ボルート」と呼んだところで、それはしょせんじゃがいも(に似た作物)でしかないではありませんか。
     その程度のことが「オリジナル」と呼ぶに値するとは、ぼくはまったく考えない。
     それでは、真の「オリジナル」とはどんなものなのか?
     ぼくは究極的には「真のオリジナル」と呼んでいい作品など、この世に存在しないと考えます。
     もちろん、相対的に独創的な表現を駆使している作品はあるでしょう。
     が、そういった作品もどこかでほかの作品から影響を受け、あるいは自然世界のなんらかの現象を模倣しているのであって、純粋なオリジナルとはいえない。
     人間には純粋なオリジナルの表現は不可能なのだと考えるべきです。
     その意味で、この世のすべての表現は「二次創作」でしかないとはいえる。
     しかし、世の中には自分が作ったものは自分だけの表現であって、まさにオリジナルといえるものなのだ、と信じる人々がいます。
     その幻想をここでは「オリジナル幻想」と呼びましょう。
     ぼくがこの話で思い出すのは、竹熊健太郎さんと大泉実成さんの対談です。その対談のなかで、竹熊さんはこんなことを書いています。

    竹熊 例えば僕の世代から宮崎さんの作品を見ると、やっぱりパワーが桁違いに凄いんですよ。でも、オリジナリティーがないんだよね。つまり僕の世代が批評家的に見ると、宮崎さんの元ネタが分かっちゃう。僕らが創作をやろうとすると、元ネタを露骨に示して、パロディになってしまうわけですよ。ところが宮崎さんは、元ネタがあるにしても、それを自分の「オリジナルと信じて」出せるわけ。そこが下の世代である僕にしても庵野さんにしても、できないところです。心底、これは俺のオリジナルだと信じて、世の中に提示することができないんです。
    大泉 庵野秀明の場合はエヴァの時に、その時の自分の状態を「ドキュメンタリー」にして、作品化しなければならなかった。少なくとも自分はオリジナルだから。
    竹熊 それをやるしかなかった、彼の場合はね。基本的にクリエイティブって全部パクリですからね。元ネタがないクリエイティブはありえませんから。作者が天から降ってきた霊感だと感じられるものでも、それは過去の人生で触れてきた多くの作品や、知識や、出来事が元ネタにあるわけですよね。それを「パクリ」と自覚するか、それも天から降ってきた霊感のように信じられるかどうかが、「本物のクリエイター」とパロディ世代の分かれ目だと思うんですよ。
     手塚(治虫)にしてもなんにしても、彼らは霊感を信じている。創作することに対する疑いがない。そこは世代の差としか言い様がありませんね。だから、僕もオタク第一世代とか新人類とか言われましたけども、そう言われる僕たちは批評家にはなれるにしても、創作家にはなれないですね。なったとしてもエクスキューズのある創作(パロディ)しかできない。80年代からこのかた、ずっとそうだったんじゃないですかね。僕の場合は、それが『サルまん』だったわけですけども。
    http://web.soshisha.com/archives/otaku/2006_1123.php

     つまり、オリジナル幻想には世代的な差があるということですね。
     宮崎駿とか手塚治虫の世代、プレオタク世代とでも呼んだらいいでしょうか、その頃のクリエイターたちは自分の作品を「天から降ってきた霊感だと感じ」て創作していた、しかし、それより下の作品はそこまで無邪気に自分の作品のオリジナリティを信じることができない、という話です。
     もちろん、宮崎駿とか手塚治虫の世代が純粋にオリジナルな作品を生み出せていたのかというと、違う。
     やはりかれらの作品にも「元ネタ」はある。その意味で、宮崎駿といえど、手塚治虫といえど、パロディ的、オマージュ的に創作しているわけです。
     しかし、この世代のクリエイターたちがのちの「パロディ世代」のクリエイターと決定的に違うのは、そのしょせんパロディでしかありえない作品を、ほんとうに自分のオリジナルだと信じていることです。
     それはしょせん錯覚であり、幻想であるかもしれませんが、下の世代のクリエイター、たとえば庵野秀明にとっては、その錯覚すら不可能なことなのです。
     だから、庵野さんたちの世代は「パロディ」とか「オマージュ」といった作法にこだわる。
     先行する無数の作品から引用をくり返し、「あえてやっている」自分を演出する。
     それしかできないのです。
     いいえ、最終的には庵野さんはその境地にも飽き足らず、その「パロディ」を乗り越えて「自分自身という最後のオリジナリティ」を表現するためにある種の「ドキュメンタリー」として『新世紀エヴァンゲリオン』を生み出したわけですが、それは血反吐を吐くような作業だったことでしょう。
     ちなみに、これらの経緯に関しては『パラノ・エヴァンゲリオン』、『スキゾ・エヴァンゲリオン』という二冊の対談集にくわしいです。
     最近、電子書籍化されたそうなので、興味がおありの方はぜひどうぞ。
     さてさて、世代的には山本さんも野尻さんも庵野さんと同じく「オタク第一世代」に属しているものと思われます。いま50代くらいの人たちですね。
     この世代は、たしかに上の世代ほど無邪気にオリジナル幻想を信じてはいないはずです。
     何しろ、山本さんにしても、野尻さんにしても、たとえばJ・R・R・トールキンやアーサー・C・クラークの先行作品を参照しながら作品を作って来たのですから(『ふわふわの泉』なんて、タイトルといい、アイディアといい、『楽園の泉』のパロディですよね)。
     よほど鈍感でない限り、その自覚があるはずです。ぼくはまさか自覚がないとは思わない、きっとそれはあることでしょう。
     ただ、おそらくかれらは、それでも自分たちの作品は先行作品のデッドコピーではない、と信じている。そこにプライドを抱いている。
     だからこそ、より下の世代の作品の、先行作品のデッドコピーに徹したとも見える「オリジナリティの欠如」が気になるのだと思うのです。
     ようするにかれらから見ると、自分たちが努力し、工夫したポイントで手を抜いているように感じられると思うのですね。
     かれらにしてみれば、その点こそが「単なるパクリ」と「面白いオマージュ」を分かつ聖なるポイントなのであって、そこを省くとは何事か、という想いがあるのだと思う。
     ですが、これはじっさいには手を抜いているというより、その手の工夫に価値を見出していないと見るほうがより正確だと思われます。
     そう、オリジナル幻想を無邪気に信じられたプレオタク世代、そこに疑念を感じながらもなんらかの工夫を凝らして少しでもオリジナルな表現を工夫した「パロディ世代」であるオタク第一世代と来て、それ以降の世代はもはや自分たちの表現の「オリジナリティのなさ」に悩みすらしなくなっているのです。
     ちなみに、オタク第一世代による「お前たちはオリジナリティがなくてけしからん!」という批判に対し、反発し、反論するのはオタク第二、第三世代くらいまでではないかと思ったりします。
     第四世代となると、もはや第一世代の人たちが何をいっているのかピンと来ないから腹も立たないのではないでしょうか。
     いい換えるなら、この世代においてはオリジナル幻想は蘇りようもないほど完全に死んでいるということです。
     オタク第二世代はまだしも、第三・第四世代はもはや「パロディ世代」ですらありません。
     その証拠に、山本さんたちが批判する最近のファンタジーは、もはや「元ネタ」を明確に引用することがありません。
     ただ、あきらかにオリジナルではありえないことが見え透いた「どこかで見たようなファンタジー」を平然と展開する。
     オリジナリティ・イズ・デッド。
     ですが、だからといって山本さんなり、野尻さんの批判が端的に間違えているということではないと思うのです。
     むしろ、かれらの批判は、かれらの価値観では正鵠を射ている。
     しかし、問題なのは、その価値観そのものが古びて過去のものになってしまっているということです。
     もはや、最先端のファンタジーではその表現の前提となっている「パクリ」は問題視されていない。というか、ほとんど意識すらされていない。
     だからこそ、「どこかで見たようなファンタジー」が氾濫することになっているわけです。
     ただ、ここでひとつ浮かぶ疑問があります。
     オリジナリティがないのは当然として、オリジナルに見せかける工夫すらしなくなった作品のどこが面白いのか?
     いったい読者は何を求めて「現代日本のファンタジーの多く」を読んでいるのか?
     その答えは、奇しくも山本さんが否定的な文脈で使っている「なじみの世界」という言葉にあると思われます。
     そう、「小説家になろう」などの読者はまさに「なじみの世界」を求めてファンタジーを読んでいるのだと思うのです。
     これは考えてみると奇妙なことです。
     異世界ファンタジーとは、「異」世界のファンタジーなのであって、どこかに異質なところ、見なれないところがあることが自然なわけですから。
     しかし、日本でファンタジーというジャンルが勃興してはや30年余り、小説と漫画とアニメと、なによりゲームを通してファンタジーの表現はあまりに拡散し、陳腐化しました。
     もはやファンタジーといえば、だれでもエルフとゴブリンとドラゴンといった世界を連想します。
     ゲーム的なファンタジー世界は「なじみの世界」となったのです。
     そう、読者が心からの安心感を持って旅に出かけることができるほどに。
     もちろん、その世界には退屈な日常を覚醒させるようなセンス・オブ・ワンダー、「発見の喜び」はありません。
     読者なり視聴者は、その世界に出かけて、なんとなくだらだらと状況を楽しむのです。
     いや、たしかになかには破格に娯楽性の高い作品もあるでしょう。
     ですが、たとえば「小説家になろう」で大量に生産されているファンタジーのほとんどは、そこまで独創的な仕事とはいえないと思います。
     そんなものが面白いのか。
     面白いのです。
     もっとも、それは既存のエンターテインメントの面白さとはまた一脈違うものであるかもしれません。
     既存のエンターテインメントが、SFであれ、ファンタジーであれ、灰色の日常を輝かせるセンス・オブ・ワンダーを追求していたとするなら、最近のファンタジーなりウェブ小説が提供するものは、「だらだらした日常の安心感」とでもいうべきものです。
     見なれたなじみの世界へ行って、ちょっとした冒険を楽しむ。いわゆる「なろう小説」は多くがそういうものでしょう。
     それを堕落と捉えることはたやすいでしょうが、無意味なことです。
     旧世代とはエンターテインメントが持つ意味が決定的に変わってしまっているのですから。
     何が変わったのか。
     簡単にいうなら、いま、エンターテインメントは日常化したのです。
     かつて、エンターテインメントを楽しむということは、日常のなかに非日常的なひと時を約束するものだったでしょう。
     また、そういう体験をもたらす作品こそが傑作とみなされていたと思います。
     ですが、いまやエンターテインメントを消費することは、少なくともアニメを見たり、漫画を読んだり、ウェブ小説に耽ったりすることは、日常の一部に組み込まれた営為なのです。
     ぼくはそう思っている。
     それでは、なぜ、エンターテインメントは日常化したのか。
     それは、まずエンターテインメントの絶対量が大きく増えたということ、そして高速で定期的にエンターテインメントを提供するインターネットというメディアが普及したことが原因だと思われます。
     毎週放送されるアニメを見る。同じく毎週刊行される漫画雑誌を読む。そして、毎日更新されるウェブ小説を読む。
     これらは容易に「習慣」となり、日常の一部を構成します。
     そしてまた、膨大な量が提供されることによって、消費者は自然と「いくらがんばっても全部を消費しようがない」状況に置かれ、フィクションを消費する体験は特別性を失ったと思うのです。
     これは、音楽配信サービスの普及によって、音楽体験が特別さを失ったことと近いでしょう。
     とはいえ、ほんとうに素晴らしい傑作なら、いまでもぼくたちは「心で正座」して読むわけですが、「なろう小説」の大半はそういう性質のものではない。
     野尻さんなどがいうように、それらは、いってしまえば凡庸な、オリジナリティに欠ける仕事です。
     しかし、いい換えるなら、その魅力はその没個性さにあるともいえるのです。
     だから、「小説家になろう」で見られるいくつかの例外的に面白い作品を例に取って、こういう作品があるから「なろう」は素晴らしいと語ることはあたっていない。
     やはりなんといっても全体の99%を占める「凡作」の山こそが「なろう」の魅力なのです。
     いま、「凡作」と書きました。
     けれど、これは旧来的な価値観に則れば凡庸な作品といえるということであって、「なろう」を読む読者にとって無価値な作品ということではない。
     なんといっても「なろう」という「場」は、そういう作品によってこそ維持されているのですから。
     そもそも、SFであれ、ミステリであれ、ホラーであれ、ファンタジーであれ、ジャンルフィクションというものは、ある意味では凡人のためにあるわけです。
     天才はジャンルなんてなくても自分で独創的な世界を切り開いていきますから。
     もちろん、見方を変えればそれすらも純粋なオリジナルとはいえないわけだけれど、少なくとも独創的であろうとする「志」は高いとはいえる。
     ジャンルフィクションはそういう「志」を持たない作家に、ロケットや、宇宙人や、密室や、吸血鬼や、エルフを提供する。
     これらの素材を使いこなせば、比較的凡庸な作家でもちゃんといい作品を作れるというわけです。
     「なろう」はジャンルフィクションが持つそういう特性を極限まで特化した「場」であるといえます。
     個々の作品ではなく、その「場」そのものを楽しむという読者は多いことでしょう。
     そういう読者は「なろう」という「場」に日常的に出入りして、そこからお気に入りの作品を探し出しては耽溺します。
     はっきりいってそれらは旧来の価値観から見れば他愛ない作品であるかもしれません。
     ですが、エンターテインメントが日常化したいま、それらの作品を日常の一部として味わうことには意味があるのです。
     もちろん、何万という作家のなかには、特別に才能がある人も混じってはいることでしょう。
     そもそもジャンルフィクションには、時々、「お前はこの仲間じゃないだろう」といいたくなるような、特別な存在感を持つ作家が混じって来たりするものなのです。
     ぼくはそういう作家たちを、大森望さんの言葉から採って「魔法の名前」と呼んだりしています。
     まあ、SFでいうスタージョンとかティプトリー、コードウェイナー・スミスあたりのことですね。
     ミステリにおいては麻耶雄嵩、ジャンプ漫画においては諸星大二郎、エロゲにおいては瀬戸口廉也なんて作家が、その「特別なる1%」にあたるとぼくは考えます。
     「小説家になろう」にここまで特異な存在がいるかどうかは知らないけれど、近い存在を挙げるとしたら『魔法科高校の劣等生』の佐島勤さんあたりでしょうか。
     『Re:ゼロから始まる異世界生活』だとか、『本好きの下克上』あたりもかなり異端の雰囲気を放っていますね。
     ただ、そういう異端の作家をジャンルや「場」の代表として語ることは違うかな、という気がします。
     異端の傑作は、ある意味で語りやすい。いってしまえば、『孔子暗黒伝』のほうが『ダイの大冒険』より遥かに語りやすいわけです。
     ですが、それらだけを特別視することはただ語りやすい作品だけを語るという罠に陥ることでもある。
     だから、特にぼくなどは「凡庸な」「オリジナリティのない」作品をどう評価し、どう語るかという問題を真剣に考えなければならないと考えています。
     旧来的な価値で見れば凡庸な作品にも、少なくとも日常の一部として人生をより豊かにするというバリューがあることは、先述した通り、あきらかなのですから。
     もちろん、