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『ファイブスター物語』の新設定が例によってぶっ飛んでいる件。
2020-05-12 12:0050ptさてさて皆さま、開設以来8年目にしてようやく、ニコニコチャンネルのトップページをまともなデザインに改装しました。
https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030
タイトルはいまだに「海燕のチャンネル」となっていますが、申請が通れば、数日中に「アラフォーオタクハゲの陰キャでも配信したい!」に変更されるはずです。
ちなみにブロマガのタイトルはいままで通り「弱いなら弱いままで。」です。シンプルながらなかなか見やすいデザインになったと思っているのですが、いかがでしょうか。
じつはニコニコチャンネルトップページのデザインのシステムは大変に使いづらく、非常に苦労していじったので、苦労が報われると嬉しいです。
で、いままでどうせブロマガしか見られないだろうと思って放置しつづけたこのトップページを改良したことからもわかる通り、これからは生放送や動画と記事を組み合わせて運営 -
これが「バカ」漫画だ! 真剣さというリスクを冒す人々。
2019-01-08 23:2851ptども。2018年もあっというまに一週間以上が過ぎ去りましたね。光陰矢の如し。少年老い易く学成り難し。時が経つのはあっというまだと実感します。
そういうわけできょうも更新しようと思うのですが、何を書いたら良いかなあ。バカ漫画の話でもしましょうか。
この場合の「バカ」とはあまりにも荒唐無稽だとか、ばかばかしいということではなくて、徹底して真剣であること。そして、人に笑われることを怖れないことを意味しています。
おおよそフィクションとは何らかの価値観を示すものであるわけですが、その価値観を明確に提示することをまるでためらわない。そういう態度をぼくは「バカ」と呼んでいます。
ぼくが大好きな高河ゆんさんの漫画『恋愛』は究極のバカ恋愛漫画です。
この漫画の主人公はある絶世の美青年なのですが、かれはあるとき、ブラウン管のなかのアイドルの少女に恋をし、彼女を手に入れるべく自らもアイドルになって -
『銀英伝』は短編でできている。
2018-05-11 03:0451pt小説を書きたい。物語を綴りたい。そう思うのですが、まともに成功した試しがありません。
まあ、才能がないのはしかたないにしろ、なぜここまでうまくいかないのだろう?とずっと考えていたのですが、ある本を読んだところ、「物語を「あらすじ」ではなく、キャラクターやイメージから作ろうとしているからだ」と書いてあり、あ、これだな、と感じました。
動物が骨と肉でできているように、一般に物語は「あらすじ」と「細部」からできあがっています。
もちろん、どこまでを「あらすじ」とし、どこからを「細部」とするかは恣意的な区分に過ぎませんが、この「あらすじ」から始める姿勢と努力がぼくには欠けていたようなのです。
「あらすじ」にも色々と程度があるでしょうが、最もシンプルなものは一、二行程度にまとまります。
たとえば、『ロミオとジュリエット』のいちばんシンプルな「あらすじ」は、「敵対しあう名家にうまれたロミオ -
庵野秀明のオリジナル幻想と奈須きのこの偽物論。
2018-02-13 12:5451pt『ファイブスター物語』の第14巻が出ました。今回は魔導大戦序盤のベラ国攻防戦。ソープとラキシスを初め、オールスターキャストが関わる豪華な巻となっています。
また、今回は一巻まるまる戦争ということで、凄まじい量のキャラクターが登場し、情報量も膨大です。
憶え切れない読者をかるく振り落としていくこの傲慢さ。これぞ『ファイブスター物語』という感じですね。
前巻の総設定変更で不満たらたらだった読者にもこの巻は好評のようです。作家が実力で読者をねじ伏せてしまった印象。
『HUNTER×HUNTER』なんかもそうだけれど、読者の不満を無理やり封じ込めてしまうくらいの実力って凄いですよね。
ここには作者が神として君臨する形の作品の凄みがあります。
ぼくはソーシャルゲームの『Fate/Grand Order』を遊んでいるのですが、『ファイブスター物語』のような古典的な作りの作品とはまるっきり印象が違う感じです。
『FGO』はどちらかといえば作り手と受け手、そして受け手同士のコミュニケーションに面白さがあると思うのですよね。
つまり、作り手が作品を投げかける。すると、読者がそれを二次創作を初めとするあらゆるやり方で消費していく。それが『FGO』のようなコンテンツの魅力。
『FGO』のシナリオが傑出して面白いとはぼくは思わないのだけれど、膨大なキャラクターを使ってしょっちゅう「お祭り」を繰りひろげている楽しさはたしかにある。
いま、『ファイブスター物語』のスタイルを「古典的」と書きましたが、さらに時代をさかのぼればおそらく物語は作り手と受け手のコミュニケーションのなかで可変的に綴られていたはずなのですよね。
作家が神のごとく作品世界をコントロールするようになったのは紙の本による出版というシステムが成立してからでしょう。
その意味では、『FGO』のようなスタイルは超古典的といえなくもないかもしれない。
何百年も何千年も昔、人々が焚き火を囲んで話しあい物語を紡いでいったことのデジタルな再現というか。
実はいまから20年以上前、1996年の段階で、庵野秀明さんがこれに関して鋭い指摘をしています(https://home.gamer.com.tw/creationDetail.php?sn=863326)。
庵野秀明:
『ガンダム』のとき、すでに(監督の)富野由悠季さんが、自分の仕事とはアニメファンにパロディーとしての場を与えているだけではないかという、鋭い指摘をなされていた。僕もそれを実感したのは『セーラームーン』です。あのアニメには中味がない。キャラクターと最低限の世界観だけ、つまり人形と砂場だけ用意されていて、そこで砂山を作ったり、人形の性格付けは自由です。凄く使い勝手のいい遊び場なんですよ、アニメファンにとって。自分たちで創作したいのに自分から作れないという人たちにはいいんでしょうね、アニメーションは。(作品が)隙だらけですから。『エヴァ』もその点でよかったようです。所詮(キャラクターは)記号論ですが。
ぼくのいい方をすると、庵野さんは「神」としてオリジナルな作品を作りたいのに作れないということで悩み、最終的に「自分自身の人生だけがオリジナル」ということでああいう物語を作りだしていったわけです。
この後、20年かけて「人形と砂場」の方法論は洗練されていき、『FGO』のようなコンテンツというか「場」が生み出されることになった。
それはもちろん「小説家になろう」あたりとパラレルだし、とても現代的な現象ではあるのだけれど、ひょっとしたら庵野さんあたりは苦々しく考えているかもしれない。
ただ、オリジナルな表現という幻想だとか、作者が「神」として完成されたコンテンツを送り出すというシステム自体が近代独特の特殊な方法論でしかないことを考えるなら、『FGO』的な作品を一概に非難することもできないはずです。
さらにはこういう意見もあります。
興味深いのは、ここで、僕の中で逆転現象が起きたこと。
基本、アニメ・マンガが大好きで、その話がしたくて、「場」を求めていたんです。
それは今も変わりません。未だにプリキュア5とかけいおん!とかアイマスとか凸守とか山田葵とかみつどもえとかガルパンとか上坂すみれとかアスカとかアスカとかアスカとかの話したくて、うずうずうずうずしてますよ。
でも、「今期何見てる?」って言うようになってる自分にも気づきました。
もう話す「仲間」がいるから、そこで会話の題材となる作品を、逆に「場」にしているんですよ、ぼくが。
「題材があるから場を求めている」んじゃなくて、「自分のいる地点で、砂場となる題材を求めている」にひっくり返っていることが稀にある。
これ自体が、意外にも楽しいじゃないかと。
http://makaronisan.hatenablog.com/entry/20130423/1366738022
うん、まあ、わかる。じっさい、砂場と人形さえあればいくらでも楽しめることはたしか。LINEで『FGO』の話をしてTwitterで二次創作漫画をあさっているだけで十分に楽しいもの。
庵野さんふうにいうなら、『FGO』は現代日本で最も成功した砂場で、英霊たちは最も魅力的な人形なのだと思います。
しかし、そこではかつての奈須きのこの才能の鋭さは陰をひそめている。ちょっと残念ではありますね。
『Fate/stay night』では「偽物」という言葉がひとつのテーマになっていました。
庵野さんがオリジナルにこだわるのに対し、より下の世代の奈須きのこは「偽物」でしかありえない自分をより肯定的に受け止めようとしているように見える。その果てに『FGO』がある。
そうだとすれば、『FGO』を否定的に捉えることはできないのかもしれない。ぼくはどうしてももうひとつ物足りないのだけれど……。
作者が「神」として振る舞う宗教型コンテンツと作者も含めて「場」を楽しむ砂場型コンテンツ。現時点ではどちらが優れているともいえませんが、今後、状況がどう変化していくのか、注目したいところです。 -
「自分の人生」という物語を避けることはできない。
2016-06-13 23:5651pt本を読んでいます。
村瀬学『宮崎駿再考』と城戸義明『科学とは何か 科学はどこへ行くのか』と出口治明『仕事に効く教養としての「世界史」』を並行して読み進めいるところです。
こう書けば聞こえはいいですが、ようするに読んでは投げ出し、投げ出しては読んでいるわけ。
一冊の本に集中し切れない注意力の散漫さはぼくの欠点だとも思うのですが、しかし一方では幾冊もの本の内容が絡みあい、補いあい、あたかも一冊の本であるかのように響きあう楽しさがあることもたしかなのです。
妙なる調べ響きわたる活字の交響楽。まあ、それはぼく一人にしか聞こえず、感じ取れない孤独の音楽であるわけですが、このようにして本をよむとき、ぼくはとても幸せだったりします。
以前にも書いたように、本という本は必ずほかの本への「ハイパーリンク」が張り巡らされたネットワーク的情報源です。
だからこそ一冊の本を読めばべつの本への興 -
殺人は正義、不殺は悪。『ファイブスター物語』の壮絶なる倫理感。
2016-05-21 18:2551pt
永野護『ファイブスター物語』が面白いです。
いま、連載では、ジョーカー太陽星団を揺るがす大戦争・魔導大戦(マジェスティック・スタンド)が中盤に差し掛かったところ。
これからハスハを構成する一国ベラを巡って壮大なゴティックメード戦が勃発しようとしている状況なのですが、きょうはそれとはちょっと違う話をしたいと思います(本編未読の方は何をいっているのかわからないと思いますが、まあ、説明し始めると長いのでそういうものだと思ってください)。
今回、ぼくが語りたいのは、魔導大戦の一方の雄である黒騎士デコース・ワイズメルの話です。
デコースは物語の序盤から登場している天才騎士で、星団でも屈指の実力の持ち主。かれに対抗できる者は、すべての騎士のなかでも数人しかいません。
剣聖ダグラス・カイエン亡きいま、「星団最強」を名乗ってもおかしくない地位にいるといってもいいでしょう。
まあ、剣聖並かそ -
「才能」は「可能性」でしかなく、「結果」に繋がらない限り何も意味しない。
2016-05-10 16:3751pt
10日ですねー。毎月10日は、ぼくにとっては『月刊ニュータイプ』の発売日。『ファイブスター物語』が読める日です!
いま、『ファイブスター物語』は単行本第14巻に収録されるであろうベラ国攻防戦を描いています。
分裂したハスハのいち小国ベラを守るエープ騎士団のもとにあらわれた天才スライダーのレディオス・ソープ(&妻のファナちゃん)。
そこにさらに幾人もの騎士たちが集まってきて、ついに歴史に残るベラ国防衛戦が始まる――のか?というところ。
このあと、ヨーン・バインツェルとパルスェットの物語が始まるはずなのですが、その前に大規模集団GTM戦が見られそう。
数十年後のマジェスティック・スタンド終戦に至るまで、どんなドラマが見られるのか楽しみです。
それにしても、永野さんももう50代半ばになるはずなのですが、衰えませんねー。
普通、このくらいの歳になると構成力が衰えてくるのですが、いまのところ『ファイブスター物語』はきわめてタイトに構成されているように見えます。
あくまで緊密なショート・エピソードに拘り、「大長編を短編の集合として構成する」という意識で描いているところが素晴らしい。
さすがわかっているなあ、と思ってしまう。
『グイン・サーガ』がそうでしたが、大長編を無計画に書いていくとどこかで「ゆるみ」が出てきて冗長さが増してしまうのですよね。
というのも、ぼくがよくいうように長編は後半へ行けば行くほど処理しなければならない情報が増えていくからです。だから放っておけば必ず大長編は冗長になる。
ぼくはこれを「長編病」と呼んでいますが、それを避けるためにはあらかじめ緊密に構成しておくことと、必要ではない情報を非情にカットすることが必要になる。
『ファイブスター物語』はとりあえずいまの時点ではその短編意識の徹底によって「長編病」を回避できているように思います。
これは凄いことです。
作り手にしてみれば、タイトな構成など考えず、筆の乗るままに描いていくほうがよほど楽だし、気持ちいいはずなのです。
その誘惑に乗らずにあくまで自分にとって辛い、きびしい道を歩きつづけるということは、大変なことです。
だれにでもできることではない。
もちろん、いっとき、天才的ともいえる輝きを示す作家は大勢います。しかし、その大半が「時の審判」に耐えられず消えていく。
それなのに、永野護は30年間を超えていまなおトップクリエイターのままです。これはほんとうに凄いことなのですよ。
なぜそんなことができるのか? 生まれつきひとより優れた才能に恵まれていたからなのか? ぼくはそうは思いません。
長いあいだトップに立ちつづけるために必要なもの、それは「才能」ではありません。「姿勢」です。
永野護はたしかに天才的な才能の持ち主なのだろうけれど、ただ才能があるだけの人ならほかにもいる(まあ、めったにはいないだろうけれど……)。
ほんとうに驚くべきなのはその「才能」を常に錆びつかないよう砥ぎつづける「姿勢」のほうなのだと思います。
「長期的に結果を出しつづける」クリエイターに共通しているのはこの「姿勢」のきびしさです。
どこまでも自分を甘やかさないこと。鍛錬しつづけること。そして向上しつづけること。それが長い期間にわたって実力を発揮するための条件。
「同じ実力を保つ」ことは時の流れのなかで衰えることと同じでしかありません。
「さらにさらに成長を続ける」者だけが「超一流(プリマ・クラッセ)」でありつづけることができるのです。
「天才でありつづける」ことは「天才である」ことよりもっとむずかしいということです。
ぼくは、ほんとうは「才能」など何も意味してはいないのかもしれないとも思います。
ひとより優れた「才能」を持っていても、何かしらの「資質」に欠けていたためになんの「結果」も残さずに終わる人は大勢います。
そして、 -
平均点を拒絶せよ! 永野護『リッターピクト』の選択。
2016-02-24 23:0351pt永野護の『ファイブスター物語』デザイン集第五弾『LITTER.pict ジョーカー太陽星団棋士図鑑』を読んだ――というか、読みつづけている。
100点を超える新デザインにあいかわらず膨大な設定が付されており、すぐには読み終えることも大変なのだ。
前回の『覇者の贈り物』が既出のデザインの集大成的な内容で、「もう少し見せてよー」と思わせるものであっただけに、今回のボリュームはまずは満足。
あえていうなら新作ゴティックメードのデザイン画が少ないのが不満というところか。
なんといっても『ゴティックメード』あっての『ファイブスター物語』だからね。
モーターヘッドからゴティックメードへの全面的な設定改変には、いまだに戸惑い、困惑し、あるいは怒っている読者もいるようだが、作者はそういう人に対して配慮するつもりはまったくないようだ。
さすがである。それでこその永野護であり『ファイブスター物語 -
なぜ作家は衰えるのか。
2015-09-23 02:2451ptぼくは小説であれ漫画であれ映画であれ、物語と名の付くものが大好きな人間なのですが、それだけに物語の良し悪しについてはうるさいところがあります。
で、常々疑問に思っていることが、「若い頃、非常に優れた作品を作っていたクリエイターが、歳を取ると衰えるのはなぜだろう?」ということです。
なぜも何も、加齢とともに能力が衰えるのは一般的なことかもしれませんが、それにしても時とともに成長していける作家の少なさは恐ろしいものがあるように思えます。
決して才能がないわけではない、十分に優れた素質を備えているように見え、またじっさいにそれなりの実績を示した作家たちですら、時が過ぎると作品のクオリティを落とすように見える。これはいったいなぜなのか。
まあ、ぼくは作家ではないからほんとうの答えはわからないのですが、ひとつ考えがあります。
それは結局、やっぱりどこかで力を抜いているからじゃないかということです。
もちろん、本人は手抜きをしているつもりはないんだろうけれど、無意識にせよどこか楽をしちゃっているんじゃないか、というのがぼくの予想。
というのも、物語を構成するということは、本質的に窮屈なことだと思うのですね。
少なくとも、書きたいことをただ書きたいように並べていけばいい、というものではない。
その物語のオープニングやクライマックスやエンディングを効果的に演出するための緻密な計算が必要なのです。
この計算が、歳を取ると面倒になって来るんじゃないかな、とぼくは思ったりします。
もちろん、真相はわかりませんが、大作家の全集なんかを見ていると、後期の作品ほど大長編が増える傾向があると思うんですよね。
これはやはり物語を圧縮する能力が下がるせいなんじゃないかと。
ごく常識的に考えて、巨匠と呼ばれて好きなものを好きなように書いてもだれにも文句をいわれなくなった作家が、なお、自分の作品を窮屈な公式にあてはめて書こうとするかというと――自分はもう奔放に書いても大丈夫だ、と思ってしまうんじゃないか、と予想したりします。
でも、物語を自由奔放に書くのって、やっぱり致命的だと思うのですよ。
あるいは、それでも傑作を書けてしまう天才はいるのかもしれない。
でも、それはやはり意識下できちんと計算をしている結果なんじゃないか。
「ただなんとなく書きたいように」書くのではやはりダメなんじゃないか。そう思います。
ただ、ね、たぶん物語を作っているほうとしては、奔放に作りたいものを作っていくほうが楽だし、気持ちいいと思うのです。
構成なんていう頭を使う面倒な作業は避けて、そのぶん、存分に想像力を働かせて壮大な物語を考えることのほうが、楽しいと感じる人が多いんじゃないかと。
歳とってそういう楽しさに目覚めてしまうと、やめられないんじゃないかなあ、と想像します。
でも、そういう作家が書く作品は、作家自身は楽しんでいても読むほうとしてはあまり面白くないものに仕上がったりするわけです。
書き手が楽しければそれは読み手に伝染するものだ、といういい方をする人もいますが、それはたぶん半分しか正しくない。
作家が真剣に物語を楽しんでいればそれが読者に伝わることはたしかですが、作家が気楽に書けば読者も楽しくなる、というものではないのです。
べつに苦しみながら書くのが正解だとはいわないけれど、たとえば囲碁や将棋で正着、つまり「たったひとつの正しい一手」を見つけ出す作業が苦しいとすれば、物語を書くことも同じように苦しいでしょう。
しかし、その作業を超えないとどうしたって印象的な物語は書けない。
物語とは「山あり谷あり」だからこそ面白いものなのであって、延々と山が続いたり、あるいは谷ばかりだったりしては良くないのです。
だから計算が必要になる。一種の建築ですね。そのようにして作られた物語を、ぼくは「美しい」と形容します。
そのような美しい物語を作る能力はやはり若い頃のほうが高い傾向がある、例外はあるにせよ、ということです。
残念ではありますが、それが現実なのではないでしょうか。
ただ、ですね。これをいいだすとまた長くなるのですが、このような思想に対し、「べつに冗長でもいいじゃん」、「同じことの繰り返しでもかまわないじゃん」という思想はありえます。 -
『ファイブスター物語』十年来の最新刊、ついに刊行! 伊達と狂気の全面設定変更だ!
2015-08-08 02:3551pt
出た! 『ファイブスター物語』約10年ぶりの第13巻、あたかもその間に何ごともなかったかのように書店の棚に並んでいました。
いやー、よくもまあ出たものです。
この先、第20巻くらいまで魔導大戦のエピソードが続くはずなのですが、それは10年先のことになるか、15年先になるか。だれにもわからないというのが実情です。
さらにその先の「星団暦3159年」のエピソードとなると、これはもう、果たして実物を見れるかどうかなんともいえない。
しかし、とにかくいまはこの「ザ・マジェスティック・スタンド」に集中しましょう。
そしてともかく第13巻が発売されたことを喜びたいと思います。
さて――前巻から話はそのまま続いているのに内容は急展開のこの巻なのですが、いざ全体を俯瞰してみると、むしろ『ファイブスター物語』としては比較的地味な「つなぎ」の巻だったのではないかと思われます。
アトールの巫女
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