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記事 48件
  • 「新しい対立軸」を模索するラブコメライトノベルの未来はどっちだ?

    2017-12-02 07:00  
    50pt
     ちょっとラブコメライトノベルの最前線に追いついておかないとなあと思い、とりあえず涼暮皐『ワキヤくんの主役理論』を読んでいます。
     これは「カクヨム」に連載されていたものなのかな? なかなか読みやすく、面白く読めていますが、注目するべきはやはり主人公の「主役理論」とヒロインの「脇役哲学」を対比させているところかと。
     主役理論とはようするに人生を物語の主人公として生きたい!ということであり、脇役哲学とはやっぱり脇役がいいよねということであるらしいのですが、まあ、物語を駆動させるために持ってきた対立軸ですね。
     また、まだ読んでいないけれど岬鷺宮『陰キャになりたい陽乃森さん』などは「陰キャ」、「陽キャ」という新しい概念を採用しているようで、やはり注目です。
     ここら辺を見ていると、「リア充」と「オタク」という対立軸が古くなって無効化してしまった時代において、あきらかに「次なる対立軸」を模索し
  • 「次」は、こっちだ! ポスト脱ルサンチマンラブコメライトノベルの時代が来る。

    2017-12-01 02:40  
    50pt
     そういうわけで、「ライトノベルは次なる時代へ。「オタク」対「リア充」の向こう側へ。」の続きです。
     「リア充」と「オタク」という対立構造をなくしたラブコメに残る問題点とは何か?ということなのですが、その前にちょっと整理しましょう。
     ぼくはここ数年のラブコメライトノベルを「リア充へのルサンチマン」という視点から見ています。もちろん、それでは整理し切れない作品はあるでしょうが、まあ、べつに万能の理論を作ろうとしているわけでもないからそれはそれでいい。
     この「リア充へのルサンチマン」が「リア充」と「オタク」ないし「ぼっち」という対立軸を生み出し、その対立軸を基準にして物語を展開していったのが『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『僕は友達が少ない』といった作品でした。
     漫画やアニメでも同種の作品が色々ありますね。で、そのリア充を敵視するプロセスのなかで、しだいに「自分たち自身が最高のリア
  • ライトノベルは次なる時代へ。「オタク」対「リア充」の向こう側へ。

    2017-11-30 07:00  
    50pt
     うん、きょう(11月29日)のラジオは短いながらも面白かった。例によって「リア充」がひとつのテーマとなっているのですが、今回はいままでと扱い方が違うような気がします。
     いままでは多少なりと「リア充ばくはつしろー」な気分があったけれど、今回はもう、何というか「リア充の皆さんご自愛ください」くらいの優しい心境(笑)。
     こう書くといかにも上から目線のようだけれどそうじゃなくて、自分が幸せいっぱいだから他人を下に見る必要性はないのです。何かを下に見てそれに比べて自分は上だ、と悦に入るのはしょせんエセリア充に過ぎません。
     ほんとうのリア充は決して驕らないし、高ぶらない。ぼくもだいぶそこに近く――なっていないかな? まあでも、少しは近づいたと思います。ええ、まあ、ただの虫けらですけれど。
     先日開いた富士山麓の合宿は、ぼく(たち)の長いイベント開催の歴史のなかでも特筆すべきものだったと思います
  • 脱ルサンチマンの最新形にしてラブコメライトノベルの最前線、『14歳とイラストレーター』を読め!

    2017-11-28 07:00  
    50pt
     うに。一段と寒さもきびしくなりつつあるきょうこの頃、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。ぼくはストーブの前から動けません。人類の肉体は冷気に耐えるよう作られていないのだ。
     さて、むらさきゆきや『14歳とイラストレーター』という小説を読みました。これは、ある萌え系イラストレーターの青年と、ちょっとしたことからかれの生活の世話を焼くことになった14歳の少女を中心に、ライトノベル界隈の群像を描いた小説です。
     いままでこの種の業界ものは、ライトノベル作家を主人公にしたものが中心でしたが、この作品はイラストレーターを主人公に持ってきたところが新機軸。
     まあ、そうはいっても似たような内容だと思って読み始めたのですが、これが面白い。実に面白いのです。いま、最も先を楽しみにしているライトノベルになってしまいました。
     何がそれほど面白のかというと、うーん、何だろうな。実はこの作品、それほど魅力的には
  • 女性たちに学ぼう。「日常系マンガ」のように日常を生きる。

    2017-04-17 04:01  
    50pt
     前回の話の続き。前回は、女性たちの真似をしてクオリティ・オブ・ライフを上げようと試みているというところまで話しました。これはほんとうのことなのですが、意外にこういう人はまだ少ないのかもしれません。
     まあ、たしかに南青山のオサレなレストランはカップルばかりでしたし、『ドラえもん』の映画をひとりで見に行ったら子連ればかりでした。
     世の中にはどうやら「男ひとりで入るところ」、「女ひとりで入るところ」、「男同士で入るところ」、「女同士で入るところ」、「男女で入るところ」、「子連れで入るところ」といった場所柄の「常識」があるようです。
     いまはもうそうでもないかもしれませんが、昔はラーメン屋なんかは女性ひとりでは入りづらかったようですね。
     フェミニズム的にいうとジェンダーの問題ということになるのだろうけれど、ぼくはほぼ無視しまくっているのでまったく気になりません。
     ひょっとしたら周りからは「あの人たち、男同士でこんな場所に来ているわ。場違いだと気付かないのかしら。ひそひそ」とか噂されているかもしれませんが、まあ、べつにいいんじゃね? そういうジェンダーにもとづく常識なんて、どんどん壊していくのがいいと思いますね。
     女性だってひとりでラーメンや牛丼を食べたいこともあるだろうし、反対に男性だってスイーツを食べたいこともある。それが変な目で見られるということは、それこそがおかしなことなんじゃないかと。
     じっさい、「男はこういうものだ」とか「女はこういうものだ」みたいな社会的な定義はほとんどあてにならないと思います。それらは大抵、「だからいまのままでいい」と開き直るために編み出されたものであるに過ぎません。
     脳科学的に見れば男性の脳も女性の脳もほとんど差がないらしいんですよね。だから、男性はこう、女性はこうというような特性は、結局、社会的に形成されたものに過ぎないと思うのです。
     ちなみに、そういう特性は生まれつき性別によって決まっているのだ、という考え方をジェンダー理論の用語で「本質主義」と呼び、その界隈では必殺技のように使われているのをよく見かけます。
     「それは本質主義だ!」とびしっと指さして指摘するとかっこいいとか良くないとか。
     で、よく「男は論理を求め、女は共感を求める。故に男は結論のない雑談が苦手だ」みたいなことがいわれるわけですが、これもつまりは教育の問題だと思いますね。女性はそういうふうに育てられているからそういう特徴が見られるようになっているというだけのこと。
     その証拠に、ぼくのまわりのおじさんたちは結論のない雑談を何より好んでいます。そう、ぼくの友人たちはおしゃべりな人がほとんどで、逢うととにかく話すのです。
     最近はわりと高級店の個室を借り切ったりもするようになりましたが、料理やお酒に舌鼓を打つ一方で、やっぱり話は止まりません。というか、そもそも周りに邪魔されることなく話をしたいから高級店を選ぶのですね。
     さらにそこからたとえばカラオケへ場所が移ったとしても歌ったりはしません。ただひたすらしゃべるだけ。まさに女子高生もかくやというほど雑談に熱心です。
     先に書いたように、よく女性の話は「落ち」がなく、それ故に延々と続くが、男性は話に論理的決着を付けようとする、それは実は脳の構造の違いが原因なのだ、いや原始時代の生活習慣の影響なのだなどといわれていますが、あれは嘘だと思いますね。
     それがほんとうなのだとすれば、ぼくのまわりのおじさんたちはほぼ中身は女の子です(笑)。皆よくしゃべるんだよなあ。ぼくもあまり人のことはいえないけれども。
     ペトロニウスさんとかLDさんとか、ラジオでもたしかによくしゃべるのだけれど、リアルで逢うとさらにもっとしゃべりますからね。あれはどういうことなんだろうな。
     ひょっとしたらラジオで話しているときは手足に鉄製のパワーアンクルを付けていて、それを外すと戦闘力が上がるのかもしれない。
     そういうわけで、ぼくは「男性はこう、女性はこう」という決めつけのことはまったく信じていないのですが、そうはいっても現実に統計的な「男性らしさ」、「女性らしさ」の偏りは存在することは事実。
     それがたとえ社会において後天的に身に着ける特質だとしても、ほんとうにあることは間違いありません。まあ、やっぱり女性は牛丼屋にひとりでは入りづらいとか、そういうことはどうしてもあると思うんですよね。良し悪しはともかく。
     しかし、そういうジェンダーの桎梏も、だんだん緩んできているように思います。何といってもいまは、あるいは建前だけかもしれないにせよ男女同権の世の中、「男は外で働いて、女は家を守るべき」というようなこという人は、皆無ではないにせよ、格段に減っているでしょう。
     つまり、男性も女性も、しだいに変化しているということです。女性が社会に進出するようになり、ある意味ではかつての男性にポジションにあることは周知の事実だと思いますが、男性もおそらくは女性に近づいているとぼくは思う。
     というか、そうあるべきなのではないか、と考えます。というのも、前回の記事でちょっと触れたように、何気ない日常を楽しむことにかけては一般に女性のほうがはるかに優れた蓄積を持っていると思うのですね。
     たとえば女性たちはカフェでコーヒーとケーキだけで楽しく時間を過ごすことができるけれど、男性は同じ真似ができなかったりする。平均的にいって女性たちのほうが余暇を豊かに過ごすことが上手なのだと感じます。
     いや、ぼくのまわりの人たちはそうでもないかもしれないけれど、それはやっぱり「例外」的だと思う。その証拠に、仕事を失い、また伴侶に先立たれた男性はすぐに亡くなってしまうのに対し、女性はひとりになっても長生きしたりします。
     これは統計的なデータとしてちゃんと結論が出ているようです。いま、経済成長がかなりのところまで行き詰まってしまった日本社会において、「男らしく」競争して勝ち組になれる確率はかなり低くなっています。
     つまり、ただ「成長」を目指すだけではなかなか幸せになれない時代なのです。だったら「成長」ならぬ「成熟」を志し、一日一日をより楽しく生きることに専念するのも悪くないことなのではないでしょうか。
     そして、そういう人生を志向する時、手本となってくれるのが女性たちの生き方だと思うのです。「競争」ではなく「協調」を、「成長」ではなく「成熟」を求め、あたりまえの日常を少しでも楽しく生きようとするとき、女性たちは男性の「先生」になってくれるでしょう。
     まあ、そういう態度を良しとしない頭の固い男性もいるかもしれませんが、現に「日常系」といわれる漫画の主人公はほとんどが女の子ですよね。
     ああいう物語を見て心癒やされている男性たちは、内心ではやっぱり女性たちの、いまのところ女性にしか許されていないかに見えるライフスタイルをうらやんでいるのではないでしょうか。
     少なくともぼくはうらやましい。ぼくも『ゆゆ式』みたいな日常を……いや、さすがにそれは送りたくないかもしれないけれど、『けいおん!』みたいな生活は送りたいぞ。
     じっさい、ちょっと気をつけて時間を過ごすことを覚えたなら、「あたりまえの日常」は素晴らしい輝きを放ち始めます。それはほんとうは「あたりまえの日常」などというものは存在せず、時は仮借なく過ぎていき、すべてを変えていくからです。
     「あたりまえ」が「いつまでも続く」とは、単なるぼくたちの思い込みに過ぎないのですね。そのことは『灰と幻想のグリムガル』を見てもわかりますし、『よつばと!』においては素晴らしいセンス・オブ・ワンダーとともに描写されていることです。
     平凡な平穏のなかにこそ黄金の輝きはある。男性たちはこれからそのことを学習していかなければならないのだと思います。暖かで和やかな日常や、他者による理解と共感を求めているのは女性たちだけではない、男性だってほんとうは変わらないのですから。
     とはいえ、それでは変わり映えのしない「出口のない日常」を楽しむにはどうすればいいのか? そのためには生活の三大基礎である「衣・食・住」と、そして「趣味」を充実させていくよりほかないと思います。
     このブログでぼくが「衣・食・住」をテーマにした記事をいくつか書いているのはそのためです。つまりは、すべては「成長が行き詰まった成熟社会において、いかにしてクオリティ・オブ・ライフを向上させ、センス・オブ・ワンダーを獲得するか?」というテーマであるわけなのですよ。
     いい換えるなら、大人になってなお『よつばと!』のよつばのように新鮮な発見に満ちた人生を送るにはどうすればいいのかということ。
     それはおそらくは「脱男らしさ」の道であり、そしてある意味では「脱オタクらしさ」であるかもしれません。
     仮にオタクでありつづけるとしても、少なくともさまざまな「知識自慢」や「センス自慢」を繰り返し、「縦の関係」を作ろうとしてきたかつての男性オタクたちとは違う意味でのオタクにならなければなりません。
     それがどんなものなのか、どんな名前で呼ばれるべきなのか、その答えをぼくは持っていませんが、ぼくがたとえば『妹さえいればいい。』という小説を好きなのは、そのテーマを鋭く実現しているフロントラインの作品だと思うからなのですね。
     そういうふうに捉えてもらえると、ぼくが単発で書いてきた記事も、実は色々と地下水脈で繋がっているのだということがわかってもらえると思います。
     そして、そういうふうに読めば、このブログも少しは楽しいものに思えて来るのではないか、と。まあ、そういうわけで、ぼくは最高の人生を実践しながら模索しているのでした。
     ああ、あとは恋人か伴侶がいればいうことなしなんだけれどな! 毎度同じ落ちですが、まあしかたないでしょう。
     現実は、きびしい。 
  • 萌え日常系ラノベに「リア充主人公」が登場する日は来るか?

    2016-12-22 20:21  
    50pt
     平坂読『妹さえいればいい。』最新刊を読み上げました。前巻で一気にストーリーが進んだのでこの巻ではどうなるかと思っていたのですが、物語は停滞することなく先へ進み、ひとつのターニングポイントへたどり着きます。
     同じ作者の前作『僕は友達が少ない』では、物語は主人公が決断を避けることによって徹底的にひきのばされたのですが、この作品では正反対の方法論が採用されているように思えます。
     主人公はあっさりと決断を下しつづけ、物語はどんどん進んでいくのです。こうも真逆の方法論を続けざまに使いこなす平坂読の実力には驚かされます。すごいや。
     ネットで平坂さんの作品を取りあげてラノベ批判を行っている人たちのばかばかしさがよくわかります。どうして平坂読の次代を読む力量がわからないかな、と思うのですが、わからないんだろうなあ。
     もちろん、作品の評価は人それぞれではありますが、あまりにも議論のポイントがずれて
  • 作家は読者の奴隷ではないし、そうなってはいけない。

    2016-07-25 02:59  
    50pt

     『妹さえいればいい。』最新刊を読み終えました。
     前巻はほぼギャグ一辺倒で、面白いことは面白かったのですが、お話そのものは何も進んでいない印象がありました。
     しかし、この巻では劇的に物語が進行します。いやー、面白いですね。ぼくはこういうものをこそ読みたいのだと思う。
     物語が進むとは、ただ状況が変化することではありません。状況が「二度と元には戻らない形で」変化すること、それを物語が進むというのです。
     この巻で、主人公たちの恋愛状況はドラマティックに変わり、そしてこの先、もう決して元に戻ることはありません。
     それは幸せなことではないかもしれないけれど、しかしとても印象的なことです。
     こういうものを読むとぼくはやはり「物語」が好きなんだなあと思いますね。
     平和で幸福で、どれだけ読み進めても何ひとつ変化がないようなお話もいいけれど、でも次の瞬間何が起こるのかわからないようなサスペン
  • 『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』は「ダメ部活もの」の到達点か。

    2016-06-26 04:41  
    50pt

     『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』を最終話まで見ました。
     いやー、面白かった。今季のアニメは豊作で、『カバネリ』とか『くまみこ』とか『マクロスΔ』とか面白そうな作品が色々あったけれど、終わってみるとこれがいちばん楽しかった。
     うーん、何なんでしょうね。特にどこが新しいとも思えないんだけれど、何か妙に面白い。
     体裁としては非常によくある「ダメ部活もの」。あるネットゲームに夢中になった面々が「ネトゲ部」という奇妙な部活を作って遊びまくるというそれだけのお話。
     まあ、『ハルヒ』とか『はがない』の直系ですね。
     この作品だけの特色というと特に思いつかないし、やたら胸を強調するカットとか、むしろ古くさいはずなんだけれど、どういうわけか楽しくてしかたない。
     めちゃくちゃ幸せなアニメでした。ぜひ二期を作ってほしい。無理かな。無理かも。こうなったら原作の続刊を読んでみるか、というくらい
  • 「友達探し系」ライトノベルをリアルに実践してみたら?

    2016-06-02 17:36  
    50pt

     こんな記事を読みました。

     もちろん現実社会のつながりが1番大切だけれど、SNS上のお友達も当たり前になってきた世の中。
     スマホやゲームに夢中になりすぎるのは問題だけれど、ゲームみたいに自分の周りにたくさんワールドがあることを知るのは、子供の生きやすさにつながる気がしている。
     私自身友達がいなかった中学時代にスマホやゲームやTwitterがあったらどれだけ救われただろうと思うから。
    http://yutoma233.hatenablog.com/entry/2016/06/01/073000

     うーむ、どうなんでしょうね。
     たしかに「スマホやゲームやTwitter」は友達がいない孤独を癒やしてくれるかもしれないけれど、「LINE疲れ」とか「バカッター」みたいな話を聞くと、SNSがないほうがよほど楽だったのではないかと思わないこともありません。
     まあ、そういいながらもぼくはもうLINEなしでは生きられない身体になってしまったので、自分より若い層にSNSをやるなとはとてもいえないのですが。
     でも、リアルとネットで同じ人間関係を維持しないといけないのって疲れるよね。
     SNSも過去のメディアと同じく、プラスの面とマイナスの面を備えているようです。と、ここまでは話の枕。
     ぼくはいまとなってはそれなりに友達もできて、その意味ではわりに充実した生活を送っているわけですけれど、そうかといって友達がいない生活が良くないと思っているかというと、そうでもないのです。
     もしぼくに友達がいなかったら、それはそれで、ひとりで本を読んでブログを更新していたでしょう。それもまた悪くない人生だったかもしれないとも思う。
     ぼくはインターネットに出逢うまで20年くらい理解者ゼロのままひたすら本を読む生活をしていたわけで、本質的にはそんなに孤独はいやだと思っていないのです。
     何より、読書とはそもそも孤独な行為です。
     電子書籍や感想サイトの充実でいくらかソーシャル化が進んではいるにしても、基本的にはひとりで本を向かい合わないといけないことに変わりはない。
     その孤独に耐えられる者だけが読書の豊穣を知ることになる。
     それはあるいはFacebookで友達が何百人いるとかいうことを誇っている「リア充」には理解できない楽しさであるのかもしれません。
     でも、いまなお、ぼくは読書以上の歓びを知らないのです。
     本を読み始めてから30年以上経って何千冊読んだか知れないけれど、一向に飽きない。たぶん1000年くらいは余裕で読みつづけられるだろうと思う。孤独には孤独なりの歓びがあるのです。
     ペトロニウスさんがよく「お前のいうことはわからないとずっといわれつづけてきた」と話しているけれど、べつにペトロニウスさんに限らず、一定以上個性的な人間は周囲に理解者など見つけられないのが普通なのですね。
     本なんて読めば読むほど周囲の人にわかってもらえなくなるものですから。
     SNSの発達によってひとは孤独から逃れやすくなったかもしれませんが、そのぶん、「ひとり孤独に自分の内圧を高める」訓練をしづらくなったのかもしれないとも感じます。
     しかし、まあ、そうはいっても自分が考えたことをだれかと「共有」できることはやっぱり嬉しいものです。
     ここ何年かのライトノベルで流行った、ぼくが「友達さがし系」と呼んでいるパターンの物語は、大抵が趣味を共有できる仲間を探してグループを作るという形を採ります。
     それは「SOS団」であったり、「隣人部」であったり、あるいは『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のオタク仲間集団であったりするわけですが、ああいうものを作りたくなる気持ちはぼくはリアルにわかります。
     というか、 
  • 『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』にオリジナリティはあるか?

    2016-05-25 06:31  
    50pt

     ペトロニウスさんの『灰と幻想のグリムガル』評の第二弾が公開されていますね。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160524/p1
     あるいはいつもの如くこのまま公開されずに終わるのでは?と思っていただけにひと安心です(笑)。
     ぼくの文章も引用されていますけれど、『グリムガル』はほんとうに現代の青春ものの系譜のなかでも頂点といえるような傑作だと思います。
     この作品をまだ見終えていないというこのていたらく。いいかげんそろそろ最後まで見ないとなあ。マーベル映画とか見ていないでこっちを見ろよ、という気もします。
     さて、この記事のなかではっきり書かれているように、現代の青春もののトレンドは、
    1)主人公になれないわき役が、
    2)それでもどうやって人生の充実感を得るか。
     というところに収斂していきます。
     「きっと何者にもなれない」ぼくたちの冴えない青春。でも、けっこう楽しいし、いいところもあるんだよね、と。
     これがおととい、きのうと書いた「充実した人生を送りたい」というテーマとかぶっていることがわかるでしょうか?
     そう、ぼくはフィクションと同じテーマをリアルでも追及しているんですね。ただ、リアルではなかなか「死を実感すれば生もまた輝く」というわけにはいかないから、色々むずかしいわけなんですけれど。
     『グリムガル』が傑作なのは、「1」の条件をほんとうに徹底して突き詰めているところです。
     普通は「わき役」とはいっても一応はそれなりの能力を持たされているものなのですが、『グリムガル』の場合はほんとうになんの異能もないんですよね。それこそゴブリン一匹倒すこともできない。
     で、その未熟で無能なかれらが「死」を実感することによって「人生の充実感=いま、生きているという実感」を得るプロセスが描かれています。
     まさに「わき役たちの冴えない青春系」の最高傑作ともいうべき作品といっていいでしょう。
     これ、映画の『ちはやふる』で、天才のちはやではなく才能がない太一がクローズアップされたのとまったく同じ構造だと思うのですが、もうさすがにそれは説明しなくてもわかってもらえるでしょう。
     現代の青春ものはアニメであれ、映画であれ、必然的にそういう構図になるということなのです。
     と、ここまでは話の前段階。今回はそういう「冴えない青春系」のひとつである『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』について話したいと思います。
     この作品はもはや古典的といってもいいくらいライトノベルの伝統的形式を追従しています。どのような構造なのか、「物語三昧」から引用しましょう。

     これまでのヲタクの言説や自意識の拗らせの中には、常に「リア充」という概念がその軸にありました。ヲタクの自意識を描くときに、どこかにリアルに充実している、この場合は、かわいい恋人やかっこいい彼氏に恵まれて、特に2次元に逃げることもなく、3次元の世界で楽しく過ごしている人々がいるという対抗意識のことになります。昨今(2016年3月時点の話)だいぶ薄れてきた気がするのですが、少なくとも過去のメジャー級の作品である『僕は友達が少ない』(2009-2015)や『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(2008-2013)などのライトノベルで頂点に君臨して、アニメ化もされ、一時代を築いた作品群は、この軸が常にセットされていました。この系統のほぼすべてのライトノベルの主要な軸が、これであったといっても、また現在もそうであると言い切っても、おかしくはないほどです。

     そう、「また現在もそうである」。
     ペトロニウスさんはまだ見ていないようですが、『ネトゲの嫁』の軸は、「リア充」ではなく「リア充」に対抗意識を持つ少年少女が自分たちでかってに部活を作り、楽しい学園生活を送るという『はがない』の構造そのままです。
     もう、その点では一切オリジナリティがないといっていい。
     だから、Twitterで宮城さんという方がこのような疑問を呈されていたのはいたって当然だといえます。

    @LDmanken @Gaius_Petronius @kaien もうアップロード完了とは仕事が早いですね。ネトゲ嫁はオタクの描かれ方が俺妹の頃と変わらないように思えて、私は何だかちょっと古臭さを感じるのですが、LDさんから見てどうでしょうか。

     これに対し、LDさんはこのように答えています。

    @mi_ya_gi_3 @Gaius_Petronius @kaien まだ、全部見ていないので何とも言えませんが、どうなんでしょう。僕はむしろ登場人物たちはネトゲユーザではあっても(現代的な意味含め)オタクでは無いようにも感じています。

     どうなんでしょうね。オタクとは何か、とかいいだすとまた長くてめんどくさい議論になってしまうと思うので深入りしたくはありませんが、少なくともぼくは『ネトゲの嫁』を見ていてそんなに古くさいとは感じなかったんですよね。
     しかし、たしかに構造そのものは「リア充」を敵視する生徒たちだけで部活を運営するという、ありふれすぎているものです。やっぱり古くさい話なんじゃないの?といわれてもしかたありません。
     それでは、『ネトゲの嫁』のオリジナリティはどこにあるのか?
     これ、まだなんともいえないところではあるんだけれど、