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  • 『サイバーパンク2077』のまえにサイバーパンクSFの歴史を振り返ろう。

    2020-12-08 05:45  
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     あさっての12月10日、プレイステーション4/XBOX ONE/PC用のオープンワールドアクションRPG『サイバーパンク2077』が発売されるようです。

     デカダンなサイバーパンクを愛してやまないぼくとしてはすぐにでもプレイしたいのは山々なのですが、例によってお金がないので「どうしようかなあ」と悩むところ。迷うなあ。
     サイバーパンクというジャンルはリドリー・スコット監督の『ブレードランナー』、小説ならウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』(より正確にはそれに先行する短編「クローム襲撃」)あたりから始まります。
     『2001年宇宙の旅』に象徴されるようなそれまでの「あかるくクリーンな未来」を一変させ「頽廃と汚濁に満ちたダーティーな未来」を描き出したそのショッキングな世界観は80年代を席巻し、さまざまなフォロワー作品を生み出します。
     じっさい、いまとなってはあたりまえの表現も、当時のSFファンにとっては衝撃的に新しかったらしく、「これからはサイバーパンクだ!」といわんばかりのファンたちが暴走し、旧来のSFを軽んじる発言をしていたと大森望さんの何かの本で読んだ記憶がある。
     まあ、それもわからない話ではありません。ウィリアム・ギブスンの文章はおそらくはSF小説の長い歴史のなかでも突出して「かっこいい」。
     『ニューロマンサー』の「港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった。」という超有名な書き出しはご存知の方も多いと思いますが、「灰色だった」と書けば良いところをわざわざこのように書いてしまうところがギブスン独自の文体。
     おそろしく読みづらく、一行一行意味を頭のなかで考える必要があるものの、めちゃくちゃに「かっこいい」。なんと2020年になったいまでもかっこいいのだから、当時の衝撃たるや思うべし。
     しかし、 
  • 町山智浩さんの「草薙素子の中身はおっさん」発言は正しいか?

    2019-04-27 22:10  
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     ども。 皆さんご存知の映画批評家の町山智浩さんが、

    ただ「攻殻機動隊」の草薙素子を始め、中身が男というか、男の作者の自我を投影したヒロインが多いんだけど。「幼女戦記」とか。中身はおっさん。

     という発言を行い、例によって例のごとく物議をかもしているようです。面白いですね。
     へー、そうなんだ、と意地悪く絡んでみたくなりますが、「『幼女戦記』は男の作者の自我を投影したヒロイン」ではなく、完全に男性人格を持ったキャラクターでしょ、というツッコミはすでに散々されているので、ぼくは触れません。
     その直前で語られている「「攻殻機動隊」の草薙素子」が、ほんとうに「中身はおっさん」であるかどうか、いやらしく追及してみることにします。
     ぼくは性格が善いので、個人攻撃に陥ることなく、なるべく客観的に、論理的に追求を試みたいと思います。なお、該当発言とその文脈はこのまとめをご覧ください。
    https://togetter.com/li/1341666?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
     さて、具体的に考えを進めるよりまえに、まず前提を確認しておくと、ひと口に『攻殻機動隊』といっても、大きく分けてそれぞれ設定が異なる四つのシリーズが存在します。
     個々の作品はタイトルと登場人物はほぼ共通しているものの、内容的には微妙に異なっており、また当然、主人公である草薙素子の性格付けについても異同があります。おおよそパラレルワールドの物語と考えて良いでしょう。
     この四つです。

    1)原作マンガ版『攻殻機動隊』のシリーズ。
    2)押井守監督によるアニメ映画版『攻殻機動隊』とその続編『イノセンス』。
    3)神山健司監督によるテレビアニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』のシリーズ。
    4)公安九課の成立を描く『攻殻機動隊 ARISE』。

     もっというとゲーム版の『攻殻機動隊』なんかもあるのですが、ここでは省略。
     たとえば草薙素子の全身サイボーグ化の経緯に関しても、「3」と「4」では異なる描写がなされており、「草薙素子の中身はおっさん」という命題が真か偽かと問うときには、そもそも「どの」草薙素子のことをいっているのか、と考えなければなりません。
     町山さんが『攻殻機動隊』の草薙素子、というとき、「1」から「4」のいずれの草薙素子を想定しているのか。
     単純に考えると、おそらく「2」の押井版でしょうね。仮にも映画評論家ですから、押井版の『攻殻機動隊』は見ていることでしょう。で、「1」を読んでいるかどうかは微妙、というところじゃないかな。読んでいない可能性も高い。
     「1」の素子は押井版の素子よりいくらか「女性らしい」描写がありますから、「1」を読んでいたらこういう発言はしなかったのではないかと思います。
     あと、まあ、「3」と「4」はたぶん見ていないでしょうね。見ていたらさすがにもう少し気をつけた発言をすると思う。わからないけれど。
     さて、町山さんが想定したのが「2」であるにしろ、あるいは「1」であるにしろ、ここで考えるべきことはひとつ、彼は簡単に「男の作者の自我を投影したヒロイン」といっていますが、何を根拠に「作者の自我を投影した」といっているのかです。
     もちろん、広い意味ではすべての創作のキャラクターは「作者の自我を投影」されているとはいえるでしょう。しかし、ここでいうのはあきらかにそのレベルの話ではない。
     男性作家が自分のジェンダー的特質を投影した結果を、明確に作品内に見て取ることができる、といっているのだ、と考えるしかありません。
     町山さんはその特質について具体的に説明してくれる気はないでしょうから、ぼくがかってに考えることにしましょう。考えられる可能性はいくつか存在します。
     いちばん単純なのは、男性作家は一様にヒロインに「自我を投影」しているものだ、と考えていることですが、彼のその後のツイート、

    押井守の「攻殻機動隊」では登場人物すべてが作者の投影だけど、そうでない描き手もちゃんといて、花沢健吾先生や押見修造先生の作品に登場する女性は、作者の自我の延長や都合のいい理想ではなく、自立した「他者」として描かれています。他にもそういう作品はいっぱいあると思います。

     を読む限り、それは違うのでしょう。うん、これを読むと、やはり町山さんが想定しているのは「2」の『攻殻機動隊』に限るようですね。
     ここで町山さんは単に「作者の投影」、あるいは「作者の自我の延長や都合のいい理想」とした描かれた「ヒロイン」、あるいは女性キャラクターと、そうではなく「自立した「他者」」として描かれたキャラクターがある、と主張しています。
     それでは、押井版の『攻殻機動隊』が、「登場人物すべてが作者の投影」であるとは、何を根拠に発言しているのでしょう。
     思うに、これにはあまり合理的な解があるようには思えません。たぶん、町山さんがそう思うというだけのことでしょう。
     ぼくももちろん、映画『攻殻機動隊』と『イノセンス』は見ましたが、町山さんのいいたいことはわからなくもない。両作品における素子やバトーは原作とはだいぶ性格付けが異なり、難解で哲学的(?)なセリフをのべつまくなくしゃべり倒します(たぶん電脳とネットを常時接続して検索しているのだと思う)。
     これは、おそらく押井監督の性格がそのままに投影されている側面が大きいと思います。それでは、やはり草薙素子は「中身はおっさん」なのかというと、必ずしもそうはいい切れない、とぼくは思います。
     そもそも、町山さんはあたりまえのように「自我の投影」として描かれたキャラクターと、「他者」として描かれたキャラクターを区別していますが、これはそれほど明瞭に区別できるものではありません。
     町山さんがこのように断定できるのは、たまたま押井守というクリエイターが世間的に有名な人物であり、また著書やインタビューなどを通してその性格や思想を開陳しているからに過ぎません。
     だからこそ、「ああ、この草薙素子はきっと作者の自我の投影に違いない」と判断できるわけです。
     しかし、あたりまえのことですが、ある程度、作者の自我が投影された側面があるとしても、だからといって「他者」として描かれている側面がないことにはなりません。
     また、仮に町山さんが語るように「花沢健吾先生や押見修造先生」(押井さんは呼び捨てでこっちだけ「先生」を付けるのね)の描く女性像が「他者」として描かれていると認めるとしても、作者が自我が投影された側面が皆無だというわけではないでしょう。
     先ほど述べたように、物語の創作においてはどのような作家も程度の差はあれ、作中人物に多少の投影は行っているに違いないはずで、こっちは「作者の投影」に過ぎない、こっちは「他者」だ、と語ることは、作品外の条件によるある種の先入観にもとづく固定観念以上のものではないと思います。
     町山さん自身にしても、たとえば「何となく話し方が押井守っぽくて、押井守っぽい考え方をしているから押井守の投影だ」とか、そういうレベル以上の根拠はないでしょう。もしあるのなら教えてほしいものですが、きっとないと思う。
     これは単なる揚げ足取りでしょうか? そうではありません。
     たとえば、まとめのコメント欄でもちょっと触れられているように、SFファンなら知っていることと思うジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、本名アリス・シェルドンというアメリカのSF作家がいます。
     この人、『たったひとつの冴えたやりかた』や『愛はさだめ、さだめは死』などで知られるSFの歴史上でも一、二を争う天才作家なのですが、女性でありながら男性名でいくつも「男性らしい」作品を書きました。
     その結果、彼女が女性であるはずはない、男性に違いないと考える人があらわれたのです。しかし、だれよりも「男らしい」小説を書いてのけたティプトリーは実際には女性だった。
     これは、作者の性別に対する判断がいかに間違えやすいものであるかを語る逸話であるように思えます。町山さんは押井さんが男性であることを知っているから素子を「作者の自我の延長や都合のいい理想」といい切っているに過ぎないのではないか、という疑いは残ります。
     はたして「作者が男性である」という作品外情報なしでも、彼が素子に対し「中身はおっさん」といい切れたかどうかは限りなく怪しいところです。
     しかし、それなら、町山さんの発言にはそれ以外には特に問題はないのでしょうか。
     いいえ。この場合の真の問題は、べつのところにあります。つまり、仮に作品のメタレベルで、草薙素子は「作者の自我の投影」であるに過ぎないと作品外世界にいるぼくたちには確認できるとしましょう。
     ですが、ほんとうの問題は作中世界において素子が「中身はおっさん」であることを匂わせるような行動なり言動を取っているかどうか、ということです。
     もし、作品内において素子が完全に「女性として」描かれているのなら、どれほど押井守が自我を投影していようと、彼女は女性だとしかいいようがありません。当然のことです。
     映画を語るときは本編の外の情報(たとえば作者のインタビューなど)に根拠を求めるべきではないのです。それでは、素子は「女性として」描かれているのか。
     この問いへの答えは単純ではありません。なぜなら、素子は全身サイボーグの「義体使い」であり、そもそも生まれたとき男性だったのか女性だったのか、性自認は女性なのか男性なのか、また、男性や女性というジェンダー意識を有しているのかどうなのかすらわからないからです。
     原作版においては彼女は男性の恋人を持つ一方、女性とも肉体関係を持ったりしていますが、これは原作の彼女がバイセクシュアルであることを示しはしても、彼女が男性なのか女性なのかを表してはいません。
     そして、最後には「人形使い」と融合して男性の義体に入ったりします。また、押井版の素子も、本質的には特定の性別に捕らわれない人物でしょう。いったい彼女に「性自認」という概念が通用するのかどうか、微妙なところです。
     ですが、ぼくはべつだん、だから町山さんのいう発言は間違えている、といいたいのではありません。繰り返しますが、そうではなく、そのようにジェンダー越境的に描かれ、しかし基本的には女性として行動し、活躍しているキャラクターを、「中身はおっさん」といい切る根拠は作品内のどこにあるのか、ということを問いたいのです。
     これには先ほどの考えがアンサーになるかもしれません。つまり、素子は作中において、それこそ作者の自我や理想が投影されているとしか思えないような行動と言動をしている。そこから「中身はおっさん」といえるのだ、と。
     しかし、どうでしょう。その「中身はおっさん」の根拠となる行動なり言動は、ほんとうに「おっさん」の中身なくしてはありえないものなのでしょうか。ぼくにはそうは思えません。
     つまり、町山さんの発言の根拠をあくまでも作中に求めるとするなら、人間には「女性らしい」行動や言動と、「男性(おっさん)らしい」行動や言動があり、素子は後者を選んでいるから「中身はおっさん」なのである、と思っていると考えるしかないことになる。
     これはあからさまに性差別的なジェンダー本質主義です。もっというなら、素子は作中で強く、賢く、統率力と洞察力に秀で、天才的な軍人であり警官でもあるような人物として描かれていますから、町山さんはそういう素子を見て、中身は「理想化されたおっさんの自我の投影」であって、決して「他者」としての女性ではありえない、と思っているのだろうという推論が成り立つ。
     ようするに、草薙素子のような女性などありえない、これはおっさんの投影や理想の産物に違いない、といっているわけです。
     実際問題、草薙素子には、彼女を女性として見て好きでいる女性ファンがたくさんいるはずなのですが、この町山さんの発言にのっとるなら、それは間違いだということになる。素子はあくまで「中身はおっさん」であって、女性ではないのですから。
     これはあきらかに問題でしょう。ぼくは仮に素子がもっと「おっさん」らしい行動を取っていてたとしても、だからといって「中身はおっさん」だ、などという発言を軽々に行うべきではないと考えます。
     たとえば、『マリア様がみてる』の佐藤聖は「セクハラオヤジ女子高生」などとあだ名されるようなキャラクターですが、決して「中身はおっさん」ではないでしょう。
     「おっさんらしい」行動を取っているキャラクターの中身はおっさん、という判断は、逆にいえば、「中身が女性」なのは「女性らしい」行動を取っているキャラクタ-だけである、という判断と裏腹です。これが性差別でなくて何でしょうか。
     ぼくは町山さんをリベラルな人だと思っていましたが、どうやらそれは間違いだったようです。まあ、『幼女戦記』のことを考えても、うっかり何も考えずに差別的な発言を行ってしまっただけなのだとは思いますが……。
     以上です。疲れたのでもう終わりますが、ぼくなりに「最善の相」で町山さんの発言を読んでみました。どうでしょうか。ご理解いただけると幸いです。では。 
  • 頑張って生きるのが嫌な人が自由になる方法。

    2016-06-04 21:53  
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     「頑張って生きるのが嫌な人のための本」。おお、ぼくのことだ、と思って読んでみました。
     タイトルはこんなですが、中身は「自由」を巡る真面目でまっとうな思索です。
     著者は若くして亡くなった友人「K」に対し語りかけるかのように文章を綴っていきます。
     自由を追求したあげく、死を選んでしまった「K」。その選択は必然だったのか、それとも避けられるものだったのか。さまざまに志向を巡らせていくのです。
     自由。
     思うに、ぼくも結局、自由になりたいのだと思います。
     しょせんヒトである限り一定の制約は受けるかもしれないけれど、べつにそこまで「極限的な自由」を求めているわけじゃない。
     ただ、いまよりもう少し「不可能」を「可能」にしたい。それだけ。
     たとえばいくらかお金があればそれだけでできることはたくさんあるし、身体が思ったように動くというそれだけのことも大きな自由を保障している。
     あらゆる
  • 『攻殻機動隊新劇場版』は草薙素子の血まみれの青春を描く傑作映画。

    2016-05-11 06:33  
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     どもです。ちゃんと起きたよ! ついさっきiPhoneのアラームで起きて、いまこの記事を書いているところです。
     昨晩から今朝にかけて『攻殻機動隊新劇場版』を見たので、とりあえずその評価を書いておきましょう。
     うん、面白かったですよ。この『新劇場版』は全5作のOVAシリーズ『攻殻機動隊ARISE』から直接に繋がる作品です。
     個人的な意見としては『ARISE』は全体的にもうひとつの出来だったと思っています。
     なんといってもわかりにくい。超複雑に入り組んだ設定はまあいいのですが、だれがどの陣営でだれの味方で敵なのか、そもそもそれぞれの陣営がどういう関係にあるのか、ほとんど説明なしで展開するため、最後まで見ても「……よくわからにゃい」という感想になってしまう。
     これは「難解」というのとは違うと思う。「不親切」というべきです。
     あまり説明しすぎるとダサくなるので視聴者の理解力を高く見積もるぜ!という方法論なのはわかるのですが、それにしても説明を省きすぎだったのではないでしょうか。
     いったい初見でこの物語で何が起きているのかその全貌を正確に把握できる人がどれくらいいたものか。
     冲方さんのシナリオなんですけれどねー。
     もうひとつ、ヴィジュアル的に新鮮味がなかったこともマイナスです。
     現実はそのあいだに大きく変化したというのに、作り手の想像力が『STAND ALONE COMPLEX』の時点から進歩していない。
     結果として『攻殻機動隊』の世界そのものが相対的に古いものになってしまっていると感じました。
     『攻殻機動隊』というコンテンツそのものは80年代末に始まったものであるわけで、いってしまえばごく古いのです。
     押井守や神山健二といった才能ある作り手たちがそれをそのつどアップデートしてきたからこそいまがあるといえる。
     しかし、『ARISE』はそのアップデートを行っているようには思えなかった。そこで、ぼくの『ARISE』への評価は低くなってしまうのですね。
     やはり押井守や神山健二といった突出したクリエイターの作品でないとダメなのかな、と思わされました。
     ところがところが、この『新劇場版』はまず傑作といっていい出来なのです。
     特別に映像的な新味がないことは変わっていないのですが、ストーリーが比較的わかりやすい。
     総理爆発暗殺事件から始まって、草薙素子と同じ義体を使うなぞの人物の登場、素子たちの捜査、敵陣営への進攻へと進む展開はスピーディー。サスペンスフルで面白いです。
     『ARISE』を通して進化してきたロジコマが、ここに来て『STAND ALONE COMPLEX』のタチコマ並みの知性を見せているあたりもポイント。
     「2902熱光学迷彩、京レ制の最新型だ」といった長年のファン向けのセリフも楽しい(『新劇場版』は原作よりも前の話なので京レの、「隠れ蓑」もまだ最新型というわけです)。
     そしてついに『ARISE』から長々とひっぱってきた「攻殻機動隊」公安九課誕生秘話が語られます。
     これも無理がない流れ。なぞの「ファイアスターター」との対決はスケール感もあるうえ、迫力満点です。
     『ARISE』のときはいまひとつはっきりしなかったこの新シリーズ独自のオリジナリティもこの作品でははっきりしている。
     『STAND ALONE COMPLEX』のとき、神山監督は「押井版の素子たちより15歳若く演じてください」と注文したそうですが、『新劇場版』の素子たちはさらに若いのです。
     つまり、この『新劇場版』は「草薙素子たちの青春」ともいうべき物語に仕上がっているということ。
     のちに攻殻機動隊を指揮しかずかずの難事件を解決していくことになる「超ウィザード級ハッカーにして世界有数の義体使い」である天才捜査官も、この時点ではまだ未熟。配下のバトーたちとの絆もまだ万全ではありません。
     しかし、 
  • 神山健二監督の最新作『ひるね姫』が楽しみすぎる。

    2016-04-19 23:58  
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     神山健二監督の最新作『ひるね姫 ~知らないワタシの物語~』の情報が発表されました。
    http://www.oricon.co.jp/news/2070289/full/
     『009 Re:Cyborg』以来の劇場映画です。
     前々から、「神山監督いま何しているんだろ?」とは思っていたのですが、この映画の準備をしていたのでしょう。
     いちファンとしては楽しみなことこの上ありません。
     2017年劇場公開ということなので、必ず見に行きたいと思います。はい。
     神山監督は出世作『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』から一貫して「正義とは?」、「この社会で正義を貫くためにはどうすればいいのか?」というテーマを描いてきました。
     じっさい単純ではありえない問題です。
     『攻殻機動隊』ではシンプルに青くさい正義を実行しようとした青年・アオイの行動が模倣され、利用され、拡散していくさまが描かれました。
     その続編『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GiG』では難民の英雄となった男クゼの想いが大国の都合で圧殺されるようすが語られています。
     神山監督が常に注目するのは、正義をなそうと努力しつづけているにもかかわらず、まったく報われないまま孤独に戦うしかない個人の姿です。
     そのテーマは『東のエデン』においてはより先鋭化し、日本を救うため行動したにもかかわらず、その救おうとした人々から裏切られ、攻撃されるに至った滝沢朗の物語が綴られました。
     神山監督のこのテーマは、クリストファー・ノーランの『ダークナイト』にも一脈通じるものがあるでしょう。
     純粋な正義を求めれば求めるほど、悪として糾弾されなければならないというパラドクス。
     神山作品のなかでそれぞれのヒーローたちは傷つき、倒れ、また立ち上がり、しかしまた傷つき――といったことを限界までくり返します。
     その悲壮感ただよう姿と、それでもこの矛盾を解決しようと努力する精神性が、神山アニメを無二のものにしているのだと思います。
     この正義の矛盾は『009 Re:Cyborg』ではついには主人公・島村ジョーが「答えていただきたい! 神よ!」と神その人に問いただすまでになり、極限まで突き詰められた感があります。
     もしかしたら『ひるね姫』でもそのテーマが続くのかもしれませんが、いったん仕切り直してあらたな世界を描くことには意味があると思います。
     テーマを深く掘ることにかけては現役アニメ監督のなかでも出色の才腕を持つ人だけに、『攻殻機動隊』や『東のエデン』に匹敵する傑作を期待したいところです。
     どうなるかな?
     『ひるね姫』は 
  • ウェブ小説にオリジナリティはあるか。

    2016-04-03 13:20  
    51pt

     ペトロニウスさんの最新記事が例によって面白いです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160402/p1
     長い記事なので、いちいち引用したりはしませんが、つまりはウェブ小説は多様性がないからダメだ!という意見に対する反論ですね。
     ペトロニウスさんは「OS」と「アプリ」という表現で事態を説明しようとしています。
     つまり、物語作品には「物語のオペレーションシステム」ともいうべき根本的なパターンがある一方で、その「OS」を利用した「物語のアプリケーション」に相当する作品がある。
     そして、新たに「OS」を作り出すような作品は少なく、「アプリ」にあたる作品は数多い、ということだと思います。
     この場合、「OS」にあたるパターンを作り出した作品は「偉大なる元祖」と呼ばれることになります。
     ペトロニウスさんはトールキンの『指輪物語』やラヴクラフトの神話体系がそれにあたるとしているようですが、ほかにも、たとえば本格ミステリにおけるエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイル、モダンホラーにおけるスティーヴン・キング、SFにおけるH・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌといった存在が「OSクリエイター」にあたるでしょう。
     オタク系でいえば『機動戦士ガンダム』は「リアルロボットもの」というジャンルを作りましたし、『魔法使いサリー』は「魔法少女もの」の嚆矢となっています。
     最近の作品ではVRデスゲームものにおける『ソードアート・オンライン』、日常系萌え四コマにおける『あずまんが大王』などはまさにOS的な作品ということができるでしょう。
     これらの作品のあとには、まさに無数のアプリ的な作品が続いているわけです。
     こういった「OSクリエイター」はまさにあるジャンルそのものを作り上げた天才たちであり、その存在は歴史上に燦然と輝くものがあります。
     しかし、逆にいえば、このレベルの業績はそう簡単に挙げられるものではない。
     ある種の天才と幸運と時代状況がそろって初めて「ジャンルを作り出す」という偉業が成し遂げられることになるわけです。
     また、こういった「OS的作品」にしても、100%完全なオリジナルというわけではない。それ以前の作品にいくらかは影響を受けているわけです。
     さかのぼれるまでさかのぼれば、それこそ聖書や神話といったところに行きつくことでしょう。
     その意味では、この世に新しい物語とかオリジナルな作品は存在しない、ということができると思います。
     つまりは単に「OS的な作品」はその存在の巨大さによって模倣される割合が相対的に高いというだけのことなのです。
     ある意味では、それ以上さかのぼれない「究極のOS」は人類文明発祥時期の古代にのみ存在し、それ以降のOSは「OS的なアプリ」に過ぎないといういい方もできるでしょう。
     あるいは、神話や聖書の物語こそが「究極の一次創作」なのであって、それ以降の作品はすべて二次創作的なポジションにあるといえるかもしれません。
     いや、おそらくはこのいい方も正確ではないでしょう。
     ようするに人間が考えること、あるいは少なくとも人間が快楽を感じる物語類型は似たり寄ったりだということです。
     古代の作品、たとえば『イリアス』がオリジナルのOSであるように感じられるのは、たまたまその発表時期が古いからであって、必ずしものちの作品が直接に『イリアス』を模倣しているわけではありません。
     人間は放っておけば似たようなことを考え出し、発表するものなのです。
     ただ、何かしらOSにあたる作品があればそれは模倣され、「影響の連鎖」がより見えやすくなるというだけです。
     もちろん、OSとアプリの差はわずかなもので、アプリにあたる作品もまた模倣されます。
     神話のような原始的な物語を一次創作とし、OSにあたる作品を二次創作、アプリにあたる作品を三次創作とするなら、それをさらに模倣した作品は四次創作とか五次創作と呼ばれるべきでしょう。
     具体的な例を挙げるなら、謎解き物語の嚆矢であるところの『オイディプス王』を一次創作とするなら、そこから近代的な本格ミステリを生み出したポーの「モルグ街の殺人」は二次創作、それを模倣した本格ミステリの作品群、たとえばアガサ・クリスティやエラリー・クイーンの作品は三次創作、そこから影響を受けた日本の新本格は四次創作、それを破壊しようとした若手作家による「脱本格」は五次創作、ということになるでしょうか。
     まあ、じっさいにはこれほどわかりやすく「×次」と名づけることができないのは当然のことです。これはすべてあえていうなら、ということになります。
     こういった「模倣の連鎖」が良いことなのか? もっとオリジナリティを重視するべきではないのか? そういう意見もありえるでしょうが、それはほとんど意味がありません。
     こういう「影響と模倣の系譜」をこそひとは「文化」と呼ぶからです。
     ある意味では地上のすべての創作作品がこの「影響と模倣の一大地図」のどこかに位置を占めているということになります。
     その意味では純粋なオリジナルとは幻想であり、新しい作品などこの世にありません。
     オーソン・スコット・カードの「無伴奏ソナタ」ではありませんが、比類を絶した天才を人類文明とまったく無縁のところに閉じ込めて一から創作させたなら、あるいはまったく新しいOS的作品を生み出すことができるでしょうか。
     いいえ、決してそんなことにはならないでしょう。
     なぜなら、先にも述べたように、人間は放っておけば似たような物語を生み出すからです。
     いい換えるなら、人間の脳こそが「究極のOS」なのであって、そこから生み出される物語は神話であれ聖書であれ、アプリにしか過ぎないということになります。
     たとえば『ドラゴンクエスト』は多くの模倣作品を生み出したという意味で「OS的作品」であるといえます。
     しかし、『ドラクエ』が究極のOSなのかといえばそんなことはなく、それもたとえば『Wizardly』やスペンサーの『妖精の女王』といった先行作品の影響を受けているのです。
     その意味では、オリジナルかどうかを問うことにはまったく意味がない。どんな作品もどこかしら他作品の影響を受けているに違いないのですから。
     シェイクスピアが同時代のほかの作家の作品を模倣して新作を生み出していたことは有名です。
     偉大なシェイクスピアですらそうなのですから、この世に新しいOSなどありようもないということはできるでしょう。
     ただ、だからといってオリジナルさになんの価値もないかといえば、そんなことはないでしょう。
     ペトロニウスさんが書いているように、ようは程度問題なのです。
     完全なオリジナルなどというものがありえるはずもないけれど、だからといって一字一句までコピペしただけの作品が許されるわけでもない。
     ある程度はコピーであることを受け入れた上で、何かしらのオリジナルさを追求することが、現実的な意味での創作活動ということになるでしょう。
     それでは、その「オリジナルさ」とは何か。
     これは、『ヱヴァ』の庵野秀明監督が20年前に答えを出しています。すなわち、「その人がその人であること」そのものがオリジナルなのだと。
     『新世紀エヴァンゲリオン』は『ウルトラマン』や『ガンダム』、『マジンガーZ』、『宇宙戦艦ヤマト』といった先行作品の模倣にあふれた作品です。
     その意味で、まったく新しくないアニメだとはいえる。
     しかし、同時に『エヴァ』ほど個性的な作品はめったにないことでしょう。
     さまざまな設定やシチュエーションが先行作品からのコピーであるからこそ、庵野監督独自の個性がひき立つのです。
     これについては、『東のエデン』の神山健二監督が述べていたことが思い出されます。
     神山監督は、既に押井守監督による傑作劇場映画が存在する『攻殻機動隊』というコンテンツをテレビアニメ化するというオファーを受けたときに、あえて押井監督と同じものを目指したのだそうです。
     普通、クリエイターならまったくだれも見たことがない『攻殻』を、と考えることでしょう。
     しかし、神山さんは意識して先行作品を模倣した。その結果として、逆に押井さんと違うところ、つまり神山さんだけの個性が浮かび上がったというのです。
     この話はきわめて示唆的です。
     つまり、同じようなシチュエーションを活用したとしても、まったく個性がない作品が出て来るとは限らないということ。
     むしろ、才能あるクリエイターであれば、同じようなシチュエーションを設定すればするほど、その人だけの個性が浮かび上がるものだということです。
     これは、同じようなシチュエーションを多用するジャンルフィクションがなぜ面白いのか、という問いへのアンサーでもあります。
     ある前提条件を徹底してコピーすればするほど、作品のオリジナリティは際立つ。少なくとも才能ある作家ならそうなるのです。
     美術史では聖書や神話など同じ題材を使用した作品が多数あります。
     ですが、同じ題材を使っていてもクリムトとピカソではまったく表現が違う。
     むしろ同じ題材を使うからこそわかりやすくその差異が際立つわけです。
     これが「ジャンル」というもの、「文化」というものの面白さです。
     しかし、それならば、なぜ「ウェブ小説はオリジナリティに欠けている」といった批判が寄せられるのか。 
  • 「『CLANNAD』対『2001年宇宙の旅』。岡崎汐はスターチャイルドの夢を見るか」予告。

    2015-04-20 22:05  
    51pt


     さて――書くことがない。
     いま、「『CLANNAD』対『2001年宇宙の旅』。岡崎汐はスターチャイルドの夢を見るか」という(タイトルからしてめちゃくちゃな)記事を書いているのですが、これがちょっと下調べが必要な内容で手間取っているところ。
     超越世界やらパピエ・コレやら、弥勒菩薩やらミドルアースが絡み合うなかなか面白い記事になる予定なのですが、果たして書き終わるものなのかどうか、いまの時点ではなんともいえません。
     とりあえず『2001年宇宙の旅』を読み返し、『CLANNAD』のクライマックスを見返さなくてはなりません。
     あと、『九尾の猫』と『夏と冬の奏鳴曲』と『果しなき流れの果に』と『ナルニア国物語』と『攻殻機動隊』と――切りがない。
     ここらへんがブログの辛いところで、いくら手間をかけて記事を書いてもあっというまに過去ログの海に埋没する運命なんだよなあ。
     あとでまとめあげて
  • その男バトー。声優・大塚明夫がサイボーグに魂を込めるとき。

    2015-04-02 14:43  
    51pt



     大塚明夫『声優魂』を読んでいる。
     くわしい感想は読み終えたあとに書くことにするが、とても面白くまた役立つ一冊である。
     ひとり声優を目ざす若者だけではなく、あらゆる業種のひとに推薦できる。未読のひとにはオススメ。フリーランスのひとには殊に刺さる内容だと思う。
     もっとも、いま非常に売れていて、Amazonにも在庫がないようだけれど。まあ、いま注文しておけばしばらく後にはとどくと思います。
     個人的には、「戦友」山寺宏一との交友を綴ったくだりが非常に面白かった。
     大塚明夫に山寺宏一といえば、これはもう、『攻殻機動隊』のバトーとトグサである。
     バトーが全身サイボーグの巨漢であるのに対し、トグサは公安九課唯一の生身の男、同質の集団に意図的に組み込まれたイレギュラーという存在だ。
     映画『攻殻機動隊』の頃から目立つふたりだが、テレビアニメ『STAND ALONE COMPLEX』ではバトーはサイボーグであるにもかかわらずだれよりも人間的な男となり、トグサは秀抜な推理力を駆使して事件の深層にもぐり込んでいく「使える若手」となっている。
     みごとな初期設定を生み出した士郎正宗も天才としかいいようがないが、その設定をさらに洗練させて味わい深いキャラクターを生み出した神山健治監督も凄い。世の中には凄いひとがいるなあ。
     そして、このふたりを演じる大塚明夫や山寺宏一も凄いのである。
     このふたりにとって出世作となったのは、映画『48時間』の吹き替えだったという。
     この映画のテレビ放映の際、ふたりは主演に抜擢され、ニック・ノルティを大塚明夫が、エディ・マーフィを山寺宏一が演じることになる。
     ここで成功すれば栄光はわがもの、しかしもし失敗すれば目もあてられない、そんな天王山の大一番――ふたりは10時間に及ぶリハーサルを行って現場入りし、そしてみごとその役をやり遂げて評価を高めるのである。ドラマティック!
     公安九課きっての「戦友」バトーとトグサを演じるふたりが私生活でも「戦友」の間柄だというのは面白い。
     いくつもの修羅場をくぐり抜けていくと、自然とこういう「つながり」がでてきていくのだろう。
     それはやはり「LINEに返事をしなきゃ友達じゃない」といったレベルの「友達」とはわけが違う、本物の親友なのだ。
     高い実力と矜持を持ち合わせ、いざ「戦場」に立ったときにはだれよりも頼りになる男――それをこそ「戦友」と呼ぶのだと思う。
     山寺さんは普段はとても陽気で気さくな人物に見えるし、じっさいそうなのだろうけれど、その陽気さの裏には人並み外れた修練の日々があったに違いない。そう思うと、襟を正したいような気分になる。
     そんなバトーを、大塚は「アンドレ」だと思って演じているという。
     『ベルサイユのばら』のあのアンドレ・グランディエである(ふと思ったのだけれど、いまでも『ベルサイユのばら』って通用するのだろうか。「アンドレってだれですか?」とかいわれたりして。ぐぬぬ)。
     「攻殻機動隊」こと公安九課のリーダーであり、あらゆる面で自分より一枚上手の素子に、バトーは恋をしているように見える。
     しかし、素子はバトーに対しどこまでもそっけない。
     大塚明夫が「印象に残っている」と語るバトーと素子のやり取りは、そんなふたりの関係性を象徴しているようで興味深い。

    「今度二人で映画でも観に行かないか」
    「ありがとう。でも本当に観たい映画は一人で見に行くことにしているから」
    「じゃあ、それほど観たくない映画は?」
    「観ないわ」

     視聴者としては「にやり」とするシーンだが、バトーとしてはたまらないだろうなあ、これ。 
  • 「第四の『攻殻機動隊』」はどこに着地したか。

    2014-09-08 22:24  
    51pt


     それは「もうひとつの歴史」の物語。21世紀に入ってからの二度の世界大戦を通して義体化及び電脳化の技術が長足進歩し、人々がアイデンティティの侵犯に怯える2020年代日本、その裏社会を舞台としたサイバーパンク・ハードボイルド・ロマン。
     その頃、世界有数の義体使いにして超ウィザード級の電脳ハッカーでもある「少佐」こと草薙素子は、「サルオヤジ」荒巻が率いる公安九課との折衝を繰り返しながら、自分自身の独立部隊設立をもくろんでいた。
     やがて孤独な彼女のもとに個性派ぞろいの精鋭たちが集まって来る。バトー、ボーマ、パズ、サイトー、イシカワ、それにトグサ。そしていま、ついにメンバーを集め終えた素子のもとに最大の難事件が迫り来る。
     それは「ブリキの少女」エマと「カカシの男」ブリンダジュニアを巡る奇怪な事件だった。そして事件の裏にまたも見え隠れする最高のハッカー「ファイアスターター」の影。はたして素子はどのようにして「攻殻機動隊」を生み出すのか――?
     というわけで、日本がバブルに踊る80年代末から延々と続く『攻殻機動隊』の最新作、『攻殻機動隊ARISE』最終話を観ました。これでシリーズは完結となるのですが、シリーズはさらなる新作劇場版へと続いていくようです。
     『ARISE』最終話のタイトルは「Ghost Stands Alone」、テレビシリーズ「Stand Alone Complex」への橋渡しとなるエピソードであることを暗に示しているわけで、新作劇場版は神山監督による「Stand Alone Complex」完結編かな、などと考えたりします。最近、神山さんの活動もあまり報告されていないしね。
     しかしまあ、その話の前に『ARISE』の話を片づけてしまいましょう。『ARISE』は草薙素子が「攻殻機動隊」公安九課の一員となる以前の物語と位置づけられています。
     一連の『攻殻機動隊』シリーズのプレ・ストーリーといえるわけで、さすがの天才捜査官の草薙素子もまだまだ未熟という設定。この作品をどう評価するかはこの素子の性格づけをどう評価するかでおおかた決まってくると思う。
     原作漫画と映画版で人工知性「人形使い」と合体し、神のような存在にまで進化した草薙素子のイメージを追い求めるなら、今回の作品は物足りないかもしれません。
     しだいに成長し才能を見せつけてくるとはいえ、『ARISE』の素子は超人的なスーパーヒロインというよりどこか少女の危うさを残したひとりの女性。もちろん意図してそう演出されてはいるのだろうけれど、以前の素子が好きな方は違和を感じることでしょう。
     若き日の素子は第3話ではラブストーリーをも演じ、お姫様抱っこまでされています。正直、ぼくもどうなんだろうと思わないこともないのですが、終わってみればより感情的で美少女ヒロインに近い草薙素子も悪くはない印象。
     ちなみに今回は脚本が全編通して『マルドゥック・スクランブル』の冲方丁。そこら辺も新しい素子のイメージに一役買っているのかもしれません。
     また、プロットと人間関係は例によってアニメ映画としては超複雑に入り組んでおり、初見で把握しきるのは困難。ぼくはたぶん半分くらいしか理解していません。
     もう一度最初から見なおしたら別かもしれないけれど、これから観るという人はあまり間を置かずに続けて観るといいと思いますよ。
     で、ぼく個人の『ARISE』の評価は「なかなかの良作」という程度。今回は一話ごとに監督が変わっているせいか、各話ごとに出来のばらつきが激しい印象なのですが、 
  • 『攻殻機動隊ARISE』は進化する。

    2013-12-19 00:50  
    53pt
     劇場映画『攻殻機動隊ARISE』の第二弾を観ました。前作はいまひとつ不満な出来だったのですが、今作は果たして佳作。
     『GOHST IN THE SHELL』や『STAND ALONE COMPLEX』のような大傑作というほではないにしろ、十分に楽しめました。
     第一作とは監督が変わっているようですね。また、第一作はミステリに主眼を置いた作りになっていましたが、今作はアクションに力を入れた作品に仕上がっています。
     とはいえ、もちろん物語は連続していますし、同じ作品として観て違和感があるということはありません。相変わらずの『攻殻機動隊』シリーズの世界を楽しめます。
     いうまでもなく『攻殻機動隊』は士郎正宗が80年代末に発表した漫画作品に始まります。それを押井守が映画化し、神山健治がテレビシリーズ化して、いまの人気に繋がっているわけです。
     それでは、漫画版、映画版、テレビシリーズ版に続く、いわば「第四の『攻殻機動隊』」となるこの『ARISE』はどう新味を出していくのか。
     全四話完結予定のこの作品は、公安九課結成前夜の物語として設定されています。天才的な義体使いの才能を持つ「少佐」こと草薙素子が、未だ自分の部隊を持っていない時代の物語として設定されているのです。
     当然、バトー、トグサ、イシカワ、ボーマ、パズ、サイトーといったおなじみの連中もまだ少佐の下に集ってはいません。それどころか――いや、ここはネタバレなので黙っておくことにしましょう。
     とにかく『攻殻機動隊』シリーズのファンなら楽しめる展開が描かれています。
     前作に対するぼくの不満点は、ヴィジュアル的、あるいはSF的な新味がないということに尽きます。時代は猛烈に変わっているのに『攻殻』は相変わらずの『攻殻』、10年前の『S.A.C.』からほとんど進歩していないように感じられたのです。
     今回もその点はそれほど変わっていないのですが、それでもやっぱり面白い。SF的なセンス・オブ・ワンダーはいささか欠けているものの、凝りに凝ったストーリーが楽しめます。
     何といっても『マルドゥック・スクランブル』の冲方丁が担当するシナリオはやはりさすがのクオリティ。
     あまりに複雑にエピソードが錯綜しているため、一度見ただけではちょっと把握し切れないところもあるのですが、そのややこしいプロットを短くまとめ上げる能力はすばらしいとしか云いようがありません。
     今回は第四次大戦を経た日本の運命が関わるかなり気宇壮大なエピソードなので、小ぢんまりとまとまっている印象もなし。最も『攻殻機動隊』らしいエピソードを楽しめます。
     そして、素子の元に遂にさまざまなタレントたちが集まって来ます。少数で国家を揺るがすことすらできる能力を持つ者たち――その出自は軍人であったり、警官であったりと実にさまざまではありますが、いずれも超一流のスキルを持っていることに変わりはありません。
     そしていよいよ少数精鋭、公安九課が発足するかというところまで行くのですが、じっさいにそうなるまでにはまだいくらか飛躍があるようです。焦らしますね。最終話のラストで