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記事 7件
  • 星を見る少女と廃墟に立つ少年。『この世界の片隅に』と『風立ちぬ』に「世界」を見る。

    2016-11-16 04:17  
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     先日、映画『この世界の片隅に』を観て来ました。素晴らしかった。まだ未見の方はぜひ、何らかの手段を用いてこの世紀の傑作を見てほしいと思います。『シン・ゴジラ』、『君の名は。』を初めとして豊作だった今年を締めくくる一作といえるでしょう。
     そして、今年の数ある名作のなかでもベスト・オブ・ベストというべき素晴らしい出来。日本アニメの、というより日本映像文化史上の最高傑作のひとつと位置づけられるべき神がかった作品だと思います。
     原作既読のぼくは開始5分くらいで泣きそうになっていました。まあ、それは極端な例ですが、これはちょっと凄いです。
     原作も大傑作だけれど、その原作に匹敵し、あるいは上回る驚異のクオリティ。この一作を生み出したことを日本のマンガ/アニメカルチャーは永遠に誇ることができると思います。それほどの作品です。
     とまあ、賛辞を並べ立ててはみたのですが、じっさいのところ、この映画のよさを語ろうと思うとむずかしい。ぼくがこの映画から受けた感動をそのまま言葉にすることは、少なくともぼくの能力では不可能といい切ってもいいのではないかと思います。
     しかし、何も語らないこともどうかと思うので、力足らずの言葉足らずではありますが、一応、語っておきたいと思います。
     「この世界の片隅に」。印象的なタイトルのこの映画は、戦時下の広島市と呉市を舞台にしています。
     「ぼんやりした」少女・すずが幼い頃から物語が始まり、それから時代を下って、彼女の降嫁と結婚生活を描き出していくのです。
     そして、日本が経験した「戦争」が、すずの視点から描き出されます。原作でも物語がすずの視点から離れることは少ないのですが、映画はさらにすずに近く寄り添っているように思われます。
     したがって、大所高所から見た「世界」のマクロ的な構造はここではまったく描かれません。描かれるものは、巧まざるユーモアに満ちたすずの穏やかな日常、ただそれだけです。
     「穏やか」という表現は戦争中の日常に似合わないかもしれません。じっさい、すずの生活のなかにはしばしば戦争の猛威が忍び寄ります。
     しかし、それでもなお、彼女はどこまでも「普通」であろうとし、そしてじっさいに「普通」でありつづけるのです。クライマックスにおいて、決定的な悲劇が襲いかかってくるその時までは。
     これは、戦争という巨大な「暴力」を含む「世界」と、その「片隅」に生を受けた「ひとりの少女」の対決の物語です。
     見終わってすぐ、ぼくは宮崎駿監督の『風立ちぬ』を思い浮かべました。『この世界の片隅に』は『風立ちぬ』とちょうど対になっている映画だと感じたのです。
     というのも、ぼくには『風立ちぬ』は「暴力に満ちた世界の「中心」で、加害者の立場に立たされることになった男性(少年)の物語」であり、『この世界の片隅に』は「その世界の「片隅」で、被害者の立場に立たされることになった女性(少女)の物語」であるように思えたからです。
     迂遠ないい方になったかもしれませんが、ぼくは前者が「加害者の物語」であり、後者が「被害者の物語」であるとは完全にいい切れないとは思います。
     ただ、かれらがそれぞれ加害者として、被害者として見られることは事実でしょう。そして、政治的、あるいは批評的、思想的にはその差異が重要であるのかもしれません。
     しかし、ぼくはそこにあえて意味を見いだそうとは思いません。かれらはかれらなりにひとりの人間として「この世界」と対峙したのであり、その望みの通りに生きたのです。
     その生きざまが心を打つかどうか? それが映画のすべてであり、そしてぼくはいずれの作品にもつよく打たれました。その生き方が道義的に正しいかどうかということは二次的なことです。
     とはいえ、『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎は主体的(アクティヴ)に行動し、自分の運命を決めていきます。かれが最後にたどり着いた「廃墟」は、かれ自身が選んだ人生の結果であるといえます。
     もちろん、だれしも完全に人生をコントロールすることはできない以上、かれもまた「世界」に満ちた暴力に巻き込まれたひとりであるということはできるでしょうが、そうはいってもかれは可能な限り「自己決定」したという意味で、「世界の中心」を生き抜いたということができると思います。
     対して、すずはどうか。彼女の生き方は、堀越二郎と比べるまでもなく、一貫して受動的(パッシヴ)に見えます。
     彼女は親が決めた人物と結婚し、その家でいくらか悪意のある行為を受けても抵抗せず、また、戦争という巨大な暴力に逆らおうともしません。
     それは、あの当時の多くの女性たちと同じ姿ではあるのでしょうが、そういう意味で、すずはまったく「普通」の女性です。
     あえていうなら絵を描く才能が秀でているということもできるでしょうが、それにしても「世界」を変えるような性質のものではありません。
     暴風のように「世界」のなかを荒れ狂う戦争という「暴力」に対し、彼女はどこまでも無力であるように見えます。この映画を、戦争によって多くのものを奪われた女性の悲劇として見ることも可能でしょう。
     ところが――ところが、そうではないのです。すずは「世界の片隅」で、「暴力」と戦い、そして、負けません。
     「世界」はさまざまな方法で彼女に襲いかかり、その圧倒的な力でもって「片隅」の少女を押しつぶそうとしたのですが、それでも彼女は屈しないのです。
     『この世界の片隅に』はすずの「戦い」の物語です。すずのまわりにある「過酷で残酷な世界」はすずの内面にある「完璧な世界」を打ち砕こうと幾度も幾度も押し寄せますが、決してそうすることはできません。
     それほどにすずは「強い」。そう、彼女は恐ろしく揺らぎません。彼女は外の世界で起こるあらゆることを受け止め、受け容れていきます。
     その意味ですずは、たとえば『コードギアス』のルルーシュのように「世界は間違えている」と叫んだり、『少女革命ウテナ』のウテナのように「世界を革命する力」を求めたりはしません。
     彼女はどこまでも世界に対し受動的なのです。彼女は作中、一度も世界を変えることを求めて「世界の中心」に躍り上がろうとはしません。
     彼女の居場所はどこまでも「世界の片隅」。そういう意味では、これはきわめて地味なドラマです。ですが、これがきわめて感動的なのですね。
     ぼくはすずの姿を見ていて、池澤夏樹『スティル・ライフ』の有名な冒頭を思い出します。

     この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
     世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
     きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
     でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
     大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
     たとえば、星を見るとかして。
     二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
     水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
     星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
     星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。

     すずはまさに「呼応と調和がうまくいっている」人間です。つまり、先ほど述べたように、彼女の内面にある「広大な薄明の世界」は「完璧に調った状態」にあるといってもいいでしょう。
     彼女は「完璧な世界」を内側に持っていて、「(外の)世界との呼応と調和」を達成しているが故に、あえて「(外の)世界を革命する」必要がないのです。彼女にとって世界は完璧な場所なのですから。
     おそらく、ほかのどんな時代に生まれてもそうだったでしょう。しかし、彼女の内なる世界がどれほど完璧にできあがっていようと、外なる世界には嵐が吹き荒れている。
     したがって、 
  • 『シン・ゴジラ』が単なる愛国ポルノではありえない理由を『風立ちぬ』を通して説明する。

    2016-08-16 03:48  
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     ふと思い立って、もういちど宮崎駿監督の『風立ちぬ』を見ています。『シン・ゴジラ』を見た後だと、この作品の歴史的意義がよくわかる気がしますね。この映画に関しては、ペトロニウスさんがこう書いています。

     これが、何を表しているかといえば、宮崎駿が、
     今の時代は少年を主人公にする物語が描けなくなった
     といっていたことです。ようは、良かれと思い善意溢れる努力を突き進むと、それがどうしてもマクロ的にコントロールできなくなり、世界を全体主義や戦争へ突入させて滅びに結びついてしまう。そうした構造が見えている中で、男の子的な少年の夢を成就させる、自己実現させる方法が宮崎駿には見いだせなくなったのだと思うのです。
     そうして、少女ばかりが主人公になっていくことになります。
     未来を夢見て生きる(=少年の夢)ではなく、現在の日常を楽しむ視線に変化したことを指しているのだろうと思います。このあたりは、
  • 『風立ちぬ』再考。堀越二郎はほんとうに冷血の天才なのか。

    2016-06-09 21:21  
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     瀬名秀明の『瀬名秀明ロボット学論集』と並行して、杉田俊作『宮崎駿論』を読んでいる。何度目かの再読である。
     宮崎駿の漫画や映画を題材にした批評書は何冊も出ているが、この本は際立って面白い。
     宮崎駿の過去の全作品を素材に、表現論、自然論、さらには宮崎駿その人の人物論に至るまで、縦横に語りつくしている。
     興味深いのが、宮崎監督の(いまのところの)最新/最終作である『風立ちぬ』への評価だ。この本にはこう記されている。

     ひたすら戦闘機を作っては失敗し、作っては墜ち、炎上した。そして夢の飛行機の制作にようやく成功しても、何の達成感も喜びもなかった。目の前には、あたり一面、夢の残骸と廃墟が広がっている。人生を賭した夢は、ついに誰をも生かさなかった。国民も、家族も、愛する人も、そして自分すらも。
     『風立ちぬ』は、そんな映画に思えた。
     
     (中略)
     堀越二郎の、あの、無表情な顔。あれ
  • 愛が理想をくじくとき。『まどマギ』と『風立ちぬ』の相違点について。

    2015-03-19 02:04  
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     一般に、男性作家は男性に都合のいい話を描き、女性作家は女性に都合のいい話を描くものです。あたりまえといえば、あたりまえのこと。
     もちろん、より公正な視点から物語を綴る作家もいるでしょうが、高尚な文学作品はしらず、通常のエンターテインメントではどうにもそういうふうになりがちなのではないでしょうか。
     たとえば宮﨑駿が監督した映画『風立ちぬ』などは、とても男性に都合のいい話だったと思います。 人物も世界も、すべてが男性主人公の「少年の夢」の輝きを照らしだすために存在しているような印象があった。
     ぼくはそのご都合主義的な開き直りが嫌いではありませんが、ふと、女性の目にはどう見えるのだろうと感じることもあります。
     非常にスタンダードな「男のロマン」の物語であるように見えるだけに、あるいは女性から見たらなんと身勝手な、と思えるのではないでしょうか。
     とはいえ、ぼくは男なのでやはり「男のロマン」の物語を好ましく感じます。 ある天才的な主人公が、大人になってなお、少年時代の夢を純粋に追い求めつづける――そういう「少年の夢」の物語がとても好きです。
     それは、まさに『風立ちぬ』がそうであったように、現実世界の理屈と衝突してときに血まみれの夢と化すことでしょう。 しかし、そうであればあるほどその純粋さは際立つわけです。
     『風立ちぬ』のほかには、漫画『プラネテス』のウェルナー・ロックスミスあたりがそういうキャラクターにあたるでしょうか。
     人道をも倫理をも汚辱してなお、自らの夢をどこまでも追いかけつづけるという奇怪な類型。 ぼくはそこにとても美しい、あえていうなら人間的なものを見るのです。
     『ジョジョの奇妙な冒険 スティール・ボール・ラン』のリンゴォ・ロードアゲインもそういう「男の美学」を体現したキャラクターでした。
     そういう態度そのものが、一面から見れば呪われたものであると理解してなお、ぼくはやはり「少年の夢」に強く惹かれます。 ある意味では男性のエゴイズムでしかないのかもしれませんが。
     それとは違うものの、「すがりつく女性を振りほどいて、ひとり死地へ向かう」というのも「男のロマン」のひとつのパターンですね。 『あしたのジョー』がこれに近いし、司馬遼太郎の『燃えよ剣』などもこのパターンに入るのではないでしょうか。
     最近の作品では、『ファイブスター物語』のダグラス・カイエンとミース・シルバーの物語がまさにこれそのままでしたね。
     男という生き物は、どうも死にロマンを見いだす「死にたがり」の傾向があるようで、美しく死にたいという欲望はかなり普遍的なものであるようにも思えます。
     ダグラス・カイエンはすがりつくミース・シルバーを気絶させ、騎士としての大義のため、ひとり邪悪な魔導師ボスヤスフォートとの決戦へと向かいます。 男の目から見ると非常に格好良く見えるのですが、あるいは女性から見ると違う風に見えるかもしれません。
     永野護は男性作家のわりには妙に女性心理に理解が深い作家だと思いますが、ここではあくまで「男のロマン」を優先させた描写をしています。
     おそらく女性読者には不評だったかもしれないと思うわけなのですが、まあ、『ファイブスター物語』全体がそうやって男性の夢をロマンティックに描いている傾向はありますね。だからこそ好きなのかもしれません。
     しかし、あたりまえのことですが女性には女性の想いがあって、それはそれでものすごい重みを持っているわけです。 ところが、いままでの「男のロマン」の物語では、女性の役割は脇役というか、あえていうなら添え物に留まってしまうことが常でした。
     ぼくはそこに微妙に不満があって、「ひとり死を決意した男を翻意させる方法はないのだろうか?」ということをずっと考えていました。
     個人的にこの文脈で革命的だったのが『神様のりんご』(『どんちゃんがきゅ~』)というゲーム。 ここでは、まさに「少年の夢」の完遂のため、すべてを捨て去ることを決意した男に対し、少女が死に物狂いで抵抗します。
     そこには「少年の夢」に匹敵する「少女の想い」が、「男のロマン」に対抗しうる「女のパトス」が描かれていたように感じられて、ぼくはとても好きな作品なのですが、まあ、どマイナーなのであまり詳しく語ることはやめておきましょう。
     で、もうひとつ、この文脈で革新的に感じられたのが、『魔法少女まどか☆マギカ』です。 
  • ヒューマニズムの臨界と自然世界のルール。

    2014-06-27 20:50  
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     ひとつ前の記事の続き。さて、しばらく前に映画『風立ちぬ』が販売開始されました。もういちど見返したいのですが、なかなかレンタルが空かないので観れません。
     購入して観ても良いのですが、そこは貧乏暮らしの身、安く済ませられるものなら済ませたいという思いがあります。
     で、同時期に、この『風立ちぬ』の制作現場を追ったドキュメンタリー『夢と狂気の王国』も発売されています。この2本を合わせて見ると非常に面白いので、オススメです。
     まあ、『夢と狂気の王国』のほうは比較的発見しづらいかもしれませんが、それでも観る価値あり!の傑作ですので、ぜひ探してみてください。
     前の記事の続きなのになぜ『風立ちぬ』の話かといえば、まあ、宮崎駿の作品が描くものが、現実の世界って、人間の作り出した色々な理屈はあまり通用しないよね、という話に繋がっていくからなんですけれども。
     どこから話をしようかな。昨日書いたように、そもそもこの世界は人間にとって非常に不都合なシステムで成り立っています。ひとは死ぬし、努力は報われないし、愛は通じないし、資源は不足するし、まあ、ろくなものではないといえるでしょう。
     その意味では正しくリアルはクソゲーなのです。この、非情な「自然世界のルール」のことをぼくは「グランド・ルール」と呼んだりします。
     グランド・ルールを変えることはひとにはできません。まあ、人間にとって都合の良いように部分的に改善(あくまで人間から見てそうだ、ということですよ)してゆくことがせいぜいです。
     そう、人間はそもそも「自然世界」のなかではほとんど生きていけません。あるいは少なくとも繁栄することはできません。だから、人間は「自然世界」のなかに「人間社会」を作り出そうとします。
     この「人間社会」のなかでは、比較的ひとは死ににくく、努力は報われやすく、愛は通じやすく、資源は管理されやすいということになります。
     「人間社会」は当然ながら人間にとって都合が良い場なのですね。人間が生み出した人間のルール、すなわちヒューマニズムが通用しやすい優しい場であるといってもいいでしょう。
     愛は素晴らしいとか、平和は尊いとか、ひとの命は重いといったヒューマニズムは、この「人間社会」のなかではそれなりに正しく、また気高い理念だといえますが、「自然世界」ではまったく通用しません。
     何度もいいますが、「自然世界」は本質的に人間に合わせて作られていないからです。よって「人間社会」の支配領域をどんどん拡大し、最終的には「自然世界」を支配してしまおう、あらゆるものを管理し尽くそう!というのが、つまりは「近代の夢」というものだったと思うのです。
     そして、近代主義者(モダニスト)である宮崎駿は、この「近代という名の壮大な夢」の魅力をこれでもかと描いていきます。それはあるときは『風の谷のナウシカ』の墓所となり、またあるときは『天空の城ラピュタ』のラピュタ城となるわけです。
     しかし、そうやって近代化を推し進めていってもなお、やっぱりほんとうは「人間社会のルール」は「自然世界のルール」に包摂されているんですよね。
     その証拠にどんなに高度に洗練された都市空間においても、やはりひとは死ぬし、偶然の死や破滅は避けられません。グランド・ルールはどこまで行っても絶対なのです。
     ひとが生きることはグランド・ルールを前にこうべを垂れることです。「この世界の偶然性」、つまりこの世界はほんとうは無意味で、偶然がすべてを支配していて、人間の努力や成長と結果との因果関係など存在しないということを受け入れる、あるいは少なくともそれと折り合いをつけることが、ひとの「成熟」というものだと思います。
     『グイン・サーガ』のアルド・ナリスは「なぜわたしはこのように生まれてきたのだ!」と悩み、世界に向けてその問いを突きつけましたが、最後には「自然世界のルール」を受け入れて死んでいきました。
     かれは死に際してついに人間として成熟したのです。ちなみにこれはまさに近代の悩みで、ナリスは『グイン・サーガ』でグインその人を除くと唯一の近代人だったのだと思う。
     また一方で、この近代と科学(サイエンス)を信奉する人々に、アーサー・C・クラークやJ・P・ホーガンなどのSF作家の系譜があります。
     現代でいえば、グレッグ・イーガンですね。イーガンは 
  • 『風立ちぬ』問題。あるいは『劇場版魔法少女まどか☆マギカ』は蛇足だったのか。

    2014-03-31 11:44  
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     昔、「『3月のライオン』の差別構造と物語の限界。」と題して、以下のような内容の記事を書きました。

     ああ、長い夜だった。というわけで、昨日の夜、かんでさんとLDさんで「物語」の問題について話しあったわけですよ。予想外に盛りあがり、また収穫のある内容となったので、この日記で報告しておきたいと思います。
     そもそもの発端はかんでさんの『3月のライオン』批判です。
    http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1754961239&owner_id=276715
     ぼくが考えるにその批判の要点は以下の二点、
    1.作中のいじめの描写が甘い。ひなたはいじめにあいながら「壊れて」いない。これはいじめの実相を表現しきれていないのではないか。
    2.作中では作劇の都合上、いじめっこ側の権利が狭められている。本来、いじめっこ側にも相応の権利があるはずなのだが、それが描写されていない。
     であったと思います。
     これに対して、ぼくは作品を擁護する立場から、以下のように反論しました。
    「たしかに『3月のライオン』は現実を「狭めて」描いているけれど、そもそも物語とはすべて現実を「狭めて」描くものだということがいえるわけです。そこに物語の限界を見ることは正しい。正しいけれど、それが物語の力の源泉でもある。なぜなら、ある人物をほかの人物から切り離し、フォーカスし、その人物の人生があたかも特別に重要なものであるかのように錯覚させることがすなわち物語の力だからです。だから作家が物語を語るとき、どこまで語るかという問題は常に付きまとう。」
     つまり、ぼくはかんでさんが指摘する『3月のライオン』の問題点は、ひとつ『3月のライオン』だけの問題点ではなく、「物語」というものすべてに共通する問題点だといいたかったわけです。
     で、ここから三者会談(笑)に入るわけですが、話しあってみると、ぼくとLDさんはともに「物語」を好きで、擁護したいという立場に立っていることがわかりました。しかし、LDさんは同時に「物語」には「残酷さ」が伴うともいう。
     ぼくなりにLDさんの言葉を翻訳すると、それはある「視点」で世界を切り取る残酷さなのだと思います。つまり、「物語」とはある現実をただそのままに描くものではない。そうではなく、ひとつの「視点」を設定し、その「視点」から見える景色だけを描くものである、ということ。
     『3月のライオン』でいえば、主に主人公である桐山くんやひなたちゃんの「視点」から物語は描かれるわけです。そうしてぼくたちは、「視点人物」である桐山くんたちに「共感」してゆく。この「視点人物」への「共感」、そこからひきおこされる感動こそが、「物語」の力だといえます。
     しかし、そこには当然、その「視点」からは見えない景色というものが存在するはずです。たとえば、『3月のライオン』のばあいでは、ひなちゃんの正義がクローズアップされる一方で、ひなちゃんをいじめた側の正義、また彼女の話を頭からきこうとしない教師の正義は描写されない。
     これはようするにひとりひとりにそれぞれの正義が存在するという現実を歪め、あるひとつの正義(それは作者自身の正義なのかもしれない)をクローズアップしてそれが唯一の正義であるかのように錯覚させる、ある種のアジテーションであるに過ぎないのではないか。これがかんでさんの批判の本質だと思います。
     LDさんはその批判を受け止めたうえで、その「物語のもつ限界」を「物語の残酷さ」と表現しているわけです。つまり、「物語」とはどこまで行っても「歪んだレンズ」なのであって、世界の真実をそのままに描くものではない、ということはいえるでしょう。
     とはいえ、「世界の真実を比較的そのままに描く物語」というものも存在しえるかもしれません。話のなかでは、それは「芸術」といわれていましたが、ここでは「リアリズム」と呼びたいと思います。
     つまり、俗に「物語」と呼ばれているもののなかには、「世界の真実を比較的歪めずそのままに描くもの=リアリズム」と、「世界の真実をある視点から歪めて読者の共感を誘うもの=物語(エンターテインメント)」が存在するということができます。
     そしてかんでさんは「リアリズム」寄りの立場から、ぼくとLDさんは「物語(エンターテインメント)」よりの立場から話をしました。しかし、もちろん両者とも完全にそれぞれの立場にわかれているわけではありません。ある程度たがいの立場を察し、理解しあうことはできるのです。
     そこで、ぼくは「物語」の「あやうさ」を指摘しました。われわれ日本人には、じっさいにある「物語」に先導され、挙国一致体制で「物語」に殉じた記憶があります。先の大戦がそれです。
     そのとき、「天皇は偉大だ」とか「日本人は優れた民族である」といった「日本人の視点」によって切り取られた「日本の物語」が日本一国を支配したのでした。その物語にともに熱狂しない人間は「非国民」とされ、排斥されました。これこそまさに「物語」がもつあやうさです。
     「物語」はひとを扇動し、熱狂させますが、だからこそひとを非理性的なところへ連れていってしまうのです。「物語」にはひとつの「正義」だけを唯一の正解のように見せてしまう「力」があるのです。
     歪んだレンズを通せば歪んだ世界が見える道理なのですが、その歪んだ世界を真実の世界と錯覚してしまうかもしれないところに「物語」のおそろしさはある。
     しかし、同時に、そうとわかってなお、ぼくやLDさんは「物語」が好きであるわけです。その「歪んだレンズ」に映しだされるふしぎな景色に、それが残酷であり危険であるとしりながらも驚嘆せずにはいられないのです。
     ここらへんは非常に微妙な話になるのですが、世界は「物語」の押し付け合いによってできているという側面があります。たとえばアメリカにはアメリカの「物語」があり、アラブ諸国にはアラブ諸国の「物語」があるように、複数の「視点」があれば複数の「物語」が存在しているものなのです。

     ぼくがここで云いたかったのは、物語、あるいは少なくともエンターテインメントとは人間の認知能力の限界を反映したものだということです。
     もしあらゆる事象をあらゆる側面から同時に知ることができる全知の存在がいるとすれば、かれは物語を必要としないでしょう。ひとは自分の視点からしか世界を見ることができないために、物語を必要とするのです。
     つまり、ひとは神ではなく、物語という娯楽にはその限界が濃厚に反映されているということです。物語とはある視点から世界を切り取り、その視点に感情移入させ、感情を高揚させる方法論です。
     これはあきらかにアジテーションの方法論であって、倫理的に考えるならあきらかに問題があります。
     じっさい、さまざまなエンターテインメントは過去、集団を動員するためのアジテーションとして利用されてきた。いまでもハリウッドや中国あたりの映画などは、右寄りにせよ左寄りにせよ、製作者の政治思想を主張するために利用されている一面があるでしょう。
     つまりは物語の性質上、「比較的中立」の作品はありえるかもしれないにせよ、「完全に中立」なものでは決してありえないのです。
     まして、エンターテインメントとは、いかにひとを熱狂的に一方向に駆動させるかで評価が分かれる表現です。
     あるエンターテインメント作品が「面白い」とは、ひとをより感情的にさせ、理性的判断を麻痺させているに等しい、と云ったら、乱暴な断言と云われるでしょうか。しかし、そういう一面はあるはず。ただインテリジェントなだけでは、十分に面白いエンターテインメントとは云えない。
     そのように考えていくと、LDさんの云う「エンターテインメントの残酷さ」の正体がわかって来ます。あえて云うなら、エンターテインメントとは、人類の倫理的欠陥を象徴するものなのです。
     人間は本質的には倫理的にできていない。エンターテインメントについて考えていくと、その事実が浮き彫りになる気がします。
     どういうことか。ここで思い返してもらいたいのは「差別」の問題です。究極的な倫理を考えるなら、一切のひとを差別することなく平等に扱うことが「倫理的に正しい」ことでしょう。
     しかし、それは人間にはできないのですね。自分の視点から見て、より親しいひとにはより共感を覚え、より遠いひとにはあいまいな感情しか感じない――それが人間の当然の実相です。
     たとえば、ぼくたちの多くは家族が亡くなったら哀しみを感じる。その一方で、遠いアフリカの地の子供たちの死には何の痛痒も感じない。これは差別ではないでしょうか? ぼくは差別だと思う。
     ぼくが「ひとが差別から無縁ではいられない」と云うのは、そういう意味です。もしぼくたちがアフリカの子供たちに自分の家族と同程度の共感を得られるなら、アフリカの問題は既に解決されているかもしれません。その問題とはぼくたちの差別心が表面化した問題と云えなくもないわけです。
     それがあまりにも極端な例だと思われるのなら、べつの例を挙げましょう。ぼくたち日本人は3月11日になると、東日本大震災の犠牲者たちについて思いを馳せます。
     もちろんひとによって程度は違うでしょうが、ある程度は何かしらのことを考えるというひとが大勢を占めるのではないでしょうか。
     もし、「東日本大震災の犠牲者? しょせん他人ごとだからおれは知らないよ」と云ったら、「なんてひどい奴だ!」とバッシングされることは間違いないでしょう。
     ですが、考えてみれば、世界中至るところで悲劇は常時起きているわけです。なぜ、東日本大震災の死者のことは悼むのに、スマトラ沖地震の犠牲者のことは悼まないのか? ニュージーランドの地震の死者はいいのか?
     こう考えていくと、結局、ぼくたちは「日本人」と「外国人」で線を引き、差別しているという事実に気づかざるをえない。
     かつてTHE YELLOW MONKEYは「乗客に日本人はいませんでした」というフレーズに非難のトーンを込めて歌いましたが、じっさい、大半の日本人にとって、「同じ日本人」の動向のほうが、遠い外国の悲劇より、ずっと興味をそそられるものであるに違いありません。
     逆に云えば、遠い外国で起こっている限り、どんな悲惨な、残酷な、悪夢のような事件も、「大変だねえ」と他人ごとのように云ってスルーできるということ。これが差別でなくて何でしょう。
     倫理的に考えればあきらかに正しくない態度です。しかし――そう、それでは、ひとが取りうる最も倫理的な態度とはどういうものかと云えば、常に、世界中のあらゆる死者のことを嘆いていかなければならない、ということになりますよね。
     「世界にひとりでも不幸なものがいるかぎり、自分も幸せではない」という、ある意味で仏教的とも云える態度ということになるでしょう。これは宮沢賢治や金子みすゞの態度です。
     かれらはその天才的とも云える共感能力によって、ありとあらゆる存在の苦悩を感じ取ることができました。それが人間はおろか、あらゆる生物や、無生物にすら及ぶことはご存知のとおり。
     しかし、それはひととして不可能な態度と云うしかない。じっさい、金子みすゞなどは26歳にして自殺して亡くなりました。
     そのように突き詰めて考えていくと、物語というかエンターテインメントそのものが、人間の非倫理性を反映した「倫理的に正しくない」ものなのではないかというところに行き着かざるを得ません。
     さらにその考え方を先鋭化させていくと、最終的には「人間否定」に行き着きます。人間の不完全さそのものが戦争や差別やあらゆる問題の根源である、というのですね。
     この境地に到達した作家として、ぼくが思い浮かぶのが山本弘です。かれの最高傑作とされる(自分でそう云っていた)『アイの物語』は、人間に対する絶望に満ちています。
     この物語で描かれるのは、人類の衰退と、マシン(自立型ロボット)との世代交代です。ここで山本さんは、人間の愛の不完全さ、その差別性を俎上に上げ、それを超越した「完全な愛」を持った存在としてマシンを登場させています。少なくともぼくはそう解釈しました。
     ひとは上記のような理由で差別的にしかだれかを愛することができませんが、マシンは非差別的に愛することができるということのです。
     その愛が具体的にどのようなものなのか、それは作中で描かれていないので、よくわからないのですが、とにかく山本さんは「そういう愛は、人間には不可能だが、理論的には存在しえる」という立場に立っているようです。ぼくは理論的にも不可能だと思うのだけれど……。
     ともかく、長年、生まじめに人間の愚かしさと向き合ってきた山本さんが、このような「人間否定」の境地にたどり着いたことはよくわかります。
     この物語の結末において、人類は衰退し、最終的には滅亡していくであろうことが示唆されています。ぼくは山本さんは「愚かしい人間より、機械のほうが優れている」と云っているのだと解釈するしかありませんでした。何という絶望でしょうか。
     『ヴィンランド・サガ』でも、覇王クヌートはひとの愛が差別でしかありえないことを嘆いていましたが、まさに同じ理由で、山本弘は人間存在を否定するのです。
     「アイの物語」というタイトルもそう考えるとなかなか趣深い。結局のところ、物語とは愛であり、愛とは物語なのではないでしょうか? 愛も物語も、ともに神ならぬ人間存在の限界を示す概念であり、そして「人間らしさ」そのものです。
     だから、「物語とはある視点から世界を限定的に切り取るものであり、人間の差別精神そのものである」ということが云えると思うわけです。
     それでは、どうすればいいのか。開きなおって「物語は初めからそういうものなのだから、一切、政治的な配力はしなくても良い」と云ってしまうのか。
     しかし、そこまで割り切れるひとはなかなかいない。そこで、作中にエクスキューズを仕込むという手が良く使われます。
     たとえば、アメリカの正義を訴える戦争映画のなかに、「戦争の悲惨さ」の描写を入れておく。そうすると、「ああ、この映画は戦争の悲惨さを訴える視点をちゃんと確保しているのだな。決して戦争を礼賛した映画ではないのだな」と視聴者は安心し、よりシンプルに映画に入り込むことができる。
     つまりは、作品に複数の視点を用意することによって、ひとつの視点からのみ描き込まれることのヤバさを軽減させているのです。
     そういうエクスキューズのある作品が物語として上等である、という考え方はあるでしょう。たとえば、戦争反対の思想を織り込んだ戦争映画は上等だが、「戦争最高! アメリカ万歳! ヒャッハー!」というだけの作品は下等である、と。
     ある意味では納得できる考え方です。物語をそのテーマ性によって判断しているわけですね。しかし、それってくだらなくないか?ともぼくは思うのです。
     そもそも、テーマによって映画の良し悪しが測られるなら、初めから映画など作る意味がない。そのテーマだけを語っていれば良い。少なくともエンターテインメントを志すならそういうことになります。
     どう云いつくろおうと、エンターテインメントの醍醐味は観客の感情を昂らせるところにあるのだから、その「エンターテインメントとしての強度」を無視してテーマ性だけを語ることは本末転倒であるように思える。
     これはたとえば「反原発の思想にもとづいているから良いメッセージソングだ」といった価値観にもひそむ矛盾です。どんなに正しい、偉い思想にもとづいていても、くだらない曲はくだらない。そうではありませんか?
     つまりは、ぼくは思想は思想、エンターテインメントとしての強度は強度で分けて考えるべきだと思うのです。もっとも、ここらへんはむずかしい。それなら、エンターテインメントとしての強度があれば、どんなに思想的に歪んだ作品でも受け容れられるかというと、たしかに悩んでしまう一面はあります。
     ぼくは受け容れられると思うのだけれど、無条件にそうか、と云われると必ずしもそうは云えないかもしれない。悩ましいところですね。
     最近の作品で、巧みなエクスキューズを用意したことで好評を得た作品と云うと、『魔法少女まどか☆マギカ』の劇場版が思い浮かびます。この映画は、テレビシリーズにおいては残されていたある倫理的問題にみごとにエクスキューズを付けました。
     即ち、「まどかの行為の暴力性に対し、製作者サイドは無自覚なのではないか?」という批判に対し、「ちゃんと自覚しているよ」と答えてみせたわけです。
     作中、暁美ほむらはある意味で非倫理的な、邪悪と云ってもいい行動に出ますが、それはあきらかな「悪」として描写されているため、視聴者は不安になりません。ここに倫理的問題は存在しない、悪は悪として描かれている、というふうに考えるのです。
     しかし、ある意味で、この映画そのものが単なるエクスキューズに過ぎなかった、蛇足である、という意見は成り立つでしょう(ペトロニウスさんあたりはこの立場に立つのかも)。
     なぜ、いちいち「倫理的いい訳」を用意しなければならないのか? 口うるさい視聴者から「より倫理的に正しい」と認めてもらうことがそんなに大切なのか? ぼくとしてはそう考えなくもない。
     近頃、その倫理的問題がクローズアップされた作品に、宮﨑駿監督の『風立ちぬ』があります。『風立ちぬ』は、 
  • 宮崎駿最新作『風立ちぬ』は、血まみれの夢を追う若者の恋と天才のものがたり。(2091文字)

    2013-07-21 00:58  
    53pt



     「風立ちぬ、いざ生きめやも」。
     ひとはいつから飛ぶことを夢みてきたのだろう。鳥のように自由に翔けたいという一途な想いは、数しれない失敗を経て飛行機へいたる。鳥より速く、高く、青空を飛翔する美しい機械。
     しかし人々はさらに速く、さらに高くと望み、そうしていつしか飛行機は殺戮の化身と化した。空戦の時代!
     宮崎駿監督の最新作『風立ちぬ』は、第二次世界大戦前夜を舞台に伝説の飛行機「ゼロ戦」を生み出した青年、堀越二郎の半生を描いた傑作映画である。
     実在の堀越については何も知らない。劇中の二郎は颯爽とした若者だ。弱者に優しく強者にへつらわず、つねに凛然とし、飛行機の翼の形ばかり考えている男。機械好きの少年が、そのまま歳をとって大人になったような好人物。
     だが、そんな二郎が生み出す飛行機たちはやがて戦争の道具となり、ひとを殺してゆく。かれの夢はどこまでも血まみれだ。それでもなお、二郎は知力のかぎりを尽くして設計を続ける。その頭脳から次つぎと生み出されてくる翼! 胴体! コックピット!
     二郎の才能は疑いようがない。しかし、その天才のなんと呪われていることか。二郎が生み出した機体に数かずの前途ゆたかな若者たちが乗り込み、そして二度とは帰って来なかった。
     二郎自身、映画のクライマックスで「一機も帰って来なかった」と呟く。かれが飛行機にかけた夢がどれほどの青少年の人生を断ち切ったことか。
     たしかに二郎もまた戦争に翻弄されたひとりではある。だが、ひとことで「戦争の犠牲者」とはいいきれない。かれもこの世に地獄を生み出したひとりでもあるのだから。
     くり返す。ぼくは実在の堀越二郎について何も知らない。しかし、映画のなかの二郎は戦争をすら利用し、己の夢の飛行機を生み出したエゴイストともみえる。
     その戦争の酸鼻を、映画は決して描かない。映画のなかで飛行機はあくまでも美しく、その描きだす流線は自然美の結晶とも思える。
     この映画は暗黒の現実に幻想のふたをして、ひとりの男の夢の人生を描いている。そのふたの下にあるものは地獄だ。戦争の地獄、人類自身が生み出した地獄だ。だが、映画はその悽愴の一切を封印し、飛行機にかけた「少年」の夢だけを追いかけてゆくのである。
     欺瞞、とみるひともいるだろう。反戦の名のもと二郎の人生に反感を抱く向きもあるかもしれない。
     たしかに二郎は戦争に翻弄されたばかりではなく、戦争を活用したひとりだ。いまだ日本は貧しく、戦争がなければ二郎の飛行機は飛ばなかったかもしれないのだから。
     飛行機は美しい。しかし、その飛行機が行う虐殺は悪夢そのもの。その絶望的な矛盾にひき裂かれながら、二郎は設計をやめない。それがかれにできる唯一のことだというように。
     こう書くといかにも波瀾万丈の話のようだが、物語は必ずしもドラマティックに盛り上がっていかない。宮崎はここであえてドラマティックであることを禁じているようにすら思える。
     この作品はむしろストイックにひき締まっている。ただひとりの青年の恋と天才とが、淡々と綴られてゆくばかり。
     恋。そう、劇中、二郎はある少女と恋をする。菜穂子。白い帽子をかむり、大きなパラソルのした、キャンパスに向かっている娘。あるとき出逢い、また再会した二郎と菜穂子は、情熱的に愛しあう。
     菜穂子は当時としては不治の病だった結核にかかっていた。しかし、病すらふたりを離すことはできない。不毛の恋は二郎をより鋭くし、その天才をいっそう磨きあげる。
     メロドラマといえばその通り。飛行機狂の青年と結核の少女とは、あまりに古風な取り合わせである。ただ、この場合、その古めかしさがなんとも心地よい。
     どこまでも美しく描き込まれた在りし日の日本を背景に、リリカルにセンチメンタルに物語は綴られてゆく。二郎は菜穂子を愛するあまり、病身の彼女を傍におく。
     どこまでが愛で、どこからがエゴなのか、だれにわかるだろう。その愛。その執着。ふたりの行き止まりの恋は切なく胸に迫る。
     また、この映画には「死の翼アルバトロス」や『風の谷のナウシカ』や『紅の豚』、そのほかの作品につらなるイメージがしばしば顔をみせる。それはなんらかの集大成というより、ここからすべてが始まっていったのだと思わせる。
     クライマックスで二郎とドイツの技術者カプローニがたたずむ「夢の王国」とは、宮崎駿そのひとの心の原風景でもあるに違いない。
     風立ちぬ。いざ生きめやも。