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記事 2件
  • 日常系四コマは百合エロ漫画の夢を見るか?

    2016-05-04 12:08  
    50pt

     タチさんの百合四コマ漫画『桜Trick』を読んでいます。
     最近、我ながら良く読むなーと思うくらい色々と漫画を読んでいるのですが、当然、そのなかには傑作もあり、凡作もあります。
     で、この『桜Trick』はその中間くらい、悪くいえばそこそこ、良くいえばなかなかの作品だと思います。
     いや、ほんと、あまりたくさん読みすぎるのも一作への真摯さが欠けてくるのでどうかとは思うのだけれど、まあ、読まないとブログのネタがなくなるからね……。
     で、『桜Trick』。これはいわゆる無菌系四コマ(ほとんど一切男性が出てこない、女の子だけの楽園を描く四コマ漫画)とジャンル百合漫画の中間くらいにある作品ですね。
     無菌系のようでもあり、ピュアな百合漫画のようでもあるという、折衷的な一作といっていいかと思います。
     あるいは無菌系から百合に至るプロセスを象徴する作品であるのかもしれない。
     無菌系とは「男子を見たくない!」、「恋愛のライバルになる存在を物語に出してほしくない!」というところから生まれ、流行した作品群だと思います。
     ただ、そうやって男の子を物語から追放したその結果、女の子同士で恋愛することになってしまい(笑)、最近の無菌系ではわりと百合百合している作品が多いようです(最初期の『あずまんが大王』ですでにその傾向はありましたが)。
     ほかの男に女の子を奪われることは耐えられなくても、女の子同士で恋愛しているところは耐えられる、むしろ歓迎する、というところでしょうか。かってなものですね……。
     いずれにしろ、無菌系は男性の存在とともに、生々しい「性」の匂いを排除した作品たちでした。
     まあ、無菌系の女の子たちは同人誌ではそれはそれはえろえろな目に遭っているわけですが、それはあくまでアンダーグラウンドの話。
     表面的には無菌系はあくまでも無菌の清潔状態を保っていたはずなのです。
     ところが、『桜Trick』は思い切り「性」の匂いをただよわせています。
     女の子同士でキスするわ、するわ。ほとんど毎日エッチしている新婚夫婦か何かのよう(笑)。
     いやー、エッチいなあ。ここには、無菌系から追放されたはずの「肉体」があるんですよね。
     ただし、女の子同士での関係しか許されないことは何も変わってはいないわけですが。
     ちなみにペトロニウスさんとLDさんは、「日常-無菌系の果てに現れた微エロ作品」というふうにこの作品を定義しているようです。
     ちょっと「物語三昧」から引用してみましょう。

     あんまり、仕事が忙しくて、せっぱつまっているので、LDさんに苦しいよーーーって愚痴を言っていたら、『桜Trick』は癒されます(断言)といわれたので、見てみたら、、、、、びっくりです。
     ・・・・・・・これエロっ、、、って。
     いやぁーーーすっごいスイッチはいちゃいますよ、これ。。。。って、、、見ていたら、いや、なんか癒されるのと違くないか?って思ってしまって、、、、もちろん癒されるけど・・・・。
     これ日常系とか無菌系じゃないんじゃないか?
     って、思ったんですよね。ってでもよく考えてみれば、そもそも定義がしっかりしていないので、これが日常系や無菌系じゃないっていう理由もないんですよね。4コマによる時間の停止や、日常フレームアップ、関係性特化型、男性視点の主観欠如などなど、どう考えても、これまでの日常-無菌系の系列です。けど、この系統の『けいおん』とか『あずまんが大王』、『ゆゆ式』(ちなみに『ゆゆ式』、この系統の頂点の作品だと思っていますので、アニメを見ましょう!!)とか思いだしても、これを見ながら、Hなことって思いいたったことが全くないんですよね。あっ、Hな同人誌は、死ぬほど出てるけどねーこれらの作品。でも関係性特化型は、当然その延長線上を考えるので、そういう妄想が広がるのは当然だと思うんですよね。でも、オリジナルの部分で、そういうの感じたり考えて見てたってことなかったので、『桜Trick』あまりのエロさに、びっくりしてしまったのです(笑)。←初心です。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20141015/p2

     まあ、そうなのです。『桜Trick』が日常系の枠内に入るかどうかは、じっさい微妙なところだと思う。
     もちろん、従来の日常系の文脈を満たしてはいるのだけれど、そこに「性」と「肉体」の要素が入ることによって、何か別物に見えてきているのもたしかなのです。
     とはいえ、これは必然的に出てくるべき作品ではあったでしょう。
     「性」の要素はほんとうは物語内から追放されたというより隠蔽されていただけなので(だから同人誌では18禁ネタにされる)、いつかは浮上してくるのが当然といえば当然。
     いまのところ、女の子同士の関係という限定された形でしか浮上していないけれど、理論的には男性×女性の微エロ日常系作品というものもありえるはず。
     ただ、男子が絡んじゃうと、どう考えてもキスだけじゃ終わらなくなってしまい、「平和な日常」が崩壊しかねない上に、「ネトラレのタブー」にひっかかっちゃうので、なかなかむずかしくはあるんだろうけれど。
     でも、 
  • ウェブ小説にオリジナリティはあるか。

    2016-04-03 13:20  
    50pt

     ペトロニウスさんの最新記事が例によって面白いです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160402/p1
     長い記事なので、いちいち引用したりはしませんが、つまりはウェブ小説は多様性がないからダメだ!という意見に対する反論ですね。
     ペトロニウスさんは「OS」と「アプリ」という表現で事態を説明しようとしています。
     つまり、物語作品には「物語のオペレーションシステム」ともいうべき根本的なパターンがある一方で、その「OS」を利用した「物語のアプリケーション」に相当する作品がある。
     そして、新たに「OS」を作り出すような作品は少なく、「アプリ」にあたる作品は数多い、ということだと思います。
     この場合、「OS」にあたるパターンを作り出した作品は「偉大なる元祖」と呼ばれることになります。
     ペトロニウスさんはトールキンの『指輪物語』やラヴクラフトの神話体系がそれにあたるとしているようですが、ほかにも、たとえば本格ミステリにおけるエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイル、モダンホラーにおけるスティーヴン・キング、SFにおけるH・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌといった存在が「OSクリエイター」にあたるでしょう。
     オタク系でいえば『機動戦士ガンダム』は「リアルロボットもの」というジャンルを作りましたし、『魔法使いサリー』は「魔法少女もの」の嚆矢となっています。
     最近の作品ではVRデスゲームものにおける『ソードアート・オンライン』、日常系萌え四コマにおける『あずまんが大王』などはまさにOS的な作品ということができるでしょう。
     これらの作品のあとには、まさに無数のアプリ的な作品が続いているわけです。
     こういった「OSクリエイター」はまさにあるジャンルそのものを作り上げた天才たちであり、その存在は歴史上に燦然と輝くものがあります。
     しかし、逆にいえば、このレベルの業績はそう簡単に挙げられるものではない。
     ある種の天才と幸運と時代状況がそろって初めて「ジャンルを作り出す」という偉業が成し遂げられることになるわけです。
     また、こういった「OS的作品」にしても、100%完全なオリジナルというわけではない。それ以前の作品にいくらかは影響を受けているわけです。
     さかのぼれるまでさかのぼれば、それこそ聖書や神話といったところに行きつくことでしょう。
     その意味では、この世に新しい物語とかオリジナルな作品は存在しない、ということができると思います。
     つまりは単に「OS的な作品」はその存在の巨大さによって模倣される割合が相対的に高いというだけのことなのです。
     ある意味では、それ以上さかのぼれない「究極のOS」は人類文明発祥時期の古代にのみ存在し、それ以降のOSは「OS的なアプリ」に過ぎないといういい方もできるでしょう。
     あるいは、神話や聖書の物語こそが「究極の一次創作」なのであって、それ以降の作品はすべて二次創作的なポジションにあるといえるかもしれません。
     いや、おそらくはこのいい方も正確ではないでしょう。
     ようするに人間が考えること、あるいは少なくとも人間が快楽を感じる物語類型は似たり寄ったりだということです。
     古代の作品、たとえば『イリアス』がオリジナルのOSであるように感じられるのは、たまたまその発表時期が古いからであって、必ずしものちの作品が直接に『イリアス』を模倣しているわけではありません。
     人間は放っておけば似たようなことを考え出し、発表するものなのです。
     ただ、何かしらOSにあたる作品があればそれは模倣され、「影響の連鎖」がより見えやすくなるというだけです。
     もちろん、OSとアプリの差はわずかなもので、アプリにあたる作品もまた模倣されます。
     神話のような原始的な物語を一次創作とし、OSにあたる作品を二次創作、アプリにあたる作品を三次創作とするなら、それをさらに模倣した作品は四次創作とか五次創作と呼ばれるべきでしょう。
     具体的な例を挙げるなら、謎解き物語の嚆矢であるところの『オイディプス王』を一次創作とするなら、そこから近代的な本格ミステリを生み出したポーの「モルグ街の殺人」は二次創作、それを模倣した本格ミステリの作品群、たとえばアガサ・クリスティやエラリー・クイーンの作品は三次創作、そこから影響を受けた日本の新本格は四次創作、それを破壊しようとした若手作家による「脱本格」は五次創作、ということになるでしょうか。
     まあ、じっさいにはこれほどわかりやすく「×次」と名づけることができないのは当然のことです。これはすべてあえていうなら、ということになります。
     こういった「模倣の連鎖」が良いことなのか? もっとオリジナリティを重視するべきではないのか? そういう意見もありえるでしょうが、それはほとんど意味がありません。
     こういう「影響と模倣の系譜」をこそひとは「文化」と呼ぶからです。
     ある意味では地上のすべての創作作品がこの「影響と模倣の一大地図」のどこかに位置を占めているということになります。
     その意味では純粋なオリジナルとは幻想であり、新しい作品などこの世にありません。
     オーソン・スコット・カードの「無伴奏ソナタ」ではありませんが、比類を絶した天才を人類文明とまったく無縁のところに閉じ込めて一から創作させたなら、あるいはまったく新しいOS的作品を生み出すことができるでしょうか。
     いいえ、決してそんなことにはならないでしょう。
     なぜなら、先にも述べたように、人間は放っておけば似たような物語を生み出すからです。
     いい換えるなら、人間の脳こそが「究極のOS」なのであって、そこから生み出される物語は神話であれ聖書であれ、アプリにしか過ぎないということになります。
     たとえば『ドラゴンクエスト』は多くの模倣作品を生み出したという意味で「OS的作品」であるといえます。
     しかし、『ドラクエ』が究極のOSなのかといえばそんなことはなく、それもたとえば『Wizardly』やスペンサーの『妖精の女王』といった先行作品の影響を受けているのです。
     その意味では、オリジナルかどうかを問うことにはまったく意味がない。どんな作品もどこかしら他作品の影響を受けているに違いないのですから。
     シェイクスピアが同時代のほかの作家の作品を模倣して新作を生み出していたことは有名です。
     偉大なシェイクスピアですらそうなのですから、この世に新しいOSなどありようもないということはできるでしょう。
     ただ、だからといってオリジナルさになんの価値もないかといえば、そんなことはないでしょう。
     ペトロニウスさんが書いているように、ようは程度問題なのです。
     完全なオリジナルなどというものがありえるはずもないけれど、だからといって一字一句までコピペしただけの作品が許されるわけでもない。
     ある程度はコピーであることを受け入れた上で、何かしらのオリジナルさを追求することが、現実的な意味での創作活動ということになるでしょう。
     それでは、その「オリジナルさ」とは何か。
     これは、『ヱヴァ』の庵野秀明監督が20年前に答えを出しています。すなわち、「その人がその人であること」そのものがオリジナルなのだと。
     『新世紀エヴァンゲリオン』は『ウルトラマン』や『ガンダム』、『マジンガーZ』、『宇宙戦艦ヤマト』といった先行作品の模倣にあふれた作品です。
     その意味で、まったく新しくないアニメだとはいえる。
     しかし、同時に『エヴァ』ほど個性的な作品はめったにないことでしょう。
     さまざまな設定やシチュエーションが先行作品からのコピーであるからこそ、庵野監督独自の個性がひき立つのです。
     これについては、『東のエデン』の神山健二監督が述べていたことが思い出されます。
     神山監督は、既に押井守監督による傑作劇場映画が存在する『攻殻機動隊』というコンテンツをテレビアニメ化するというオファーを受けたときに、あえて押井監督と同じものを目指したのだそうです。
     普通、クリエイターならまったくだれも見たことがない『攻殻』を、と考えることでしょう。
     しかし、神山さんは意識して先行作品を模倣した。その結果として、逆に押井さんと違うところ、つまり神山さんだけの個性が浮かび上がったというのです。
     この話はきわめて示唆的です。
     つまり、同じようなシチュエーションを活用したとしても、まったく個性がない作品が出て来るとは限らないということ。
     むしろ、才能あるクリエイターであれば、同じようなシチュエーションを設定すればするほど、その人だけの個性が浮かび上がるものだということです。
     これは、同じようなシチュエーションを多用するジャンルフィクションがなぜ面白いのか、という問いへのアンサーでもあります。
     ある前提条件を徹底してコピーすればするほど、作品のオリジナリティは際立つ。少なくとも才能ある作家ならそうなるのです。
     美術史では聖書や神話など同じ題材を使用した作品が多数あります。
     ですが、同じ題材を使っていてもクリムトとピカソではまったく表現が違う。
     むしろ同じ題材を使うからこそわかりやすくその差異が際立つわけです。
     これが「ジャンル」というもの、「文化」というものの面白さです。
     しかし、それならば、なぜ「ウェブ小説はオリジナリティに欠けている」といった批判が寄せられるのか。