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記事 13件
  • どうすればレアキャラ女子と出逢えるのか?

    2016-09-21 05:38  
    51pt
     コメント欄でこんな質問をいただきました。

    海燕さんの本連載、傑作だとおもいます。
    ぼくは、FF8のスコールとキスティス、リノアの関係で理解しました。
    スコールはすべてをATフィールドで遮断します。ナルシシズムの塊です。
    一方、リノアはエロティシズム。
    リノアは「気持ち悪い」「うざい」のがオタクからの評判ですが、
    リノアと対話をするとナルシシズムの中に閉じこもっていられないからで、さもありなん、なのですね。自分の認知のゆがみを見る羽目になる。
    エロティシズムでスコールに接し、ついにはスコールを「コミュニケーション」と「共感」の世界にいざなっていきます。
    一方、キスティス先生は、スコールのことが好きだけれど、
    教員としてどうしたとか、若くてキャリアがどうとか、
    色々な「比較級」の自意識にさいなまれて、
    ATフィールドをまとったまま近づいてきますね。
    「壁にでも話してろよ」と言ってもやっても
  • 恋愛工学はニヒリズムへと人を導く。

    2016-09-17 18:13  
    51pt

     あいかわらず恋愛工学のことを考えています。じっさい、調べれば調べるほど面白い。このネタをまとめて電子書籍を出したいなあと思っているのですけれど、はたして実現するでしょうか。うーん。
     ぼくが考えるに、恋愛工学の最大の特徴は、人と人の「コミュニケーション」を否定するところにあります。ふつう、コミュニケーションとは相手に何らかの「内面」が存在していることを想定し、その「内面」に向けて行うものなのですが、恋愛工学においてはそれは「非効率的」と却下されます。
     たとえば藤沢さんは恋愛工学の教典『ぼくは愛を証明しようと思う。』の刊行にあたって、既存の恋愛物語を否定しています。

    「文学もそうですし、ドラマや映画などを含めても、これまでの恋愛に関する作品は本当の恋愛を描いていなかったのではないでしょうか。恋愛がメインテーマでない作品にも、ほとんど必ずと言っていいほどサイドストーリーに恋愛が入ります
  • 恋愛工学とは非モテを「妄想加害男子」にパワーアップさせる理論である。

    2016-09-15 09:19  
    51pt

     トイアンナさんの『恋愛障害 どうして「普通」に愛されないのか?』という本を読みました。恋愛に関して色々なトラブルを抱え込みがちな性格が、「恋愛障害」として整理されていて、非常に面白かったです。
     この本では男性と女性それぞれの恋愛障害を扱っているのですが、ぼくは男なのでまず男性に絞って見てみると、恋愛障害男子には、大別して「妄想男子」と「加害男子」があるとされています。
     妄想男子とは恋愛に関してネガティヴな妄想を抱いていて、そのために恋愛に積極的になれずにいる男性の事。そして、加害男子とは女性をモラハラ(モラルハラスメント)で傷つけたりセックスの道具として利用しつくす男性の事です。
     まあ、前者は非モテで後者はヤリチンかな、と思うのですが、ここではそのいずれもが「障害」として定義されています。
     ときに女性を傷つけるこのような男性たちもまた、自ら望んでそうしているのではなく、心に負った何らかの傷や認知の歪みのためにそう行動せざるを得ないのだという理屈です。
     ぼくはこの本を読んですぐに藤沢数希さんの「恋愛工学」のことを思い出しました。というのも、恋愛工学のロジックとはここでいう加害男子が女性を落とす方法論なのだと感じたからです。
     もっというなら、恋愛工学とは、妄想男子(非モテ)を加害男子(ヤリチン)に「成長」させるための理論であるといえるかもしれません。
     ただし、妄想男子の妄想を解決してくれる類のものではまったくないので、より正確には妄想男子を「妄想加害男子」にパワーアップさせる理論であるといったほうがいいでしょう。
     それでは、その「妄想」とは具体的にどんなものなのか? とりあえず、前回引用した藤沢さんのインタビューにおける発言を再度掲載しておきましょう。

    藤沢:女性が、自分のことに夢中になっている男性を嫌うのは、生物学的な理由があります。動物のメスは、優秀なモテるオスの子を生み、その子がさらにモテることによって、自分の子孫が繫栄することを本能的に求めます。だから、非モテコミットに陥っている男性は、他の女性に相手にされない非モテ遺伝子を持った劣等オスにしか見えないのです。劣等オスの子を産んだら、子も非モテになって、子孫が繁栄しなくなるかもしれません。それは、メスにとって、なんとしても避けたいことなのです。

     これです、これ。まさに妄想。この思想は世の妄想男子が抱え込んでいる妄想のなかでもかなりメジャーなものではないかと思います(ひょっとしたら藤沢さんのおかげでメジャーになったのかもしれませんが)。
     藤沢さんは「生物学的な理由」といっていますが、まあ、ある種の疑似科学ですね。信じちゃう人は信じちゃう類の意見です。
     ようするに「女に知性や理性なんてものはない。あるように見えるのは見せかけだけだ。女はより強い男とつがって子孫を残すことしか考えられない。なぜならそれが遺伝子の命令だからだ」という意見であるわけで、これは女性に対する徹底した不信と蔑視であるといっていいでしょう。
     いや、恋愛工学理論においては男性もまた遺伝子の欲求に従ってより多くの子孫を残そうと動いているに過ぎないことになっているのですから、恋愛工学の根底には女性というより人間存在そのものに対する不信があるといえるかもしれません。
     この種の「妄想」はじっさい非モテ界隈ではよく見かけるもので、恋愛工学のキー概念は本田透さんの著書でも同様のものを見ることができます。
     ただ、本田さんはそこで「オタクになること」を選び、自分の萌え妄想のなかで生きていくことを選んだのに対し、藤沢さんはあくまで女性に対してアプローチしていくことを選んだ。その差があります。
     それにしても、こうして並べてみると『電波男』と『ぼくは愛を証明しようと思う』の表紙デザイン、そっくりだな。妄想男子の妄想の中身は共通項があるということですかね。
     さて、以下に恋愛障害と恋愛工学の関係について書いていこうと思ったのですが、検索してみたらすでにまったく同じことを書いている人がいたので、まずはその記事から引用させてもらいます(ちなみに見出しは再現できないので、省略してあります)。

     恋愛工学では、決して、相手方女性の気持ちを考えてはいけない。真剣に考えれば考えるほど、相手が可哀想になって、ためらってしまい、その結果、何も手出しができなくなるからである。したがって恋愛工学の実践者は、自らの心をマシーンにして、ことをなさなくてはならない。
     まずはじめにすることは、 「目の前にいる女性をけなすこと」、これである。
     見た目、容姿、振舞い、話し方、仕事、趣味、なんでもいいので女性をけなす。けなすことによってまず、自分が相手方に対して優位な立場にあることを植え付ける。相手方女性がそこで傷つくのも、恋愛工学の手続きの一環である。
     傷つけることによって女性を動揺させる。
     動揺させることによって女性に、「この人は何か普通の男と違う♡」と思わせるのである。
     これは、普段けなされる機会の少ない女性、男から「かわいい」「きれいだね」と褒めてもらうことの多い女性、すなわち恋愛偏差値の高い女性に対して、絶大な効果を発揮すると言われている。
     けなした後、その次には、ちょっとした褒め言葉を与える。これは本心でなくともよい。あくまで工学的マシーンと化し、適当な点をでっちあげ、相手に心の報酬を与えるのである。
     ここで、恋愛工学士は、決して相手に媚びてはいけない。なぜなら女性をつけあがらせるからである。あくまで相手方が男性である自分より下位の存在であり、自分に対して抵抗できない存在であり、人間的に価値の低い人物であることを前提として女性に接する。
     すなわち相手方に、人間としての尊厳がないことを前提としたうえで温情主義的に褒める、という点にポイントがある。
     傷つけられた後、褒められる、これによって女性は、心が動揺し、ドキドキする。そしてこのドキドキを、男性への恋愛感情であると思い込むのである。
     いやむしろ、恋愛工学が説くのは、けなされ、雑に扱われ、傷つけられ、精神的に振り回されることによって生じる感情こそが、真の恋愛感情であるということ、これである。
     自分をけなすような権限のある男性が、自分を温情主義的に賞賛してくれる。
     これこそ、女性の快楽であり、恋愛感情が芽生える瞬間であり、恋愛工学の肝である。
    http://books.nekotool.com/entry/love-affair-disorder

     そうなんですよ。どうも恋愛工学では「女性をけなすこと」が重要な戦術とみなされているんですね。けなした上で、褒める。そうすると女性はドキドキして相手を好きになってしまうと。
     うん、それモラハラですよね、と思うわけですが、恋愛工学が「妄想加害男子」を生み出すための理論である以上、こういう戦術を用いることは必然です。
     ええ、まともなプライドがある女性だったら初対面の男からいきなりけなされたら「ふざけるなバカ野郎!」としか思わないでしょうが、その一方でこの戦術が通用する女性たちはたしかに一定数いると思います。
     そうじゃなかったら少女漫画や少女漫画原作の映画でドS男子だの壁ドンだのが流行ったりするわけないもん。最近やたらに見かけるドS男子は典型的な加害男子の一類型であるわけですが、そういう男性に惹かれる女性はたしかにたくさんいるわけです。
     で、なぜ、こんなめちゃくちゃな理論が時として通用してしまうのか? それは『恋愛障害』を読めばあきらかなように、女性側もまた恋愛障害を抱えているからです。
     『恋愛障害』では、「愛されない女性はパターン化できる」として、「愛されない女性」の特徴をいくつも挙げています。
     それは「いつも複数の男性と同時に付き合う」であったり、「恋愛したいが、異常な奥手」であったり、「自分を殺す「尽くし系女子」」であったりするのですが、共通しているのは強烈な「寂しさ」を抱えていることです。
     ひとりでいると寂しいから、手近な恋愛を求めてしまう。「愛されているという確信」が欲しくて、それを歪んだ形で叶えてしまう。そういうアダルトチルドレン的な「障害」を抱えた女性が(たぶんたくさん)いるのです。
     「寂しさ」というキーワードから、ぼくは例の『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』を思い出します。
      この本の著者の場合は「さびしすぎ」たときにレズ風俗に行って抱きしめてもらうというなかなかユニークな方法を選ぶのですが、より多くの「寂しい系女子」は異性との恋愛に救いを求めることでしょう。 簡単にセックスをさせてあげる代わりに「愛している」とささやいてもらったり、プレゼントを贈りまくる代わりに力強く抱きしめてもらったりという「取り引き」を恋愛の本質と考える女性はいま、相当数いるのではないでしょうか?
     愛されたい――切なる想い。しかし、加害男子たちはそこにつけ入ります。もちろん、妄想加害男子である恋愛工学の信徒たちも。
     かれらはそもそも女性と対等な付き合いをしようという気が最初からありませんから(女とは遺伝子情報の命じるままイケメンや金持ちを狙う下等な生き物だということをお忘れなく)、恋愛障害女子はかれらと付き合ってもほんとうに幸せになることはできません。利用されて、いずれ捨てられる運命です。
     こういう「不幸な恋愛」をしている女性は枚挙にいとまがないものと思われます。そして、恋愛障害を抱える「寂しい系女子」は何度、だれと付き合っても、同じパターンをくり返すことでしょう。
     彼女たちがその不幸な恋愛パターンから抜け出すためには一人前の愛され女子として成長するの「ではなく」、「健全な自己愛」を育て、ひとりでいても寂しくないようになるしかないのですが、なかなかそれはむずかしい。
     多くの人は「愛」と「依存」をはき違えたまま、いつまでも「不幸な恋愛」をくり返します。いわゆる「だめんず・うぉーかー」というやつですね。

     実はこういう人はたとえ自分に好意を向けてくれるまともな男性と出逢ったとしても、自分を傷つける男性のほうに向かって行ったりします。
     妄想男子からすると「不条理だ!」とか「これだから女は!」といいたくなるところかもしれませんが、これも恋愛障害の症状の一種と考えると事態はシンプルです。
     「自分を好きになる男なんて気持ち悪い」とかいう女性は、ようするに自分のことが嫌いなんですよ。心の底で自分にはなんの価値もないと思っているから、そんな自分を好きだという人を気持ち悪いと感じる。そして、自分に対して冷たい加害男子に惹かれてしまう。
     ここで、加害男子と寂しい系女子の間では、一種の「負のマッチング」が起こっています。無意識に「冷たくしてほしい」と願っている女性と内心で女性を憎んでいる男性は、ある意味、相性がいいわけです。
     まあ、世にいう「共依存」というやつですね。恋愛工学が考える「恋愛」とは、この共依存が成立した状態の事だといっていいと思います。
     しかし、ぼくはそれを恋愛とは考えません。この場合、「愛してやるよ」と思っている男性も「愛されている自分を確認したい」と考えている女性も、自分のことしか考えていないからです。
     ほんとうの恋愛が、自分とは全く考え方の違う「他者」との出逢いに始まる「複雑なコミュニケーション」であるとしたら、恋愛工学における恋愛とは歪んだ自己愛、ペトロニウスさんふうにいうなら、ナルシシズムなんです。
     そのことについて、こんなことを書いた記事もあります。

    冒頭で、なぜ「ドS彼氏」が人気なのだろうか、と書いた。逆説的ではあるが、凡俗さや迷い、逡巡といった普通の人間としての内面を見せず、相手を支配する強さのみ見せる男に少女たちが心惹かれるのは、彼の中に被支配という形で愛されている自分をうっとりと見つめるためなのではないだろうか。自分を特別な男に愛されるに値する存在だと考えるためには男の凡庸な内面などむしろ邪魔でしかない。
    http://mess-y.com/archives/32592/3

     まさにその通り。つまりは恋愛障害状態にある男性も女性も、相手の内面など見ていないのです。男性は「いい女とセックスできる強いオスの自分」という自画像を、女性は「格好いい恋人に愛されている自分」というアイデンティティを必要としているだけで、ここに「愛」はありません。双方とも自分しか愛していないわけです。
     それでは、双方がいかにしてこの「孤独な牢獄」を抜け出し、「他者」と、「世界」と出逢うのか、その具体的な方法論については『恋愛障害』に記されていますので、そちらを参照してください。
     ちなみに、 
  • もっとぼくに愚痴を聞かせて。

    2016-05-05 04:09  
    51pt
     あなたはひとに愚痴をいうことはあるだろうか。ぼくはある。わりにしょっちゅう。
     どうも年を取るほどに愚痴っぽくなってきた気がするので、良くないなあと思っている。
     もちろん時にはひとの愚痴を聞かされることだってある。
     で、ここから本題に入るのだが、ぼくはひとの愚痴とか自慢話とかのろけ話を聞くのが、わりに嫌いではないのだ。
     けっこう何時間でも平常心で耳を傾けていられるほうだと思っている。
     まあ、心から集中して傾聴するというわけにはいかないかもしれないが、少なくともひとの愚痴なんてとても聞いていられないということはない。
     愚痴を聞くと「大変なのだなあ」と思うし、自慢話を聞くと「偉いなあ」と感じる。
     そして、のろけ話を聞くと「リア充爆発しろ!」と――いやまあ、のろけ話を聞くことはめったにないのでよくわからない。
     とにかくぼくが愚痴や自慢話を聞かされて抱く感想はそれくらいで、特に相手に悪感情を抱くことはない。
     自分に話して相手の気分が晴れたならそれはいいことではないかというふうに考える。
     まあ、ぼくも忙しかったらいちいち相手をしていられないかもしれないが、たいてい暇なのでべつに問題はないのだ。
     ところが、世の中にはひとの愚痴なんて聞きたくないという人のほうが多いらしい。
     ふうん、と思う。そういうものなのか。
     もちろん、ぼくだってまったくわからないわけではない。逢えば必ず愚痴しかいわない人がいたらいやにもなるだろう。
     しかし、相手が疲れている時とか落ち込んでいるとき、たまに愚痴を聞くくらいのことはなんでもないし、相手の役に立てるのならそれくらいのことはしたいと思うのである。
     偽善的だろうか。そうは思わない。
     というのも、ぼくはべつにそれを自己犠牲的な「善」と思ってやっているわけではないからだ。
     ぼくは負担にならないし、相手の気分は晴れる。それだったら収支はプラスになっているのだからいいではないか、と考えるだけだ。
     なぜ、ひとは愚痴を聞かされると苛立つのだろう。
     それは、ひとつには自分が相手の負の感情のはけ口にされていると感じるからではないか。
     また、相手の負の感情そのものに付き合うことそのものがいやだということもあるだろう。
     どちらもわからないではない。ただ、ぼく自身はあまりそういうことは思わない。
     ぼくをはけ口にしてその人の感情が快復するならべつにそれでかまわないと思うのである。
     やはりなんだか偽善的なことをいっている気がする。だが、ぼく自身の考えとしてはそうではない。
     ぼくが愚痴を聞かされることに抵抗があるのだから、やはりそれは過剰な自己犠牲精神ということになるかもしれないが、そうでないのだから犠牲という言葉はふさわしくない。
     ぼくとしては他人の仕事の愚痴などを聞いていると、「へえ、世の中は大変なんだなあ」と遠い国の出来事を聞かされた旅人のような気分になる。
     何しろ、ぼく自身はまったく大変ではない仕事をしているので(そもそも仕事といえるかどうかも怪しいところだ)、他人の仕事の苦労話を聞くと心から同情する。
     また、こう書くと怒られるかもしれないが、遠い世界の愚痴はけっこう面白い。
     なるほど、世の中というところは大変なところなのだなあと思い、ぼくは一生ひきこもりで終わろうとあらためて誓ったりする。
     それはお前の聞く愚痴が特別面白いのであって、普通の愚痴は面白くないのだ、という人もいらっしゃるかもしれない。
     そうだろうか。 
  • オタクは平等ではない。

    2015-08-01 02:58  
    51pt

     ふじた『ヲタクに恋は難しい』の第1巻、読了。
     pixivにアップされていた漫画を加筆修正してまとめたものだそうですが、面白かったー。
     『Landreaall』みたいにディープな漫画読みの期待に応えるものではないかもしれないけれど、普通の恋愛漫画として、普通に面白い。
     そう、Amazonを見てみたところいろいろ叩かれていて驚いたんだけれど、これ、随所にライトなヲタネタが挟まれるほかはほんとにふっつーの恋愛漫画ですね。
     オタク漫画として読んだら薄いかもしれないけれど、あたりまえの恋愛ものとして読む分には十分に面白い。
     Amazonには憎々しげな叩きコメントが並んでいるわけですが、あえて叩くほど変わったことをやっている漫画じゃないよなあ。
     題材がオタク(作中の表記では「ヲタク」)というだけで、非常にスタンダードな作品だと思う。
     まあ、オタクをネタにして普通の恋愛漫画をやっている
  • 自分という人間がよくわからない。

    2015-07-25 05:19  
    51pt
     えー、月末近くで会員が減っていく時期なのですが、読者の需要を無視して自分語りをしたいと思います。
     書きたいことを書きたいように書いていないと続かないですからね。
     ぼくはよく自分という人間について考えます。自分とはどういう人間だろう、と。
     するとすぐに答えが出ます。「よくわからん」と(笑)。
     これは自分のことだからわからないという側面もあるでしょうが、客観的に見ても相当よくわからない人間なんじゃないかなーと思います。
     もしかしたらぼくのまわりにいる人たちはぼくよりもぼくのことを理解しているかもしれませんが、ぼく自身はぼくのことをよくわからないなーと思っています。
     ぼくの最も親しい他者である母なども「お前はよくわからない」といいます。
     そうだろうな、と思うのですよ。ぼく自身がさっぱりわからないのだから。
     もとより、人間なんてよくわからないものではあります。
     ひとのことを理解できたと感じたとき、それはほとんど錯覚です。
     でも、そのなかでもぼくは割合にわかりづらいほうに入っていると思うのです。
     あるいはだれしも自分についてはそう思うのかもしれませんが。
     ぼくが自分の性格を「よくわからん」というのは、人格に整合性が取れていないように思えるからです。
     ぼくという人間はどこか矛盾している気がしてなりません。どこかでねじ曲がっているような……。
     いや、これもすべての人がそういう側面を持っていることではあるでしょうが、ぼくはたぶんそのねじ曲がり具合がわりと大きいほうだと思う。
     なので、自分で分析しきれない。
     具体的にいうと、ぼくは我が強いのか弱いのかわからないなあ、と思います。
     この場合の我が強いとは自分自身に対しどのくらいプライドを持っているか、ということに近い概念です。
     基本的には頭がいい人ほど我が強く、自己主張もまた激しいとぼくは考えています。
     で、その考え方でいくと、ぼくはあきらかに我が弱い人ということになると思うのですね。
     そもそもあまり頭は良くないですし、主張するべき「自己」というものがいかにもあいまいですから。
     そして、それでは肉体的な人間かというとそうでもないわけで、ぼくは空っぽな奴だなーと思います。
     何をしたいとか、何が欲しいとかいうこともありないですしね。
     この認識にはもうひとつ論拠があります。
     以前にも書いたことがありますが、 
  • ライトノベルの主人公みたいに楽しく人生を過ごしたい。

    2015-07-20 01:11  
    51pt

     敷居さん(@sikii_j)がこんなツイートをしていました。

     読み損ねていた平坂さんの『妹さえいればいい』の一巻を電子書籍で買って読んでいるのだけど、めっちゃくちゃ面白い上になんか色々と共感する部分があってやばい。中高ぼっち気味で大学辞めてしばらく経ってからやたらと仲間が増えて家にわらわらと人が集まってくるとかそれは
    https://twitter.com/sikii_j/status/622647824845402113


     ツレの影響で海外産のビールにはまったりうちに遊びに来た人が家主が漫画読みながらダラダラしている横で勝手に台所使ってなんか用意したりなんか気が付いたら勢いで旅行してたりとかもうなんなのこれ。全部やっとるぞw
    https://twitter.com/sikii_j/status/622649056217567232

     ……時代とシンクロしていやがるなー。
     えー、ここでうらやましいとか妬ましいとかばくはつしろとかいいたいところなのですが、仮にぼくが同じことをやったら3日目くらいで精神がパンクして廃人になることが容易に予想できるので、実のところ特にうらやましくはありません。
     ただ、世間は広いなー、世の中には大変な人がいるなー、と詠嘆するばかり。
     思いつきで旅行するくらいはぼくにもできそうなので今度やろうっと。
     でも、新潟からだと飛行機がいくらか高くつくんだよね。羽田とか成田からだといまはほんとうに安くあちこちへ行けるようなのだけれど。博多行って屋台でラーメン食べたいなあ。
     それはさておき、とにかく『妹さえいればいい』が面白いです。
     昔々、敷居さんに奨められてハマった『らくえん』もそうなのだけれど、これって「学校生活を謳歌できなかった人間たちの第二の青春」の話なのですよね。
     そりゃ、ぼくとか敷居さんがハマるのも当然だわ。
     ぼくも敷居さんほど極端な生活をしているわけではないとはいえ、成人してからネットを通して仲間ができてわいわい騒いで楽しんでいるという点はいっしょ。
     それもだんだんレベルアップしてきていて、最近は自分でも「……いいのかな、こんなに恵まれていて」と思うくらいの域に達しています。
     このあいだ、日本に一時帰国したペトロニウスさんを祝うために某高級レストラン(食べログランキング4.0以上)でランチを取って、その後、友人の家に転がり込んで鍋をつつきつつラジオを放送したりしたんですけれど、そのときの幸せ具合は半端なかったですね。
     広大な邸宅を食事が取れるよう改装したというスペイン料理のレストランも素晴らしかったけれど、友人宅の鍋(と釣りたてのイカ)がとにかく美味かった。
     ペトロニウスさんなんか「和食うめー」、「イカうめー」と涙を流さんばかりの勢いで食べたあと、ラジオの途中で寝てしまうし。
     いやー、幸せでした。何年かに一回ああいうことがあると、それだけで暮らしていけるかもな、というくらい。
     まあ、それはあまりにスペシャルな体験なので、「日常の豊かさ」という文脈とは少々離れているかもしれないけれど、でも、こういうイベントが時々あることじたい、ぼくの現状を示していると思う。
     普段はプアだニートだといっているぼくだけれど、結婚とかしようと思わなければ十分に楽しく暮らしていけるくらいの収入はあるんですよね。
     ええ、それもこれも皆さまのおかげなんですが、それもあって、とにかく最近、あたりまえの日常のクオリティ・オブ・ライフが格段に上がっている気がします。
     それはもう、ひとを妬もうとかうらやもうとかほとんど思わない、思う必要がないくらいです。
     まあ、もともとぼくはひとを妬む気持ちがほとんどない人間なんですけれどね。
     それにしても、最近のぼくの人生は妙に充実してきているなあ、と思いますよ、ほんとに。
     そういえば、 
  • 幸せとは人間関係である。本物の関係を通じて幸福と充実を手に入れよう。

    2015-07-18 03:01  
    51pt

     Amazonインスタント・ビデオで映画『happy しあわせを探すあなたへ』を見ました。
     いまさらではありますが、すっかりレンタルビデオに頼らなくても自宅で動画を見れる時代になりましたね。便利、便利。
     『happy』は「幸せ」について探求したドキュメンタリー映画です。
     この作品のなかにはさまざまな「幸せのかたち」が登場し、「いったい幸せってなんだろう?」という根源的な疑問に答えてくれます。
     このブログを継続的に読まれている方なら、ぼくが最近、幸せについて続けて本を読んでいっていることはご存知でしょう。
     その理由は簡単で、自分自身が幸せになりたいから。
     しかし、現実に幸せに生きることはそう容易ではありません。
     ぼくはいま、幸せと不幸せの境界くらいのところにいて、どちらにも行ける状況にあると思います。
     これから幸せのほうに行きたいのですが、そのためにはどうすればいいか? そのヒントをこの映画のなかに見いだしたいと思っていました。
     この映画は同様の疑問を抱いたらしい映画監督によって企画され、数年の歳月をかけて撮影されました。
     心理学や脳医学の世界的権威たちの協力を得、さまざまな国や立場の人々のなかに幸福を探っていきます。
     映画はまずインドの貧しい車夫を描くところから始まります。
     驚かされるのは、現代社会を生きるぼくたちから見るときわめて貧しいように見えるかれが、それでも「自分は幸せだ」と胸をはって答えていること。
     いままでこのブログでは幾度もくり返し述べてきたことですが、どうやら幸せはその人の富とはあまり関係がないらしいのです。
     じっさい、戦後日本は奇跡的とも思える経済成長を続けて来わけですが、日本人の生活満足度はほとんど変わっていないというデータもあるようです。
     富と幸せのあいだには一定の相関関係こそありますが、イコールで結べるようなたしかな関係はないということ。
     それでは、ひとの幸せはどこにあるのか? 答えはきわめてシンプルです。
     映画を一見してみて感じたことは、「幸せとは人間関係である」ということです。
     抜きん出て幸福度が高い人には、必ずといっていいほど親しい家族や友人がいる。
     そういう人とともに暮らせることが人間の幸せなのです。
     あたりまえといえばあたりまえのつまらない結論かもしれません。
     しかし、幸福学やポジティブ心理学の結論はやはりここに行き着くらしい。
     映画はアメリカや日本のたくさんの家族や仲間を描いて行きます。
     そこから導き出されるのは、良好な人間関係をたくさん持っている人ほど幸せになりやすいという事実です。
     それに対して、あまりに孤独だったり不都合な人間関係しか築けていない人はそうなりづらいばかりか、寿命さえ短くなるらしい。
     映画のなかでは、先進国のなかで最も幸福度が低い国として日本が登場します。
     ここは考えさせられるところです。
     いったいぼくたち日本人に欠けているものはなんなのか?
     真面目に懸命に生きてきたはずの日本人がなぜそれでも幸福になりきれないのか?
     映画はあまりにも仕事をしすぎるからだと匂わせていますが、それはつまり仕事に専心するあまり身近な人間関係を犠牲にしているということではないでしょうか。
     人間関係こそがひとの幸福度を大きく左右する。その事実を忘れないようにしたいと思います。
     もちろん、ひとはいくらだれかと親しくなったところで最後はひとりですし、自ら望んで孤独を選んでいる人もいることでしょう。
     そういう生き方が悪いとはいいませんし、先の記事で書いたように「孤独力」には価値があります。やたら群れればいいというものではない。
     しかし、その一方でやはりひとはその一生を通じて安易な「つながり」に留まらない本物の人間関係を求めていく必要があるのです。
     そういう関係を作り出せた人はまったき幸福をも手に入れることができます。モンスターからお姫さまを救い出した騎士のように。
     ぼくが思い出すのは、ディケンズの『クリスマス・キャロル』です。 
  • 「妬み」という甘美な麻薬。

    2015-04-01 04:46  
    51pt
     「妬み」の話をもう少し続けたいと思います。
     ひとは他人を妬んで蹴落とそうとするもの、ということはわかるのですが、どうもぼくはここらへんのことが実感できない。
     ペトロニウスさんではないですが、ひとを妬んでいる暇があったら自分が幸せになることに時間を使えばいいのに、と思うのです。
     だから、ぼくは嫉妬の落とし穴に陥って人生を台無しにしてゆくひとにはとても冷たいところがあります。
     自分のなかにない心理だから、共感がまったくないのですね。
     世の中には変わったひともいるものだなあ、くらいの思いしかない。
     そういう意味では、ぼくはまったく非情な奴だと思う。
     ただ、本質的に「妬み」の苦しみは他人がどうしてやることもできない性質のものだと思うのですよ。
     自分でどうにかして処理して行かなければならない。
     その感情を他人に向けつづける限り、ひとは成長することも幸福に自己実現することもできません。
     それでは、「妬み」とは何か?
     ぼくはこういうふうに考えています。
     ある人がいて、何らかの点で自分を上回っている。その人の近くにいると、劣等感で苦しい。そういうときに、どうすればいいか? そのような問題だと。
     この問いに対するアンサーはふたつ考えられます。
    1)自分が努力してその人より上へ行く。
     そしてもうひとつ、
    2)その人をいまいるところからひきずり下ろす。
     という選択肢もあるわけなのですね。
     この「2」は必ずしもその人を罠に嵌めるとかそういうことばかりを指すわけではありません。
     自分の頭のなかでその人の存在を貶める、あるいは周囲とのやり取りのなかでその人の価値を低く捉える、そういうことも「2」に入ります。
     つまり、「あんな奴はバカだ」といってみたりとか、集団で「あいつってクズだよな」と話してすっきりする、といったことも「2」のうちに入るわけです。
     よく、ある人に粘着して攻撃しつづけるひとが「それは嫉妬なのでは?」と指摘されると、「あんなくだらない奴に嫉妬したりするはずないだろ」というようにいい返すところを見かけます。
     しかし、その人を「くだらない奴」と捉えることそのものが、既にして嫉妬の表れであるということもありえるわけです。
     自分のなかでその人を過小評価しなければ耐えられないほど、その人の存在に脅威を感じているということなのですから。
     ひとは、だれより下だとかだれより上だといった他愛ない比較の問題からなかなか自由になれないものです。
     やれ一流大学を出たの、大手企業に入ったのということをとても自慢に思う人は少なくないですし、それができない人間を低く見るひともしばしばいます。
     「ひとを正当に、等身大に評価できる」ということは、それじたいひとつの才能であって、だれにでもできることではないのです。
     ひとをありのままに評価できるためには、虚心坦懐でいる必要があり、それはだれにでも到れる心理ではないですからね……。
     ネット上で有名人が口汚くののしられることが多いのは、やはり嫉妬が原因でしょう。 
  • 運命を受け入れて生きるということ。

    2015-02-20 22:26  
    51pt
     えー、今月は更新が少ないですね。さすがに何か新しいアニメか映画あたりの話を書け、と思っている読者の方が大勢を占めると思うのですが、もう少しだけ最近ぼくが思うことについて書かせてください。
     ぼくはここ数年、少しずつ少しずつ良い方向へ変わっていっているという実感があります。随分と無意味なことで苦しんだ気もしますが、それも峠は越したんじゃないかな、と思うのです。
     ぼくがたぶんここ30年くらい引きずっている色々な問題に、解決の道が見えて来た。いや、ずっと長いあいだ、それはそもそも解決の方法などなく、一生抱えていくしかない問題だと考えていたのですが、どうやらそうでもないらしいということがわかって来ました。
     すべては、ちょっとしたボタンの掛け違い――それを何十年も引きずってきただけなのかもしれない、ということに気づいたのですね。
     つくづく思い込みは怖いと思います。どんなに簡単なことでも「自分にはできない」と思い込んでしまったらそれまで。ほんとうにできなくなってしまう。
     それをペトロニウスさんはナルシシズムと呼んでいるのだろうし、ぼくは空転する自意識の問題といったりするのですが、とにかく一旦、「自分はこういう人間だ」と思い込んでしまうと、その枠から抜け出すことは非常にむずかしいように思います。
     それはあるいは幻想なのかもしれないし、そこまではいわなくても事実を過剰に受け止めているかもしれないのだけれど、でも、信じ込んでいる人にとってはそれはまさに真実なのですね。
     しかも、そう思い込んでいるとあらゆる出来事がその思い込みを裏付けているように思えて来る。たとえば、「外にでると危ない」と思い込んでいる人にとっては、雷の一閃や、道ばたのおうとつひとつが、その思い込みの証拠に思えてならないように。
     だから、思い込みに浸らないようにして生きていくことが大切なわけです。しかし、ひとは簡単に思い込んでしまう生き物なので、じっさいそれはむずかしい。
     したがって、常に自分は何か現実と違うことを思い込んでいないか、とチェックしていく必要がある。どうやってチェックすればいいのか? つまり、自分の考えていることを現実と照らしあわせてみるのです。方法はそれしかない。
     そのための具体的なやり方のひとつが、他者とのコミュニケーションということになります。「自分は嫌われているいるんじゃないか?」という思い込みの不安を解消するために最も良い方法は、関係者に直接訊いてみることです。
     その一歩を踏み出せれば、ひとは空転する自意識から自由になれる。しかし、これがなかなかできないんだな。なぜなら、自意識の空転を続けていると、ループする想像によって恐怖や不安が途方もなく大きくふくれ上がってしまうからです。
     その状況下で一歩を踏み出すことは傍から見ているだけの人が想像する以上の勇気が必要となる。ひきこもりの人が部屋から外へ出るだけのことにとてつもない労力を必要とするのも、つまりはそういうことです。
     最近、ブロガーの坂爪圭吾さんが「傷つく前に傷つくな」とくり返し書いているけれど、ひとはじっさい、大方、現実に傷つく前に想像のなかで傷ついてしまうものです。
     それが「ナルシシズムの檻」。けれど、どこかでその「一歩」を決断して踏み出さないことには永遠に肥大化しつづける檻のなかで苦しんでいなければならない。
     だからこそなけなしの勇気を振り絞ろう。そして、なるべく頻繁に、かつ丁寧に「ボタンの掛け違い」を修正しつづけよう。そういうふうに思います。
     栗本薫はその作品のなかで、「それがどんなに過酷でも、残酷であっても、ひとは真実を見つめなければならない」というテーマをくり返し示しているのだけれど、それはつまり、真実だけがひとを思い込みの地獄から解放してくれるからなのだと思う。
     空転しつづける自意識の牢から脱出するためには、「ほんとうのこと」と向き合わなければならないわけなのです。
     ぼくも随分と長い期間、その牢獄のなかにいました。そして、自分には色々なことができないに違いないと思い込んでいました。自分はたとえば楽器をひくことも、カラオケで歌をうたうことも、料理をすることも、皿一枚洗うことすらろくにできない人間なのだ、というふうに。
     これは主に学校生活のなかで営々と築き上げられたコンプレックスだっただろうと思うのですが、いま思うに、そのくらいのことはやる気になればできないはずはないんですよね。
     それはまあ、ものすごく達者になろうと思ったら大変だろうけれど、ある程度のレベルくらいには、時間さえかければ到達できるはず。だから、ぼくは最近、こう考えるようにしています。「ぼくは何でもできる。何にでもなれる」と。
     もちろんほんとうはそんなはずはない、できないことなどいくらでもあるし、なれないもののの方が多いはずだが、少なくとも自分の頭のなかで「できるはずがない」と決めつけることはやめよう、というわけですね。
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