-
『ベイビーステップ』と『灰と幻想のグリムガル』に共通する感性を見た。
2017-03-17 11:5751ptペトロニウスさんの最新記事が面白かったので触発されてぼくも何か書いてみようと思います。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20170316/p1
別に書こうと思っているのですがラジオでしゃべったのですが、鶴巻和哉監督の『龍の歯医者』の男の子も女の子も、旧世代の宮崎駿や庵野秀明に比較すると、自意識の在り方が、凄い弱い。というか、「運命を受け入れている状態」であることに疑問を持たないという言い方になるんですが、それを「弱い」というかは微妙なところで、強い目的意識を持つ宮崎駿の主人公に対して、それでいいのか?と疑問を持ち悩み続けてすくんで動けなくなっていくのが、押井守、庵野秀明という後続のクリエイターの系譜なんですが、その後になると、そういった「疑問自体」を持たないで、あっけらかんと世界に対する姿勢を持つようになるんですね。僕は、『フリクリ』とかの話 -
グリット――ベイビーステップで成長するために必要なメンタル。
2016-11-21 15:5351pt小説を作っていると、「才能」ということについて考えます。何をするにしろ、ひとには才能の有無がある。もちろん、「ある」か「ない」かに分けられるほど単純なものではありませんが、他人より秀でた人もいれば劣った人もいることは事実です。
たとえば音楽などの芸術的才能などは歴然と差が出るものだといえるでしょう。小説ももちろんそうです。創作をするとき、多くの人が「才能の限界」にぶつかり、その道をあきらめてしまいます。
しかし、ほんとうに良い作品を創り出せるかどうかはあらかじめ才能によって決まっているのでしょうか? ぼくは、必ずしもそうではないと考えています。
たしかに才能の差は大きい。あまりにも大きい。しかし、それがすべてではないと考えたいのです。為末大さんの『限界の正体』という本も書かれていますが、ひとは限界に到達する前に「ここが限界だ」とかってに自分で決めつけてしまうものです。
「どうせいくら頑張ったってあいつにはかなわないよ」とか「才能がないからダメに決まっている」とか。つまり、人はしばしば「ほんとうの限界」の前に「心理的限界」を設定してしまうのです。
そして、さらにその「心理的限界」の手前で努力をやめてしまうこともあります。そうなると、「ほんとうの限界」のずっと前までしか到達できないことになります。これでは、結果が出ないこともあたりまえです。
為末さんはかつて陸上界で信じられていた「1マイル4分の壁」という話を持ちだします。その昔、スポーツにおいては「1マイルを4分以上のペースで走ることは人間には不可能である」という「常識」がまことしやかに信じられていたといいます。
その記録は長年にわたって越えられず、まさに「壁」であると考えられていました。ところが、ある人物がその「壁」を乗り越えると、それから1年以内に23人もの人物がその「壁」を越えてしまうのです!
つまり、じっさいには「限界の壁」など実在せず、ただ「心理的な壁」だけが存在していたということです。これこそまさにひとが「ほんとうの限界」に到達することを阻む「心理的限界」です。
それでは、「ほんとうの限界」に到達するにはどうすればいいのか? -
たった4ステップ! だれにでもできる簡単な電子書籍のつくり方。
2016-10-07 22:3951pt電子書籍『『ベイビーステップ』成長の方程式(1)』と『書評集「スタジオジブリは山羊を愛さない」』を出版しました。後者は新書や詩集などノンフィクション本の書評を集めたものです。ご興味のある方はどうぞ。
さて、ここ数日、1日2冊くらいのペースで新刊を出しているわけですが、さすがに疲れて来ましたね。
出版の作業そのものは簡単なのだけれど、電子書籍化する文章を選択してチェックし推敲するのがけっこう手間取る。まあ、2冊で5万文字くらいにはなりますからね。そら楽なわけないよ、とも思います。
ただ、くり返しますが、いま、電子書籍を作ってKindle Storeで販売する方法そのものはおそろしくシンプルです。具体的には、以下の4ステップしか必要ありません。
1)電子書籍化するテキストを用意する。
2)でんでんコンバーター(http://conv.denshochan.com/)でepubファ -
天才ではない者が勝利を勝ち取る条件とは。
2016-06-08 02:4351pt
いつもいっている気がしますが、今週の『ベイビーステップ』が面白いです。
自分の目と身体で直接ウィンブルドンを体験し、「世界の頂上(トップ)」を肌身で感じたエーちゃんが、いよいよ「世界の頂上」を目指して戦い始めます。
いままであいまいだった目標が具体的に定まった意味は大きく、エーちゃんはふたたび爆発的な成長を開始します。
しばらくの間、「プロのきびしさを思い知らされるターン」が続いていただけに、今後の展開には期待です。
それにしても、あらためてわかるエーちゃんのメンタルの強靭さ。
普通、この手の漫画だと、「目標へのあまりにも遠い距離」を思い知られた主人公は絶望し、そのあと初めてそこから這い上がろうとするものなのですが、エーちゃんはそのプロセスをカットしてしまう(笑)。
全然絶望しないんだもん! この人。
それどころか、
世界の頂上(トップ)を目標に定めた練習は突き詰めるほ -
スポーツ漫画に学ぶ自分の能力を最大に発揮する方法。
2016-05-12 12:4351pt
いま、『ベイビーステップ』がめちゃくちゃ面白いです。
ちょうど日本ランキング首位の池爽児VS世界ランキング首位の試合が始まったところ。
世界の頂点を相手に日本のテニスがどこまで通用するか? その試金石ともいえる試合にわくわくが止まりません。
いやー、池くん、かっこいいです。
いままで『ベイビーステップ』は高校レベルから全日本レベルの試合を描いていたわけだけれど、ここに来て一気に世界トップクラスの試合がフォーカスされることに。
主人公のエーちゃんがここにたどり着くのにあと何十巻かかるかわかりませんが、とにかく見ていて面白いことは間違いない。素晴らしい。
エーちゃんはいままで考えられる限り最高のスピードで成長してきたように見えますが、それでも世界トップにたどり着くにはまだ足りないのかもしれません。
あたりまえといえばあたりまえですが、恐ろしい話。
それにしても、エーちゃんは -
天才について本気だして考えてみた。
2016-04-17 02:5051pt
Twitterで言及されていた過去の記事が、自分で書いた内容ながらあまりにも面白かったのでここに再掲しておきます。
7年近く前の記事で、自分自身で書いたことを忘れていたしろものなのですが、あらためて客観的に見てみると面白いですね。けっこううまいじゃんおれ、と思ってしまう。
題材は「天才」、天才とは何か、天才であるとはどういうことなのかについて、ちょっと興味深い結論を出しています。完全に忘れている話なので、楽しんで読めました。
このころの記事は一本一本工夫して書いているのがわかりますね。この頃と比べるといまは手癖で書いちゃっているところがあるなあと反省させられます。
いや、一定以上の量を書いていると毎回何かしら工夫するのは大変なんですが、それにしてもね。
では、どうぞ。
天才――それは光りかがやく言葉である。不運にも(?)生まれつき才能に恵まれなかったぼくなどは、非凡な才能を持った人間にあこがれずにはいられない。
しかし、本当に天才に生まれてくることは運が良いことなのだろうか。そもそも天才とは、才能とは具体的にどういうものなのだろう。今回はいま連載中の漫画を題材にそこらへんのことを考えてみたい。
まずはあいかわらず快調に飛ばしている『ベイビーステップ』の話から。「あむゆわ」というサイトでは、この作品を『テニスの王子様』と対比し、このように語っている。
では、テニプリ嫌いの人々を惹き付けている『ベイビーステップ』の魅力とは何なのか? それは「夢がある」という点である。
(中略)
これに対して『ベイビーステップ』は、「始めるのが遅くても、必死で練習すれば何とかなる」という「夢」を与えてくれる。無論、実際にはエーちゃんには「頭脳」と「目」という超人的能力が備わっているのだが、それ以上に彼の「努力」の側面が強調されることによって、「頑張れば強くなれる」という「希望」を読者に与えてくれるのである。おそらくそれが、「(夢も希望もない物語としての)テニプリが嫌いな人々」の心を掴む上での決定打になったのではないかと思う。
つまり、リョーマが「超人的な技術を習得した派手な天才」であるのに対し、エーちゃんは「超人的な潜在能力を秘めた地味な天才」なのである。前者は「荒唐無稽な演出」で、後者は「荒唐無稽な展開」で、それぞれ読者を惹き付ける。それが両者の違いなのである。
「あむゆわ:『ベイビーステップ』の面白さ」
一読「なるほど」と思わせられる意見ではあるが、少々の異論もある。リョーマが天才であるのと同じくらい、エーちゃんも天才である。そのこと自体には同意するのだが、その「天才」という言葉の中身が少し違う。
エーちゃんの天才とは「視力」とか「頭脳」の問題ではないと思うのだ。以下、そのことについて書いていこう。
さて、ぼくたちが「天才」という言葉で思い浮かべる人物とは、誰だろう。もちろん、ひとによって答えは違うだろうが、それはたとえばアインシュタインであり、モーツァルトであり、そしてたぶんイチローや羽生善治であると思う。
漫画でいえば、『SLAM DUNK』の桜木花道や流川楓あたりが一番に挙がるかもしれない。個人的には、天才を描く作家といえば、曽田正人の名前がすぐに思い浮かぶ。
初期の『シャカリキ』から、最新作の『CAPETA』、『MOON』にいたるまで、かれは一貫して天才としかいいようがない人物を描くことに専心しているように見える。
しかし、先に述べたように、「天才」とはそもそも何なのか、ということを考えていかなくては、天才を語ることはできないだろう。ひとつの答えはこうである。天才とは、常人には不可能な偉業を、楽々と達成できる能力を持つひとのことである、と。
たとえば、桜木花道は作中、常人を遥かに凌ぐジャンプ力の持ち主として描かれている。かれはわずか四ヶ月のあいだに高校トップクラスのバスケットプレイヤーにまで成長してゆく。
常識では考えられない、というよりあきらかに不可能なことを成し遂げる才能――桜木はあきらかに天才だろう。しかし、本当にそうだろうか。桜木はたしかに奇跡のような成長を遂げるが、決して「楽々と」成長しているわけではない。
かれはバスケを始めた時期こそ遅かったものの、その四ヶ月間のあいだ、常人の何倍も努力しているのである。地味な基礎練習を始め、パスの練習、ランニングシュートの練習なども丹念に描かれている。その努力あってこそかれの才能は花開いたのだ。その意味で桜木は決して特別ではない。
いや、とあなたはいうかもしれない。たしかに桜木は努力しているだろうが、凡人はいくら努力してもかれのようにはなれない。桜木はやはり別格である、と。
それはそうだろう、とぼくも思う。ひとにはそれぞれ資質の違いというものがある。努力すれば必ず結果がついてくるというのは嘘だ。だが――それでもなお、ぼくは「だが」といいたい。だからようするに生まれつきの才能がすべてなのだ、とは決して思わないと。
なぜなら、桜木の本当の才能とは、単なるジャンプ力などではないと思うからだ。桜木の才能、それは、いわば一瞬一瞬をひとより熱く生きられる能力なのだと思う。
たとえば曽田正人の描くヒーローたちにしてもそうである。一例を挙げるなら『昴』。不世出の天才バレリーナ昴の人生を描いた作品だが、それでは、昴の天才とは何だろう。
ひとより高く飛ぶジャンプ力か。最高のバレエをイメージする構想力か。たしかにそれらもあるだろう。しかし、それらはやはり本質ではない。ぼくは昴の天才もまた一瞬一瞬をひとより熱く生きられる能力だと思うのだ。
正確には、ひとより熱い生き方を持続する能力、といえばいいのか。ただ一瞬なら、誰でも昴のように生きられるかもしれない。しかし、昴はそれを一生にわたって続けていくはずなのである。
一般に「天才」という言葉から思い浮かぶイメージと裏腹に、昴は決して「楽」をしていない。むしろいつもいつも自分にできる限界まで体力も精神力も絞りとって行動してしまう。実はそれこそが昴の真の才能である。
つまり、彼女はひとより高い質で努力しているのだ。それは単に「ひとより努力をしている」という言葉から思う浮かぶイメージとは違う。ここでは、努力の「量」だけではなく、「質」が問題なのだ。
昴の努力はひとよりハイクオリティなのである。異常なまでにハイクオリティな努力を、信じられないほど長いスパンにわたって継続できるひと――それが、真の天才なのではないか、とぼくなどは思う。
そう、つまりぼくはこういいたいのだ。天才とは、才能とは、世間で信じられているのとは逆――ひとより楽をして結果を得る能力のことではなく、結果にいたる過程においていかに楽をしないかという能力のことなのだ、と。
もちろん、「ひとより少ない努力で結果にいたる」という側面においても、昴や桜木の才能は傑出している。かれらは特別努力しなくてもひとより上へ行けるし、ひとができないこともできる。
しかし、かれらの戦場はそのような「才能」だけでは通用しない世界である。ある物事にかける異常な集中力があって始めてその「才能」は輝くのだと思う。
曽田のあるインタビューを読んでみよう。 -
時代の最先端はどこにあるのか? 天才漫画から、非天才葛藤漫画へ。
2015-10-24 00:4051pt
最近、満田拓也『MAJOR2nd』を読み返しています。
いわずと知れた野球漫画のヒット作『MAJOR』の続編で、前作主人公の息子が主役を務めています。
そこまではいいのですが、興味深いのが、この息子のほうには特別に野球の才能があるようには見えないということ。
それどころか、「肩が弱い」という野球選手としては致命的な弱点を抱えてすらいます。
その現実を思い知らされる頃には本人もやる気を喪失し、道具を捨ててしまおうとするありさま。
それにもかかわらず周りはあきらめずやる気を出すよう勧めて来る。
いや、べつに才能ないんだからべつに野球やらなくてもいいじゃんと思うのですが、周囲からすると野球を辞めるのならほかのことに打ち込まないといけないということらしい。
そこで主人公は葛藤するのですが、いやー、この葛藤が見ていて辛い、辛い。
ぼくが最近読んだ漫画のなかではぶっちぎりで辛い漫画ですね。
才能がある人間が才能を発揮し切れないという物語は悲劇ですが、『MAJOR2nd』は初めから才能がない人間を描いているので、悲劇になりえません。
哀しいことを描いていても、どこか滑稽なのです。その滑稽さが、見ていて痛い、痛い。
もうなんというかひとつの惨劇として完成されていて、いったいこの物語はどこへ進んでいくのだろう、と思いながら見ていました。
ところが、この漫画、売れているんですよね。
第2巻の時点ですでに100万部を突破しているそうで、ということはそれなりに需要があるわけです。
もちろん、大ヒット作の続編ということはあるけれども、Amazonを見ても評価が高いし、意外にウケているらしい。
となると、この野球惨劇漫画のどこがどうウケているのか、気になります。
ペトロニウスさんは、この作品に「主人公になれない者の苦悩」を見て取ったようです。
なるほど、そういわれてみると、そう見えて来る。
『MAJOR2nd』の主人公・大吾は、まわりから主人公であることを期待されながらその期待に応えられないキャラクターと見ることができるでしょう。
そもそも普通は少年野球の段階でそう才能の有無に悩む必要もないと思うんですよね。
親にしても、ただ楽しくやっていればそれでいいという考えの人がほとんどでしょう。
それがなぜ大吾が余計な苦悩を背負ってしまうかというと、やっぱり往年のメジャーリーガーの息子だからに違いありません。
つまり、大吾は「主人公の息子」であり「主人公を継ぐ者」であることを期待される立場なのです。
しかし、かれにはどうしてもそうすることができない。それだけの能力を与えられていない。そこで苦しみが生まれることになる。
これはたしかに時代的なテーマかもしれません。
スポーツ漫画の歴史を考えてみると、しばらく前に「天才漫画」が流行ったことがありました。
『MAJOR』もそうですし、『H2』とか、『SLAM DUNK』とか、人並み外れた才能を持った主人公の活躍を描いた物語ですね。
スポーツ版の俺TUEEEというか、凡人を常識を絶したまさに主人公となるべく生まれてきたキャラクターの成長を見るところに面白さを感じる系譜です。
天才スポーツ漫画は、それまでの泥臭く努力するスポ根漫画とは似て非なるものだといえるでしょう。
もちろん、まったく努力が描かれないわけではないのですが、とにかく主人公が凡人とはレベルの違うところにいることはたしかです。
これは「努力すれば勝利(成功)できる」というストーリーに対する疑義から出て来た作品群なのではないかとぼくは思います。
「結局、最後に勝つのは才能がある奴だよね」というわけではありませんが、とにかく努力さえすれば結果が出るのだ!という信仰とは別次元のところにある漫画たちだといっていいと思う。
そして現代のスポーツ漫画は、そこからさらに一歩進んで、「それでは、天才ではない者が勝つにはどうすればいいのか?」ということを描いているように思えます。
最もわかりやすい例が『ベイビーステップ』であり、あるいは『黒子のバスケ』でしょう。
面白いのは、このふたつの作品では主人公が採用する戦略が真逆だということですね。
『ベイビーステップ』では平均値を高めることで対応しようとし、『黒子のバスケ』では唯一の長所を研ぎ澄ますことを目ざします。
ともかくここでは主人公が非天才(生まれつき天才ではない者)に設定され、それでもなお、勝利を目ざそうとする姿が描かれるわけです。
そこには、どんなに絶望の底に叩き落とされてもあきらめない鉄の意志があります。
そういうふうに考えていくと、『MAJOR2nd』はそのさらに一歩先を描こうとしているのだ、とはいえるかもしれません。
大吾にはそもそも -
『ベイビーステップ』の説明できない作劇術。
2015-09-24 21:5351pt
勝木光『ベイビーステップ』を読み返しています。
第1巻から始めて、いま、第20巻くらい。全日本ジュニアの全国大会が始まったあたりですね。
あらためて読み返してみると色々気づくことも多いわけですが、今回特に思ったのは、作劇の方法論がほんとうに独特だな、ということ。
通常のスポーツ漫画とストーリー展開の方程式が異なっている。非常にオリジナリティが高い。
通常のスポーツ漫画の代表格として、たとえば『スラムダンク』を挙げたいと思いますが、『スラムダンク』と『ベイビーステップ』の作劇を比較してみると落差が露骨にはっきりしています。
『ベイビーステップ』のほうが変わっているんですよ。
いまさらいうまでもないことですが、『スラムダンク』の全体の構成は非常に美しく完成しています。
各試合が過不足なく描き込まれ、日本最強の山王工業への勝利で終わるという流れ。
主人公桜木花道は全体を通し一貫して成長していて、その頂点で物語そのものが完結します。
なんて素晴らしい。
しかし、逆をいうなら、あまりに美しくできているからこそ次の展開は予想しやすいということもいえるわけです。
すべてが「物語的必然」に沿ってできあがっているわけで、たとえば湘北が突然無名の高校に負けてしまうなんてことは起こりえない。
『スラムダンク』の展開は厳密な「漫画力学」にきれいに従っているということもできるでしょう。
しかし、『ベイビーステップ』は違います。
主人公であるエーちゃんがだれに勝ち、だれに負けるかが「物語的必然」で決まっていないように見える。
もちろん、適当に決まっているはずはないのですが、エーちゃんの試合結果は「漫画力学」とはべつの理屈でもって決まっているように思えます。
予想外のところで勝つこともあるし、負けることもありえる。
なぜそこで勝ち、負けるのか、「そのほうが面白くなるから」という理屈では説明できない。
読者から見れば非常に先が予測しにくい漫画といえます。
まあ、読者の予想を先読みしてあえて外しにかかる漫画ならほかにいくらでもありますが、『ベイビーステップ』の作劇はそれとも違う。
どういえばいいのか、「こうなれば面白いはず」という期待をかなりの程度、無視しているようなのです。
典型的なのが -
動機がない人間は勝てない。アニメが垣間見せるきびしすぎる現実。
2015-05-19 02:2751pt
なかなか出来がいいアニメ版の『ベイビーステップ』を見ています。
原作ではしばらく前に通り過ぎてしまったお話であるわけですが、マーシャとか清水さんが登場しているのがひそかに嬉しい。
ふたりともなっちゃんを前に敗れ去っていったヒロインなんだけれど、十分にメインヒロイン張れるだけの魅力があるキャラクターだと思います。
ていうか、可愛いよなあ。マーシャも清水さんも。
なっちゃんの太陽のような輝きがすべてをかき消してしまうんですけれどね……。
リアルではあるけれど残酷だなあ。
それにしても、『ベイビーステップ』を見ていると、主人公であるエーちゃんの動機の強さが印象に残ります。
ペトロニウスさんも書いていますが、エーちゃんは決して選ばれた天才でもなんでもないんですね。
運動能力という意味では凡人でしかありえないかれが、それでも「選ばれた神々の領域」にまで才能を開花させていけるのは、ひとえに高いモチベーションがあったからです。
常に高度な向上心を持って自分をきびしく追い詰めていくかれのスタイルも、すべては「テニスが好きだから」という想いがあってこそ。
その動機の強さを見ていると、ぼくはどうしても『響け! ユーフォニアム』あたりを思い出すわけです。
こちらはまだ最新話まで追いつけていないのだけれど、『響け! ユーフォニアム』はいってしまえば普通のモチベーションしか持たない人たちの物語なんですよね。
自分自身のなかから「とにかくこれをしたい!」という欲望が湧き上がることがない人たちの物語、といえばいいかな。
そのジャンルの才能という意味では、エーちゃんと『ユーフォニアム』の少女たちはそれほど大きな差があるわけではないかもしれません。
しかし、動機の強度が決定的に違う。
エーちゃんはとにかく圧倒的にメンタルが強いのです。絶対的なメンタルを持っている人間とそうでない人間が勝負をすると、長期的にはもう勝負にならないくらいの差が付いてしまうのですよね……。
人間の動機には「内発的動機(内発性)」と「外発的動機(外発性)」があるといわれています。
内発的動機とは、自分の内側から沸き上がってくる動機のこと、外発的動機とは外部的な条件によって決まる動機のことですね。
この内発的動機がエーちゃんは驚異的に強い。こと内発性にかけては、ほとんど天才的といえると思う。
テニスの技術や才能ではなく、この動機の強靭さこそがかれの特別さでしょう。
だからこそ、後発のスタートでありながら、次々とライバルたちを打ち破ることができた。
だれよりも強く勝ちたいと思っている、というか思いつづけていることがかれの強みなのです。
で、だから『ユーフォニアム』は見ていて辛いものがあるんですよね。 -
あきらめのその先に続く世界。相田裕『イチゴーイチハチ!』が日常系の新境地を切り開く。
2015-04-01 05:5051pt
相田裕の新作『イチゴーイチハチ!』を購入しました。
『GUNSLINGER GIRL』が完結して以来、ひさしぶりの商業作品ですが、『バーサスアンダースロー』のタイトルで同人誌で出版されていた作品のリメイクとなります。
第1巻でほぼ同人誌収録分を消化した感じですね。
これが素晴らしい内容で、非常に読ませます。今年の漫画ランキング暫定首位は間違いないところ。
それでは、この作品のどこがそれほど良いのか。
いろいろな評価が既に出ていますが、ぼくはこれは「挫折」と「諦念」の先の「キラキラした日常」を描こうとしているのだと判断しました。
運命に翻弄され、すべてを失い、夢をあきらめたその向こうにある「楽しさ」。それがこの作品のテーマなのではないかと。
『妹さえいればいい。』もそうなのですが、「日常系」と呼ばれたジャンルはここに来ていっそう深みを増している印象がありますね。
物語は、怪我によって野球の道を断念したひとりの少年が、その高校の生徒会に入って来るところから始まります。
かれはほんらいプロを目ざせるほど優れた資質のもち主だったのですが、いまとなってはその道は断念せざるを得ません。
その生徒会のほかの面々は、かれに「野球以外の楽しいこと」を教えようとするのですが――という話。
ぼくはここにある種の「諦念」の物語を見ます。
不条理な現実を受け入れ「あきらめること」の物語といってもいい。
普通、「あきらめ」はネガティヴな文脈で使われる言葉です。しかし、ひとはあきらめることなしには先へ進めない局面がある。
どんなに頑張っても自分の意志が世界に通じないという現実を受け止め、受け入れ、その上で前へ進むとき、「あきらめ」にはポジティヴな意味が宿るのではないでしょうか。
高河ゆんの『源氏』に、平清盛に仕える嵯峨空也がその清盛に捨てられた白拍子の少女を祗王寺へと連れていくエピソードがあります。
そこでは、彼女自身かつて清盛の愛妾であった女性祗王が、かれの無事を祈願していました。
ただ一時愛された思い出だけでここまでできるものなのか、と問い質す空也に対し、祗王は平然と言ってのけます。
「仕方がありませんわ 英雄色を好むと申します 女は華でございます 咲いて散るものです それが運命です 華と生まれたことになんの不満があるでしょう」
そんな言葉を受け、空也は呟きます。
「……わたしは「仕方ない」という言葉が好きです あきらめよりも何か決意を感じさせます」
ぼくはこの場面と台詞が非常に好きです。初めて読んだとき以来、強く印象に残っています。
それではこのやり取りをどう解釈するべきでしょうか。
普通に読むぶんには「女は華でございます 咲いて散るのがさだめです」とは、やけに古風な女性観とも思えるし、男の心変わりを「仕方ない」と受け止める姿勢は後ろ向きとも思えます。
しかし、空也はその「仕方ない」を好きだといい、ただの「あきらめ」と区別して「何か決意を感じさせます」と語っています。
つまり、ここでは「仕方ない」にただの「あきらめ」以上の意味が見いだされているのです。
それはどんな意味でしょう。結論から書くと、ここで語られているものは「ポジティヴな諦念」というべきものであるように思えます。「建設的なあきらめ」といってもいいでしょう。
それはたしかに「あきらめ」には違いないのだけれど、決してネガティヴな意味での「あきらめ」ではない。あきらめることによって前へ進んでいこうとする、意思の力を秘めた諦念なのです。
『イチゴーイチハチ!』の「あきらめ」も、この「建設的なあきらめ」だといっていいと思う。
おかしなことをいっているように思えるでしょうか。
そうではありません。正しい「あきらめ」はその人自身の意思によってなされるものです。
そしてひとはその種のあきらめなしでは生きていけません。生きることとはあきらめつづけることである、ということもできるでしょう。
それでは、負の意味でのあきらめと正の意味でのあきらめをどう区別すればいいのでしょうか。
答えは単純ではないように思えます。たとえば、その道をあきらめることでほかの道を進めるようなあきらめ、ひとつあきらめることで最終的なゴールにより近づくようなあきらめ、そういうあきらめが「良いあきらめ」だ、ということはできるでしょう。
しかし、そのいかにも合理主義的な選択に、ぼくは小さな、しかし見過ごせない違和を抱きます。ほんとうにそんな合理主義的にだけ考えることが正しいのか。
為末大に『諦める力』という著書があります。まさにここでいう「ポジティヴな諦念」について書かれた本です。
しかし、やはりそこでの諦念は「合理主義的な諦念」の次元に留まっている。
ある道を行ってもどうせダメなのだとわかったらさっさとあきらめてほかの道へ行くべきだ、そちらの選択のほうが合理的だ、というような話なのです。
ぼくは、この話に何かとげが刺さったような違和を感じます。
『イチゴーイチハチ!』でいうなら、野球がダメだとわかった少年はべつの道で成功を目ざせばいい、野球にはもう見込みがないのだから、というような話になるでしょう。
ですが、ほんとうにそんなふうに簡単に割り切れるものでしょうか。
割り切るべきなのだ、という思想は正しいかもしれない。けれど、やはり割り切れない思いがある。
『イチゴーイチハチ!』はそんな「どうしても割り切れない思い」を描いています。
そして、「その先にあるもの」を描こうとしているように思います。
為末さんの発想は、ある「競争」で敗者になることを受け入れることによって、べつの「競争」で勝者になろう、というものです。
しかし、それでは、どんな合理的な手段を選んでもどの道でも勝利できない人間はどうすればいいのか。
たとえば、不治の病にかかって余命いくばくもなくなってしまったとき、ひとはやはり絶望するしかないのだろうか。
そうではない、そういうときにこそ「あきらめる力」が必要になってくるのではないか、というのがぼくの考えです。
「あきらめる力」とは「受け入れる力」であり、自分の意志ではどうしようもない現実を受け入れる強さのことだと思うのです。
どうにもままならない過酷な運命を受け入れて一歩一歩前進していこうとする意思――それをぼくの言葉で「戦場感覚」と呼びます。
「あきらめ」と「絶望」は同じものに見えるかもしれない。しかし、ぼくとしてはこういいたいところです。
絶望的な現実を前にしても絶望しないためにこそ、諦念が必要となるのだ、と。
「あきらめる力」とは、ただ単に競争における勝利を目ざすための方法論ではない、一切の勝利がありえない状況をも受け入れるそのための力なのではないか、と。
そして、『イチゴーイチハチ!』はそこから一歩進んで、「あきらめたその先」を描こうとします。ここがほんとうに凄い。
「いつどんな不条理なことが起こるかわからない現実世界」を「新世界」と呼ぶなら、『イチゴーイチハチ!』はその「新世界の楽しみ方」を描こうとしているように思います。
1 / 2