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記事 6件
  • シャカイ系と新世界系とはどこが決定的に違うのか?

    2020-05-29 17:42  
    50pt
     ども。ここしばらく更新が途絶えていて申し訳ありません。ここら辺でちょっと読みごたえのある記事を書いて今月を締めることにしたいと思います。
     ぼくたち〈アズキアライアカデミア〉でいうところの「新世界系」のまとめと、「その先」の展望です。
     新世界系の発端である『進撃の巨人』の連載開始から11年、『魔法少女まどか☆マギカ』の放送から9年、いわゆるテン年代が終わり、2020年代が始まったいま、新世界系は新たな展開を迎えつつあるように思います。
     そこで、ここで「新世界系とはいったい何だったのか?」を踏まえ、「これからどのような方向へ向かうのか?」を占っておきたいと思うのです。
     まず、新世界系の定義についてもう一度、振り返っておきましょう。新世界系とは、そもそも『ONE PIECE』、『HUNTER×HUNTER』、『トリコ』といった一連の作品において「新世界」とか「暗黒大陸」と呼ばれる新たな冒険のステージが提示されたことを見て、「いったいこれは何なのか?」と考えたところから生まれた概念でした。
     そして、この「新世界」とは「まったくの突然死」すらありえる「現実世界」なのではないか、と思考を進めていったわけです。
     物語ならぬ現実の世界においては、『ドラゴンクエスト』のように敵が一段階ずつ順番に強くなっていって主人公の経験値となるとは限りません。最初の段階で突然、ラスボスが表れてデッドエンドとなることも十分ありえる、それが現実。
     したがって、ある意味では、新世界においては「物語」が成立しません。いきなり最強の敵が出て来ました、死んでしまいました、おしまい、では面白くも何ともないわけですから。
     そこで、「壁」という概念が登場します。これは、たとえば『進撃の巨人』のように、物理的、設定的に本物の壁である必要はありません。あくまでも「新世界(突然死すらありえる現実世界)」と「セカイ(人間の望みが外部化された世界)」を隔てる境界が存在することが重要なのだと思ってください。
     それは『HUNTER×HUNTER』では「海」でしたし、『約束のネバーランド』では「崖」の形を取っていました。とにかく残酷で過酷な「新世界」と「相対的に安全なセカイ」が何らかの形で隔てられていることが重要なのです。
     この「壁」の存在によって初めて新世界系は「不条理で理不尽な現実」をエンターテインメントの形で描くことが可能となった、といっても良いでしょう。
     それでは、なぜ、ゼロ年代末期からテン年代初頭にかけてこのような新世界系が生まれたのか? それは、つまりは高度経済成長からバブルの時代が完全に終わり、社会に余裕(リソース)がなくなり、状況が切迫してきたからにほかなりません。
     生きる環境がきびしくなっていくにつれ、人間の内面世界を描く「セカイ系」的な作品群からよりリアルな世界を描く「新世界系」へ関心が移ってきたわけです。
     これはどうやら、日本だけの現象というよりは、アメリカを含めた先進国である程度は共通していることらしい。ヨーロッパあたりのエンターテインメントがいま、どのような状況になっているのか不勉強にしてぼくは知らないのですが、おそらくそちらでも同じようなことが起こっているのかもしれません。
     さて、ここで以前も引用して語った評論家の杉田俊介氏による『天気の子』評をもう一度引いてみましょう。

    それに対し、帆高は「陽菜を殺し(かけ)たのは、この自分の欲望そのものだ」と、彼自身の能動的な加害性を自覚しようとする、あるいは自覚しかける――そして「誰か一人に不幸を押し付けてそれ以外の多数派が幸福でいられる社会(最大多数の最大幸福をめざす功利的な社会)」よりも「全員が平等に不幸になって衰退していく社会(ポストアポカリプス的でポストヒストリカルでポストヒューマンな世界)」を選択しよう、と決断する。そして物語の最終盤、帆高は言う。それでも僕らは「大丈夫」であるはずだ、と。
    象徴的な人柱(アイドルやキャラクターや天皇?)を立てることによって、じわじわと崩壊し水没していく日本の現実を誤魔化すのはもうやめよう、狂ったこの世界にちゃんと直面しよう、と。
    しかし奇妙に感じられるのは、帆高がむき出しになった「狂った世界」を、まさに「アニメ的」な情念と感情だけによって、無根拠な力技によって「大丈夫」だ、と全肯定してしまうことである。それはほとんど、人間の世界なんて最初から非人間的に狂ったものなのだから仕方ない、それを受け入れるしかない、という責任放棄の論理を口にさせられているようなものである。そこに根本的な違和感を持った。欺瞞的だと思った。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66422

     「狂った世界」。ここで何げなく使用されているこの言葉はじつに新世界系とその時代を端的に表現するキーワードだといえます。
     世界は狂っているということ、過酷で残酷で不条理で理不尽で、「間違えて」いるということこそが、新世界系の端的な前提なのです。
     新世界系とは、「この狂った世界でいかにして生きる(べき)か?」という問いに答えようとする一連の作品を示すといっても良いでしょう。
     しかし、杉田氏はここでその「狂った世界」は是正されるべきだという考えを示し、そういった想像力を「シャカイ系」と名づけます。杉田氏によればそういった「シャカイ系の想像力」こそ『天気の子』に欠けているものなのです。かれはさらに続けます。

     「君とぼく」の個人的な恋愛関係と、セカイ全体の破局的な危機だけがあり、それらを媒介するための「社会」という公共的な領域が存在しない――というのは(個人/社会/世界→個人/世界)、まさに「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観そのものだろう。そこでは「社会」であるべきものが「世界」にすり替えられているのだ。
     「社会」とは、人々がそれをメンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである。その意味でセカイ系とはネオリベラル系であり(実際に帆高や陽菜の経済的貧困の描写はかなり浅薄であり、自助努力や工夫をすれば結構簡単に乗り越えられる、という現実離れの甘さがある)、そこに欠けているのは「シャカイ系」の想像力であると言える。

     以前にも書きましたが、この認識は致命的なまでに甘い、とぼくは考えます。というか、若者層のシビアな実感からあまりにもずれているというしかありません。
     もちろん、我々個人と世界のあいだには中間項としての「シャカイ」が存在することはたしかであり、それを民主的な方法によって改善していかなければならないということは一応は正論ではあるでしょう。
     しかし、あきらかに時代はその「狂った世界」を変えることは容易ではなく、ほとんど不可能に近いという実感を前提にした作品のほうに近づいている。
     『フロストパンク』というゲームがあります。これは大寒波によって全人類が滅んだ時代を舞台に、「地球最後の都市」の指導者となってその街を導いていくという内容です。
     ぼくはまだプレイしていませんが(その前に遊んでおかないといけないゲームが無数にあるので)、プレイヤーが指導者として人を切り捨てたり見捨てたりするという倫理的に正しいとはいえない選択肢を迫られる内容であるらしい。
     このゲームの内容はある意味、現代という時代をカリカチュアライズしていると感じます。倫理的に正しく生きようにも、その「正しい選択」を行うためのリソースが不足しているというのが現代の実感なのだと思う。
     もっとも、これは必ずしも社会が衰退していることを意味しません。それこそ『ファクトフルネス』あたりを読めばわかるように、地球人類社会は全体としては確実に前進しているし、成長している。問題は、その結果として生まれたリソースが平等に配分されることはありえないということなのです。
     「狂った世界」とは、たとえば、一部に富が集中し、多くには不足するというモザイク状の状況を意味しています。日本を含めた先進国でも中産階級が崩壊し、都市市民はかなりギリギリのところにまで追いつめられているのがいまの現状でしょう。
     もちろん、これは放置していて良い問題ではない。だから、あるいは中長期的にはこの問題すらも解決されていくかもしれません。しかし、その解決策は短期的状況には間に合わないであろうこともたしかです。
     つまり、おそらく生きているあいだはぼくたちの多くはあらゆるリソースが不足する過酷な環境を生き抜くしかない。このきびしい認識は、いまとなっては若者層の「所与の前提」となっていると思うのです。
     そして、そこから新世界系の物語が生み出されてくる。余裕(リソース)がない環境とはどのようなものか? 『フロストパンク』を見ていればわかるように、それは「正しい答え」が絶対に見つからないなかで、どうにか選択して生きていかなければならないという状況です。
     いい換えるなら、そもそも「正解の選択肢」が存在しないなかでそれでも選択していかなければならないということ。ここで、ぼくは山本弘さんが新世界系の代表作のひとつである『魔法少女まどか☆マギカ』について、ブログに書いていた文章を思い出します。
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  • 純粋贈与はいかにして可能となるのか?

    2020-02-16 21:01  
    50pt
     いま、色々な本を読んで、色々と考えているのですけれど、ちょっとずつ小出しにしていかないとまとまりそうにないので、テキトーに思いついたことを書いてみます。
     何を考えているかというと、「贈与」のこと。贈与とはまあ、平たくいえばプレゼントですね。だれかに何らかの価値を贈ることを意味する言葉です。
     で、この贈与という概念についてくわしく考えて『贈与論』を書いたのが哲学者のマルセル・モース。この『贈与論』はのちのレヴィ・ストロース、バタイユ、デリダなどに影響を与え、結果、「贈与哲学の系譜」ともいうべき一群の思想が生み出されることになります。
     が、それに関してはぼくはいままさに勉強ちうなので、あまり語れることがありません。バタイユの贈与論とか、読んでみたいとは思うのですが、ほかにも読みたい本はあるので、なかなか手が出ません。
     これはある程度以上の量を読書する人には納得していただけることだと思

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  • マンガ『メタモルフォーゼの縁側』はオタクの初心を思いださせる傑作。

    2019-01-06 00:10  
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     昨年末、『メタモルフォーゼの縁側』というマンガを読みました。Twitterにはちょっと書いたのですが、これはぼくの昨年のベストです。
     筋立てを話すと、ある老婦人がささいな偶然からボーイズ・ラブ漫画を読み、とりことなり、そのことをきっかけとして孤独な女子高生と何十歳も年の離れた友人になるというストーリー。
     女性同士の友情ものであり、BL漫画を媒介にした「腐女子仲間」ものとも読めるというなかなか興味深い題材です。
     とはいえ、じっさい読んでみるとBLだとか「腐女子」だとかいう刺激的な素材に溺れることなく、きわめてていねいに綴られた物語という印象。じつにすばらしい。これはオススメですね。未読の方はぜひ読まれてみてください。
     それでは、何がそれほど良いのか? いろいろな視点がありえると思いますが、ぼくは「物語を読むこと」の最も原初的なところを思いださせてくれるから、といいたい。
     ある物語
  • 10日間でマンガ200冊にチャレンジ。

    2018-11-29 22:06  
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     親愛なる皆さま。昨晩、「きょうもひまだー。あすもひまだー。あさってもひまだー。とにかくひまだー」と、てれびん@医者失格に電話で愚痴っていたら、きょうから10日間でマンガ200冊を読むことになりました。
     何を言っているのかわからねーと思うが(略)。まあ、ほんとに暇だからここ最近のマンガで未読のものをちょっと追いついておくかということで、良いのではないかと思います。
     最初は300冊という話だったんだけれど、さすがにそれはきついので200冊にしました。きゃつの挑発に乗ってうっかり花京院の魂を賭けてしまったので、頑張って読みます。
     ちなみにぼくが選んだラインナップはこんな感じ。

    ・『ハイキュー‼!』28冊
    ・『ちはやふる』40冊
    ・『ワールドトリガー』18冊
    ・『憂国のモリアーティ』7冊
    ・『ここはグリーン・ウッド』
    ・『魔法使いの嫁』9冊
    ・『クジラの子らは砂上に歌う』11冊
    ・『かぐ
  • 結局、『ドラゴンボール』の面白さは色あせたのか?

    2018-10-16 18:05  
    51pt
     「『ドラゴンボール』を読んだことのない僕が、先輩に反論するために全巻読了した結果」という記事を読みました。
    https://liginc.co.jp/429028
     タイトルの通り、いままで鳥山明のマンガ『ドラゴンボール』を読んだことがなかった著者が、『ドラゴンボール』を押しつけてくる先輩に反論するためにあらためて全巻を通読し、感想を述べた記事です。
     これがネットで話題を呼び、というかちょっとした炎上状態になっているため、ぼくも読んでみたわけです。
     ネットでは、この記事はいろいろな批判にされています。たとえば、「そもそも「先輩に反論する」というようなネガティヴな意図で読んだのだから面白いはずがない」という意見は大量に見つかります。
     たしかにその通り。ですが、それはこの記事そのものに対してもいえることなのではないでしょうか?
     最初から「『ドラゴンボールを』を貶してアクセスを稼ごうと
  • 『宇宙兄弟』――「シンプル」が持つ力。

    2015-09-20 20:45  
    51pt

     ふと思い立って漫画『宇宙兄弟』を読み始めました。
     『モーニング』に連載されて、アニメ化/実写映画化された有名作品ですが、いままで読んだことがなかったのですね。
     こういう読まないままに巻数が溜まってしまった作品は何か機会がないと読めないことも多いわけですが、何となく読み始めてみるとすらすら読めるのはさすがベストセラー。
     Amazonの評価を見てもおおむね好評で、なるほど、こういう作品が安定した評価を得るのだな、と感心させられます。
     読んでいて印象に残るのは、すべてが「シンプル」であるということです。
     シンプルなコマ割り、シンプルなセリフ、シンプルな展開、シンプルなキャラクター。
     すべてがシンプルに整えられていて、そのせいか非常に読みやすい。
     リーダビリティという意味ではこのレベルの漫画はなかなかないのではないでしょうか。
     読んでいて心の負担になるものがなく、すらすら読めて