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人間の正しい生き方とは何か。
2016-04-18 13:1051pt
夜中にLINEで話していて出た話をしようと思います。
ひとにとって正しい生き方とはどんなものか、ということ。
まあ、ぼくは長年ひきこもりやっているような男なので大上段にかまえて人生を語る資格はまったくないわけですが、それでも思うことがあります。
それは、ひとの正しい生き方とは、しだいに自分が解放されて自由になっていくような生き方を指すのだということ。
もしだんだん不自由になっていくとしたら、それはどこかで間違えているのです。
つまり、生きつづけることでより幸せになっていくようなスタイルが正しいのだと思う。
人生が進めば進むほどに不幸に不自由になっていく生き方は、どこかに問題がある。
もちろん、人生はそううまくいくとは限りません。生きていれば色々なアクシデントがありえるでしょう。
しかし、少なくとも精神的にはゆっくり楽になっていくことが望ましい。
生きつづければ生きつづけるほどにしんどくなっていくのだとすれば、何か問題を抱えていると考えるべきです。
その生き方をひとことで「成長」と呼んでもかまいませんが、必ずしも能力が向上し人格が陶冶される、といったことを指しているわけではありません。
ダメなままでもいいのです。
ただ、自分を縛る色々なものから解き放たれていくことが大切だと思う。歳を取れば取るほど縛られていくようでは困る。
正しく生きていれば、ひとはゆっくり解放されるものです。
これは『3月のライオン』あたりを読んでいると強く思うことですね。
この物語の主人公である桐山零は、ほぼ最悪の状況で登場し、しだいに幸福と自由を手に入れていきます。
かれはまさに正しい生き方をしていると思うのですよ。
それは「光の差すほうへ向かう」生き方。
かれの場合、物語が始まった当初では幸せにたどり着く道筋はまったく見えなかったわけですが、それでもひたすらあがくことによって前へ進んでいく。
これが「正しい努力」というものです。
いま光のなかにあるか闇のなかに留まっているかということではなく、光の差すほうへ向かっていることが大切なのだということ。
正しい努力をくり返して生きていけば、人生はだんだん楽になって来るはず。
ひとは外的環境をコントロールできませんから、何かひどいアクシデントが起こって状況が過酷になるということはありえます。
しかし、 -
お誕生日おめでとう。
2015-07-30 02:2251ptきょう、7月30日はぼくの37歳の誕生日である。
37歳――ほとんど信じられないような歳だ。
35歳になったときも憂鬱だった気がするが、37歳となると、これはもう、逃げ場がない。
ぼくはもはやいかなる意味でも若者ではない。ただの中年男性である。
ほんとうに歳を取ったものだ、と思う。何か哀しいような気持ちがする。
そんな日に、ぼくはまた自分の二面性について考えてみた。
前の記事では、ぼくの人格は本来のものから歪んでいるのではないか、と書いた。
これはだれしもそうであるかもしれない。
生まれた時の自分そのままで生きているという人など、めったにいるものではないだろう。
ひとの人格は世間に揉まれ、社会に揺らいでしだいしだいに変わっていき、みずみずしさと柔らかさを失って硬直していく。
筋肉が凝るように、心もまた凝る。硬くなってより柔軟に変化しづらくなっていく。
それが「老い」ということだ。
10歳の頃にはもうすでに老いは始まっている。とすれば、37歳のぼくなど、老人もいいところだろう。
しかし、これはぼくだけではないだろうが、ふしぎと、子供の頃から変わっていない部分も残っているように思える。
ぼくのなかのある部分だけは、子供の頃の自然な柔らかさのまま、保存されているような気がするのだ。
その「本来の自分(先天的な自分)」と「大人の自分(後天的な自分)」が矛盾しあい、対立しあい、それでも混ざり合うことなく、一定の純度を保って独立しているのがぼくという人間なのではないか、と思ったりする。
ぼくはじっさい、37歳になったいまでも、部分的には子供のままなだ。そのほかの部分はすっかり老いて硬直してしまっていることもたしかだが……。
ひとは一般に加齢によってさまざまな邪念を身につけて硬直し、変化を恐れるようになる。
さまざまな「常識」という名の固定観念によって硬く、硬く変わっていくのだ。
ぼくは可能な限り柔らかくありたいと思う。
そのためには「心のストレッチ」をして、先入観や固定観念で硬くなった心をほぐしていく作業が必要になるのだろう。
ぼくの場合、本を読んでいる時は童心に帰る。
おそらく、本を読んでいるときが「本来の自分」に最も近いのではないかと思う。
その自分が「基準」になるわけだ。
一方、感情的に昂って小さなプライドを守ろうとする自分はあきらかに後天的に身につけたものだ。
心を柔らかく保ちたいなら、自分のなかの「怒り」や「憎しみ」と向き合わなければならないということ。
生まれたときの裸の自分は、怒ることはあっても根に持ちはしなかったはず。それが、いつまでもひとつのことで延々と怒っているのなら、心のどこかが凝っている証拠だ。
その凝りはどうにかしてほぐさなければならない。
おそらく、自分なりの「正義」を重んじ、それが叶わないとなると烈火のように怒るぼくは、思春期のあたりで生まれた人格だと思う。
本来のぼくは、もっと自然体で、力が抜けているような気がするのだ。
その人格が「基準」となる自分で、時々、マグマのように噴出する感情は、いずれも「心の凝り」から来ているものだと思っている。
この「凝り」をどうほぐしたものか……。
どこまでも柔らかく自然で変化を怖れない心を取り戻したい。 -
幸せとは人間関係である。本物の関係を通じて幸福と充実を手に入れよう。
2015-07-18 03:0151pt
Amazonインスタント・ビデオで映画『happy しあわせを探すあなたへ』を見ました。
いまさらではありますが、すっかりレンタルビデオに頼らなくても自宅で動画を見れる時代になりましたね。便利、便利。
『happy』は「幸せ」について探求したドキュメンタリー映画です。
この作品のなかにはさまざまな「幸せのかたち」が登場し、「いったい幸せってなんだろう?」という根源的な疑問に答えてくれます。
このブログを継続的に読まれている方なら、ぼくが最近、幸せについて続けて本を読んでいっていることはご存知でしょう。
その理由は簡単で、自分自身が幸せになりたいから。
しかし、現実に幸せに生きることはそう容易ではありません。
ぼくはいま、幸せと不幸せの境界くらいのところにいて、どちらにも行ける状況にあると思います。
これから幸せのほうに行きたいのですが、そのためにはどうすればいいか? そのヒントをこの映画のなかに見いだしたいと思っていました。
この映画は同様の疑問を抱いたらしい映画監督によって企画され、数年の歳月をかけて撮影されました。
心理学や脳医学の世界的権威たちの協力を得、さまざまな国や立場の人々のなかに幸福を探っていきます。
映画はまずインドの貧しい車夫を描くところから始まります。
驚かされるのは、現代社会を生きるぼくたちから見るときわめて貧しいように見えるかれが、それでも「自分は幸せだ」と胸をはって答えていること。
いままでこのブログでは幾度もくり返し述べてきたことですが、どうやら幸せはその人の富とはあまり関係がないらしいのです。
じっさい、戦後日本は奇跡的とも思える経済成長を続けて来わけですが、日本人の生活満足度はほとんど変わっていないというデータもあるようです。
富と幸せのあいだには一定の相関関係こそありますが、イコールで結べるようなたしかな関係はないということ。
それでは、ひとの幸せはどこにあるのか? 答えはきわめてシンプルです。
映画を一見してみて感じたことは、「幸せとは人間関係である」ということです。
抜きん出て幸福度が高い人には、必ずといっていいほど親しい家族や友人がいる。
そういう人とともに暮らせることが人間の幸せなのです。
あたりまえといえばあたりまえのつまらない結論かもしれません。
しかし、幸福学やポジティブ心理学の結論はやはりここに行き着くらしい。
映画はアメリカや日本のたくさんの家族や仲間を描いて行きます。
そこから導き出されるのは、良好な人間関係をたくさん持っている人ほど幸せになりやすいという事実です。
それに対して、あまりに孤独だったり不都合な人間関係しか築けていない人はそうなりづらいばかりか、寿命さえ短くなるらしい。
映画のなかでは、先進国のなかで最も幸福度が低い国として日本が登場します。
ここは考えさせられるところです。
いったいぼくたち日本人に欠けているものはなんなのか?
真面目に懸命に生きてきたはずの日本人がなぜそれでも幸福になりきれないのか?
映画はあまりにも仕事をしすぎるからだと匂わせていますが、それはつまり仕事に専心するあまり身近な人間関係を犠牲にしているということではないでしょうか。
人間関係こそがひとの幸福度を大きく左右する。その事実を忘れないようにしたいと思います。
もちろん、ひとはいくらだれかと親しくなったところで最後はひとりですし、自ら望んで孤独を選んでいる人もいることでしょう。
そういう生き方が悪いとはいいませんし、先の記事で書いたように「孤独力」には価値があります。やたら群れればいいというものではない。
しかし、その一方でやはりひとはその一生を通じて安易な「つながり」に留まらない本物の人間関係を求めていく必要があるのです。
そういう関係を作り出せた人はまったき幸福をも手に入れることができます。モンスターからお姫さまを救い出した騎士のように。
ぼくが思い出すのは、ディケンズの『クリスマス・キャロル』です。 -
宝くじをあてた人が必ずしも幸せになれないのはなぜか。
2015-05-02 14:0451pt最近、読者の需要を無視して好き勝手に記事を書いていますが、もうひとつ書きたい記事を書いておきたいと思います。
いや、こういう記事って、自分のために書いている側面が強くて、書いてまとめないと思考を先に進めることができないんですよね。
なので、読むほうが面白いのかどうかはわかりませんが書き記しておきたいと思います。
ぼくは最近、かなり理想とする「幸福な人生」のヴィジョンに近いところに来ていると思うんですよ。
そこそこ使えるお金はあるし、友達はたくさんできて社会性は満足しているし、時間は余っているので好きなだけ本は読めるし、ほぼ理想的な生活を実現したといえる。
唯一足りないのは恋人くらいでしょうか。まあ、それ以外はほぼ欲しいものをそろえられたと思うのです。
でも、心のどこかで「まだ何か足りない」、「そこそこ幸せではあるが、十分とはいえない」という思いがのこっている。
なぜなのかな、とずっと思っていたんだけれど、最近考えるのは、やっぱり身体性が充足していないのかな、と。
ぼくの希望をそのままに叶えていくと「一日中部屋で本を読んでいたい」ということになるのだけれど、それではやはり不足なのでしょう。
ほんとうに十分に幸せになるためには、からだを動かすことも必要なのでしょうね。
というか、ある方向に偏った内容で人生を充実させようとすることは間違えているのかな、という気がしています。
前の記事で「幸せになるためには感性をオープンにしなくてはならない」と書きましたけれど、結局、それも程度問題であるわけです。
感性が大事だからといって知性をなおざりにしてはやはり何かが狂ってくる。
あるいは、趣味に没頭できるからといって仕事を放り出してしまってはどこか満足しきれないことになる。
つまり、大切なのはバランスであるという結論になりそうなんですよね。
知性と感性、精神と身体、趣味と仕事、欲望と自制、インドアとアウトドア、そのバランスが取れていないとあまり幸せにはなれないのかな、と。
たとえば仕事一筋で生きるのはいいのだけれど、それだけだといかにもバランスが悪い。
天秤の一方に仕事を載せるなら、やはり他方に趣味とか家族とかを載せないと平衡しないと思うのです。
もちろん、意図してバランスを崩す生き方もある。ほかのあらゆるものを犠牲にしてある道を究める、というような。
たとえばからだを壊すことを心配しすぎていたら一流のアスリートにはなれないこともほんとうかもしれない。
しかし、
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