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記事 280件
  • 『タイタニア』のアリアバートとジュスランは田中芳樹によるキャラクター造形の最高傑作である。

    2020-09-18 14:12  
    50pt



     文芸業界でよく使用され、最近はだいぶシニカルに語られるようになったクリシェ(決まり文句)に「人間が描けている」というものがある。
     反対に「人間が描けていない」という形で使われることも多くあり、これはミステリ界隈などで批判的に使用されてはさまざまな議論を巻き起こして来た。
     おそらくまあ、「人物がリアルな人間のように迫力と実感をともなって浮かび上がって来る/来ない」という程度の意味だと思う。
     で、それと近く微妙に異なる意味の言葉に「キャラクター」がある。Wikipediaによるとこんな意味だ。

    「キャラクター(語源:character)は、小説、漫画、映画、アニメ、コンピュータゲーム、 広告などのフィクションに登場する人物や動物など、あるいはそれら登場人物の性格や性質のこと。また、その特徴を通じて、読者、視聴者、消費者に一定のイメージを与え、かつ、商品や企業などに対する誘引効果
  • 作家・山本弘と「協調優位の論理」。

    2020-05-14 14:13  
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     今週のニコ生は作家の山本弘さんのことについて語ろうかなあと思っています。
     ぼくは長年、山本弘の批判的ウォッチャーをやっていまして、非常に興味深い人だなあと思っているのですが、その面白さをどう伝えたら良いのかは迷うところがあります。
     ぼくの目から見ると、ある種の反面教師というか、「なるほど、こう考えるとこういう結論になるのか」というひとつの見本みたいなところがある人なんですけれど、はたしてそこをうまく伝えられるものかどうか。まあ、とにかく、試してみることにしましょう。
     それにしても、作家・山本弘の本を追いかけて、何十年になるでしょうね。いちばん最初に読んだのは同名ゲームのノベライズでもある(じっさいには小説のほうが先なのかもしれないけれど)『サイバーナイト ドキュメント・戦士たちの肖像』だろうから、おそらく30年は過ぎているはずです。
     少年時代のぼくは山本さんの作品を心から楽しんでいました。たぶんぼくが初めて読んだ本格的なSF小説は、山本さんの作品だっただろうと思います。
     以来、『時の果てのフェブラリー』、『神は沈黙せず』、『詩羽のいる街』などのフィクションはもちろん、ノンフィクションまで欠かさず読んで来たのですが、しだいにかれの主張のあまりの「くさみ」にうんざりするようになってしまい、ここ最近の作品は読んでいません。
     「くさみ」とは何かというと、ぼくの言葉を使うなら、かれの思想の独善性です。「懐疑主義者」を自任する山本さんは、その実、自分の正しさを信じて疑わないように見えます。というか、そのようにしか見えないんですよね。
     かれの価値観はぼくにはかなり偏ったものであるように見えるのですが、かれはそれが唯一の自明の真理であるかのように思い込んでいる、ように見えます。
     もちろん、ぼくたち人間は、多かれ少なかれ、自分の正しさを信じているものです。一切、正しさを信じていなければ、そもそも何ひとつ意味があることをいえなくなるでしょう。だから、それそのものは問題ではない。
     しかし、それが盲目的な信仰といえる次元ならべつです。山本さんは、非常に口汚く他人を罵る。嘲る。攻撃する。しかし、それにもかかわらず、かれのなかに自分が悪いことをしているという後ろめたさはかけらほどもないらしいのです。
     もちろん、インターネット時代のいま、そういう人は大勢います。むしろ、対立者と話をするときもいちいち丁寧な言葉遣いを心がける人のほうが少ないかもしれません。
     また、口調が丁寧だからといって、話の内容が正しいことにもならないし、その逆もいえるでしょう。それはたしか。ですが、それでもなお、ぼくには山本さんの話の「くさみ」はやはり特別いやらしく感じられてならないのです。
     それはたぶん、ぼくがかつて山本の作品の全面的なファンであり、いまでもその一部を高く評価しているからでしょう。自分の好きな作品の作者にはみな高潔な人物であってほしい。そんな子供じみた不可能な願いを、ぼくはいまでもわずかに残しているわけです。
     で、まあ、この文章は、ぼくのその思いが決定的に打ち砕かれ、ぼくが山本さんに決定的に絶望するまでの記録だといえます。ぼくはもう、山本さんに何ひとつ期待しません。
     かれは自分で作った独善の檻のなかに座り込んで、あい変わらず他者の愚かしさ(かれの目には他者はつねに愚かしく見えるようです)に腹を立てながら生きて、そして死んでいくのでしょう。
     かれが「自分とは違う考え方もあるのかもしれない」と考えることは、永遠にないでしょう。ぼくはそれを残念には思いますが、同時にしかたないことだとも感じます。結局、そういう人はそういう人なのです。
     いくら30年間愛読してきた読者とはいえ、他人の人格を変えることはできません。もし、ぼくが人を変えることができると思うのなら、それこそ傲慢そのものでしょう。
     また、ぼくが山本さんに対して抱く不満は、かってに抱いているものです。「可愛さ余って憎さ百倍」とはよくいったもので、だれかの「ファン」を自任する人物が、その人物の「アンチ」に姿を変えるのは、よくあることです。
     これは、かってにその人に幻想を抱き、そしてそれが破れて失望するところから来ているのでしょう。このパターンは幻想を抱いたほうにも問題があるのに、その責任を一方的に相手に取らせようとするわけで、あまりよろしくないと思います。
     だから、なるべく「すべてはしかたないことだ」という諦念を持って、かれを「告発」しましょう。
     そもそも、他者の人格なんて、ほんとうはよくわからないものです。その人がアウトプットしたものから、推測に推測を重ねて、「きっとこう考えているのだろう」と考えているに過ぎない。
     そんな不たしかなものを根拠に人を批判したり告発しようなど、本来は不遜かつ不可能な行為であるはずですが、ぼくは今回、あえてそれをやります。
     この文章は、ぼくが過去20年間にわたって折に触れて書いて来た山本弘という人物の「印象論」の総括ということになります。あくまで印象論であり、かれの人格について推測している箇所も多いので、すべてがロジカルだとはいえません。
     あるいはすべてぼくの勘繰りに過ぎないかもしれない。以下はそのことを承知の上で読んでいただきたいものです。
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  • 戦慄の疫病文学十選! メジャーどころは外して選んでみた。

    2020-04-14 22:59  
    50pt
     どもども。世界的なパンデミックが二十世紀、あるいはさらに旧き時代の悪夢をよみがえらせるいま、このとき、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
     ぼくはというと、この機会を良いことに、あらゆる作業をサボって眠ったり、眠ったり、眠ったりしています。まあ、寝る以外は何もしていませんね!
     まあ、さすがにそれではどうかとぼくに残された最後の勤労意欲がゴーストよろしく囁くので、記事を書きたいと思います。今月に入ってもう半月が経つんですねー。速いですね(他人事のよーに)。
     で、今回の記事の趣旨ですが、「疫病文学十選」ということで、お話させていただきたいところ。
     疫病文学とは! さまざまな疫病を主題、ないし背景とした文学作品のことです。まあ、いま、ぼくがテキトーに名づけたんですが。
     疫病を扱った文学作品というと、カミュの『ペスト』、ポーの「赤死病の仮面」などが有名ですが、あえて! 今回はその手の有名

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  • 『十二国記』の新刊を手に入れたぞ!

    2019-10-12 12:45  
    50pt
     まえの記事の「引き」をとりあえず捨て置いて話し始めますが、今年最大といわれる台風19号が近づくなか、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
     ぼくは朝からさっそく書店へ赴き、『十二国記』の最新刊を購入して来ました。ふっふっふ。いまから読むぞ!
     もし電子書籍でも刊行してくれていればこのあらしのただなか、王を求める麒麟よろしく歩き回らなくても良かったのだけれど、まあ、それはしかたない。小野さんのような究めつきに精緻な文章を書かれる方が電子書籍を避ける気持ちもわからなくはありません。
     とにかくシリーズ最新作『白銀の墟 玄の月』、第一巻と第二巻の入手には成功したので、現代エンターテインメントの最高傑作の一つを熟読、味読、耽読したいと思います。ああ、倖せ。
     田中芳樹『創竜伝(14)』も手に入れてあるので、こちらも併せて読みましょう。ひさしぶりに言葉に耽る歓びを味わえそうです。ほんとうに倖せ。
     
  • 批評の言葉が足りない!

    2019-10-03 08:22  
    51pt
     てれびんが観に行くということで、いっしょに付いていって『銀河英雄伝説』の劇場版「星乱」の第一章を観て来ました。内容は、まあ、ようするにただの『銀英伝』です(笑)。良くも悪くも。
     テレビシリーズ全12話の続編なんですよね。ぼくはテレビシリーズは途中までしか観ていなかったのでいまさらながらあらためてびっくりしたんだけれど、テレビシリーズでは1クールかけて原作の第1巻が終わっていないんですね。
     第1巻のクライマックスであるアムリッツァ星域会戦にすら至っていない。劇場版で初めてアムリッツァが描写されるんですよ。
     これはまた、このご時世で悠長というか、非常に気の長い話で、この調子で行くといったいこの先はどうなるのかよくわからない。たぶん劇場版三部作のラストで第2巻のラストまで行くのかなと思いますが、それすらたしかではありません。
     こんなスピードではたして原作をすべて消化できるのか、それとも初めからそのつもりはなくて、途中で終わる予定なのか、微妙な感じですね。
     まあ、物語そのものはすでにマンガやアニメで何度となく語られているものをそのままなぞっているに過ぎないから、途中で終わるならそれはそれでまたまったくかまわない話であるとも思います。
     劇場で見ると戦闘シーンなどは映像的に非常に迫力があって、なおかつやはりものすごく情報量の多い完成されたシナリオなのだなということを再確認できるのですが、あえて悪く見るなら特に斬新さもない「いつもの『銀英伝』」でしかないともいうことができるので、影響的には好きな人が観に行くくらいに留まるでしょう。
     非常に出来は良いんですけれどね。もし原作を未読という人がいたらぜひ観てほしいのですが、でも、いまから新たに『銀英伝』の世界に飛び込むという人も少ないでしょうね。
     原作は戦後エンターテインメントの世界に屹立する超大傑作なので、ぜひ読んでほしいのですが。まあ、そうはいっても読まないよなあ。べつに時代の最先端にある作品でもありませんしね。
     とはいえ、やはり何といってもぼくの読書人生でも圧倒的に面白かった作品のひとつなので、オススメはするんですけれど。
     原作はいうまでもなく非常に高い評価を得ている作品ではありますが、ある意味では過小評価されているのではないかとすら思います。
     数百人もの人物が絡む大群像劇を全10巻できれいに完結させてのけたという意味で、実に日本のエンターテインメントの歴史のなかでもまったく類を見ない虚構の大伽藍であるといってさしつかえないでしょう。
     じっさい、この種の架空の設定で群像劇を描くタイプの小説でここまで容赦なく完璧に完結しているものって、ほかにはほとんど思いあたらないですね。同じ作者の『アルスラーン戦記』がこのあいだ完結したのがあるくらいです。
     『グイン・サーガ』も『十二国記』も未完だし、これほど人気のある、広げようと思えばいくらでも広げられる作品をわずか3年か4年ほどで完結させてその世界を閉じてしまったことはほんとうにすごい偉業としかいいようがありません。
     つまり、圧倒的に独創性のある仕事なんですよ。それにもかかわらず、過小評価されているというのは、この作品を批評的な観点から分析した文章をほとんど見たことがないからです。
     栗本薫の『グイン・サーガ』もそうなのだけれど、エンターテインメントとしての純度が高ければ高いほど、「ただのエンターテインメント」として処理されて終わってしまう傾向があると思うのですね。
     田中芳樹にしても栗本薫にしても、ものすごく優れた物語作家であって、特にその全盛期の作品の影響力は、はっきりいうならそこらへんの直木賞受賞作などよりはるかに大きいものがあるはずなのですが、批評家は取り上げない。
     というのは、これらの作品がまさに王道の「物語」であって、特定のジャンルに収まり切らないということが大きいのではないかと思います。
     『銀英伝』はSF、あるいはスペースオペラ、『グイン・サーガ』はヒロイック・ファンタジーといわれていますが、いずれもその企画に収まり切る作品ではありませんよね。
     あえていうなら群像劇というジャンルなのであって、戦後エンターテインメントのなかで仲間を探すなら宮崎駿の漫画版『風の谷のナウシカ』あたりになるのではないか、と思ったりします。
     いや、『ナウシカ』は批評家ウケするんですけれどね。『銀英伝』や『グイン・サーガ』は批評家ウケしないんだよなあ。
     ひとつには批評家はどうしても作品のテーマの同時代性を見るんですよね。だから、その結果として大きなものを取りこぼす危険がつねにある。
     たとえば、一時期、ライトノベル批評やエロゲ批評は非常にさかんでしたが、それらはそのジャンルのなかのごく一部の作品を集中的に語っていた印象があります。
     具体的には、『ブギーポップ』シリーズとか、西尾維新とか、葉鍵系とか、セカイ系の作品だとかね。どうしてもそういう「わかりやすく、語りやすい」作品ばかりを取り上げることになってしまうんですよ。
     その一方で、それらの作品よりさらに広く流通している、つまりはっきりいってしまえばずっと売れている『スレイヤーズ!』だとか、『魔術師オーフェン』あたりは看過されてしまう。エロゲでいえば『ランス』シリーズとかね。
     みんな読んではいるしやってはいるんだけれど、それらの作品を語る言葉が確立されていないのでスルーされてしまうんですね。それで、批評的な意味で語りやすい作品ばかりが高く評価されることになる。
     これはじつにいびつな構造だと思います。アニメの歴史を語るときも、やたら宮崎駿とか押井守とか、いまだと新海誠あたりがクローズアップされるでしょう。
     もちろんこれらの人たちが偉大な巨匠であることは論を俟たないのですが、ほかにも面白い作品は山のようにあるのに、そしてじっさいにヒットしているのに、あまりスポットライトがあたりません。
     いや、もちろん、そういうメジャーな作品こそが重要なんだと考えてそう発言する人たちは大勢います。でも、そういう人たちはそういう人たちで明確な「批評の言葉」を持っていないんですね。
     つまり、少なくとも現代日本では、エンターテインメントのエンターテインメント的な側面を批評的に語りつくす方法論が確立されていないということがいえるんじゃないか。
     ぼくが求めているのはそれこそ『銀英伝』のような「ただただ面白い」作品を、その面白さに対するリスペクトを持って「なぜ面白いのか」、「どう見たらより面白くなるのか」、分析した批評なのですが、なかなかそういうものは見ないですね。
     で、その結果、どういうことになるかというと、「この作品の良さはそこじゃないんだけれどな……」みたいな、何かがずれた批評ばかりが乱立する結果になる。
     これは良くないと思うんだけれど、あまり問題視されている気がしません。ただ、やっぱり問題は問題で、たとえば最近、Twitterで繰り広げられた『彼方のアストラ』をSFとして評価するべきかどうか、という議論も、そこら辺から来ているものであるように思います。
     これについてはまたあらためて書くべきですね。というわけで、この話、続きます。次回はその話です。 
  • この狂った世界をどう描くべきか?

    2019-07-13 10:10  
    51pt
     夏コミで同人誌『栗本薫カレイドスコープ』を出すべく、色々と準備を重ねています。
     この本はぼくの〈アズキアライアカデミア〉とは離れた個人同人誌の出版計画のいちばん最初のものになる予定なのですが、まあ、いい換えるなら「お試し」でもあります。
     これがちゃんと100冊なり150冊も売れるようであれば「次」も考えられるのですが、どうだろうなあ。まったく売れなかったら恐ろしいですね。十分にありえることですからね。ああ、いつものことながら同人誌は怖い。
     さて、今回はテーマが栗本薫ということで、ペトロニウスさんにも寄稿をお願いしました。叩き台の原稿を読ませていただいたのですが、これが面白い。
     やはり、ぼくとかペトロニウスさんの物語評価の根本は「そこ」にあるんだよなあ、とつくづく思います。
     何をいっているのかわからないでしょうからかるく説明すると、「そこ」とはつまり、「「世界」を描こうとすること」です。ぼくもペトロニウスさんも、「「世界」を描いた」物語が好きなんですね。これでもわからないか。
     ここでいう「世界」とは何か? それはつまり「ありのままの世界」のことです。このことについては、たびたび例に挙げて申し訳ありませんが、山本弘さんの『魔法少女まどか☆マギカ』の解釈が面白いので、引用させていただきます。

     スタッフのみなさん、ありがとう。 
     『魔法少女まどか☆マギカ』は本当に大傑作でした。
     DVD1~5巻、すでに予約済みです。
     震災の影響で完結が危ぶまれていた作品だが、むしろこんな時代だからこそ、この作品にこめられたテーマが胸を打つ。 
     「誰かを救いたい」 
     その願いや努力が報われない世界は間違っている。
    http://hirorin.otaden.jp/e173632.html

     なるほどなあ、『まどマギ』を見てこういう感想になるのか、といっそ感心してしまうのですが、この「間違っている」というところがポイントです。
     何を基準にして「世界」を「間違っている」というのか。それは、つまり、人間の価値、倫理、道徳、法律、感情、欲望、そういった「人間的なるもの(ヒューマニズム)」でしょう。
     本来、世界は人間の価値観とはまったく無関係に「在る」のであって、そこに「正しい」も「間違っている」もないはず。それにもかかわらず、それを「間違っている」といえるのは、人間の価値観を中心に世界を判断しているからに他なりません。
     「誰かを救いたい」という「願いや努力が報われない世界は間違っている」と山本さんはいいます。しかし、現実にはこの世界はそういう場所です。
     どんな真摯な願いや努力も報われる保証はまったくないのであって、むしろ真摯であればあるほどまったく報われないで終わることはめずらしくありません。
     つまり、山本さんはそういうこの世界の現実の形を、かれのヒューマニズムにもとづいて「間違っている」といっているわけですね。
     そして、前々回の記事で見たように、かれは物語においてはそういう「間違っている」世界ではなく、「正しい」世界を描くべきだ、と考えているのだと思われます。
     つまり、「ありのままの世界」ではなく、人間的な意味で「正しい」世界を描くことが物語だ、と考えているわけです。そういう意味で、山本さんが好み、また書こうとしている物語は「ファンタジー」である、といえるかと思います。
     これはこれで、わかる話ではあるんですけれど、栗本薫が描いた物語は、これとはまったく違う。まず、栗本薫の世界においては、ありとあらゆるヒューマニズムはまったく通用しません。
     そこでは、弱者は強者に利用され、搾取され、凌辱され、ときにはむさぼり食われすらするのであって、「正義」も「倫理」もまったく通用しないのです。
     つまり、栗本薫は「ありのままの世界」、山本さんが「間違っている」と告発するその意味での「世界」を描いている。その意味で、彼女の作品は「ファンタジー」ではなく「リアリズム」です。
     ここがわからないと、栗本薫の作品は読み解けない。栗本薫の世界はリアリズムであるが故に、人間的な倫理とか、善悪とか、価値とかがまったく通用しません。まさに山本さんがいう「「誰かを救いたい」 その願いや努力が報われない世界」なのです。
     したがって、作家は自分の正義を作品世界に投影するものだ、そうであるべきだ、という山本さん的な価値観では栗本薫の作品はまったく読み解けないことでしょう。
     面白いですね。大変面白いと思うのですが、いかがでしょうか。
     栗本薫が「世界」を描く作家だ、というのはそういうことです。栗本さんの物語は、何らかの「正義」や「正しさ」を伝えるためにあるわけではありません。
     そうではなく、ぼくたちが生きるこの世界の「ありのまま」の形をそのままに描きとることが目的とされているのです。
     山本さんがいうように、その世界は人間的な価値観から見れば、あまりといえばあまりに「間違っている」。しかし、栗本薫はその「狂った世界」をそのままで良しとします。
     そして、その「世界の法則(=「グランドルール」=「大宇宙の黄金律」)」を曲げることをこそ「間違っている」とみなすのです。
     こう考えてみると、栗本薫と山本弘がまったく正反対の価値観と作風のもち主であることがわかります。
     ここでは山本さんがいうようなヒューマニズムが一応は通用するところを仮に「社会」と呼ぶことにしましょう。そう定義すると、人間は「世界」のあまりの残酷さを恐れ、怯え、憎み、「世界」のなかに「社会」を作って自分たちを守ってきたといえると思います。
     しかし、人間がいくら社会を洗練されていっても、本来の「世界の法則」は変わらない。人間がどんなに「この世界は間違っている!」と叫んだところで、世界は小ゆるぎもしないのです。
     いい換えるなら、世界の在り方はつねに「正しい」。それがどんなに残酷で陰惨で理不尽であるとしても(人間の目から見てそう思えたとしても)、世界はいつもそのままで「正しい」。
     人間がたとえば人権は守られるべきだといっても天災が起これば人は死ぬし、こういうことは犯罪だから良くないといったところでその行為を実際に行う人間が絶えることはありません。
     栗本薫はその現実から目を逸らさない。そして、その、人間的な価値観からすれば「間違っている」、しかし現実にはどうしようもなく「正しい」世界のなかで、人々がどのように生き、そして死んでいくかを淡々と描きつづけるのです。
     それが栗本薫という作家です。山本さんのような価値観から見れば、その作風は邪悪とも醜悪とも映るでしょう。人間的な「正義」や「倫理」からかけ離れた描写が延々と続くわけですからね。
     しかし、ぼくは山本さんの現実をねじ曲げ、この世界の在り方を否定する「ファンタジー」よりも、栗本薫の「リアリズム」のほうが好きです。そちらのほうが前向きだと思うのです。
     まあ、ここで話したことも、山本さんのように「正義」や「倫理」の普遍性を信じる人にはどういったところで通用しない話ではあるのですけれどね。
     山本さんは「懐疑主義者」を自任していますが、ぼくから見ると「普遍的な倫理」の幻想を盲信しているように見えてしまいます。そして、それにもとづいてかれは人を裁く。それは「何者をも裁かない」栗本薫の作風と対極にあります。
     それもまた、わかる人にはわかる。わからない人には決してわからない話ではありますが……。
     なかなか良く書けたと思うので、前々回の記事とこの記事は、加筆修正の上、『栗本薫カレイドスコープ』に収録しようと思います。栗本薫作品未読者でもわかるように書くつもりなので、どうか、ぜひ、お買い求めください。
     貧しい海燕に愛の手を!
     よろしくお願いします。 
  • 栗本薫作品の魅力とはつまりどこにあるのか?

    2019-07-08 11:08  
    51pt
     はいどーも、キズナアイ――じゃない、海燕です。先ほど、ペトロニウスさんと電話で話していたんですけれど、編集作業ちうの同人誌『栗本薫カレイドスコープ』の話題になりました。
     この本、ペトロニウスさんにもご寄稿いただく予定なのですが、「それでは、栗本作品の魅力とは何か?」と話しあったとき、ぼくは「作中人物に天罰を下したりしないこと」と答えました。
     いい換えるなら、「登場人物を善悪でジャッジしないこと」ということもできます。
     栗本薫は、作中で「悪人」を裁くということをしません。どのような残忍な所業の人間であっても、あるいは怪物、化け物の類であるとしても、自ら、生存競争の戦いに敗れ去らない限り、無理やりに物語から退場させられることはないのです。
     これがどういうことかわかるでしょうか? 栗本薫の世界に勧善懲悪は存在しないということです。そこにあるものは、完全なるリアリズムだけです。
     弱いものは敗れ、強いものが生き残る。そういう、どうしようもない過酷、苛烈な「パワーゲーム」を彼女は好んで描きます。暴力が渦巻く修羅の螺旋――その果てに、「それでもなお」、人間は愛と平等をつかみ取ることができるかということがテーマとなっているわけです。
     優しいといえば優しいし、きびしいといえば、この上なくきびしい。そのフェアな態度が最も象徴的に表れているのが、〈グイン・サーガ〉の一巻、『闇の中の怨霊』のいち場面です。
     この巻で、策士アリストートスは、何の罪もない無垢な少年リーロを無残にも殺害してしまいます。そして、あろうことか、天地に自分の無実を宣言します。それでは、その結果、何が起こったか? じつは、何も起こりはしないのです。

     天が裂け、地がまっぷたつに割れてかれのみにくいからだを飲み込むことも起こりはしなかった。
     また、うらみをのんだ小さな亡霊があらわれて、血だらけの指で誰かを指差してみせるようなことも。
     さんさんと陽光は床にふりそそぎ、アリの青ざめた醜い顔を照らしていたが――神々の怒りのいかづちがとどろいて世界を闇にとざすこともなく、また空にあらわれた炎の指が宿命の神宣を告げる文字を昏い空に描いてみせることもなかった。
     ただ、人々がしんとなって、この情景を見つめていただけのことであった。

     この後の巻でアリストートスは死ぬことになりますが、それは単にパワーゲームに敗れただけであって、作者が自ら裁いたわけではありません。
     これがつまり、「天罰を下さない」、「善悪でジャッジしない」ということです。どれほど残忍な悪行を為そうとも、それだからといって「悪」と認定されて物語から追放されることがないということ。
     したがって、栗本作品ではしばしば必然として強者が弱者を踏みにじり、食い物にすることになります。「それが現実だ」と彼女はみなすのです。そして、そのなかでいかに弱い人々が生き、死んでいくのかを描写する。そこがたまらなく好きですね。
     一方、非常に象徴的なことですが、たとえば山本弘さんなどは明確に「天罰」を下します。何しろ、本人がそう書いている。『神は沈黙せず』という小説のなかに、加古沢という「悪役」が登場するのですが、この人物を山本さんは物語の外の「作者の倫理」で裁き、殺しています。
     そのことを、かれはこのように語っています。

     僕は悪役としての加古沢に愛着を抱いていた。同時に、彼がのうのうと生き延びることは絶対許せなかった。現実世界では、悪が罰せられないことがあまりにも多い。しかし、せめて自分の創造した世界の中だけは、悪が滅び、主人公の苦闘が報われるものにしたかった。この世界ではどうだろうと、フィクションの世界では、神は正義を行なうべきであると。
    (『出エジプト記』において、神がエジプト王の心を操りながら、同時にエジプト人に罰を与えたことも、神とは作者のことだと考えれば矛盾はない。現代の小説においても、作者は悪を操りつつ、悪を許さないものである)
     もちろん、加古沢を滅ぼす自然な手段は他にもあった。たえば優歌に彼を殺させることもできた。しかし、それは正しくない、と僕は感じた。それではプロットとしては筋が通っていても、何かが決定的に間違っている。そこには「真の神」が介在する余地がない。
     だから、作家としてのタブーを破り、加古沢には自ら手を下すべきであると決心した。
    http://kokorohaitsumo15sai.la.coocan.jp/kamiwaatogaki.htm

     これが山本弘なんだよなあ、と思います。山本さんは「フィクションの世界では、神は正義を行なうべきである」と本気で信じている。
     これは山本さんの信念なのでしょうが、ぼくから見ると、きわめてアンフェアな態度に思える。まあ、もちろん、山本さんの「正義」を評価する人もそれはそれでいるでしょうが、ぼくはいやですね。
     もっとも、「フィクションは正義や倫理を表すものであるべきだ」と信じている人は、ひとり山本弘だけではなく、大勢います。そういう人たちにとって、フィクションは自分の奉じる正義を表現するためのひとつの手段であるに過ぎないのかもしれません。
     これが、つまりぼくが栗本薫の作品を好きな理由であり、山本弘の作品を好んで読みながらも、ときにうんざりしてしまう理由でもあります。
     山本さんには「正義が正義である世界」という短編もあるのですが、この世界を「正義が通用しない、理不尽で狂ったところ」とみなすまでは、栗本薫も山本弘も同じだと思うのです。
     ただ、栗本さんがこの残酷な世界、狂った世界をそれでもあくまでも肯定していこうとするのに対し、山本さんは「そんなことは間違えている!」と否定する。そして、それが正しい立場だと信じている。そこに差がありますね。
     この点、皆さまはどのようにお考えでしょうか? 『栗本薫カレイドスコープ』、よろしくお願いします。 
  • 夏コミで『栗本薫ハンドブック』を出す(つもりで頑張る予定だ)よ!

    2019-06-16 23:27  
    51pt
     先ほど、夏コミで何か気楽な薄い本を出したいなー、でもエッチなマンガとか描ける才能はないしどうしよう、ということでLINEに巣くっている妖怪のてれびんに話しかけてみたところ、「栗本薫のハンドブックとか作ったらいいんじゃね?」といわれたので、「それは奥の手じゃろ」と思いつつ、ちょっと作ってみることにしようかと思いました。
     もちろん、ほんとの本気で究極の一冊を作ろうと思うと、たぶんとてもではないが夏コミには間に合わないと思うので、まあ、今回は「初心者向けの入門編」という位置づけの本を制作しようかと。
     つまり、栗本作品を一冊も読んでいないけれど興味はある、というような方に向けた内容です。ネタバレありきの分厚い批評本はいずれペトロニウスさんといっしょに作ったりするんじゃないでしょうか。たぶんね。
     まあ、そういうわけで、仮題『栗本薫ハンドブック(入門編)』を夏コミで売りたいなあと考えています。
  • 「海燕の実験小説講義」とか、聴きたい人います?

    2019-06-16 14:37  
    51pt
     まだ未決定&未発表ですが、今年の夏もペトロニウスさん、LDさんといっしょに〈アズキアライアカデミア〉のオフ会を開こうかと考えています。
     で、過去二回と同じく何か講演を行うことになると思うのですが、毎回、内容でLDさんに負けるのもくやしいので、今回はちょっと力を入れてやろうかと思っています。
     で、テーマは何にしたものかと思案したのですが、ぼくが好きな実験文学の話をしようかなと考えました。ほんとうはオタク系統の話をしたほうが良いのかもしれませんが、それはまあ、LDさんがやるだろうから、ぼくは「この世にはこんな奇妙な小説があるんだよ!」という話をしようかなと。
     ただ、あまり需要がないようだったらべつの話にしたほうが良いかもしれないとも思っています。どうでしょう? 以下のような小説について知りたいという方はいらっしゃるでしょうか?

    ・泡坂妻夫『生者と死者』(袋とじを開けるか閉じるかで内容が変わる)
    ・竹本健司『匣の中の失楽』(連続する作中作)
    ・黒田夏子『abさんご』(固有名詞のない小説)
    ・円上塔『文字禍』(るびの冒険)
    ・古川日出男『アラビアの夜の種族』(架空の物語が現実を侵犯する)
    ・ミロラド・パヴィチ『ハザール事典』(事典の形をした小説)
    ・スタニスワフ・レム『完全な真空』(架空の作品の書評集)
    ・イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』(55の架空都市)
    ・レイモン・クノー『文体実験』(99通りの文体)
    ・レイナルド・アレナス『めくるめく世界』(一人称、二人称、三人称が混在)
    ・レオ・レオーニ『平行植物』(平行世界の植物図鑑)
    ・ウラジミール・ナボコフ『淡い焔』(999行の詩とその注釈)
    ・ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』(子供のための実験文学)
    ・ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』(遊びとしての小説)
    ・ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』(文体実験の極北)
    ・ニコルソン・ベイカー『中二階』(ひきのばされる時間)
    ・バルガス=リョサ『フリアとシナリオライター』(もし作家が発狂したら?)
    ・ルネ・ドーマル『類推の山』(架空の山を目指す)
    ・ジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』(崩壊する文体)
    ・アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』(さまざまな時間の流れ方)

     まあ、このすべてを紹介するのは時間的に無理でしょうけれど、だいたいこんな作品について話をしようかと思っているということです。
     たぶん、「袋とじを開けるか閉じるかで内容が変わる」とかいってもわけがわからないと思うんですけれど(笑)、ほんとうにそうとしかいえないんですよ。
     これはちょっと小説の形をしたびっくり箱というか、良くもまあこんな小説を考えてなおかつ実践したなあと驚かされる、翻訳不可能、日本人しか楽しめない一冊です。
     同じシリーズに『しあわせの書』というのもあって、こちらもとんでもない仕掛けがほどこされた作品なのですが、ネタバレが絡むので話ができません。
     あとまあ、『ハザール事典』とか、架空の民族、国家に関する事典なんですよね。何しろ事典なのでどこから読むのも自由という、もはや小説なのか何なのかよくわからない本です。
     「実験小説の帝王」カルヴィーノの本のなかからはいちばん好きな『見えない都市』を選びました。ひたすら架空の幻想的な都市が叙述されるという、物語も何もない小説です。
     物語も何もないのですが、そこら辺の凡庸な物語と比べたら遥かに美しい。ぼくにとって理想の小説のひとつですね。素晴らしすぎ。
     あと、ナボコフの『淡い焔』。これは最近出た新訳のほうですね。999行に及ぶ架空の詩人の詩と、その注釈という形式の作品です。実験にもほどがあるだろうって感じですね。普通の意味では小説とはいえないと思います。
     それからまあ、お約束の『フィネガンズ・ウェイク』とか。文体が完全に崩壊しているというか、言語を解体してしまった作品です。書くほうも書くほうですが、良くもまあ訳したものだと思います。いや、意味はわからないんですけれどね。
     ことほどさように文学とは「何でもあり」、自由な精神の発露に他ならないのです。ぼくはとても面白いと思うのだけれど、オタク文化とは限りなく乖離しているので、はたして聞きたいという需要があるものなのかどうかさっぱりわかりません。
     うーん。どうしよ。しばらく悩みたいと思います。 
  • 幻想文学を読んでみよう。

    2019-06-08 09:44  
    51pt
     このあいだ偶然見つけたギョルゲ・ササルマン『方形の円 偽説・都市生成論』という本が気になっています。今月20日の発売なのだけれど、

    「いくつかの想像上の都市の短い叙述で本を一冊作るというアイデア。その中に5000年の都市史の偉大と悲劇を圧縮する」――ルーマニアの鬼才が描き出す、「憧憬市(アラパバード)」「学芸市(ムセーウム)」「憂愁市(シヌルビア)」ほか36の架空都市の創造と崩壊の歴史。カルヴィーノ『見えない都市』に比肩する超現実的幻想小説集。アーシュラ・K・ル=グィンによる英語版序文を併載。

     って、これ、絶対に面白いでしょ。カルヴィーノの『見えない都市』大好き! 幻想文学好きの血がたぎる。出たら読もうっと。
     「架空都市の創造と崩壊」といわれると山尾悠子が思い浮かぶところですが、そういえば昔、「架空幻想都市」というタイトルのアンソロジーがあったなあと思いだしたりもします。おお、旧き懐かしき日々よ。
     幻想文学というジャンルは、あるいは文学全体のなかでは傍流と見られるものかもしれませんが、ぼくは決してそんなことはないと思っています。むしろ、リアリズム文学のほうが文学全体から見れば小さな領域に過ぎないでしょう。
     まあ、何をして幻想文学と見るかにもよりますが、文学において「現実」とはひっきょう、そのように見える蜃気楼のひとつの形ということに過ぎません。そういうわけで、ぼくは幻想文学好きです。
     といいつつ、たくさんの本が積読になっているのですが。ジェフリー・フォードの短編集『言葉人形』とか、ミロラド・パヴィチ『ハザール事典』、あるいは倉数茂の『名もなき王国』、めちゃくちゃ面白そうと思いながら積んでいる本がいっぱい。
     SFでも、ミステリでも読んでいない本がたくさんあるからしかたないのですが、とりあえず名作が確定している本は読んでおかないといけないとは思っています。どうしても軽い小説から手を出してしまうのだけれど、この癖は何とかしなければ。
     もしかしたら文学というとただそれだけで陰気で堅苦しい作品を想像される方もいらっしゃるかもしれませんが、それは誤解です。その種の思い込みは、たぶん、日本の私小説のイメージから来ているのでしょう。世界文学はもっと自由で豊穣です。
     そう、自由! それこそが文学の本質だと思います。あたりまえの日常から敢然と離陸し、想像力の翅で言葉の空を翔びつづけること。その愉楽。
     あるいは怪奇な、あるいは耽美な小説世界に入り込み、ひたすら頁をめくり読み耽ることの悦楽はやはり何ものにも代えがたいものがあります。
     文学って基本的に「何でもあり」なんですよ。SFやミステリといったジャンルフィクションがある種の規格で自らを縛るところから始まっているのに対し、文学はほんとうに何をやってもいい、どんな荒唐無稽な実験、ばかばかしいスラップスティックも許される。そこが文学の良いところですね。
     そこにはたしかにそこには底なしの闇黒も、陰惨きわまりない邪悪もあるのだけれど、その一方でほんものの自由がある。
     あるいは文学を読みなれない人が前衛的な作品を読むと、「まったく意味がわからない」ということになるかもしれませんが、ほんとうは「意味」なんてどうでもいいんです。
     大切なのは、その作家のイマジネイションに感電すること。果てしなく続く言葉の森で陶然と迷うこと。よく迷宮に喩えられる小説がありますが、じっさい、小説を読んでいていちばん愉しいのはほんとうに果てしなくすら思える長大な作品で迷っているときです。
     いつまでも読み続けていたいと願いながら、一頁、また一頁とめくっていく歓びを知っている人は幸せでしょう。
     だいたい、小説にかぎらず、「意味」がなければないほど面白い。「意味」とはしばしばそこから何かしら利益を得ようとする貧しい心が生み出す価値に過ぎないからです。
     小説を何かしらのイデオロギーで測ろうとする人がいますが、ぼくはそういうの、嫌いですね。政治的に正しかろうが何だろうが、面白くないものは面白くないし、その反対もある。文学の歓びはそこにはない。
     そもそも、文学を社会に還元して役立てようなどと考える人、そのような文学にしか価値を見出さない人は、たいして小説を好きじゃないんですよ。そういう人はつまり、社会と現実がいちばん好きなわけだから。
     幻想の森で渉猟することそのものに価値を見いだす人間にとって、文学はそれじたいが価値なのです。
     ただ、おそらくそういう人たちは現実社会を生きる人間としてはなかば不適格であるかもしれません。社会における雑事が最も大切だという価値を信じ切れないところがあるからです。
     しかし、どちらが幸福かというと、それはわからないですよね。少なくとも、ぼくは自分は幸せだと思っています。
     うーむ、『方形の円』は未発売なので、とりあえず、『言葉人形』を読むかな。ふたたび、また、神秘の森へ。