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  • あなたはほんとうに「人間」なのか? 境界線を巡る不埒な思考実験。

    2017-12-01 02:40  
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     もし普通の人が「持っていない臓器」を持っていたとしたら、人間と呼べるだろうか?
     もし手足が「すべて義手や義肢になった」としたら、まだ人間だろうか? それともサイボーグと呼ぶべきだろうか。
     その違いはなんだろうか? 彼女に会った後「人間」と「人間ではない」の境界が溶けていくよう感覚を覚えた。
    http://social-design-net.com/archives/31961

     人間とは何か? その哲学的ともいえるクエスチョンは、古来、幾度となくくり返されてきた。そして、いくつもの傑作サイエンス・フィクションが、そのテーマを扱ってもいる。
     たとえばアシモフ(かれの自伝によると、ほんとうはアジモフと発音することが正しいらしい)の『われはロボット』は、ロボットという視点から人間を考察した作品だ。
     アシモフにとって、あきらかに重要なのは人間の理性であり、かれはそれがある限りロボット
  • 『CLANNAD』対『2001年宇宙の旅』。岡崎汐はスター・チャイルドの夢を見るか。

    2015-04-24 05:07  
    51pt


    深い眠りに落ちる
    少し前の手前の
    まどろみの中に似た
    密やかな夜に
    探し続けてるのは
    あのメタフィジカ
    祈るように紡ぎだす
    ひとつの歌
     「メタフィジカ」(http://www.nicovideo.jp/watch/sm25268427)

     「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」。
     20世紀最大の哲学者のひとりである(らしい)ヴィトゲンシュタインのこの言葉はあまりにも有名でしょう。
     ヴィトゲンシュタインその人の真意がどうであったかはともかく、人間には「語りえぬこと」があるというそのことを思うとき、ぼくなどは何か神秘的なものを感じ取ってしまいます。 また、山田正紀のSF小説『神狩り』の冒頭には、次のようなヴィトゲンシュタインの箴言が意味ありげに掲載されています。

     かつて、神は万物を想像することができるが論理的法則に背くものだけは創造できない、と語られていたことがある。すなわち非論理的なる世界については、それがどのようなものであるか語ることさえできないのだから。

     さて、本題に入りましょう。
     このタイトルと書き出しですでに引いている人も多かろうかと思いますが(笑)、気にせず始めることにします。
     これはテレビアニメ『AIR』と『CLANNAD』、特にそのアフターストーリーのいち解釈を示そうとする記事です。
     べつだん、これが「正解」だというつもりはありませんが、ちょっと面白い内容なのではないかとは思います。良ければお読みください。
     さて、どこから語り始めたものか。まず、『CLANNAD』の話から始めましょう。
     いうまでもなく『CLANNAD』はKeyのパソコンゲームを原作として京都アニメーションが制作したアニメですが、これが非常に難解な仕上がりで、ちょっと解釈に困る作品といえます。
     少なくともぼくはいままで何が何やらさっぱりわからなかった。
     その唐突ともいえる結末は、ともすると単なるご都合主義とも受け取られかねないものであるわけですが、よくよく考えてみると、ある程度は合理的な解釈を行うことが可能です。
     じっさい、Googleを検索するといくつかその手の文章が見つかる。
     ぼくは一応、原作ゲームもプレイしていますが、すでにだいぶ記憶が摩耗していてあいまいなので、ここではアニメ版に絞ってその解釈を追ってみましょう。
     この文章(↓)あたりがよくまとまっていてわかりやすいと思います。
    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1274730242
     この解釈がどこまで「正しい」かはわかりませんが、とりあえず納得がいく解釈だとはいえるでしょう。
     しかし、そもそも『CLANNAD』のシナリオライターである麻枝准さんはなぜ、これほど難解なストーリーを組まなければならなかったのでしょうか。
     そして、なぜかれは『ONE』、『Kanon』、『AIR』、『CLANNAD』、『リトルバスターズ!』、『Angel Beats!』と自身がシナリオを務める作品において、「えいえん」、「奇跡」、「惑星の記憶」、「翼人」、「呪い」、「幻想世界」といった解釈のむずかしいスーパーナチュラルな現象を出現させているのでしょう。
     答えは謎ですが、ぼくなりの結論をひとことでいってしまいましょう。
     それは「想像できないものを想像しようとする」努力の痕跡であると思うのです。
     「想像できないものを想像する」――ご存知の方も多いでしょう。いまから40年前の1970年代、23歳の青年SF作家・山田正紀がデビュー作『神狩り』が掲載されたSFマガジンに記し、その後、各所で幾度となく引用されることになる言葉です。
     ネットで拾ってきたところによると、正確には以下のような文章だったようです。

     なぜ書くのか、などと考えてみたこともないし、考えるべきだとも思わない。(中略)
     では、なぜSFなのか、と訊かれたらどうなのか? それも応えない、としたら、やはり、怠慢のそしりはまぬがれないだろう。
    「想像できないことを想像する」
     という言葉をぼくは思い浮かべる。一時期、この言葉につかれたようになり、その実現に夢中になっていたことがある――。
     SFだったら、それが可能なのではないか?
     だめだろうか?

     だめに決まっているじゃん、と思ってしまうわけですが、山田正紀はあきらめませんでした。
     かれはその作家人生を費やし、幾度となく「想像できないもの」そのものである「神」と格闘しつづけることになります。
     そして何より日本SF史上伝説の一冊といわれるこの『神狩り』はまさに「想像できないことを想像する」努力に貫かれた一冊です。
     前述した哲学者ヴィトゲンシュタインが作中人物のひとりとして登場することでもしられています。
     そこで焦点があたるのが「神の言語」というアイディア。この物語の骨子となる発想です。
     『神狩り』は、古代文字――論理記号がふたつしかなく、関係代名詞が十三重以上に入り組んだ「神」の言語を中心として展開していくのです。
     「人間は関係代名詞が七重以上入り組んだ文章を理解することができない」という前提を乗り越える超越存在、「神」。
     その絶大なる力を前にして、人間はただ翻弄されるだけの存在でしかありえません。
     山田正紀は斬新にも、ここで「論理認識のレベルが異なる存在」として「神」を定義したわけです。
     そもそも「神」とは、人の想像の外にある存在です。人間程度が想像できるようなら、ほんとうの意味で「神」であるとはいえないということもできるでしょう。
     どんな天才であっても想像できないほど神々しい、眩いばかりの超越的存在、それが「神」であるはず。
     ユダヤ教、キリスト教、イスラムといういわゆる「アブラハムの宗教」において、偶像崇拝が禁止されたのはこのためでしょう。
     つまり、神は想像できないばかりか、描くこともできない存在であるのです。
     それを仮初めにでも描いてしまったら、「神」そのものではなく、その偶像を崇拝することになる。

     それで、あなたがたは神をいったい誰とくらべ、どんな像と比較しようとするのか。偶像は細工職人が鋳て造り、鍛冶が金でそれを覆ったり、それのために銀の鎖を造ったりする。貧しい者は供物として腐りにくい木を選んで、細工職人を探し、動かない像を立たせる。あなたがたは知らなかったのか? あなたがたは聞かなかったのか? はじめから、あなたがたに伝えられなかったのか? 地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったのか?
     『イザヤ書』

     しかし、ひとはなかなかそのような抽象的存在を崇めつづけることはできません。
     「決して想像できないもの」を信じよ、といわれてもむずかしいでしょう。
     そこで、「神」の存在をなんとかして形にしようとする美術が生まれていったのだと思います。
     おそらく宗教美術の歴史では、本質的に「描けないもの」である「神」とその世界をどうにか描くための努力がさまざまに行われたことでしょう。
     あいまいな書き方をするのはぼくが美術史にまったくくわしくないからですが、たとえばイコンなどは「神」を描こうとする努力、つまり「想像できないものを想像しようとし、描写できないものを描写しようとする」行為の作例なのではないでしょうか。
     そのほか、重要な作品としては、たとえばベルニーニの「聖テレジアの法悦」などがすぐに浮かびます。
     いままさに天使が持つ矢に貫かれようとしている聖女テレジアの法悦を描いた官能的な彫刻ですが、注目するべきは彫刻の背後に描かれた光です。
     この光はあきらかに「より上位の世界」、つまり「神の世界」から降りそそいでおり、聖テレジアはその耐えがたいエクスタシーに陶然としているように見えます。
     彼女はある意味で「神の指先にふれた」のです。
     「神の指先にふれる」――それはひとが感じえる最も崇高な「法悦」なのかもしれません。
     さて、より近代的なエンターテインメント作品においても「想像できないものを想像し」、「描写できないものを描写する」その苦闘は続いています。
     20世紀、多くの作家のなかで宗教心は褪せたかもしれませんが、ひとに想像力がある限り、「想像できないもの」への興味と憧憬が失われることはありません。
     そして作家であるからには、「描写できないもの」をなんとか描写したいという野心を抱くものでもあるのでしょう。
     その壮大な野心は結果として多くの名作を生み出しました。 たとえば、ときに「神学ミステリ」と呼ばれることもあるエラリイ・クイーンの傑作『九尾の猫』においては、最後の最後で推理に失敗し絶望する名探偵エラリイに向かって、傍らの人物が「神はひとりであって、そのほかに神はない」と語ります。
     この台詞をどう解釈するべきかはむずかしいものがあります。
     神のように推理しようとするエラリイの傲慢をいさめているようにも思えるし、その反対に神であろうとして失敗したかれをなぐさめているようにも感じられる。
     いずれにしろ、この瞬間、読者はすべての運命の糸を操る存在であり、エラリイがどんなに必死に推理を展開してもなお届かない超越者である「神」の存在をありありと感じることでしょう。
     ここでも、「想像できないもの」である「神」を「描かないことによって描く」という手法が採用されているわけです。
     あるいは前の記事で取り上げた『ブラック・ジャック』などにしても、ブラック・ジャックが巨大な運命の前に敗北し、「神」に向かって叫ぶという場面が存在します。
     これも同じような意図のシーンだといっていいのではないでしょうか。
     しかし、これらの作品はべつだん、「神なるもの」を描こうとするところに狙いがあったわけではないでしょう。
     一方、『神狩り』のように、あきらかに「神なるもの」を描くために物語を積み重ねたと思しい作品も存在します。
     とりあえず、ここではひとが認識することはできず、まして描き出すことは到底不可能な神の次元、光の世界――それを仮に「超越世界」と呼ぶことにしましょう。
     その「超越世界」をどうにか描き出そうとした名作といえば、SFファンにとっては小松左京の『果しなき流れの果に』、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』といった作品が思い浮かぶところでしょう。
     いずれも古い作品ですが、そのイマジネーションの壮麗さはいまなお読者を圧倒します。
     さて、これらの作品はぎりぎりのところまで「想像できないもの」を想像しようとし、また描こうとしますが、それでもやはりそれを描くことはできません。
     『果しなき流れの果に』は、長い長い物語の果てにある存在が限りない高次元へと登りつめようとし、そして失敗してあたかも太陽の陽に灼かれたイカロスのごとく「下界」、20世紀の地球という現実的な世界に堕ちていくところで閉じられています。

     とまれ
     階梯概念が指示した――だが、彼は、それにさからって、上昇をつづけた。秩序をやぶってまで、それにさからうエネルギーは、ひたすら共振にあった――上るにつれ、多元時空間をのせたまま流れて行く、超時空間は、はげしい、湾曲した激流となって遠ざかった――混沌とした晦冥の渦まく中に、朦朧とした概念があった。彼は、はげしく問いを投げた。
     超意識の意味は?
     低次の意識発生過程とのアナロガスな理解……
     晦冥が晴れて、ふっと概念が姿をあらわす。

     一方、『百億の昼と千億の夜』も、放浪の末に世界の終焉にまでたどり着いた主人公・あしゅらおうが、「この世界の外」に存在すると思われる何者かの言葉を仄聞するところで終わっています。
     いずれも、直接に描き出すことができない「神なるもの」と「超越世界」を間接に描き出そとうした作品であると思います。
     『果しなき流れの果に』のアイにしても、『百億の昼と千億の夜』のあしゅらおうにしても、結局は「超越世界」に到達することはできないのですが、まさにその苦い敗北の味が読者に強い印象を与えます。
     それは、先ほど取り上げたエラリイ・クイーンやブラック・ジャックの敗北と同系統のものであるといえるかもしれません。
     もっと具体的にその次元に到達したものを描いているように見える作品としては、アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』が存在します。
     天才スタンリー・キューブリックの手によって映画化され、いまなお伝説的評価を受けているこの作品は、超越存在であるスター・チャイルドの出現を示唆して終わっています。
     ここでは、超越存在の実在は明確に描写されているのですが、その具体的な行動は描かれていません。
     スター・チャイルドがこの先、いったい何を行うのか、それはどこまでも謎なのです。

     目のまえには、スター・チャイルドに似合いのきらめく玩具、惑星・地球が人びとをいっぱい乗せて浮かんでいた。
     手遅れになる前にもどったのだ。下の込みあった世界では、いまごろ警告灯がどのレーター・スクリーンにもひらめき、巨大な追跡望遠鏡が空をさがしていることだろう。――そして人間たちが考えるような歴史は終わりを告げるのだ。

     同じクラークの『幼年期の終り』に出て来る超越存在であるオーバーマインドにしても、やはりその存在は描かれてはいても、具体的にかれらが宇宙をどうするつもりなのかはわからないままです。
     これも結局は「描かないことによって描く」手法のバリエーションであると思われます。
     一方、本格ミステリでありながら「神のトリック」を描くことによって、この世界への神の影響を描き出そうとした超異色作も存在します。
     麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』。
     この小説では、夏に雪が降るという超常現象(とも解釈できる現象)の上で、あたかも高次元の存在が起こしたかのような「神のトリック」が炸裂します。
     はたしてそれがほんとうに「神のトリック」だったのか、それともありふれた俗界のトリックに過ぎなかったのか、ほんとうのところはわかりません。
     しかし、多くの読者はその神秘的展開に「神」の存在を思うことでしょう。
     少し毛色が違うところでは、乙一の『くつしたをかくせ!』という作品をご存知でしょうか。
     この絵本では、世界中の子供たちがサンタクロースがプレゼントを入れられないようさまざまな場所に靴下を隠すという逆説的な物語が展開するのですが、最後の最後、子供たちの必死の努力にもかかわらず、すべての靴下にはプレゼントが入っています。
     なぜ? それはわかりません。
     ただ、サンタクロースは子供たちがどんなに巧妙に逃れようとしてもその裏をかくことができるのだ、と考えるしかないでしょう。
     ここでのサンタクロースがあらゆる物理法則を乗り越えた「超越世界」の超常存在――「神」を意味していることはあきらかです。
     つまりは、これもまた「神のトリック」であるということができるでしょう。
     『くつしたをかくせ!』の本編にはサンタクロースは登場しません。
     やはり、これもまた「想像できないもの」を「描かないことによって描く」作品のひとつなのです。
     さて、いままでSFやミステリの作例を見て来たわけですが、より宗教に近いジャンルであるファンタジーはどのように描いてきたのでしょうか。
     たとえば、C・S・ルイス『ナルニア国物語』、J・R・R・トールキン『指輪物語』などは、「超越世界」をどう描写しているのか。
     トールキンはともかく、ルイスはあきらかにキリスト教の信仰をもとにして『ナルニア』を書いたといわれています。
     それでは、ルイスは「ナルニア」こそがまさに「超越世界」そのものである、と考えていたのでしょうか。
     そうではありません。ここでも「ナルニア」はあくまで「真の楽園」へ至るひとつのステップであるに過ぎないのです。
     「真の楽園」は「超越世界」であるが故に描くことができない。そのためにその世界の「影」としてのナルニアを描く。そういう方法論だといってもいいでしょう。
     あるいは、これは孫引きになりますが、より世俗的とも受け取られるJ・K・ローリング『ハリー・ポッター』シリーズにしても、このようないち場面があるそうです。

    「僕は、帰らなければならないのですね?」
    「きみ次第じゃ」
    「選べるのですか?」
    「おお、そうじゃとも」
     ダンブルドアがハリーに微笑みかけた。
    「ここはキングズ・クロスだと言うのじゃろう? もしきみが帰らぬと決めた場合は、たぶん……そうじゃな……乗車できるじゃろう」
    「それで、汽車は、僕をどこに連れていくのですか?」
    「先へ」
     ダンブルドアは、それだけしか言わなかった。

     「先」。
     それは決して描けない「超越世界」を意味しているものと思われます。
     つまり、SFにしろミステリにしろファンタジーにしろ、直接描くのではなく示唆することによってしか、「超越世界」の神秘を描くことはできないのです。
     さて、ここでようやく麻枝准の作品の話に戻ります。
     『ONE』から『Angel Beats!』に至る麻枝作品は、実は 
  • 「カボチャ大王」を信じ込んだ天才ジョン・W・キャンベルとSF作家アイザック・アシモフの物語。

    2014-07-31 07:00  
    51pt



     タイトルからわかるように、スヌーピーの登場する漫画『ピーナッツ』を通じて人生の知恵を学ぼう、という趣旨の本。  『ピーナッツ』は実に奥深い漫画で、そこで見られる悩みの深さはちょっとアメリカ人が書いているとは信じがたいくらい。
     アポロ10号が建造されたとき、司令船と月面着陸船が「チャーリー・ブラウン」および「スヌーピー」と名づけられたことをご存知の方も多いでしょう。アメリカ人にとってはそれくらいメジャーな作品なのです。
     さて、この作品にはライナスという有名な少年が登場します。非常に頭がいい少年で、たぶん『ピーナッツ』の全登場人物中、いちばん聡明かもしれない。聖書をすらすらと暗唱したり、哲学的な警句を吐いたりと、その非凡な知性は行動にあらわれます。
     ところが、その反面、幼い頃からもっている古い毛布を手放せないという癖ももっています。
     依存症ですね。いくら理性ではばかばかしいと思ってもどうしても手放せないわけです。「ライナスの安心毛布」といえば、英語では辞書にも載っているほど有名な言葉だそうです。
     また、かれはハロウィンにはカボチャ大王がやってくるという迷信を信じています。ほかのことにかけてはあれほど聡明なライナスが、そういうばかばかしい話を信じ込んでいるというおかしさ。
     しかし、このライナスの姿にはどこか人間の本質を衝いているところがあるように思います。現実にも、同じような人物は大勢見かけるのではないでしょうか?
     ジョン・W・キャンベル・ジュニアという編集者をご存知でしょうか。『アウスタンディング』というSF雑誌の編集長として、アシモフ、クラーク、ハインライン、ブラッドベリ、スタージョンら超一流の作家たちを育て上げた辣腕編集者です。
     まず編集者としてはSF史上でも一、ニを争うくらい有名な人物といっていいでしょう。編集者になる前は作家で、作家としてもそれなりに優秀だったようですが、編集者としての腕前はそれを凌ぐと思います。
     とにかく頭のいいひとだったらしく、マサチューセッツ工科大学で学んだ経歴のもち主です。しかし、結果としてはMITを卒業することはありませんでした。このことについて、アーサー・C・クラークは、このように書いています。

     彼もMITで学んだが、そこを卒業はしなかった――ドイツ語に落第したからだという伝説があるが、わたしは信じない。ジョン・W・キャンベルにとってドイツ語などは児戯に等しかったろうし、勉学の妨げになるほどSFを書いていたから、MITの厳しい基準に合わなかったというほうが、もっともらしく思える(ささやかなものだったにちがいないが、おそらく金も必要だったのだろう)。

     あのクラークをしてここまで言わせるほどの人物だったわけです。その風貌と人柄は、キャンベルの直弟子ともいうべきアイザック・アシモフによると、この通り。

     現代SFの基礎を築いた男は、背が高くて、肩幅が広く、髪の毛が薄く、クルーカットで、メガネをかけ、高圧的、強烈、いつも煙草をくわえ、独断的で、話好き、移り気な心を持つ、ジョン・ウッド・キャンベル・ジュニアという人物である。

     これだけだと、たいして褒めているようには見えません。しかし、アシモフは続けてこのように記しています。

     わたしの文筆生活の全部が彼のおかげである。わたしに『夜来たる』の冒頭の引用句を含むあらすじを示唆してくれ、その小説を書くようにと、わたしを家に帰らせた。わたしの三度目か四度目のロボット小説では、首を振って、こう言った。『いや、アイザック、きみはロボット工学の三原則を無視しているよ、それは――』。そんな用語を聞いたのは、それが初めてだった。

     「わたしの文筆生活の全部が彼のおかげである」――いったいこれほどの感謝と賛辞を一編集者にささげる作家がどれだけいるでしょう。キャンベルがアシモフに与えた影響の大きさがわかります。
     「夜来たる」はアシモフの短篇を代表する名作であり、ロボット三原則は、いうまでもなく、SF作家アイザック・アシモフを有名にしたロボット・シリーズの基本原則です。
     アシモフによると、この三原則は決してかれひとりで考えたものではなく、キャンベルがいてこそ生まれたものだったとか。
     また、クラークによれば、かれは投稿された作品を没にするときでさえ、「投稿した短篇より長い断りの手紙」を書いてよこしたといいます。
     それだけだったなら、キャンベルはサイエンス・フィクションの「黄金時代」を演出した名伯楽としてのみ歴史に名をのこしたことでしょう。
     ところが、晩年のキャンベルはさまざまな疑似科学運動にのめりこんでいくことになります。まさに、聡明なライナスがカボチャ大王の実在を信じ込むように。その様子をクラークはこう書きます。

     彼は晩年に近づくにつれて、ありとあらゆる(ひかえめに言っても)論争を呼ぶアイデア――ダイアネティックス、超心理学、反重力機械(〝ディーン駆動〟)、極端な政治的見解――に関与し、かつての示唆に富む編集後記は意味不明に近くなった。

     ダイアネティックスとは、SF作家のL・ロン・ハバードの創案になる疑似科学的アイディアです。
     「サイエントロジー」という名前をご存知の方もいらっしゃるでしょう。あのトム・クルーズも信者だというアメリカの巨大新興宗教です。その教義の根幹になっているのがダイアネティックス。『アシモフ自伝』にはその運動にはまっていくキャンベルの姿がえがかれています。

     それからニューヨークに戻ると、四月十四日にキャンベルを訊ねた。彼の話題はダイアネティックスのことばかりだった。私はあまりさからわなかった。ただ無感動に聞いていて、自分は信じないといっただけだった。ついにキャンベルは、怒りとも冗談ともつかない口調でいった。「まったく、きみは先天的な懐疑論者だな、アシモフ」
    「ありがたいことですよ、キャンベルさん」と私はいった。

     注目すべきは、アシモフにしろクラークにしろ、かれの信じる疑似科学をかけらほども信じないにもかかわらず、ひとりの人間としてのキャンベルに対する尊敬を失ってはいないということです。クラークはキャンベルをこう評しています。

     もう一度、アイザック・アシモフから引用しよう。「科学や社会に対する観点がいかに型破りであっても、個人的には正気の穏やかな人物でありつづけた」。そしてわたしは、「本質的には思いやりがあった」とつけ加えたい。

     ここにもキャンベルとライナスの共通点を見出せるような気がします。ライナスの友人たちはカボチャ大王などという迷信をこれっぽっちも信じないにもかからわず、それでも人間としてのかれを見捨てようとはしません。
     ただ、もっとも聡明な人物が、もっともばかばかしいことを信じ込んでしまうという事実に皮肉な何かを見るのです。
     キャンベルは1971年7月11日、61歳で亡くなりました。アシモフは「そのショックは、二年前に父の死を知ったときに次ぐものだった」と書き記しています。
     ――と、ここで終わってもいいのですが、実はこの話には後日譚があります。
     『アシモフ自伝』によると、