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記事 3件
  • 庵野秀明のオリジナル幻想と奈須きのこの偽物論。

    2018-02-13 12:54  
    50pt
     『ファイブスター物語』の第14巻が出ました。今回は魔導大戦序盤のベラ国攻防戦。ソープとラキシスを初め、オールスターキャストが関わる豪華な巻となっています。
     また、今回は一巻まるまる戦争ということで、凄まじい量のキャラクターが登場し、情報量も膨大です。
     憶え切れない読者をかるく振り落としていくこの傲慢さ。これぞ『ファイブスター物語』という感じですね。
     前巻の総設定変更で不満たらたらだった読者にもこの巻は好評のようです。作家が実力で読者をねじ伏せてしまった印象。
     『HUNTER×HUNTER』なんかもそうだけれど、読者の不満を無理やり封じ込めてしまうくらいの実力って凄いですよね。
     ここには作者が神として君臨する形の作品の凄みがあります。
     ぼくはソーシャルゲームの『Fate/Grand Order』を遊んでいるのですが、『ファイブスター物語』のような古典的な作りの作品とはまるっきり印象が違う感じです。
     『FGO』はどちらかといえば作り手と受け手、そして受け手同士のコミュニケーションに面白さがあると思うのですよね。
     つまり、作り手が作品を投げかける。すると、読者がそれを二次創作を初めとするあらゆるやり方で消費していく。それが『FGO』のようなコンテンツの魅力。
     『FGO』のシナリオが傑出して面白いとはぼくは思わないのだけれど、膨大なキャラクターを使ってしょっちゅう「お祭り」を繰りひろげている楽しさはたしかにある。
     いま、『ファイブスター物語』のスタイルを「古典的」と書きましたが、さらに時代をさかのぼればおそらく物語は作り手と受け手のコミュニケーションのなかで可変的に綴られていたはずなのですよね。
     作家が神のごとく作品世界をコントロールするようになったのは紙の本による出版というシステムが成立してからでしょう。
     その意味では、『FGO』のようなスタイルは超古典的といえなくもないかもしれない。
     何百年も何千年も昔、人々が焚き火を囲んで話しあい物語を紡いでいったことのデジタルな再現というか。
     実はいまから20年以上前、1996年の段階で、庵野秀明さんがこれに関して鋭い指摘をしています(https://home.gamer.com.tw/creationDetail.php?sn=863326)。

    庵野秀明:
    『ガンダム』のとき、すでに(監督の)富野由悠季さんが、自分の仕事とはアニメファンにパロディーとしての場を与えているだけではないかという、鋭い指摘をなされていた。僕もそれを実感したのは『セーラームーン』です。あのアニメには中味がない。キャラクターと最低限の世界観だけ、つまり人形と砂場だけ用意されていて、そこで砂山を作ったり、人形の性格付けは自由です。凄く使い勝手のいい遊び場なんですよ、アニメファンにとって。自分たちで創作したいのに自分から作れないという人たちにはいいんでしょうね、アニメーションは。(作品が)隙だらけですから。『エヴァ』もその点でよかったようです。所詮(キャラクターは)記号論ですが。

     
     ぼくのいい方をすると、庵野さんは「神」としてオリジナルな作品を作りたいのに作れないということで悩み、最終的に「自分自身の人生だけがオリジナル」ということでああいう物語を作りだしていったわけです。
     この後、20年かけて「人形と砂場」の方法論は洗練されていき、『FGO』のようなコンテンツというか「場」が生み出されることになった。
     それはもちろん「小説家になろう」あたりとパラレルだし、とても現代的な現象ではあるのだけれど、ひょっとしたら庵野さんあたりは苦々しく考えているかもしれない。
     ただ、オリジナルな表現という幻想だとか、作者が「神」として完成されたコンテンツを送り出すというシステム自体が近代独特の特殊な方法論でしかないことを考えるなら、『FGO』的な作品を一概に非難することもできないはずです。
     さらにはこういう意見もあります。

    興味深いのは、ここで、僕の中で逆転現象が起きたこと。
    基本、アニメ・マンガが大好きで、その話がしたくて、「場」を求めていたんです。
    それは今も変わりません。未だにプリキュア5とかけいおん!とかアイマスとか凸守とか山田葵とかみつどもえとかガルパンとか上坂すみれとかアスカとかアスカとかアスカとかの話したくて、うずうずうずうずしてますよ。
     
    でも、「今期何見てる?」って言うようになってる自分にも気づきました。
    もう話す「仲間」がいるから、そこで会話の題材となる作品を、逆に「場」にしているんですよ、ぼくが。
    「題材があるから場を求めている」んじゃなくて、「自分のいる地点で、砂場となる題材を求めている」にひっくり返っていることが稀にある。
    これ自体が、意外にも楽しいじゃないかと。
    http://makaronisan.hatenablog.com/entry/20130423/1366738022

     うん、まあ、わかる。じっさい、砂場と人形さえあればいくらでも楽しめることはたしか。LINEで『FGO』の話をしてTwitterで二次創作漫画をあさっているだけで十分に楽しいもの。
     庵野さんふうにいうなら、『FGO』は現代日本で最も成功した砂場で、英霊たちは最も魅力的な人形なのだと思います。
     しかし、そこではかつての奈須きのこの才能の鋭さは陰をひそめている。ちょっと残念ではありますね。
     『Fate/stay night』では「偽物」という言葉がひとつのテーマになっていました。
     庵野さんがオリジナルにこだわるのに対し、より下の世代の奈須きのこは「偽物」でしかありえない自分をより肯定的に受け止めようとしているように見える。その果てに『FGO』がある。
     そうだとすれば、『FGO』を否定的に捉えることはできないのかもしれない。ぼくはどうしてももうひとつ物足りないのだけれど……。
     作者が「神」として振る舞う宗教型コンテンツと作者も含めて「場」を楽しむ砂場型コンテンツ。現時点ではどちらが優れているともいえませんが、今後、状況がどう変化していくのか、注目したいところです。 
  • アニメはほんとうに女性を差別しているのだろうか。

    2017-09-07 05:00  
    50pt
     先日、「本を書きたい!」といった通り、アニメや漫画、ライトノベルなどのポップカルチャーとジェンダーについての本を、どこで発表するあてもなく(笑)書いています。
     とりあえず20000文字くらいは達したかな。書いたら推敲しなければならないので単純にどこまで仕上がったとはいえませんが、まあ、それなりに進んではいます。
     で、ぼくがそういう本を書こうと思い立ったのは、既存のこの種の本に文句があるからなんですねー。どうもこの手の本はあらかじめ「アニメやマンガのなかにはひどい性差別があるに違いない!」という結論を決めてしまって、それに見合う作品ばかりを取り上げているように思われるのです。
     もっとひどい場合には、ありもしない問題を見つけ出してしまっていることすらある。
     いや、ぼくはアニメやマンガのなかに性差別的描写が存在しない、といいたいわけではありません。ジェンダーの呪縛は大いにあるでしょう。
     しかし、すべてのアニメ/マンガ/ラノベが一様に性差別の標本として使えるわけではないし、なかにはそこらの学者の本よりよほど先進的な内容の作品もあるはずなのです。
     それを上から目線で「サベツしているに決まっている!」と決めつけるのはいかがなものか。たとえば、水島新太郎さんの『マンガでわかる男性学』にはこのような記述が存在します。

     近年、マンガのなかに描かれる女性像には大きな変化が見られます。これまで母親や恋人といった脇役を押し付けられてきた女たちが、男から独立した、強くてたくましい女として描かれるようになったのです。
     ガンダム・シリーズでは、マリュー・ラミアス(『機動戦士ガンダムSEED』)やスメラギ・李・ノリエガ(『機動戦士ガンダム00』)が、艦長として活躍しますし、スポーツマンガでは、百枝まりあ(『おおきく振りかぶって』)や相田リコ(『黒子のバスケ』)が、監督・コーチとして重要な役割を担います。『少女革命ウテナ』では、王子様になることに憧れ、自分を「ぼく」という一人称で語る男装の少女・天上ウテナが、男顔負けの戦いぶりを見せてくれます。
     しかし、彼女たちは、本当に男から独立した、強くてたくましい女たちなのでしょうか。
     『機動戦士00』の女艦長・スメラギは、重度のアルコール依存に苦しむ女として描かれていますし、女監督を務める百枝まりあや相田リコにしても、物語の主体として描かれることはありません。『少女革命ウテナ』に登場する女たちも、シリーズ構成を務める榎戸洋司いわく、「男に守られる女であり、守ってもらえるよう試行錯誤する女」でしかないのです。
     『ベルサイユのばら』のオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ、『美少女戦士セーラームーン』の月野うさぎ、『スレイヤーズ』のリナ=インバースなど、悪者と戦う強くてたくましい女主人公たちにも同じことが言えます。オスカルにはアンドレ、月野うさぎにはタキシード仮面、リナ=インバースにはガウリイがいるように、彼女たちはみな、守ってくれる男ありきのヒロインなのです。

     えー(疑いの声)。それはないでしょ。まさにそういう女性像を生み出す社会構造からの脱出をテーマにした作品であることを無視して、『ウテナ』の女性キャラクターを、榎戸さんの発言(出典がないぞ!)を引いて「「男に守られる女であり、守ってもらえるよう試行錯誤する女」でしかない」と総括するのもどうかと思うけれど、それ以上に後半が問題。
     まあ、百歩譲ってオスカルや月野うさぎはまだ良いとしても(ほんとうは良くないわけですが)、どう無理筋の解釈をしてもリナ=インバースが「守ってくれる男ありきのヒロイン」だとは思えません。
     たしかにリナはガウリイに助けられることもあるけれど、その反対にガウリイを助けることだってある。一方的にガウリイに頼って守ってもらっているわけではまったくないのです。
     もし、リナの描写では「男から独立」度が足りないというのなら、いったいどんなキャラクターなら十分に主体的で独立していることになるのかと問いたいくらい。
     この本にはほかにも納得のいかない箇所がたくさんあるのですが、ようするに、ぼくにはただ自論を補強するために漫画作品を利用しているように思えてならないのですね。
     あるいはそうでなければ、初めから上から目線で作品を見ているので、作品を読んでいても読めていないことになっている。
     「ライトノベルが自立した女性なんて描いているはずがない」とあらかじめ結論を固定しているから、じっさいには存在しない「守ってくれる男ありきのヒロイン」が見えてしまうのではないかと思えてなりません。
     ぼくはこういうのが嫌なんですよねー。作品に対し特に愛情も敬意もない人たちが自分の主張を強化するためにアニメやマンガのなかのジェンダーを批判するという、あまりにも偏った構図。
     これと同種の本である『お姫様とジェンダー』や『紅一点論』にも似たような不満を感じました。
     アニメやマンガのなかのジェンダーを批判するな、とはいいません。大いに批判してもらってけっこうだけれど、そのときは偏見に曇らされていない目で見てほしいと思うのです。
     その意味では、高橋準『ファンタジーとジェンダー』は良かった。この本はファンタジー小説のなかのジェンダー描写を取り上げて問題にしているのですが、よくある『指輪物語』などの名作どころだけではなく、『グイン・サーガ』や『十二国記』といった作品まで取り上げているのが面白いところです(できれば『カルバニア物語』も扱ってほしかったけれど、ひょっとしてこの本の刊行時期は『カルバニア物語』の開始より前なのかな)。
     『グイン・サーガ』を初めとするファンタジー小説の男性中心性に関してはぼくはかねて疑問を抱いていたので、この本の語るところには非常によく納得できました。
     まあ、『西の善き魔女』なんかは、あえてその構造を踏まえてメタ的にずらしているのでひと口にはいえないのだけれど。
     とにかくぼくはここら辺の本を踏まえて、ぼくなりの本を書きたいのです。しかし、はたして書けるかな……? うん、まあ、がんばります。うす。ふぁいと。おー。 
  • 聖母セーラームーンから『エヴァ』、『ピングドラム』へ続くさみしさの物語の系譜。(2222文字)

    2013-09-11 12:40  
    52pt




     YouTubeでレンタル可能になっていたので劇場版の『美少女戦士セーラームーンR』を観てみました。
     監督は『少女革命ウテナ』、『輪るピングドラム』の幾原邦彦。いやー、幾原さん、『ウテナ』の前は『セーラームーン』を作っていたんですね。
     ぼくは『セーラームーン』には全く詳しくなく、原作を読んでいない上にアニメ版を観るのはこれが初めて。
     まあセーラー戦士の顔と名前くらいは全員一致しますが(基礎教養)、基本的には何も知らないと云っていい状況でした。
     この『R』が名作と云われていることは知っていたけれど、あまり興味もなかったわけです。
     で、初見の感想はというと――なるほど、これはいい話だな。『セーラームーン』ってこういう構造の話だったのか。
     この劇場版の敵役は宇宙をさまよう少年フィオレ。おそらく十数年ぶりで地球に帰ってきたかれは悪魔の花キセニアンに心を支配され、かつて親友だった青年、衛(タキシード仮面)たったひとりをのこして人類を亡ぼそうとします。
     そこにセーラームーンたちが立ちふさがるわけですが、フィオレの絶望的な孤独を前に、次々と斃れていき――というお話。
     当然、最後はセーラームーンたちが勝利するわけですが、ただ暴力でフィオレを排除して終わるのではなく、フィオレの孤独を愛で抱擁する結末になっているあたりが幾原邦彦の作家性なのかな、と。
     フィオレは物語の最初から最後まで「さみしい」と口にしつづけます。そのどうしようもない「さみしさ」を癒せるのは唯一、衛との友情(ボーイズラブにしか見えないわけですが)。
     なぜなら、幼いころに家族を失った衛もまた癒やしえない「さみしさ」を抱えているからです。フィオレと衛は似たもの同士で、その頃に衛からもらった薔薇の花がかれにとっての宝物なのでした。
     大人になったフィオレはセーラームーンが衛を騙しているのだと決めつけ、彼女を攻撃します。しかし、セーラームーンはかれに無私の愛を見せつづけます。
     そして、物語の最後に、衛がフィオレに送った薔薇は実は幼い月野うさぎ(のちのセーラームーン)が衛に渡したものだということがわかります。
     つまり、フィオレが衛からもらったと思っていた愛情は、実はうさぎに端を発していたものだったのです。
     そのことを悟ったフィオレは地球を亡ぼすことをあきらめます。
     つまり、これはフィオレの孤独とセーラームーンの愛の対決とセーラームーンの勝利の物語なんですね。
     じっさい、この作品を見てみると、これが庵野秀明の『エヴァ』に影響を与え、また『ウテナ』や『ピングドラム』などに続いていくことはすごくよくわかります。
     これはまさに『エヴァ』や『ピングドラム』などの「さみしさの物語」の原点だからです。愛に飢えたさみしい子供たちのお話。
     『エヴァ』にしろ、『ピングドラム』にしろ、