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『エヴァ』にカタルシスがないと感じる人へ。
2019-04-02 13:0851pt『アオアシ』が!面白すぎる。この作家さん、『水の森』の頃から追いかけていたんだけれど、いやー、良いですね。実に素晴らしい。弱い自分自身を乗り越えて成長していく者たちの物語。王道のスポーツ漫画です。
で、この「自分を乗り越える」という概念について最近、いろいろと考えています。まずは自分自身の弱さ、愚かさ、醜さ、小ささ、与えられた環境への恨み、他者への妬み、怒りや憎しみといった負の感情などを「乗り越える」ことを「成長」と呼ぶことにしましょう。
「自分を乗り越えるための戦い」とその結果としての「人間的な成長」は物語の大きなテーマで、結果として「乗り越えられた者」をここでは「大人」と呼ぶことにしたいと思います。
少なくとも現代においては、どうやって「大人」になるかということは物語のひとつの大きなテーマとして存在しているといって良いでしょう。
たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』は「乗り越 -
親に愛されなかった子供はどうすればいいのか?
2018-01-16 14:3751ptラジオで山口じゅり陛下に教えられた「甥っ子が承認欲求のおばけになっていく」という記事を読んでみました。
http://d.hatena.ne.jp/Yashio/20180106/1515256382
ひとことでいうと、自分の甥っ子が承認欲求を満たせないためにわがままな怪物のようになっていくのを見ることが心苦しい、というような内容です。
で、陛下もいっていたけれど、正確な事情がわからないのでたしかなことはいえないものの、これ、たぶん親のフォローが足りないんですね。愛情不足だと思うんですよ。
文章の端々から伺える事情を見ると、両親が離婚していたり、上に聞き分けのいい兄がいたりすることが関係しているのだろうけれど、まあはっきりとはわかりません。
でも、この「症状」は、まず自己肯定感の欠如から来ていることはわかります。
自己肯定感とは、「自分はこのままでいい」、「勉強ができなくても、 -
大晦日だよ。好きなキャラクターランキング男女別ベスト20。
2017-12-31 01:3951pt質問箱で「好きなキャラクターランキングを教えてください。」(https://peing.net/q/8acd316f-e553-4950-8c0b-b082c571a50d)という質問をいただいたので、作ってみました。
けっこう苦労しました。当然、好きなキャラクターは枚挙にいとまがないほどいるわけですが、ランキングをつけるのって大変だよね。ぼくが好きなキャラクターは男女を問わず、何らかの形で「戦っている」という特徴があります。与えられた運命に対し、果敢に抵抗しているキャラクターが好きですね。下のほうにくわしい解説をつけておきます。
〇男性編
1位 ヤン・ウェンリー(『銀河英雄伝説』)
2位 イシュトヴァーン(『グイン・サーガ』)
3位 ダグラス・カイエン(『ファイブスター物語』)
4位 尼子司(『SWAN SONG』)
5位 土方歳三(『燃えよ剣』)
6位 令狐冲(『秘曲笑傲江湖』)
7位 オスカー・フォン・ロイエンタール(『銀河英雄伝説』)
8位 森田透(『翼あるもの』)
9位 ジークフリード・キルヒアイス(『銀河英雄伝説』)
10位 伊集院大介(『伊集院大介の冒険』)
11位 ルルーシュ(『コードギアス』)
12位 沖田総司(『燃えよ剣』)
13位 田島久義(『恋愛』)
14位 上杉達也(『タッチ』)
15位 ジュスラン・タイタニア(『タイタニア』)
16位 グリフィス(『ベルセルク』)
17位 衛宮士郎(『Fate/stay night』)
18位 グイン(『グイン・サーガ』)
19位 碇シンジ(『新世紀エヴァンゲリオン』)
20位 ジョン・スノウ(『氷と炎の歌』)
〇女性編
1位 比良坂初音(『アトラク=ナクア』)
2位 沢渡真琴(『Kanon』)
3位 ヴィアンカ(『OZ』)
4位 黒猫(『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』)
5位 ラキシス(『ファイブスター物語』)
6位 姫川亜弓(『ガラスの仮面』)
7位 シルヴィア(『グイン・サーガ』)
8位 躯(『幽☆遊☆白書』)
9位 白鐘直斗(『ペルソナ4』)
10位 美樹さやか(『魔法少女まどか☆マギカ』)
11位 アトロポス(『ファイブスター物語』)
12位 久慈川りせ(『ペルソナ4』)
13位 綾波レイ(『新世紀エヴァンゲリオン』)
14位 ユーフェミア・リ・ブリタニア(『コードギアス』)
15位 真賀田四季(『四季』)
16位 長谷川千雨(『魔法少女ネギま!』)
17位 アウクソー(『ファイブスター物語』)
18位 鹿目まどか(『魔法少女まどか☆マギカ』)
19位 川瀬雲雀(『SWAN SONG』)
20位 サーバル(『けものフレンズ』)
男性版1位のヤン・ウェンリーはもうしかたないというか、30年近くファンやっているもので、どうしようもないですね。歳を取ってから見てみると、驚くほど繊細なバランスでできているキャラだと気づきます。この頃の田中芳樹のすごみですね。
2位のイシュトヴァーンは若き日の野生、たけだけしさ、行動力、与えられた運命に果敢に抵抗していくところもさることながら、後半の殺人王へと堕ちていくくだりも好きです。人生で最も心配して眺めたキャラクターといっても過言ではないかも。
3位のカイエンは、まあ自分のハンドルネームのもとにするくらいで、それはもう大好きです。非常に男性的な、「男」という生きものの長所と短所というものがもしありえるとすれば、それを凝縮させたようなキャラクターですよね。ひたすら男のロマンを追求したようなというか。かっこいい。
第4位は『SWAN SONG』の司。やっぱりあまりにも過酷な運命に抵抗しつづけるところが好きですね。人間として強い。強すぎる。ランキングには入っていないけれど、鍬形も好きです。リアリティありすぎ。
第5位、土方歳三。まあ、ぼくの読書人生でいちばんといっていいくらいかっこいいキャラクターですね。切ないほどの男らしさ。そしてやっぱり行動力が好きです。アクティヴなキャラクターが好きだということですね。
第6位、令狐冲。いい奴(笑)。とにかくいい奴。あまりにもいい奴すぎてヒーローというより被害者じゃないかという気もするのですが、とにかく気のいい兄ちゃんです。大好き。金庸のキャラクターは他にも魅力的な人がたくさんいます。
第7位、『銀英伝』からふたり目。ロイエンタール。こいつもかっこいいよなあ。破滅的に生きて、結局破滅する悲劇性が好きですね。女嫌いのくせに女にはモテるところとか、矛盾した性格に惹かれます。
第8位、栗本薫の初期の名作『翼あるもの』より森田透。この人はね、とても優しい人ですね。9位のキルヒアイスもそうなのだけれど、優しい人が好きです。自分も優しい人間でありたいと思っています。少しは優しくあれているといいのですが、どうだろうなあ。
で、第10位、伊集院大介。はい、この人も優しい人ですね。栗本薫の作品全作を通じての最大の名探偵であり、弱い人々の守護者のような存在です。意外にも、名探偵キャラクターからはこの人しか入っていませんね。金田一耕助とかも好きは好きなんですけれど。
第11位は『コードギアス』からルルーシュ。「反逆の」ルルーシュというくらいで、やっぱり運命に抵抗する系統のキャラクターですね。ぼくはとことんこの手の反逆者キャラクターが好きなようです。
第12位は『燃えよ剣』の沖田総司。土方歳三の相棒ともいうべきキャラクターですが、そのあまりの透明さ、哀切さは強く印象にのこっています。こんなキャラクターをさらっと生み出してしまうのだから、司馬遼太郎という人もたいがい天才ですね。
第13位、ぼくの最も好きな漫画のひとつ、『恋愛』から主人公の田島久義。狂気のような情熱の持ち主で、一歩間違えばストーカー以外の何ものでもありませんが、そういうところが好きです。
第14位のキャラクターは『タッチ』の上杉達也。まあ、この人に関してもあまりいうことはないですね。とても辛い、重い運命を背負って、それをだれのせいにもせず、ひとりで孤独に戦い抜いたところが好きです。
第15位、ジュスラン・タイタニア。いやー、すごいキャラですよね。「中途半端な美形」といういちばんダメになりそうなキャラを、ここまで魅力的に描いてしまう全盛期田中芳樹の凄まじさよ。キャラクターの造形に関してはほんとにものすごい作家だと思います。
で、第16位なのですが、ガッツではなくグリフィスを持ってくるところがぼくらしいと思ってほしいですね。イシュトヴァーンを好きなのとほぼ同じ理由で好きです。運命に対する抵抗。
第17位は『Fate』から士郎。まあ、奈須きのこユニバースからひとり持ってくるなら、やっぱり士郎になるのかなあと。凛も桜もセイバーも好きですが、士郎の狂気はすごく好きです。ぼくは狂的なパッションを持っているキャラクターが好きらしい。
第18位、グイン。まあ、みんなのお父さん的な存在ということで、出てくると安心感がありますよね。あまりにも無敵すぎるのでかれが活躍するとあっというまに問題が片付いてしまうのですが。やっぱり好きは好き。
第19位はシンジくん。ぼくはかれのことはかなり評価しています。だって頑張っているじゃないか! そりゃ弱音は吐くけれど、それでも戦っているわけで、もう少し評価されてもいいはず。まあ、状況が過酷なんだよね……。
そして第20位はジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』からジョン・スノウ。非常に人気があるキャラクターですね。ティリオン・ラニスターとどっちにしようか迷ったのだけれど、ジョンのほうにしておきました。ティリオンも好きです。
女性編の第1位は『アトラク=ナクア』の初音お姉さま。もうダントツで好きですね。邪悪さと可憐さ、攻撃性と被害者性が一身に両立しているところが好きです。これは、男性キャラクターでもそういうキャラクターが好きですね。ぼくの好みなのだと思う。
で、第2位の真琴。この子はね、純粋にいたいけな無垢の象徴みたいなキャラクターですよね。これは異性として好きというより完全に子供として好きなんですね。ぼくの子供好き(怪しい意味じゃない)が端的に表れているキャラクターだと思います。
第3位、ヴィアンカ。妹のフィリシアも好きですが、この子の浮かばれなさが好きです。チョロイン属性というか、作者にもあまり愛されていないっぽいところが好き。不遇萌えの窮みみたいなところありますね。
第4位、黒猫。可愛い。以上。いや、可愛いよね、黒猫。ぼくはフィクションのキャラクターに萌えても恋愛感情は感じないんだけれど、この子だけはちょっとべつで、普通に付き合いたい(笑)。年齢差何十歳あるんだって感じですが……。好きですね。
第5位はラキシス。まあ、天真爛漫のプリンセスですね。アトロポスやエストも好きなのだけれど、この子のまったくファティマらしくない自由奔放さが好きです。好き勝手にやっているキャラクターが好きなのかも。
第6位、姫川亜弓。努力の人ですよね。やっぱり「運命に対する抵抗」が好きなんだと思う。マヤのような傑出した天才を持ち合わせていないことを、懸命な努力でどうにしかしようとするその姿勢に強く強く惹かれます。マヤも好きですが。
第7位、シルヴィア。非常に悲惨な目に遭っている少女ですが、それでもなお、愛を求め、幸福を求め、地獄のような環境のなかであがき、もがいているところが好きですね。『グイン・サーガ』におけるジョーカーのようなキャラクターなのだと思います。
第8位は躯(『幽☆遊☆白書』)。彼女も被害者性と加害者性を両立させているキャラクターですよね。非常に好きです。ただ、キャラクターとしてあまりに完結してしまっているので、ランキングとしてはそこまで上にはなりません。いいキャラクターですけれど。
第9位、白鐘直斗。大好きなゲームである『ペルソナ4』からひとり選んでおきたいということで、彼女にしました。非常に知的でそつがなく、女性的なところを抑圧していて、しかしそれがしだいに解放されていくというところが好きです。
第10位、美樹さやか。『まどマギ』のなかではこの子がいちばん好きです。ぼくはだいたい酷い目に遭っているキャラクターを好きになる傾向が強いようですね。もちろん、それ自体ではなく、その状況に対する抵抗にこそ共感するわけです。
第11位にはアトロポス。これも不遇萌えに近いかもしれない。妹のラキシスに比べ不幸な人生を送っているように見えますが、そういうところが魅力的です。でも、ドラゴンに惑星を亡ぼさせようとするのはやめろ。ものすごく迷惑だぞ。
で、すいません、『ペルソナ4』からひとりといいましたが、第12位にりせちーも選んでしまいました。本来、ぼくの好みではないはずのキャラクターなのですが、不思議と好きですね。たぶん、あのグループのなかでこそ輝くキャラクターなのだと思います。
第13位、ぼくたちの綾波。まあ、あの儚そうなところに惹かれるわけですね。彼女については既に山ほど論考があるのでいまさら語りませんが、やはり加害と被害、サディズムとマゾヒズムが同居したキャラクターだと思います。そこに惹かれます。
第14位、『コードギアス』のユーフェミア・リ・ブリタニア。非常に「女の子らしい」ままであのルルーシュを敗北に追い込んだというところに凄みを感じます。男性的にならないままで運命と戦っているところが好きですね。
第15位は真賀田四季。これは『四季』の少女四季に一票、ということにしておいてください。まあ、いろいろな意味で非常に画期的なキャラクターなのですが、ぼくは完璧になる前のわずかに欠けたところがある幼い四季が好きです。
お次は第16位。えーと、長谷川千雨(『魔法少女ネギま!』)。みごとネギと結ばれてしまった勝ち組キャラクターなのですが、あの劣等感を抱えたまま戦っているところに共感します。ぼくも似たようなものなので。オタクキャラですね。
第17位、アウクソー。ラキシスとアトロポスは女神なので例外と考えるとして、ほぼファティマ代表ですね。あのダメ男に仕えて幸せそうにしているけなげなところが気に入っています。エストとどっちにしようか迷ったけれど、まあ、アウクソーかな、と。
第18位、まどか。ヒーロー。ザ・ヒーローというイメージです、ぼくのなかでは。この人を「普通の女の子」として捉える人もいるだろうけれど、ぼくのなかでは普通じゃない異常な人ですね。その異常さに惹かれます。でもさやかより順位は下。
第19位。川瀬雲雀。ひばりん、かわいいよなあ。強いし。田能村のプロポーズに対し即座に「いいよ」と答えるところに惚れました。いい女だぜ!
第20位、サーバルちゃん(『けものフレンズ』)。この子はもっと順位が上でもいいかもしれませんね。このラインナップのなかで今年のキャラクターはこの子だけじゃないかな。やっぱり優しさ、懐の広さ、包容力というところが好きなのだと思います。
以上、好きなキャラクターランキングでした。まあ、暫定版というか、いまの気分に多分に影響されているランキングですが、だいたいこんな感じだと思います。うーん、参考になるかな? 質問者さんに届いていれば幸いです。 -
アニメはほんとうに女性を差別しているのだろうか。
2017-09-07 05:0051pt先日、「本を書きたい!」といった通り、アニメや漫画、ライトノベルなどのポップカルチャーとジェンダーについての本を、どこで発表するあてもなく(笑)書いています。
とりあえず20000文字くらいは達したかな。書いたら推敲しなければならないので単純にどこまで仕上がったとはいえませんが、まあ、それなりに進んではいます。
で、ぼくがそういう本を書こうと思い立ったのは、既存のこの種の本に文句があるからなんですねー。どうもこの手の本はあらかじめ「アニメやマンガのなかにはひどい性差別があるに違いない!」という結論を決めてしまって、それに見合う作品ばかりを取り上げているように思われるのです。
もっとひどい場合には、ありもしない問題を見つけ出してしまっていることすらある。
いや、ぼくはアニメやマンガのなかに性差別的描写が存在しない、といいたいわけではありません。ジェンダーの呪縛は大いにあるでしょう。
しかし、すべてのアニメ/マンガ/ラノベが一様に性差別の標本として使えるわけではないし、なかにはそこらの学者の本よりよほど先進的な内容の作品もあるはずなのです。
それを上から目線で「サベツしているに決まっている!」と決めつけるのはいかがなものか。たとえば、水島新太郎さんの『マンガでわかる男性学』にはこのような記述が存在します。
近年、マンガのなかに描かれる女性像には大きな変化が見られます。これまで母親や恋人といった脇役を押し付けられてきた女たちが、男から独立した、強くてたくましい女として描かれるようになったのです。
ガンダム・シリーズでは、マリュー・ラミアス(『機動戦士ガンダムSEED』)やスメラギ・李・ノリエガ(『機動戦士ガンダム00』)が、艦長として活躍しますし、スポーツマンガでは、百枝まりあ(『おおきく振りかぶって』)や相田リコ(『黒子のバスケ』)が、監督・コーチとして重要な役割を担います。『少女革命ウテナ』では、王子様になることに憧れ、自分を「ぼく」という一人称で語る男装の少女・天上ウテナが、男顔負けの戦いぶりを見せてくれます。
しかし、彼女たちは、本当に男から独立した、強くてたくましい女たちなのでしょうか。
『機動戦士00』の女艦長・スメラギは、重度のアルコール依存に苦しむ女として描かれていますし、女監督を務める百枝まりあや相田リコにしても、物語の主体として描かれることはありません。『少女革命ウテナ』に登場する女たちも、シリーズ構成を務める榎戸洋司いわく、「男に守られる女であり、守ってもらえるよう試行錯誤する女」でしかないのです。
『ベルサイユのばら』のオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ、『美少女戦士セーラームーン』の月野うさぎ、『スレイヤーズ』のリナ=インバースなど、悪者と戦う強くてたくましい女主人公たちにも同じことが言えます。オスカルにはアンドレ、月野うさぎにはタキシード仮面、リナ=インバースにはガウリイがいるように、彼女たちはみな、守ってくれる男ありきのヒロインなのです。
えー(疑いの声)。それはないでしょ。まさにそういう女性像を生み出す社会構造からの脱出をテーマにした作品であることを無視して、『ウテナ』の女性キャラクターを、榎戸さんの発言(出典がないぞ!)を引いて「「男に守られる女であり、守ってもらえるよう試行錯誤する女」でしかない」と総括するのもどうかと思うけれど、それ以上に後半が問題。
まあ、百歩譲ってオスカルや月野うさぎはまだ良いとしても(ほんとうは良くないわけですが)、どう無理筋の解釈をしてもリナ=インバースが「守ってくれる男ありきのヒロイン」だとは思えません。
たしかにリナはガウリイに助けられることもあるけれど、その反対にガウリイを助けることだってある。一方的にガウリイに頼って守ってもらっているわけではまったくないのです。
もし、リナの描写では「男から独立」度が足りないというのなら、いったいどんなキャラクターなら十分に主体的で独立していることになるのかと問いたいくらい。
この本にはほかにも納得のいかない箇所がたくさんあるのですが、ようするに、ぼくにはただ自論を補強するために漫画作品を利用しているように思えてならないのですね。
あるいはそうでなければ、初めから上から目線で作品を見ているので、作品を読んでいても読めていないことになっている。
「ライトノベルが自立した女性なんて描いているはずがない」とあらかじめ結論を固定しているから、じっさいには存在しない「守ってくれる男ありきのヒロイン」が見えてしまうのではないかと思えてなりません。
ぼくはこういうのが嫌なんですよねー。作品に対し特に愛情も敬意もない人たちが自分の主張を強化するためにアニメやマンガのなかのジェンダーを批判するという、あまりにも偏った構図。
これと同種の本である『お姫様とジェンダー』や『紅一点論』にも似たような不満を感じました。
アニメやマンガのなかのジェンダーを批判するな、とはいいません。大いに批判してもらってけっこうだけれど、そのときは偏見に曇らされていない目で見てほしいと思うのです。
その意味では、高橋準『ファンタジーとジェンダー』は良かった。この本はファンタジー小説のなかのジェンダー描写を取り上げて問題にしているのですが、よくある『指輪物語』などの名作どころだけではなく、『グイン・サーガ』や『十二国記』といった作品まで取り上げているのが面白いところです(できれば『カルバニア物語』も扱ってほしかったけれど、ひょっとしてこの本の刊行時期は『カルバニア物語』の開始より前なのかな)。
『グイン・サーガ』を初めとするファンタジー小説の男性中心性に関してはぼくはかねて疑問を抱いていたので、この本の語るところには非常によく納得できました。
まあ、『西の善き魔女』なんかは、あえてその構造を踏まえてメタ的にずらしているのでひと口にはいえないのだけれど。
とにかくぼくはここら辺の本を踏まえて、ぼくなりの本を書きたいのです。しかし、はたして書けるかな……? うん、まあ、がんばります。うす。ふぁいと。おー。 -
ナルシシストの天才たちと日本一「スケベ」な男。
2016-09-19 06:0651pt
まだしつこく恋愛工学のことを考えています。というか、恋愛工学に始まった思考をさらに進めている。
先日は恋愛工学とはナルシシズムの理論なのだ、というところまで書きました。ここでいうナルシシズムとは自分以外の「他者」を持たない自己完結した心理のことです。
それに対し、他人のなかに自分にコントロール不可能な「他者」を想定し、その「他者」と出逢うことで得られる快楽を求めることを、ここではエロティシズムと名付けましょう。
人間は「他者」との交流によって快楽を感じ取ることができる生き物です。会話が楽しいのはそこに「他者」がいるからです。セックスが気持ちいいのはそこに「他者」との摩擦があるからです。
「他者」とは自分とは異なる「内面」をもった永遠に理解不能でコントロール不能な存在であり、「決して支配されないもの」でもあります。支配できてしまったらそれは「他者」ではありません。
「他者」と出 -
どうすれば物語は面白くなるのか?
2015-04-12 22:3951pt
アニメ『アルスラーン戦記』が面白いです。
アニメーションとしての演出にそれほど傑出したものがあるというわけではないのですが、極上の物語をお金をかけて演出している凄みがある。
何しろ原作は日本の架空歴史ものを切り開いた傑作ですから、きちんと映像に仕上げればそれなりのものが出来上がるはずなんですよね。
そう、『アルスラーン戦記』はひとつの途方もなく面白い「物語」です。それでは、物語とは何なのかという話をいまからしたいと思います。
学術的、あるいは辞書的な定義がどうなっているのかはともかく、ぼくにとっては、物語とはあるコンセプトに則り、一連の出来事を語った話ということになります。
この「コンセプト」というものが大切で、そう、物語を語るためにはそれだけの目的があるわけです。
何か伝えたいテーマなりメッセージがあって、それを伝えるためにこそ物語という形式を採るということが一般的だと思います。
このコンセプトは、まったく何でもかまいません。べつだん、偉いことや崇高なことに限らない。
ただ「主人公を格好良く描きたい」でもいいし、「日本海軍の凄さを知らしめたい」でも「繊細な恋愛心理の妙を描きたい」でもかまわない。
しかし、とにかく通常は何らかの「その物語を通して伝えたいこと」があって、初めてひとは物語を語ろうとするものだと思うのです。
まあ、いわゆるワナビのなかにはただ作家になりたいだけで特に語るものがないというひともいるかもしれませんが……。
そして、これも重要なことですが、物語には「始点」と「終点」があります。
始めた物語はいずれ終わらなければならないわけですから、当然のことです。
『アルスラーン戦記』第一部の物語を例に取るとわかりやすいでしょう。この物語は王子アルスラーンの軍勢が敵国ルシタニア軍に敗れ去るところから始まり(始点)、やがてルシタニア軍を打倒し国を奪い返すところまでを描いています(終点)。
物語のすべてはこの始点と終点の間で語られることになります。
そして、作者はその物語をなるべく面白くするべく、始点から終点に至るルートにいろいろな事件を配し、可能な限り緻密に「構成」しようとします。
その構成の力量を「構成力」といい、また構成の方法論を「ドラマツルギー」といいます。
この構成が不十分であったり、また終点に至るルートや終点そのものがはっきりしないまま物語を語り始めてしまうと、作者自身にも物語がどこへ行き着けばいいのかわからなくなり、物語が未完に終わってしまったりします。
いわゆる「エタる(エターナルする)」という現象ですね。哀れ、港を出た船は目的地にたどり着くことなく、永遠の漂流者となってしまうわけです。
とにかく、物語を緻密に語っていくためには始点と終点、そしてその間のルート設定が大切だということです。
世の中にはこのすべてを天然の感覚でやってのける「天才」と呼ばれる人たちがいますが、ぼくには理解できない存在なので解説できません。わけがわからないよ……。
まあ、それはともかく、普通の人たちはそこでなんらかの計算を行います。
たとえば、終点の時点で主人公が幸せになっているためにヒロインを出そうとか、それでではつまらないからヒロインは悪漢に浚われてしまうことにしようとか、そういうことですね。
天才はしらず、一般的には、物語は終点、少なくとも先の展開が見えていて初めて厳密に構成できるものです。
たしかに全何十巻にも及ぶ長大な漫画とか小説はあり、そういう作品では終点までのルートがはっきりしていないまま書き始めていたりするのでしょうが、その場合はやはり構成の緻密さに限界があると思います。
大抵は途中で話を区切って構成するんですけれどね。
さて、この「終点」に近いけれど異なる言葉で、物語のすべての展開が行き着くところのことを、LDさんの言葉で「結晶点」といいます。クリスタライズポイントですね。
その物語のさまざまな展開はそこで結晶するべく進展していっているということでしょう。
わかりにくいでしょうか?
これも『アルスラーン戦記』を持ち出すとわかりやすいのですが、この物語では実にいろいろな謎があり、事件があり、伏線があります。
しかし、それらすべてはやがて王都エクバターナ奪還という一点に集約していくのです。
その瞬間にほとんどすべての登場人物が集まり、対決しあい、雌雄を決しあいます。
これは、よく考えてみると不自然といえば不自然なことです。
現実的には、なぞの銀仮面卿はどこかで偶然に足を滑らせ落馬して死んでいたかもしれず、王子アルスラーンはどこかでもたもたして見せ場に間に合わなかったかもしれないわけですから。
現実にはそういうことも十分ありえるわけですよね。しかし、物語を演出しようとして構成する以上、それはあってはならないことです。
やはりクライマックスにはいちばん盛り上がるように構成されていなければならないのです。
ちなみにこのクライマックスを意図して外すこともあって、そういう展開はアンチクライマックスとか呼ばれたりします。
旅の勇者が苦難の末、魔王を倒そうとしたらもう寿命で死んでいたとか、そういう展開が想像できますね。元々は修辞法の言葉だそうです。
が、それは、あとで説明しますが、あくまで例外。通常、面白い物語はちゃんと盛り上がるべきところで盛り上がるよう計算されているものだといっていいでしょう。
そして、面白い物語とは普通、始点と終点のあいだで波乱万丈の展開を迎えるよう構築されているものです。
何ひとつ事件が起こらず、老人がひたすら日向ぼっこをしているだけという物語は、少なくとも一般的な尺度では面白くない。
次々と深刻な事件が起こって、「いったいこの先どうなるんだ?」と読者/視聴者を惹きつけるのが良くできた物語というものです。
それでは、波乱万丈とは具体的にどういうことなのか。
単純にいって、それは状況の「落差」で表現できます。善と悪、明と暗、天国と地獄――そういった状況のコントラストが激しいほどドラマティックな展開ということになる。
これも『アルスラーン戦記』が非常に良いテキストになるでしょう。
今回、パルス国の王子として何不自由ない身分にいたアルスラーンは、敗戦によって一気に流浪の身に叩き落とされます。
一国の王侯から追われる身の旅人へ。この、普通の人の人生にはまずめったに起こらないような巨大な「落差」をもつ展開が、見るものにドラマティックな印象を与えるわけです。
べつだん、戦記ものでなくても、どんな物語でもこのことはあてはまります。
ペトロニウスさんが「強さのデフレ」という文脈で、この「落差」のことを語っているので、ちょっと長くなるけれど引用しておきましょう。
こういう表現を考える時に、視点の落差、、、、具体的に言うと、萩原一至さんの『BASTARD!!』を思い出すんですよね。ぼくこの2部が、とても好きで、、、2部って主人公が眠りについた後の、魔戦将軍とかサムライとの戦いの話ですね。何がよかったかって言うと、落差、なんです。『BASTARD!!』は、最初に出てきた四天王であるニンジャマスターガラや雷帝アーシェ・スネイなど、強さのインフレを起こしていたんですね。普通、それ以上の!!ってどんどん強さがインフレを起こすのですが、いったん第二部からは、彼らが出てこなくなって、その下っ端だった部下たちの話になるんですよね。対するサムライたちも、いってみれば第一部では雑魚キャラレベルだったはずです。。。。しかし、同レベルの戦いになると、彼らがいかにすごい個性的で強い連中かが、ものすごくよくわかるんですね。
強さがいったんデフレを起こすと僕は呼んでいます。
これ、ものすごい効果的な手法なんですよね。何より物語世界の豊饒さが、ぐっと引き立つんです。要は今まで雑魚キャラとか言われてたやつらの人生がこれだけすごくて、そして世界が多様性に満ちていて、下のレベルでもこれほどダイナミックなことが起きているんだ!ということを再発見できるからです。なんというか、世界が有機的になって、強さのインフレという階層が、役割の違いには違いないという感じになって、、、世界がそこに「ある」ような感じになるんですよ。強者だけが主人公で世界は成り立つわけではない!というような。
そこで、、、、ヒロインのヨーコが、、、、圧倒的な敵に対して、主人公(覚醒前のね)を抱きしめて絶望的に空を見上げるシーンがあります。グリフォンだったか、、、一匹でもみんな大事な仲間がバタバタ死んでいくのに、それがものすごい数が現れたのを見て、、、、
そして、そこで主人公が覚醒して、、、、そしてガラやネイが戻ってくる、、、、という話になるのですが、僕は、このシーンがとても好きで、、、、というのは、一つは、
どうにもならない絶望感
と、
ありえないような絶望のどん底から一筋の光明のような希望が舞い降りる瞬間
が、見れるからなんですよね。物語って、そういうドラマトゥルギーの落差が欲しいなと僕は思うのです。
けれども、、、、この絶望のどん底感を描けるのって、とても難しいのです。なぜならば、主人公は、当然強者であり、世界を救うものじゃないですか。基本的にそういう前提が隠れているのが普通で、なかなかこの絶望が描けない。この絶望は、まったく力がない、一兵卒や一市民の視点からでないとわからないからです。そして、勇者やヒーローと呼ばれる存在の、「凄み」というのも、このどん底の絶望との「落差」を通してでないと、実はわからないんじゃないか、といつも思っています。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131228/p2
そう――ぼくやペトロニウスさんのような「物語読み」は、何よりもこの「落差」のコントラストを見たくて物語を見ているところがあります。
最もひよわで幼げな王子がやがて大陸に覇を唱える大王になるとか、その反対に天才的なジェダイの素質をもつ少年が悪のダース・ベイダーにまで堕ちていくとか、そういう日常にはありえない落差が物語にとってとてもとても大切なのです。
つまり、始点と終点のあいだでなるべく落差が大きくなるよう状況を変化させていく話が「面白い物語」であると、とりあえずはいうことができるでしょう。
そのための方法論がドラマツルギーであり、展開の「定石」です。
定石とは、だいたいこういう展開にしておけば面白い物語ができあがるというパターンのことですね。
それはたとえば「フラグ」といった概念で理解することができます。脇役が急に昔の話を始めたら死んでしまう予兆だというようなあれです。
このような「死亡フラグ」は、もちろん現実には存在しません。物語のなかだけにある概念です。
物語はただなんとなく語られるわけではなく、状況の落差を生みだし、その上で結晶点を目指そうとして計算して語れるわけですから、効果的に落差を生むために伏線やフラグが多用されるわけです。
たとえば、主人公が昔いっしょに過ごした可愛い幼馴染みの女の子のことを思い出したら、これは伏線に決まっています。
ただたまたま思い出しただけで、その女の子がその後一切物語に関わってこなかったら読者は怒ることでしょう。
それが現実と物語の違いです。現実世界にはすべてを面白くするよう計算して事象を配している存在はいませんが、物語世界には作者という神がいるのです。
したがって、物語世界には始点があり、終点があり、結晶点があり、ドラマツルギーがあり、また定石があって、それらが物語を面白くしています。
しかし――しかしです。世の中にはなんとこの「定石」にあてはまらない物語が実在するのですね。
それは、 -
あなたの最愛の天才は、いつか必ずあなたを裏切る。
2015-04-12 00:1051pt
たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』である。 世の中には天才といわれるようなクリエイターがいて、時折、信じられないほどクオリティが高い作品を生み出す。
しかもそれはただ品質的に高度だというだけではなく、何かひとの心を捉えて離さない特別な魅力を秘めている。
そういう作品にふれたとき、受け手は思う。「ああ、まさにこれこそ自分が夢にまで見た理想の作品だ」。
そして、その作者に対し強い親近感を抱く。この人は自分のような人間のことをとてもよく理解してくれているに違いない、と。
これが、ひとがあるクリエイターの「ファン」になるということである。
クリエイターとファンの良好な関係は、しばらくの間は続くだろう。そのクリエイターがファンにとって最高の作品を提供しつづける限り、ファンはかれを神とも崇めつづけるに違いない。
この状態を、ぼくの言葉で「蜜月」と呼ぶ。
しかし、時は過ぎ、状況は変化する。永遠に変わらないかに思われたその天才クリエイターの作品も、しだいに変わっていく。
その変化は、人間であるかぎり必然的なものだが、ファンには重大な「裏切り」とも感じられる。
なぜなら、ファンはそのクリエイターに幻想を見ているからだ。そのひとが自分の理想を体現しつづけてくれるという幻想を。
だからこそ、クリエイターがその理想から外れることは途方もなく辛く感じられるのだ。
そして、ときにファンはその「裏切られた」という思いをクリエイターにぶつける。
最も熱烈なファンであったひとは、最も凶悪な弾劾者になるだろう。こういうパターンを、あなたも一度や二度は見たことがあるのではないだろうか。
『エヴァ』ではなく、『グイン・サーガ』でも、『AIR』でも、『ファイブスター物語』でもなんでもいいのだが、熱狂的な「信者」を集めるカルトな傑作は、次の段階に進んだとき、「そっちへ行くな! ここに留まれ!」というファンたちの非難に晒される。
かれらはいうに違いない。「一時だけ夢を見せてそれを裏切るなんて、なんてひどい!」と。
しかし、それは本質的にクリエイターのせいではないのである。どんな天才的なクリエイターといえども、人間である以上、変わっていくことは必然なのだ。
そして、ファンとまったく同じ人格ではない以上、ファンの気持ちをどこまでも汲み取りつづけることも不可能なのである。
あるいはファンはいうかもしれない。「自分は金を払ったのだから、作者には自分の望むとおりにする義務がある」。
だが、そんな義務はない。わずかな金銭で他人の行動をコントロールしようなどと、無駄なことだ。
たとえばアニメ『艦これ』のように、大規模な失望が「炎上」現象を生むこともある。それも無駄といえば無駄なことである。
どんなに騒いでも、他人の気持ちを変えることはできない。そしてすでに作られてしまった作品の筋書きを変えるわけにもいかないのだ。
大切なのは、クリエイターと自分はべつの人間であり、べつの価値観を持っていて、べつのものを良いと考えるのだ、という事実をしっかり認識しておくことである。
ひととひとはあくまでも「個別」。蜜月の夢は甘いが、それはどこまで行っても幻想に過ぎない。
だから、怒ってもいいし、批判してもいいが、他人を自分の思い通りにコントロールしようなどと考えるべきではない。他人は他人に過ぎないのだ――たとえ、信じられないほど天才的な他人ではあるにせよ。
理屈では、そういうふうに思う。とはいえ、 -
『艦これ』は政治的に正しい!
2014-08-12 04:5251pt
つい先ほど、「艦これは少女を命がけで戦わせる”美少女ポケモン”なのでヤバい」というTogetterを読みました。
http://togetter.com/li/703275
んー、コメント欄で異論反論が百出していることからもわかる通り、「何か違うのでわ?」と思わせられる話なんだけれど、ぼくはそこまで熱心な『艦これ』ユーザーではないので、ここでは一般論として上記リンク先で語られている「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子が比較的安全な後方に陣取り、女子に命令して前線へ送り込み命がけで戦わせる」という形式のどこに問題があるのか、あるいはないのか、という話をしましょう。
このまとめで語られている論旨は(複数の人物の複数の意見を経たものではありますが)、一貫しているように思えます。
「少女を前方で戦わせて男性が後方で命令する」形式には倫理的、あるいは政治的な問題がある。それは「ヒモ」めいていて、「醜い」し、「気持ち悪い」という主張です。
これは一見すると、なかなか論破しがたい主張であるように思えます。だって、大の男が後方で偉そうに命令していて、可憐な女の子たちが前方で戦う。そんな形式って、どこか歪んでいるとしか思えないではありませんか?
しかし、ほんとうにそうでしょうか? 結論から書いてしまうと、ぼくは違うのではないかと思う。「少女を前面で戦わせて男性が後方で命令する」という形式に、何らかの「歪み」を見てしまうその認識こそが、まさに歪んでいるのだ、と思うのです。
どういうことか? 前提から考えてみましょう。まず、ここで使用されている「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子が比較的安全な後方に陣取り、女子に命令して前線へ送り込み命がけで戦わせる」」という云い方には、既にしてふたつの予断が含まれています。
(1)「後方で命令する」人物、『艦これ』の場合で云えば、「提督」が男性であること。そして(2)あくまで少女たち、『艦これ』で云えば艦娘たちは提督の命令に従って戦わせられているに過ぎないのであって、主体的な意志で戦っているわけではない、ということです。
上記のまとめではこのふたつの予断によって、結論が誘導されている印象があります。まず、少なくとも『艦これ』では客観的事実として「女性提督」が相当数実在しているはずで、「提督は男性」と決め付けるべき理由は見あたりません。
この時点で、仮に『艦これ』が「美少女ポケモン」ものであると認めるとしても、「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子」だけを描く作品であるとは云えません。
むしろ、そうであるにもかかわらず、なぜ提督は「男子」であると決めてかかっているのか、その点を考えてみるべきです。そこにはある種の偏見(バイアス)が含まれているように思えます。
が、それは置いておいて、次のポイントに行きましょう。「(2)」です。ここでは「「タキシード仮面は働かないのにうさぎに惚れられてるけど、物理的に上の位置にいる助言役ってだけで積極的な指示は出さず、命がけで戦うのはあくまで少女の意思なんですよね。「さあ戦え、セーラームーン!」とか煽ってたらダメなヒモっぽさで超いやらしいかんじ。」と書かれています。 また、「その立場の人が働いてる様子なしで命令してたらやらしい感じなのは男女あんまり関係なさそうですけどね。むしろ男女関係的に超慕われてるのが働いてないのに言うこと聞いてもらえる免罪符なのかも。結局ヒモっぽいのは変わんないですか」とも書かれているんですけれど、ぼくはこの意見に大きな異論を感じます。
提督は提督という仕事をしているのであって、十分に「働いている」ではありませんか? 何の根拠があって命令しているほうが働いていて、命令されているほうは働いていないと決めつけるのか?
いや、もちろんわかりますよ。命がけで戦場で戦っているのは艦娘たちなのであって、提督は具体的に何の仕事もしていない、安全なところでふんぞり返っていばっているだけだ、ということなのでしょう。
しかし、この種の主張は組織におけるリーダーの役割を不当に軽んじているように思えます。つまりは一兵卒は働いているけれど将軍は働いていないで楽をしている、という主張ですからね。
もちろん、無能で傲慢な将軍はそういうものかもしれないけれど、有能な将軍はめちゃくちゃ働いていると考えるべきではないでしょうか?
つまり、提督は「その戦いにおける戦術を緻密に練り、艦娘たちの戦力を効果的に活かす」という仕事を行っているのです。だから、たとえ自分自身が命を晒していないにしても、そこには重い責任感があると考えるべきでしょう。
ここにあるものは、ぼくがずっと前から語っている「リーダーとフォロワーを巡る倫理の問題」です。つまり、フォロワーに指示を下すリーダーにはフォロワーに対する無限責任が存在するのか?という問題ですね。
ぼくは、この問題に対して「存在しない」という結論を出しています。ひとがだれかに対する無限責任を負おうとすることは傲慢であり、不当なのだと。
もちろん、リーダーはフォロワーに対して「一定の」責任を負っている。そして、最善を尽くしてフォロワーの能力を活かす義務をも負っている。
しかし、フォロワーの行動と存在のすべてが全面的にリーダーの責任であると考えることは、フォロワーの自我を無視する考え方であり、間違えている、という結論です。
このことについて、ペトロニウスさんは『魔法先生ネギま!』を例に出してこう書いています。
でも、僕はよく思うのですが・・・確かにリーダーや公的に責任がある立場の人には、絶大な責任があります。だってマクロを管理する立場にあるわけだから。でも、すべてを管理できるわけではない以上、やはり、どこかで線を引いて、「何をなすにも、それはフォロワーの決断」と考えなければ、それは、相手を対等に見ていないことになってしまうのではないかな?って思うのです。たくさんの情報を持つネギだって、リーダーだって、すべてを見とおせるわけではないのですから。結局は、「どうなるかわからない不確かな未来に足を踏み出している」同じ人間にすぎません。
http://ameblo.jp/petronius/entry-10056687241.html
おお、7年前の記事だよ。なつかしい。ぼくもよくこんなやり取りを憶えているよな。
それはともかく、ぼくもまさにこう思うのです。提督にしろ、艦娘にしろ、サトシにしろ、ピカチュウにしろ、つまりは「「どうなるかわからない不確かな未来に足を踏み出している」同じ人間」に過ぎないのであって、表面的な主従関係を超えて、実は対等なのだと。
なるほど、表面的にはピカチュウは戦っていて、サトシは後方で楽をしているように見える。しかし、そのとき、サトシにはピカチュウを最善の形で戦わせる責任があり、ピカチュウにはサトシに対する絶対の信頼がある。
だからこそ、『ポケモン』という物語は表面的な倫理問題を超えて多くのひとの心に波及していくのであって、決して「『ポケモン』はサトシがポケモンを虐待するだけのひどい話」などとは云えないのです。
むしろ、部下を可能な限り効果的に戦地へ送り込まなければならない将軍の苦悩は、ただひたすらに戦っていれば良い兵士の苦悩を上回ることすらあるでしょう。
最近の作品でここらへんのことを最もうまく描いているのはおがきちか『Landreaall』だと思います。このテーマの具体的な展開を知りたい方は、この漫画の第12巻から第13巻をぜひどうぞ。
そして、このテーマを最も先鋭的な形で表現しているとぼくが考えるのは、栗本薫『グイン・サーガ』第65巻の一節です。この巻で、パロの王子アルド・ナリスは、不運にも無数の部下を辺境の土地に散らせてしまったことに重い後悔を感じている黒太子スカールに向けて云い放ちます。
「私は、いま、心から、『それは、かれら自身が選んだことなのだ。だからそれについて、私がいたんだり、くやんだりするのはあまりに傲慢である』と答えることができます。――私自身もたとえ誰にさとされようとすかされようと、あるいはさまたげられようと迷うことなくおのれの信ずるままに進んできてここにいたった。そしておのれののぞみをつらぬくためにつきすすみ、そのために死んでもいいと思っている。(略)かれらがもしここに亡霊となって立ちあらわれたとしたら、かれらは何というと思います。かれらは誰もあなたを責めはしない。かれらはおのれのことを誇りに思っていないでしょうか? そしてあなたのいのちを守るため、あなたの望みをかなえるためにそのいのちをささげたことをもって『自分の生まれてきたのはこのためだったのだ』と思って死んでいったのではないのですか――あなたのために。あなたのお役にたててよかった――と。(略)」
「あなたが、かれらに命じたのではない。かれらが、あなたを選んだのだ。あなたには、選ばれたことに対する責任こそあれ、かれらの死を背負いこむ理由などありませんよ。あったとしたらそれは傲慢というものです。こういっては、傷ついているあなたにきびしすぎることばときこえるかもしれませんが。私は――私もまた、いろいろと悩みました……私の迷いを啓いてくれたのは、私がその一生をほろぼすことになった男のことばだった。私が正しい愛国者の道からひきずりおろし、闇にひきこみ、迷わせ、恋を奪い、ともに破滅することへひきずりこんだ、その男がにっこりと笑って、『あなたじゃない、私があなたを選ぶのだ』と考えるにいたったとき――私は、はじめて知りました。それでは世の中には、何かを与えてやることではなく――何かをしてもらうこと、何かを与えてもらうことによってだけ与えることのできる贈り物もあるのだなと――その贈り物の名は、《信頼》というのだと」
「あなたが、かれらに命じたのではない。かれらが、あなたを選んだのだ」。そして、世の中には「何かをしてもらうこと、何かを与えてもらうことによってだけ与えることのできる贈り物」もある。その贈り物の名は、「信頼」という。
こう考えるなら、提督と艦娘たちの関係は決して一方的な命令→服従というものではなく、責任↔信頼であることが想像できます。もちろん、作中でそこまでは描かれていないとしても、少なくともそういうふうに受け止めることはできる。
だとしたら、なぜ、提督と艦娘たちの関係が「醜い」、「気持ち悪い」ものに思えてしまうのか? それは「成人男性」という「強者」が、「未成人女性」という「弱者」を前線で戦わせて自分は戦わない、という形式に倫理的な問題を見るからでしょう。
たとえば、このツイートではこう書かれています。
特に日本のゲームやアニメ・漫画に対して感心しないのは、少年少女を戦わせてそれがさも当たり前みたいに話が進んでいくところかな。現実的に考えれば成人男性が真っ先に矢面に立って戦うのに。現実的に見たら主人公が少年少女って少年兵の話ですよ。どこの未開の地の民兵組織よ。
つまり、ここでは「成人男性が真っ先に矢面に立って戦う」ことが最も正しい、政治的問題が存在しない形式である、という意見が提出されているわけです。
この意見には成人男性こそが「強者」であり、本質的に「弱者」である「女子供」を守って戦うことこそが正しい姿なのだ、という考え方が背景にあるのでしょう。
しかし、成人男性こそ強者であり、「女子供」は弱者である、というのはほんとうにそうでしょうか? 仮に現実世界ではそうであると認めるとしても、イマジネーションの世界において、その「現実」をなぞることが最も政治的/倫理的に正しいのでしょうか?
ぼくはそうは思わない。それは結局、戦うのは男の仕事、女子供は守られていれば良いという発想であって、「固定的性役割分担にもとづく性差別」というものなのではないですか?
もちろん、日本のサブカルチャーに、成人男性が「矢面に立って」戦う物語がまったく存在しないというのなら、それは倒錯であり歪みである、という云い方はできるでしょう。
しかし、現実にはそうではない。仮面ライダーやウルトラマンの大半が成人男性であることからもわかるように、ちゃんと大人が戦っている作品もあるわけなんですよ。
何が云いたいのか? つまり、ぼくは「成人男性が戦い、女子供は守られる」という形こそが唯一の政治的に正しい形式だとは考えないということです。
それどころか、そもそも「唯一の政治的に正しい関係」なるものが存在し、その反対の「許されるべきではない間違えた関係」も存在する、という認識そのものを認めない。
そういうことじゃないと思うんですよ。逆に考えるんだ、ジョジョ、です。そう、たったひとつの「政治的に正しい」関係性が存在するのではなく、ありとあらゆる多様な倒錯的関係性が許容され、しかもそれが倒錯と認識されない状況こそが最も政治的に正しいのだと考えるべきなのです!
つまり、成人男性が少女に命令する形式があっても良いし、成人女性が少年に命令する形式があってもいい。あるいは少女が男性に命令する形式があってもかまわない。
さまざまな関係性が野放図に繁栄している状況こそが最も倫理的なのであって、あるひとつの作品、ひとつの形式、ひとつの関係性を取り上げて「これは政治的に間違えている」ということは、じっさいにはむしろ差別的言説であるかもしれない、ということです。
『艦これ』に従来の前衛男性中心的関係性からの逸脱なり倒錯が見られるとしても、それを是正しようとするべきではありません。むしろもっと広範に多角的に倒錯させるべきなのです。
そのような逸脱的主従関係を、ぼくたちはたとえば『Fate』シリーズに見て取れるでしょう。この物語では、ほとんどありとあらゆるパターンのマスター×サーヴァント関係を発見することができます(二次創作まで入れるとさらに多様。ここでこっそり自分の同人誌を宣伝しておくと、ぼくが夏コミで発売する予定の『Fate/Bloody rounds(1)』は「美少女リーダー、男性フォロワーたち」の物語です。よろしくお願いします)。
詳細は以下をどうぞ。http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar592457 いやまったく、「男性が戦い、女子供は守られる」というひとつのパターンしか許されないような社会に比べ、現代日本は何と素晴らしいのでしょうか!
『艦これ』はたしかにそれ単体を見ればひとつの倒錯した人間関係を推奨しているように見えなくもない。しかし、だからその倒錯を見直そう、ということは間違えている。
もっともっと倒錯させつづけ、ありとあらゆる倒錯があたりまえな状況を作るべきなのです。それが最もポリティカル・コレクトな結論だと思います。
だから、
そうすると、ぼくの考える美少女ポケモンもの、「男性指揮官が女性戦闘員を使役して命がけで戦わせる」「戦闘員が幼い女性だとヤバい」「恋愛感情で操ってるともっとヤバい」ってのにいちばん自覚的な作品は、『ガンスリンガー・ガール』ってことになりますねー。
ガンスリンガー・ガールは、オタが好きな少女兵士の非人道的なヤバさをドライアイスで固めてブン殴ってくるような、画期的に自覚的な作品です。2002年の時点ですでに美少女ポケモンをテーマの中核に据えたマスターピースですね。いや終盤読んでないんですが。
いや、終盤も読みましょうよ! だって、その終盤ではまさに「たとえ、表面的な関係に主従、支配と被支配といった非対称性があろうとも、それでもなお、ほんとうに対等な関係を築くことは可能である」というテーマが打ち出されているんだから!
どんな人間関係も、必然的にある種の権力関係を内包します。そこでは強者と弱者が生まれ、支配と被支配の関係が表れる。それでもなお、その限界を超えて、ひとは対等な愛と信頼の関係を築くことができる、ということが『GUNSLINGER GIRL』の、あるいは栗本薫作品の最終的な結論でありテーマでした。
たとえそれが一瞬のうたかたの幻であるに過ぎず、次の瞬間にはまた果てしない権力闘争に戻っていくしかないとしても、です。
たしかに初期の『GUNSLINGER GIRL』は「オタが好きな少女兵士の非人道的なヤバさをドライアイスで固めてブン殴ってくるような、画期的に自覚的な作品」と評価するべきだったかもしれませんが、終盤ではそれをも確信的に乗り越えていると思うんですよ。
こういう作品がちゃんと出て来るということが、この世の中の面白さであり、それを無視して「これは倫理的に間違えている!」と告発しても始まりません。ただ上から目線で告発して終わらせるのではなく、「その先」を考えていくのが読者たる者の役割ではありませんか?
ちなみにぼくはもう疲れたので(現在早朝5時……)、あえて語りませんが、『GUNSLINGER GIRL』のドラマツルギーに関する詳細な分析は、ペトロニウスさんの以下の記事をどうぞ。さらには永野護『ファイブスター物語』あたりも押さえておきたいところです。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130103/p1
そして、この分析は、昨日発売(!)の『ビッグコミックスピリッツ』で商業版連載が始まった『バーサスアンダースロー』こと『1518!』へと続いていきます。
こうやって、物語は語られ、詠われ、継がれてゆくものなのでしょう。ひとつの物語の終わりは次なる物語の始まり。そして、さらなる次の世代、次のテーマへ、ひとが、ひとを愛するということを巡る物語は続いてゆくのです。
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モーニング・ワーク――ひとつの物語の死と、新たな物語の誕生に立ち会って。
2013-11-18 13:1353pt
きょうもきょうとて『グイン・サーガ』の話ですよ。ごめんなさい、これで最後にします故。
さて、既に書いた通り、「最新刊」である第131巻『パロの暗黒』において、物語は書き手を変えました。それからしばらく経って、ぼくはいま思います。やっぱりぼくはこの巻が不満だったんだな、と。
不満、と云うと違うでしょう。主観的に見ても客観的に見ても、『パロの暗黒』はアベレージを超えた出来です。
もちろん、「栗本薫の『グイン・サーガ』そのまま」とは行かないにしろ、それはあたりまえのこと、だれが書いたとしても「栗本薫の『グイン・サーガ』」にはならないに違いない。それは太宰治や三島由紀夫の小説を蘇生させるわけにいかないのと同じことです。
それなら、何が不満なのか? そうですね――たぶん、何も不満はないのだと思います。
イシュトヴァーンが違う、ヴァレリウスが違う、と言挙げすることはできる。そして、ここに欠点がある、あそこに問題がある、と指摘してゆくこともできる。
しかし、それを云うなら第130巻までの『グイン・サーガ』だって色々と無理も欠点もあったでしょう、という話になる。まあそれはその通りなんですよ。
その上で、ぼくは新しい「五代ゆうの『グイン・サーガ』」には馴染むことができない。ああ、と思うのです。何かが違う。世界の空気が違ってしまっている、と。
とは云え、いままでの『グイン・サーガ』も大きく変わってきたことはたしかなので、それをいまさら問題視するのは間違えている。
そう――おそらく、時が来たということなのでしょう。ぼくがこの物語と別れる時が。どう考えても、五代さんに非はないのです。いや、あるのかもしれないけれど、それがいままでの栗本さんの『グイン』に比べて絶対的に大きいかというと、そんなことはない。
だから、「五代ゆうの『グイン・サーガ』」が悪いわけではまったくないのです。だけれど、ぼくはこの物語に付いていけないものを感じ取ってしまう。それはぼくの側にこそ理由があるのだということになります。
いままでも多くの読者が『グイン・サーガ』から離れて来ました。ある人は激怒とともに。またある人は怨嗟とともに。しかし、いま、物語から離れようとしているぼくに、怒りも恨みもまったくありません。
あるものは、そう、ただ、透明な哀しみ。寂しさ。ぼくはただ、物語が変わってしまったことが哀しく、寂しい。親しい友人に置き去りにされたような哀しさです。
ひとは変わってゆくものであり、物語もまたそうであり、いつかは別れて去らなければならない、とわかっていながら、それでも消えやらない愛惜。
おそらくぼくはいま、ひとつの物語の葬儀に立ち会っているのだと思います。「栗本薫の『グイン・サーガ』」という物語の葬儀に。
「五代ゆうの『グイン・サーガ』」の誕生を寿ぎ、その未来に期待をかけるひともまた多いこともよくわかる。しかし、そうは云っても、ぼくはやはり何十年にもわたって付き合ってきたひとつの物語の死が、終焉が哀しい。その世界からはじき出されてしまったことが辛い。
もちろん、もっと早く、たとえば第50巻の時点で「『グイン・サーガ』は死んだ」と云って去っていったひともいることでしょう。ある意味では、そういうひとと同じ哀しみを、ぼくはいま、感じているのかもしれない。
栗本薫が全130巻にも及ぶ『グイン・サーガ』において描き出そうとしていた最大のテーマとは、「時は過ぎ、そしてすべては変わってゆくのだ」ということでした。
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衝撃、驚愕、当惑、不安――「新しい『グイン・サーガ』」を読んでみた。
2013-11-14 07:0053pt
さて、『グイン・サーガ』の話である。さまざまな点で不世出の作家であった栗本薫の逝去から数年、いま、ついにこの作品は五代ゆうと宵野ゆめ、ふたりの作家に受け継がれ続刊刊行の運びとなった。
まずはめでたい、と云うべきか。しかし、長年、いち読者として物語を追いかけてきたぼくの内心は複雑である。
何といっても『グイン・サーガ』は栗本がただひとり連綿と綴ってきた物語だ。グイン、イシュトヴァーン、レムス、リンダ、ヴァレリウス、マリウス――いずれの登場人物も、彼女の魂の深淵から産み落とされており、余人が模倣できない無二の個性を備えている。
小説技巧の巧拙の問題ではない。上手いとか下手だといった次元を超えて、栗本は彼女にしか書けない小説を書いていた。
『グイン・サーガ』を未読の方は、たとえば荒木飛呂彦以外の作家が『ジョジョの奇妙な冒険』を描くところを想像してみてほしい。どんな練達の作家が手
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