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記事 13件
  • すべての表現は「本物」と「偽物」に分けられるのか?

    2018-02-23 22:19  
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     映画『グレイテスト・ショーマン』を見ました。
     『レ・ミゼラブル』や『アナと雪の女王』、『ラ・ラ・ランド』などのヒットで最近、人気を取り戻しつつあるミュージカル映画です。
     この作品の主人公は貧しい身の上から興行によって成り上がった男、P・T・バーナム。
     かれと、かれが生み出した史上初の「サーカス」がこの映画の中心です。
     このバーナムさん、実在の人物で、それどころかアメリカではとても有名な人のようです。
     史実のかれは、相当に後ろ暗いビジネスにも手を染めたペテン師まがいの男だったようですが、この映画のなかのバーナムはあくまでヒーロー。
     ときに判断を誤り、差別的な行動に走ることもありますが、基本的には家族を愛し、仲間たちを守ろうとする心優しい人物として描かれています。
     アメリカの批評家界隈では、この、主人公の「いい人化」が史実をねじ曲げているということで評価を下げている人も相当多くいるようですが、日本人のぼくとしてはまったく気になりません。
     そもそも史実を知らないのだからいくらかねじ曲げられていても問題はないというものです。
     ただ、それでも少々、人間ドラマの要素が薄いようには感じられました。
     話がとんとん拍子で進んでいくのは軽快なのですが、その分、ちょっと筋書き通りの展開に思われてしまうことは否めないのです。
     きっちり定石通り試練は起きますし、辛い出来事も色々と描かれてはいるのですが、それでもどうにも「軽い」描写に留まっているように思われます。
     音楽とダンスは文句なしに素晴らしいので、ここらへんの人間ドラマの薄さをどう見るかがこの作品の評価の鍵になるかと思います。あまりにも「いい話」すぎて、かえって胡散臭いと思う人も少なくないことでしょう。
     じっさい、ぼくも見終わった後は、「面白いけれど、ちょっとドラマが薄いな」と感じました。
     しかし、ミュージカル部分の見事さと、スピーディーな演出はその欠点を補って余りあるものがあることもたしか。人によって相当に評価が分かれる映画かもしれません。
     さて、この映画のテーマとして、バーナムが生み出したサーカスが、はたして「本物」の表現なのか、それとも「偽物」に過ぎないのか、ということがあります。
     ふたつ前の記事でも触れましたが、ある作品なり芸を評価するとき、それは「本物」だとか「偽物」だと語られることがあります。
     おそらく庵野さんがオリジナルな表現にこだわり、このアニメには「中身」がある、ない、と語ることもそういう文脈の話でしょう。
     しかし、ぼくは思うのです。ほんとうに「本物」の表現などというものがありえるのでしょうか?
     昔には「オリジナル」の作品があったというのは事実なのでしょうか?
     この映画のなかでは、オペラやクラシックバレエといった表現が「本物」の代表例として挙げられています。
     それと比べて、サーカスはあくまで「芸術」とはいえない紛い物のショーとして扱われています。
     ですが、どうでしょう、その区別は意味があるものなのでしょうか。
     ぼくにはそうは思えません。それはようするに単なる差別に過ぎないのではないのでは?
     たしかに、サーカスの表現は、少なくともこの時点では、オペラやバレエのように「上流」の人々の心を捉えるものではないかもしれません。
     けれど、「上流」に通用するものが「本物」だとすることはいかにもばかばかしくないでしょうか。
     それはあまりにも俗っぽい権威主義に過ぎないように思われます。
     そもそも、どんな表現も最初からいきなり「芸術」などというたいそうなものとして生まれるわけではないのです。
     大抵の表現は、まず愚にも付かない、「芸」などと呼ぶこともはばかられる、他愛ないものとして始まります。
     それが時間とともにしだいに洗練され、重厚さを増していき、そして「権威」になっていくのです。
     オペラにせよ、バレエにせよ、最初から「本物」とか「芸術」などと誉めそやされる表現だったわけではないでしょう。
     それらもまた、ごくつまらない芸としてスタートし、やがて「本物」と呼ばれるまでになったのです。
     そうだとすれば、そこにあるものはつまるところクオリティの差だけであり、それ以外の本質的な違いなどないと考えるべきではないでしょうか。
     ぼくは庵野さんが『美少女戦士セーラームーン』を「中身がない」と評していることにも疑問があります。
     ぼくは『セーラームーン』にくわしくないのでその評価が妥当なものなのかどうかはわかりませんが、表現を「中身がある」、「中身がない」と分けること自体が、あまり意味があることとは思われない。
     もちろん、庵野さんや奈須さんは「オリジナル」とか「偽物」という発想にこだわることで作品を生み出せたのだから、それ自体は意味あることなのでしょうが、批評概念としてはそれは価値が薄いと思うのです。
     良い作品があり、そうでない作品がある。それくらいの評価軸がシンプルで良いと考えます。あまり複雑化するとろくなことがない。
     「本物」であれ、「偽物」であれ、良いものは良い。面白いものは面白い。それで十分ではありませんか。ぼくは、そういうふうに考えます。 
  • 庵野秀明のオリジナル幻想と奈須きのこの偽物論。

    2018-02-13 12:54  
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     『ファイブスター物語』の第14巻が出ました。今回は魔導大戦序盤のベラ国攻防戦。ソープとラキシスを初め、オールスターキャストが関わる豪華な巻となっています。
     また、今回は一巻まるまる戦争ということで、凄まじい量のキャラクターが登場し、情報量も膨大です。
     憶え切れない読者をかるく振り落としていくこの傲慢さ。これぞ『ファイブスター物語』という感じですね。
     前巻の総設定変更で不満たらたらだった読者にもこの巻は好評のようです。作家が実力で読者をねじ伏せてしまった印象。
     『HUNTER×HUNTER』なんかもそうだけれど、読者の不満を無理やり封じ込めてしまうくらいの実力って凄いですよね。
     ここには作者が神として君臨する形の作品の凄みがあります。
     ぼくはソーシャルゲームの『Fate/Grand Order』を遊んでいるのですが、『ファイブスター物語』のような古典的な作りの作品とはまるっきり印象が違う感じです。
     『FGO』はどちらかといえば作り手と受け手、そして受け手同士のコミュニケーションに面白さがあると思うのですよね。
     つまり、作り手が作品を投げかける。すると、読者がそれを二次創作を初めとするあらゆるやり方で消費していく。それが『FGO』のようなコンテンツの魅力。
     『FGO』のシナリオが傑出して面白いとはぼくは思わないのだけれど、膨大なキャラクターを使ってしょっちゅう「お祭り」を繰りひろげている楽しさはたしかにある。
     いま、『ファイブスター物語』のスタイルを「古典的」と書きましたが、さらに時代をさかのぼればおそらく物語は作り手と受け手のコミュニケーションのなかで可変的に綴られていたはずなのですよね。
     作家が神のごとく作品世界をコントロールするようになったのは紙の本による出版というシステムが成立してからでしょう。
     その意味では、『FGO』のようなスタイルは超古典的といえなくもないかもしれない。
     何百年も何千年も昔、人々が焚き火を囲んで話しあい物語を紡いでいったことのデジタルな再現というか。
     実はいまから20年以上前、1996年の段階で、庵野秀明さんがこれに関して鋭い指摘をしています(https://home.gamer.com.tw/creationDetail.php?sn=863326)。

    庵野秀明:
    『ガンダム』のとき、すでに(監督の)富野由悠季さんが、自分の仕事とはアニメファンにパロディーとしての場を与えているだけではないかという、鋭い指摘をなされていた。僕もそれを実感したのは『セーラームーン』です。あのアニメには中味がない。キャラクターと最低限の世界観だけ、つまり人形と砂場だけ用意されていて、そこで砂山を作ったり、人形の性格付けは自由です。凄く使い勝手のいい遊び場なんですよ、アニメファンにとって。自分たちで創作したいのに自分から作れないという人たちにはいいんでしょうね、アニメーションは。(作品が)隙だらけですから。『エヴァ』もその点でよかったようです。所詮(キャラクターは)記号論ですが。

     
     ぼくのいい方をすると、庵野さんは「神」としてオリジナルな作品を作りたいのに作れないということで悩み、最終的に「自分自身の人生だけがオリジナル」ということでああいう物語を作りだしていったわけです。
     この後、20年かけて「人形と砂場」の方法論は洗練されていき、『FGO』のようなコンテンツというか「場」が生み出されることになった。
     それはもちろん「小説家になろう」あたりとパラレルだし、とても現代的な現象ではあるのだけれど、ひょっとしたら庵野さんあたりは苦々しく考えているかもしれない。
     ただ、オリジナルな表現という幻想だとか、作者が「神」として完成されたコンテンツを送り出すというシステム自体が近代独特の特殊な方法論でしかないことを考えるなら、『FGO』的な作品を一概に非難することもできないはずです。
     さらにはこういう意見もあります。

    興味深いのは、ここで、僕の中で逆転現象が起きたこと。
    基本、アニメ・マンガが大好きで、その話がしたくて、「場」を求めていたんです。
    それは今も変わりません。未だにプリキュア5とかけいおん!とかアイマスとか凸守とか山田葵とかみつどもえとかガルパンとか上坂すみれとかアスカとかアスカとかアスカとかの話したくて、うずうずうずうずしてますよ。
     
    でも、「今期何見てる?」って言うようになってる自分にも気づきました。
    もう話す「仲間」がいるから、そこで会話の題材となる作品を、逆に「場」にしているんですよ、ぼくが。
    「題材があるから場を求めている」んじゃなくて、「自分のいる地点で、砂場となる題材を求めている」にひっくり返っていることが稀にある。
    これ自体が、意外にも楽しいじゃないかと。
    http://makaronisan.hatenablog.com/entry/20130423/1366738022

     うん、まあ、わかる。じっさい、砂場と人形さえあればいくらでも楽しめることはたしか。LINEで『FGO』の話をしてTwitterで二次創作漫画をあさっているだけで十分に楽しいもの。
     庵野さんふうにいうなら、『FGO』は現代日本で最も成功した砂場で、英霊たちは最も魅力的な人形なのだと思います。
     しかし、そこではかつての奈須きのこの才能の鋭さは陰をひそめている。ちょっと残念ではありますね。
     『Fate/stay night』では「偽物」という言葉がひとつのテーマになっていました。
     庵野さんがオリジナルにこだわるのに対し、より下の世代の奈須きのこは「偽物」でしかありえない自分をより肯定的に受け止めようとしているように見える。その果てに『FGO』がある。
     そうだとすれば、『FGO』を否定的に捉えることはできないのかもしれない。ぼくはどうしてももうひとつ物足りないのだけれど……。
     作者が「神」として振る舞う宗教型コンテンツと作者も含めて「場」を楽しむ砂場型コンテンツ。現時点ではどちらが優れているともいえませんが、今後、状況がどう変化していくのか、注目したいところです。 
  • 『TYPE-MOONの軌跡』を読んでぼくが考えたいくつかのこと。

    2017-12-09 07:00  
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     坂上秋成『TYPE-MOONの軌跡』をようやく読み終えました。タイトル通り、いまや巨大ゲームメーカーにまで成り上がったTYPE-MOONのヒストリーを丹念に綴った一冊。
     所々、TYPE-MOONの作品に対する批評も入っています。『空の境界』に始まって『Fate/Grand Order』にまで至る20年弱を、かなりていねいに追いかけている印象ですね。
     さて、かつて少年の奈須きのこが高校時代にノートの隅とかに書いていたのであろう『Fate』の物語は、いまや年間数百億円といわれるセールスを上げるビッグビジネスにまで成長し、SONYの業績に影響を与えるまでの存在になりました。とほうもないことです。
     しかし、面白いことに、そこに至るまでのTYPE-MOONの軌跡は、どう考えても「成功の方程式」みたいなものからほど遠いところにあるのですよね。
     もちろん、その都度、「わかりやすく」、「より広い
  • 『月姫』の伝説。オタクが日陰の存在だったあの頃を語ろう。

    2017-12-04 07:00  
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     ども。大量更新を始めてから半月くらい経ちますが、どうにか続いていますね。このままひと月、半年、一年と続けていければいいのですが、どうかなあ。
     あまりたくさん更新すると読み切れないという人も大勢いるかとは思うのですが、とりあえずはこのペースで行きたいと思います。会員数も少しずつ増えてきていますから。
     さて、どうにかAmazonで入手した坂上秋成『TYPE-MOONの世界』を読んでいます。『月姫』に始まって『Fate/stay night』、『Fate/Zero』などのヒット作を世に送り出したエンターテインメントメーカーTYPE-MOONについての奈須きのこと武内崇を中心とした通史であり、評論です。
     奈須きのこと武内崇の出逢いに始まり、『月姫』の爆発的ヒット、そして『Fate』へ、といった流れが丹念に描かれているようです。『月姫』以来、TYPE-MOONをリアルタイムで追いかけて来た人
  • どうすれば『FGO』のような大ヒットを生み出せるか。

    2017-11-25 15:34  
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     うーん、星海社新書の『TYPE-MOONの軌跡』が売っていない。電子書籍にもなっていないし、Amazonでは「通常1~2か月以内に発送します。」とかふざけたことが書かれているし、いったいどうやって入手したらいいのやら。
     こういうとき、電子書籍がないというのは不便ですね。たぶん部数的に電子書籍にしても利益が出ないのだろうけれど、いいかげん紙の本なんて増やしたくないぼくとしては、可能な限り電子書籍を出してほしいものです。まあ、弱小出版社に無理をいってもしかたないんだけれどね。
     以前、『FGO』のような世界トップクラスの利益を生み出すゲームを作りだすためにはどうすればいいか?という話をしたことがあるのですけれど、あらためてそのプロセスを文字にしてみると、社長こと武内さんという人もまず奈須さんに劣らない凄い人だな、ということがあらためてわかりました。
     まず、高校で奈須きのこと隣の席に座らな
  • 『君の名は。』ネタバレ感想。物語を形づくる三枚のカード。

    2016-08-29 04:53  
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     先ほどまで映画『君の名は。』のネタバレラジオを放送していたのですが、そこで話したことを記事の形でもまとめておきます。
     以下、『君の名は。』のネタバレを含みます。未見の方はなるべく読まないでください。オーケー?
     さて、『君の名は。』では、クライマックス、ふたりの主人公、瀧と三葉はすべての記憶を失って離ればなれになります。
     瀧は何かを失ってしまったという喪失感を抱えながら日々を過ごし、そして数年後、ふたりが運命的に再開するところで物語は終わります。
     感動的なハッピーエンド。しかし、ぼくはここでもう少し印象が弱いものを感じたのですね。いや、作品そのものは傑作で、クオリティ的には文句なしなのですが、いわば99点で、100点は付けられないようなところをどこかに感じたのです。
     それはどこなのかといえば、いまにして思えば、このハッピーエンドそのものに「嘘」を感じ取っていたのだと思う。
     つま
  • 増殖を続ける『Fate』シリーズに感じる嬉しさと残念さ。

    2016-05-10 17:47  
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     きょうは電撃文庫の発売日です。成田良悟さんの『Fate/strange Fake』最新刊が出ていますね。
     これも設定を聞く限りめちゃくちゃ面白そうなんだけれど、ぼくはまだ読めていません。
     最近ほんとに小説を読めていないので、なんとか時間を作って読まないととは思うのですが、なかなかね……。
     それにしても『Fate』はいったいいくつシリーズがあるんだろ。
     最初の『Fate/stay night』に『Fate/hollow ataraxia』まではまあ「正典(カノン)」といえるとして、そのあとの作品群が膨大なんですよね。
     とりあえず『Zero』は「正典」に次ぐ地位にある感じですが、そのほかの作品群はどう解釈したらいいものやら。
     パラレルワールドだと思って読むのがいちいばんいいのかなあ。
     そういえば『Fate』世界にはパラレルワールドを飛びまわる謎のジジイがいたような気もするが、まあいいや。
     『Fate』の番外編というと、『Zero』を除くと、まずは『Grand Order』が思い浮かびます。
     これはソーシャルゲームですね。ゲーム的にはかなりひどい出来だとさんざんいわれているものの、キャラクターの魅力とストーリーの面白さによって大人気を博しているようです。
     結局のところ、魅力的なキャラクターがたくさんいればほかはぐたぐだでもけっこうなんとかなるという典型的な例でしょうか。
     それから、ゲームの類としては、プレイステーションポータブルで出た『フェイト/エクストラ』とその続編『フェイト/エクストラ CCC 』があります。
     これは当然というか漫画化もされていて、『フェイト/エクストラ CCC Foxtail』という作品にもなっているようです。
     あと、格ゲー仕様の作品としては『フェイト/アンリミテッドコード』がありますね。
     やったことがないので評価はわかりませんが、そこそこの作品ではあるようです。
     あと、小説作品としては『Fate/Prototype 蒼銀のフラブメンツ』というものもありますね。
     『Fate/Labyrinth』はこの派生なのかな? よくわかりませんが関連作品であるようです。
     さらには『Fate/Apocrypha』というものもありますし、いちばん最初に挙げた『Fate/strange Fake』もこの系統です。
     さらに漫画では『Fate』を魔法少女ものに仕上げてしまった『Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ』という作品もありますし、『Fate/mahjong night 聖牌戦争』という、もはや何がなんだかよくわからない作品もあります。
     あと、四コマの『氷室の天地 Fate/school life』も一応は『Fate』シリーズか……。
     ざっと数え上げただけでもこれだけの『Fate』関連作品が出ているわけです。まだ取りこぼしたものもあるかも。
     かつて高校生の奈須きのこがノートに書いて竹内崇に見せていた妄想ストーリーがここまで発展するとは、当時、奈須さんも竹内さんもまったく想像していなかったことでしょう。
     ただ、 
  • 物語論。奈須きのこの世界は「拡散」する一方で「前進」しない。

    2015-07-20 07:30  
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     昨夜、LINEで話したことがちょっと面白かったのでメモしておこう。
     最近、『アベンジャーズ』とか『バットマンVSスーパーマン』とか、本来、独立しているヒーローの映画を組み合わせた映画作品が次々と発表されて話題をさらっている。
     映画史的にはそれなりに画期的な事態だと思うのだが、この種のクロスオーヴァーは、アメコミの歴史のなかではくり返し行われてきたことであるらしい。
     というのも、本来、「なんでもあり」のアメコミでは、バットマンやスパイダーマン、ウルヴァリンといったキャラクターだけを活用してさまざまな実験的な作品が描かれてきたからだ。
     それもこれも作家ではなく出版社が著作権を有しているからではあるのだが、あるキャラクターが何度も死んだり、そのたびに生き返ったり、いろいろなキャラクター同士がくっついたり離れたりすることはかなり常識的に行われているのだとか。
     日本人の目から見るとかなり奇妙にも思える話ではあるが、あらゆる物語の根源である神話や民話に近いと考えると、こちらのほうが正統な物語の系譜であるといえるかもしれない。
     一方、より作家的/近代的な作品が多いと思われる日本ではそういうオールスターキャスト的作例は少ないと思われる(ないことはない)。
     『ガンダム』とか『仮面ライダー』あたりは比較的近いだろうか。
     もっとも、『ガンダム』でさえひとつの宇宙を共有しているというわけではない。
     その一方で「ある作家が描いた複数の作品がひとつのバックグラウンドを共有する」という真逆の現象はよく起こる。
     それはたとえば永井豪の作品がそうなったように、独立して描かれた複数の作品が最終的にはひとつの物語世界へ流れ込んでいく、という形を取ることもあるし、奈須きのこの作品がそうであるように、初めからひとつのバックグラウンド世界を想定して書かれることもある。
     『エヴァ』とか『ジョジョ』とか『ファイブスター物語』などを見て行くと、まったく異なる作品を作り出そうとしても最終的には同じものに仕上がってしまう作家がいることもわかる。
     その作家が自分の内面世界を象徴的に描き出しているだけなのだと考えるなら、それは当然のことであるのだろう。
     『エヴァ』にしても、新劇場版のシリーズは「まったく新しいものを作ろうとしても『エヴァ』になってしまう」というところから「それなら『エヴァ』にしよう」ということになったらしいし……。
     とにかく、このように、それぞれ独立した物語であるように見えていた物語がひとつの物語世界の出来事として語られることは洋の東西をまたいで少なくない。
     もっというなら、その際、「公式」か「非公式」か、一次創作か、二次創作か、という話は原理的にはあまり意味がない。
     重要なのは、一度発表された魅力的な物語は、その瞬間から「拡散」しはじめるということである。
     たとえば、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズものは発表以来、数知れない「パスティーシュ(贋作小説)」を生み出している。
     その数、数万ともいわれるパスティーシュは出来も内容もさまざまだが、シャーロック・ホームズないし類似の人物が登場していることだけは共通している。
     これをすべてひとつの世界のパラレルワールドの出来事として考えると、ちょっと面白い。
     というか、こういう「同じキャラクターが登場するが内容的に矛盾する複数の物語」を合理的に整理しようとすると、必然的に「平行世界(パラレルワールド)」を持ちださざるを得なくなるということだろう。
     逆にいえば、その設定さえ持ち出してしまえばどんな異質な物語であろうと、異なる世界線の出来事として整理してしまえるということでもある。
     先述した奈須きのこの作品世界は、それぞれの作品がパラレルワールドの関係にあり、しかもひとつの作品内でもパラレルな複数の物語が展開しているという非常に複雑な構造になっている。
     そこに『Fate/Zero』を初めとする「外典」がいくつも加わるわけで、もう何がなんだか、という状況ではある。
     だから、たとえば『Fate』なり『月姫』の番外編的新作が作られても、それは必ずしも『Fate』や『月姫』の物語が先へ進んだことにはならないわけだ。
     それぞれ「Fate」とか「Unlimited Blade Works」と名付けられた物語はあくまですでに完結しており、それはもう変わることはないということなのだろう。
     ここまで書いてきて、それでは、一本の連続した物語とはどう定義すればいいのだろう、ということが頭に浮かんだ。 
  • アニメ『Fate』最終回にこの世界の真実を見た。

    2015-06-29 03:36  
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     ども。ペトロニウスさんが日本に帰国したことを機に、ひさしぶりに東京へ遊びに行って来ました。
     いやー、めちゃくちゃ楽しかった&疲れた。
     旅先だと気が昂って眠れない癖はなんとかしないといけないですね。睡眠導入剤でも使うしかないのかも。
     プアなニートの身の上にもかかわらずフォアグラだのなんだの美味しいものを片っ端から食べてきたので、この上は働くしかないでしょう。そういうわけで記事を更新します。
     まずはアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』最終回の話。
     聖杯戦争が終わったあとを描くこの回はほぼアニメのオリジナル展開。
     魔術協会の統治機構である「時計塔」が存在する街ロンドンに住む遠坂凛と衛宮士郎が描かれます。
     激烈を究める闘争が終わったあとの平和な日々。癒やされますね。
     あの過酷な事件を生き抜いた魔術使いである凛と士郎もここでは一学徒。
     ふたり、幸せな時間を過ごしています。こいつら、いちゃいちゃしやがって。
     聖杯戦争の物語がすべて終わったあと、舞台を変えることによって生じる「世界がひろがっていく」感覚が素晴らしいですね。
     本編では聖杯戦争がすべてだったわけですが、ことここに至ってはそれも数ある事件のひとつに過ぎない。
     『Fate』全編を内包してさらに続いてゆく広大な世界を感じさせるこの構成は凄いです。
     アニメ版未視聴の原作ユーザーも、この最終回は一見の価値ありといえるでしょう。
     しかし、ひとときの幸せはまるでまどろみの夢。おそらく士郎はいつかまた再び戦いのなかに身を投じることになるに違いありません。
     それがかれがかれであるということ。
     いっときの幸福を味わうことはできても、そこに浸りきるためにはあまりにも気高い理想を抱えているのが衛宮士郎という人間なのです。
     また、それがあってこその『Fate』であるということもできるでしょう。
     そんな士郎を凛はどこまでサポートすることができるのか? これから続いてゆく物語を予感させて長い物語は終わります。
     平和が夢か、それとも戦いの時こそが夢なのか、むずかしいところですが、全編、戦いが続いたこの物語の終幕には、この平穏なエピローグこそがふさわしいのかもしれません。
     それにしても、 
  • スタジオジブリの宮崎アニメはなぜ面白くも辛いのか。

    2015-04-14 19:40  
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     川上量生『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』読了。
     これが、もう、超面白かった。実に素晴らしい内容なので、皆さん、読んでください。いや、いいもの読んだ。得した得した。
     もっとも、「ぼくは」とても面白いと思ったけれど、ひとによってはあまりにあたりまえの内容だと思うかもしれず、また、まったく納得できないと感じる人もいるかもしれません。
     それくらい、賛否を呼ぶ内容だと思います。
     しかし、少なくともぼくにとっては非常に明快かつ爽涼に読める一冊でした。新書で安いので、ぜひ多くのひとに読んでもらいたいですね。
     この本は著者の川上量生さんが、スタジオジブリで「コンテンツ」について学んだことが書かれています。
     というか、この本一冊をかけて川上さんは「コンテンツとは何か」という問いに答えていこうとしています。
     それがみごと答えられているかどうかはぜひ自分で読んでたしかめてもらいたいところですが、ぼくはちょっと違う始点からこの本を「活用」してみようと思います。
     「面白い物語とは何か」という例のテーマを掘り下げるために、この本の内容を検証してみようと思うのです。
     この本には、「ストーリーか表現か」と題した一節が存在します。ちょっと引用してみましょう。

     映画をつくるとき、何をいちばん重視するかは人によって違います。鈴木敏夫プロデューサーは、よく会話のなかで「ストーリーか表現か」とひとりごとのように言うことがあります。
    「すべての大監督は最終的に表現に行った」というのは、鈴木さんがよく使う言い回しです。
     映画を見て、話のつじつまが合わないと文句を言う人がよくいるけれど、話のつじつまなんか合ってなくたっていいんだそうです。

     興味深い話です。
     なるほど、鈴木プロデューサーのいいたいことはよくわかる。
     ほんとうに「表現」として凄い映画を見たとき、観客は細かい粗なんて気にならない。
     観客が細かいことを気にしはじめるのは、ようするにその映画が気に入らなかったからだ、そういうことはできるでしょう。
     それなら、「ストーリーか表現か」といえば、大切なのは表現であって、ストーリーは二の次なのでしょうか。
     この本のなかでは明確な結論が出ていないませんが、少なくともクリエイターとは表現を重視する人々である、ということは書かれています。
     なぜか。これも本文中に記されています。

     ストーリーか表現かで、なぜクリエイターは表現にこだわるようになるのか、その理由は、ストーリーは表現に比べてパターン化されやすく、かつパターンの数が少ないからだとぼくは思います。
     たとえばウラジーミル・プロップというロシアの民俗学者は、『昔話の生態学』という本で、昔話の構造を三一の機能と七つの行動領域に分けて説明しています。ようするに、昔話はたくさんあるけれど、それらはどれも、主人公がいてその助っ人がいるとか、悪役がいるとか、なにかを探すたびに出るとか、少数のパターンの組み合わせとして分類できるということを明らかにしたわけです。
     ということは、たいていの物語はすでになんらかのパターンの繰り返しになっている可能性が高いのです。表面上は新しい物語のつもりでも、実は何度もくり返されている過去のパターンの焼き直しにすぎないということに、ストーリーはなりやすいのでしょう。
     一流のクリエイターにとって、いままでなかった新しいコンテンツをつくりたいという欲求は本能のようなものではないでしょうか。

     これも納得がいく話です。
     ストーリーはパターン化しやすく、しかもパターンが少ない。これは一定以上、小説や映画を体験している「物語読み」なら、理屈ではなく実感として納得がいくことでしょう。
     一般に、人間が共感しうる物語のパターンはきわめて少ない。
     少なくともマスに向けてエンターテインメント作品を提供しようと思ったら、ごく限られたパターンをくり返すしか方法がない。
     もちろん、あまりに定番のストーリーばかりでは飽きられてしまうから、表面上はあたかもまったく新しい展開であるかのように糊塗したりもするけれど、本質的にはわずかなパターンのリフレインであることを免れない。それは事実だと思います。
     そもそも究極的に突き詰めていくと、新しい物語なんて生まれようがないんですよ。
     たとえば、村上龍はすべての小説は「人間が穴に落ちる」「穴からはいあがる/穴の中で死ぬ」という類型でできている、と喝破しています。
     つまり、小説(や漫画や映画)のストーリーとは、登場人物を何らかの試練に合わせて、それを達成できるかどうかを見る、それだけのものだというのですね。
     ここまで単純化してしまうと、たしかにどんな物語もこの放送から逃れられないように思える。
     実験的な文学作品ならともかく、大衆向けのエンターテインメントなら殊にそうです。
     だから、「ストーリーか表現か」と自らに問うたとき、「すべての大監督は最終的に表現に行」く。これはよくわかる話です。
     表現が膨大な奥行きを持ち、いまなお新しい可能性を秘めているのに対し、ストーリーにはもはや探索するべき道はないともいえるのですから。
     そう、たとえばハリウッド映画を見ればわかるように、マスに向けたストーリーテリングとは決まりきったものであるに過ぎないのだ。ひとまず、そういうことはできそうです。
     しかし、ぼくはそれで納得することはできません。そうはいっても、やはり「面白い物語」と「そうでない物語」はあると思うのです。
     ストーリーメイキングが数少ないパターンのくり返しであることは間違いないところですが、それでも「面白い物語」を生み出すことは簡単ではない。
     大金をかけて良質なストーリーを研究しているはずのハリウッド映画ですら、あきらかに「出来のいいシナリオ」と「出来の悪いシナリオ」は存在するように見えます。
     そして、それは「つじつまが合っているか、どうか」という問題だけではない。「つじつまは合っていないが面白いストーリー」は存在する。
     つまり、作劇とは単なるつじつま合わせではない、ということです。
     それにしても、なぜ、面白い物語をつくることは簡単ではないのでしょうか?
     ひとつには当然、技術的問題が考えられます。少数のパターンの組み合わせとはいえ、それを緻密に行うことが簡単ではないことは当然といえば当然です。
     少しでも「組み方」がずれてしまったらストーリーは台無しになりかねないのですから、繊細な心配りが必要なのです。
     もうひとつ、たとえばスポンサーの意向などでストーリーは狂わせられやすい、ということもいえるかもしれません。
     ハリウッドにはそういう事情で駄作に成り下がった作品がたくさんありそうです。
     しかし、それらだけではない。現に、宮﨑駿個人の天才の表出と捉えられる一面が大きそうな宮崎アニメにしても、やはりストーリーが破綻した印象の作品は多い。
     この理由も本文中に書いてあるのですが、宮崎さんははっきりとした「終点」を構想することなく物語を描き始めてしまうのですね。
     小説家なら、それこそこれも本文中に例がある栗本薫のように、先を考えずに書き始めるというひとはいますが、プロの映画監督では類例がないんじゃないかな。
     おかげで宮﨑駿の映画は、最後の最後になると「バルス!」で突然にラピュタ城が崩壊して終わりになるようなことになりがちであるわけです。
     セキュリティという観点から見てあまりにひどい話だと思うわけですが。
     とはいえ、『天空の城ラピュタ』はやはり何度でも鑑賞に値する名作です。

     じっさい、くり返しテレビで放送されては好視聴率を記録している。多少つじつまが合っていないことなどだれも気にしない。
     それはつまり、ストーリーに対して表現が優位だということの証明でしょうか?
     結局のところ、宮﨑駿の手がける素晴らしいアニメーションさえあれば、観客はストーリーのことなど気にしないものなのでしょうか?
     実は、ぼくはそうは思わないのです。
     一本のシナリオとして見たら、『ラピュタ』の問題解決方法は、相当に乱暴です。
     いくらでもツッコミが入る余地があるし、伏線の処理にしてもエレガントとはいいがたい。
     しかし、それでも『ラピュタ』には胸躍るストーリーがある。ぼくはそう思います。
     つじつま合わせとはべつの時点で、『ラピュタ』は面白い物語なのだと。
     それに比べると、やはり宮﨑駿の最近作、『ハウル』や『ポニョ』はいくらか辛いものがある。

     もちろん、それらは表現のレベルでは素晴らしい傑作でしょう。『ハウル』の空中散歩、『ポニョ』の波乗り、それらはまさにまれに見る大天才作家の力量を直接に実感させられる映像美です。
     しかし、やはり全体として見ると、いくらなんでも「わけがわからない」ように感じられるのです。
     シナリオの「わかりやすさ」という次元で、やはり『ハウル』や『ポニョ』は『ナウシカ』や『ラピュタ』といった初期作品に一歩譲るのではないでしょうか。
     その証拠に『ハウル』や『ポニョ』のシナリオは非常に要約しづらい。
     それに比べると『ラピュタ』は「鉱夫の少年パズーが、空から落ちてきた少女シータと出逢い、彼女とともに冒険し、ついに天空の城ラピュタにたどり着いて、悪漢ムスカを倒す話」とでも要約できるでしょう。
     ぼくの言葉を使うなら、話の「コンセプト」がわかりやすいのです。
     コンセプト。
     ふたつ前の記事で出て来た概念ですね。憶えておられるでしょうか。
     ぼくはこう書いています。

     学術的、あるいは辞書的な定義がどうなっているのかはともかく、ぼくにとっては、物語とはあるコンセプトに則り、一連の出来事を語った話ということになります。
     この「コンセプト」というものが大切で、そう、物語を語るためにはそれだけの目的があるわけです。
     何か伝えたいテーマなりメッセージがあって、それを伝えるためにこそ物語という形式を採るということが一般的だと思います。
     このコンセプトは、まったく何でもかまいません。べつだん、偉いことや崇高なことに限らない。
     ただ「主人公を格好良く描きたい」でもいいし、「日本海軍の凄さを知らしめたい」でも「繊細な恋愛心理の妙を描きたい」でもかまわない。
     しかし、とにかく通常は何らかの「その物語を通して伝えたいこと」があって、初めてひとは物語を語ろうとするものだと思うのです。

     『ハウル』や『ポニョ』では、この「伝えたいテーマやメッセージ」がはっきりしない印象があります。
     平和は大切だといいたいのか? 子供は無邪気で素晴らしいといいたいのか? 釈然としないまま映画館を出た観客は少なくないでしょう。
     もちろん、そういう観客は宮﨑駿が真に表現したいことを受け取るだけの力量がないだけだ、とはいえるかもしれない。
     しかし、まさに川上さんが書いているように、マスに伝えるためには「わかりやすさ」が重要です。
     『ハウル』や『ポニョ』は、表現のレベルでどれほど高度であるとしても、一個のエンターテインメントとして、やはりあまりにも「わかりにくい」のではないでしょうか。
     「つじつま合わせ」の強引さという点では、『ナウシカ』や『ラピュタ』と『ハウル』や『ポニョ』の間に決定的な差はないかもしれません。
     ですが、それでもやはり後期作品は初期作品に比べて難解な印象を受けます。ペトロニウスさんの『風立ちぬ』評を引用してみましょう。

     実は本編を見ている最中に、さまざまなイメージが喚起されたのだが、大きなものは『ハウルの動く城』だ。当時、僕はこの作品を酷評している。
     その理由は、「意味が分からないから」だった。
     精確に言えば、どの文脈で宮崎駿が語りたいのかは、過去の作品の文脈を理解していれば、自ずとわかるのだが、そういう高踏的な作品読解は、アニメーションとしてだけではなく、物語として僕は好きではない。物語は「わかる」ように描いてほしい、というのが僕の好みだ。それが正しいとは言わないが、端的に「それ」を見て、少なくとも表面的にでも言いたいことがわからなければ、やっぱり物語としての整合性がないと思ってしまう。もう少し具体的に書けば、ハウルという青年は、戦争をとても嫌っているようなのだが、「なぜそういう意識を持つようになったのか?」と「それならば、あなたは何をするのか?(=どう行動に起こすのか?)」が全然描かれていないので、ハウルがただ単なる傍観者に見えてしまうのです。絨毯爆撃の凄まじい戦争シーンの悲惨さを描けば描くほど、ハウルという主人公視点が、それに対して、外から見ている受け身であることがわかってしまうし、立ちすくんで苦しんで、ただ動けなくなっているだけなのが伝わって、少なくとも映画という短い時間で起承転結なりドラマの展開が要求される媒体としては。で??ってしか思えなかった。
     もちろん整合性が取れる作品は小さくまとまってしまうので、『崖の上のポニョ』や『千と千尋の神隠し』のような、何が言いたいのかわからないイメージの奔流であっても、もちろん凄い強度は存在する。とはいえ、やっぱり「全体を通して主張したい明快なメッセージ」という言語化の部分とアニメーションならではのタンジブルなイメージが両立してほしいというのが、僕の好みだ。表面の動物の脊髄反射のレベル・・・・ああ、これは菜穂子との恋愛の美しい話ね、といった次元だけで見てしまう人も多々いると思う(信じられないが、それが現実のリテラシーのレベルなのだろう。背中の方で女性の2人組がそういう会話をしていた…良い純愛映画だったね、、、と)が、「そこ」から順々に複雑なものへ連れて行ってくれる構造をしているかが、エンターテイメントの価値だと僕は思う。http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1

     とても慎重な書き方をしていることがわかりますが、ようするに『ハウル』は「意味がわからない」、もちろん過去作品のコンテクストを慎重に検討していくとわかるのだが、自分の好みではあまりにも「わかりやすさ」が足りないように感じられる、といっているのです。
     ぼくはこの見方にほぼ同意します。川上さんはこう書いています。

     実のところ、ぼくはストーリーが気になるのでジブリの作品にはいろいろ不満があったのです。『千と千尋の神隠し』や『ハウルの動く城』を映画館で見たときには、もちろんおもしろくはあったのだけれども、不満もいろいろありました。
     この二本をあらためて自宅で見てみたのです。そうすると不思議なことに、今度はなんの不満もないどころか大傑作だったのが分かりました。
     ようするに宮崎駿監督がどんな作品をつくろうとしたのか、正しい見方をわかっていなかったのでしょう。
     少なくとも宮崎作品については、やっぱりストーリーなんかどうでもいいのです。もし、宮崎作品の魅力がストーリーにあったとしたら、こんなに何度もお客さんに見てもらえるわけがありません。これだけテレビで再放送をやっているのですから、視聴率が下がらないわけがありません。ストーリーが目的だったら、分かってしまえばもう見る必要はないからです。

     そうでしょうか。ぼくはここで根本的な違和を感じます。
     はっきりいうなら「ストーリーが目的だったら、分かってしまえばもう見る必要はない」とはいえないと思うのです。
     この世には、わかっていても何度でも体験したくなるストーリーというものが存在する。ぼくはそう考えます。
     なるほど、宮崎駿は「表現の人」であり、「ストーリーの人」ではないかもしれない。
     だから、特別、つじつま合わせには拘らない。
     宮崎アニメを見て「つじつまが合っていないし、終わり方が強引だから駄作なのだ」ということは、非常につまらない見方ということはいえるでしょう。
     しかし、それにしても、一本の映画はストーリーと表現の双方から成り立っているわけであり、「ストーリーなんかどうでもいい」とまで悟れる観客はそう多くないのではないでしょうか。
     大半の観客は「面白いストーリーを最高の表現で体験したい」と思って劇場を訪れるはずです。
     そして、その場合の「面白いストーリー」とは「細かいところまで精密につじつまが合っているストーリー」という意味ではない。
     「ハラハラドキドキ、わくわくするような展開が連続し、幸福な、あるいは切ない気持ちで劇場をあとにできるストーリー」の意味だと考えられます。
     ふたつ前の記事で、ぼくはそういうストーリーを「落差」という概念で説明しようとしています。

     それでは、波乱万丈とは具体的にどういうことなのか。
     単純にいって、それは状況の「落差」で表現できます。善と悪、明と暗、天国と地獄――そういった状況のコントラストが激しいほどドラマティックな展開ということになる。
     これも『アルスラーン戦記』が非常に良いテキストになるでしょう。
     今回、パルス国の王子として何不自由ない身分にいたアルスラーンは、敗戦によって一気に流浪の身に叩き落とされます。
     一国の王侯から追われる身の旅人へ。この、普通の人の人生にはまずめったに起こらないような巨大な「落差」をもつ展開が、見るものにドラマティックな印象を与えるわけです。
     べつだん、戦記ものでなくても、どんな物語でもこのことはあてはまります。
    (中略)
     そう――ぼくやペトロニウスさんのような「物語読み」は、何よりもこの「落差」のコントラストを見たくて物語を見ているところがあります。
     最もひよわで幼げな王子がやがて大陸に覇を唱える大王になるとか、その反対に天才的なジェダイの素質をもつ少年が悪のダース・ベイダーにまで堕ちていくとか、そういう日常にはありえない落差が物語にとってとてもとても大切なのです。
     つまり、始点と終点のあいだでなるべく落差が大きくなるよう状況を変化させていく話が「面白い物語」であると、とりあえずはいうことができるでしょう。

     そう、大切なのは「ドラマティック」ということ。
     『ラピュタ』にはその「ドラマティックさ」があきらかにあった。
     鉱夫としての平凡で退屈できびしい日常――そこに空からゆっくりと降りてくるひとりの少女! 冒頭からしていきなりドラマティックな名場面から始まるわけです。
     それに対して、『ハウル』はどうか?
     比較するならやはり印象が弱いといわざるえないのではないでしょうか。
     なぜなら、『ハウル』では「善」と「悪」、「明」と「暗」といった対立概念が明確ではなく、そのコントラストがはっきりしないからです。
     『ラピュタ』のムスカを単純に悪人といい切ってしまうのは間違いなのかもしれませんが、少なくとも物語のなかでは悪役として描かれており、かれに対決するパズー少年とシータには正義があるように観客には感じられます。
     しかし、『ハウル』においては、もはや何が正しく、何が間違えているのか、いったい監督が何を伝えたいと思っているのか、一見したところでは判然としない。
     つまり、『ハウル』はあまりにも複雑混沌とした物語なのです。
     それでもなお、膨大な観客がこの映画を見に行くのはやはり宮﨑駿の天才的な表現力を見るためとしかいいようがありません。
     しかし、だからといって、そういう観客たちがみな「ストーリーなどどうでもいい。表現の素晴らしさだけが問題だ」とまで割りきれているかというと、ぼくは否定的にならざるを得ません。
     さて、この本のなかで、「表現の人」宮﨑駿に対立する「ストーリーの人」として受け取ってもいいのではないかと見える人物がひとりいます。
     手塚治虫です。

    「父は、自分は表現では勝てないことを分かっていたのでストーリーで勝負したんですよ」
     そう、ぼくに語ってくれたのは手塚眞さんです。父とはもちろん手塚治虫さんのことです。
    「父は東映アニメ、それこそ高畑さんや宮崎さんにはかないっこないから、アニメーションでは最初から勝負しなかったんです。でも、こっちはストーリーがおもしろいから、そこで勝負するんだって」
    (中略)
     どうせアニメーションの技術では勝てないので、制作費と製作時間を減らして、そのかわり手塚治虫原作のおもしろいストーリーで勝負することで、国産初のテレビアニメ放送を実現したのです。

     この箇所を読むと、手塚治虫には宮崎駿や高畑勲ほどの表現の天才はなく、ただ「おもしろいストーリー」で勝負するしかない人だった、というふうに読み取れます。これは一面の事実でしょう。
     しかし、逆にいえば、手塚治虫はストーリーという一点においては、アニメーションの申し子、線の魔術師たる宮﨑駿にすらアドバンテージを保つことができた、ということもできるわけです。
     そう、手塚こそは実に戦後漫画界最大にしておそらくは最高のストーリーテラーです。
     こと「おもしろいストーリー」を描くことにかけては、手塚は絶対の自負を持っていたと考えられます。
     それでは、その「おもしろいストーリー」とはどういうものなのか。パターンが少なく、あっというまに陳腐化してしまうはずのストーリーで、手塚はなぜ衆に抜きん出た存在であることができたのか。
     そのひとつの答えが、先の「コントラスト」ということです。
     手塚は巨大な「対照性」のあるストーリーを生み出す天才だったのです。
     その才能の稀有さ、貴重さは、実にアニメーションにおける宮﨑駿に匹敵するものとぼくは考えます。
     これだけでは抽象的に思えるかもしれないので、具体的な作品を見てみましょう。
     なるべく有名なエピソードが良いと思うので、『ブラック・ジャック』から「ふたりの黒い医者」を選びたいと思います。
     ブラック・ジャック永遠のライバル、ドクター・キリコ初登場の話です。
     とても有名な話なので、おそらくご存知かと思いますが、そうでない方は↓を読んでみてください。
    http://bkmr.booklive.jp/manga-sociology-01-euthanasia
     このラストシーン、ブラック・ジャックが絶望的な葛藤のなかで「それでも私は人をなおすんだっ 自分が生きるために!!」と叫ぶ場面は、伝説的な名場面としていまも語り草になっています。
     それでは、このシーンの何がそれほどひとの心を打つのか。いろいろあるでしょうが、そのひとつが「コントラスト」です。
     このシーンでは、ある階段の上段にいるキリコと、下段にいるブラック・ジャックが対象されて描かれています。
     この上下の差が、即ち、死と生、勝利と敗北、運命と人為といった対立項を読者に強く印象づけるのですね。
     ここで読者は一転して敗者の地位に立たされたブラック・ジャックに強く共感し、かれの感情に同調します。
     手塚が作劇の天才としかいいようがないのは、この最後のコマで、その前のコマで高らかに哄笑していたキリコがもはやブラック・ジャックになどなんの興味もないといわんばかりにしずかに去っていこうとしているところです。
     つまり、ここには「宣言」と「沈黙」という対立項もあるわけです。
     まとめるなら、「死を司り、運命を信じ、ついに勝利したキリコの沈黙」と「生を守ろうとし、人為の限りを尽くし、それでも敗北したブラック・ジャックの宣言」が対峙していることになる。
     これこそが、まさに手塚的な「おもしろいストーリー」を象徴するワンシーンといえるでしょう。
     いや、これは手塚の「表現」の次元の話ではないか、「ストーリー」の次元の魅力とはいえないのではないか、そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
     このワンシーンだけならそうといえるかもしれません。
     しかし、このシーンの前にここに続くストーリーがあり、そこではブラック・ジャックはキリコが殺そうとした患者の治療に成功した「勝者」であったのです。
     それなのに、一瞬でかれは「運命」の前に「人為」のむなしさを思い知らされる「敗者」の地位にまで突き落とされる。
     その「落差」にこそ読者は痺れるような快感を覚えているのであって、これはやはり「ストーリー」の次元で生み出された名場面といえるかと思います。
     冷静に考えてみれば、せっかく助けた親子が突然死んでしまうという展開は、伏線も何もない、シナリオ技法の点からはちょっと問題があるような展開です。
     しかし、それが巨大な「落差」ある展開を生み、強烈な「コントラスト」を感じさせる結末に至るとき、ひとはもはやそんなことを気にしないのです。
     むしろ、「一切伏線がないこと」こそがこのエピソードの真骨頂だといえるでしょう。
     物語を面白くしようと思ったら、「落差」や「コントラスト」はかくも大切だということ。
     波乱万丈の映画を「ジェットコースター」に喩えることがありますが、迫力あるジェットコースターとは緩急や高低に富んでいるものです。
     物語も同じ。「落差」がない展開は、どんなに巧みにつじつまが合っていても面白くないのです。
     なるほど、ストーリーは表現にくらべバリエーションに乏しく、パターン化して陳腐になりやすいことはたしかでしょう。
     しかし、同じパターンであっても、「落差の差」、「コントラストの差」というものは存在しえる。
     そして、その差は実に見過ごせないほど大きなものなのです。
     たしかに、ストーリー作りは表現ほど「自由」ではないかもしれない。
     それは「始点」と「終点」、そして「結晶点(クライマックス)」を意識して厳密に構成しなければならないものだからです。
     その意味で、ストーリーテリングとは表現とくらべて「窮屈」なものである、ということもできるでしょう。
     それはどこか数学の公式や音楽の作曲めいたところがあって、何かがちょっとでも狂うともう完璧とは見えないのです。
     そして、それにもかかわらず、一瞬で完璧なシナリオを作り出してしまう手塚のような天才もいるところも数学や音楽と似ています。
     モーツァルトは即興でみごとな曲を作ることができたといいますが、手塚はさしづめ「作劇技術のモーツァルト」ということができるかもしれません。
     この天才的な「劇的な落差を生み出すことの天才」があってこそ、手塚は宮崎駿といった「表現の天才たち」に勝負を挑むことができたのだ、と考えてみると面白いでしょう。
     戦後のエンターテインメントをざっと眺めてみると、ぼくにはもうひとり、「ストーリーの人」といいたい巨人がいます。
     黒澤明です。
     黒澤がシナリオを重視したことは有名で、「シナリオが一流なら、監督が仮に二流三流でもいい映画はできる。だけどシナリオが三流なら、一流の監督がいくら頑張ってもうまくいきませんよ」といった発言がいまに残されています。
     かれはじっさい、脚本づくりに膨大な時間と労力を費やしたといいます。
     『コンテンツの秘密』のなかでは、この黒澤も最後には表現を選んだということが書かれています。
     これはたしかにそうだろうとぼくも思います。晩年の作品を見ると、「黒澤も最後には表現に行った」ということはできそうに見えます。
     しかし、ぼくは思うのです。それは必ずしもマスに歓迎される変化だったのではないのではないか、と。
     もちろん、一個の芸術作品としては『乱』は素晴らしい。『夢』は美しい。そういうことはできる。
     しかし、より一般的な視聴者にとってやはり黒澤明といえば、『天国と地獄』であり、『椿三十郎』であり、『七人の侍』なのではないか。

     それは宮﨑駿といえば『ナウシカ』であり『ラピュタ』である、ということとどこか共通したものがあるのではないでしょうか。
     たしかに、大黒澤も最後には表現に行ったひとりではあるでしょう。
     しかし、それは「緻密な構成力」が衰えたために、そういう方向に進まざるをえなかったという一面もあるように感じられます。
     そう、ぼくには厳密な意味での物語の構成力とは歳を取るにしたがって衰えていく種類の知的能力であるように思えるのです。
     その証拠に、巨匠とされる人の晩年の作品を見ると、どれも長い。これは短く無駄なくタイトにまとめあげるスキルが衰えているということなのではないでしょうか。
     ぼくひとりがそう考えているわけではなく、たとえば『ファイブスター物語』の永野護などは、連作短編エピソードである「ザ・シバレース」を描いた理由を、こう述べています。

     「ザ・シバレース」を描いた理由のひとつとして「運命の3女神」での反省があった。
     「運命の3女神」はとにかく長くなりすぎた。当時、作家として、シナリオライターとして、自分にはものすごい恐怖感があって。昔から作家や脚本家に、40代くらいを境に物語をつくれなくなっている人が多いような気がしていて。実際に多くの作家や脚本を書く映画監督が、つくる話がどんどん破綻してしまっていくのを見ていたからね。まあ、小説でも映画でも実際にはつじつまを合わせる必要はないんだけど、それを飛び越えるくらいの勢いで破綻しているケースを見てきた。
     「アトロポス」を書き終えたころはもう30代半ばだったし、そういった不安から30代のうちに自分に足かせをつけて膨大な短編を残しておかないとって思ったんだ。
     若い作家と年齢を重ねた作家の違いを考えると、若い作家は勢いで膨大な短編を生み出しているんだよね。O・ヘンリーもそうだし、ジョン・アーヴィングもそうだし。近代作家もすごいいっぱい短編を書き残しているよね。そういったことを含めて、「ザ・シバレース」を描こうと思った。

     「40代くらいを境に物語をつくれなくなっている人が多い」。これは、ぼくの印象と重なります。
     たとえば、あれほど天才的な物語作家であった栗本薫にしても、40代ごろからその作品は冗長化の一途をたどった印象が強い。
     しかし、それも当然といえば当然のことです。物語づくりとは「窮屈」なもの、年を取り、巨匠と呼ばれるようにまでなって、そういう「窮屈さ」を引き受けようとするクリエイターはそう多くはないということなのでしょう。
     永野護にしても、短編をつくる作業を「足かせ」をつけると表現しています。
     これは「窮屈さ」をひき受けるということとほぼ同じ意味でしょう。
     ぼくはそういう永野をほんとうに偉いと思うのですが、それはまたべつの話。
     とにかく、ある程度の自由が許される「表現」にくらべて、「ストーリー」を作ることは「窮屈」であり、歳をとった作家はその「窮屈さ」に耐えられなくなっていくのではないか、という話です。
     しかし、やはり作家にとって「おもしろいストーリー」はひとつの強力な武器であるわけで、仮に表現がクリエイターの権利であるとすれば、ストーリーはクリエイターの義務。そういうふうにいえるかもしれません。
     さて、このようにストーリーの良し悪しには「つじつまの整合性」のほかにも「波乱万丈さ」という基準があるわけですが、そんなハラハラドキドキのストーリーにしても、川上さんのいうように「分かってしまえばもう見る必要はない」のでしょうか。
     実は、ぼくはこの点についてもそうは思わないのです。
     これはつまり、ひとは先の展開がわからないからそれが気になって画面を注視するわけ「ではない」ということです。
     いや、もちろんそういう側面は強いでしょうが、それがすべてかといえば、決してそうではない。
     むしろ、先の展開がわかっているからこそ、それを見たくて画面に集中してしまう。そういうことがありえるとぼくはいいたい。
     表現という一点を取るなら、スタジオジブリの作品でも後期の作品のほうが、やはりそれなりのお金をかけているぶん、川上さんがいうところの「情報量」が多く、魅力的であるはずです。
     初期の『ナウシカ』や『ラピュタ』、つまりスタジオジブリ以前の作品は、それにくらべれば情報量的にシンプルでしょう。
     となると、必然的に後期作品のほうが初期作品より「再視聴、再々視聴に耐える」ことになりそうです。
     しかし、じっさいには必ずしもそうなっていないのではないでしょうか? 表現としていまではそこまで情報量が多いように見えない初期作品も、後期作品以上に「再視聴、再々視聴に耐える」ものである。こういったとして、反論はそこまで大きくないのでは?
     それはなぜかといえば、「あるコンセプトに基づくストーリー」の力だと思うのです。
     「つじつま合わせ」という点でいえば特に優れているとも思えない宮崎アニメですが、それでも、少なくとも初期作品、あるいは前期作品には「おもしろいストーリー」があった、とぼくは思います。
     つまり、そこでは「落差」や「コントラスト」を生み出すドラマツルギーが、わかりやすくシンプルな形で作用していたと考えるわけです。
     たとえば、あの有名なパズーとシータが「バルス!」と叫び、ラピュタ城が崩壊してゆくシーン。
     あのシーンはいまではテレビ放映されるたびにTwitterでシェアされ、何十万もの人がともに「バルス!」と叫ぶことになっているわけですが、これは当然、その人たちが『ラピュタ』を既に見ていて、先の展開を知っていることを意味しています。
     かれらはすべての展開を知ってなお、「バルス!」の瞬間をわくわくと待ち望みながら『ラピュタ』を見ているわけです。
     なぜこんなことがありえるのでしょうか? それは、物語という「波」に乗ることが気持ちいいからだとぼくは思います。
     そう、川上さんがいう「脳に気持ちいい表現」があるように、「脳に気持ちいいストーリー」というものもまた存在するのです!
     ぼくはそれを「波」に喩えます。
     つまり、上がったり下がったりという「落差」のある展開を楽しみつづけることは、ある種の「波」に乗ることに近いものがあるように思うのです。
     この「波乗り」の快感が忘れられなくて、多くのひとはくり返し同じ映画を見るのではないでしょうか。
     世の中には、手塚や、ある時期までの黒澤のような物語作家(ストーリーテラー)と呼ぶべき作家たちがいます。
     「表現」より「ストーリー」により長けたクリエイターのことです。
     もちろん、手塚や黒澤は「表現」においても天才的な人物だったかもしれませんが、かれらがなぜ大衆の心を掴んだかといえば、魅力的な「波」を生み出す才能を持っていたからでしょう。
     たとえば田中芳樹。
     もっというなら奈須きのこ。
     田中は、表現力という点だけを取れば、おそらくそこまで優れた作家ではありません。
     それほど文章がうまいわけでもないし、あまり表現のセンスが良くないところがある。
     奈須きのこに至っては、文章力という一点だけを取るなら、はっきりと稚拙です。
     特に初期は読むのが辛いくらいなのですが、それでも、田中や奈須はベストセラー作家になりおおせました。
     なぜ、そんなことが可能だったのか。それは、かれらが物語作りに比類ない天稟を備えていたからです。
     かれらは魅力的なストーリーを生むことに特化した才能と技能をもつ物語作家なのです。
     西洋では、ロバート・A・ハインラインとか、スティーヴン・キングなどがそういう作家にあたるでしょう。
     物語作家は落差(高低差)の大きいストーリー(波)を生み出すことに長けています。
     ある場面、もっというならあるひと言にそれまでのすべての展開が「結晶」するように緻密にドラマを紡いでいく、そういう才能のもち主なのです。
     たとえば、『銀河英雄伝説』の「ラインハルトさま、宇宙を手にお入れください。それと、アンネローゼさまにお伝えください。ジークは昔の誓いを守ったと」といったセリフ。
     あるいは『Fate/stay night』の「いくぞ英雄王――――武器の貯蔵は充分か」というセリフ。
     これらは、そのひと言に向かってそれまでのすべての物語が収斂していく、そういう言葉です。
     LDさんの言葉を借りるなら、これらのひと言こそが、その物語の結晶点、クリスタライズ・ポイントであるわけなのです。
     こういう「波」の頂点ともいうべきセリフなり場面を生み出すことができ、しかもその前後の「波」がそこに自然につながっていくように計算して構築できる才能、それが物語作家の資質です。
     だから、奈須きのこの文章技術をいくらばかにしたところで意味がない。それはまったく筋違いの批判です。
     いい換えるなら、名ゼリフとか名場面というものは、それ単体で成り立つものではないということ。
     そこに向かって徐々に高まっていった物語のテンションがついに最高潮に達する、その瞬間をみごとに捉えたセリフや場面が名ゼリフと呼ばれ、名場面と呼ばれるだけのことなのです。
     その瞬間には実に堪え切れないカタルシスがある。しかし、それはそれ単体で成り立っているわけではない。
     物語とは「波」。
     山あり谷ありで初めて成り立つもの。
     だからこそひとは既に展開がわかっていて、しかも表現として特別に情報量が多いわけでもない同じ物語をくり返しくり返し楽しんだりするのだとぼくは考えます。
     ストーリーはたしかにパターン化しやすく、一見すると簡単に模倣できそうに見える。
     だから、物語作家はしばしば低く見られ、ストーリーの価値は軽く受け取られることもある。
     しかし、そうではない、優れた物語作家とは天才的な表現者と同じくらい貴重な存在なのだ。ぼくがいいたいのは、そういうことです。
     それでは、