-
裁きより赦しを。正しさより優しさを。
2015-08-03 03:2251pt
『ヴィンランド・サガ』がここに来て面白い。
覇王クヌートとの和解を描いた第13巻以降、いまひとつ緊迫感に欠ける展開が続いていたと思うのだけれど、ついに新展開、新天地を目ざすトルフィンたちにさまざまな苦難が襲いかかる。
そのなかでも主軸となるのは「復讐」の話である。
かつて殺人鬼としてたくさんの人を殺めてきたトルフィンが復讐者と出逢う。
正義は彼女にあり、しかし黙って殺されるわけにはいかない。その矛盾した状況での葛藤が興味深い。
テーマがテーマだけに当然ながら重々しい展開になるのだけれど、それも含めての『ヴィンランド・サガ』である。今後の物語に期待したい。
それにしても、こういう状況になると、ぼくがどんな物語を求めているのかわかる気がする。
ぼくは物語に「正しいこと」を求めてはいない。
大上段にかまえて何かしらの正義を押しつけてほしいと思っているわけではないのだ。
むしろ、物語そのものが何らかの矛盾に引き裂かれ、身もだえしながらなんとか「答え」を産み落とそうとしているとき、初めてその作品を面白いと感じる気がする。
初めからわかりきっている「正解」を押し付けてくるだけの物語はつまり「お説教」である。
それは偉いお説教かもしれないが、上から目線であることを免れない。
ぼくはそういうものを読んでいて面白いとは思わない。
つまり、一般論としての「正しいお説教」は退屈なのだ。
そうではなく、その作者自身が自分の実感として信じている「答え」を見せてほしいと思う。
それがたとえ、一般論として「間違えている」といわれかねないものであるとしてもである。
たとえば、異性の描き方などに作家の「偏見」が表れることはよくあることだ。
あまりに保守的に描きすぎてしまったり、その反対に非現実的なまでに奔放だったり。
しかし、ぼくはそれでもいいのではないかと思うのだ。
作者の抱いている偏見が表に出るのは、その作家が自分を隠そうとしていないからである。
そもそも創作を手がけさえしなければその作家の偏見は一切だれにも知られることもなかったはずなのだ。
それなのに、あえて自分の偏見を晒して世に問おうという人物は勇気があるとぼくは思う。
それを無条件に「正しい」読者の立場から非難することは容易である。
だが、あなたは自分自身が一切の「偏見」に汚れていない、まったくの無謬であるといい切ることができるだろうか。
そうでないとすれば、その作家に石を投げる前に躊躇を感じてほしいところだ。
べつだん、 -
『ヴィンランド・サガ』、トルフィンの無抵抗宣言はかれを無残な死に追いやるしかない。(1960文字)
2013-08-26 11:2553pt
以下、今月号の『ヴィンランド・サガ』のネタバレを含みます。ご注意。
さて、今月号の『アフタヌーン』における『ヴィンランド・サガ』では、ついに大いなる夢に目覚めた主人公トルフィンが一方的に殴られつづけるも、無抵抗で耐え、周囲の男たちから「本物の戦士」として認められるという展開が描かれます。
先月号で見たときから予想していましたが、やっぱりそういう展開になるんだなあ、という感じですね。
でも、これ、無理があるんじゃないか、という思いをどうしてもぬぐい去ることができません。
いや、いくらなんでも100発も殴られつづけたら死ぬか倒れるかするでしょう。
いくらトルフィンに殴られる技術があると云っても、限界がある。100発続けて殴られてもまだ意識を残しているって、それはもうある種の怪物ですよ。
これまできわめて盛り上がっていただけに、急に物語のリアリティがなくなってしまった印象は消せません。
ただ、これはもう、必然だと思うんですよね。トルフィンは「もうこれ以上だれひとり傷つけない」「自分には敵などひとりもいない」と誓ったわけで、つまりあらゆる攻撃方法を自ら封印したことになる。
となると、ひたすら無抵抗で殴られつづけるしか採れる手段がない。
その上でなお、「本物の戦士」の力を示すためには100発とか続けて殴られることに耐えられることを示すよりほかない。
まあ、ロジカルにできている展開ではあります。
でも、やっぱりこれは無理ですよね。どう考えても無理でしょう。こんなやり方を続けていたら、どこかで殺されて終わるはず。
ガンジーの非暴力運動が意味を持ちえたのはそれが20世紀だったからで、あの時代に非暴力を貫こうとしたらだれかにあっさり殺されておしまい、ではないでしょうか。
このトルフィンの気高い理想と無力な行動の落差は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の葉山が、だれも傷つけない解決方法しか採れないためにじっさいには何もできないことと似ています。
もちろん、このトルフィンの態度は戦争を起こし、人々を殺しながらも理想を実現させていこうとするクヌート王の姿勢と対比されています。
それは『プラネテス』で、ハチマキとウェルナー・ロックスミスが対比されていたのと同じことでしょう。
どうやら幸村誠さんはこのような形で「理想」と「現実」を対比させる作家であるようです。
しかしはやはりぼくはこの描写に無理を感じてしまうのです。「愛しあうことだけはやめられないんだ」というハチマキの宣言がいかにも空虚に響いたように、トルフィンの行動にはどうしようもなく痛々しさがある。
いや、無理でしょ、これ。これが通るのだったらだれも苦労はしないわけで、通らないから暴力が必要になってくるわけです。
1 / 1