• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 11件
  • シャカイ系と新世界系とはどこが決定的に違うのか?

    2020-05-29 17:42  
    50pt
     ども。ここしばらく更新が途絶えていて申し訳ありません。ここら辺でちょっと読みごたえのある記事を書いて今月を締めることにしたいと思います。
     ぼくたち〈アズキアライアカデミア〉でいうところの「新世界系」のまとめと、「その先」の展望です。
     新世界系の発端である『進撃の巨人』の連載開始から11年、『魔法少女まどか☆マギカ』の放送から9年、いわゆるテン年代が終わり、2020年代が始まったいま、新世界系は新たな展開を迎えつつあるように思います。
     そこで、ここで「新世界系とはいったい何だったのか?」を踏まえ、「これからどのような方向へ向かうのか?」を占っておきたいと思うのです。
     まず、新世界系の定義についてもう一度、振り返っておきましょう。新世界系とは、そもそも『ONE PIECE』、『HUNTER×HUNTER』、『トリコ』といった一連の作品において「新世界」とか「暗黒大陸」と呼ばれる新たな冒険のステージが提示されたことを見て、「いったいこれは何なのか?」と考えたところから生まれた概念でした。
     そして、この「新世界」とは「まったくの突然死」すらありえる「現実世界」なのではないか、と思考を進めていったわけです。
     物語ならぬ現実の世界においては、『ドラゴンクエスト』のように敵が一段階ずつ順番に強くなっていって主人公の経験値となるとは限りません。最初の段階で突然、ラスボスが表れてデッドエンドとなることも十分ありえる、それが現実。
     したがって、ある意味では、新世界においては「物語」が成立しません。いきなり最強の敵が出て来ました、死んでしまいました、おしまい、では面白くも何ともないわけですから。
     そこで、「壁」という概念が登場します。これは、たとえば『進撃の巨人』のように、物理的、設定的に本物の壁である必要はありません。あくまでも「新世界(突然死すらありえる現実世界)」と「セカイ(人間の望みが外部化された世界)」を隔てる境界が存在することが重要なのだと思ってください。
     それは『HUNTER×HUNTER』では「海」でしたし、『約束のネバーランド』では「崖」の形を取っていました。とにかく残酷で過酷な「新世界」と「相対的に安全なセカイ」が何らかの形で隔てられていることが重要なのです。
     この「壁」の存在によって初めて新世界系は「不条理で理不尽な現実」をエンターテインメントの形で描くことが可能となった、といっても良いでしょう。
     それでは、なぜ、ゼロ年代末期からテン年代初頭にかけてこのような新世界系が生まれたのか? それは、つまりは高度経済成長からバブルの時代が完全に終わり、社会に余裕(リソース)がなくなり、状況が切迫してきたからにほかなりません。
     生きる環境がきびしくなっていくにつれ、人間の内面世界を描く「セカイ系」的な作品群からよりリアルな世界を描く「新世界系」へ関心が移ってきたわけです。
     これはどうやら、日本だけの現象というよりは、アメリカを含めた先進国である程度は共通していることらしい。ヨーロッパあたりのエンターテインメントがいま、どのような状況になっているのか不勉強にしてぼくは知らないのですが、おそらくそちらでも同じようなことが起こっているのかもしれません。
     さて、ここで以前も引用して語った評論家の杉田俊介氏による『天気の子』評をもう一度引いてみましょう。

    それに対し、帆高は「陽菜を殺し(かけ)たのは、この自分の欲望そのものだ」と、彼自身の能動的な加害性を自覚しようとする、あるいは自覚しかける――そして「誰か一人に不幸を押し付けてそれ以外の多数派が幸福でいられる社会(最大多数の最大幸福をめざす功利的な社会)」よりも「全員が平等に不幸になって衰退していく社会(ポストアポカリプス的でポストヒストリカルでポストヒューマンな世界)」を選択しよう、と決断する。そして物語の最終盤、帆高は言う。それでも僕らは「大丈夫」であるはずだ、と。
    象徴的な人柱(アイドルやキャラクターや天皇?)を立てることによって、じわじわと崩壊し水没していく日本の現実を誤魔化すのはもうやめよう、狂ったこの世界にちゃんと直面しよう、と。
    しかし奇妙に感じられるのは、帆高がむき出しになった「狂った世界」を、まさに「アニメ的」な情念と感情だけによって、無根拠な力技によって「大丈夫」だ、と全肯定してしまうことである。それはほとんど、人間の世界なんて最初から非人間的に狂ったものなのだから仕方ない、それを受け入れるしかない、という責任放棄の論理を口にさせられているようなものである。そこに根本的な違和感を持った。欺瞞的だと思った。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66422

     「狂った世界」。ここで何げなく使用されているこの言葉はじつに新世界系とその時代を端的に表現するキーワードだといえます。
     世界は狂っているということ、過酷で残酷で不条理で理不尽で、「間違えて」いるということこそが、新世界系の端的な前提なのです。
     新世界系とは、「この狂った世界でいかにして生きる(べき)か?」という問いに答えようとする一連の作品を示すといっても良いでしょう。
     しかし、杉田氏はここでその「狂った世界」は是正されるべきだという考えを示し、そういった想像力を「シャカイ系」と名づけます。杉田氏によればそういった「シャカイ系の想像力」こそ『天気の子』に欠けているものなのです。かれはさらに続けます。

     「君とぼく」の個人的な恋愛関係と、セカイ全体の破局的な危機だけがあり、それらを媒介するための「社会」という公共的な領域が存在しない――というのは(個人/社会/世界→個人/世界)、まさに「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観そのものだろう。そこでは「社会」であるべきものが「世界」にすり替えられているのだ。
     「社会」とは、人々がそれをメンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである。その意味でセカイ系とはネオリベラル系であり(実際に帆高や陽菜の経済的貧困の描写はかなり浅薄であり、自助努力や工夫をすれば結構簡単に乗り越えられる、という現実離れの甘さがある)、そこに欠けているのは「シャカイ系」の想像力であると言える。

     以前にも書きましたが、この認識は致命的なまでに甘い、とぼくは考えます。というか、若者層のシビアな実感からあまりにもずれているというしかありません。
     もちろん、我々個人と世界のあいだには中間項としての「シャカイ」が存在することはたしかであり、それを民主的な方法によって改善していかなければならないということは一応は正論ではあるでしょう。
     しかし、あきらかに時代はその「狂った世界」を変えることは容易ではなく、ほとんど不可能に近いという実感を前提にした作品のほうに近づいている。
     『フロストパンク』というゲームがあります。これは大寒波によって全人類が滅んだ時代を舞台に、「地球最後の都市」の指導者となってその街を導いていくという内容です。
     ぼくはまだプレイしていませんが(その前に遊んでおかないといけないゲームが無数にあるので)、プレイヤーが指導者として人を切り捨てたり見捨てたりするという倫理的に正しいとはいえない選択肢を迫られる内容であるらしい。
     このゲームの内容はある意味、現代という時代をカリカチュアライズしていると感じます。倫理的に正しく生きようにも、その「正しい選択」を行うためのリソースが不足しているというのが現代の実感なのだと思う。
     もっとも、これは必ずしも社会が衰退していることを意味しません。それこそ『ファクトフルネス』あたりを読めばわかるように、地球人類社会は全体としては確実に前進しているし、成長している。問題は、その結果として生まれたリソースが平等に配分されることはありえないということなのです。
     「狂った世界」とは、たとえば、一部に富が集中し、多くには不足するというモザイク状の状況を意味しています。日本を含めた先進国でも中産階級が崩壊し、都市市民はかなりギリギリのところにまで追いつめられているのがいまの現状でしょう。
     もちろん、これは放置していて良い問題ではない。だから、あるいは中長期的にはこの問題すらも解決されていくかもしれません。しかし、その解決策は短期的状況には間に合わないであろうこともたしかです。
     つまり、おそらく生きているあいだはぼくたちの多くはあらゆるリソースが不足する過酷な環境を生き抜くしかない。このきびしい認識は、いまとなっては若者層の「所与の前提」となっていると思うのです。
     そして、そこから新世界系の物語が生み出されてくる。余裕(リソース)がない環境とはどのようなものか? 『フロストパンク』を見ていればわかるように、それは「正しい答え」が絶対に見つからないなかで、どうにか選択して生きていかなければならないという状況です。
     いい換えるなら、そもそも「正解の選択肢」が存在しないなかでそれでも選択していかなければならないということ。ここで、ぼくは山本弘さんが新世界系の代表作のひとつである『魔法少女まどか☆マギカ』について、ブログに書いていた文章を思い出します。
     この記事の無料公開はここまで。後半は会員限定です。海燕のニコニコチャンネルは週一回+αの生放送、無数の動画、ブロマガの記事を含んで月額330円です。海燕の記事を読みたい人は良ければ入会してみてください。よろしくお願いします。 
  • 大晦日だよ。好きなキャラクターランキング男女別ベスト20。

    2017-12-31 01:39  
    51pt
     質問箱で「好きなキャラクターランキングを教えてください。」(https://peing.net/q/8acd316f-e553-4950-8c0b-b082c571a50d)という質問をいただいたので、作ってみました。
     けっこう苦労しました。当然、好きなキャラクターは枚挙にいとまがないほどいるわけですが、ランキングをつけるのって大変だよね。ぼくが好きなキャラクターは男女を問わず、何らかの形で「戦っている」という特徴があります。与えられた運命に対し、果敢に抵抗しているキャラクターが好きですね。下のほうにくわしい解説をつけておきます。
    〇男性編
    1位 ヤン・ウェンリー(『銀河英雄伝説』)
    2位 イシュトヴァーン(『グイン・サーガ』)
    3位 ダグラス・カイエン(『ファイブスター物語』)
    4位 尼子司(『SWAN SONG』)
    5位 土方歳三(『燃えよ剣』)
    6位 令狐冲(『秘曲笑傲江湖』)
    7位 オスカー・フォン・ロイエンタール(『銀河英雄伝説』)
    8位 森田透(『翼あるもの』)
    9位 ジークフリード・キルヒアイス(『銀河英雄伝説』)
    10位 伊集院大介(『伊集院大介の冒険』)
    11位 ルルーシュ(『コードギアス』)
    12位 沖田総司(『燃えよ剣』)
    13位 田島久義(『恋愛』)
    14位 上杉達也(『タッチ』)
    15位 ジュスラン・タイタニア(『タイタニア』)
    16位 グリフィス(『ベルセルク』)
    17位 衛宮士郎(『Fate/stay night』)
    18位 グイン(『グイン・サーガ』)
    19位 碇シンジ(『新世紀エヴァンゲリオン』)
    20位 ジョン・スノウ(『氷と炎の歌』)
    〇女性編
    1位 比良坂初音(『アトラク=ナクア』)
    2位 沢渡真琴(『Kanon』)
    3位 ヴィアンカ(『OZ』)
    4位 黒猫(『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』)
    5位 ラキシス(『ファイブスター物語』)
    6位 姫川亜弓(『ガラスの仮面』)
    7位 シルヴィア(『グイン・サーガ』)
    8位 躯(『幽☆遊☆白書』)
    9位 白鐘直斗(『ペルソナ4』)
    10位 美樹さやか(『魔法少女まどか☆マギカ』)
    11位 アトロポス(『ファイブスター物語』)
    12位 久慈川りせ(『ペルソナ4』)
    13位 綾波レイ(『新世紀エヴァンゲリオン』)
    14位 ユーフェミア・リ・ブリタニア(『コードギアス』)
    15位 真賀田四季(『四季』)
    16位 長谷川千雨(『魔法少女ネギま!』)
    17位 アウクソー(『ファイブスター物語』)
    18位 鹿目まどか(『魔法少女まどか☆マギカ』)
    19位 川瀬雲雀(『SWAN SONG』)
    20位 サーバル(『けものフレンズ』)
     男性版1位のヤン・ウェンリーはもうしかたないというか、30年近くファンやっているもので、どうしようもないですね。歳を取ってから見てみると、驚くほど繊細なバランスでできているキャラだと気づきます。この頃の田中芳樹のすごみですね。
     2位のイシュトヴァーンは若き日の野生、たけだけしさ、行動力、与えられた運命に果敢に抵抗していくところもさることながら、後半の殺人王へと堕ちていくくだりも好きです。人生で最も心配して眺めたキャラクターといっても過言ではないかも。
     3位のカイエンは、まあ自分のハンドルネームのもとにするくらいで、それはもう大好きです。非常に男性的な、「男」という生きものの長所と短所というものがもしありえるとすれば、それを凝縮させたようなキャラクターですよね。ひたすら男のロマンを追求したようなというか。かっこいい。
     第4位は『SWAN SONG』の司。やっぱりあまりにも過酷な運命に抵抗しつづけるところが好きですね。人間として強い。強すぎる。ランキングには入っていないけれど、鍬形も好きです。リアリティありすぎ。
     第5位、土方歳三。まあ、ぼくの読書人生でいちばんといっていいくらいかっこいいキャラクターですね。切ないほどの男らしさ。そしてやっぱり行動力が好きです。アクティヴなキャラクターが好きだということですね。
     第6位、令狐冲。いい奴(笑)。とにかくいい奴。あまりにもいい奴すぎてヒーローというより被害者じゃないかという気もするのですが、とにかく気のいい兄ちゃんです。大好き。金庸のキャラクターは他にも魅力的な人がたくさんいます。
     第7位、『銀英伝』からふたり目。ロイエンタール。こいつもかっこいいよなあ。破滅的に生きて、結局破滅する悲劇性が好きですね。女嫌いのくせに女にはモテるところとか、矛盾した性格に惹かれます。
     第8位、栗本薫の初期の名作『翼あるもの』より森田透。この人はね、とても優しい人ですね。9位のキルヒアイスもそうなのだけれど、優しい人が好きです。自分も優しい人間でありたいと思っています。少しは優しくあれているといいのですが、どうだろうなあ。
     で、第10位、伊集院大介。はい、この人も優しい人ですね。栗本薫の作品全作を通じての最大の名探偵であり、弱い人々の守護者のような存在です。意外にも、名探偵キャラクターからはこの人しか入っていませんね。金田一耕助とかも好きは好きなんですけれど。
     第11位は『コードギアス』からルルーシュ。「反逆の」ルルーシュというくらいで、やっぱり運命に抵抗する系統のキャラクターですね。ぼくはとことんこの手の反逆者キャラクターが好きなようです。
     第12位は『燃えよ剣』の沖田総司。土方歳三の相棒ともいうべきキャラクターですが、そのあまりの透明さ、哀切さは強く印象にのこっています。こんなキャラクターをさらっと生み出してしまうのだから、司馬遼太郎という人もたいがい天才ですね。
     第13位、ぼくの最も好きな漫画のひとつ、『恋愛』から主人公の田島久義。狂気のような情熱の持ち主で、一歩間違えばストーカー以外の何ものでもありませんが、そういうところが好きです。
     第14位のキャラクターは『タッチ』の上杉達也。まあ、この人に関してもあまりいうことはないですね。とても辛い、重い運命を背負って、それをだれのせいにもせず、ひとりで孤独に戦い抜いたところが好きです。
     第15位、ジュスラン・タイタニア。いやー、すごいキャラですよね。「中途半端な美形」といういちばんダメになりそうなキャラを、ここまで魅力的に描いてしまう全盛期田中芳樹の凄まじさよ。キャラクターの造形に関してはほんとにものすごい作家だと思います。
     で、第16位なのですが、ガッツではなくグリフィスを持ってくるところがぼくらしいと思ってほしいですね。イシュトヴァーンを好きなのとほぼ同じ理由で好きです。運命に対する抵抗。
     第17位は『Fate』から士郎。まあ、奈須きのこユニバースからひとり持ってくるなら、やっぱり士郎になるのかなあと。凛も桜もセイバーも好きですが、士郎の狂気はすごく好きです。ぼくは狂的なパッションを持っているキャラクターが好きらしい。
     第18位、グイン。まあ、みんなのお父さん的な存在ということで、出てくると安心感がありますよね。あまりにも無敵すぎるのでかれが活躍するとあっというまに問題が片付いてしまうのですが。やっぱり好きは好き。
     第19位はシンジくん。ぼくはかれのことはかなり評価しています。だって頑張っているじゃないか! そりゃ弱音は吐くけれど、それでも戦っているわけで、もう少し評価されてもいいはず。まあ、状況が過酷なんだよね……。
     そして第20位はジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』からジョン・スノウ。非常に人気があるキャラクターですね。ティリオン・ラニスターとどっちにしようか迷ったのだけれど、ジョンのほうにしておきました。ティリオンも好きです。
     女性編の第1位は『アトラク=ナクア』の初音お姉さま。もうダントツで好きですね。邪悪さと可憐さ、攻撃性と被害者性が一身に両立しているところが好きです。これは、男性キャラクターでもそういうキャラクターが好きですね。ぼくの好みなのだと思う。
     で、第2位の真琴。この子はね、純粋にいたいけな無垢の象徴みたいなキャラクターですよね。これは異性として好きというより完全に子供として好きなんですね。ぼくの子供好き(怪しい意味じゃない)が端的に表れているキャラクターだと思います。
     第3位、ヴィアンカ。妹のフィリシアも好きですが、この子の浮かばれなさが好きです。チョロイン属性というか、作者にもあまり愛されていないっぽいところが好き。不遇萌えの窮みみたいなところありますね。
     第4位、黒猫。可愛い。以上。いや、可愛いよね、黒猫。ぼくはフィクションのキャラクターに萌えても恋愛感情は感じないんだけれど、この子だけはちょっとべつで、普通に付き合いたい(笑)。年齢差何十歳あるんだって感じですが……。好きですね。
     第5位はラキシス。まあ、天真爛漫のプリンセスですね。アトロポスやエストも好きなのだけれど、この子のまったくファティマらしくない自由奔放さが好きです。好き勝手にやっているキャラクターが好きなのかも。
     第6位、姫川亜弓。努力の人ですよね。やっぱり「運命に対する抵抗」が好きなんだと思う。マヤのような傑出した天才を持ち合わせていないことを、懸命な努力でどうにしかしようとするその姿勢に強く強く惹かれます。マヤも好きですが。
     第7位、シルヴィア。非常に悲惨な目に遭っている少女ですが、それでもなお、愛を求め、幸福を求め、地獄のような環境のなかであがき、もがいているところが好きですね。『グイン・サーガ』におけるジョーカーのようなキャラクターなのだと思います。
     第8位は躯(『幽☆遊☆白書』)。彼女も被害者性と加害者性を両立させているキャラクターですよね。非常に好きです。ただ、キャラクターとしてあまりに完結してしまっているので、ランキングとしてはそこまで上にはなりません。いいキャラクターですけれど。
     第9位、白鐘直斗。大好きなゲームである『ペルソナ4』からひとり選んでおきたいということで、彼女にしました。非常に知的でそつがなく、女性的なところを抑圧していて、しかしそれがしだいに解放されていくというところが好きです。
     第10位、美樹さやか。『まどマギ』のなかではこの子がいちばん好きです。ぼくはだいたい酷い目に遭っているキャラクターを好きになる傾向が強いようですね。もちろん、それ自体ではなく、その状況に対する抵抗にこそ共感するわけです。
     第11位にはアトロポス。これも不遇萌えに近いかもしれない。妹のラキシスに比べ不幸な人生を送っているように見えますが、そういうところが魅力的です。でも、ドラゴンに惑星を亡ぼさせようとするのはやめろ。ものすごく迷惑だぞ。
     で、すいません、『ペルソナ4』からひとりといいましたが、第12位にりせちーも選んでしまいました。本来、ぼくの好みではないはずのキャラクターなのですが、不思議と好きですね。たぶん、あのグループのなかでこそ輝くキャラクターなのだと思います。
     第13位、ぼくたちの綾波。まあ、あの儚そうなところに惹かれるわけですね。彼女については既に山ほど論考があるのでいまさら語りませんが、やはり加害と被害、サディズムとマゾヒズムが同居したキャラクターだと思います。そこに惹かれます。
     第14位、『コードギアス』のユーフェミア・リ・ブリタニア。非常に「女の子らしい」ままであのルルーシュを敗北に追い込んだというところに凄みを感じます。男性的にならないままで運命と戦っているところが好きですね。
     第15位は真賀田四季。これは『四季』の少女四季に一票、ということにしておいてください。まあ、いろいろな意味で非常に画期的なキャラクターなのですが、ぼくは完璧になる前のわずかに欠けたところがある幼い四季が好きです。
     お次は第16位。えーと、長谷川千雨(『魔法少女ネギま!』)。みごとネギと結ばれてしまった勝ち組キャラクターなのですが、あの劣等感を抱えたまま戦っているところに共感します。ぼくも似たようなものなので。オタクキャラですね。
     第17位、アウクソー。ラキシスとアトロポスは女神なので例外と考えるとして、ほぼファティマ代表ですね。あのダメ男に仕えて幸せそうにしているけなげなところが気に入っています。エストとどっちにしようか迷ったけれど、まあ、アウクソーかな、と。
     第18位、まどか。ヒーロー。ザ・ヒーローというイメージです、ぼくのなかでは。この人を「普通の女の子」として捉える人もいるだろうけれど、ぼくのなかでは普通じゃない異常な人ですね。その異常さに惹かれます。でもさやかより順位は下。
     第19位。川瀬雲雀。ひばりん、かわいいよなあ。強いし。田能村のプロポーズに対し即座に「いいよ」と答えるところに惚れました。いい女だぜ! 
     第20位、サーバルちゃん(『けものフレンズ』)。この子はもっと順位が上でもいいかもしれませんね。このラインナップのなかで今年のキャラクターはこの子だけじゃないかな。やっぱり優しさ、懐の広さ、包容力というところが好きなのだと思います。
     以上、好きなキャラクターランキングでした。まあ、暫定版というか、いまの気分に多分に影響されているランキングですが、だいたいこんな感じだと思います。うーん、参考になるかな? 質問者さんに届いていれば幸いです。 
  • 偏見と臆断抜きで「最近の漫画やアニメ」批判は成り立たない。

    2016-08-09 05:06  
    51pt
     こんな記事を読みました。

    今のマンガやアニメって、18禁じゃないだけで、ただのポルノだろ?
    (中略)
    でも。オレにはわからない。
    最近の漫画やアニメって、エロゲーやエロアニメと何が違うんだ?
    いくらアシや編集、知り合いに勧められて見ても、何が面白いのか全く理解できない。
    まずあのアイドル声優の金切り声がもうダメだ。聞くに堪えない。エロゲーの嬌声じゃん。
    ストーリーがあってキャラが居るんじゃない。キャラのためにストーリを作ってる。
    いや、それ自体を悪いとは言わん。しかし圧倒的多数がそういう作品ってのはどういうことなんだよ。
    http://anond.hatelabo.jp/20160808233905

     ぼくはこの文章を読んで、ちょっと笑ってしまいました。いやー、面白いですねえ。ほんと、何をどう見ていたらこういう認識になるんだろうと興味深い。
     ぼくの認識はまったく逆で、あきらかにいま
  • 伊藤ハチ『合法百合夫婦本』と百合漫画の歴史。

    2016-05-18 18:40  
    51pt

     伊藤ハチさんの百合漫画新刊『合法百合夫婦本』と『チヨちゃんの嫁入り』を読みました。
     どうやら伊藤さんによる過去の同人誌をまとめた本らしいですが、ぼくは初読なのであまり関係がありません。甘酸っぱい世界を堪能させていただきました。
     読むほどに多幸感が増していくドラッグ的な2冊です。あー、幸せー。生きていてよかったー。愛って素晴らしい(何かいってる)。
     Kindleは欲しい本が一瞬で手もとにやってくる偉大なシステムだな。何よりいったん購入した本はなくならないのが凄い。これからも新刊はなるべくKindleで買おうと思います。
     それにしても、最近は百合漫画もいちジャンルとして確立された感がありますねー。
     ひとりのなんちゃって百合オタとしては感慨深いものがあります。
     もっとたくさん百合漫画が出るようだといいのだけれど、まあ、マイナージャンルには違いないからなかなかそういうわけにもいかないか。
     無数の作品のなかから読むものを選べる腐女子な人たちがうらやましい。
     そもそも百合の歴史はBLに比べると浅いのです。
     いや、吉屋信子の『花物語』とか、女学生同士の「エス」の関係だとかまでにさかのぼれば古いだろうけれど、オタク文化としての百合作品の歴史は相対的に浅い。
     あまり迂闊なことはいえませんが、『美少女戦士セーラームーン』の百合二次創作が流行ったあたりが皮切りなんじゃないかな?
     もちろん、それ以前にも少女漫画には「レズビアンもの」がありました。しかし、それは往々にして重苦しい内容で、悲劇的結末を伴うものだったそうです。
     ここらへんは藤本由香里さんの名著『私の居場所はどこにあるの?』にくわしい。
     なぜBLに比べ百合の普及が遅れたかといえば、うん、なぜなんでしょうね?
     当然、ひと言ではいい表せないような複雑な原因が絡みあっているのだと思いますが、まあやっぱり生々しく感じられたんだろうなあ。
     あと、女性同士の関係に「先」が感じられるような社会状況ではなかったのかもしれません。
     それがゆっくりと受け入れられるようになっていった背景には、おそらく「女性キャラクターのイメージの多様化」が関係しているのだろうと思います。
     ここ20年くらいで、漫画のなかの女性キャラクターたちはだいぶ変化しています。特定の性役割に縛られることも、あるいはまだ十分ではないかもしれないにしろ、だいぶ減ってきているのではないかと思う。
     そういう事情が、百合作品の発展にも影響を与えているのではないか。
     少女漫画でいうと、清水玲子の『輝夜姫』あたりから百合テーマは新時代に入っていった感じがしますが、結局、この作品は百合を全うできずに終わった印象が強い。ちょっと時代が早すぎたということでしょうね。
     で、そのあと『カードキャプターさくら』とかが発表されたこともあって、しだいに百合は一般化していくという流れで良いかと思います。
     いや、CLAMPはその前に『聖伝』とか、色々あるにはあるのですが。
     そういう長い歴史を経て、百合のいまはあるわけです。
     「百合」という言葉が広く使われるようになったのは、やっぱり『マリア様がみてる』あたりからだと思うんだけれど、どうだろう? あまり確信はないのでなんともいえないところです。
     まあ、いまでも百合業界には注文があって、個人的にはもっと物語として「面白い」百合作品を希望したいところなのだけれど、むずかしいのかなあ。むずかしいのだろうなあ。
     あまりストーリーテリングに特化した百合作品って見ないものなあ。『魔法少女まどか☆マギカ』とかは、あるいはそれにあたるかもしれないけれど。あとは高河ゆん原作の『悪魔のリドル』とか?

     前の記事でも書きましたが、「面白い」物語は 
  • 甘ったるい萌えアニメに腰までひたっても、なお。

    2016-04-04 09:00  
    51pt

     さて、昨日の記事に続いて、ペトロニウスさんが最新記事のもうひとつの論点として挙げている「向上心がない物語はダメなのではないか」という話を語りましょう。
     これは、20年くらい前から延々と形を変えていわれつづけていることのバリエーションだと思うのですが、まあ、じっさいのところ、どうなんでしょうね?
     元々の野尻さんの発言は「コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ」というものでした。
     「コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品」とは、具体的には『このすば』のことらしいのですが、これがほんとうに問題なのかというと、正直、ぼくにはよくわからないです。
     たしかに、こういう作品ばかりになってしまったらいかにも退屈だし、良くない状況だとは思う。
     しかし、現実にそうなっているかというとね、なっていないんじゃないでしょうか。
     ここ最近ヒットしたアニメなりウェブ小説を見ていくと、必ずしも甘ったるいばかりの作品がウケているとはいえないと思うのですよ。
     もちろん、ぼくはそのすべてをチェックしたわけではないのでたしかなことはいえませんが、少なくとも『進撃の巨人』もあれば『魔法少女まどか☆マギカ』もある、『SHIROBAKO』もあれば『1週間フレンズ』もあるわけで、業界全体が一色に染まっているとはいいがたいでしょう。
     むしろ、過去に比べても多彩な作品が提供されるようになって来ていると思います。
     もし、それらの作品が一色に見えるとすれば、やはりパッケージの問題でしょう。
     現代のアニメには色々な作品があるけれど、そのほとんどに何らかの形で美青年や美少女が出て来ることもたしかで、そのキャラクターたちの画一的なイメージが作品に多様性がないという印象を与えているのだと思います。
     じっさいには、当然、キャラクタ―デザインにある程度の差異があるのですが、それは「わかる人が見ればわかる」種類のものであることもたしかです。
     わからない人が見ればやはり似たり寄ったりに思えるでしょう。
     そして、そのパッケージの印象を、野尻さんは「かっこ悪い」といって批判しているのだと思います。
     これは良く考えるとなかなか深い問題で、一理はあると思う。ただ、いまさら美少女を出してはダメだといってもね、それは届かないことでしょう。
     それに、ここ十数年くらいで、アニメに登場する美少女たちも(決してリアルになったわけではないにしろ)相当に多様化が進んでいると思うのです。
     ここらへんは「暴力ヒロイン問題」と密接な関わりがあるのですが、たとえば『俺妹』の桐乃なんかは一方で強烈な反発を受けるくらい過激なキャラクターであるわけですよね。
     そういうキャラクターもいまは例外とはいえないくらい普通に存在している。
     まあ、その手のキャラは必然的に「女の子は天使じゃないと許せない派」からは過剰な反発を受けるわけですが、そうかといっていなくはならない。
     あいかわらず色々な形で出て来ては視聴者の自意識を告発したりするわけです。
     そういう告発に耐えられない視聴者層はたしかにいます。
     しかし、いまとなっては、その手の告発すら平気で受け止められる視聴者層も熟成されて来ているように思います。
     野尻さんは「コンプレックスまみれの視聴者」と決めつけていますが、これはアニメ視聴者に対するかなり古いバイアスです。
     かつてはともかく、いまは特に大きなコンプレックスがないアニメ視聴者も相当の割合でいるはずです。
     そういう視聴者は必ずしも慰撫だけを求めてアニメを見ているわけではない。
     いや、当然、見ていて不快になるようなものを求めているわけではないでしょうが、野尻さんが考えているほど甘ったるいばかりの物語を求める「弱い」視聴者層ばかりではないと思う。
     その証拠に、『このすば』の主人公もさんざんあざけられ、ばかにされ、笑い者にされているではありませんか。
     まあ、たしかにかれはご都合主義的に美少女といっしょに旅をすることにはなります。
     ですが、その旅も美少女も必ずしも主人公を慰め、いい気分にさせてくれるだけの装置ではない。
     一見してそう見えるにしろ、じっさいには色々あるのであって、その色々が作品の個性となっています。
     「いや、そうではなく、もっと視聴者の自意識の欺瞞を徹底して告発するきびしい物語が必要なのだ」という意見もあるでしょう。
     それもわからなくはない。ある程度は共感できる意見です。
     しかし、 
  • 『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力はどこにあったのか。

    2015-10-24 17:16  
    51pt

     つい先ほどまでラジオで話していた内容が興味深いので、ちょっとぼくなりにまとめてみたいと思います。
     端的にいうと、『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力とはなんだったのか、なぜあの作品はウケたのか、という話ですね。
     ご存知の通り、『まどマギ』はここ最近の深夜アニメのなかではトップクラスといっていいくらいにヒットしたわけなのですが、では、なぜヒットしたのか? どこが特別だったのか? と考えるとよくわからないところがあるわけです。
     一見すると、『まどマギ』の特徴は「可愛らしい絵柄の女の子(萌え美少女)を徹底的にひどい目に遭わせていること」であるように見えるし、その点に影響を受けたと思しいフォロワー作品がいくつかある。
     まあ、じっさいに直接的な影響があるかどうかは知りようもないわけですが、『まどマギ』の後、ぼくたちが「女の子をひどい目に遭わせる系」とそのままのネーミングで呼んでいる系譜の作品がいくつか出て来たことは事実です。
     しかし、ほんとうに『まどマギ』のヒット要因がそこにあったのかというと疑問なんですよね。
     というのも、いま述べたようなフォロワー作品はそこまでウケているようには見えないからです。
     どうやら女の子をひどい目に遭わせればそれでいいというものではないらしい。
     むしろ、女の子たちがひどい目に遭うことがありえる世界でどのように生きていけばいいのかというところにフォーカスするべきなのかもしれない。
     と、ここまではいままで語ってきた通りです。
     で、今回、LDさんが仰っていたのが、つまり『まどマギ』とは「女の子(萌え美少女)と一見それと関係なさそうなジャンルを接続するという方法論の作品」のひとつだったのだ、ということです。
     この場合、女の子が何に接続されたのかといえば、ぼくたちがいうところの新世界系(突然ひとが死ぬような過酷な世界を描いた物語)ということになります。
     『まどマギ』とは、萌え美少女と新世界を接続した作品だったわけです。
     そして、その結果、副次的に女の子がひどい目に遭うことになった、ということです。
     つまり、『まどマギ』は女の子を趣味的にひどい目に遭わせたところに魅力がある作品ではなかったし、そこにウケた理由があるわけでもない、ということですね。
     いい換えるなら、『まどマギ』が「女の子をひどい目に遭わせる系」に見えるのは一種の錯覚ということになります。
     もちろん、じっさいに女の子はひどい目に遭っているのだけれど、そこを目的とした作品ではないのです。
     女の子をひどい目に遭わせようという趣味自体は、いうまでもなくはるか昔からあったものと思われます。
     表面に出て来ることは少ないにしても、エロゲやエロマンガといったアンダーグラウンドカルチャーでは、凌辱系と呼ばれるジャンルは昔から人気があったわけですから。
     だから、『まどマギ』はその意味では特に画期的ではない。
     それならどうしてウケたのかといえば、 
  • 愛が理想をくじくとき。『まどマギ』と『風立ちぬ』の相違点について。

    2015-03-19 02:04  
    51pt


     一般に、男性作家は男性に都合のいい話を描き、女性作家は女性に都合のいい話を描くものです。あたりまえといえば、あたりまえのこと。
     もちろん、より公正な視点から物語を綴る作家もいるでしょうが、高尚な文学作品はしらず、通常のエンターテインメントではどうにもそういうふうになりがちなのではないでしょうか。
     たとえば宮﨑駿が監督した映画『風立ちぬ』などは、とても男性に都合のいい話だったと思います。 人物も世界も、すべてが男性主人公の「少年の夢」の輝きを照らしだすために存在しているような印象があった。
     ぼくはそのご都合主義的な開き直りが嫌いではありませんが、ふと、女性の目にはどう見えるのだろうと感じることもあります。
     非常にスタンダードな「男のロマン」の物語であるように見えるだけに、あるいは女性から見たらなんと身勝手な、と思えるのではないでしょうか。
     とはいえ、ぼくは男なのでやはり「男のロマン」の物語を好ましく感じます。 ある天才的な主人公が、大人になってなお、少年時代の夢を純粋に追い求めつづける――そういう「少年の夢」の物語がとても好きです。
     それは、まさに『風立ちぬ』がそうであったように、現実世界の理屈と衝突してときに血まみれの夢と化すことでしょう。 しかし、そうであればあるほどその純粋さは際立つわけです。
     『風立ちぬ』のほかには、漫画『プラネテス』のウェルナー・ロックスミスあたりがそういうキャラクターにあたるでしょうか。
     人道をも倫理をも汚辱してなお、自らの夢をどこまでも追いかけつづけるという奇怪な類型。 ぼくはそこにとても美しい、あえていうなら人間的なものを見るのです。
     『ジョジョの奇妙な冒険 スティール・ボール・ラン』のリンゴォ・ロードアゲインもそういう「男の美学」を体現したキャラクターでした。
     そういう態度そのものが、一面から見れば呪われたものであると理解してなお、ぼくはやはり「少年の夢」に強く惹かれます。 ある意味では男性のエゴイズムでしかないのかもしれませんが。
     それとは違うものの、「すがりつく女性を振りほどいて、ひとり死地へ向かう」というのも「男のロマン」のひとつのパターンですね。 『あしたのジョー』がこれに近いし、司馬遼太郎の『燃えよ剣』などもこのパターンに入るのではないでしょうか。
     最近の作品では、『ファイブスター物語』のダグラス・カイエンとミース・シルバーの物語がまさにこれそのままでしたね。
     男という生き物は、どうも死にロマンを見いだす「死にたがり」の傾向があるようで、美しく死にたいという欲望はかなり普遍的なものであるようにも思えます。
     ダグラス・カイエンはすがりつくミース・シルバーを気絶させ、騎士としての大義のため、ひとり邪悪な魔導師ボスヤスフォートとの決戦へと向かいます。 男の目から見ると非常に格好良く見えるのですが、あるいは女性から見ると違う風に見えるかもしれません。
     永野護は男性作家のわりには妙に女性心理に理解が深い作家だと思いますが、ここではあくまで「男のロマン」を優先させた描写をしています。
     おそらく女性読者には不評だったかもしれないと思うわけなのですが、まあ、『ファイブスター物語』全体がそうやって男性の夢をロマンティックに描いている傾向はありますね。だからこそ好きなのかもしれません。
     しかし、あたりまえのことですが女性には女性の想いがあって、それはそれでものすごい重みを持っているわけです。 ところが、いままでの「男のロマン」の物語では、女性の役割は脇役というか、あえていうなら添え物に留まってしまうことが常でした。
     ぼくはそこに微妙に不満があって、「ひとり死を決意した男を翻意させる方法はないのだろうか?」ということをずっと考えていました。
     個人的にこの文脈で革命的だったのが『神様のりんご』(『どんちゃんがきゅ~』)というゲーム。 ここでは、まさに「少年の夢」の完遂のため、すべてを捨て去ることを決意した男に対し、少女が死に物狂いで抵抗します。
     そこには「少年の夢」に匹敵する「少女の想い」が、「男のロマン」に対抗しうる「女のパトス」が描かれていたように感じられて、ぼくはとても好きな作品なのですが、まあ、どマイナーなのであまり詳しく語ることはやめておきましょう。
     で、もうひとつ、この文脈で革新的に感じられたのが、『魔法少女まどか☆マギカ』です。 
  • キュウべぇはどこからやってきたのか? 「ほんとうの世界」のリアルと、「新世界の物語」。

    2014-07-16 17:02  
    51pt


     きょう、LDさんとペトロニウスさんのラジオを聴いていたところ、面白いことを思いついたのでまとめておく。思いついたというか、いままで整理できずにいたことが整理できた、ということなんですけれど。
    http://www.ustream.tv/recorded/49943304
     このラジオの1時間20分のあたりから今回ふれる「新世界」の話が始まるので、ぜひ聴いていただければ、と思います。
     で、「新世界」の話とは何かというと、これ(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar564366)のことですね。あるいはペトロニウスさんがここ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140622/p1)で語っている内容です。
     ようするにここ最近、『トリコ』とか『HUNTERXHUNTER』とかで、いままでいた世界よりもっと広い世界=「新世界」を扱っている作品が見られるよね、ということ。
     で、その「新世界」って、「現実の世界」のことなんじゃない?ということです。ここでいう「現実の世界」とは、「主人公が保護されていない世界」といっても良いでしょう。
     通常、あたりまえの物語においては、主人公の前に表れる敵は強さの順番にあらわれてきます。それは『ドラゴンクエスト』的であるといってもいい。
     冷静に考えれば主人公の前に突然最強の敵があらわれて即座に死ぬこともありえるわけですが、まあ、そんな物語は少ない。まずは弱い敵が出て来て、次にそれなりに強い敵が出て来て、そいつを倒すと次は四天王(の最弱)が――というふうにつながっていくわけです。
     これはある意味で「現実」を無視した展開ですよね。つまり、そういう「試練が順々に訪れる物語」とは、「保護された世界の物語」であるわけです。
     もちろん、保護されているなりに「とても敵いそうにないすごい敵」があらわれないと、物語として盛り上がらないわけですが、それにしても「ちょっと勝てそうにないすごい敵」を次々と出すところが作劇のコツであって、「絶対に勝てないすごい敵」があらわれて終わり、ということにはならない。
     たとえばこの手の少年漫画の最高傑作のひとつというべき『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』でいえば、最初にクロコダインが、次にヒュンケルが、フレイザードが出て来て、そこから満を持してバランが出て来る、という順番になっているわけです。
     これがいきなりバランが出て来たら困るところだったと思うんですよね(正確にはその前にハドラーが出て来るんだけれど、それはアバン先生が対決してくれます)。
     こういう物語は非常にカタルシスがありますが、しかし、ウソといえばウソです。現実にはレベル1の状況でレベル99が襲い掛かってくることがありえる。そしてそれで死んで終わってしまうこともありえる。
     つまり、ものすごく理不尽なことが起こりえるのが「現実」の世界。で、この「現実」の世界と「保護された世界」を隔てているのが『HUNTERXHUNTER』でいうところの「無限海」、あるいは『進撃の巨人』でいうところの「壁」なのではないか、というのがLDさんの見立てであるわけです。
     これはこれで非常に面白い話なんだけれど、今回、LDさんはさらに『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げて、「この物語でも(新世界の物語のように)ひどいことは起こっている」と指摘し、つまりは「壁」があるかどうかが重要なんじゃないか、と述べています。
     つまり、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』では「ほんとうに理不尽なこと」が起こる世界とそうでない世界を分かつ「壁」があるけれど、『まどマギ』にはそれがない、その差が大きいんだ、と。
     なるほど、ますます面白い。普通の女の子が突然に理不尽な契約を結ばされてしまう酷烈さが、『まどマギ』のひとつの大きな魅力であったことは自明です。
     いい方を変えるなら、『まどマギ』におけるキュウべぇは、「壁」の向こうの世界(「現実」世界)のプレイヤーで、ひとり「壁」を超えてその世界からまどかたちがいる世界にやって来たのだ、ということもできるでしょう(物理的な、あるいは物語設定的な話をしているわけではないことに注意してください)。
     この場合、物語は一貫して「壁」の内側で繰り広げられるので、「壁」そのものは登場しないのですが、キュウべえは安全な「保護された世界」に「壁の外=現実」の論理を持ち込んでいるということになります。
     そこまでラジオを聴いて、はて、どっかで聴いたことがあるような話だな、と思ったのですが、なんと! ぼくは自分ですでにこの話を書いていたのですね。
     『戦場感覚』と題した同人誌の話です。その本のなかで、ぼくは「この世界は戦場である」という感覚、つまり「ひとは保護されていない=保護されているということは幻想である」という感覚に根ざす物語を、「戦場感覚の物語」と名づけたのでした。
     『HUNTERXHUNTER』にしろ『進撃の巨人』にしろ『まどマギ』にしろ、すべてまさにこの「戦場感覚の物語」に相当します。ただ、「壁」があるかどうかが重要な差としてあるだけです。
     「壁」がない「戦場感覚の物語」は、ある意味でほんとうに身も蓋もないものになります。ある日突然女の子がレイプされてズタボロにされて死んでしまいました、おしまい、といったものがそれにあたります。
     ジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』のように。それが「世界の現実」なのだから仕方ない、というのがそういう物語の描写です。
     これはある種の「リアリズム」だとぼくは思う。どんなに整備された社会においても、理不尽なことは起こりうる。だったら、その現実を率直に描くのだ、という方法論はありでしょう。
     それなら、ただ残酷なだけのお話もその「戦場感覚の物語」に入るのか、といわれれば、答えはノーです。「戦場感覚の物語」とは、その「世界の理不尽なひどさ」に対し、「それでも戦っている」という描写が存在するものだけを指す言葉だからです。ひたすらに弱者がひどい目にあっていれば良いというものではない。
     さて、この「戦場感覚」の話とはべつに、ぼくは先述の記事で「人間社会のルール」と「自然世界のルール(グランド・ルール)」といういい方もしてました。
     ここでは便宜上、「ルール」といういい方を採っていますが、「自然世界のルール」とはつまり「ルールがない」ということです。「何でもあり」、「どんな理不尽なことでも起こりうる」ということ。
     これは「世界は戦場である」ということと同じですよね。つまり、「戦場感覚の物語」とは、「自然世界のルールが支配する舞台で、それでも必死になって戦っている人々の物語」ということになります。
     で、ここまで書いていくと、「新世界の物語」における「壁」が何と何を隔てているのか、ということが、ぼくの言葉でも語ることが可能になります。
     それは「人間社会」と「自然世界」を隔てているのです!
     つまり、「人間的なルールが存在する世界」と「一切のルールが通用しない世界」を分けているといってもいい。
     「人間社会」においてはある程度は通用する愛とか、正義とか、人権といったものは、「自然世界」においてはまったく通用しないかもしれません。繰り返しますが、どんなにでも理不尽なことが起こりうるということが「自然世界」なのです。
     だから、「自然世界」においては子供が突然殺されたりとか、愛しあうふたりが永遠にばらばらにされたりとか、「起こってはいけないこと」が平然と起こります。
     そして、ぼくはぼくたちが住んでいる「ほんとうの世界」とは「自然世界」なのであって、「人間社会のルール」とは、それを包み込む人間の願望のオブラートのようなものでしかないと思っています。何でも起こりうる、という「自然社会のルール」こそ「ほんとうのこと」だと。
     しかし、これもやはりその「ほんとうのこと」をそのままに描き出すとほんとうに身も蓋もない物語になってしまいがちです。正義の主人公がある日道を曲がったら交通事故にあって死んでしまいました、ということだって「ほんとうの世界」のルールでは起こるのですから。
     ぼくが「世界は間違えている」というのはそういうことです。「世界は人間が作った、人間に都合が良いルールでは動いていない」ということ。それが「身も蓋もない事実」というものだと、ぼくは思っています。
     しかし、物語とは、本来、人間の夢と希望と願いが込められたものです。だから、この「自然社会のルール」、あるいは「ほんとうのこと」はとりあえず巧みに隠蔽されて、「愛は奇跡を起こす」とか「正義は勝つ」といったことが描かれるのが普通です。
     そして、それらは実に素晴らしい。ぼくは何も皮肉でいっているのではありません。心の底からそういう物語は素晴らしいと思うのです。それはひとの心に希望を与えてくれる物語です。
     ただ、それでも、なお、やはりそういった物語にはどこか欺瞞がただようことも事実です。「正義は必ず勝つ」というウソ、「いつまでも幸せに暮らしました」というウソに、どこかでぼくたちは気づいてしまいます。
     とはいえ、だからといって「ほんとうのこと」を身も蓋もなくそのままに描いた物語は気が滅入る。たとえばコミケで売っているエロ同人誌を見ればそういう救いのない物語はいくらでも見あたるし、それらは一面で「メジャーな物語の欺瞞に対する告発」でもあるけれど、それだけで満足できるという人はそう多くはないでしょう。
     なんといっても、そこには夢も希望もない気がする。で、いま、その「物語のウソ」に気づいてしまい、なおかつ「身も蓋もないほんとうのこと」だけを見たいわけでもない、というひとが一定数を超えたのかな、という気がします。
     そこで、「壁」がある物語(「新世界」の物語)が生み出されたのかな、と。ある程度のところまでは守られていて、しかしその先は冷厳な「ほんとうのこと」が待ち受けている、という物語です。
     まあ、これはいまのところ特に根拠もない「見立て」ですが、ちょっと面白い見方でしょ。
     ペトロニウスさんがよく「ナルシシズムの檻」ということをいいますね。現代社会は、人間が過剰なまでに保護されているが故に、ひとはナルシシズムのループにはまって苦しむのだと。
     これを、ぼくの言葉で言い換えると、「自然世界のルール」が隠蔽された「人間社会」に住んでいる人が、その過保護故に自分の存在を確認できなくなった、ということになります。
     ペトロニウスさんがいう歴代村上春樹作品の主人公たちもそうでしょうし、真綿で首を締められるような苦しみによって自殺未遂を試みた『自殺島』の主人公などがこの種のキャラクターです。
     ですが、かれらはある意味で「安全な(安全だという幻想が確保された)人間社会」に住んでいるからこそ、そういう苦しみに晒されることになったのです。
     戸塚ヨットスクールではありませんが、「生きるか死ぬか」という事態に陥れば、ゆっくりとナルシシズムに苦しんでいるヒマもなくなります。
     で、どうやら社会がそういうフェイズに入ってきたのかもしれません。お前の主張などどうでもいい! 人類存亡のほうが問題だ、というような、より切迫した時代。あるいは少なくともそういう物語のほうに人々がリアリティを感じ始めているのかも。
     『エヴァ』にしても、『新劇場版Q』では、「主人公の選択が世界の命運を左右する」というような自己中心的な地点からは遠く隔たったところに行っているわけです。これらは一様にパラレルな現象であるように思えます。面白いですね。
     ところで、上記で取り上げた同人誌『戦場感覚』はいまなら送料込み800円でお買い求めいただけます(笑)。
    https://spike.cc/p/dD23B3S9
     さらにその半年前に出した同人誌『BREAK/THROUGH』もやはり800円です。
    https://spike.cc/p/pzKHubR0
     『戦場感覚』と『BREAK/THROUGH』を合わせてご購入いただくと1500円でお買い求めいただけます。
    https://spike.cc/p/6r9vgAr0
     安っ。2冊とも12~13万文字程度の分量があります。よければ、ぜひどうぞ。 
  • 『風立ちぬ』問題。あるいは『劇場版魔法少女まどか☆マギカ』は蛇足だったのか。

    2014-03-31 11:44  
    53pt


     昔、「『3月のライオン』の差別構造と物語の限界。」と題して、以下のような内容の記事を書きました。

     ああ、長い夜だった。というわけで、昨日の夜、かんでさんとLDさんで「物語」の問題について話しあったわけですよ。予想外に盛りあがり、また収穫のある内容となったので、この日記で報告しておきたいと思います。
     そもそもの発端はかんでさんの『3月のライオン』批判です。
    http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1754961239&owner_id=276715
     ぼくが考えるにその批判の要点は以下の二点、
    1.作中のいじめの描写が甘い。ひなたはいじめにあいながら「壊れて」いない。これはいじめの実相を表現しきれていないのではないか。
    2.作中では作劇の都合上、いじめっこ側の権利が狭められている。本来、いじめっこ側にも相応の権利があるはずなのだが、それが描写されていない。
     であったと思います。
     これに対して、ぼくは作品を擁護する立場から、以下のように反論しました。
    「たしかに『3月のライオン』は現実を「狭めて」描いているけれど、そもそも物語とはすべて現実を「狭めて」描くものだということがいえるわけです。そこに物語の限界を見ることは正しい。正しいけれど、それが物語の力の源泉でもある。なぜなら、ある人物をほかの人物から切り離し、フォーカスし、その人物の人生があたかも特別に重要なものであるかのように錯覚させることがすなわち物語の力だからです。だから作家が物語を語るとき、どこまで語るかという問題は常に付きまとう。」
     つまり、ぼくはかんでさんが指摘する『3月のライオン』の問題点は、ひとつ『3月のライオン』だけの問題点ではなく、「物語」というものすべてに共通する問題点だといいたかったわけです。
     で、ここから三者会談(笑)に入るわけですが、話しあってみると、ぼくとLDさんはともに「物語」を好きで、擁護したいという立場に立っていることがわかりました。しかし、LDさんは同時に「物語」には「残酷さ」が伴うともいう。
     ぼくなりにLDさんの言葉を翻訳すると、それはある「視点」で世界を切り取る残酷さなのだと思います。つまり、「物語」とはある現実をただそのままに描くものではない。そうではなく、ひとつの「視点」を設定し、その「視点」から見える景色だけを描くものである、ということ。
     『3月のライオン』でいえば、主に主人公である桐山くんやひなたちゃんの「視点」から物語は描かれるわけです。そうしてぼくたちは、「視点人物」である桐山くんたちに「共感」してゆく。この「視点人物」への「共感」、そこからひきおこされる感動こそが、「物語」の力だといえます。
     しかし、そこには当然、その「視点」からは見えない景色というものが存在するはずです。たとえば、『3月のライオン』のばあいでは、ひなちゃんの正義がクローズアップされる一方で、ひなちゃんをいじめた側の正義、また彼女の話を頭からきこうとしない教師の正義は描写されない。
     これはようするにひとりひとりにそれぞれの正義が存在するという現実を歪め、あるひとつの正義(それは作者自身の正義なのかもしれない)をクローズアップしてそれが唯一の正義であるかのように錯覚させる、ある種のアジテーションであるに過ぎないのではないか。これがかんでさんの批判の本質だと思います。
     LDさんはその批判を受け止めたうえで、その「物語のもつ限界」を「物語の残酷さ」と表現しているわけです。つまり、「物語」とはどこまで行っても「歪んだレンズ」なのであって、世界の真実をそのままに描くものではない、ということはいえるでしょう。
     とはいえ、「世界の真実を比較的そのままに描く物語」というものも存在しえるかもしれません。話のなかでは、それは「芸術」といわれていましたが、ここでは「リアリズム」と呼びたいと思います。
     つまり、俗に「物語」と呼ばれているもののなかには、「世界の真実を比較的歪めずそのままに描くもの=リアリズム」と、「世界の真実をある視点から歪めて読者の共感を誘うもの=物語(エンターテインメント)」が存在するということができます。
     そしてかんでさんは「リアリズム」寄りの立場から、ぼくとLDさんは「物語(エンターテインメント)」よりの立場から話をしました。しかし、もちろん両者とも完全にそれぞれの立場にわかれているわけではありません。ある程度たがいの立場を察し、理解しあうことはできるのです。
     そこで、ぼくは「物語」の「あやうさ」を指摘しました。われわれ日本人には、じっさいにある「物語」に先導され、挙国一致体制で「物語」に殉じた記憶があります。先の大戦がそれです。
     そのとき、「天皇は偉大だ」とか「日本人は優れた民族である」といった「日本人の視点」によって切り取られた「日本の物語」が日本一国を支配したのでした。その物語にともに熱狂しない人間は「非国民」とされ、排斥されました。これこそまさに「物語」がもつあやうさです。
     「物語」はひとを扇動し、熱狂させますが、だからこそひとを非理性的なところへ連れていってしまうのです。「物語」にはひとつの「正義」だけを唯一の正解のように見せてしまう「力」があるのです。
     歪んだレンズを通せば歪んだ世界が見える道理なのですが、その歪んだ世界を真実の世界と錯覚してしまうかもしれないところに「物語」のおそろしさはある。
     しかし、同時に、そうとわかってなお、ぼくやLDさんは「物語」が好きであるわけです。その「歪んだレンズ」に映しだされるふしぎな景色に、それが残酷であり危険であるとしりながらも驚嘆せずにはいられないのです。
     ここらへんは非常に微妙な話になるのですが、世界は「物語」の押し付け合いによってできているという側面があります。たとえばアメリカにはアメリカの「物語」があり、アラブ諸国にはアラブ諸国の「物語」があるように、複数の「視点」があれば複数の「物語」が存在しているものなのです。

     ぼくがここで云いたかったのは、物語、あるいは少なくともエンターテインメントとは人間の認知能力の限界を反映したものだということです。
     もしあらゆる事象をあらゆる側面から同時に知ることができる全知の存在がいるとすれば、かれは物語を必要としないでしょう。ひとは自分の視点からしか世界を見ることができないために、物語を必要とするのです。
     つまり、ひとは神ではなく、物語という娯楽にはその限界が濃厚に反映されているということです。物語とはある視点から世界を切り取り、その視点に感情移入させ、感情を高揚させる方法論です。
     これはあきらかにアジテーションの方法論であって、倫理的に考えるならあきらかに問題があります。
     じっさい、さまざまなエンターテインメントは過去、集団を動員するためのアジテーションとして利用されてきた。いまでもハリウッドや中国あたりの映画などは、右寄りにせよ左寄りにせよ、製作者の政治思想を主張するために利用されている一面があるでしょう。
     つまりは物語の性質上、「比較的中立」の作品はありえるかもしれないにせよ、「完全に中立」なものでは決してありえないのです。
     まして、エンターテインメントとは、いかにひとを熱狂的に一方向に駆動させるかで評価が分かれる表現です。
     あるエンターテインメント作品が「面白い」とは、ひとをより感情的にさせ、理性的判断を麻痺させているに等しい、と云ったら、乱暴な断言と云われるでしょうか。しかし、そういう一面はあるはず。ただインテリジェントなだけでは、十分に面白いエンターテインメントとは云えない。
     そのように考えていくと、LDさんの云う「エンターテインメントの残酷さ」の正体がわかって来ます。あえて云うなら、エンターテインメントとは、人類の倫理的欠陥を象徴するものなのです。
     人間は本質的には倫理的にできていない。エンターテインメントについて考えていくと、その事実が浮き彫りになる気がします。
     どういうことか。ここで思い返してもらいたいのは「差別」の問題です。究極的な倫理を考えるなら、一切のひとを差別することなく平等に扱うことが「倫理的に正しい」ことでしょう。
     しかし、それは人間にはできないのですね。自分の視点から見て、より親しいひとにはより共感を覚え、より遠いひとにはあいまいな感情しか感じない――それが人間の当然の実相です。
     たとえば、ぼくたちの多くは家族が亡くなったら哀しみを感じる。その一方で、遠いアフリカの地の子供たちの死には何の痛痒も感じない。これは差別ではないでしょうか? ぼくは差別だと思う。
     ぼくが「ひとが差別から無縁ではいられない」と云うのは、そういう意味です。もしぼくたちがアフリカの子供たちに自分の家族と同程度の共感を得られるなら、アフリカの問題は既に解決されているかもしれません。その問題とはぼくたちの差別心が表面化した問題と云えなくもないわけです。
     それがあまりにも極端な例だと思われるのなら、べつの例を挙げましょう。ぼくたち日本人は3月11日になると、東日本大震災の犠牲者たちについて思いを馳せます。
     もちろんひとによって程度は違うでしょうが、ある程度は何かしらのことを考えるというひとが大勢を占めるのではないでしょうか。
     もし、「東日本大震災の犠牲者? しょせん他人ごとだからおれは知らないよ」と云ったら、「なんてひどい奴だ!」とバッシングされることは間違いないでしょう。
     ですが、考えてみれば、世界中至るところで悲劇は常時起きているわけです。なぜ、東日本大震災の死者のことは悼むのに、スマトラ沖地震の犠牲者のことは悼まないのか? ニュージーランドの地震の死者はいいのか?
     こう考えていくと、結局、ぼくたちは「日本人」と「外国人」で線を引き、差別しているという事実に気づかざるをえない。
     かつてTHE YELLOW MONKEYは「乗客に日本人はいませんでした」というフレーズに非難のトーンを込めて歌いましたが、じっさい、大半の日本人にとって、「同じ日本人」の動向のほうが、遠い外国の悲劇より、ずっと興味をそそられるものであるに違いありません。
     逆に云えば、遠い外国で起こっている限り、どんな悲惨な、残酷な、悪夢のような事件も、「大変だねえ」と他人ごとのように云ってスルーできるということ。これが差別でなくて何でしょう。
     倫理的に考えればあきらかに正しくない態度です。しかし――そう、それでは、ひとが取りうる最も倫理的な態度とはどういうものかと云えば、常に、世界中のあらゆる死者のことを嘆いていかなければならない、ということになりますよね。
     「世界にひとりでも不幸なものがいるかぎり、自分も幸せではない」という、ある意味で仏教的とも云える態度ということになるでしょう。これは宮沢賢治や金子みすゞの態度です。
     かれらはその天才的とも云える共感能力によって、ありとあらゆる存在の苦悩を感じ取ることができました。それが人間はおろか、あらゆる生物や、無生物にすら及ぶことはご存知のとおり。
     しかし、それはひととして不可能な態度と云うしかない。じっさい、金子みすゞなどは26歳にして自殺して亡くなりました。
     そのように突き詰めて考えていくと、物語というかエンターテインメントそのものが、人間の非倫理性を反映した「倫理的に正しくない」ものなのではないかというところに行き着かざるを得ません。
     さらにその考え方を先鋭化させていくと、最終的には「人間否定」に行き着きます。人間の不完全さそのものが戦争や差別やあらゆる問題の根源である、というのですね。
     この境地に到達した作家として、ぼくが思い浮かぶのが山本弘です。かれの最高傑作とされる(自分でそう云っていた)『アイの物語』は、人間に対する絶望に満ちています。
     この物語で描かれるのは、人類の衰退と、マシン(自立型ロボット)との世代交代です。ここで山本さんは、人間の愛の不完全さ、その差別性を俎上に上げ、それを超越した「完全な愛」を持った存在としてマシンを登場させています。少なくともぼくはそう解釈しました。
     ひとは上記のような理由で差別的にしかだれかを愛することができませんが、マシンは非差別的に愛することができるということのです。
     その愛が具体的にどのようなものなのか、それは作中で描かれていないので、よくわからないのですが、とにかく山本さんは「そういう愛は、人間には不可能だが、理論的には存在しえる」という立場に立っているようです。ぼくは理論的にも不可能だと思うのだけれど……。
     ともかく、長年、生まじめに人間の愚かしさと向き合ってきた山本さんが、このような「人間否定」の境地にたどり着いたことはよくわかります。
     この物語の結末において、人類は衰退し、最終的には滅亡していくであろうことが示唆されています。ぼくは山本さんは「愚かしい人間より、機械のほうが優れている」と云っているのだと解釈するしかありませんでした。何という絶望でしょうか。
     『ヴィンランド・サガ』でも、覇王クヌートはひとの愛が差別でしかありえないことを嘆いていましたが、まさに同じ理由で、山本弘は人間存在を否定するのです。
     「アイの物語」というタイトルもそう考えるとなかなか趣深い。結局のところ、物語とは愛であり、愛とは物語なのではないでしょうか? 愛も物語も、ともに神ならぬ人間存在の限界を示す概念であり、そして「人間らしさ」そのものです。
     だから、「物語とはある視点から世界を限定的に切り取るものであり、人間の差別精神そのものである」ということが云えると思うわけです。
     それでは、どうすればいいのか。開きなおって「物語は初めからそういうものなのだから、一切、政治的な配力はしなくても良い」と云ってしまうのか。
     しかし、そこまで割り切れるひとはなかなかいない。そこで、作中にエクスキューズを仕込むという手が良く使われます。
     たとえば、アメリカの正義を訴える戦争映画のなかに、「戦争の悲惨さ」の描写を入れておく。そうすると、「ああ、この映画は戦争の悲惨さを訴える視点をちゃんと確保しているのだな。決して戦争を礼賛した映画ではないのだな」と視聴者は安心し、よりシンプルに映画に入り込むことができる。
     つまりは、作品に複数の視点を用意することによって、ひとつの視点からのみ描き込まれることのヤバさを軽減させているのです。
     そういうエクスキューズのある作品が物語として上等である、という考え方はあるでしょう。たとえば、戦争反対の思想を織り込んだ戦争映画は上等だが、「戦争最高! アメリカ万歳! ヒャッハー!」というだけの作品は下等である、と。
     ある意味では納得できる考え方です。物語をそのテーマ性によって判断しているわけですね。しかし、それってくだらなくないか?ともぼくは思うのです。
     そもそも、テーマによって映画の良し悪しが測られるなら、初めから映画など作る意味がない。そのテーマだけを語っていれば良い。少なくともエンターテインメントを志すならそういうことになります。
     どう云いつくろおうと、エンターテインメントの醍醐味は観客の感情を昂らせるところにあるのだから、その「エンターテインメントとしての強度」を無視してテーマ性だけを語ることは本末転倒であるように思える。
     これはたとえば「反原発の思想にもとづいているから良いメッセージソングだ」といった価値観にもひそむ矛盾です。どんなに正しい、偉い思想にもとづいていても、くだらない曲はくだらない。そうではありませんか?
     つまりは、ぼくは思想は思想、エンターテインメントとしての強度は強度で分けて考えるべきだと思うのです。もっとも、ここらへんはむずかしい。それなら、エンターテインメントとしての強度があれば、どんなに思想的に歪んだ作品でも受け容れられるかというと、たしかに悩んでしまう一面はあります。
     ぼくは受け容れられると思うのだけれど、無条件にそうか、と云われると必ずしもそうは云えないかもしれない。悩ましいところですね。
     最近の作品で、巧みなエクスキューズを用意したことで好評を得た作品と云うと、『魔法少女まどか☆マギカ』の劇場版が思い浮かびます。この映画は、テレビシリーズにおいては残されていたある倫理的問題にみごとにエクスキューズを付けました。
     即ち、「まどかの行為の暴力性に対し、製作者サイドは無自覚なのではないか?」という批判に対し、「ちゃんと自覚しているよ」と答えてみせたわけです。
     作中、暁美ほむらはある意味で非倫理的な、邪悪と云ってもいい行動に出ますが、それはあきらかな「悪」として描写されているため、視聴者は不安になりません。ここに倫理的問題は存在しない、悪は悪として描かれている、というふうに考えるのです。
     しかし、ある意味で、この映画そのものが単なるエクスキューズに過ぎなかった、蛇足である、という意見は成り立つでしょう(ペトロニウスさんあたりはこの立場に立つのかも)。
     なぜ、いちいち「倫理的いい訳」を用意しなければならないのか? 口うるさい視聴者から「より倫理的に正しい」と認めてもらうことがそんなに大切なのか? ぼくとしてはそう考えなくもない。
     近頃、その倫理的問題がクローズアップされた作品に、宮﨑駿監督の『風立ちぬ』があります。『風立ちぬ』は、 
  • 『劇場版魔法少女まどかマギカ[新編] 叛逆の物語』全力全開ネタバレレビュー!!!!!(2866文字)

    2013-10-28 07:00  
    53pt





     話題の映画『劇場版魔法少女まどかマギカ[新編] 叛逆の物語』を観た。以下はそのネタバレ記事。
     もう一度云う。「ネタバレ」記事だ。初めから終わりまで鑑賞していることを前提に情報を公開している。映画未見の方は、悪いことは云わないから、読まないほうがいい。
     あるいは、映画未見のうちに、テレビシリーズの安易な続編を予想して、大して内容に期待していない方もいらっしゃるかもしれない。
     そういう方も、この記事を読んではいけない。とにかくまずは見てみるべき。内容については何も語らないが、テレビシリーズを何らかの形で楽しんだ人間なら見ておくいたほうがいい一作だと断言できる。ほんとうはそれさえ口にしたくないのだが――。
     そういうわけで、以下はネタバレだらけである。覚悟して読んでいただきたい。Do you understand? 先へ進むことにしよう。
     さて、映画をご覧になった方はおわかりの通り、『叛逆の物語』は紛れもなく叛逆の物語である。世界のすべてを見守る女神と化したまどかへの、暁美ほむらの叛逆の物語。
     物語終盤、ほむらは「魔女」をも超え「悪魔」と化す。それはただひたすらまどかへの愛のため。そう、『叛逆の物語』はまたとなく過激なラブストーリーだったのだ。
     ほむらのまどかへの愛(という名の欲望)は、まどかを神の座からひきずり下ろし、ひとりの少女に戻してしまう。
     それは彼女の暴力的なエゴに過ぎない。しかし、それを云うならまどかの魔女救済もエゴである。どれほどの大義を背負っているとしても、個々の意志を無視し、かってに救いだしていることに変わりはない。
     即ち、ここにおいて『まどマギ』は、世界の法則をも揺り動かす巨大なエゴがぶつかり合う壮大な神話的物語へ姿を変えたのである。
     テレビ版『まどマギ』は、それはそれでひとつの衝撃的な、独創的な、そしてきわめて美しい物語であった。その上、めったにない完成度で完結している。
     この名作にさらに屋上屋を架す意味はあるのか。多くのファンは考えたことであろう。そしていくらかの期待とともに不安と猜疑も抱えて劇場へ赴いたファンは、まず、圧倒的な演出と作画に遭遇する。
     じっさい、この映画はただ美術品として見ているだけでも愉快だ。魔法少女たちの戦いの背景となる異空間、いわゆる「イヌカレー空間」はいっそうオリジナリティを増し、目も綾な、あるいはおぞましく毒々しい個性で観客に迫る。
     また、ひとりひとりの魔法少女たちの愛らしさはどうだろう。まどかは、ほむらは、さやかは、杏子は、マミは、テレビシリーズをはるかに上回る繊細さで描きこまれている。
     まどかが動く。観客の心も動かされる。ほむらが微笑む。愛くるしくてたまらない。一本のアニメーション映像作品として『叛逆の物語』は傑作と云うしかない。
     その美しさ、怖さ、可憐さ、おぞましさ。どの面から見ても冴えている。なかでも魔法少女たちの変身シーンは出色。
     映画のテンポは少々失速を余儀なくされるが、この、いっそ不安をそそるような映像美はどうだろう。思春期の少女の光と闇を描くアニメーションとして、これ以上のものはめったにない。
     そして、その物語。今回、多くのファンが最も不安に思っていたのは脚本だろう。テレビシリーズの最終回がひとつの極北を示していただけに、もう「この先」はありえないのではないかという推測には妥当性があった。
     しかし、凡夫の予測はしばしば現実に上を行かれる。結果として、『叛逆の物語』のシナリオは虚淵玄の最高傑作を究める。歴史的なマスターピースと云っていい。
     たしかに、テレビシリーズの錯綜した人間関係を踏まえ、さらに多重的な逆転を仕込んでいるだけに、一定の難解さは禁じえない。作中の情報量は膨大、ひとことでも聞き逃がせばわからなくなってしまう。
     とはいえ、それはあえて云うなら『新世紀エヴァンゲリオン』のような観客を突き放す難解さではない。状況は最大限に親切に説明されている。ただ映画の構造的な限界があるだけだ。
     物語は終盤までほむらの内面世界を舞台に進行していくわけだが、それ自体はもちろんさほど独創的ではない。
     奇才押井守の名作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を思い出したひとも多いだろう。また、そこから脱出しようとする後半の展開も特にサプライズはない。
     しかし、クライマックス、魔女化を目前にしたほむらが、救済に訪れた「円環の理」ことまどかを掴み、「堕天」させる展開は、ほとんどの観客のイマジネーションの上を行ったに違いない。
     この瞬間、『叛逆の物語』は単なる「非常によくできた続編」以上のものとなった。テレビシリーズの構造そのものが書き換えられ、物語宇宙全体が新たなステージへと足を踏み入れる。その戦慄。素晴らしいとしか云いようがない。
     本作で何より心を打たれるのは、監督脚本を初めとする制作陣の誠実さであり真摯さだ。云い換えるなら無上の志の高さ。
     おそらくはテレビシリーズのヒットを受けての当初の企画にはない続編であるにもかかわらず、あらゆる面で最高の品質が保たれ、一切の手抜きが見られない。
     制作陣は至上の執念と情熱とでもって、それじたい奇跡的なマスターピースであったはずのテレビシリーズを超克する物語を生み出そうとし、成功したのだ。
     叛逆の物語――ほむらはここで観測者インキュベーターの思惑をも超え、最愛の女神に叛逆する。待ち受けるはあるいは冥府魔道。祝福されざる魔性の道へ足を踏み入れた者には、女神の救済さえ及ばない。
     だが、それでも