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天才について本気だして考えてみた。
2016-04-17 02:5051pt
Twitterで言及されていた過去の記事が、自分で書いた内容ながらあまりにも面白かったのでここに再掲しておきます。
7年近く前の記事で、自分自身で書いたことを忘れていたしろものなのですが、あらためて客観的に見てみると面白いですね。けっこううまいじゃんおれ、と思ってしまう。
題材は「天才」、天才とは何か、天才であるとはどういうことなのかについて、ちょっと興味深い結論を出しています。完全に忘れている話なので、楽しんで読めました。
このころの記事は一本一本工夫して書いているのがわかりますね。この頃と比べるといまは手癖で書いちゃっているところがあるなあと反省させられます。
いや、一定以上の量を書いていると毎回何かしら工夫するのは大変なんですが、それにしてもね。
では、どうぞ。
天才――それは光りかがやく言葉である。不運にも(?)生まれつき才能に恵まれなかったぼくなどは、非凡な才能を持った人間にあこがれずにはいられない。
しかし、本当に天才に生まれてくることは運が良いことなのだろうか。そもそも天才とは、才能とは具体的にどういうものなのだろう。今回はいま連載中の漫画を題材にそこらへんのことを考えてみたい。
まずはあいかわらず快調に飛ばしている『ベイビーステップ』の話から。「あむゆわ」というサイトでは、この作品を『テニスの王子様』と対比し、このように語っている。
では、テニプリ嫌いの人々を惹き付けている『ベイビーステップ』の魅力とは何なのか? それは「夢がある」という点である。
(中略)
これに対して『ベイビーステップ』は、「始めるのが遅くても、必死で練習すれば何とかなる」という「夢」を与えてくれる。無論、実際にはエーちゃんには「頭脳」と「目」という超人的能力が備わっているのだが、それ以上に彼の「努力」の側面が強調されることによって、「頑張れば強くなれる」という「希望」を読者に与えてくれるのである。おそらくそれが、「(夢も希望もない物語としての)テニプリが嫌いな人々」の心を掴む上での決定打になったのではないかと思う。
つまり、リョーマが「超人的な技術を習得した派手な天才」であるのに対し、エーちゃんは「超人的な潜在能力を秘めた地味な天才」なのである。前者は「荒唐無稽な演出」で、後者は「荒唐無稽な展開」で、それぞれ読者を惹き付ける。それが両者の違いなのである。
「あむゆわ:『ベイビーステップ』の面白さ」
一読「なるほど」と思わせられる意見ではあるが、少々の異論もある。リョーマが天才であるのと同じくらい、エーちゃんも天才である。そのこと自体には同意するのだが、その「天才」という言葉の中身が少し違う。
エーちゃんの天才とは「視力」とか「頭脳」の問題ではないと思うのだ。以下、そのことについて書いていこう。
さて、ぼくたちが「天才」という言葉で思い浮かべる人物とは、誰だろう。もちろん、ひとによって答えは違うだろうが、それはたとえばアインシュタインであり、モーツァルトであり、そしてたぶんイチローや羽生善治であると思う。
漫画でいえば、『SLAM DUNK』の桜木花道や流川楓あたりが一番に挙がるかもしれない。個人的には、天才を描く作家といえば、曽田正人の名前がすぐに思い浮かぶ。
初期の『シャカリキ』から、最新作の『CAPETA』、『MOON』にいたるまで、かれは一貫して天才としかいいようがない人物を描くことに専心しているように見える。
しかし、先に述べたように、「天才」とはそもそも何なのか、ということを考えていかなくては、天才を語ることはできないだろう。ひとつの答えはこうである。天才とは、常人には不可能な偉業を、楽々と達成できる能力を持つひとのことである、と。
たとえば、桜木花道は作中、常人を遥かに凌ぐジャンプ力の持ち主として描かれている。かれはわずか四ヶ月のあいだに高校トップクラスのバスケットプレイヤーにまで成長してゆく。
常識では考えられない、というよりあきらかに不可能なことを成し遂げる才能――桜木はあきらかに天才だろう。しかし、本当にそうだろうか。桜木はたしかに奇跡のような成長を遂げるが、決して「楽々と」成長しているわけではない。
かれはバスケを始めた時期こそ遅かったものの、その四ヶ月間のあいだ、常人の何倍も努力しているのである。地味な基礎練習を始め、パスの練習、ランニングシュートの練習なども丹念に描かれている。その努力あってこそかれの才能は花開いたのだ。その意味で桜木は決して特別ではない。
いや、とあなたはいうかもしれない。たしかに桜木は努力しているだろうが、凡人はいくら努力してもかれのようにはなれない。桜木はやはり別格である、と。
それはそうだろう、とぼくも思う。ひとにはそれぞれ資質の違いというものがある。努力すれば必ず結果がついてくるというのは嘘だ。だが――それでもなお、ぼくは「だが」といいたい。だからようするに生まれつきの才能がすべてなのだ、とは決して思わないと。
なぜなら、桜木の本当の才能とは、単なるジャンプ力などではないと思うからだ。桜木の才能、それは、いわば一瞬一瞬をひとより熱く生きられる能力なのだと思う。
たとえば曽田正人の描くヒーローたちにしてもそうである。一例を挙げるなら『昴』。不世出の天才バレリーナ昴の人生を描いた作品だが、それでは、昴の天才とは何だろう。
ひとより高く飛ぶジャンプ力か。最高のバレエをイメージする構想力か。たしかにそれらもあるだろう。しかし、それらはやはり本質ではない。ぼくは昴の天才もまた一瞬一瞬をひとより熱く生きられる能力だと思うのだ。
正確には、ひとより熱い生き方を持続する能力、といえばいいのか。ただ一瞬なら、誰でも昴のように生きられるかもしれない。しかし、昴はそれを一生にわたって続けていくはずなのである。
一般に「天才」という言葉から思い浮かぶイメージと裏腹に、昴は決して「楽」をしていない。むしろいつもいつも自分にできる限界まで体力も精神力も絞りとって行動してしまう。実はそれこそが昴の真の才能である。
つまり、彼女はひとより高い質で努力しているのだ。それは単に「ひとより努力をしている」という言葉から思う浮かぶイメージとは違う。ここでは、努力の「量」だけではなく、「質」が問題なのだ。
昴の努力はひとよりハイクオリティなのである。異常なまでにハイクオリティな努力を、信じられないほど長いスパンにわたって継続できるひと――それが、真の天才なのではないか、とぼくなどは思う。
そう、つまりぼくはこういいたいのだ。天才とは、才能とは、世間で信じられているのとは逆――ひとより楽をして結果を得る能力のことではなく、結果にいたる過程においていかに楽をしないかという能力のことなのだ、と。
もちろん、「ひとより少ない努力で結果にいたる」という側面においても、昴や桜木の才能は傑出している。かれらは特別努力しなくてもひとより上へ行けるし、ひとができないこともできる。
しかし、かれらの戦場はそのような「才能」だけでは通用しない世界である。ある物事にかける異常な集中力があって始めてその「才能」は輝くのだと思う。
曽田のあるインタビューを読んでみよう。
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