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『進撃の巨人』の「愚か者たちのデモクラシー」は本当に成り立つか?
2021-06-21 23:22300pt杉田俊介氏が語る『進撃の巨人』論への強烈な「違和」。
杉田俊介氏の『進撃の巨人』論「『進撃の巨人』は「時代の空気」をどう描いてきたか? その圧倒的な“現代性”の正体」を読んだ。
べつだん、いま読み終えたわけではなく、『進撃の巨人』全巻を読み返し終えたあとに反応しようと考えて放置していたのだが、それではいつまでも書けないのでいま書くことにした。つまり、本文はこの記事への批判的応答である。
ぼくは『宮崎駿論』や『ジョジョ論』を初め、杉田氏が公に書いた文章はその大半を読んでいる。その意味では、杉田氏の愛読者といって良いのだが、同時にこの人が書くものにはつねにつよい違和感を感じる。
それは、ぼくの目から見て、あまりにかれの書くものが傲慢に思えてならないことが頻繁にあるからである。
杉田氏の批評は、いずれもきわめて精緻に、論理的に考え抜かれていることが一読してあきらかだ。そして、それにもかかわらず、ぼくはその結論に納得できないことがしばしばなのである。
『天気の子』のときもそうだった。そして、『進撃の巨人』でもやはりそうであるようだ。なぜそういうことになるのだろう? 思うに、そこにあるものはひとり作品の上に立ち、作品の良し悪しを問うというか決めつける批評家というポジションそのものの傲慢不遜さなのだろうと思う。
それはただ「何となく偉そうで気に食わない」という次元のことではなく、ある作品を批評することがどのようにあるべきかを問う行為であるのだと考える。ぼくは杉田氏の批評のやり方がいまひとつ気に入らないのだ。
かれが書くものはいつもぼくにとって刺激的、かつ説得的であり、その意味で、ネットで散見される「感想」とはたしかに一線を画している。あたりまえといえばあたりまえだが、かなりハイレベルなクリティークがそこにあるのだ。
だが、そうであってなお、かれの文章には「何かが違う」という「世界観の違い」とでもいいたいものを感じる。それが率直な「感想」である。
「型通りの正論」という「気楽な作法」。
もちろん、そうかといって、その違和をただあいてを皮肉ったり、揶揄したりするだけで終わらせるわけにはいかない。それではまさにインターネットに跋扈する無数の過激な(過激なだけの)論者と同じでしかない。
だから、ぼくは自らが違和を抱く言論には自分なりの言論をもって対抗しようと思う。もちろん、杉田氏の書くもののように広く読まれることはないだろうが、ぼくなりに誠実に書いていくつもりだ。もし非常に最後まで読んでいただければありがたい(一応、これも有料記事だが、最後まで無料で読めるようにしておく)。
さて、それでは端的にいって、杉田氏の批評のどこにそれほどまでの傲慢を感じ取り、あるいは違和を抱いているのだろうか。ひと言でいうなら、それはかれのリベラルな「正しさ」との距離の取り方であると考える。
『天気の子』の批評でもそうだったし、今回の『進撃の巨人』でもそうなのだが、かれはつねに「正しい」ことをいっている。
世界が水没しているのに「大丈夫」なわけがない――その通り。人類の大半を虐殺する行為は「狂気のような自由」の矮小化である――なるほど。
それらは、たしかに一読すると「そうかもしれない」と思わせるだけの意見だとは感じる。ただ、それなのに、ぼくはどうしても杉田氏の意見に納得し切ることができない。
たしかに東京をなかば水没させたり、人類の過半数を虐殺したりする選択が倫理的に考えて「正しい」はずはない。どう考えてもどこかで間違えているに違いない。
それはそうなのだが、そのことは特に杉田氏の指摘を待つまでもなく、おそらくはそれぞれの物語の「内」と「外」のだれもがわかっていることだと思うのだ。
それをことさらに指摘して済ませる行為そのものに、ぼくは物語をそのメタレベルから一方的に裁断する読者、あるいは批評家という立場の、あえていうなら「気楽さ」を思わずにはいられないのである。どういうことか。
具体的にどこがどう問題なのか?
たとえば、『天気の子』だ。杉田氏はいう。
私は、主人公の選択には賛否両論があるだろう、というたぐいの作り手側からのエクスキューズは、素朴に考えて禁じ手ではないか、と思う。そういうことを言ってしまえば、作品を称賛しても批判しても、最初から作り手側の思惑通りだったことになってしまうからだ。
ぼくはこのくだりに非常な違和を覚える。なぜか。そもそも「最初から作り手側の思惑通りだったことになってしまう」として、それの何が問題なのかと考えるからだ。
素直に読むのなら、この一節は、作品の受け手側の称賛なり批判は決して「作り手側の思惑通り」ではないと主張しているとしか読めない。
この場合、杉田氏は作品を批判しているわけだから、「自分の批判は意見は作り手の思惑を乗り越えたものである」と主張したいということになるだろう。
もっというなら、自分の意見は作り手の思惑を乗り越えているにもかかわらず、「最初から思惑通り」だという態度を取られることは不愉快だ、アンフェアだ、といいたいということではないだろうか。
その気持ちは、わかる。せっかく自分なりに作品に決定的な批判を加えたのに、「最初からそんな批判は想定済みでしたよ」という態度を取られたらつい「それは卑怯じゃないか」と思ってしまう、その心理は十分に理解できる。
だが、それでもやはりぼくは杉田氏のこの主張はどこか違っていると思うのだ。いったい杉田氏はいつから「作り手側の思惑」を超えることを目指していたのか。
もしあくまで自説に自信があるのなら、むしろたとえそれが「作り手側の思惑」通りであったとしても、おかしいものはおかしい、間違えているものは間違えている、そう主張するだけで満足するべきではないか。
それができないとするのなら、ただ「作り手側の思惑」を超えて何か鋭い批判を加えてやるというゲームに夢中になっている。そういうことでしかありえないではないだろうか。
批評家には謙虚さが必須であるということ。
そう、ぼくには、杉田氏は、わたしはこの作品に対して「作り手側の思惑」を遥かに超えた素晴らしい批判を行っているのだから、「作り手」である新海誠監督はそれを素直に認めるべきだ、そして自分の作品の拙劣さを反省するべきなのだ、といっているようにしか思えないのだ。
ぼくの見方は過剰なものだろうか。あるいは意地悪な見方に過ぎないだろうか。そうかもしれない。だが、そうであるとするならなぜ杉田氏はことさらに「作り手の側の思惑」を問題とするのだろう。
自分(たち?)の意見が「作り手側の思惑」の範疇にあるかどうかを問題にするのでなければ、このような意見は出てこないはずである。
そして、それならそうで素直にいえばそう良いと思うのだ。「自分の意見のような鋭い批判を、新海誠監督はまったく想像もしていなかっただろう。それなのに、あたかも思惑通りであるような態度を取るのはずるい。卑怯だ」と。
ほんとうに、そういえば良いと思う。なぜいわないのかといえば、そこまでいってしまえば、それがあまりにも傲慢な態度であることがだれの目にもあきらかになってしまうからだろう。
過剰な意見かもしれないし、意地悪な見方かもしれないが、ぼくにはどうしてもそういうふうに思われてならない。
そして、その傲慢さは本質的に「後出し」でしかありえない批評という行為にどうしても必要な謙虚さを欠く結果につながっているように感じられる。
もちろん、それはひとり杉田氏のみが陥った落とし穴というよりは、ある作品を後から語るとき、だれもが落ち込みかねない陥穽ではあるだろう。その意味で、かれ個人を攻撃して済ませるつもりはない。
だが、それにしても杉田氏の姿勢はその種の傲慢さに対して無自覚であり過ぎないか。むろん、そのような意見を「後出し」でいっているぼくもまた、だれかのさらなる「後出し」による批判にさらされる可能性はあることはわかった上でなお、そのように考える。
リアリティのシェアができていない。
ぼくは杉田氏のいうことが必ずしも端的に間違えているとは思わない。
『天気の子』にせよ、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』にせよ、『進撃の巨人』にせよ、たしかに批判されるべきポイントを抱えた作品ではあるだろう。杉田氏の批判は、紛れもなく作品の根幹を突いているところがある。
が、それでもぼくがどうしても納得がいかないと思うのは、ひとり「物語の外側、あるいはそのメタレベル」に立って、わかったような「正論」を説くだけの行為に批評的な意味を見いだせないからだ。
ある一連の物語のなかで、きわめて切迫した状況下において、ひとつの判断を下した「作り手」なり登場人物なりに対して、その外側からあたりまえの正論でもって説教する。もしそれが批評の本質なのだとしたら、批評とは何と気楽で他愛ないものだろうか。
杉田氏のいうように、気候現象は一面で人為の作用した「シャカイ」なのだから、人間に責任がないと考えることは間違えているかもしれない。しかし、「それなら具体的にどのように問題を解決すれば良かったのか」。
なるほど、杉田氏のいうように極限的な状況で二者択一を求められることじたいが「間違えている」ことなのかもしれない。だが、映画のなかの人物たちにとって、じっさいに二者択一を求められているように感じられることは紛れもない事実なのだ。
もし、杉田氏が映画のなかの登場人物たちと同様の責任感と切迫したリアリティを持って物語を語っているのなら、二者択一に限らない第三の、より優れた選択肢をきちんと提示しなければならないだろう。
それなくして、「二者択一など幻想だ。第三、あるいは第四の選択肢があったかもしれないのだ」といっても、無責任な放言としか思われない。
それはその通りではあるだろう。すべてを二者択一と捉えることはおかしいだろう。だが、そこにはそうとしか考えられない状況下に置かれた主人公を初めとする登場人物たちへの共感がない。同じリアリティをシェアしていないのだ。
プロフェッショナルが負うべき責任。
ぼくは何かおかしいことをいっているだろうか。映画の物語のなかで「正しい判断」を行う責任はその物語の登場人物が負っているのであって、単なる一観客が負うべきものではないといえば、それもまたその通りだ。
だが、少なくとも卑しくもプロフェッショナルな批評家たるものは、そのようなあたりまえの逃げ口上に終始して非現実的な「正論」を唱えて良しとするのではなく、よりシビアに自分を追い詰めていくべきではないのか。
そう、作品の外にいる立場なら、物語のメタレベルに立つその気なら、どのような「正論」でも語ることができる。最後まであきらめるな、もっと努力しろ、簡単に決めつけるな、幻想を捨て去れ――何とでもいえるだろう。
そして、また、そのそれぞれが何もかもたしかにお説ごもっともな話ではあるのだ。だが、それはすべて、物語の「外」から「内」へ投げかけられた、いわば野次馬的な意見でしかない。
批評家が単なる観客、野次馬を超越した意見を述べるためには、物語のなかの登場人物と切迫した状況を共有していなければならないはずなのだ。
そのリアリティのもと、それでもなお、自分の意見としてそれは間違えていると叫ぶのなら、たとえより悲惨な結果につながったかもしれないとしてもあくまで「第三の選択肢」を模索しつづけるべきだと主張するのなら、それはまさに一聴に値する意見だと感じる。
また、そのリアリティそのものが幻想なのだ、ほんとうの現実はもっと気楽で、多様な選択肢が用意されているものなのだと主張することも可能だろう。
問題は、そういった、見ようによってポジティヴともネガティヴともいえる価値観が、じっさいに物語で採用された価値観と比べ、人の心に響くものであるかどうかである。
もしその意見がまったく人心を打たないのなら、そのときは作品ではなく批評家こそが「時代のリアリティ」を読み損ねていることになる。批評家にはそういうふうに自分自身を賭ける勇気が必要だろう。
「血を流しながら」批評せよ。
かつて、宮崎駿はその昔に「弟子」であった庵野秀明について「庵野は血を流しながら映画を作る」と語ったという。しかし、ぼくにはそれはひとり映像界の鬼才である庵野だけのことではなく、程度の差こそあれ、多くのクリエイターに共通する話だと考える。
「作り手側」はいつも血を流しながら作品を作っている。物語のなかの登場人物も、それが何かしら優れた作品であるなら、多くの場合、血を流しながら判断を下している。
それでは「受け手側」はどうだろうか。はたして血を流しながら作品を語っているといえるのか。むろん、単なる一観客に「ちゃんと血の通った批評をしろ」と詰め寄ることはできないだろう。
だが、批評家は違う。プロフェッショナルな批評家は、少なくとも自分が裁断する作品を作ったクリエイターたちと同じくらいには血を流しているべきだ。ぼくはそう思う。
杉田氏の批評は、あえて明言してしまうのなら、いかにも血の流し方が甘いように思えるのである。ぼくの目には、いかにも自分を安全圏に置いてどうとでもいえるような正論を語っている印象がつよい。
そのようなやり方では、いかにロジカルな意味で「正しい」としても、有意義な批評とはいいがいように思う。それはつまりただ単に「正しくあることが容易な」次元に留まっていることしか意味していないと考えられるからだ。
むろん、それはいままさに「批評家に対する批判」を繰り広げているぼくにしてもいえることではある。したがって、ぼく自身もまた、はたして自ら血を流し、血の通った言説を展開できているか、シビアに問われなければならないだろう。
その上でいうなら、ぼくは血を流して話を続けるつもりである。この記事を単なる「上から目線での批判」に終わらせることはしない。ぼくはそうしたい。じっさいにそうできているかどうかは、読者諸氏ひとりひとりにご確認いただきたい。
とりあえず血を流す覚悟を持っているつもりであることと、ほんとうに血を流しているかはまったくべつのことなのだから。
杉田氏による『進撃の巨人』評の傲慢。
さて、ようやく『進撃の巨人』批評の話に移る。ここまでのぼくの杉田氏への批判の根幹は「物語のメタレベルから、傲慢にも一般論としての「正論」を述べているに過ぎない」というものである。
それでは、この『進撃の巨人』論においてはそれはどう違っているのだろうか。ざんねんながら、ぼくにはあまり違っているようには思えない。
杉田氏はあい変わらず非常に不遜な議論を繰り広げている、そしてほとんど血を流すことなく「正論」を語っている。かれの言説は、ぼくの(あるいは歪んでいるかもしれない)目にはそのように映る。
それは決して「その態度が偉そう」ということではなく、より本質的なところで謙虚さに欠けているという問題だ。
とはいえ、杉田氏の議論はじっさい、説得的なものである。かれは『進撃の巨人』は政治的な物語であると語る。まったく賛成だ。『進撃の巨人』が、たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』などと違うのは、その高度な政治描写にあるだろう。
しかも、その政治性とは、真実が二転三転し、何がほんとうなのかまったく判断できないという「ポストモダンにしてポストデモクラシー」なストーリーに宿っていることも指摘している。
これもまた、そのような言葉を選ぶかどうかはともかく、間違いのないところだろう。『進撃の巨人』にはどこか一流のミステリーのようなところがあって、その時点で「善」であったり「悪」であるように見えたものが、後でまったく違う姿に逆転するといったことが次々に起こる。
そこにこそ、この作品の魅力があるわけだが、それは同時に「いったい何が真実なのか?」、その点を最後の最後までたしかめることができないということもであって、だからこそ、作中にはいつも一種の相対主義的なニヒリズムに陥りかねないような絶望的な雰囲気がただよっているのだ。
そこまでは納得できる見解だ。ぼくがついていけなくなるのは、その先である。
長い長い引用。
杉田氏はまた書いている。いくらか長くなるが、大切なポイントなので、引用させてもらおう。
その点では、むしろポイントだったのは、最後の結論に至る手前の、次のような可能性ではなかったか――地ならしによって人類殲滅戦争へと突き進むエレンを食い止めようとするミカサやアルミンたちの態度は、エレンとの友情を信じながら、敵対勢力との対話を尊重する、という対話型の平和主義であり、つねにどこか、甘っちょろい不徹底さを感じさせるものだった。それはエレンの覚悟や決断に匹敵していない、と思われていた。
しかし、最終回から振り返ってみると、そこには、『進撃の巨人』の連載の積み重ねによってはじめて生まれつつあった、新しい可能性があったように考えられる。
すなわち、第127話、第128話あたりの、アルミン、ミカサ、ジャン、コニー、リヴァイ、ハンジ、ライナー、アニ、ピーク、マガト、ガビ、ファルコ、イェレナ、オニャンコポンたちが一時的に形成する集団性に私は注目してみたい。
その場には、火を囲んで、敵と味方、仲間を殺された者、仲間を殺した物、裏切った者、裏切られた者などが複雑に重層的に入り乱れて、異様なまでに混乱した、わちゃわちゃした協力関係(デモクラシー)が形成されつつあった。ここに新しい重要な可能性があったのではないか。彼らは同じ普遍的な正義感を共有しているわけでもないし、何らかのコンセンサスがあるのかも疑わしい。彼らにとっては、憎み合うことと話し合うことがもはや見分けがたいのだ。
重要なのは、それでも彼らが、おそらく次のような最小限の前提を分かち合っていた、ということだ。マガト元帥の言葉に耳をすまそう。
「昨夜の…私の態度を詫びたい/我々は…間違っていた/軽々しくも正義を語ったことをだ…/この期に及んでまだ…自らを正当化しようと醜くも足掻いた/卑劣なマーレそのものである自分自身を直視することを恐れたからだ(略)/この…血に塗れた愚かな歴史を忘れることなく伝える責任はある/エレン・イェーガーはすべてを消し去るつもりだ…/それは許せない/愚かな行いから目を逸らし続ける限り地獄は終わらない」(第128話)
第127話、第128話あたりに開かれかけていたのは、いわば、愚かさをわかちあう人たちの協同的な関係、あるいは、愚か者たちのデモクラシー(無知と無能のデモクラシー)とでも呼ぶような何かだったのではないか。
「愚か者たちのデモクラシー」という切実な呉越同舟。
「愚か者たちのデモクラシー」。これもまた、『進撃の巨人』終盤の「わちゃわちゃした」呉越同舟的なグループの雰囲気を、なかなかに的確に表現した造語であるかもしれない。
ぼくは、物語のクライマックスにおけるアルミンたちの集団が、その言葉にふさわしい可能性を示していたことを認めるものである。
アルミンたちは、その時点で、何らシェアしあうべき「正義」を持ってはいなかった。かれらが共通して持っていたのは「自分自身の無知と無能の痛切な自覚」ともいうべき「愚かさの意識」だけであり、その意味でかれらのパーティはたしかに一群の「愚か者たちのデモクラシー」を成している。なるほど、そうかもしれない。
そこまでは、わかる。ただ、ぼくがそれでも杉田氏の見解に納得しがたいものを感じるのは、その「愚か者たちのデモクラシー」が成立するためには、ひとつの削り取ることのできない条件が存在していると考えるからだ。
これもごくあたりまえのことかもしれないが、「愚か者たちのデモクラシー」を成り立たせるためには、「自分はほんとうにどうしようもない愚か者である」という苦い自己認識と、「それでもなお、より良い選択を考えつづけることをやめはしない」という強烈な意思が併存している必要がある。そのいずれが欠落していてもこの「デモクラシー」は成立しない。
それでは、この両者は、アルミンたちのなかできちんと併存できているだろうか? ひとまずは、できていると見て良いように思われる。そのとき一時だけのことではあるかもしれないが、かれらは世界の滅亡を目前にして、ごく謙虚に自分の愚かさを省みている。
自分は、自分たちは正しくなどない、正義の見方などではない、ただのひとりの愚かな過ちを犯した人間であるに過ぎないのだ、と。そして、その上でそれでもエレンの虐殺行為は認められないと考えているわけである。
その、切迫した言葉たちよ。ここには最も切実な民主主義がある。素直にそう思う。 -
なぜ表現規制は創作市場を殺すのか。
2020-12-11 16:4850pt
今月号の『ニュータイプ』掲載の『ファイブスター物語』を読みました。ストーリーは先月から詩女マグダルを主人公とした第17巻収録予定のエピソードに移っており、じっさい、辺境の衛星カーマントーにおける彼女の過酷な日々が描かれています。
しかし、今月最大のトピックはそこではなく、マグダル及びデプレの従弟である剣聖マキシ登場に尽きるでしょう。マキシはジョーカー星団最強の騎士であり、成人したのちは凄まじい戦いをくりひろげ、最終的には昇天して「神」となった人物。
しかし、この時点ではまだただの少年に過ぎません……いや、この時点ですでに一般的な騎士たちが束になっても敵わない圧倒的な実力を秘め、しかもまともな道徳、倫理が欠落した狂気ともいえる性格をも備えているようですが。
『ファイブスター物語』にはいろいろな「悪人」、「狂人」たちが登場します。騎士として強大な力を持っているためにだれにも止められない殺人鬼など、アマテラスのミラージュ騎士団には何人もいますし、そのくらいはむしろ「普通」なくらいです。
しかし、マキシの「狂気」はそういった殺人淫楽症とすらまったく違っているようなのです。人としての倫理を一切有していないかれはある意味では純粋です。
殺人や強姦は「悪いこと」であるというその前提すら持っておらず、その超帝國の血を表すうつくしい顔で平然と「おかあさんに子供を生ませるのはお前じゃない、ボクだよ」などというとんでもないセリフを吐くのです。
はたしてこの先、かれがどのようにして成長し、超帝國剣聖たちをも凌ぐジョーカー太陽星団の文字通りの最強騎士として勇名を馳せるようになるのか、注目です。
それにしても、まわりが注意していないとあたりまえのようにじつの母親を犯したり殺したりしようとするマキシ、『ファイブスター物語』史上でも屈指のやばいキャラクターなのではないでしょうか。あのバランシェをも凌ぐかもしれません。
そのマキシが神となって「この世に残した願い」を「奇跡」という形で叶えようとするエピソードがこの後にあるはずなのですが、いったい何が起こるのか楽しみでなりません。相当にものすごいことが起こるということなのですが、何だろうなあ。
『ファイブスター物語』の凄いところはこういう世間の常識をも道徳をも完全に無視してしまう「自由さ」、それに尽きますね。この作品を読んでいると、やはり過剰な表現規制なんてことをしていてはダメだなあ、とあらためて思います。
赤松健さんもインタビューで語っていますが、日本の創作のつよみは表現規制がゆるいところにあります。
海外は強い表現規制があるのに対し、日本は規制が緩やかなので画期的なアイディアや過激な表現が生まれやすいのです。中国や韓国の作品はマニュアルを真似て上手なのですが、『鬼滅の刃』や『進撃の巨人』など読者に広くインパクトを与える作品は少ないと思います。
https://www.bunkanews.jp/article/225423/
もし日本が海外に倣って表現規制に踏み切れば、 -
「壁」が存在しない「後期新世界系」はどのような物語になっていくのか?
2020-11-15 22:1950pt以前の記事で「後期新世界系」という言葉を使いましたが、いま、そのことについて色々と考えています。
そこで今日は、新世界系が登場してから10年ちょっと、その内実も少しずつ変わってきているよね、という話をしたいと思います。
まあ、いままで考えて来たことを整理するだけですが、かなり面白い内容になるはず。綺麗に整理したら後はペトロニウスさんやLDさんが思索を進めてくれるでしょう。きっと。
さて、わかりやすくいうと、いままでの新世界系の定義とは以下のようなものでした。
・平和だが欺瞞に満ちた社会と過酷で残酷な世界を隔てる「壁」が存在する物語。
この「壁」とはあくまで比喩であって、それは作品によって「海」の形だったり(『HUNTER×HUNTER』)、あるいは「崖」だったりするのですが(『約束のネバーランド』)、つまり平和な社会と残酷な世界を隔てる「境界」が存在することが重要であるわけで -
恐怖と絶望が支配する「新世界系」の裏面には何が存在するのか?
2020-03-08 00:3750ptうに。コロナウイルスの猛威がはびこるなか、今年ももう3月になってしまったわけですが、皆さん、いかがお過ごしでしょうか。ぼくはとりあえず部屋にこもってアニメを見ています。
おまえ、いつもそれだな!とわれるかもしれませんが、じっさい、うちのすぐ近くでもコロナの罹患者が出ているので、あまり積極的に外に出て行く気にはなれません。せっかくヘッドマウントディスプレイを購入したので、これでアニメとか映画とかゲームとかを楽しんで行きたいところ。
さて、今季のアニメはとりあえず『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』あたりを見ています。
「小説家になろう」発の、最近ではすっかりすたれたと見られるヴァーチャル・リアリティMMORPGもので、あるオンラインゲームでたまたまステータスを「防御力に全振り」したたまに異様に強くなってしまった少女の冒険? 日常? が描かれています。
まあそこは普通なのだけれど、なかなか画期的なのではないかと思うことに、これ、デスゲームじゃないんですね。ほんとにただのネトゲなの。
このジャンルの嚆矢はやはりみんな大好き『ソードアート・オンライン』だと思うのですが、いうまでもなく『SAO』は作中の死が現実の死に直結するデスゲームものでした。
だからこそ『SAO』はゲームでありながらリアルな冒険を描くことができたし、まさにそこがウケたのだと思いますが、それから十数年、『防振り』はもうまったく感覚が違う。
『SAO』の強烈な魅力であったダークでシビアな世界観と、それとうらはらの「生の輝き」がここにはまったくない。ペトロニウスさんが『転生したらスライムだった件』と並べてこの作品を語っていますが、なるほど、という感じです。
ちなみに、最近、息子が大好きといって見ている『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』のアニメを今ある奴全部見たんですが、これが、『転生したらスライムだった件』と同じ感覚を受けるんですよ。ドラマトゥルギー的には、実際の起伏が全然ない。俺強ええや強くてニューゲームみたいな感じなのですが、なんというか、そういう「くさみ」すらもない。ただ平坦にいろんなことが起こるのを眺めているだけの感じがする。
これは、仮に、成長物語=主人公がドラマのエピソードの連なりによって変化していくというものを物語の基本形に置くと仮定すると、非常に最低な、だめな、評価に値しない物語になります。だって、主人公の動機が駆動しないし、エピソードの連なりがカタルシス(LDさんのいう結晶点)がないものになってしまうので、「物語」の体をなさない。小説家になろうの昨今の作品に、これが多い。
ただ「現実」を描いて、その「連なり」を、ロードムービーのように眺めているだけでは、なんの感情的起伏も生まないじゃないか、という評価です。ただこれを、どうも様々な感情的起伏、生きる動機の悩みの果てに、「世界自体は残酷だけど美しい」という強度を「眺めたい」という欲望の系譜で考えると、もしかして、だから今は受けるのかな?という気がします。この文脈で考えると、物語のカタルシス的には、ほとんど起伏を感じない『転生したらスライムだった件』が、でも、良いのはなぜだろう?と不思議に思ったときの上記のラジオの分析がつながってくる気がします。
http://petronius.hatenablog.com/entry/2020/03/07/031439
ただ、どうなのだろう? これ、「世界の残酷さと美しさ」を描く系譜に配置していいものなのでしょうかね。シンプルに考えて、もし、これらの作品が「世界は残酷だけれど美しい」という「ミカサのテーゼ」(笑)を描くところに魅力があるとすれば、やはり物語の設定はデスゲームのほうが良いように思うのですよ。
だって、『転スラ』はまだしも『防振り』の世界は残酷でも何でもないですよね。ただひたすらにご都合主義というか、ほぼ運不運だけで決まっている感じ。
タイトルでは「防御力に全振り」といいつつ、攻撃力も凄いことになっているわけで、ふつうに考えたら面白い物語にはなりません。でも、じっさい見てみると、『転スラ』同様、ちゃんと面白いんですよね。いったいどういうこと???
この作品で何より印象に残るのはご都合主義の楽しさです。世界のすべてが主人公を愛しているというか、主人公に都合よく動いている感じ。理屈で考えればこんなことありえるはずもない展開の連続なんだけれど、その「おいおいおい」という感じが何とも楽しい。
ご都合主義の総本山であるところの「なろう」でウケてアニメ化したことはよくわかる気がします。ほとんど物語的な起伏は何もないのだけれど、まさにそこがひとつの魅力になっている。
愚考するに、これはたぶん、「世界の残酷さ」にフォーカスした「新世界系」と裏表の関係にある作品なのでしょう。「裏・新世界系」とでもいえばいいかな? つまり、世界は極度に不条理なものであるという認識は、逆にいえば極度の幸運として表れてもおかしくないということでもある、と。
一見するとただの古くさい意味でのご都合主義展開の連続のように見えるかもしれないけれど、じつはそうでもない。なぜなら、「努力をすれば報われる」といった「因果の物語」が無効化していることに関しては、『転スラ』や『防振り』も「新世界系」と変わりないからです。
「新世界系」ではどんなに努力しても無残に死が待っているけれど、「裏・新世界系?」では何ひとつ努力しなくても幸運が舞い込んでくる。両者はかけ離れているようだけれど、「すべては偶然。努力してもしなくても結果が変わるとは限らない」という世界認識が共通しているわけです。
で、ぼくはここでかつて「小説家になろう」のトップ・オブ・トップの作品だった『無職転生』をひき合いに出す誘惑を禁じえません。『転スラ』や『防振り』に比べると、『無職』はやっぱりクラシカルな意味で「物語」だったと思うのですよ。
ここでいう「物語」とは、「山あり谷あり」のドラマトゥルギーを指しています。ふつうに考えて、一般的な物語は主人公の状況が好転する「山」と、暗転する「谷」の両方があるからこそ面白いわけです。
『王子と乞食』でも、『大いなる遺産』でも何でもいいですが、古典的な意味での物語はほぼ必ずといっていいほど主人公を「谷」の底まで追いつめておいて、そこから「山」へのし上げ、また「谷」にひきずり下ろすというドラマ展開になっている。
その振幅の大きさこそがイコールで物語の面白さでもあるし、いかにして「山」と「谷」を作るかが作者の腕の見せ所であるともいえる。アレクサンドル・デュマとか、チャールズ・ディケンズとか、天才的な物語作家たちはいずれもこのドラマツルギーを巧みに駆使していました。
ところが、「新世界系」なり「裏・新世界系」ではその「物語」が成り立たないわけです。「新世界系」においては従来の意味での物語が成り立たないことは、いままでも繰り返し述べて来ました。
それ故にいままでの「新世界系」作品は「壁」でもって世界を区切る必要があったわけですが、「裏・新世界系」においてもやはり古典的な「物語」は成立しない。通常の意味で考えれば「山もなければ谷もない」からです。
ペトロニウスさんはこれをして「常に最低な、だめな、評価に値しない物語にな」るといっているわけですが、もちろん、だからこんなものは見る価値はないということではないでしょう。
まさにそれらの「物語不成立」にもかかわらず、じっさいに面白いということがこれらの「新世界系」なり「裏・新世界系」作品の新しさなのですから。
いい換えるなら、「物語」とは「主人公のアクション」に対する「世界のリアクション」、「それに対する主人公の再度のアクション」といった連続を描くものであるともいえる。
しかし、「新世界系」、「裏・新世界系」においてはそういう意味での「アクション」に対してあたりまえの「リアクション」が返って来ることがない。つまり、「アクション」と「リアクション」の因果関係が断絶している。
それが絶望的な不運として表れた場合は「新世界系」と呼ばれるし、奇跡的な幸運として返ってきた場合はぼくが「裏・新世界系」と呼ぶ作品になるわけですが、とにかく旧来の「物語」とは異質なものがそこにはあるのです。新しいよね?
もっとも、ご都合主義の連続で物語が成り立たないにもかかわらず人気が出る作品はいままでにもありました。たとえば「少年ジャンプ」のバトルマンガ、代表的なのは車田正美です。
さて、それでは『リングにかけろ』や『聖闘士星矢』と「裏・新世界系」は同じものなのでしょうか? ちょっと考えてみたのですが、ぼくにはやはり車田作品は旧世代の物語であるように思えます。
そこには「努力」や「根性」の因果的な結果としての「勝利」という方程式が明確に存在しているからです。まさにこの方程式が崩壊した地点から「新世界系」、「裏・新世界系」はスタートしているといっても良いでしょう。面白いですね。
うん、きょうはめずらしくなかなか良いことを書いた気がする。この先は次のラジオあたりで煮詰めることにしましょうか。「裏・新世界系」、「因果の物語の不成立」といったあたりをぼくからのキーワードの提案として、ここに挙げておきたいと思います。 -
『甲鉄城のカバネリ』は「終末もの」の新境地を拓けるか?
2016-05-04 11:0851pt
『甲鉄城のカバネリ』が面白いです。
都市が鉄道でつながれた世界を描くゾンビ・ホラー。
特に目新しいアイディアはないようなのですが、全体にクオリティが高く、サスペンスフルな展開で魅せます。
この鉄道、だれがどうやってメンテナンスしているんだろうとか思うわけですが、そこは深く考えちゃいけないんだろうな。
昔、『ゼルダの伝説』のシリーズに「大地の汽笛」という鉄道ネタの作品がありましたが、それを思い出したりします。
ただ、特に現代的な作品というわけでもなさそうなので、流行るかどうかはなんともいえないところ。面白いんですけれどね。キャラクターは美樹本晴彦だしなあ。
最新話まで見たところ、きわめてきびしい世界を描いた作品で、ぼくたちの言葉でいえば「新世界系」ということになるわけですけれど、『進撃の巨人』から数年、この種の作品も一世代前のものになったかな、という気はします。
いや、新世界系のテーマそのものはいまふうなんだけれど、そこにどういうアンサーを付けるかでこの種の作品の面白さは決まってくるんじゃないかと思う。
つまり、きびしい世界を描いて、「どうです? 世界って残酷でしょ?」とやるだけではダメで、そのきびしい世界でどうやって生きていくか、というところまで踏み込まないといけない。
「新世界系」は、必然的にサバイバルものになるわけですが、そのサバイバルの思想的な方法論を描きこめないと凡作に終わるという気がします。
『魔法少女まどか☆マギカ』がヒットし、後続の「女の子の新世界系」があまり話題にもならなかったのは、たぶんそのせい。
ただ単に「きびしいでしょ? 辛そうでしょ? 悲惨でしょ?」とやるだけでは不十分だということです。
よく虚淵玄は暗く残酷で悲劇的な作品を描く作家性だといわれるけれど、ぼくはそれだけだとは思わない。
その暗い現実に立ち向かう姿勢を描いているからこそ、虚淵作品は魅力的なのです。
これは第一作の『Phantom』からずっとそうですね。
虚淵作品はたしかに暗い話が多いけれど、決して「趣味的な残酷さ」に耽溺しない。
「どうです、ひどい話でしょ?」と示してウケを狙うだけのものにはなっていないのです。
その点がフォロワーと虚淵作品の最大の差ですね。
それでは、ひるがえって、『カバネリ』はどうか。「まだよくわからない」としかいいようがありません。
問題は、この物語にどういう結末を付けるかということだと思うのです。
一般的にいって、ゾンビ・ホラーって、世界がどんどん終末に向かっていくところに面白みがあるわけですよね。
自分たちの生きている世界がどんどん壊れていくところに「負のカタルシス」とでもいうべき快感がある。
でも、そうだからこそ結末を付けることがむずかしい。
世界そのものが崩壊に向かっているところで、ヒーローの孤軍奮闘を描いたところであまり意味がないように思われることもたしかなのです。
だから、世界レベルのゾンビ・ホラーは「そして世界は滅んでしまいました。おしまい」くらいしか結末を設けることができないジャンルでもある。
「どこかに人類の生きのこっているコミュニティがあって、そこに逃げ込む」とか、「ゾンビを壊滅する手段が発見される」とかいう結末もあるにはありますが、ゾンビ・ホラーの根本的な面白さからすると、あまり適当なアンサーとはいえない気がするのですよね。
ここにどういう答えを見つけ出すか? 『カバネリ』の今後には注目です。
この点は『進撃の巨人』もまだ答えを出していないところですよね。なんらかの解答は用意しているのではないかと思うのですが。
映画版の『バイオハザード』とか、答えを用意できないままシリーズが進むので、わりとめちゃくちゃな話になっていた気がする。
そういえば、 -
『甲鉄城のカバネリ』はそこまで『進撃の巨人』に似ていないと思うのだ。
2016-04-26 07:3951pt
アニメ『甲鉄城のカバネリ』最新話を見ました。
舞台はパラレルワールドの日本とも思しい「日ノ本」の国。
いま、この国は生ける屍ともいうべきカバネの脅威があふれていた。
唯一の安定した流通路はそれぞれの「駅」を結ぶ鉄道網であり、「駿城(はやしろ)」と呼ばれる汽車がその間を走っている。
そして、いま、そんな「駅」のひとつ、顕金(あらかね)駅にカバネたちが襲い掛かる――というところから始まるスチームパンク・ゾンビホラー。
過去の色々な作品を掛け合わせたような設定の物語ですが、これが面白い。
少々詰め込みすぎなのではないか、というくらい詰め込まれたアイディアが印象深いです。
展開も早く、ほとんど設定を説明することなく進むので、集中してみることを余儀なくされます。
昔、『攻殻機動隊』とか見ていた時に近いこの感じ、テレビアニメではひさしぶりですね。
まあ、いずれにしろ実に一気呵成の面白さ。人間の極限状況を示し描くサバイバル・エンターテインメントとして第一級の仕上がりといっていいかと。
いや、この先、おそらくカバネに対する人間側の反撃が始まるのでしょうが。さて、どうなるか。
で、この作品、放送前はさんざん『進撃の巨人』だといわれていたけれど、じっさい見てみたところ、そこまで似ているとは思わないですね。
ひとの姿をした怪物に襲われた人々が防護を固めた「駅」に引きこもっているという設定に共通点が見られるくらい。あとはそんなに似ていないと思う。
まあ、たしかに初めは『進撃の巨人』を思い起こしながら見ていたのだけれど、ここまで来ると別物として楽しめます。
何より、無類に面白いわけで、これを『進撃』のパクリだとかいってたたくのは筋違いのように思えてなりません。
時代劇、スチームパンク、ゾンビ、「駅」、「駿城」、「負け犬のリベンジ」と -
甘ったるい萌えアニメに腰までひたっても、なお。
2016-04-04 09:0051pt
さて、昨日の記事に続いて、ペトロニウスさんが最新記事のもうひとつの論点として挙げている「向上心がない物語はダメなのではないか」という話を語りましょう。
これは、20年くらい前から延々と形を変えていわれつづけていることのバリエーションだと思うのですが、まあ、じっさいのところ、どうなんでしょうね?
元々の野尻さんの発言は「コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ」というものでした。
「コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品」とは、具体的には『このすば』のことらしいのですが、これがほんとうに問題なのかというと、正直、ぼくにはよくわからないです。
たしかに、こういう作品ばかりになってしまったらいかにも退屈だし、良くない状況だとは思う。
しかし、現実にそうなっているかというとね、なっていないんじゃないでしょうか。
ここ最近ヒットしたアニメなりウェブ小説を見ていくと、必ずしも甘ったるいばかりの作品がウケているとはいえないと思うのですよ。
もちろん、ぼくはそのすべてをチェックしたわけではないのでたしかなことはいえませんが、少なくとも『進撃の巨人』もあれば『魔法少女まどか☆マギカ』もある、『SHIROBAKO』もあれば『1週間フレンズ』もあるわけで、業界全体が一色に染まっているとはいいがたいでしょう。
むしろ、過去に比べても多彩な作品が提供されるようになって来ていると思います。
もし、それらの作品が一色に見えるとすれば、やはりパッケージの問題でしょう。
現代のアニメには色々な作品があるけれど、そのほとんどに何らかの形で美青年や美少女が出て来ることもたしかで、そのキャラクターたちの画一的なイメージが作品に多様性がないという印象を与えているのだと思います。
じっさいには、当然、キャラクタ―デザインにある程度の差異があるのですが、それは「わかる人が見ればわかる」種類のものであることもたしかです。
わからない人が見ればやはり似たり寄ったりに思えるでしょう。
そして、そのパッケージの印象を、野尻さんは「かっこ悪い」といって批判しているのだと思います。
これは良く考えるとなかなか深い問題で、一理はあると思う。ただ、いまさら美少女を出してはダメだといってもね、それは届かないことでしょう。
それに、ここ十数年くらいで、アニメに登場する美少女たちも(決してリアルになったわけではないにしろ)相当に多様化が進んでいると思うのです。
ここらへんは「暴力ヒロイン問題」と密接な関わりがあるのですが、たとえば『俺妹』の桐乃なんかは一方で強烈な反発を受けるくらい過激なキャラクターであるわけですよね。
そういうキャラクターもいまは例外とはいえないくらい普通に存在している。
まあ、その手のキャラは必然的に「女の子は天使じゃないと許せない派」からは過剰な反発を受けるわけですが、そうかといっていなくはならない。
あいかわらず色々な形で出て来ては視聴者の自意識を告発したりするわけです。
そういう告発に耐えられない視聴者層はたしかにいます。
しかし、いまとなっては、その手の告発すら平気で受け止められる視聴者層も熟成されて来ているように思います。
野尻さんは「コンプレックスまみれの視聴者」と決めつけていますが、これはアニメ視聴者に対するかなり古いバイアスです。
かつてはともかく、いまは特に大きなコンプレックスがないアニメ視聴者も相当の割合でいるはずです。
そういう視聴者は必ずしも慰撫だけを求めてアニメを見ているわけではない。
いや、当然、見ていて不快になるようなものを求めているわけではないでしょうが、野尻さんが考えているほど甘ったるいばかりの物語を求める「弱い」視聴者層ばかりではないと思う。
その証拠に、『このすば』の主人公もさんざんあざけられ、ばかにされ、笑い者にされているではありませんか。
まあ、たしかにかれはご都合主義的に美少女といっしょに旅をすることにはなります。
ですが、その旅も美少女も必ずしも主人公を慰め、いい気分にさせてくれるだけの装置ではない。
一見してそう見えるにしろ、じっさいには色々あるのであって、その色々が作品の個性となっています。
「いや、そうではなく、もっと視聴者の自意識の欺瞞を徹底して告発するきびしい物語が必要なのだ」という意見もあるでしょう。
それもわからなくはない。ある程度は共感できる意見です。
しかし、 -
『新世紀エヴァンゲリオン』の狂気とは何だったのか。
2014-10-29 11:2751pt
おそらくご存知のように、ぼくは物語が好きで、ずっと追いかけ続けている。その思考の軌跡はそのままこのブログに残されているわけだが、定期的にまとめて提示しなければ何を語っているのかだれにも理解できなくなることだろう。
そこで、今回の記事では、いままでの思索をあらためて振り返り、過去ログの墓場に埋ずもれた論考を再び可視化するとともに、新たな一歩を踏み出すことを目指したい。
さて、ぼく(たち)の思考はいま、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』といった作品が代表する「新世界の物語」にたどり着いている。
「新世界の物語」とは、「いつ何が起こるかわからない過酷な現実」をそのまま物語化した作品群を指している。
『進撃の巨人』の、「人が生きたまま巨人に喰われる」というゴヤ的にショッキングな描写が直接に表しているように、それは一切のヒューマニズム的価値が通用しない世界の物語である。
日本では少年漫画が代表しているような通常のエンターテインメント作品では、通常、物語は「階段状」に展開してゆく。序盤から中盤へ、そして終盤へ、順を追うほどに敵は強くなり、試練は過酷となる。それが一般のエンターテインメントの描写であるわけだ。
むろん、エンターテインメントの作法として、そのつど、「とても勝てそうにない敵」、「まるで乗り越えられそうにない試練」を用意しなければサスペンスが機能せず、読者の注目を集めることはできない。
しかし、それでもなお、それらは最終的には超克されていくのであって、その意味でこれらの作品には畢竟、主人公の成長を促す「階段」が用意されているともいえる。
この『ドラゴンクエスト』的に美しい予定調和展開は、特に『少年ジャンプ』でくり返し用いられ、膨大な読者を熱狂させた。
とはいえ、それはフィクションの方法論として底知れない魅力を放っているものの、一面でリアリスティックとはいいがたいこともたしかである。
現実ではもっと不条理なことが起こりえる。その人物の内面的/能力的な成長を待つことなしに最大の試練が襲いかかってくることもありえるのだ。
その意味で、『少年ジャンプ』的な「階段状の物語」とは、クリフハンガーが連続する見せかけのサスペンスとはうらはらに、真の不条理が慎重に排除された予定調和の宇宙であるとひとまずはいうことができるだろう。
ところが、「新世界の物語」においてはその不条理は前景化する。物語序盤において主人公であるエレンがあっさり殺害されるかと見せた『進撃の巨人』の描写がきわめて秀抜であったことは、既に多くの論者が書いている通りである。
これはつまり「その世界の限りない不条理さ」をそのままに見せた演出であったわけだ。
しかし、ただこういった「身も蓋もない現実」に登場人物を放り出すだけでは、物語はその猟奇描写で一部の残酷趣味的な読者を満足させるに留まり、広範な支持を集めることはできないだろう。
そこで用意されるのが「壁」である。これはつまり『ドラゴンクエスト』的な「階段状の物語」世界と、真の意味で過酷な(ゲームバランスが調整されていない、とでもいえばいいか)「新世界」を分断する物語装置である。
この「壁」が用意されることによって、物語は「新世界=身も蓋もない現実」と適切な距離を保ちながら展開してゆくことが可能となる。
そして、この「新世界」的な「不条理な苛酷さ」は、虚淵玄脚本で知られる『魔法少女まどか☆マギカ』においても見ることができる。
しばしば「鬱アニメ」と称されるそのダークな内容の骨子は、「ごく平凡な少女が突然、命がけの契約を結ばされ、戦場に放り出されて死んでいく」点にある。ここでは「契約」の内容をよく吟味せずに契約を結んでしまうたぐいの未熟者はまず生き残れない。
少女たちの生きる日常世界そのものは決して「新世界」ではないだろうが、無邪気を装って彼女たちに死の契約を奨めるキュゥべえは「新世界から日常世界への侵入者」と見ることができるだろう。
ここにおいて「壁」は存在せず、「新世界」と日常世界は地続きで、したがって少女たちの物語は決して階段状に展開しないわけだ。
しかし、それではただ「新世界」的な「不条理な苛酷さ」を丹念に描けばそれで『進撃の巨人』や『魔法少女まどか☆マギカ』のような傑作が生まれるのだろうか。換言するなら、『進撃の巨人』なり『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力とは、その「鬱描写」にこそ存在するのか。
しかし、思考を進めていくと、どうやらそうではないらしい、ということになる。
そもそも「身も蓋もない現実」をただそのままに描くことは、特に作劇的工夫を必要としない、ごく容易な作業である。現実世界にはありふれている現実なのだから、ただそれを物語世界に移植すれば良い。
じっさい、商業エンターテインメントならざる同人漫画などでは、そういった展開の物語を頻繁に見いだすことが可能だろう。
しかし、当然ながらただそれだけでは一本の悪趣味な「鬱作品」を生み出すに過ぎず、せいぜいが一部にカルト的人気を誇る程度の作品に終わる。
ここで発想の転換が必要である。現代(テン年代)において必要とされているものは、不条理に過酷な「新世界」そのものではなく、「その新世界のなかでいかに生き抜くか」、その実践的な描写であると考えるべきなのだ。
「新世界」そのものはあくまで背景であって、主眼はあくまでもその新世界での主人公たちの行動にあるということ。この点を見誤ると、単に露悪趣味的な「鬱作品」しか出来上がらないだろう。
この「新世界の物語」(より正確に語るなら「新世界と壁と階段状世界の物語」)は90年代の内的思索モード、ゼロ年代の決断主義(あるいは決断幻想)を経て物語がたどり着いた時代の最新モードである、とひとまず述べておこう。
少なくとも豊饒を究めるテン年代サブカルチャーシーンを切り取る視点のひとつとして、「新世界の物語」というタームは機能するだろう。
しかし、「新世界の物語」風のアンチ・ヒューマニズム的現実描写を行いながら、それでも「新世界の物語」とは呼びがたい作品も存在する。久慈進之介『PACT』のように。
『PACT』は第一話にしてヒロインにあたる少女を死亡させてしまっている点などを見てもわかる通り、表面的には新世界的な世界観で貫かれているように見える作品である。
また、そこには「壁」はなく、したがって物語は一貫して過酷である。しかし、そうであるにもかかわらず、『PACT』においては登場人物が奇妙なまでに感傷的で、「個」の権利を叫びつづける。
つまり、世界観は新世界であるにもかかわらず、登場人物たちは階段状世界ないしより手厚く保護された世界の描写なのだ。これはいったいどういうことなのか?
そう、『PACT』は一見して「新世界の物語」と見えるものの、似て非なるものを考えるべきなのだ。ここで思い出されるのが、既に風化しつつある「セカイ系」というジャンルである。
『PACT』の描写は「新世界の物語」というよりセカイ系的なのではないか、と考えることができる――と、ここまでが「いままでのおさらい」。
となると、次の作業は「セカイ系」とはどのような物語だったのか、その再考ということになるだろう。
セカイ系とは -
検証。『進撃の巨人』は「セカイ系」の対極にある「新世界の物語」なのか?
2014-10-15 04:3051pt
「新世界の物語」と「セカイ系」の話をちょっとどこかにまとめておかないといけないにゃー、ということで、ここに簡単に記しておきます。
まあ、先日のラジオで話したことなんですが、あまりにも面白かったので文字にしておく必要があるだろうと。
簡単にいうと「新世界の物語」と「セカイ系」は真逆であり対称である、という話なんですが。
振り返ってみましょう。「新世界の物語」とは、ここ最近の漫画やアニメで登場して来ている「新しい世界」とは「現実」を指しているのではないか、という話でした。
具体的にはこの記事(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar578582)で書きました。こんな内容です。
で、「新世界」の話とは何かというと、これ(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar564366)のことですね。あるいはペトロニウスさんがここ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140622/p1)で語っている内容です。
ようするにここ最近、『トリコ』とか『HUNTERXHUNTER』とかで、いままでいた世界よりもっと広い世界=「新世界」を扱っている作品が見られるよね、ということ。
で、その「新世界」って、「現実の世界」のことなんじゃない?ということです。ここでいう「現実の世界」とは、「主人公が保護されていない世界」といっても良いでしょう。
通常、あたりまえの物語においては、主人公の前に表れる敵は強さの順番にあらわれてきます。それは『ドラゴンクエスト』的であるといってもいい。
冷静に考えれば主人公の前に突然最強の敵があらわれて即座に死ぬこともありえるわけですが、まあ、そんな物語は少ない。まずは弱い敵が出て来て、次にそれなりに強い敵が出て来て、そいつを倒すと次は四天王(の最弱)が――というふうにつながっていくわけです。
これはある意味で「現実」を無視した展開ですよね。つまり、そういう「試練が順々に訪れる物語」とは、「保護された世界の物語」であるわけです。
もちろん、保護されているなりに「とても敵いそうにないすごい敵」があらわれないと、物語として盛り上がらないわけですが、それにしても「ちょっと勝てそうにないすごい敵」を次々と出すところが作劇のコツであって、「絶対に勝てないすごい敵」があらわれて終わり、ということにはならない。
たとえばこの手の少年漫画の最高傑作のひとつというべき『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』でいえば、最初にクロコダインが、次にヒュンケルが、フレイザードが出て来て、そこから満を持してバランが出て来る、という順番になっているわけです。
これがいきなりバランが出て来たら困るところだったと思うんですよね(正確にはその前にハドラーが出て来るんだけれど、それはアバン先生が対決してくれます)。
こういう物語は非常にカタルシスがありますが、しかし、ウソといえばウソです。現実にはレベル1の状況でレベル99が襲い掛かってくることがありえる。そしてそれで死んで終わってしまうこともありえる。
つまり、ものすごく理不尽なことが起こりえるのが「現実」の世界。で、この「現実」の世界と「保護された世界」を隔てているのが『HUNTERXHUNTER』でいうところの「無限海」、あるいは『進撃の巨人』でいうところの「壁」なのではないか、というのがLDさんの見立てであるわけです。
これはこれで非常に面白い話なんだけれど、今回、LDさんはさらに『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げて、「この物語でも(新世界の物語のように)ひどいことは起こっている」と指摘し、つまりは「壁」があるかどうかが重要なんじゃないか、と述べています。
つまり、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』では「ほんとうに理不尽なこと」が起こる世界とそうでない世界を分かつ「壁」があるけれど、『まどマギ』にはそれがない、その差が大きいんだ、と。
なるほど、ますます面白い。普通の女の子が突然に理不尽な契約を結ばされてしまう酷烈さが、『まどマギ』のひとつの大きな魅力であったことは自明です。
いい方を変えるなら、『まどマギ』におけるキュウべぇは、「壁」の向こうの世界(「現実」世界)のプレイヤーで、ひとり「壁」を超えてその世界からまどかたちがいる世界にやって来たのだ、ということもできるでしょう(物理的な、あるいは物語設定的な話をしているわけではないことに注意してください)。
この場合、物語は一貫して「壁」の内側で繰り広げられるので、「壁」そのものは登場しないのですが、キュウべえは安全な「保護された世界」に「壁の外=現実」の論理を持ち込んでいるということになります。
これが「新世界の物語」です。ここまでは良いでしょうか? 今回話したことはこの続きにあたります。
すべてはぼくが「それでは、久慈進之介の『PACT』はどうでしょう? これも「突然ひどいことが起こる」話だけれど、「新世界の物語」に含めることができるでしょうか?」とLDさんたちに訊ねたところから始まります。
ここから、LDさんとペトロニウスさんの間で議論が発展していろいろと面白いアイディアが出て来たらしいのですね。その結論が、上記したような「新世界の物語」と「セカイ系」は対称を成しているという話です。
ちょっとここはあまり軽々に断言できない、ほんとうのそうなのか?と思うところであるのですが、とりあえず話を進めてしまいましょう。
まず、「新世界の物語」とは、「保護されていない現実」を舞台とした物語でした。それでは、「セカイ系」はどうなのか? それはつまり、「個人の内面世界を舞台とした物語」だったのではないか、ということなんですね。
くり返しますが、ほんとうにそうなのかはまだよくわかりません。真偽をたしかめるためには、セカイ系の代表作といえる作品をひと通りさらい直してみる必要があるでしょう。
しかし、ここでは当面、そういう理解で進めてみましょう。『ほしのこえ』であれ、『最終兵器彼女』であれ、「セカイ系」の作品においては、個人(主人公とヒロイン)と世界(セカイ)が直接に結びつけられています。
つまり、そこでは個人の行動が即座に世界に影響を与えるのです。最も典型的なサンプルと思われる『最終兵器彼女』を見てみましょう。
この物語の主人公であるシュウジとちせの行動は、「世界最終戦争」とダイレクトに結びつき、最終的には世界は亡んでシュウジとちせだけが生きのこります。セカイ系の宇宙とは一般にこういうものであるわけです。
あるいは『新世紀エヴァンゲリオン』(のテレビシリーズ及び旧劇場版)にしても、主人公である碇シンジの行動と決断がそのまま世界の命運を左右します。
この「個」と「セカイ」が明確に分離されていない、むしろ融合してひとつになっているとすらいえる描写が「セカイ系」の特徴だといえるでしょう。
ある意味で遠近法が消失した宇宙というか、「個」の内面が極限まで重視される世界ということもできると思います。
さて、一方で「新世界の物語」では「個」と「セカイ」は明確に分離されています。いくら主人公が泣き叫ぼうが、あるいは必死に努力しようが、「世界の理(ことわり)」はそれとは無関係に動いていて、主人公やヒロインを圧殺したりもするわけです。
このことが端的にわかるのが『進撃の巨人』序盤で主人公エレンが巨人に食われてしまう場面ですね。そこでは「主人公であろうがご都合主義のお約束で生きのこれる物語ではない」ということが示されているように思います。
ここまでが、前提。ここからようやく『PACT』の話になります。『PACT』も、「壁」の描写こそありませんが、一見すると「新世界の物語」的であるように見える作品です。
というのも、『PACT』でも次々とひどいことが起こるんですね。たとえば、これはネタバレになりますが、第1話の時点でメインヒロインと思われる女の子が死んでしまうわけです(あとで生きのこっているようにも見える描写がありますが、これはミスディレクションなのかな? クローンとか?)。
ここだけ見ていると『PACT』も「新世界の物語」的な、「身も蓋もない現実」を描いているように見える。『進撃の巨人』のような斬新さがそこにあるということもできるかもしれない。
しかし――しかし。それにもかかわらず、『PACT』は明白に失敗作である、とペトロニウスさんは喝破します。
たとえば、日本を沈没させかねない危険な爆弾を解体しようとする主人公を守る兵士を見よ、と。
かれは、あくまで任務を再優先に考える主人公に対し激発し、感情的に食って掛かる。これはリアリティのレベルを守りきれていない描写である。
なぜなら、既にその同じ爆弾によってアメリカ合衆国が沈没しているという、つまり世界が半分滅亡しているような状況下において選ばれた兵士が、個人的な感情を責務より優先させることなどありえないからだ、と。
つまり、この作品はテクニカルなレベルで完全に失敗している物語なのだ、と。まあ、納得が行く話です。ぼくも『PACT』が傑作だとは思いません。
ところが、です。LDさんがその話を聞いて、しかし、と反論したらしいのですね。ペトロニウスさんのブログから引用するとこんな感じだったらしい。
僕が言っているのは、技術レベルの話で、そもそも作者がやりたかったことの意を汲むべきだし、かなり失敗しているとはいえ、まったくそれができていないというわけでもない、とね。そこで、いやいや、そうじゃないです、、、、この技術的な問題点が、やりたかったこととコンフリクトしてて、、、という話になって、では、この物語がほんとうに示すことは何なのか?という話になり、、、という流れです。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20141010/p1
つまり、『PACT』の失敗は単に技術的な問題「ではない」ということなんですね。
『PACT』の問題点とは何か? それは作中の描写が作品の主題とコンフリクトしていることであるわけです。即ち、あまりにも「個」の感情を重視するあまり、「人類全体」が危機に陥っている状況下においてありえないような描写を行ってしまっているということ。
思い出してみましょう。「新世界の物語」とは「個」の情緒と「世界」のありようが完全に分離している「現実」を描く物語でした。
しかし、『PACT』においてはその「個」が「そんな世界のありようはおかしい!」と、いってしまえば甘ったるいことをいい出しているわけです。
これが『PACT』の究極的な問題点です。さて、これはどういうことでしょう? つまり、『PACT』はどこかしら「新世界の物語」のように見えて、実は「セカイ系」的な作品なのだ、ということなんですね。
ぼくなりにいい換えるならこういうことになるかもしれません。「セカイ系」は「個」の悲劇を描く物語である。つまり、「セカイ系」では「個」(主人公)と別の「個」(ヒロイン)の対幻想にもとづく悲劇は成立する。
しかし、「新世界の物語」ではそういう「個」の悲劇はそもそも成立しない。なぜなら、その「個」の悲劇とは「無数にある悲劇」のなかのひとつに過ぎないからである、と。
さらにいい換えるなら「セカイ系」は主人公とヒロインの関係を近景で見、「新世界の物語」は主人公を含む広大な世界を遠景で見ているということもできるかもしれません。
したがって、『PACT』が失敗しているのは、「新世界の物語」的に過酷な状況設定を行っているにもかかわらず、「セカイ系」的な「個」を重視するロマンティシズムを持ちだしていることだ、ということになります。あんだすたん?
ここまで考えてみると、「新世界の物語」と「セカイ系」はまったく正反対の、互いに相容れない物語なのだ、ということがいえそうに思えて来ます。
そう、「個」の価値を極限まで重視し、そこに世界と同じだけの重みを見いだしたのがセカイ系だとするなら(ほんとうにそうなのかはよくわかりませんが)、「個」ではなく「全体」を見て、「個」とはあくまで「全体」のなかの一部分でしかない、と考えるのが「新世界の物語」ということが、当面はいえそうです。
あるいは前者を左翼(レフトサイド)的な世界観、後者を右翼(ライトサイド)的な世界観と見ることもできるかもしれませんが、ここではあえてそういう政治的な言葉を使用する必要性を認めません。
とりあえず、両者には「個」をどこまで重視するかという一点において、決定的な落差がある、ということを確認しておけば十分でしょう。
そして、これはもちろんいずれが正しく、いずれが間違えているという性質のものではありません。ただ単に性格の違いがあるだけなのです。
「セカイ系」の代表作としては『ほしのこえ』とか『最終兵器彼女』とか『イリヤの空、UFOの夏』あたりが挙がるでしょう。『新世紀エヴァンゲリオン』とか西尾維新の『戯言シリーズ』も同系統の作品であるかもしれません。
ひとついえそうなことは、こういった作品がある程度ウケた頃とは、たしかに時代が変わったのではないかということです。
もちろん、その背景にあるものは日本の社会の急速な変化であるのでしょうが、まあ、そこらへんはよくわからない。ただ、いま見るとこの手の作品は非常に甘ったるく感じられます。
とにかく、たとえば『エヴァ』旧テレビシリーズでは碇シンジの存在は最後まで世界を左右しますが、それから十数年後の『新劇場版:Q』では「世界の中心」の座を外されます。
そういう変化もまた、「セカイ系」と「新世界の物語」の対称性と似たところがあるように思われます。
底なしに甘い、ロマンティックな対幻想の、心中ものの悲劇がウケた時代から、マクロ的な視点で世界を眺める、よりきびしい物語がウケる時代へ、とひとまずはまとめることができるかもしれませんが、ここは断定することなく保留しておきましょう。
とにかく、これは非常に面白い話だと思うんですね。「新世界の物語」を巡る話が一歩進んだ感じ。
もうひとつ「新世界の物語」について書いておくと、「新世界の物語」とはどうやらただ「あまりにもきびしい現実」を描くだけでは成立しないらしいということがわかって来たように思います。
つまり、それは必要条件の第一に過ぎなくて、第二の条件がある。その条件とは「その過酷で残酷な世界において、どうやって生きのびていくか」ということである、と。
ようするに「あまりにも過酷で残酷な現実を描き」、しかも「そこでどうやって生きのびていくか」を描き切った作品が「新世界の物語」のなかで名作として、あるいはヒット作として知られるようになる、ということかな。
ちょっと系統が違いますが、『銀の匙』あたりがなぜヒットしたのかもここらへんの事情を踏まえると説明できるような気がします。
あの物語では -
キュウべぇはどこからやってきたのか? 「ほんとうの世界」のリアルと、「新世界の物語」。
2014-07-16 17:0251pt
きょう、LDさんとペトロニウスさんのラジオを聴いていたところ、面白いことを思いついたのでまとめておく。思いついたというか、いままで整理できずにいたことが整理できた、ということなんですけれど。
http://www.ustream.tv/recorded/49943304
このラジオの1時間20分のあたりから今回ふれる「新世界」の話が始まるので、ぜひ聴いていただければ、と思います。
で、「新世界」の話とは何かというと、これ(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar564366)のことですね。あるいはペトロニウスさんがここ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140622/p1)で語っている内容です。
ようするにここ最近、『トリコ』とか『HUNTERXHUNTER』とかで、いままでいた世界よりもっと広い世界=「新世界」を扱っている作品が見られるよね、ということ。
で、その「新世界」って、「現実の世界」のことなんじゃない?ということです。ここでいう「現実の世界」とは、「主人公が保護されていない世界」といっても良いでしょう。
通常、あたりまえの物語においては、主人公の前に表れる敵は強さの順番にあらわれてきます。それは『ドラゴンクエスト』的であるといってもいい。
冷静に考えれば主人公の前に突然最強の敵があらわれて即座に死ぬこともありえるわけですが、まあ、そんな物語は少ない。まずは弱い敵が出て来て、次にそれなりに強い敵が出て来て、そいつを倒すと次は四天王(の最弱)が――というふうにつながっていくわけです。
これはある意味で「現実」を無視した展開ですよね。つまり、そういう「試練が順々に訪れる物語」とは、「保護された世界の物語」であるわけです。
もちろん、保護されているなりに「とても敵いそうにないすごい敵」があらわれないと、物語として盛り上がらないわけですが、それにしても「ちょっと勝てそうにないすごい敵」を次々と出すところが作劇のコツであって、「絶対に勝てないすごい敵」があらわれて終わり、ということにはならない。
たとえばこの手の少年漫画の最高傑作のひとつというべき『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』でいえば、最初にクロコダインが、次にヒュンケルが、フレイザードが出て来て、そこから満を持してバランが出て来る、という順番になっているわけです。
これがいきなりバランが出て来たら困るところだったと思うんですよね(正確にはその前にハドラーが出て来るんだけれど、それはアバン先生が対決してくれます)。
こういう物語は非常にカタルシスがありますが、しかし、ウソといえばウソです。現実にはレベル1の状況でレベル99が襲い掛かってくることがありえる。そしてそれで死んで終わってしまうこともありえる。
つまり、ものすごく理不尽なことが起こりえるのが「現実」の世界。で、この「現実」の世界と「保護された世界」を隔てているのが『HUNTERXHUNTER』でいうところの「無限海」、あるいは『進撃の巨人』でいうところの「壁」なのではないか、というのがLDさんの見立てであるわけです。
これはこれで非常に面白い話なんだけれど、今回、LDさんはさらに『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げて、「この物語でも(新世界の物語のように)ひどいことは起こっている」と指摘し、つまりは「壁」があるかどうかが重要なんじゃないか、と述べています。
つまり、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』では「ほんとうに理不尽なこと」が起こる世界とそうでない世界を分かつ「壁」があるけれど、『まどマギ』にはそれがない、その差が大きいんだ、と。
なるほど、ますます面白い。普通の女の子が突然に理不尽な契約を結ばされてしまう酷烈さが、『まどマギ』のひとつの大きな魅力であったことは自明です。
いい方を変えるなら、『まどマギ』におけるキュウべぇは、「壁」の向こうの世界(「現実」世界)のプレイヤーで、ひとり「壁」を超えてその世界からまどかたちがいる世界にやって来たのだ、ということもできるでしょう(物理的な、あるいは物語設定的な話をしているわけではないことに注意してください)。
この場合、物語は一貫して「壁」の内側で繰り広げられるので、「壁」そのものは登場しないのですが、キュウべえは安全な「保護された世界」に「壁の外=現実」の論理を持ち込んでいるということになります。
そこまでラジオを聴いて、はて、どっかで聴いたことがあるような話だな、と思ったのですが、なんと! ぼくは自分ですでにこの話を書いていたのですね。
『戦場感覚』と題した同人誌の話です。その本のなかで、ぼくは「この世界は戦場である」という感覚、つまり「ひとは保護されていない=保護されているということは幻想である」という感覚に根ざす物語を、「戦場感覚の物語」と名づけたのでした。
『HUNTERXHUNTER』にしろ『進撃の巨人』にしろ『まどマギ』にしろ、すべてまさにこの「戦場感覚の物語」に相当します。ただ、「壁」があるかどうかが重要な差としてあるだけです。
「壁」がない「戦場感覚の物語」は、ある意味でほんとうに身も蓋もないものになります。ある日突然女の子がレイプされてズタボロにされて死んでしまいました、おしまい、といったものがそれにあたります。
ジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』のように。それが「世界の現実」なのだから仕方ない、というのがそういう物語の描写です。
これはある種の「リアリズム」だとぼくは思う。どんなに整備された社会においても、理不尽なことは起こりうる。だったら、その現実を率直に描くのだ、という方法論はありでしょう。
それなら、ただ残酷なだけのお話もその「戦場感覚の物語」に入るのか、といわれれば、答えはノーです。「戦場感覚の物語」とは、その「世界の理不尽なひどさ」に対し、「それでも戦っている」という描写が存在するものだけを指す言葉だからです。ひたすらに弱者がひどい目にあっていれば良いというものではない。
さて、この「戦場感覚」の話とはべつに、ぼくは先述の記事で「人間社会のルール」と「自然世界のルール(グランド・ルール)」といういい方もしてました。
ここでは便宜上、「ルール」といういい方を採っていますが、「自然世界のルール」とはつまり「ルールがない」ということです。「何でもあり」、「どんな理不尽なことでも起こりうる」ということ。
これは「世界は戦場である」ということと同じですよね。つまり、「戦場感覚の物語」とは、「自然世界のルールが支配する舞台で、それでも必死になって戦っている人々の物語」ということになります。
で、ここまで書いていくと、「新世界の物語」における「壁」が何と何を隔てているのか、ということが、ぼくの言葉でも語ることが可能になります。
それは「人間社会」と「自然世界」を隔てているのです!
つまり、「人間的なルールが存在する世界」と「一切のルールが通用しない世界」を分けているといってもいい。
「人間社会」においてはある程度は通用する愛とか、正義とか、人権といったものは、「自然世界」においてはまったく通用しないかもしれません。繰り返しますが、どんなにでも理不尽なことが起こりうるということが「自然世界」なのです。
だから、「自然世界」においては子供が突然殺されたりとか、愛しあうふたりが永遠にばらばらにされたりとか、「起こってはいけないこと」が平然と起こります。
そして、ぼくはぼくたちが住んでいる「ほんとうの世界」とは「自然世界」なのであって、「人間社会のルール」とは、それを包み込む人間の願望のオブラートのようなものでしかないと思っています。何でも起こりうる、という「自然社会のルール」こそ「ほんとうのこと」だと。
しかし、これもやはりその「ほんとうのこと」をそのままに描き出すとほんとうに身も蓋もない物語になってしまいがちです。正義の主人公がある日道を曲がったら交通事故にあって死んでしまいました、ということだって「ほんとうの世界」のルールでは起こるのですから。
ぼくが「世界は間違えている」というのはそういうことです。「世界は人間が作った、人間に都合が良いルールでは動いていない」ということ。それが「身も蓋もない事実」というものだと、ぼくは思っています。
しかし、物語とは、本来、人間の夢と希望と願いが込められたものです。だから、この「自然社会のルール」、あるいは「ほんとうのこと」はとりあえず巧みに隠蔽されて、「愛は奇跡を起こす」とか「正義は勝つ」といったことが描かれるのが普通です。
そして、それらは実に素晴らしい。ぼくは何も皮肉でいっているのではありません。心の底からそういう物語は素晴らしいと思うのです。それはひとの心に希望を与えてくれる物語です。
ただ、それでも、なお、やはりそういった物語にはどこか欺瞞がただようことも事実です。「正義は必ず勝つ」というウソ、「いつまでも幸せに暮らしました」というウソに、どこかでぼくたちは気づいてしまいます。
とはいえ、だからといって「ほんとうのこと」を身も蓋もなくそのままに描いた物語は気が滅入る。たとえばコミケで売っているエロ同人誌を見ればそういう救いのない物語はいくらでも見あたるし、それらは一面で「メジャーな物語の欺瞞に対する告発」でもあるけれど、それだけで満足できるという人はそう多くはないでしょう。
なんといっても、そこには夢も希望もない気がする。で、いま、その「物語のウソ」に気づいてしまい、なおかつ「身も蓋もないほんとうのこと」だけを見たいわけでもない、というひとが一定数を超えたのかな、という気がします。
そこで、「壁」がある物語(「新世界」の物語)が生み出されたのかな、と。ある程度のところまでは守られていて、しかしその先は冷厳な「ほんとうのこと」が待ち受けている、という物語です。
まあ、これはいまのところ特に根拠もない「見立て」ですが、ちょっと面白い見方でしょ。
ペトロニウスさんがよく「ナルシシズムの檻」ということをいいますね。現代社会は、人間が過剰なまでに保護されているが故に、ひとはナルシシズムのループにはまって苦しむのだと。
これを、ぼくの言葉で言い換えると、「自然世界のルール」が隠蔽された「人間社会」に住んでいる人が、その過保護故に自分の存在を確認できなくなった、ということになります。
ペトロニウスさんがいう歴代村上春樹作品の主人公たちもそうでしょうし、真綿で首を締められるような苦しみによって自殺未遂を試みた『自殺島』の主人公などがこの種のキャラクターです。
ですが、かれらはある意味で「安全な(安全だという幻想が確保された)人間社会」に住んでいるからこそ、そういう苦しみに晒されることになったのです。
戸塚ヨットスクールではありませんが、「生きるか死ぬか」という事態に陥れば、ゆっくりとナルシシズムに苦しんでいるヒマもなくなります。
で、どうやら社会がそういうフェイズに入ってきたのかもしれません。お前の主張などどうでもいい! 人類存亡のほうが問題だ、というような、より切迫した時代。あるいは少なくともそういう物語のほうに人々がリアリティを感じ始めているのかも。
『エヴァ』にしても、『新劇場版Q』では、「主人公の選択が世界の命運を左右する」というような自己中心的な地点からは遠く隔たったところに行っているわけです。これらは一様にパラレルな現象であるように思えます。面白いですね。
ところで、上記で取り上げた同人誌『戦場感覚』はいまなら送料込み800円でお買い求めいただけます(笑)。
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さらにその半年前に出した同人誌『BREAK/THROUGH』もやはり800円です。
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『戦場感覚』と『BREAK/THROUGH』を合わせてご購入いただくと1500円でお買い求めいただけます。
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安っ。2冊とも12~13万文字程度の分量があります。よければ、ぜひどうぞ。
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