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タグ “俺の妹がこんなに可愛いわけがない” を含む記事 16件

『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の物語のなかで、黒猫はたしかに「生きている」。

 昨日、今日で『せんせいのお人形』の第5巻と『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』の第10巻(電子書籍版)が出ました。う、嬉しい。  何年生きていても好きなシリーズの新刊が発売される歓びは消えないなー。もう、ほとんどそのために生きているといっても過言ではない感じ。  ちなみに来月には『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の第16巻、『ミステリと言う勿れ』の第8巻、『恥ずかしそうな顔でおっぱい見せてもらいたい 赤面おっぱいアンソロジー』の第6巻(ん?)も出るので、楽しみは続きます。わーい。  おもしろいラノベや漫画を読めるのって、なんて幸せなことなのだろう。金銀財宝にもまさるはこれ漫画なり。ぼく、小説や漫画が読めなくなったら何も生き甲斐がないかも。  そのなかでも殊に期待度が高いのは『俺の妹がこんなに可愛いわけがない(16)』。本編は12巻で完結しているので、この第16巻はそのパラレルワールドを描く、いわゆる「黒猫if」編です。  本編ではついに主人公と結ばれることなく終わってしまった黒猫が、このシリーズではメインヒロインを務めていて、前巻ではようやくふたりは恋人どうしになったわけなのですが、まだ最大の障壁は残っている状態。  さて、いったいどのような展開が待ち受けているのでしょうか……。まあ、ここまで来たらもうハッピーエンドは間違いないので、その意味では本編のようなハラハラドキドキのサスペンスはないのだけれど、それでもやはり気になるものは気になる。  思うに、人が「続きが気になる」というときにはふたつパターンがあって、ひとつは純粋に先の展開が読めないとき、そしてもうひとつは、 

『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の物語のなかで、黒猫はたしかに「生きている」。

「友達探し系」ライトノベルをリアルに実践してみたら?

 こんな記事を読みました。  もちろん現実社会のつながりが1番大切だけれど、SNS上のお友達も当たり前になってきた世の中。  スマホやゲームに夢中になりすぎるのは問題だけれど、ゲームみたいに自分の周りにたくさんワールドがあることを知るのは、子供の生きやすさにつながる気がしている。  私自身友達がいなかった中学時代にスマホやゲームやTwitterがあったらどれだけ救われただろうと思うから。 http://yutoma233.hatenablog.com/entry/2016/06/01/073000  うーむ、どうなんでしょうね。  たしかに「スマホやゲームやTwitter」は友達がいない孤独を癒やしてくれるかもしれないけれど、「LINE疲れ」とか「バカッター」みたいな話を聞くと、SNSがないほうがよほど楽だったのではないかと思わないこともありません。  まあ、そういいながらもぼくはもうLINEなしでは生きられない身体になってしまったので、自分より若い層にSNSをやるなとはとてもいえないのですが。  でも、リアルとネットで同じ人間関係を維持しないといけないのって疲れるよね。  SNSも過去のメディアと同じく、プラスの面とマイナスの面を備えているようです。と、ここまでは話の枕。  ぼくはいまとなってはそれなりに友達もできて、その意味ではわりに充実した生活を送っているわけですけれど、そうかといって友達がいない生活が良くないと思っているかというと、そうでもないのです。  もしぼくに友達がいなかったら、それはそれで、ひとりで本を読んでブログを更新していたでしょう。それもまた悪くない人生だったかもしれないとも思う。  ぼくはインターネットに出逢うまで20年くらい理解者ゼロのままひたすら本を読む生活をしていたわけで、本質的にはそんなに孤独はいやだと思っていないのです。  何より、読書とはそもそも孤独な行為です。  電子書籍や感想サイトの充実でいくらかソーシャル化が進んではいるにしても、基本的にはひとりで本を向かい合わないといけないことに変わりはない。  その孤独に耐えられる者だけが読書の豊穣を知ることになる。  それはあるいはFacebookで友達が何百人いるとかいうことを誇っている「リア充」には理解できない楽しさであるのかもしれません。  でも、いまなお、ぼくは読書以上の歓びを知らないのです。  本を読み始めてから30年以上経って何千冊読んだか知れないけれど、一向に飽きない。たぶん1000年くらいは余裕で読みつづけられるだろうと思う。孤独には孤独なりの歓びがあるのです。  ペトロニウスさんがよく「お前のいうことはわからないとずっといわれつづけてきた」と話しているけれど、べつにペトロニウスさんに限らず、一定以上個性的な人間は周囲に理解者など見つけられないのが普通なのですね。  本なんて読めば読むほど周囲の人にわかってもらえなくなるものですから。  SNSの発達によってひとは孤独から逃れやすくなったかもしれませんが、そのぶん、「ひとり孤独に自分の内圧を高める」訓練をしづらくなったのかもしれないとも感じます。  しかし、まあ、そうはいっても自分が考えたことをだれかと「共有」できることはやっぱり嬉しいものです。  ここ何年かのライトノベルで流行った、ぼくが「友達さがし系」と呼んでいるパターンの物語は、大抵が趣味を共有できる仲間を探してグループを作るという形を採ります。  それは「SOS団」であったり、「隣人部」であったり、あるいは『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のオタク仲間集団であったりするわけですが、ああいうものを作りたくなる気持ちはぼくはリアルにわかります。  というか、 

「友達探し系」ライトノベルをリアルに実践してみたら?

『エロマンガ先生』アニメ化おめでとう。でも……。

 伏見つかささんの人気ライトノベル『エロマンガ先生』がアニメ化決定したようです。  ぼくは第1巻が発売された頃から「この作品はアニメ化する」といってきたので、予想があたったことになります。  べつに自分の先見の明を誇るつもりはありませんが(普通に読めばだれだって予想できるでしょう)、「ああ、やっぱり」とは思いますね。  伏見さんにとっては『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』に続くアニメ化になるわけで、二作続けてきちんとあてて来るあたり、さすがだなあ、とも感じます。すごいすごい。  ただ、この作品に関しては微妙に絶賛しきれないものを感じるのもたしかではある。  文章やキャラクター造形力やバランス感覚はものすごいレベルに達しているのだけれど、そのぶん、新しいチャレンジがないと感じてしまうのですね。  もちろん、堅実に作品を作りこんでいくのはひとつの手ではあるのだけれど、どこか保守的になってしまっているのではないか、という懸念を覚えます。  いったんディフェンスに入ってしまったら、いくら才能と実力を兼ね備える作家といえども新しい読者を獲得していくことはむずかしいでしょう。  まあ、ぼくがそう思うだけではあるのですが、はっきりいってしまうなら、『エロマンガ先生』は『俺妹』から、批判を受けそうな要素をすべて取り除いた作品であるように感じられるのです。  『俺妹』における「毒」の部分は薄くなり、実の兄妹のラブストーリーという物議をかもすテーマも義理の兄妹という設定になった。  おかげで、この作品に特に批判するべきところはないように思われます。でも、なんだろう、この隔靴掻痒な感じは?  たしかにずば抜けて完成度の高い、素晴らしい作品ではある。  しかし、あまりにもチャレンジとサスペンスがないように思えてならない。  ぼくの言葉を使うなら「置きに行っている」ということになりますが、勝率の高い安全圏で勝負しているという印象が強いのです。  まあ、それの何が悪いのだといわれたらそうなのだけれど、もう少し挑戦してくれてもいいのになあと思ってしまう。  『俺妹』の最終巻が賛否両論の内容だっただけに、今回は批判を受けないように調整して来たのかもしれませんが、ぼくにはそういう態度はあまり好ましくないように思われます。  いや、ほんとうにものすごくよくできたお話ではあるのですよ。  第6巻にしてアニメ化が決まるくらいの人気もうなずける、最高に洗練されたライトノベルだといっていいでしょう。  「エロマンガ先生」なんていうタイトル自体、前作に続いてうまいところ突いて来るなあと思うし、各キャラクターの活き活きとした描写は素晴らしいのひと言です。  文字のなかの存在であるにすぎないのに、あたかもそこに生きて動いているかのような躍動感。  これはほんとうに優れた作家だけが生み出すことができる「生きた」キャラクターの存在感です。  そういう意味ではほんとうに文句を付けるのが申し訳なくなるくらい、非常に素晴らしい作品であることは間違いない。  ただ、 

『エロマンガ先生』アニメ化おめでとう。でも……。

オシャレでアクティヴな「リア充オタク」はほんとうにオタクなのか?

 一昨日のことになるでしょうか、『ZIP』という番組で「リア充オタク」の特集を放送したそうで、Twitterなどの各種SNSでこのワードが話題になっていました。  この番組そのものはもう確認しようがないので(探してみればどこかにアップされているかもしれないけれど)、「リア充オタク」という言葉の元ネタであるらしい原田耀平『新・オタク経済』を読んでみました。  結論から書くと、それほど目新しいことは書かれていません。  だいたいいままで出た情報で説明できるというか、予想通りの内容。  一冊にまとめたことに価値があるかも、って感じ。  ぼくが観測している限り、「ライトオタク」と呼ばれるオタクカルチャーのカジュアル消費層がネットで語られ始めたのは10年くらい前。  その頃は批判的なトーンでの意見が多かったように思います。  オタクは本来、過酷な修行の末にたどり着く崇高な境地であるべきなのに、最近のオタクのぬるさたるや何ごとじゃ、みたいな内容ですね。  『新・オタク経済』にも記されているように、この「ガチオタによるヌルオタ批判」という行為はその後も延々と続き、いまでもまだ続いています。  今回、「リア充オタク」という言葉が出て来たときに巻き起こった「そんなのオタクじゃない!」という意見は、典型的なガチオタによるライトオタクへの反発に思えます。  たしかに、本書で著者が定義している「リア充オタク」の多くは、旧来型の定義ではオタクに含まれない存在かもしれません。  しかし、じっさいにかれらがオタクを名乗り、また周囲からもオタクと認められているという事実はあるものと思われます。  第二世代や第三世代のオタクがいくら「そんなのオタクじゃない!」と叫んでも、実態が変わってしまっているのだからその声は届かない。あまり意味のある批判にはなりえないのですね。  じっさい、オタク文化へのカジュアル層の流入という現象はこの10年間で至るところで目にしていて、岡田斗司夫さんが「オタク・イズ・デッド」とかいい出したのもその関連でしょうし、『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』などという本ではヤンキー文化との接近という形で同じ現象が語られています。  オタクのライトオタク化とヤンキーのマイルドヤンキー化はパラレルな現象なのですね。  だから、まあ、「リア充オタク」と呼ぶべき層の出現は、必然といえば必然なのです。  この傾向の端緒はニコニコ動画の開設であると思われるので、ぼくらニコ動利用者にとっても無関係とは思えません。  もっとも、ぼくのブログを「リア充オタク」が読んでいるとはあまり思われませんが……。  そんなに長いスパンの話ではなく、ここ2、3年だけを取ってみても、オタク文化は相当普及したように思えます。  『ラブライブ!』のソーシャルゲームが国内1000万ユーザーを突破したとか聞くと、隔世の感がありますね。  アクティヴユーザーがどれだけいるかは別に考えるべきだとしても、1000万という数字はコアなファンだけでは獲得できません。  もはや、スマホで『ラブライブ!』をプレイしている若者は「普通」であり、特筆するべき存在ではなくなっているのでしょう。  ボカロ小説が何百万部売れた、とかいう話を聞いても同様の感慨を抱きます。  時代は変わったんだなあ、ということですね。  で、この現象をどのように受け止めるかなのですが、ぼくは基本的には「良いこと」だと思っています。  カジュアル層が広がらなければ文化の発展はないわけで、一部のマニアだけに好まれていた文化が大衆的に広まっていくことは良いことかな、と。  もちろん、そのなかには本書で書かれているような「エセオタク」も混じっていたりするでしょうし、旧来のオタクとしては面白くないことも多いかもしれません。  ですが、いつだって時代はそういうふうにして変わっていくもの、変化を否定しても始まりません。  もうひとつ付け加えておくなら、オタク自己言及ライトノベルの「脱ルサンチマン」の流れもこのオタク文化のカジュアル化とパラレルな関係にあるでしょう。  時代的にはわりと新しいけれど内容的にはちょっと古い印象を受ける『冴えない彼女の育てかた』と、その同時代作品ながら当時としては斬新だった『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『僕は友達が少ない』、そして最新型の『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』を読み比べてみると、ライトノベルのオタク描写が変わっていっている様子がわかると思います。  ぼくはそれを「脱ルサンチマン」と呼ぶわけですが、「リア充」を敵視し、オタク文化の神聖不可侵を守ろうとする気概が、あきらかになくなって来ている。  同じ平坂読の『僕は友達が少ない』と『妹さえいればいい。』を比べるのがいちばん明瞭でしょうが、オタク文化は既にコンプレックスとかルサンチマンとは無縁のところまで来ているのです。  それはオタク漫画の代表格である『げんしけん』の内容的な変遷を見てもあきらかでしょうし、また、『ヲタクに恋は難しい』みたいな漫画が出て来ることもひとつの必然なのでしょう。  ネット上では「リアリティがない」とか「こんなのオタクじゃない」とこき下ろされたりもしていますが、『ヲタクに恋は難しい』で描かれているような「リア充オタク」は普通に実在するようになっていると考えるべきです。  そこまで状況は変わって来ているのですね。  そういうわけで『新・オタク経済』の基本的な論旨には文句はないのですが、脇の甘いところがいくつかあって、なかでも旧来のオタクに対する描写には苦笑させられるばかり。  結局のところ、「オタクは暗くて非社交的、ファッションはダサくてモテないが自分の好きなことには夢中」というイメージは残存され、それがほんとうにそうなのかの検証は行われないのです。  この本のなかで前世代のオタクの代表的イメージとして語られているのは、映画『電波男』の主人公なのですが、この映画がどれだけ的確に当時のオタクを代表し、あるいは象徴しているか、という検証は一切実施されません。  本書のなかではかつてのオタクが「ダサくてイタい人たち」だったことは既成事実として語られているように思います。  ぼくはべつにそういう傾向がなかったとはいいませんが、当時のオタクが全員が全員そういうふうだったわけではないはずで、ここらへんの偏見をそのまま使用していることには疑問を感じざるを得ません。  まあ、本書のテーマが第四世代以降の新しいオタクたちである以上、そこはどうでもいいのかもしれませんが、どうも偏見を助長するカテゴライズであるように思えてならないんですよね。  これはあらゆるカテゴライズにいえることですが、じっさいには大半の人はそれらのカテゴリにきれいに収まりきるというよりは、グレイゾーンのところにいるわけです。  それを「リア充オタク」はこうだ、「イタオタ」はこうだ、といってしまうと、途端に見えなくなるものがある。  特に腐女子に関する記述は強烈なバイアスの存在を感じさせずにはいられません。本書にはこう記されています。  当然、イタオタは男性ばかりではありません。BL(男性同士の恋愛)モチーフの作品を好み、自らを「腐女子」と自称する女性たちも、多くはイタオタに分類されます。彼女たちは、そもそも自分たちの趣味嗜好を同好の士以外に啓蒙しようという気がないため、非オタクに対する社交性は低い傾向にあります。  そして、腐女子の特徴として、特徴のあるイラストとともにこう列挙されている。 ・変わり者が多い ・Twitterではやたらとテンション高い ・男性声優のツイートをリツイート ・イケメンを見ると脳内でカップリングにしてしまう ・ゴスロリ系と思しき服装 ・一人称が「ボク」な子もいる ・家ではジャージで過ごしているがコミケなどのお出かけは気合をいれた服装 ・普段の外出は母のおさがりの婦人服 ・郊外にある大型衣料店で買ったバッグ ・手作りのビーチアクセが目いっぱいのおしゃれ ・薄い本(BL同人誌)大量購入 ・スカートは嫌いだけどちょっとおめかし  こんな奴いない、とはいいません。ある程度はこういう人もいるでしょう。  しかし、 

オシャレでアクティヴな「リア充オタク」はほんとうにオタクなのか?

伏見つかさ『エロマンガ先生』の神がかった完成度にいまさらながら驚く。

 伏見つかさ『エロマンガ先生』の最新刊を読みました。  ベストセラーになった代表作『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』に続く新シリーズであるわけですが、前作に負けず劣らず面白いです。  始まったときは「ちょっと守りに入っているんじゃないの?」などと思っていたのですが、なかなかどうして、ここまで堅実に続けられると降参するしかない。  圧倒的な完成度に全面降伏です。  『エロマンガ先生』の主人公は高校生ライトノベル作家。  そこそこ才能があり面白いものを書いてはいるものの、あまりヒット作には恵まれていないという状況。  かれには義理の妹がひとりいるのだけれど、自室にひきこもって出てこない。  ある日、ささいな偶然から、その妹が自作に絵を付けてくれているイラストレーター「エロマンガ先生」であることがあきらかとなるのだが――と話は進みます。  人気作家やらイラストレーターがことごとく中高生であるあたり、荒唐無稽といえばそうですが、ライトノベルとしては十分に「あり」な設定でしょう。  偶然にも、というか必然なのかもしれませんが、平坂読が同時期にやはりライトノベル作家を主人公にした『妹さえいればいい』を書いています。  ぼくはどちらも好きなのですが、じっさい読み比べてみるとかなり作家性の違いを感じます。  ネタがかぶったりしているから非常にわかりやすい。  あえていうのなら、『妹さえいればいい』はわりに現実的な年齢の作家を主役に据え、徹底的にディティールに凝って見せているのに対し、『エロマンガ先生』は完全にファンタジーに走っている印象がある。  いや、もちろん『妹さえいればいい』も非現実的な話ではあるのだけれど、そこにはひとさじの「毒」が垂らしてあって、奇妙にリアルに思えてくるのです。  まあ、『エロマンガ先生』に毒がないわけでもないけれど、その毒は慎重に量が測られていて、決して一定のレベルは超えないよう調整されている、という感じを受ける。  根本的に世界がひとに優しいというか、あまりひどいことが起こらないよう守られている世界なのだと思うのです。  いや、物語の始まる前には交通事故で主人公の義母が亡くなっているので、何もかも幸福な世界、というわけではない。  それなりに一定のリアリティに配慮が行われているのはたしかなのだけれど、それでも登場人物がみないい人で、深刻な裏切りがないという意味で、牧歌的な世界ということができると思います。  それを指して、甘ったるいファンタジーに過ぎないという人はいるかもしれません。  しかし、作者はこのファンタジーを成立させるためにどれほど繊細な努力をしていることか。  それはなんというか、ほとんどジャック・フィニィあたりのファンタジー小説を思い起こさせるほどなのです。  いや、ぼくもみんなが幸せで、みんなが互いに思い合っていて――というのは、やはりウソであるとは思うんですよね。  でも、 

伏見つかさ『エロマンガ先生』の神がかった完成度にいまさらながら驚く。

傑作? 凡作? 伏見つかさ最新作は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を超えられるか。

 さて――このところアニメの話ばかり続けたので、きょうはライトノベルのことを書くことにしよう。  ここに取り出したるは伏見つかさの最新シリーズ『エロマンガ先生』! その最新刊! きのう発売されたばかりのぴっかぴかの一冊。これをいまから罵倒の限りを尽くして口汚く貶してやろうと――うわっ、何する、何だお前ら、やめ(以下略)。  というのはイッツジョーク(寒い)、ただ、昨日発売の『エロマンガ先生』最新刊を購入したことはほんとう。「本物のエロマンガ先生」を名のるなぞの人物登場というクリフハンガーで終わった前巻も良かったが、この巻も面白い。  エロマンガ先生と正体不明のイラストレーター「エロマンガ先生G(グレート)」の間でイラスト勝負の火蓋が切って落とされるという燃える展開!  はたしてエロマンガ先生Gとは何者なのか? 必殺の「エロマンガ閃光(フラッシュ)」は炸裂するのか? 某大手動画サイト(どこだろ?)を舞台にくり広げられる勝負の行方は萌えイラストの神のみぞ知る!  というわけで、きょうは期待と興奮の『エロマンガ先生』第4巻の話。そもそも『エロマンガ先生』を知らないという不勉強な読者のために一応は解説しておくと、この作品は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』で大ヒットを飛ばした伏見つかさが『俺妹』に続いて電撃文庫から送り出したライトノベル。  前作に続いて妹もの、イラストレーターも前作と同じかんざきひろということで、発売前には多くの読者に「どうなんだろ?」と思われていたであろう作品なのだけれど、現実に発売されたものを読んでみると、これがまあ良くできている。  リーダビリティ抜群の文章といい、紙面狭しと躍動するキャラクターたちといい、あいかわらず可愛らしいイラストレーションといい、文句なしに出色の出来なのであった。  じっさい、挑発的とも見えるタイトルに反し、お話の内容はすこぶる堅実。ライトノベルの書き方教室があったら教科書に採用したいくらいのクオリティ。  中高生のベストセラー作家や天才イラストレーターが次々と出て来る設定にリアリティがないという批判もあるようだけれど、そもそもライトノベルで設定の現実性を問うことじたい意味がない。  べつに現代文学の潮流に棹さす一作を目指しているわけではなく、あくまで一本のライトノベルとして面白いものを志しているだけなのだから、特に現実的な設定を採用する意味はないだろう。  いや、ほんと、よく出来た少年読者向けエンターテインメントなのですよ。秀作。  ――というところで終われれば良いのだけれど、残念ながらもう少し付言せざるを得ない。というのもこのシリーズ、きわめて完成度が高いことは論をまたないことながら、じっさい読んでみると、もうひとつ、ふたつ、物足りない印象が強いのだ。  これはぼくの個人的な感想に過ぎないから、「めちゃくちゃ面白い!」と感じているひともいるだろうけれど、ぼくは高い完成度のわりにいまひとつ物足りないと思っている。  間違いなく考え抜かれた作品ではあるんだけれど、何というか、「無難」だよなあ、と。『俺妹』の熱心な読者だったぼくとしてはどうしても『俺妹』と比較してしょんぼりしてしまうのである。  いや、『エロマンガ先生』、あるいは作品のクオリティとしては『俺妹』よりさらに高いかもしれない。  『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は作者としては計算外の要素が入った作品だったはずだ。純粋に構成だけを見れば『俺妹』の展開はわりとめちゃくちゃである。  行き当たりばったりとはいわないまでも、勢いまかせなところがある。最終的にほとんどの伏線を拾ったことはたしかだが、ネットを見る限り、最終巻は賛否両論の内容だった。  それに対し、『エロマンガ先生』は十分に計算して作品世界を構築している印象が強い。主人公とメインヒロインが血の繋がらない兄妹であることはあらかじめ示されているし、各キャラクターとも嫌味なく描かれている。  萌え耐性がない一般読者はともかく、ライトノベルをそこそこ読み慣れている人間なら、この小説を読んでいやな気持ちになるひとは少ないだろう。  何より、文章がでたらめに読みやすい。いったん物語のなかに入ったら、あっというまにラストまで連れて行かれるようなスピーディーな快感がそこにはある。  読者にとって読みやすい文章を書くためには作者は恐ろしく苦労しなければならないわけで、伏見つかさが懸命な努力の末にこの作品を組み立てたことをぼくは疑わない。  しかし――そう、しかし。それでもなお、ぼくはこの小説を読むとき、一抹の物足りなさというか、歯ごたえのなさを感じずにはいられないのである。もう少しで傑作にたどり着けるだけの出来ではあるのだけれど、どうにも「置きに行っている」印象が強いな、と。  「置きに行く」とはもともと野球用語で、投手がフォアボールを恐れてストライクゾーンにボールを「置きに行っている」かのような配球を行うことを指している。  そして、それが転じてお笑いなどで無難なネタで勝負することを意味するようにもなった。ここでぼくが「『エロマンガ先生』は置きに行っている」というのは、つまりはこの作品がいかにも無難なネタで勝負しているという意味である。  そう、『エロマンガ先生』に読んでいてヘイトが溜まるような仕掛けはほとんどない。どこまで行っても、平和で、明朗で、穏やかな笑いが続いていて、晴れた日にひなたぼっこをしているような気分になれる一作なのである。  作品のどこを切り取っても、文句を付けるようなポイントはないのだ。それはまあ、現実感に乏しいことはたしかだが、先述したようにそこはライトノベルにとって欠点にならない。とはいえ、それでもやはり物足りなさを感じることは事実。どこかに何か足りないものがあるのだ。何だろう? 

傑作? 凡作? 伏見つかさ最新作は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を超えられるか。
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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