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  • 「SF小説」と「セカイ系」はどこがどう違っているのか?

    2021-07-02 00:11  
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    「セカイ系」は「SF」の一種なのか?
     どうにも検索しても出典が見あたらないのだが、東浩紀から「セカイ系」の定義、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」を聞いた大森望が、「それならSFはみんなあてはまるじゃん!」みたいなことを話した、という記述をどこかで読んだことがある。
     一読してなるほど、と苦笑してしまうような話である。たしかにそうかもしれない。
     SF小説の名作とされるものは、むろん例外はいくらでもあるにせよ、『2001年宇宙の旅』であれ、『ディアスポラ』であれ、『果しなき流れの果に』であれ、『グラン・ヴァカンス』であれ、ここでいう「具体的な中間項」の描写にページを割かない。一気に宇宙の果てまで跳躍する。その良し悪しはともかく、SFにはたしかにそういうところがある。
     ちなみに、Wikipediaによると、「具体的な中間項」とは、「国家や国際機関、社会やそれに関わる人々」を指している。つまり、東の定義によれば、セカイ系とは「小さく個人的な関係が、一気に世界的な大問題に直結する作品」を指していることになる。
     大森による(らしい)指摘は、それはべつだんセカイ系とされている作品の専売特許でもないだろう、ということだろう。
     しかし、どうだろうか。広くセカイ系の代表作と見られる作品、『ほしのこえ』や『最終兵器彼女』などを見ていると、やはり従来のSFとはどこか違っているようにも感じられる。具体的にどこがどう違うのか、少し考えてみよう。
    セカイ系と「SF的リアリティ」の欠落。
     まず、思いつくのはセカイ系作品のSF的な意味でのリアリティの欠如である。ぼくはよく庵野秀明監督の『トップをねらえ!』と新海誠監督の『ほしのこえ』を比較して考えるのだが、前者にはたしかにあった「SF的にリアリティを増進させようとする態度」が後者には決定的に欠けていると感じる。
     もちろん、前者も後者も、あらゆる意味で荒唐無稽な物語であることは同様である。いわゆる「メカ(ロボット)」と「美少女」をそのままに描いたどこまでも非現実的なストーリー。
     あえていうなら前者には存在するある種の含羞のようなものが、後者にはほとんど感じ取れないかもしれないという違いはあるが、前者が後者に比べて特段にリアルであるとはとてもいえそうにない。
     しかし、SF的な意味でいうのなら、やはり前者にはある種の配慮があり、後者にはそれがないのだ。つまり、『トップをねらえ!』はまだウソはウソとして、それでも一貫性のある虚構を成り立たせようという努力が見られるが、『ほしのこえ』は虚構の虚構性を意図的に前面化している、ということになる。
     だからこそ、『トップをねらえ!』では一応の疑似科学設定がほどこされているのに対し、『ほしのこえ』では制服を着たまま銀河のかなたまで行ってしまうし、何光年離れようと携帯電話が通じるのだ。
     おそらく、新海はそこでたとえば「ワープ通信機能を備えた特殊な携帯電話なのだ」などといった設定を付け加えることを蛇足だと考えたのだろう。
     新海にとって重要なのはセンチメンタルなラブストーリーを美しく描きだすことであり、設定の科学的/疑似科学的一貫性などどうでも良いことだったのだと思われる。
    SF小説は「ミクロ」が弱い。
     このようにSFはSF的首尾一貫性にこだわるが、セカイ系は特別こだわらない、という違いはあるように見える。『最終兵器彼女』でも、なぜ一般人の少女が世界最強の最終兵器になってしまったのか、そこに合理的な説明は一切ない。
     ただ、これも「強いていうなら」というだけの差であって、いわゆるハードSFとは違う系統のSF小説には、その種の科学設定にほとんどこだわらない作品もいくらでも見られることもほんとうだ。
     そういう意味では、SFとセカイ系のより大きな違いとしては、SF小説では一般にセカイ系において「きみとぼく」に相当する部分の比重が小さいことが挙げられるだろう。
     これは「近景(別所実)」とか「想像界(ジャック・ラカン)」といった語に対応させて語られる部分であるが、ぼくは経済学的に「ミクロ」と呼びたい。つまり、個人と個人の関係性の領域である。
     SFでは個人的なミクロ描写にあまり力を入れないのだ。あくまで一般論であって例外はいくらでもあるには違いないが、SFでフォーカスされるのは、未知の新技術とか、世界の革新とか、宇宙から襲来する異星人とか、そういった「抽象的な大問題」、つまり「マクロ」である。
     だから、先ほど述べた『2001年宇宙の旅』も、『果しない流れの果に…』も、名作であることは間違いないが、登場人物の名前などひとりも憶えていない。
     これはぼくが特殊なのではなく、クラークやイーガンの天才は認めても、その作品に出て来る人物の名前を正確に記憶している人など、ほとんどいないのではないだろうか。そういうものなのだ。
    ここが違う! 「SF小説」と「セカイ系」の落差。
     つまり、SFとセカイ系では、SFでは「マクロ(抽象的な大問題)」に注力される一方で「ミクロ(きみとぼく)」の描写が弱く、セカイ系では「ミクロ」が丹念に描き込まれるものの、「マクロ」はかなり抽象的になるという落差があるわけである。
     繰り返すが、これはあくまでざっくりと見たときにそうなるということであって、そうではない作品も無数に見つかるだろう。
     しかし、ジャンルとはそもそも明確に定義不可能なものであり、そういうふうに雑駁に語るしかないのだ。
     そして、もうひとついえることは、SFもセカイ系も「具体的な中間項(国家や社会)」の描写は弱いということである。大森望の言葉はその意味では的確だ。
     たとえば「地球連邦」や「銀河帝国」の出て来るSFは数多くても、それらを複雑巧緻かつリアリティ豊かに描きだすことに作品は少ないだろう。
     例によってそこに力を注いだ作品もないわけではないが、SFの主流はやはり「中間項」とか「中間領域」と呼ばれる部分よりも、「マクロ(遠景とも、現実界とも呼ばれる)」といわれるところを描くことにある。
     なぜなら、そういった「中間項」を描写することは、べつだんSFでなくてもできるからである。それに対し、「世界の命運」とか「宇宙の危機」といったマクロな主題をあつかった作品は、ほとんどそれだけでどこかしらSF的になってしまうのだ。
    ライトノベルも文学も。
     もちろん、それぞれ「ミクロ」や「中間項(ここではミクロ、マクロという呼称に合わせてミドルと呼ぶことにしたい)」を描きだすことに集中している作品もある。
     たとえばラブコメライトノベルなどはほとんど「ミクロ」しか描いていないだろうし、私小説に端を発する「自然主義文学」由来の「いわゆる文学作品」もそうだろう。「社会派」と呼ばれる作品では社会の描写が中心となる。
     両者はかけ離れているように思われるかもしれないが、それはその作品が「記号的個性(キャラ)」を描こうとしているか、それとも「複雑な内面、あるいは近代的自我(キャラクター)」を描こうとしているかという差があるだけのことである。
     主人公の身近な関係性だけを描いているという意味では、電撃小説大賞受賞作も芥川賞受賞作もそれほど変わりはない。
     ちなみに、「キャラ」と「キャラクター」という呼び方はややこしいようだが、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』を参照した笠井潔『探偵小説と記号的人物』から流用している。
     簡単に要約するなら、前者はある人物の「記号のようにわかりやすい個性の輪郭」のようなものであり、後者はその人物の「個人の欲求と社会規範のあいだで、ときに悩み苦しみ、ときに悶え哀しみながら自分自身について考える心理」のことだ。
     もちろん、ほとんどの作中人物(キャラクター)はこの「キャラ」と「キャラクター」の両方を備えていることだろう。かれらを指して「キャラ」的であるとか、「キャラクター」的であるというのは程度問題である。
    「キャラ」と「キャラクター」の両立。
     この意味での「キャラ」と「キャラクター」の描写をある程度ハイレベルに兼備した作品に、栗本薫の『グイン・サーガ』であるとか、田中芳樹の『銀河英雄伝説』であるとか、京極夏彦の『妖怪シリーズ』であるとかがあるだろう。
     あるいは、ジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』でも良い。これらの作品の登場人物はかなり高い水準で「記号的個性」と「近代的内面」を両立している。
     たとえば、田中芳樹の人物像系の最高傑作ともいうべき『銀英伝』の主人公ヤン・ウェンリーは、「紅茶好き」、「酒好き」、「天才軍人」、「私生活ではなまけ者」といったきわめてわかりやすく記号的な個性を備えているが、それらをすべて足し合わせてもそれだけではヤンにはならないだろう。
     物語のなかでときに悩み、ときに苦しみ、状況に対応していくその内面描写がヤンをヤンたらしめているのだ。とはいえ、ヤンはやはりただ「リアルな人間」とだけいうにはあまりにも記号的/個性的である。
     ヤンではなくヴァラキアのイシュトヴァーンでも、榎木津礼次郎でもそうだろう。ある種の捉えやすさ、わかりやすさと、実在感(むろん、虚構としての実在感)が併存していることが、かれらをして、忘れられないキャラクターにしている。
     そして、もしかれらの「キャラ=記号的個性」が弱ければ、読者は読後にはあっさりとかれらの名前を忘れ去ってしまっていたことだろう。
    ライトノベルは「キャラ」中心。
     これらに対して、傑作とされるライトノベルのキャラクターは、さらにもっと「キャラ」寄りである。涼宮ハルヒも、キリトも、それなりに苦悩はするが、読者はべつだんかれらのそういうところに惹かれているわけではない、という気がする。
     つまりはイラストとセットで描きだされるその「記号的個性」こそが圧倒的主眼なのだ。
     ライトノベルは、その後継であるネット小説も含め、最も「近代リアリズム文学」から遠ざかった作品群といえる。
     もっとも、「近代リアリズム文学」がほんとうに「リアリズム」であり、「近代的自我」を描けていたかというと、それはかぎりなく怪しい。
     ようするに文学とは文字=記号の羅列以上のものではないのだから、文学とは一種の「仮想現実装置」ではありえても、「生々しい現実をそのままに描く」ことなどできるはずもないのである。
     それが「生身の人間を描けている」と認識されるのは、そういう一種の幻想が成立した時代があったということ以上ではないだろう。ここら辺は、大塚英二の文学論に対する東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』などを踏まえて考えるとなかなか面白そうだ。
     ぼくは特にサブカルチャー批評に深い興味があるわけではないからかるく流すが、関心がある方はぜひ追いかけてみてほしい。
    『天冥の標』のキャラクター描写。
     ぼくはいま、小川一水の『天冥の標』シリーズを読み耽っているのだが、メジャーなライトノベルと比べると、かなり登場人物の「キャラ」が弱い、と感じる。
     小川はSF作家としては相当に「ミクロ」も描きこなせる作家だとは思うが、それでも、その「キャラ」はどうしても一定の限界の範囲内に収まっている印象を受けるのである。
     つまりはこれがSF小説が広く受け入れられない理由だ。日本SFは、それこそ小川の作品を初めとして、質的にはいま、何度目かの黄金時代を迎えているといわれているのだが、それでもメジャーにヒットした作品はほとんどない。
     人はあくまでも「ミクロ」のキャラクターにこそ注目する。ハリウッド脚本術などでくどいほど語られていることだが、ミクロレベルのキャラクターが魅力的で好感が持てる性格でないと、大抵の人は物語に興味を示さない。
     マクロレベルの描写がどんなに優れていても、そこに好きになれる人物がいなければ、読者はそもそもその作品を読もうとは思わないのだ。
     しかし、中国ではいま、SF小説がブームで、大傑作といわれる『三体』を初めとする数多い小説がベストセラーになっているという。
     じっさい、中国のAmazonを見に行くと、『ハイペリオン』とか『ファウンデーション』の中国語版らしいタイトルが見つかる。
     これはおそらく、中国ではいま、大衆が「マクロな未来」の行く末に興味を抱く時代が来ているのだろう。日本でもアメリカでもかつてあった現象だ。
    「世界の秘密」を探る物語が流行する?
     日本で大ヒットした『進撃の巨人』は、「ミクロ、ミドル、マクロ」の三領域を制覇した印象がある。
     また、『エヴァ』の頃は「中間項」に興味を示していなかった様子の庵野秀明も、『シン・ゴジラ』以降、急速にその描写を強め、『シン・エヴァンゲリヲン劇場版:||』ではやはり三領域を描き切ったように見える。
     セカイ系が流行った頃から、確実に時代は変わっている。また、現在はミクロの物語ではなく「世界の意味の解明」が主眼となる作品が広く受ける、としている指摘も見受けられる。

    1975年生まれのイギリスの女性作家、ゼイディー・スミスは語ったという言葉があります。
    「誰かがなにかについてどう感じたのかというようなことを伝えるのは、もはや書き手の仕事ではなくなった。いまの書き手の仕事は、世界がどう動いているのかを伝えることだ」(『Present Shock』Douglas Rushkoff、2013より。未邦訳)
    これは村上春樹さんの文学もそうですね。『1Q84』も『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も、わたしたちの日常の薄皮を一枚はいだ裏側に、世界の構造が見えてくるような物語を描いている。
    さらには『進撃の巨人』や『エヴァンゲリオン』も、同じような物語が描かれています。1995年のテレビアニメから今年『シン・エヴァンゲリオン劇場版』にいたるまで、シンジくんは成長はしません。しかし一枚一枚皮をはぐように、世界の構造がどうなっているのかが見えてくる。
    登場人物の物語ではなく、世界の意味の解明と提示が主題となっているのです。
    もし世界が、その構造をつくるコンピュータのOSのようなものと、その上で動くアプリのようなもので成り立っているとしましょう。従来の「物語」は、アプリがつくる起承転結と成長の物語です。でもOSには、始まりも終わりもありません。OSは、「そこにある意味とは何か」「これからどうなるのか」「どこから現れてきたのか」などを聞かない。ただそこに存在しているだけです。
    21世紀のわたしたちが知りたいのは、OSがどのように管理され、どのようなルールで運用され、どのような構造を持っているのかを知りたい。世界の奥底へと降りていき、奥底で駆動しているOSをつぶさに観察して世界の原理を探求したい。
    わたしたちの求める物語への熱情は、そう変容している。
    https://note.com/sasakitoshinao/n/nbdded15d7334

     しかし、どうだろう。ぼくはそのようなマクロ重視の作品が流行する傾向があるとしても、あくまで入り口はミクロの人物描写であると考える。それは一時的な流行としては変わることがあっても、基本的には相当に普遍性の高い事実ではないだろうか。
     一般に人間は人間をこそ好む。社会や、世界といったものの描写を受けつけるのはその次になる。ああ、ただしSFファンは除く。かれらは違う種類の存在だ。何らかの体内器官か、第六感が発達しているに違いない。 
  • セカイ系と初期、前期、後期新世界系の関係はこうなっている。

    2020-11-18 13:39  
    50pt
     うに。あいかわらず「新世界系」について考えています。もうその記事は飽きたよ!と思われるかもしれませんが、まだまだこの話は続くのでどうかお付き合いください。
     LDさんがラジオでちょっと話していたけれど、まだ新世界系の歴史は始まったばかりで、むしろこれからほんとうに始まるのかもしれません。
     で、まずは用語の確認から。このあいだ、ぼくは「初期新世界系」と「後期新世界系」というネーミングを使いましたが、ペトロニウスさんが「前期新世界系」という言葉を使っているようなので、ぼくもそれに倣おうと思います。
     そして「初期新世界系」と呼ぶ場合、「壁」が登場する最も初期の作品である『ONE PIECE』、『HUNTER×HUNTER』、『トリコ』のみを指すことにしましょう。
     そのうえで「前期新世界系」は『進撃の巨人』以降の新世界系を指し、「後期新世界系」は「壁」がなくなった『鬼滅の刃』などの作品を示
  • ゼロ年代を遠く離れたいま、セカイ系は完全な終焉を告げた。

    2020-01-04 03:34  
     あけましておめでとうございます。昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします。さて、昨年最後の記事に続いてセカイ系の話をしたいと思います。セカイ系とは何か? ウィキペディアには、おおむねこのように記述されています。

    セカイ系という言葉の初出は2002年10月下旬のことで、インターネットウェブサイト『ぷるにえブックマーク』で現れたとされている。
    この言葉は当初、その当時に散見されたサブカルチャー作品群を揶揄するものであった。「一人語りの激しい」「たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる傾向」がその特徴とされており、ことに「一人語りの激しさ」は「エヴァっぽい」と表現されるなど、セカイ系という言葉で括られた諸作品はアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』の強い影響下にあると考えられ、「ポストエヴァンゲリオン症候群」とも呼ばれていた。
    この「セカイ系」という言葉は
  • 『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力はどこにあったのか。

    2015-10-24 17:16  
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     つい先ほどまでラジオで話していた内容が興味深いので、ちょっとぼくなりにまとめてみたいと思います。
     端的にいうと、『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力とはなんだったのか、なぜあの作品はウケたのか、という話ですね。
     ご存知の通り、『まどマギ』はここ最近の深夜アニメのなかではトップクラスといっていいくらいにヒットしたわけなのですが、では、なぜヒットしたのか? どこが特別だったのか? と考えるとよくわからないところがあるわけです。
     一見すると、『まどマギ』の特徴は「可愛らしい絵柄の女の子(萌え美少女)を徹底的にひどい目に遭わせていること」であるように見えるし、その点に影響を受けたと思しいフォロワー作品がいくつかある。
     まあ、じっさいに直接的な影響があるかどうかは知りようもないわけですが、『まどマギ』の後、ぼくたちが「女の子をひどい目に遭わせる系」とそのままのネーミングで呼んでいる系譜の作品がいくつか出て来たことは事実です。
     しかし、ほんとうに『まどマギ』のヒット要因がそこにあったのかというと疑問なんですよね。
     というのも、いま述べたようなフォロワー作品はそこまでウケているようには見えないからです。
     どうやら女の子をひどい目に遭わせればそれでいいというものではないらしい。
     むしろ、女の子たちがひどい目に遭うことがありえる世界でどのように生きていけばいいのかというところにフォーカスするべきなのかもしれない。
     と、ここまではいままで語ってきた通りです。
     で、今回、LDさんが仰っていたのが、つまり『まどマギ』とは「女の子(萌え美少女)と一見それと関係なさそうなジャンルを接続するという方法論の作品」のひとつだったのだ、ということです。
     この場合、女の子が何に接続されたのかといえば、ぼくたちがいうところの新世界系(突然ひとが死ぬような過酷な世界を描いた物語)ということになります。
     『まどマギ』とは、萌え美少女と新世界を接続した作品だったわけです。
     そして、その結果、副次的に女の子がひどい目に遭うことになった、ということです。
     つまり、『まどマギ』は女の子を趣味的にひどい目に遭わせたところに魅力がある作品ではなかったし、そこにウケた理由があるわけでもない、ということですね。
     いい換えるなら、『まどマギ』が「女の子をひどい目に遭わせる系」に見えるのは一種の錯覚ということになります。
     もちろん、じっさいに女の子はひどい目に遭っているのだけれど、そこを目的とした作品ではないのです。
     女の子をひどい目に遭わせようという趣味自体は、いうまでもなくはるか昔からあったものと思われます。
     表面に出て来ることは少ないにしても、エロゲやエロマンガといったアンダーグラウンドカルチャーでは、凌辱系と呼ばれるジャンルは昔から人気があったわけですから。
     だから、『まどマギ』はその意味では特に画期的ではない。
     それならどうしてウケたのかといえば、 
  • 『エヴァ』、『Fate』、『進撃の巨人』――その先の「次のゲーム」とは?

    2014-12-10 07:00  
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     先日放送したラジオをLDさんがYouTubeにアップロードしてくれました。
    https://www.youtube.com/watch?v=Sb1djTbIymM
     このラジオのなかでバトルロイヤル系の話が出ていますが、これがなかなか面白かったので、きょうはその話をしましょう。
     バトルロイヤル系とは何か? それは1999年の『バトル・ロワイアル』をとりあえずの嚆矢とする物語の形式で、複数人のプレイヤーが命をかけて戦いあう形式の物語を指しています。
     LDさんによると、バトルロイヤル系はセカイ系の亜種でもあり、セカイ系と同じく『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を大きく受けて発生したものであるということになります。
     つまり、『エヴァ』で碇シンジが「ロボットに乗らない」という選択をしたところからすべてが始まっているのだと。
     自ら行動して物語をひっぱる動機を喪失した碇シンジをいかにして物語に参加させるか、という問いに対して、「戦わなければ死んでしまう」という状況を設定したのがバトルロイヤル系ということになるわけです。
     このバトルロイヤル系は、もちろんさかのぼれば山田風太郎までさかのぼれるわけですが、しかし、現代のバトルロイヤル系は山風とはあきらかに違う文脈から生まれているといえるでしょう。
     LDさんの話で面白かったのは、純粋な意味でのバトルロイヤル系が広まるまでにはそれに対する「抵抗」が存在するということです。
     たとえば、『仮面ライダー龍騎』。たとえば、現在、テレビアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』として放送されている『Fate/stay night』。
     これらの作品においては、主人公は「バトルロイヤルを止めようとする者」として行動します。つまり、ここには「主人公が嬉々として殺し合いに参加することは倫理的に問題がある」という意識がまだ存在しているのではないか、というわけです。
     ところが、後年の『Fate/Zero』においては、もはやバトルロイヤルを制限する倫理的な制約は存在しません。各登場人物は、テロリストであろうと殺人鬼であろうと、思うがままに行動します。
     その結果、いかにすさまじい光景が現出したことか、それは皆さん、ご存知のことと思いますが、とにかく純粋な意味でのバトルロイヤル系は徐々にひろまっていったということになる。
     もちろん、2003年の段階で『DEATH NOTE』のような作品もある。しかし、『DEATH NOTE』においては、やはり夜神月は「悪」として処断されることになってしまったわけですよね。
     わかってもらえるでしょうか? 革命は一日にしてならず、ということなのですね。クリエイターやコンシューマーの意識は少しずつ移り変わっていくのであって、急に一変するわけではないということ。
     バトルロイヤル系も、たとえば『東のエデン』に至る頃にはずいぶんと変質して、セカイ系とはかけ離れたものになっていますが、そういう変化も徐々に進んでいくものなのです。
     その意味では、『Fate』や『DEATH NOTE』もひとつの「過程」であって、その「結果」としての現在をぼくたちは生きているということになる。
     そしてまた、その「現在」ですらもひとつの「過程」であるに過ぎず、また未来に向かって変わりつづけているわけです。
     それでは、「現在」を代表する作品とは何か? 衆目の一致するところ、それは『進撃の巨人』でしょう。『進撃の巨人』のイマジネーションは、紛れもなくセカイ系的バトルロイヤルの先へ行っています。
     LDさんたちは『進撃の巨人』に見られる物語形式を「新世界系」と名づけました。『ONE PIECE』や『HUNTERXHUNTER』などの作品に登場する「新世界」という概念から採ったジャンル名です。「新世界系」については、以下の記事を参照してください。
    http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar563640
    http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar644469
    (ここまで1719文字/ここから1601文字) 
  • 『新世紀エヴァンゲリオン』の狂気とは何だったのか。

    2014-10-29 11:27  
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     おそらくご存知のように、ぼくは物語が好きで、ずっと追いかけ続けている。その思考の軌跡はそのままこのブログに残されているわけだが、定期的にまとめて提示しなければ何を語っているのかだれにも理解できなくなることだろう。
     そこで、今回の記事では、いままでの思索をあらためて振り返り、過去ログの墓場に埋ずもれた論考を再び可視化するとともに、新たな一歩を踏み出すことを目指したい。
     さて、ぼく(たち)の思考はいま、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』といった作品が代表する「新世界の物語」にたどり着いている。
     「新世界の物語」とは、「いつ何が起こるかわからない過酷な現実」をそのまま物語化した作品群を指している。
     『進撃の巨人』の、「人が生きたまま巨人に喰われる」というゴヤ的にショッキングな描写が直接に表しているように、それは一切のヒューマニズム的価値が通用しない世界の物語である。
     日本では少年漫画が代表しているような通常のエンターテインメント作品では、通常、物語は「階段状」に展開してゆく。序盤から中盤へ、そして終盤へ、順を追うほどに敵は強くなり、試練は過酷となる。それが一般のエンターテインメントの描写であるわけだ。
     むろん、エンターテインメントの作法として、そのつど、「とても勝てそうにない敵」、「まるで乗り越えられそうにない試練」を用意しなければサスペンスが機能せず、読者の注目を集めることはできない。
     しかし、それでもなお、それらは最終的には超克されていくのであって、その意味でこれらの作品には畢竟、主人公の成長を促す「階段」が用意されているともいえる。
     この『ドラゴンクエスト』的に美しい予定調和展開は、特に『少年ジャンプ』でくり返し用いられ、膨大な読者を熱狂させた。
     とはいえ、それはフィクションの方法論として底知れない魅力を放っているものの、一面でリアリスティックとはいいがたいこともたしかである。
     現実ではもっと不条理なことが起こりえる。その人物の内面的/能力的な成長を待つことなしに最大の試練が襲いかかってくることもありえるのだ。
     その意味で、『少年ジャンプ』的な「階段状の物語」とは、クリフハンガーが連続する見せかけのサスペンスとはうらはらに、真の不条理が慎重に排除された予定調和の宇宙であるとひとまずはいうことができるだろう。
     ところが、「新世界の物語」においてはその不条理は前景化する。物語序盤において主人公であるエレンがあっさり殺害されるかと見せた『進撃の巨人』の描写がきわめて秀抜であったことは、既に多くの論者が書いている通りである。
     これはつまり「その世界の限りない不条理さ」をそのままに見せた演出であったわけだ。
     しかし、ただこういった「身も蓋もない現実」に登場人物を放り出すだけでは、物語はその猟奇描写で一部の残酷趣味的な読者を満足させるに留まり、広範な支持を集めることはできないだろう。
     そこで用意されるのが「壁」である。これはつまり『ドラゴンクエスト』的な「階段状の物語」世界と、真の意味で過酷な(ゲームバランスが調整されていない、とでもいえばいいか)「新世界」を分断する物語装置である。
     この「壁」が用意されることによって、物語は「新世界=身も蓋もない現実」と適切な距離を保ちながら展開してゆくことが可能となる。
     そして、この「新世界」的な「不条理な苛酷さ」は、虚淵玄脚本で知られる『魔法少女まどか☆マギカ』においても見ることができる。
     しばしば「鬱アニメ」と称されるそのダークな内容の骨子は、「ごく平凡な少女が突然、命がけの契約を結ばされ、戦場に放り出されて死んでいく」点にある。ここでは「契約」の内容をよく吟味せずに契約を結んでしまうたぐいの未熟者はまず生き残れない。
     少女たちの生きる日常世界そのものは決して「新世界」ではないだろうが、無邪気を装って彼女たちに死の契約を奨めるキュゥべえは「新世界から日常世界への侵入者」と見ることができるだろう。
     ここにおいて「壁」は存在せず、「新世界」と日常世界は地続きで、したがって少女たちの物語は決して階段状に展開しないわけだ。
     しかし、それではただ「新世界」的な「不条理な苛酷さ」を丹念に描けばそれで『進撃の巨人』や『魔法少女まどか☆マギカ』のような傑作が生まれるのだろうか。換言するなら、『進撃の巨人』なり『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力とは、その「鬱描写」にこそ存在するのか。
     しかし、思考を進めていくと、どうやらそうではないらしい、ということになる。
     そもそも「身も蓋もない現実」をただそのままに描くことは、特に作劇的工夫を必要としない、ごく容易な作業である。現実世界にはありふれている現実なのだから、ただそれを物語世界に移植すれば良い。
     じっさい、商業エンターテインメントならざる同人漫画などでは、そういった展開の物語を頻繁に見いだすことが可能だろう。
     しかし、当然ながらただそれだけでは一本の悪趣味な「鬱作品」を生み出すに過ぎず、せいぜいが一部にカルト的人気を誇る程度の作品に終わる。
     ここで発想の転換が必要である。現代(テン年代)において必要とされているものは、不条理に過酷な「新世界」そのものではなく、「その新世界のなかでいかに生き抜くか」、その実践的な描写であると考えるべきなのだ。
     「新世界」そのものはあくまで背景であって、主眼はあくまでもその新世界での主人公たちの行動にあるということ。この点を見誤ると、単に露悪趣味的な「鬱作品」しか出来上がらないだろう。
     この「新世界の物語」(より正確に語るなら「新世界と壁と階段状世界の物語」)は90年代の内的思索モード、ゼロ年代の決断主義(あるいは決断幻想)を経て物語がたどり着いた時代の最新モードである、とひとまず述べておこう。
     少なくとも豊饒を究めるテン年代サブカルチャーシーンを切り取る視点のひとつとして、「新世界の物語」というタームは機能するだろう。
     しかし、「新世界の物語」風のアンチ・ヒューマニズム的現実描写を行いながら、それでも「新世界の物語」とは呼びがたい作品も存在する。久慈進之介『PACT』のように。
     『PACT』は第一話にしてヒロインにあたる少女を死亡させてしまっている点などを見てもわかる通り、表面的には新世界的な世界観で貫かれているように見える作品である。
     また、そこには「壁」はなく、したがって物語は一貫して過酷である。しかし、そうであるにもかかわらず、『PACT』においては登場人物が奇妙なまでに感傷的で、「個」の権利を叫びつづける。
     つまり、世界観は新世界であるにもかかわらず、登場人物たちは階段状世界ないしより手厚く保護された世界の描写なのだ。これはいったいどういうことなのか?
     そう、『PACT』は一見して「新世界の物語」と見えるものの、似て非なるものを考えるべきなのだ。ここで思い出されるのが、既に風化しつつある「セカイ系」というジャンルである。
     『PACT』の描写は「新世界の物語」というよりセカイ系的なのではないか、と考えることができる――と、ここまでが「いままでのおさらい」。
     となると、次の作業は「セカイ系」とはどのような物語だったのか、その再考ということになるだろう。
     セカイ系とは 
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    2014-10-27 17:23  
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     城平京&木村有里『ヴァンパイア十字界』全巻、ただいま読み終わりました。これが! これがね! もう、何というか、素晴らしくも凄まじいウルトラ傑作だったんですよ。
     ただ単に「いやー、良い出来だね」、「とても良く描けているよね」という作品は数あるながら、読み手の魂を抉るかのような本物の最高傑作はまず、めったにあるものではない。
     いや、それだけならあるのかもしれないが、そういう作品が正しくぼくのところに届き、この心臓を響かせるという「体験」は、どれだけ繊細にレーダーを張っていても、まず1年に1回あるかないか。ぼくの全人生でもおそらくはそうそうあるものではありません。
     しかし、いま、この奇跡の物語の全貌を読み終えたいま、悲劇の王ローズレッド・ストラウスの人生のありようにさめざめと泣かずにはいられません。
     ペトロニウスさんが既に書いていますが、何という気高さであり、崇高さであり、そして何と美しい生涯なのでしょうか。
     「うらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやってください。」ではありませんが、あまりにも偉大なヴァンパイア最後の王に、花を贈りたいような気持ちです。
     しかし、これは――何をいってもネタバレになってしまうなあ。何をいってもネタバレになる、ということですらネタバレになってしまう。あまりにも端正に組まれた秀抜なシナリオは、ちょっと簡単に語り尽くせるものではありません。
     いずれ語る機会もあると思うのですが、いまはとにかく何もいいたくない。そこで、その背景となっている、ペトロニウスさんがいうところの「ヒーローものの系譜」についてちょっと語っておきたいと思います。
     何か最近になってようやくここらへんのことについて自分なりの言葉で整理できるようになったと思うんですよね。あらためて腑に落ちたというか。
     それにしても、いつものことですが、ぼくが書こうとしていることをわかってくれる人が、果たしてこの文章を読んでおられる方のなかにいるのだろうか、と考えずにはいられません。
     自分自身にとってすらきわめて茫漠としていて、捉えどころがない話でしかないわけですからね。ただ、ぼくに見えている景色を、幾人かの人には共有してもらいたいと思うので、それで書くのですが、ほんとうに伝わるものなのだろうか? わからないですね。でもまあ、書きます。
     さて、ペトロニウスさんは良く「ミクロとマクロ」がリンクしていて、しかもバランスが取れた物語が見たい、という意味のことをいいます。
     ぼくもまったく同感です。ぼくにとって良い物語の条件があるとすれば、それはミクロとマクロの相克が描けていることだ、といってもいいかもしれません。
     ミクロに寄りすぎても、マクロに寄りすぎても、一般的/普遍的な評価はともかく、個人的な評価としては高いポイントは稼げないようです。
     それでは、そもそもぼくはミクロとかマクロとかいう言葉で何をいい表そうとしているのか? ペトロニウスさんはおそらく経済学からこの概念を持って来たと思うので、ぼくとは解釈が違うかもしれませんが、ぼくなりの言葉でいうと、つまりこの場合のミクロとは個人が個人のみで影響を及ぼせる世界で、マクロとはそれを超えた広大な世界のこと、ということになります。
     こう書いた時点で既に問題含みの定義だという気がしますが、まあ先を続けましょう。
     まず常識的なところをさらっておくと、個人は世界に比べて矮小な存在です。個人がその意志だけで世界の命運を決定したり、銀河の運行を左右したりすることは、基本的にはできません。
     基本的には、と書くのはそういうことが起こる物語が現実にいくらでもあるからなのですが、とりあえずはそういうものだ、ということにしておきましょう。
     つまり、個人が決定し左右できる範囲は世界全体と比べてきわめて小さく、狭いのです。それが「ミクロの世界」。この小さな世界を描いているのが「ミクロの物語」です。
     日常ものとか、学園ラブコメとか、あるいはサラリーマンの悲哀がどうとか殺人事件がどうとかといった話はすべてこの「ミクロの物語」に含まれます。
     で、一方、この世界にはそういう個人の小さな事情とはかけ離れた大きな問題が存在します。国際情勢がどうこうとか、宇宙の運命がどうこうとかいう問題です。
     これは、基本的には個人の意志だけで決まって来ることはありえないことで、何十億という人の意志が複雑に関わっていたり、あるいはそれ以上の「世界の理」そのものを巡る問題であったりします。
     もはやはっきりと個人の世界とは断絶したこの世界のことを「マクロの世界」と呼び、その世界で展開する物語を「マクロの物語」と呼称します。
     『三国志』とか『幼年期の終り』みたいな国家の命運だの星々の盛衰が絡む物語は、いずれもみな「マクロの物語」だといっていいでしょう。
     ミクロの物語とマクロの物語。この両者が根本的に異なる性質を持つことはわかってもらえるでしょうか。
     たとえば、アーサー・C・クラークには有名な長編SFがたくさんありますが、それぞれの作品の登場人物の名前を憶えているひとなど、相当の読者でもほとんどいないのではないでしょうか。
     これが「ミクロが描かれていない」ということです。むろんそれは作品の欠点ではなく、ただそこに主眼がないだけのことなのですが、とにかく「ミクロの物語」と「マクロの物語」はある意味で別物なのです。
     ここが了解してもらえないと、いままでぼくが語ってきたこと、あるいはこれから語ろうとしていることも、ほとんど理解できなくなってしまうと思うので、どうかよくわかっておいてください。
     ミクロとマクロ――このふたつの世界、ふたつの物語は根本的に異なるものであり、異なるテーマを持っていますが、当然、完全に隔たった世界というわけでもありません。
     あるひとつの世界を遠景で見ればマクロが見え、近景で見ればミクロが見える。そういう視点の違いでしかないといってもいいでしょう。
     したがって、「ミクロ的な部分もあれば、マクロ的な部分もある物語」というものが存在しえます。さらにいえば、「ミクロ的な部分と、マクロ的な部分が、互いに影響を与え合っている物語」もまたありえるでしょう。
     というか、じっさいにあります。それが、ペトロニウスさんがいうところの「ミクロとマクロがリンクした物語」です。
     ただ矮小な世間の出来事を細々と描くだけでもなく、ひたすらに壮大な世界のありようをロングショットで追うばかりでもなく、その両者を同時に描き、なおかつ両者が影響しあうさまを克明に綴った物語――そういうイメージでしょうか。
     具体的には、先ほど名前を挙げた『ヴァンパイア十字界』など、ぼくやペトロニウスさんが好んで名前を挙げる作品が挙げられます。あんだすたん?
     『ヴァンパイア十字界』を例として取り上げると、この物語のなかでは、個人の、個人としての愛情や悲劇、運命、戦いなどが詳細に描かれていますが、その一方で、国家と人類の運命の展開もまた縷々と綴られ、しかもその両者が絡まり合い、渾然一体となっています。
     こういうの! まさにこういうのが見たいんですよ! あたりまえすが、『サザエさん』や『ゆゆ式』のようなミクロの物語でマクロの事情が問題にされることはありえません。
     また、マクロを描くことに専心するハードSFなどでは個人のミクロな事情がなおざりにされることがよくあります。しかし、ぼくはその両方を同時に起動させ、絡ませあって描く物語を見たいんだな、といまあらためて思います。
     ただ、作家の資質として両方を完璧に描ける才能の持ち主というものはまずなく、ミクロに寄るかマクロに寄るかするものなのですが。
     相当に天才的なバランス感覚の持ち主でも、たとえば栗本薫は最後にはミクロに寄りましたし、田中芳樹はどうしてもマクロに寄りますよね。そういうものなのです。
     だからこそ、その両者の相克を超絶的レベルで描き切った『ヴァンパイア十字界』がほんとうに信じられないような奇跡的な傑作だということになるのですが、まあそれはいい。
     とにかくそういう「ミクロとマクロがリンクした物語」をぼくは読みたいと思うわけです。
     ちなみに、ぼくはくわしくはありませんが、日本文学は伝統的にミクロの物語を仔細に描くことを良しとし、個人の内面を重視し、いささかマクロを軽んじているようです。
     それでぼくはどうしてもその種の文学に興味を持てず、主にエンターテインメントを読んで来たわけなのです。もちろん、主流文学のなかにも探せば巧みにマクロを描いたものを見つけ出すこともできるでしょうが。
     そして、このブログを長く読んでおられる方ならもうわかったことと思いますが、このミクロとマクロを限りなく近づけ、一体化させ、ミクロが直接にマクロに影響を与えるような、本来ありえざる世界を描き出しているのが「セカイ系」の作品だったのではないか、というのが、最近のぼく(たち)の「読み」です。
     そしてまた、あらためてより客観的に、ミクロとマクロの間の限りない距離を取り戻したのが「新世界の物語」ということになりそうです。ここまではおさらいですが、よろしいでしょうか?
     さて、「ミクロとマクロがリンクした物語」においては、純粋なミクロの物語でもマクロの物語でも発生しないような、「ミクロの事情」と「マクロの展開」のぶつかり合いが起きます。
     たとえば、『ヴァンパイア十字界』の主人公ローズレッド・ストラウスはきわめて傑出した王として国を運営していきますが、決して個人としての心を失わったわけではありません。
     したがって、国を思い民を愛する王(マクロを指導する為政者)としての心と、個の幸せを求めるあたりまえの人間としての心が衝突するのです。
     その具体的な描写はどうしてもネタバレになってしまうので『ヴァンパイア十字界』本編を読んでもらうよりほかありませんが、ともかくこのようなことを、ぼくは「ミクロとマクロの相克」と呼んでいるわけです。
     いい方を変えるなら、それは「個の心情と全体の事情の矛盾」を巡るテーマでもあります。ぼくは、シナリオの根幹のところにその「相克」を仕組んだ物語を読んでみたいんですよ。
     それはある時は「セカイ系」という形を取り、ある時は「新世界の物語」という形を採用することと思いますが、いずれにしろ、そこには「個」の心情を追うミクロの物語にも、「全体」の運命を描くマクロの物語にもない魅力があります。
     ここらへんは個人の好みが関わってくるわけで、ミクロの物語にしか興味がないという人も、マクロの物語にしか関心を抱かないという人もいることでしょうが、それはそれとして、そういうことなのです。
     もう少し話を続けてみましょう。「個」を追うミクロの物語のテーマは、当然ながら「個」の人生です。そして内面です。
     くり返しいうようにぼくはくわしくありませんが、これを極限まで突き詰めた形が私小説なのでしょうね。「わたし」の内面だけにフォーカスして、ひたすらその葛藤なり躍動なりを追いかける物語。まさに「私」の「小説」というわけです。
     一方で、「全体」を描くマクロの物語のテーマは「全体」の運命です。国家や企業や人類や宇宙がどのように変化していくのかという、そのダイナミズムです。
     これを突き詰めると小松左京あたりの巨視的スケールのSF小説になります。偉大な小松左京には傑作としかいいようがない作品がたくさんあるわけですが、しかし、やはり読み終えたあとには主人公の名前などすぐに忘れ去ってしまいます。
     そこではミクロのことはまったく問題にもされていないのです。まあ、あたりまえですよね。人類を描きたいのですから。
     したがって、当然というか、そのどちらかにしか関心がない読者に相反する物語を届けたりすると、不評になったりします。
     先に名を挙げた偉大なSF作家アーサー・C・クラークの代表作のひとつに『宇宙のランデヴー』があります。これはまさに宇宙的スケールでの異星人との接触(ランデヴー)を描いた大傑作なのですが、実は続編があるのですね。それも三作も。
     その続編のほうはじっさいにはクラークではなくジェントリー・リーという作家が書いているらしいのですが、それはSFファンにはきわめて評判が悪かったんです。
     というのも、それが家族がどうの恋愛がどうのというミクロの問題にばかり注目して、宇宙的視野でのランデヴーというマクロの問題をなかなか描かなかったからだとか。
     まあ、ぼくは評判を聞いて避けたのでほんとうかどうかはわかりませんが、とにかくそういうことはありえるし、ある。ミクロとマクロでは扱うテーマがまったく違うのだから当然でしょう。
     で、ぼくはミクロの物語が扱う究極のテーマは「愛」だと思う。「差別」といってもいい。ここらへんは『ヴィンランド・サガ』あたりでくわしく語られていることですが、ぼくは「愛」と「差別」とは同じものだと思うわけです。
     「だれかを愛すること」と「だれかを差別すること」は本質的には変わらないことだと。なぜなら、ある人とべつのある人を比べて、より価値がある人は存在する、つまりより価値がない人もまた存在する、と考えることが「愛」であり「差別」なのですから。
     ただそのポジティヴな面が「愛」と呼ばれ、ネガティヴな面が「差別」と呼ばれているだけのことです。
     もし人間に一切の愛がなかったなら、この世ははるかに円滑に運営されたかもしれません。そこには差別もまた存在しないのですから。
     たとえば、ぼくたちは一般に中東で起きた紛争のことよりも、自分の家族のいじめの問題のほうにずっと心を惹きつけられます。
     中東の紛争だってたくさんの人の命が関わる重要な問題なのだと理性では理解しているはずですが、感情的にはそうきれいに納得できていないわけです。
     しょせん大半の人間はミクロの狭隘な世界を生きているわけで、遠方のマクロの問題にそこまで関心を抱くことは普通はありません。
     しかし、もし、あらゆる人間が「中東の紛争で死んでいく人々」と「自分の家族」を平等に扱ったとしたら? ある種の理想世界が生まれるかもしれません。
     少なくとも戦争などはほとんど起こらなくなるでしょう。戦争とは、そもそも「自分の身近な人」に「遠くの無関係な人」以上の価値がある、と考えるからこそ起こるわけです。
     「敵」より「仲間」にバリューを見いだしているといってもいい。しかし、そういった発想がそもそも存在しない世界では、そんな愚挙は起こらないには違いない。ですが、その世界には「家族愛」などというものもまたありえはしないのです。
     ここらへんの物語を描いて、ぼくから見ると非常につまらない結論を出しているのが、山本弘の『アイの物語』や、『去年は良い年になるだろう』なのですが、それは長くなるのでカットして、また別に語ることにします。
     で、まあ、そういうわけで、ミクロの物語では「愛」ないし「差別」はきわめて重要なテーマです。だからこそ、ミクロの物語の最高のものは、皆、ラブストーリーになるわけです。『ロミオとジュリエット』とか『ノルウェイの森』とか『世界の中心で、愛をさけぶ』とかね。
     わかりますよね? 「恋人が突然死んでしまった。哀しくてたまらない」みたいなテーマは、「恋人」という「個」の死に非常に大きな意味があると考えているからこそ成立するのです。
     他方、マクロの物語で大切なのは「全体」の運命ですから、その構成員である個人が生きようが死のうが、ほとんど問題にされることはありません。あたりまえといえばあたりまえの話です。
     それでは「ミクロとマクロがリンクした物語」のテーマとは何でしょうか? それは「個」と「全体」がどのように矛盾し、ぶつかり合うか、ということになります。
     既に語ったように「個」と「全体」のそれぞれの事情はしばしば互いに相容れないのです。たとえば、「人類の他の惑星への移住プロジェクト」といったマクロな問題のリーダーは、そう簡単に個人の「愛」に溺れることを赦されないでしょう。
     いいかえるなら、ほかの人ほど簡単に人間を「差別」できないということです。マクロのテーマを背負った人間には、それなりの責任があり、好きな人も嫌いな人も平等に救わなければならないのですよ。
     しかし、そうはいっても、当然、ひとりの人間としての心が消えてなくなるわけではありません。それでは、どうするか? そういうことが「ミクロとマクロがリンクした物語」のメインテーマなんですね。
     この「相克」ないし「矛盾」を描いて失敗した良い例が、このあいだ取り上げた『PACT』です。
     日本という「全体」が危機に陥っていて、その命運こそがテーマになるべき時に、「個」の心理がセンチメンタルに語られることで、読者は何かしらじらとしてしまうわけです。「ていうか、そんなこといっていないで「全体」に殉じろよ」と思ってしまうというわけ。
     それで、成功例は何かといえば、まさに『ヴァンパイア十字界』というわけです。ここでは、己が治める「夜の国」という「全体」のために個人の事情を限りなく無視する「偉大な王(リーダー)」としてのローズレッド・ストラウスが主人公となっています。
     かれのような「偉大なリーダー」は「ミクロの存在(ひとりの人間)」でありながら、「マクロの展開(国家と人類の運営)」にたずさわってしまっているという、「ミクロとマクロがリンクした物語」における究極のキャラクターです。
     ミクロとマクロの相克を一身に体現してしまっているといってもいい。かれはミクロの個人としてあまりのマクロの重圧に苦しみ、悩みます。しかし、それでいて同時にマクロの為政者として個人の感情を度外視した超絶的スケールの「政策」を打ち出していくのです。
     ここではミクロとマクロが奇跡的に絶妙な均衡を取っています。ただミクロの悲劇に溺れるだけでも、マクロの計画を操るだけでも、ローズレッド・ストラウスはここまで魅力的なキャラクターにはなっていなかったでしょう。
     かれの肩には「マクロ」という名のあまりにも重い責任がかかっています。本来、それは個人が背負いきれるはずもないものです。もし背負おうとすれば、一切の「愛」を、「差別」を赦されなくなります。
     王たる者はあたりまえの人のように他者を愛することなどは赦されないのですから。しかし、かれは地獄のような苦しみに晒されながら、それでもなおそれらすべてを背負っていく。すべての弱き人々のために。
     その姿はあまりにも気高く、美しい。まさに王のなかの王、リーダーの規範というべきでしょう。こういうキャラクターをこそ、ぼくは見たいんですよ。
     べつの例でいうと、『アルスラーン戦記』や『十二国記』や、『黄金の王 白銀の王』や、あるいはそれこそ「ヒーローものの系譜」が思い浮かびます。
     そう、『ダークナイト』とか『スパイダーマン』とか、あるいは『東のエデン』とか『ZETMAN』といった作品のことです。そこでは「ミクロの個人」でありながら「マクロの無限責任」を背負ってしまった者たちの生き方が綴られています。
     ただ、このような「マクロを背負った英雄」のあまりにも悲劇的な生き方を見ているうち、ひとつの疑問が湧いてきます。
     なぜかれらだけがこんなにも重いものを背負わなければならないのか? かれらに守られる群衆(クラウズ)はただ守られるだけのかよわい存在であっていいのか? その「弱さ」とは、それ自体が問題視されるべき性質のものではないのだろうか?
     こういったテーマから生まれた物語を、我らがLDさんは「脱英雄譚」と呼びます。「ミクロとマクロがリンクした物語」の新しい展開です。 
  • 検証。『進撃の巨人』は「セカイ系」の対極にある「新世界の物語」なのか?

    2014-10-15 04:30  
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     「新世界の物語」と「セカイ系」の話をちょっとどこかにまとめておかないといけないにゃー、ということで、ここに簡単に記しておきます。
     まあ、先日のラジオで話したことなんですが、あまりにも面白かったので文字にしておく必要があるだろうと。
     簡単にいうと「新世界の物語」と「セカイ系」は真逆であり対称である、という話なんですが。
     振り返ってみましょう。「新世界の物語」とは、ここ最近の漫画やアニメで登場して来ている「新しい世界」とは「現実」を指しているのではないか、という話でした。
     具体的にはこの記事(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar578582)で書きました。こんな内容です。

     で、「新世界」の話とは何かというと、これ(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar564366)のことですね。あるいはペトロニウスさんがここ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140622/p1)で語っている内容です。
     ようするにここ最近、『トリコ』とか『HUNTERXHUNTER』とかで、いままでいた世界よりもっと広い世界=「新世界」を扱っている作品が見られるよね、ということ。
     で、その「新世界」って、「現実の世界」のことなんじゃない?ということです。ここでいう「現実の世界」とは、「主人公が保護されていない世界」といっても良いでしょう。
     通常、あたりまえの物語においては、主人公の前に表れる敵は強さの順番にあらわれてきます。それは『ドラゴンクエスト』的であるといってもいい。
     冷静に考えれば主人公の前に突然最強の敵があらわれて即座に死ぬこともありえるわけですが、まあ、そんな物語は少ない。まずは弱い敵が出て来て、次にそれなりに強い敵が出て来て、そいつを倒すと次は四天王(の最弱)が――というふうにつながっていくわけです。
     これはある意味で「現実」を無視した展開ですよね。つまり、そういう「試練が順々に訪れる物語」とは、「保護された世界の物語」であるわけです。
     もちろん、保護されているなりに「とても敵いそうにないすごい敵」があらわれないと、物語として盛り上がらないわけですが、それにしても「ちょっと勝てそうにないすごい敵」を次々と出すところが作劇のコツであって、「絶対に勝てないすごい敵」があらわれて終わり、ということにはならない。
     たとえばこの手の少年漫画の最高傑作のひとつというべき『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』でいえば、最初にクロコダインが、次にヒュンケルが、フレイザードが出て来て、そこから満を持してバランが出て来る、という順番になっているわけです。
     これがいきなりバランが出て来たら困るところだったと思うんですよね(正確にはその前にハドラーが出て来るんだけれど、それはアバン先生が対決してくれます)。
     こういう物語は非常にカタルシスがありますが、しかし、ウソといえばウソです。現実にはレベル1の状況でレベル99が襲い掛かってくることがありえる。そしてそれで死んで終わってしまうこともありえる。
     つまり、ものすごく理不尽なことが起こりえるのが「現実」の世界。で、この「現実」の世界と「保護された世界」を隔てているのが『HUNTERXHUNTER』でいうところの「無限海」、あるいは『進撃の巨人』でいうところの「壁」なのではないか、というのがLDさんの見立てであるわけです。
     これはこれで非常に面白い話なんだけれど、今回、LDさんはさらに『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げて、「この物語でも(新世界の物語のように)ひどいことは起こっている」と指摘し、つまりは「壁」があるかどうかが重要なんじゃないか、と述べています。
     つまり、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』では「ほんとうに理不尽なこと」が起こる世界とそうでない世界を分かつ「壁」があるけれど、『まどマギ』にはそれがない、その差が大きいんだ、と。
     なるほど、ますます面白い。普通の女の子が突然に理不尽な契約を結ばされてしまう酷烈さが、『まどマギ』のひとつの大きな魅力であったことは自明です。
     いい方を変えるなら、『まどマギ』におけるキュウべぇは、「壁」の向こうの世界(「現実」世界)のプレイヤーで、ひとり「壁」を超えてその世界からまどかたちがいる世界にやって来たのだ、ということもできるでしょう(物理的な、あるいは物語設定的な話をしているわけではないことに注意してください)。
     この場合、物語は一貫して「壁」の内側で繰り広げられるので、「壁」そのものは登場しないのですが、キュウべえは安全な「保護された世界」に「壁の外=現実」の論理を持ち込んでいるということになります。

     これが「新世界の物語」です。ここまでは良いでしょうか? 今回話したことはこの続きにあたります。
     すべてはぼくが「それでは、久慈進之介の『PACT』はどうでしょう? これも「突然ひどいことが起こる」話だけれど、「新世界の物語」に含めることができるでしょうか?」とLDさんたちに訊ねたところから始まります。
     ここから、LDさんとペトロニウスさんの間で議論が発展していろいろと面白いアイディアが出て来たらしいのですね。その結論が、上記したような「新世界の物語」と「セカイ系」は対称を成しているという話です。
     ちょっとここはあまり軽々に断言できない、ほんとうのそうなのか?と思うところであるのですが、とりあえず話を進めてしまいましょう。
     まず、「新世界の物語」とは、「保護されていない現実」を舞台とした物語でした。それでは、「セカイ系」はどうなのか? それはつまり、「個人の内面世界を舞台とした物語」だったのではないか、ということなんですね。
     くり返しますが、ほんとうにそうなのかはまだよくわかりません。真偽をたしかめるためには、セカイ系の代表作といえる作品をひと通りさらい直してみる必要があるでしょう。
     しかし、ここでは当面、そういう理解で進めてみましょう。『ほしのこえ』であれ、『最終兵器彼女』であれ、「セカイ系」の作品においては、個人(主人公とヒロイン)と世界(セカイ)が直接に結びつけられています。
     つまり、そこでは個人の行動が即座に世界に影響を与えるのです。最も典型的なサンプルと思われる『最終兵器彼女』を見てみましょう。
     この物語の主人公であるシュウジとちせの行動は、「世界最終戦争」とダイレクトに結びつき、最終的には世界は亡んでシュウジとちせだけが生きのこります。セカイ系の宇宙とは一般にこういうものであるわけです。
     あるいは『新世紀エヴァンゲリオン』(のテレビシリーズ及び旧劇場版)にしても、主人公である碇シンジの行動と決断がそのまま世界の命運を左右します。
     この「個」と「セカイ」が明確に分離されていない、むしろ融合してひとつになっているとすらいえる描写が「セカイ系」の特徴だといえるでしょう。
     ある意味で遠近法が消失した宇宙というか、「個」の内面が極限まで重視される世界ということもできると思います。
     さて、一方で「新世界の物語」では「個」と「セカイ」は明確に分離されています。いくら主人公が泣き叫ぼうが、あるいは必死に努力しようが、「世界の理(ことわり)」はそれとは無関係に動いていて、主人公やヒロインを圧殺したりもするわけです。
     このことが端的にわかるのが『進撃の巨人』序盤で主人公エレンが巨人に食われてしまう場面ですね。そこでは「主人公であろうがご都合主義のお約束で生きのこれる物語ではない」ということが示されているように思います。
     ここまでが、前提。ここからようやく『PACT』の話になります。『PACT』も、「壁」の描写こそありませんが、一見すると「新世界の物語」的であるように見える作品です。
     というのも、『PACT』でも次々とひどいことが起こるんですね。たとえば、これはネタバレになりますが、第1話の時点でメインヒロインと思われる女の子が死んでしまうわけです(あとで生きのこっているようにも見える描写がありますが、これはミスディレクションなのかな? クローンとか?)。
     ここだけ見ていると『PACT』も「新世界の物語」的な、「身も蓋もない現実」を描いているように見える。『進撃の巨人』のような斬新さがそこにあるということもできるかもしれない。
     しかし――しかし。それにもかかわらず、『PACT』は明白に失敗作である、とペトロニウスさんは喝破します。
     たとえば、日本を沈没させかねない危険な爆弾を解体しようとする主人公を守る兵士を見よ、と。
     かれは、あくまで任務を再優先に考える主人公に対し激発し、感情的に食って掛かる。これはリアリティのレベルを守りきれていない描写である。
     なぜなら、既にその同じ爆弾によってアメリカ合衆国が沈没しているという、つまり世界が半分滅亡しているような状況下において選ばれた兵士が、個人的な感情を責務より優先させることなどありえないからだ、と。
     つまり、この作品はテクニカルなレベルで完全に失敗している物語なのだ、と。まあ、納得が行く話です。ぼくも『PACT』が傑作だとは思いません。
     ところが、です。LDさんがその話を聞いて、しかし、と反論したらしいのですね。ペトロニウスさんのブログから引用するとこんな感じだったらしい。

     僕が言っているのは、技術レベルの話で、そもそも作者がやりたかったことの意を汲むべきだし、かなり失敗しているとはいえ、まったくそれができていないというわけでもない、とね。そこで、いやいや、そうじゃないです、、、、この技術的な問題点が、やりたかったこととコンフリクトしてて、、、という話になって、では、この物語がほんとうに示すことは何なのか?という話になり、、、という流れです。
    http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20141010/p1

     つまり、『PACT』の失敗は単に技術的な問題「ではない」ということなんですね。
     『PACT』の問題点とは何か? それは作中の描写が作品の主題とコンフリクトしていることであるわけです。即ち、あまりにも「個」の感情を重視するあまり、「人類全体」が危機に陥っている状況下においてありえないような描写を行ってしまっているということ。
     思い出してみましょう。「新世界の物語」とは「個」の情緒と「世界」のありようが完全に分離している「現実」を描く物語でした。
     しかし、『PACT』においてはその「個」が「そんな世界のありようはおかしい!」と、いってしまえば甘ったるいことをいい出しているわけです。
     これが『PACT』の究極的な問題点です。さて、これはどういうことでしょう? つまり、『PACT』はどこかしら「新世界の物語」のように見えて、実は「セカイ系」的な作品なのだ、ということなんですね。
     ぼくなりにいい換えるならこういうことになるかもしれません。「セカイ系」は「個」の悲劇を描く物語である。つまり、「セカイ系」では「個」(主人公)と別の「個」(ヒロイン)の対幻想にもとづく悲劇は成立する。
     しかし、「新世界の物語」ではそういう「個」の悲劇はそもそも成立しない。なぜなら、その「個」の悲劇とは「無数にある悲劇」のなかのひとつに過ぎないからである、と。
     さらにいい換えるなら「セカイ系」は主人公とヒロインの関係を近景で見、「新世界の物語」は主人公を含む広大な世界を遠景で見ているということもできるかもしれません。
     したがって、『PACT』が失敗しているのは、「新世界の物語」的に過酷な状況設定を行っているにもかかわらず、「セカイ系」的な「個」を重視するロマンティシズムを持ちだしていることだ、ということになります。あんだすたん?
     ここまで考えてみると、「新世界の物語」と「セカイ系」はまったく正反対の、互いに相容れない物語なのだ、ということがいえそうに思えて来ます。
     そう、「個」の価値を極限まで重視し、そこに世界と同じだけの重みを見いだしたのがセカイ系だとするなら(ほんとうにそうなのかはよくわかりませんが)、「個」ではなく「全体」を見て、「個」とはあくまで「全体」のなかの一部分でしかない、と考えるのが「新世界の物語」ということが、当面はいえそうです。
     あるいは前者を左翼(レフトサイド)的な世界観、後者を右翼(ライトサイド)的な世界観と見ることもできるかもしれませんが、ここではあえてそういう政治的な言葉を使用する必要性を認めません。
     とりあえず、両者には「個」をどこまで重視するかという一点において、決定的な落差がある、ということを確認しておけば十分でしょう。
     そして、これはもちろんいずれが正しく、いずれが間違えているという性質のものではありません。ただ単に性格の違いがあるだけなのです。
     「セカイ系」の代表作としては『ほしのこえ』とか『最終兵器彼女』とか『イリヤの空、UFOの夏』あたりが挙がるでしょう。『新世紀エヴァンゲリオン』とか西尾維新の『戯言シリーズ』も同系統の作品であるかもしれません。
     ひとついえそうなことは、こういった作品がある程度ウケた頃とは、たしかに時代が変わったのではないかということです。
     もちろん、その背景にあるものは日本の社会の急速な変化であるのでしょうが、まあ、そこらへんはよくわからない。ただ、いま見るとこの手の作品は非常に甘ったるく感じられます。
     とにかく、たとえば『エヴァ』旧テレビシリーズでは碇シンジの存在は最後まで世界を左右しますが、それから十数年後の『新劇場版:Q』では「世界の中心」の座を外されます。
     そういう変化もまた、「セカイ系」と「新世界の物語」の対称性と似たところがあるように思われます。
     底なしに甘い、ロマンティックな対幻想の、心中ものの悲劇がウケた時代から、マクロ的な視点で世界を眺める、よりきびしい物語がウケる時代へ、とひとまずはまとめることができるかもしれませんが、ここは断定することなく保留しておきましょう。
     とにかく、これは非常に面白い話だと思うんですね。「新世界の物語」を巡る話が一歩進んだ感じ。
     もうひとつ「新世界の物語」について書いておくと、「新世界の物語」とはどうやらただ「あまりにもきびしい現実」を描くだけでは成立しないらしいということがわかって来たように思います。
     つまり、それは必要条件の第一に過ぎなくて、第二の条件がある。その条件とは「その過酷で残酷な世界において、どうやって生きのびていくか」ということである、と。
     ようするに「あまりにも過酷で残酷な現実を描き」、しかも「そこでどうやって生きのびていくか」を描き切った作品が「新世界の物語」のなかで名作として、あるいはヒット作として知られるようになる、ということかな。
     ちょっと系統が違いますが、『銀の匙』あたりがなぜヒットしたのかもここらへんの事情を踏まえると説明できるような気がします。
     あの物語では