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  • 映画『ビリギャル』は「「努力しない人間がダメなのだ」というディストピア的「努力主義」」とは真逆の快作だ。

    2015-05-11 00:31  
    51pt

     有村架純主演の映画『ビリギャル』を見て来た。
     結論から書くと、実に素晴らしかった。今年のベストを争う出来。
     まあ、そもそも今年はあまり映画を見ていないから偉そうなことはいえないのだけれど、それにしても実に爽快な映画体験だった。
     花丸をつけてあげよう。うりうり。
     この映画の原作は皆さんご存知のベストセラー、『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』。
     ぼくは未読なのでその内容についてはなんともいえないのだが、映画の骨子がこの本を元にしていることは間違いない。
     しかし、映画はあくまで原作からは独立した一本の映画として成立するよう絶妙な工夫が凝らされている。
     できすぎた話といえばそれまでなのだが、映画はとはいかにそのできすぎた話をリアリティをもって描けるかであると考えるぼくにとっては、最高の一本だった。
     じっさい、この作品の世間的な評価は非常に高い。
     Yahoo!の映画サイトでは平均点が5点満点中4.46点と怒涛の高評価だし、各種映画サイトでも絶賛されている。
     しかし、ヒットしているだけに批判も少なくないようだ。
     それ自体はしかたないことだが、その内容がどうにも納得が行かないものが多い。
     個人的には『STAND BY ME ドラえもん』のとき以来の納得いかなさ。
     たとえば、「映画 ビリギャル」で検索すると、公式サイトの次の次に来るのがこの記事だ。
    http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20150508-00045523/
     そこには、こう書かれている。

     「ビリギャル」がヒットする日本社会の一面として、いまだに6人に1人にのぼる子どもの貧困が日本を蝕んでいることには無自覚でありつづけ、「貧困は自己責任」「学歴も自己責任」「努力しない人間がダメなのだ」というディストピア的「努力主義」の根強さがあるのだと思います。

     一見するともっともな指摘であるように見える。
     映画を見ていない人に対しては説得力があるだろう。
     しかし、映画を見終わったあとだと、「なぜそうなる?」としか思えない。
     そもそもこの箇所を読むだけではこの指摘が原作に対してなのか映画に対してなのかわからないのだが、この記事全体が「いま有村架純さん主演の映画「ビリギャル」がヒットして」いるという記述から始まっていることを考えると、やはり映画についても語っていると考えるべきだろう。
     そして、原作に対してはともかく、映画に対する指摘としては、これは端的に間違えている。
     特に解釈が分かれるような問題ですらない。
     映画全体を通して、「努力しない人間がダメなのだ」と考える主人公の父親や教師が「間違えた価値観のもち主」として描写されていることはあきらかだからである。
     特に有村架純演じる主人公さやかを見下し、クズだといい切る教師などあからさまな悪役で、まさに「ディストピア的「努力主義」」を象徴するキャラクターである。
     さやかはそういった「ディストピア的「努力主義」」に対し強い反骨心を抱くからこそ、自分でもやればできるところを見せようと努力を始めるのだ。
     彼女の努力は自発的なものであり、だれにも強いられていない。
     そしてまた、ここには「努力する人間だけが尊い」とするような価値観はまったく見て取れない。
     もちろん、いろいろな事情はあったとはいえ中高一貫の私立校に入学し、その後毎日のように塾に通い、慶応大学に入学するさやかは貧困家庭の子供と比べて「恵まれた環境」にいることはたしかだろう。
     しかし、ひとはだれだってより恵まれない環境にいる人物と比べれば恵まれた環境にいるのだ。
     論理的に考えれば最も恵まれない環境にいるのは死者であり、そうである以上、生きている人間はすべて恵まれていることになる。
     しかし、だから個人の努力などたいしたことではないといってしまうのなら、それこそ「ディストピア的」な発想というしかない。
     どんな「恵まれた」環境にいたとしても、個人の努力は努力として認められ尊重されるべきである。
     もちろん、それは「だから努力しない人間には価値がないのだ」などという話ではない。
     あたりまえのことではないか?
     この映画ではほとんど努力しようとしない人間や、努力しても失敗してしまう人間も描かれている。
     決して努力しさえすれば必ず成功するという話ではない。
     そして、そもそもぼくにはさやかがそこまで極端に「恵まれている」ようには思えないのだ。
     彼女は実の父親からクズ扱いされており、その父親との軋轢が彼女を動かすひとつのモチベーションとなっている。
     また、周囲も必ずしもさやかに対して甘くはない。
     もちろん、「もっと辛い環境にいる人もいる」ことはたしかだが、だからさやかの苦しみが取るに足らないものだとはいえない。
     もしいうのだとすれば、それこそひとの苦しみを簡単に比較して一方を軽く見る愚を犯していることになる。
     さやかの父親や教師が悪役的に描かれているとするなら、シナリオ上、その対局にいるのがさやかの母ああちゃんである。
     ああちゃんはどこまでもさやかを受け容れ、見守り、その意思を尊重しつづける。
     映画の全編を通して彼女は一度も「勉強しろ」とはいわない。
     むしろ「辛いのならやめてもいい」、「成功するかどうかは問題ではない」という意味のことをいう。
     そして、さやかが学校でどんなに問題を起こしても「この子はほんとうにいい子なんです」と切々と語りつづけるのだ。
     彼女の姿勢のどこを切り取っても「ディストピア的「努力主義」」は見あたらない。
     むしろ、その対極にある価値観としか思われない。
     そこにはただ無条件に娘を愛し、尊重し、その可能性を信じる母の姿があるばかりである。
     いったいこの映画のどこを見たら「「ビリギャル」がヒットする日本社会の一面」が見て取れるのか、ふしぎなほどだ。
     また、この記事ではこうも書かれている。

    「ダメな人間などいない」ということに本当の意味で共感するのなら、「駅前トイレで寝泊まりするトリプルワークの女子高生らの貧困を深刻化させ格差拡大し経済成長損なう安倍政権」「自販機の裏で暖を取り眠る子ども、車上生活のすえ座席でミイラ化し消えた子どもたちの声が届かない日本社会」を改善するために「子どもの貧困」を根絶することにも共感を寄せて欲しいと思います。

     たしかにその通りではあるが、でも、なぜこの作品に限り特にこう述べる必要があるのかわからない。
     この種の理屈が成り立つなら、どんな映画を見るときでもいつも恵まれない貧しい子供たちのことを思い浮かべるべきだということになってしまうだろう。
     『ローマの休日』などしょせん恵まれた連中の他愛ない恋愛話ではないか?
     『スター・ウォーズ』も社会の貧困層を丹念に描いていないという問題を抱えているのでは?
     これもごくあたりまえのことだが、何もすべての映画が子供の貧困をテーマにしていなくても良いし、すべての観客が常に子供の貧困について考えこみつづける必要もないのである。
     もちろん、子供の貧困は喫緊の課題であるのだろうし、それに多くの人が関心を持つことは必要なことなのだろう。
     しかし、だからといって内容的にまったく関係がない映画を取り上げてあげつらわなければならない理由はない。
     いや、本文中に映画そのものの感想がなく、ただほかのサイトの感想を引用しているだけであり、映画の内容については確定を避けるような書き方をしているところを見ると、この書き手はそもそも映画を見てはいないのだろう。
     おそらく原作は読んでいて、「きっと映画も原作と同じような内容だろう」と考えてこの記事をアップしたのではないか。
     個人的には、なぜ、映画を一見してから書くことができなかったのかと思う。
     あるいは、映画のことは話題に挙げないようにすれば良かっただろう。
     しかし、じっさいにはそのいずれでもなく、より映画の内容を軽視した記事となってしまっている。
     ここには映画に対するあからさまなあなどりがある。
     この記事や、そのほかの映画『ビリギャル』に対する的外れに思える批判を見ていてわかるのは、ただ「映画を取り巻くもの」だけを見て映画を見ず、見たつもりになっている人間がたくさんいるという事実だ。
     その種の人は「映画を取り巻くもの」、たとえば映画の原作や、宣伝や、モデルだけを見て映画を判断し、映画そのものは見ない。
     仮に見たとしても偏見を通してしか見ないので見ていないのと同じになる。
     そこにあるものは、さやかのまわりの大人たちが、さやかの外見だけを見て先入観を抱くのとまったく同じ構図である。
     ぼくはそういう姿勢は好きではない。
     上記の記事の書き手もそうなのかもしれないが、そもそも映画を自分の目的のために利用することしか考えていない人物には強い反感を抱く。
     たしかに子供の貧困問題の解決は重大な問題なのだろうが、だからといってその高邁な目的のためには一本の映画の内容などどうでもいいということにはならない。
     どっちも大切に決まっている。
     ただ、こういう人は大勢いるらしいことも事実である。
     かれらにとっては社会をいかに改革するかのほうが一本の映画より重たいことは自明の事実なのかもしれない。
     そうだとしたら、ぼくはそういう姿勢に反発しつづけるだろう。
     ひとを偏見で見てはいけないように、映画のことも先入観で判断してはいけない。
     「映画を映画以外の価値で裁くことなかれ」。
     ぼくはこの原則を「海燕の十戒」の第一として掲げ、きびしく守っていくつもりだ。
     映画は映画として優れていることが第一である。それ以外のどんな偉大な目的のためにも踏みにじられてはならない。
     ぼくは、そう信じている。