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記事 11件
  • 『天気の子』対『鬼滅の刃』。

    2021-01-08 04:16  
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     昨日は何と暴風のためインターネットが使えなくなり、更新できませんでした。ごめんなさい。
     さて、先日、新海誠監督の『天気の子』が初めてテレビ放映されました。この機会に初めて作品に触れた人も少なくなかっただろうと思うのですが、衝撃的なクライマックスがどのように受け止められたのか気になるところです。
     いまさらネタバレに配慮する必要も感じないので語ってしまいますが、この作品の終盤で、ヒロインである「天気の子」を失った東京は水没してしまいます。
     そしてその水に沈んだ都市のなかでも人々は健気に懸命に暮らしているのでした、というオチなのですが、どう考えても何万人か何十万人か、膨大な数の人が死んでいるんですよね。
     これは一般に「世界」か「ヒロイン」か、二者択一の状況を突きつけられて、どちらを選べば良いのかわからないというセカイ系の問題軸に対し、「それでもヒロインを選ぶ」というアンサーを示したものと見られています。
     劇場で見たときはあまりにあまりの展開に呆然としたもので、はたしてこの結末をどう受け入れれば良いのか、いまでも悩むところです。
     たしかに、水没した都市のなかで人々は頑張って生きのびている。しかし、それはいってしまえば「たまたまそうだった」というだけのことに過ぎず、可能性としては文字通り都市がひとつ死滅してしまった可能性もあったわけです。
     もっと云うなら、人類が滅亡したかもしれなかったでしょう。それでも、なお、「ヒロインを選ぶ」なら、それはたしかに意味がある。しかし、ほんとうにそうだったのか。ぼくはいまでも思い迷う。
     ここでぼくが思い出すのはディズニー映画『アナと雪の女王』です。この作品でも、アナは姉エルサに対し無償の愛を示し、そのことによって彼女をも国家をも救うことになるのですが、ぼくにはそこで示された「絶対の愛情」がいかにも無根拠なものに思われてしかたなかった。
     ようするにアナは王族であるにもかかわらず何も考えていないからこそ、その国でささやかな人生を生きつづける無辜の人々について思いを馳せていないからこそ、無邪気に「エルサを選ぶ」ことができたに過ぎなかったのではないか。そう思われてならない。
     もちろん、「ヒロインか、世界か」というとき「世界」を構成するひとりひとりの市井の人々の人生にまで思い馳せることは人間には不可能で、だからこそ目の前のひとりの少女を救うことを選ばざるを得ない、という事情はあるかもしれません。
     「世界よりヒロインを選ぶ」と宣言するとき、「そこで犠牲になる「世界」の重さを、ほんとうに十分に想像したか」とぼくは考えてしまうわけですが、そもそも「十分に想像する」ことなどありえないのであって、人は限定された想像力のなかで決断していかなければならないものなのだということです。
     しかし、『天気の子』はともかく、『アナと雪の女王』の「めでたしめでたし」なハッピーエンドを見ていると、どうにも釈然としないものが残ります。
     悪く取るなら、そこにあるものは、ようは自分に関係のない人々のことは知ったことではない、自分にとって好ましい人間だけ生きのこれば良いというエゴイズムであるとも云えるからです。
     一方でその問いをまえに決然と「世界」を選び取ることを描く作品も存在します。他ならない『鬼滅の刃』です。

     『鬼滅の刃』では、 
  • なぜ表現規制は創作市場を殺すのか。

    2020-12-11 16:48  
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     今月号の『ニュータイプ』掲載の『ファイブスター物語』を読みました。ストーリーは先月から詩女マグダルを主人公とした第17巻収録予定のエピソードに移っており、じっさい、辺境の衛星カーマントーにおける彼女の過酷な日々が描かれています。
     しかし、今月最大のトピックはそこではなく、マグダル及びデプレの従弟である剣聖マキシ登場に尽きるでしょう。マキシはジョーカー星団最強の騎士であり、成人したのちは凄まじい戦いをくりひろげ、最終的には昇天して「神」となった人物。
     しかし、この時点ではまだただの少年に過ぎません……いや、この時点ですでに一般的な騎士たちが束になっても敵わない圧倒的な実力を秘め、しかもまともな道徳、倫理が欠落した狂気ともいえる性格をも備えているようですが。
     『ファイブスター物語』にはいろいろな「悪人」、「狂人」たちが登場します。騎士として強大な力を持っているためにだれにも止められない殺人鬼など、アマテラスのミラージュ騎士団には何人もいますし、そのくらいはむしろ「普通」なくらいです。
     しかし、マキシの「狂気」はそういった殺人淫楽症とすらまったく違っているようなのです。人としての倫理を一切有していないかれはある意味では純粋です。
     殺人や強姦は「悪いこと」であるというその前提すら持っておらず、その超帝國の血を表すうつくしい顔で平然と「おかあさんに子供を生ませるのはお前じゃない、ボクだよ」などというとんでもないセリフを吐くのです。
     はたしてこの先、かれがどのようにして成長し、超帝國剣聖たちをも凌ぐジョーカー太陽星団の文字通りの最強騎士として勇名を馳せるようになるのか、注目です。
     それにしても、まわりが注意していないとあたりまえのようにじつの母親を犯したり殺したりしようとするマキシ、『ファイブスター物語』史上でも屈指のやばいキャラクターなのではないでしょうか。あのバランシェをも凌ぐかもしれません。
     そのマキシが神となって「この世に残した願い」を「奇跡」という形で叶えようとするエピソードがこの後にあるはずなのですが、いったい何が起こるのか楽しみでなりません。相当にものすごいことが起こるということなのですが、何だろうなあ。
     『ファイブスター物語』の凄いところはこういう世間の常識をも道徳をも完全に無視してしまう「自由さ」、それに尽きますね。この作品を読んでいると、やはり過剰な表現規制なんてことをしていてはダメだなあ、とあらためて思います。
     赤松健さんもインタビューで語っていますが、日本の創作のつよみは表現規制がゆるいところにあります。

     海外は強い表現規制があるのに対し、日本は規制が緩やかなので画期的なアイディアや過激な表現が生まれやすいのです。中国や韓国の作品はマニュアルを真似て上手なのですが、『鬼滅の刃』や『進撃の巨人』など読者に広くインパクトを与える作品は少ないと思います。
    https://www.bunkanews.jp/article/225423/


     もし日本が海外に倣って表現規制に踏み切れば、 
  • なぜ竈門炭治郎は心折れないのか? 「ケア」と「正義」という両面から考える。

    2020-11-25 18:52  
    50pt

     「『鬼滅の刃』、中1の娘を魅了した「いい子な主人公・炭治郎」…その〈新しさと古さ〉 「忠」「孝」から「ケア」へ」という記事を読んだ(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77444)。
     いまのところ玉石混交、それもいくらか石のほうが多いかもしれない『鬼滅の刃』評のなかで、かなり秀逸な内容である。『鬼滅の刃』を戦前の名作と比較する一方で、炭治郎の倫理的な基盤を「ケアの倫理」に求める発想が光っている。
     筆者は『鬼滅の刃』は大正時代の『猿飛佐助』に似ているという。佐助もまた炭治郎と同様、その超人的な力を利他的にのみ用いる「いい子」なのだ。しかし、著者によれば、佐助と炭治郎の「いい子さ」には大きな違いがある。

    「水の呼吸」ならぬ「水遁の術」で洪水を巻き起こせる佐助の超人パワーをもってすれば天下統一も夢ではないはずだが、剣術で降参させた佐助の説教で相手が改心するのが十八番となっている。佐助が戦うのは、あくまで主君のため。「忠」という儒教道徳に従順な「いい子」なのだ。
    (中略)
    『鬼滅の刃』の炭治郎は親きょうだいを鬼に殺されているが、身体がボロボロになってまで戦うのは「親の仇討ち」のためだけではないし、鬼殺隊を束ねるお館様に忠義を尽くすためというわけでもない。
    大正時代の貧しい炭焼き小屋の長男として生まれ、父亡きあと母を支えて家業と弟妹の世話と家事を担っていた炭治郎の正義の基盤は、「ケアの倫理」にある。ケアの倫理とは、儒教道徳のように秩序を守るために一般化された原理ではなく、それぞれ異なる他者の感情を想像し、配慮し、手を差し伸べるといった具体的な実践に価値をおく倫理である。兄とともに家を支えていた長女の禰豆子も、兄の倫理感を継承している。

     『猿飛佐助』は読んだことがないが、なるほど、と思う。ただ、何も戦前までさかのぼらなくても、いままで少年漫画に「いい子」型の主人公がいなかったわけではない。
     いくつも例はあるだろうが、比較的最近の場合だとぼくがすぐに思い浮かぶのはたとえば『魔法先生ネギま!』の主人公ネギである。
     ネギと炭治郎には共通点が少なくない。ネギも炭治郎に匹敵するであろうほぼ完璧な「いい子」で、エゴイスティックな感情はほとんど見せない。
     また、その冷静な態度が崩れそうになるのは、多くは何者かによって石にされた郷里の家族が関わるときであることも、炭治郎と似ているかもしれない。
     ただ、ネギはおそらくは炭治郎以上に聡明である。まだ十歳でしかないにもかかわらず、かれは徹底して知的かつ倫理的に行動しようとする。むしろ、あまりに知的であり過ぎることが足かせになるほどだ。
     全編にわたって「鬼を殺す」ことの正義をまったく疑っていないように見える炭治郎に比べ、ネギはときに自分の行動の正義を巡る倫理的葛藤、つまり「モラルジレンマ」に捕らわれてしまうのである。
     たとえば、物語前半でのクライマックスである超鈴音(チャオ・リンシェン)との死闘において、ネギはついに「自分の正しさ」を盲目的に信じることができなくなる。相手にも相手の正義があり、もしかしたらそのほうが大局的には正しいのかもしれない。
     持ち前のインテリジェンスでその可能性を悟ったかれは、もはや超のことを単純に悪と見なして対決することはできない。ネギは複数の「正義」が対立し「何が正しいことなのかわからない」というどうしようもない「モラルジレンマ」に陥ったのだ。
     そして、そのとき、ネギはあえて視点を変えれば自分の行動もまた「悪」であることを受け止め、受け入れ、引き受けた上で、それでもなお自分たちの「日常」を守ろうとする道を選んだのだった。この複雑に錯綜した倫理的な思考は『鬼滅の刃』にはあまり見られないものであるように思える。
     さて、このような「モラルジレンマ」の問題を発達心理学の観点から考えつづけた学者にコールバーグがいる。コールバーグは、「ハインツのジレンマ」と呼ばれる「モラルジレンマ」を用いて人間の道徳的発達段階を測ろうとしたことで知られている。
     この問題は色々な言葉で語られているが、今回はこの論文(https://www.r-gscefs.jp/wp-content/uploads/2017/06/%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9vol.13_08_%E3%80%90%E8%AB%96%E6%96%87%E3%80%91%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BC%B8%E5%BD%A6.pdf)から引用しよう。

    ハインツの妻Xが特殊ながんにかかっており、いまにも死にそうな状況に置かれている。Xの担当医は、ハインツに対して、Xが助かるには薬屋Yが発見し、製造・販売している薬を飲む以外助かる方法はないと説明した。その薬は、10万円の製造費に対して、100万円で販売している。
    ハインツは、妻を助けようと親戚や知人などからお金を集めたが、半額しか集めることはできなかった。そこでハインツは、Yに事情を説明し、安く売ってくれるか、まずは半額を支払い残りはその後にしてもらおうと交渉した。
    しかし、Yは、「私が薬を発見した。私は、それを売って儲けるつもりだ」と言い、取り合ってくれなかった。そこで、悩んだハインツは、薬を盗もうと薬屋に忍び込んだ。

     このとき、ハインツの行動を是とするべきか、非とするべきなのか、とコールバーグは問うのだが、フェミニスト、倫理学者、そして心理学者であるキャロル・ギリガンがこのジレンマに対して疑義と批判を突きつけるために持ち出したのが他ならぬ「ケアの倫理」という概念なのだ(『もうひとつの声』)。
     ギリガンはコールバーグの道徳的発達の階梯に関する認識を「ケアの倫理」という対抗概念とともに批判する。どういうことなのか、くわしく解説している記事から引用しよう。

    コールバーグは、道徳性の発達の基準は、以下のようなプロセスを経るという。まず自己中心主義(例:妻を見殺しにすると社会的制裁をうけるので 盗むべきだ/盗むと警察に捕まってしまうので盗むべきではない)。つぎに社会的視点の獲得(例:妻は薬を必要としているから盗みは正当化される/薬を盗まずに妻が死んでもお金が集まらなかったことは非難されるべきじゃない、従って、盗むという手段に訴える必要はない)。そして原理的な考察にいたるような視点に至る(例:薬を盗むことと「生命(一般)を救うこと」は直結しているので、命を救うためには盗みはやむをえない/ものを盗むことは一般的に反道徳的な行為なので盗んではならない)。
    コールバーグの結論は、最終的に女性は自分の行動を正当化できないが、男性は行動の理由を説明できると結論づけているのである。これは、ジャ ン・ピアジェの、女性は抽象的思考ができず、道徳の完成という規範化には至らないという断定と類似のような判断であると言える(ブルジェール 2014:28)。
    ギリガンは、このような道徳性の発達性が男性(男の子)を中心的モデルにしているために、ジレンマに直面した女性(女の子)の意見、すなわち, モデル形成から抜け落ちた「もうひとつの声(原題:a Different Voice)」に耳を傾け、そこから導きだせる、ジェンダーと結びついた(あるいはそのように訓育される)倫理観を「ケアの倫理」という形で定式化した。
    ギリガンの被験者である、ジャックという男の子は、刑務所に入ってもハインツは奥さんを救うために薬を盗むべきだと答える。他方、エイミーとい う女の子は、盗むべきか/断念すべきかという問いの立て方に対して、薬剤師に話して緊急の事態であり、説得すべきだという問いが前提にする判断とは別のアプローチを考案する(端的に言えば、それこそが関係性の倫理すなわち「ケアの倫理」だということができる)。ギリガンは、コールバーグの論理だと、エイ ミーの判断は「社会的視点」から「原理的な考察」に至る段階で止まっているとするところが(コールバーグ自身の) 問題だとするのである。
    ケアの倫理は、正義の倫理とは対極的な位置にある。正義の倫理とは、裁判のようにさまざまな行動のタイプと、それに対する正当性を検討し、行動 とその行動に価値付けれたものに優先順位をつけるべきだと考えるものである。
    したがって、ケアの倫理学とは、「ケアという実践活動の社 会的属性(=社会的性格)が、ジェンダーにより不均等配分されているのではないかという議論の学問」のことである。そして、ケア倫理の人類学とは、「ケアという実践活動の社 会的属性(=社会的性格)が、ジェンダーにより不均等配分されているのではないかという議論の学問」を文化人類学的に分析する学問である(→「」)
    それに対して、ケアの倫理は、ジレンマにある複数の人たちの責任とそれらの関連性(ネットワーク)に着目し、状況(文脈)を踏まえたナラティブ な(contextual and narrative)思考様式で説明するものである。
    この倫理は、ギリガンは女性(女の子)からの資料収集からモデル化されたが、ジェンダー区分に必ず帰着するわけではなく、男性(男の子)もまた ケアの倫理を共有している――この意義を取り違えるとギリガンはセクシストと誤った理解を誘導することになる。そのため、正義の倫理とケアの倫理は、もちろん共存可能だとギリガンは主張する(cf. 川本 2005:2-3)。
    https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/Ethnics_of_Care.html

     つまり、より一般的で男性的だとされる「正義の倫理」とは異なる「もうひとつの声」として「ケアの倫理」が存在するといっているわけである。
     「ケアの倫理」に対しては特にフェミニストからそれを女性というジェンダーに紐づけている(ように見える)ことを指していろいろと批判があったようだ。
     しかし、おそらくギリガンはべつだん「女性に特有の倫理」として「ケアの倫理」を持ち出したわけではなく、ただコールバーグやカントやロールズといった男性たちが築いた「正義の倫理学」や道徳発達理論の傍らで無視されている「もうひとつの倫理学」に注目を向けようとしただけなのであろう。
     さて、ここでいちばん最初に引用した記事の話に戻る。その記事では、「ケアの倫理」の話に続いてこのように語られている。

    この二人が普段優しい反面、よその子を傷つける強者に危険を顧みず立ち向かう正義心の持ち主だったことが、生前の弟の口から語られる回想シーンがある。二人は鬼が現れる前から、ケアを担う相棒同士だったのだ。鬼とのバトルでも基本的にはお互いを守るように戦うが、兄が自分を守ることで里の人々が守られなくなると判断したら、禰豆子は自らの死を覚悟のうえで兄を蹴り飛ばして民衆を守る戦いへ追いやる。炭治郎も妹の判断を尊重する。二人が戦うのは、自分たちのような悲しい思いをほかの人にさせないためだ。

     はたして炭治郎と禰豆子のこのような行動を「ケアの倫理」という文脈だけで語ることが、あるいは正当化することができるだろうか。
     作中、本来、「優しすぎるほど優しい」少年であるはずの炭治郎はネギのような倫理的な苦悩を見せない。あくまで「人を食う鬼は悪である」という「正義」を信じ抜いて過酷な戦いへ向かうだけである。
     このような炭治郎の倫理観は、それこそネギのそれと比べれば幼く、無邪気で、たとえ「ケアの倫理」を持ち出して考えるとしても、その過激な暴力に対するためらいのなさはまさに倫理的な瑕瑾を抱えているのではないだろうか。
     そうではない、とぼくは思う。炭治郎の行動にはたしかに大いに「ケアの倫理」的な側面があるにせよ、それを「ケアの倫理」だけで説明しきることには無理がある。
     しかし、炭治郎はただ無邪気に自分の倫理的正当性を盲信しているわけではない。炭治郎が鬼を殺すとき、かれを支えているのはもうひとつのモラル、即ち「正義の倫理」なのだ。
     それは「たとえどれほど追い詰められても、自分より弱い人間を食うことは許されない」というシンプルな、あたりまえともいえる倫理である。しかし、作中、炭治郎は「鬼」と「人」との間にこのラインを引き、そこから一歩も下がらない。
     その正義を信じる信念の強さこそが、炭治郎という人間の、底知れない優しさと並ぶ魅力だろう。つまり、炭治郎においては「正義の倫理」と「ケアの倫理」が両立し、しかも補完しあっているのである。
     これこそは、ギリガンが唱えた理想的な倫理状況ではないだろうか。以前、炭次郎は、そして『鬼滅の刃』という作品は、従来の作品では併存させることができなかった「正しさ」と「優しさ」を両立させているところに凄みがある、といった意味のことを書いた。
     それはつまり、「正義」と「ケア」を両立させているということでもある。上記記事によれば「正義の倫理」とは「裁判のようにさまざまな行動のタイプと、それに対する正当性を検討し、行動 とその行動に価値付けれたものに優先順位をつけるべきだと考えるもの」であった。
     そしてまた、「ケアの倫理」とは「ジレンマにある複数の人たちの責任とそれらの関連性(ネットワーク)に着目し、状況(文脈)を踏まえたナラティブ な(contextual and narrative)思考様式で説明するもの」である。
     つまり、いい換えるなら「正義の倫理」とは論理的、あるいは合理的に善悪是非を決定可能な「割り切れる倫理」であり、「ケアの倫理」とはそのような論理性なり合理性そのものに疑義を差しはさむ「割り切れない倫理」であるということができるだろう。
     ネギは、ある重大な倫理的葛藤状況に直面したとき、自分を純粋な意味での「正義」の執行者と考えることをあきらめ、「悪」としての自分を背負う道を選んだ。あるいはこれは『コードギアス』のルルーシュなどに近い態度であるかもしれない。
     それに対し、炭治郎はそのような「割り切れない問題」に対して「正義の倫理」と「ケアの倫理」を両立させることで臨んでいるのだ。
     そのときによって、かれは「正義」を重視したり、「ケア」を重んじたりする。だからこそ、その片方だけでは対処し切れそうもない問題に対しても炭治郎は答えを出していくことができるのである。
     『鬼滅の刃』には炭治郎が「判断が遅い!」と叱りつけられる有名な場面があるが、炭治郎はほとんどつねに複雑な倫理的葛藤を一瞬で判断することを求められつづける。
     このような場合、「ケアの倫理」の「割り切れなさ」はマイナスに働くだろう。したがって、そのとき、炭治郎は「正義の倫理」で「割り切り」、鬼を殺しつづける。
     だが、それでも炭治郎は「ケアの倫理」的な「状況(文脈)を踏まえたナラティブ な(contextual and narrative)思考様式」を捨て去るわけではない。かれはあくまで強靭に、その両者を保ちつづけるのである。
     これが、これこそが竈門炭治郎の真の素晴らしさだ。ぼくはそう思う。「正義」と「ケア」というふたつの倫理的軸を並立させ補完しあわせることによって初めて、かれはいままで多くの者がただ立ちすくむか、さもなければ人としての優しさを捨て去るしかなかった「モラルジレンマ」を突破するのである。
     なぜ、炭治郎にそのようなことができるのか、議論の余地はまだ残っているが、この記事はここで終わることとしたい。最後まで読んでくださってありがとうございました。またね。 
  • 『鬼滅の刃』はゴシックカルチャーの黒い血脈を受け継ぐ。

    2020-11-24 16:29  
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     皆さんご存知のように『鬼滅の刃』は主人公が鬼(吸血鬼)と化した妹を木製の「匣」のなかに容れて鬼殺しの旅をする物語です。で、たぶんこの設定から京極夏彦の『魍魎の匣』を思い出した方もかなりたくさんおられるのではないでしょうか。
     『魍魎の匣』は「匣のなかの少女」というイメージがくり返される作品で、推理小説でありながらその枠から大きくはみ出している異形の大傑作です。
     で、どうもぼくはこういうゴシックでアンモラルでアンダーグラウンドなイメージが好物らしく、『鬼滅の刃』が大ヒットしたことにはニヤニヤを禁じえません。
     ゴシック、転じてゴス(GOTH)という文化については高原英理さんに『ゴシックハート』、『ゴシックスピリット』という二冊の解説書(?)があります。
     この二冊、ぼくは一読して大変感銘を受けたのですが、そうはいってもゴスカルチャーは本来、どこまで行ってもマイナーでアンダーグラウンドな
  • フェミニズムサブカルチャーレビューを嗤え!

    2020-11-17 16:27  
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     毎日新聞のウェブサイトに「これじゃあ男もしんどくない?「鬼滅の刃」の男女観」と題する記事が掲載されて、いま、炎上している。執筆者は元サンデー毎日編集長の山田道子という人物。 この内容が、もう、めちゃくちゃ。お金を払ってまで有料部分を読みたくないという人が大半だと思うから、ここにその有料部分の一部を引用しておく。いや、これ、ほんとうにひどいね。

     女性向け漫画の世界では最近、「女の子」をやめた元アイドルを描く「さよならミニスカート」(牧野あおい、集英社「りぼん」連載)など男性社会に異議を申し立てる作品が話題になっただけに、「鬼滅の刃」は男性と女性の描かれ方が気になった。
     「鬼滅の刃」は、少年漫画雑誌の雄での連載、舞台が大正時代なのは重々承知ではあるが、禰豆子は基本「助けられるヒロイン」。鬼にならないように竹の口枷(くちかせ)をくわえているのは「女はしゃべるな」みたいに私には思えるし、鬼
  • 「壁」が存在しない「後期新世界系」はどのような物語になっていくのか?

    2020-11-15 22:19  
    50pt
     以前の記事で「後期新世界系」という言葉を使いましたが、いま、そのことについて色々と考えています。
     そこで今日は、新世界系が登場してから10年ちょっと、その内実も少しずつ変わってきているよね、という話をしたいと思います。
     まあ、いままで考えて来たことを整理するだけですが、かなり面白い内容になるはず。綺麗に整理したら後はペトロニウスさんやLDさんが思索を進めてくれるでしょう。きっと。
     さて、わかりやすくいうと、いままでの新世界系の定義とは以下のようなものでした。

    ・平和だが欺瞞に満ちた社会と過酷で残酷な世界を隔てる「壁」が存在する物語。

     この「壁」とはあくまで比喩であって、それは作品によって「海」の形だったり(『HUNTER×HUNTER』)、あるいは「崖」だったりするのですが(『約束のネバーランド』)、つまり平和な社会と残酷な世界を隔てる「境界」が存在することが重要であるわけで
  • 『くまクマ熊ベアー』は「ポスト告発系」のなろう発アニメだ。

    2020-11-14 23:08  
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     今季はわりとアニメを見ています。『魔女の旅々』、『神様になった日』、『くまクマ熊ベアー』、『トニカクカワイイ』など。どれも特に傑作というほどではないけれど、それなりに面白い。気楽に見れる。
     そのなかでも『くまクマ熊ベアー』は気に入っています。ある日、なぜか(なぜだろう?)、無敵のクマ装備とともに異世界に飛ばされた女の子がその力で冒険したり人助けしたりするというお話。
     原作はなろう小説で、『転生したらスライムだった件』や『痛いのは嫌なので防御力に全振りしたいと思います。』あたりとほぼ同じ雰囲気を感じます。ひたすら万能な主人公がその超絶能力を駆使して特に苦労もなくやりたい放題するという系統ですね。
     まさになろう小説。キャラクターデザインの可愛さと無邪気な万能感が楽しいです。
     ただ、これはいわゆる「物語」の面白さとは一風異なる味わいでしょう。物語とは、基本的にアップダウンとかコントラ
  • 『鬼滅の刃』、『チェンソーマン』、陰鬱で残酷な『少年ジャンプ』の連載作品は「正しい」。

    2020-11-13 14:19  
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     何だか世界は変わったなあ、と思う今日この頃である。たとえば、『少年ジャンプ』。
     『鬼滅の刃』のヒットに象徴的なことだが、ぼくたちの『ジャンプ』は、たしかに変わった。ページを開けばあい変わらずそこでは熱いバトルが繰り広げられてはいるのだが、一方でその陰惨さ、残酷さも相当のものである。
     もちろん、歴史的に見れば『ジャンプ』では『北斗の拳』や『ドーベルマン刑事』のような過激な暴力描写が特徴の作品も連載されていたのだが、いまの『ジャンプ』の漫画たちはそれとも一風異なっている。
     かつてのスーパーヒーローたちは最強であるのみならずほぼ無敵に等しかったが、いまではそうではない。ただひたすらに無残な「死」が折り重なり、そのことによってのみ物語が先に展開するかのようだ。そのことについて、こんなことを書いている人がいる。

     たとえば近年の「週刊少年ジャンプ」で連載されている(た)『鬼滅の刃』、『チ
  • 『鬼滅の刃』は「目的」と「方法」の主客転倒を乗り越え、新世界の倫理を提示する。

    2020-11-12 10:16  
    50pt
     昨夜、ふと思い立って『鬼滅の刃』を一から読み返していたのだけれど、いやあ、これ、あらためて凄まじい作品ですね。
     絵もそれほど上手くないし、想像力もそこまで非凡ではないし、あきらかに作品全体に甚大な影響を及ぼしている荒木飛呂彦の『ジョジョ』あたりと比べると、決して天才の作品というわけではないのだけれど、匂い立つような暗い情念がこの漫画を傑作にしている。
     で、せっかく読み返して記憶も新鮮になったので、昨日の記事で触れた「強さへのフェティシズム」の話をもう一度考えてみたい。じつはこの記事に関しては、このような批判がある。

    冒頭部分から違和感なんだけど、ヒーローの大多数は「強さは人を助けるため」がテンプレで、悟空や武蔵のような「戦うのがワクワクする」とか「剣そのものの求道」はむしろ例外的な像ですよね?
    もともと「強さとは、闘いとは、他人を守ること。それが無ければ、自分から闘いを求めようとは
  • 『鬼滅の刃』をフェミニズム的に読むのは正解なのか?

    2020-11-11 21:58  
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     『鬼滅の刃』の記事が面白くて、色々とGoogleで検索して見に行っているのですが、そのなかで目立つのがジェンダー系の話。
     たぶん作者がどうやら女性らしいということがあきらかになった関連で出て来ている話だとは思うのだけれど、いくつか興味深い記事があります。まずはこの記事。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76868
     『鬼滅』の「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」というあの妙に印象的なセリフを取り上げ、そこに「新しい男性性」を見ようとする内容です。
     正直、メンズ・スタディーズ的な結論に引き寄せようとするあまり、かなり論旨が飛躍している印象は受けるのだけれど、それでもなかなか興味深い。
     まあ、ただ『バガボンド』が連載中断していることひとつを持ってきて「「俺が強え」を原理とするような、つまりひたすら強さをエスカレーション