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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』完全ネタバレレビュー「あなたのことが好きだから」12000文字!
2021-03-15 00:0250pt
以下、全文にわたって『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の全面的なネタバレがあります。繰り返します。『シン・エヴァ』のネタバレありです。未見の方は間違えても読まないでください。読んでしまったうえで文句をいわれてもこちらは対応できません。オーケー? それでは、行きましょう。
◆◇◆
何という正統(オーソドックス)な作劇であり、表現なのだろう。劇場で『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観終えたとき、最初に思ったのはそのことだった。
端正といっても良いし、いっそ品行方正と評したい気持ちもある。とにかく、この映画はいままでの『エヴァ』とは決定的に違う。そう考えざるを得なかった。
そもそも『エヴァ』は、毎回毎回、その強烈なインパクトで見る人を驚かせてきた作品である。
その当時のテレビアニメの常識から大きく逸脱した内容から「自己啓発セミナー」という批判も生んだテレビシリーズの最終回、そのあまりにショッキングな結末から伝説となった「旧劇場版」、また、『エヴァ』の陰鬱な印象を塗り替えたかと見えた『新劇場版:破』、そしてそこから一転、再び悪夢的な物語を描く『Q』と、『エヴァ』はつねにスキャンダラスなまでに衝撃的な内容をともなっていた。
必然、その評価はつねに賛否両論であったが、それにもかかわらず一貫してファンは拡大し、『エヴァ』の「作者」としての庵野秀明の声望もまた高まっていったのである。
しかし。
『シン・エヴァ』はここに来てまたもいままでの『エヴァ』を裏切る。そこで描かれたものは、初めに「正統」と述べたが、あるいは「王道」とも評したいような再起と成長の物語だったのである。
なぜ、こうなったのか。「つまりは庵野秀明も衰えたのだ」、「年老いて凡庸な成長物語に回帰するしかなかったのだ」とシニカルに見透かした態度を取ってみせることはたやすい。
だが、『エヴァ』という圧倒的に真剣に制作されたことがあきらかな作品を前にして、そういった自己防衛的姿勢はいかにも安易に思える。ここでは、「そもそも『エヴァ』とは何だったのか」を一から振り返って、『シン・エヴァ』の真価を問い直してみることにしたい。
それでは、そもそも『エヴァ』とは何だったのか。いまとなっては大昔とも思えるテレビシリーズ、その少なくとも前半において、『エヴァ』は「かつてないほどシリアスなハードSFエンターテインメント」であるように見えていたように思う。
むろん、この作品に何を見たのかは人それぞれではあるだろう。ただ、いままで何度となく語られているように、途中までこの作品は「ただひたすらに無類に面白い娯楽アニメーション」として消費されていたと思われるのだ。
その物語的な「面白さ」がピークに達するのが第19話「男の戦い」であることも異論の少ないところだろう。このエピソードにおいて、主人公・碇シンジはひとりの「男」として父と対峙し、自ら決戦兵器「エヴァンゲリオン」に搭乗してあれほど怖れていた「使徒」との戦いへ向かう。
『エヴァ』の後半の展開を「女性的なるもの(ガイネーシス)」の噴出として捉えた小谷真理の批評を引用するなら、ここでシンジはようやく明確な「男性性」を確立し、そのスーパーロボットパイロットとしての天才を存分に発揮して、「使徒」に立ち向かう。
それはいかにも「正しいロボットアニメ」的展開であり、陰鬱さを増しつつあったストーリーはここから一気に盛り上がりを増し、気宇壮大な決着へと向かうかと見えた。
そう、たとえば庵野が若き日に監督した『トップをねらえ!』のような、センス・オブ・ワンダーあふれる終結を期待した向きは多かったことだろう。
ところが、いまではだれもが知っているように、そうはならなかった。むしろ、この第19話を経て、『エヴァ』のストーリーは「崩壊」していく。最終2話を残した第24話においてシンジはついに完全に立ち上がれなくなる。
そして、その後の第25話、第26話で綴られたのは、これもまた皆さんがご存知の通り、当時、「自己啓発セミナー」と揶揄されたような、徹底して生身のリアリティを欠いたシンジの心の「補完」だったのである。
往年の天才SF作家コードウェイナー・スミスの『人類補完機構』を持ち出すまでもなく、きわめて壮大で意味深なSF的イメージを意味するものと考えられていた「人類補完計画」の行き着いたところがこれだった。
あえて否定的に話すなら、「人類」を「補完」する「計画」という、あまりにも雄大な構想を思わせるジャーゴンは、結局はただ思春期の中学生の精神を安定させるためだけの洗脳技術でしかなかったということもできる。
その意味で、この最終回について当時、賛否両論の激論が巻き起こったことは必然であっただろう。
そして、その後、この賛否両論を受けて、ふたつの劇場映画、『シト新生』と『Air/まごころを、君に』が制作される。それに対し、「今度こそ」と考えたファンはやはり少なくなかったであろう。「今度こそすべての謎が解き明かされ、人類補完計画の全貌も判明し、人類全体の問題を巡るSF的クライマックスを迎えるだろう」と。
しかし、結果を語るなら、その『旧劇』でも、数多くの謎は謎として残り、物語が「正しいロボットアニメ」的なカタルシスを迎えることはなかった。何といっても、この作品でシンジは最後まで「エヴァに乗る」ことを拒絶するのである(正確には、乗るには乗ったが、それを使って颯爽と戦うことはしない)。
これはロボットアニメの長い歴史上、あるいは「少年向けエンターテインメント」のさらに長い歴史のなかでも、おそらくは初めての展開だったと思われる。シンジはだれかのために戦うことそのものを放棄したのだ。
そして、「人類補完計画」を象徴する赤い海から抜け出したシンジがたどり着いたところ、それはヒロインのひとりである惣流・アスカ・ラングレーの「気持ち悪い」というひと言に象徴される「他者という名の地獄」であった。
当時、これはやはりひとつの「事件」だった。かくいうぼく自身、この『旧劇』を見終えたあとは、あまりのことに呆然として劇場を出て来たことを記憶している。それは何という「狂気」に満ちた映像と物語であったことだろう!
たしかに、それまでにも陰鬱な展開と激烈な内容で知られたテレビアニメはあった。たとえば『無敵超人ザンボット3』。あるいは、『伝説巨神イデオン』。さもなければ、『機動戦士Ζガンダム』。
そういった、いまでは「黒富野」作として知られる作品群は、『エヴァ』の前史を成し、『エヴァ』を予告するものであったということができる。『エヴァ』は決して孤立した異端の作品ではない。長い「少年向けヒーローエンターテインメント」の歴史のなかに正しく位置付けられるべき一作なのである。
だが、それにしても『旧劇』のインパクトはただならないものがあった。これ以降、『旧劇』はその「オタク批判」として受け取られたメッセージとともに伝説的に語られることとなる。
そして、それからしばらくの時を経て、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が始まる。総監督・庵野秀明は、今度はこのように語った。
最後に、我々の仕事はサービス業でもあります。
当然ながら、エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画として面白さを凝縮し、世界観を再構築し、
誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します。
「誰もが楽しめるエンターテインメント映像」。じっさい、新劇場版四部作の前半の『序』と『破』はその宣言にふさわしい作品であった。この時点では、いったん終わった作品を再開させることそのものに対する賛否はあったかもしれないが、それでも「賛」のほうが圧倒的に優勢だったといえるだろう。
だが、続く『Q』で事態は一変する。そこで描出されたもの、それは一挙に14年もの時を飛び越えさせられ、変わり果てた世界に困惑する碇シンジと、かれに辛くあたる(ように見える)人々だった。
そこでシンジは世界を再生させようとして失敗し、親友・渚カヲルを喪って再び絶望の底に突き落とされる。ここにおいて、『新劇場版』はまたも『旧劇』と同じ隘路に迷い込んだ、かと見えた。
このとき、『Q』を『旧劇』を再演する物語として見た人は多かっただろう。『Q』とは即ち、『旧』の意味であり、『破』によって進展したかと見えた物語の針を逆転させる作品なのである、と。
そこにはうつ病に陥った庵野秀明のそのときの信条が露骨に反映されているのだという解釈もまことしやかに語られた。たとえばこのように。
『破』でシンジが綾波を呼んだ魂の叫びは何の意味も持たないどころか最悪の事態を引き起こし、画面は赤と黒に染め上げられ、床には巨大な頭蓋骨が一面に敷き詰められていたのです。これは誰もが楽しめるエンターテインメントなのだろうか? という疑問は、今も払しょくされてはいません。
それからしばらく、アニメ系ライターとして活動していた筆者の携帯には友人からの問い合わせが殺到しました。みんな答えを求めていましたが、筆者自身、何も答える術を持っていなかったのです。
後に庵野監督は『Q』の制作後、ひどいうつ病を患い、自身が設立したアニメ制作スタジオ「カラー」に近寄ることすらできなくなったことを明かしています。確証はありませんが、庵野監督は制作後ではなく、制作中からうつ状態になっており、当時の心理状態が『Q』に投影されてしまった可能性もあります。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a0ffed64561accb8ab9eb6ba7d2ebaffc12ad121
しかし、少なくとも『シン』を観終えたいまになって振り返ってみるなら、『Q』は決して「作者」のそのときの気分によって野放図に創られた作品ではなく、むしろ台詞のひと言ひと言に至るまでが緻密に計算された映画であったことが判然とする。
あるいは、シンジが叩き落とされた恐怖と絶望は『旧劇』と同種のものであるかもしれない。しかし、シンジを取り囲む人々が決定的に違う。
これも『シン』まで見てみるとあまりにも自明のことにも思えるが、『Q』で描かれたものは『エヴァ』テレビシリーズでくり返し描写されたような、あまりにも互いの距離が近すぎることに起因し複雑な多重トラウマに根ざした近親憎悪めいたヤマアラシのジレンマ的ディスコミュニケーション「ではない」のである。
おそらく、『新劇場版』を解釈しようとするとき、最も解釈が分かれるのはこの点であると思われる。『Q』を『旧劇』と同種の「鬱展開」と見てしまったなら、『新劇場版』全体が理解できなくなる。
そこで描かれたものがきわめて陰鬱かつ陰惨な物語であったたしかだが、それにもかかわらず、ぼくたちはそこに「希望」を見るべきだったのだ。じっさい、『Q』の公開当時、ぼくはこのような文章を書いている。
『Q』はシンジとカヲルの共依存的なクローズドな関係性というドリームを見せ、その破綻まで描いているという意味でたしかに「鬱展開」の物語ではあります。ある意味ではたしかにそれは旧作の「鬱展開」をもう一度くり返しているといえないこともない。
しかし、それでいて作品全体は旧作とは決定的に違っている。なぜか。それは世界そのものがオープンな方向に舵を切っているからです。世界はもはや共依存の地獄に閉ざされているわけではなく、群像劇の方向へと開放されているのです。
たしかにシンジとカヲルの関係性の破綻というそのイベントだけを見れば、そこにあるのは昔なつかしい狂い歪んだ人間関係なのだけれど、しかし、今回は「それではない」「その方向性は間違えている」ということははっきりと示されている。
そして「より正しい」方向への「道」も示されている。それがシンジとアスカ、レイ(のクローン?)が歩み出すラストシーンです。ここで重要なのは、そこにあるものが「ふたり」の閉ざされた関係ではなく、「三人」という開かれた関係であることです。
「ふたり」ではたがいをひたすらに見つめ合う歪んだ関係が生じえますが、「三人」はそれじたい小さな社会です。そこではシンジとカヲルという「ふたり」の関係のオルタナティヴとしての「三人」がここでは明確に志向されている、とペトロニウスさんやLDさんは読んでいるようです。
したがって『Q』はいかに凄愴であっても、世界が滅びかけていても、基本的には明るい希望の物語なのです。だからこそ『Q』に対しては「物足りない」「いままでの『エヴァ』のような狂気が感じ取れない」といった声が集まりもしました。
それでは「『エヴァンゲリオン』の狂気」とは何か? それは結局、関係性の歪みに起因する果てしない歪んだ展開の連鎖に集約されるものだったと思います。つまり、どこまで行っても開放されることなく、果てしなく暗黒の共依存に閉ざされた世界。どんなに努力しても健全な関係を築くことができず、大人として成熟していくこともできないアダルトチルドレンの箱庭。それがつまり『エヴァ』の「狂気」であったのでしょう。
今回、「希望」を志向し、「王道の娯楽作品。エンターテインメント」へと向かっている『新劇場版』が、そうした「狂気」を失くしたように見えることはむしろ自然なことです。ある意味では「狂気」を克服しつつあるといってもいい。
そこにあるものは、もはやひたすらに狂気と暗黒に淫する物語ではありません。もちろん、そうかといって急速に楽観的な空気に変わるはずもなく、暗黒と絶望はそこかしこにあるのだけれど、しかし、もはやそれに捕らわれて足を止めはしない、それが『新劇場版』なのです。
旧作のような暗黒と狂気の物語に対して、明暗の物語とでもいばいいでしょうか。光と闇、希望と絶望、善意と悪意とが、縄のように分かちがたく編みこまれた物語世界。たとえば『ベルセルク』の「蝕」以降の物語にも似ているかもしれません。
『ベルセルク』も、その暗黒と狂気がクライマックスに達する「蝕」のエピソードで、「抜けた」印象があります。それ以降の『ベルセルク』は、むろん甘い感傷にひたることを許さない厳しい展開ではあるにせよ、ひたすらにダークなだけではなくなりました。
恐ろしい暗黒の展開を通して「しかし、そうはいっても世界は暗黒ばかりではない」「悪意と絶望だけでできているわけではない」という「悟り」にいたったようにも思えます。一方で『軍鶏』のようにいつまでも暗黒の展開ばかりが続き、その先が見えない物語もありますが、しかし基本的にはぼくは暗黒を抜けて「その先」へと至った物語が好きです。
つまり、世界には二面性があり、そのいずれかに目を取られることはほんとうではないということです。世界は闇だけでできているわけではなく、もちろん光だけでできているわけでもない。悪夢のように残酷な一面があったかと思うと、限りなく甘い一面もある。それが世界。
その真実を悟ったならば、もはや「他者」は恐怖ばかりを喚起する存在ではなく、喜びを生み出す存在ともなりえます。カヲルくんのように100%すべてを受けいれてくれるわけでもないけれど、そうかといって逆に100%拒絶されるわけでもない、自分の態度しだいで白とも黒とも見えてくるほんとうの意味での「他者」がそこに出現するのです。
その後に出てくるものは「健全な等身大の人間関係の構築」というテーマでしょう。ようするに「友達をつくる」ということ。そのためには、自分から「最初の一歩」を踏み出す必要があります。
この「一歩」がいちばんむずかしく、勇気がいることはたしかですが、しかし、その「一歩」さえ踏み出したなら、その先には善悪明暗いり混じる豊穣な世界が広がっています。『魔法先生ネギま!』で最後の最後に語られていたように「わずかな勇気が本当の魔法」なのです。
少しだけ勇気を出して「最初の一歩」さえ踏み出せば、あとは転がるようにして展開が変わっていくこともありえる。それは『エヴァンゲリオン』旧作のような暗黒と絶望と狂気の展開に魅力を感じるひとにとってみれば、いかにも甘ったるい結論であるように見えるかもしれません。
しかし、世界は一面ではたしかに甘いのです。決してひたすらに「気持ち悪い」と拒否を伝えてくるだけではない。それが、それこそがぼくたちの「希望」。巨大地震が起こっても、原子力発電所が爆発しても、なお連綿と続いてゆくぼくたちの日常を輝かせる希望です。
続く『シン』は積極的にその希望を語る物語になるかもしれません。何も絶望する必要などない。世界は終わりなどしない。物語はいつまでも続いてゆく。ぼくもそう思い、そう信じ、次なる作品を待とうと思います。
「絶望」から「希望」へ。「狂気」から「解放」へ。時代は劇的に変わっていく。次回作を楽しみにしましょう。それはきっと、ぼくたちが見たいと望んでいるものを見せてくれるはずなのですから。
https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar21409
『シン』を観たいま、この見方はまずは正しかったといって良いだろうと感じる。
『シン』は『Q』と裏表を成す物語だ。『Q』でシンジを追い詰めた言葉、態度は再解釈され、その真意が洗い出される。『Q』ではシンジを徹底的に追い詰めていった人間関係は今度は底知れない優しさでかれを快復させる。
そして、かつて、テレビシリーズで「みんなもっとぼくに優しくしてよ!」と叫んだシンジはここでなぜ皆が自分にこれほど優しくしてくれるのかと当惑するのだ。その答えは「あなたが好きだから」。
凄惨なうえにも凄惨だったはずの物語は、ここに至ってきわめて穏やかな、優しい顔を見せる。しかし、シンジを取り囲む状況の酷烈さは変わっていない。
シンジ自身がひき起こした「ニア・サードインパクト」を経て、人類の生存圏はごく狭く限られたものへと変わり果てている。その生活状況の一端を垣間見せるのが、シンジが放浪の果てにたどり着く、いわゆる「第三村」の描写である。
ある種の農村社会とも限界集落とも解釈できるその「第三村」を、シンジやアスカとともに訪れた「黒綾波」とも呼ばれる「初期ロットの綾波シリーズ・クローン」は、そこで農作業を通して社会生活を学び、ほんの少しだけ人間的な成長を遂げる。
おそらく、この展開に鼻白む層も大勢いるはずだ。「何だ、結局は現代のデジタルな生活に馴染んだオタクに素朴な農村生活へ帰れ、とでもいうのか」。
そうではない。そもそも、一見すると素朴なこの農村の生活は汎人類規模でネルフ撲滅を目ざしていると思われる組織「ヴィレ」の超高度な科学技術の支えなしにはありえないものである。
ここでは「都市/田舎」、「科学/農耕」というシンプルな二項対立的図式では世界を読み解けない。
また、重要なのは、レイが村の生活に馴染んでいく一方で、アスカはその「労働」にまったく参加せず、シンジはひとり自分の殻に閉じこもりつづけることだ。ここでは、それぞれの個性にもとづく行動がパラレルに、群像劇的に描写されている。
シンジが「ヒーロー」から追放される前作を経てのこの展開は必然であっただろう。ここにおいて、シンジはただひとり世界を救う英雄ではなく、無数のキャラクターのひとりとなっている。
その後、紆余曲折を経てシンジはまたも「エヴァに乗る」。さて、このとき、かれを快復させ再起させたものは何だろう? それは結局、「適切な距離感の人間関係」と「ひとりで考え抜く時間」であったというしかない。
「第三村」でシンジと再会したかれの旧友トウジとケンスケは、シンジを追い詰めることをせず、また見捨てて放置することもしない。徹底して「適切な距離感」を保ちつつかれを見守るのである。
かれらはまたシンジに対し「エヴァに乗れ」とも「エヴァに乗るな」とも命じない。ただ、シンジがいつかまた立ち上がることを信じ、見守るだけである。トウジやケンスケは口々にいう。「ニアサーも悪いことばかりじゃなかった」。「友達だろ?」。
こういった切ない友情によってふたたび絶望から立ち上がったシンジは、エヴァに乗り、父ゲンドウとの決戦に臨む。十数年ぶりの再会を遂げたマリからアスカの魂を救出することを求められたシンジが返すひと言は感動的である。「やってみるよ」。
きわめて穏やかな、あるいは小さな決意。それは世界を救う英雄の宣言というより、もっとあたりまえの少年の素顔から出た言葉のようだ。
思えば、『エヴァ』に前後するロボットアニメ、ヒーローアニメはひたすら主人公を追い詰め、追い込んで来た。それはたとえば『Ζガンダム』においては、主人公を発狂させるところまで至っているのだ。
『エヴァ』とは、そのような歴史のなかで、それでもなお「エヴァ(ロボット)に乗る」べき理由とは何か、それを延々と探し求める物語であったということもできるであろう。
そのため、『シン』がついにたどり着いた結論は、いかにも素朴すぎるものに思われるかもしれない。シンジはただ「自分がやれることをやる」ために「エヴァに乗る」のである。
ここにおいては、もはや本質的に「エヴァに乗るかどうか」は問題ではなくなっている。かれはただ「自分の起こしたことに決着をつける」、そのための方法としてエヴァを使っているだけであって、エヴァ初号機が必要なくなったらすぐにそこから降りて、ゲンドウとの対話を始める。それはまさに成熟した「大人」の態度だ。
「大人」。『シン・エヴァ』で(特にマリやゲンドウの口から)くり返されるこの言葉が『シン・エヴァ』を象徴するものであることは間違いない。碇シンジは幾多の苦難と絶望を通してついに大人になった。成熟を遂げたのだ。
思えば『エヴァ』とは「成熟が困難な時代に成熟を目ざす物語」であった。それは『エヴァ』の「作者」である庵野秀明の自身の未成熟さに対する煩悶が投影されたストーリーであるともいわれる。
おそらくその通りなのかもしれない。しかし、『エヴァ』がただそれだけの作品であったのならこれほどまでに広く評価され、熱狂的なファンを生み出したはずはない。
『エヴァ』が熱く厚く支持を得た背景、それは、いつまで経っても「男らしく」なれない、「成長」も「成熟」もできない碇シンジに「シンクロ」させる「時代の空気」があったからに他ならないであろう。
したがって、『エヴァ』はたとえどれほど「私小説」的であるとしても、きわめて普遍性の高い「エンターテインメント」でありえたのである。その『エヴァ』がここに来て「大人になった碇シンジ」を描き出したことに対する抵抗は根強いものと思われる。
「おれたちはそう都合よく大人になんてなれないよ!」という悲鳴が聴こえてくるようだ。「おれたちを見捨てて勝手に大人になんてなるな!」と。
インターネットには例によって例のごとくそういった呪詛とも受け取れる「感想」や「批評」が散見される。そういった記事がはたしてどこまで「感想」ないし「批評」と呼べるレベルに到達しているかはともかく、少なくともそれらは正直な意見ではあるだろう。
また、かれらが『エヴァ』に求めた「狂気」が今回の『シン・エヴァ』に欠けていたことも事実だろう。たしかに今回の『エヴァ』は「何が何だかよくわからないがとにかくすごい!」といいたくなるような作品ではない。
『シン・エヴァ』は間違いなく複雑難解をもって知られる『エヴァ』の歴史上最も丁寧でわかりやすい作品である。その情報量こそ膨大だが、ほとんどすべての大きな謎がこの上なく丁寧にひも解かれ、観客はある種の「憑きもの落とし」を受けて劇場を出ることになる。
いかにも『旧劇』を思わせる楽屋落ち、あるいはメタフィクション的な前衛手法すらも今回は観客を混乱に突き落とさない。人類と生命を巡るスーパーマクロなドラマは親子のミクロな葛藤に終息し、穏やかな対話を経て決着する。
それは、何という穏やかな、優しい、しみじみと心に染み入るような展開であることだろう。ここには『エヴァ』の持ち味であった「狂気」も、『新劇場版』をつらぬいていた「殺気」もない。
あえていうなら、そこにあるものは「永遠に理解しあえず、溶け合うこともできない他者への思いやり」という、あまりにあたりまえの、自然な人間的心情である。
はたしてそこには、庵野秀明自身の成長や成熟が投影されているのだろうか。そうかもしれない。庵野秀明は『エヴァ』シリーズや『シン・ゴジラ』を経て、いまや日本を代表する映画監督であるにもならず、一企業の経営者として、また、役者として、声優としても大きなキャリアを持つ、マルチタレントな人物として立派な「大人」になっている。
その奇人変人らしさはあいかわらずなのかもしれないが、少なくとも同輩であったガイナックスの同僚たちのような醜態は見せない。そしてまた、経営者として、経済人としての庵野のクレバーなインテリジェンスはいっそ意外なほどのものである。
https://togetter.com/li/1680058
「成熟が困難な時代に成熟を目ざす」。庵野の、そして『エヴァ』のその挑戦は徹底して真摯かつ誠実なものであった。
あえて個人名を出しはしないが、『エヴァ』に関する批評の歴史においては、つねに庵野や『エヴァ』の「幼稚さ」を皮肉り、「大人」である自分自身を誇ってみせた人物がたくさんいたものだ。
しかし、いまになって思う。はたしてそういった人物たちはどれほど「大人」になれただろうか。あるいは庵野は「精神年齢14歳の子供」に過ぎなかったかもしれないが、かれはそこから逃げなかったのではないか。
だからこそ、かれは最終的にひとりの「大人」として、自分が生み出した作品に決着をつけることができたのだ。
ぼくは『シン・エヴァ』という巨大なプロジェクトの成果を、既存のメディアに露出した情報を適当にパッチワークして作り上げたイマジナリィな庵野のイメージ(つまりは「脳内庵野秀明」)に集約する「私感想」的解釈につよい違和感を抱くものであるが、一方で碇シンジや碇ゲンドウの「未熟」と「成熟」の描写が庵野の内心が投影されたものであることを完全に否定することもできない。
おそらく、庵野自身が心理的な成長を遂げたことと、『シン・エヴァ』の内容は不可分なのかもしれない。
『シン・エヴァ』には鬼面人を驚かすサプライズやインパクトは薄い。正確には、それらは過去の『旧劇』のカタストロフィのイメージの再演として描き出される。
「こんなものはしょせん二番煎じに過ぎない」と失望してみせることもできるが、ぼくはそうは思わない。ここで重要なのは、テレビシリーズから『旧劇』、『新劇場版』を通して『シン・エヴァ』に至るテーマの一貫性である。
『エヴァ』とはひっきょう、「大人になろうとして、なれずにもがく」物語であった。その結末が「いつのまにか大人になっていること」であったことは必然であろう。
ここであえてさらに問題を提示してみせるなら、その「成熟が困難な時代」そのものがすでに過去となっている事実を指摘することができる。現代とは「成熟できない人間は見捨てられて死んでいく時代」であり、『エヴァ』のテーマはあまりにも古くさいということも可能だろう。
だが、そうだろうか。『シン・エヴァ』においては、いつまでもなかなか成熟できないシンジを、トウジは、ケンスケは、アスカは、レイは、マリは、決して見捨てない。世界がこれほど過酷さを増しても、なお、かれらはシンジを見守りつづける。
その理由はたったひとつ、「あなたが好きだから」。
ここにはいままでの「前期/後期新世界系」作品、『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』や『チェンソーマン』にはない親しみと優しさがあるように思う(正確にはそれらの作品にも紛れもなく「優しさ」はあるが、『シン・エヴァ』のそれはもっとプライベートな親密さに根ざしているようだ)。
その意味で『シン・エヴァ』は圧倒的な未見性で視聴者を置き去りにする作品ではないが、ほんとうにしみじみと優しく心を撫ぜて来る映画である。
この作品を置きみやげに、庵野やスタッフは『エヴァ』と別れ、「次」へ行くだろう。そして、ぼくたちもまた、『エヴァ』に別れを告げるときが来たようだ。
「こんなものは庵野の私小説でしかない!」と憤懣をぶつけることは自由だが、ぼくにはその態度はどうしようもなく子供っぽく思える。ついに人類が「補完」されなかった以上、わたし(あなた)は庵野秀明ではなく、庵野秀明はわたし(あなた)ではない。
「わたしたち」のあいだには無限の空漠が存在し、それを乗り越える方法は存在しない。わたしたちは永遠に孤独だ。しかし、まさにそうだからこそ、わたしたちは「ほのかなぬくもり」を求めて他者と触れあう。あいてを傷つけ過ぎないように、どこまでも優しく。
『シン・エヴァ』は、いまや大人の余裕と自信を感じさせる、映画監督・庵野秀明とスタジオカラーの最高傑作である。この映画の大ヒットを、心より祈る。
最後に、庵野秀明監督、スタッフの皆さん、素晴らしい作品をほんとうにありがとうございました。『シン・ウルトラマン』、そしてそのまた次の、次の次の作品を期待しながら待つことにします。いつまでもあざやかな夢を見せてください。
すべてのチルドレンに、ありがとう。そして、さようなら。 -
『シン・エヴァ』を見て死ね。
2021-02-27 16:1250pt
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の上映が3月8日に決まったそうですね。おそらく会議に会議を重ね、熟考の上にも熟考を経てこの日に決まったものと思われますが、予想よりだいぶ早い。初夏あたりになるんじゃないかと思っていたので嬉しいです。
あとはこのままコロナが収まってくれることを望むばかりですが、そうはうまくはいかないかもしれませんね。
さて、ここでいままでの『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を振り返ってみましょう。『序』、『破』、『Q』と三作続いてきたわけですが、この構成はそのまま「起承転結」の「起」、「承」、「転」であるように思えます。
いままで出ている情報によれば、『シン・エヴァ』が「結」になることは確定的であるようなので、この四作で物語は綺麗に「起承転結」を構成することになるかもしれません。そうなると良いのですが。
いままでの三作のなかでおそらく最も評価が高いのは『破』のクライマックスあたりでしょうが、最もショッキングであったのは間違いなく『Q』でしょう。
主人公でありながらヒーローであることを拒絶しつづけてきた碇シンジが、その主人公の座から追放されたとも見ることができる衝撃的な展開の連続は、絶賛とともに激しい拒否反応をも呼びました。
まあ、いまどきのアニメにあるまじき「鬱展開」が延々と続いているわけで、「こんなのってないよ!」な反応が返ってきたことはむしろ自然にして当然といえるかと思います。
いくら調教もとい訓練済みの『ヱヴァ』ファンたちといえど、さすがにあの苛烈な展開はそうそう受け入れられないことも無理はないところかと。
ただ、もちろんそこで物語が終わるわけではないわけで、『シン・エヴァ』ですべての伏線が回収されて綺麗なエンディングを見られたならば、『Q』を否定していた人たちもくるっとてのひらを返すであろうことは予想できることです。アニメオタクなんてそんな人種だ。
いやまあ、『シン・エヴァ』までじつに10年もかかったために、いままでてのひらを返すチャンスもなかったのですが。
この10年間で、日本の社会情勢はよりいっそう深刻化し、また、エンターテインメントの世界もだいぶ様変わりしました。ぼくたちが「新世界系」と呼んでいる作品群もすでに古くなり、次の世代の物語が登場して来ているのが現状です。
『鬼滅の刃』は -
電子書籍第26冊目、27冊目、28冊目、29冊目。
2016-10-12 17:5451ptKindleで電子書籍『ファンタジー漫画書評集 竜と剣と公子のバラッド』、『海燕漫画批評集「恋と銃弾」』、『海燕映画批評集(2): 「若き革命家の肖像」』、『『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』リアルタイム評論集「「狂気」の向こう側へ」』の4冊を出版しました。よろしければお読みください。
おかげさまで、Kindle Storeからの収入もだいぶ増えて来ました。この調子で100冊、200冊と出していけば、一定額にはなるのではないでしょうか。まあ、何が起こるかわからないけれど。とりあえず皮算用しつつ、出しつづけたいと思います。はい。
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だれかぼくにアイドルの魅力を教えてください。
2016-04-28 11:4851pt
てれびんに「これくらいは見ておいたらいいのでは?」とそそのかされて、映画『ラブライブ! The School Idol Movie』を見ました。
テレビシリーズをすっ飛ばしていきなり劇場版から見てしまったわけだけれど、結果としてはなんの問題もなく楽しめました。
まあ、キャラクターに思い入れがないから熱烈に楽しむというところまでは行かなかったけれど、それなりに面白くは見れた。
テレビシリーズを見ようとしていたらおそらく途中で挫折していたと思うので、劇場版から入ったことは正しい選択だったと思う。
そういう意味ではてれびんの助言は的確だった。今度会ったら飴でもあげよう。
ちなみにこの映画、深夜アニメ出身の映画としては異例の大ヒットを遂げていまして、興行収入実に28.6億円という数字を叩き出しています。
これは深夜アニメの劇場版としては、『まどマギ』や『けいおん!』、『ガルパン』を -
『新世紀エヴァンゲリオン』の狂気とは何だったのか。
2014-10-29 11:2751pt
おそらくご存知のように、ぼくは物語が好きで、ずっと追いかけ続けている。その思考の軌跡はそのままこのブログに残されているわけだが、定期的にまとめて提示しなければ何を語っているのかだれにも理解できなくなることだろう。
そこで、今回の記事では、いままでの思索をあらためて振り返り、過去ログの墓場に埋ずもれた論考を再び可視化するとともに、新たな一歩を踏み出すことを目指したい。
さて、ぼく(たち)の思考はいま、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』といった作品が代表する「新世界の物語」にたどり着いている。
「新世界の物語」とは、「いつ何が起こるかわからない過酷な現実」をそのまま物語化した作品群を指している。
『進撃の巨人』の、「人が生きたまま巨人に喰われる」というゴヤ的にショッキングな描写が直接に表しているように、それは一切のヒューマニズム的価値が通用しない世界の物語である。
日本では少年漫画が代表しているような通常のエンターテインメント作品では、通常、物語は「階段状」に展開してゆく。序盤から中盤へ、そして終盤へ、順を追うほどに敵は強くなり、試練は過酷となる。それが一般のエンターテインメントの描写であるわけだ。
むろん、エンターテインメントの作法として、そのつど、「とても勝てそうにない敵」、「まるで乗り越えられそうにない試練」を用意しなければサスペンスが機能せず、読者の注目を集めることはできない。
しかし、それでもなお、それらは最終的には超克されていくのであって、その意味でこれらの作品には畢竟、主人公の成長を促す「階段」が用意されているともいえる。
この『ドラゴンクエスト』的に美しい予定調和展開は、特に『少年ジャンプ』でくり返し用いられ、膨大な読者を熱狂させた。
とはいえ、それはフィクションの方法論として底知れない魅力を放っているものの、一面でリアリスティックとはいいがたいこともたしかである。
現実ではもっと不条理なことが起こりえる。その人物の内面的/能力的な成長を待つことなしに最大の試練が襲いかかってくることもありえるのだ。
その意味で、『少年ジャンプ』的な「階段状の物語」とは、クリフハンガーが連続する見せかけのサスペンスとはうらはらに、真の不条理が慎重に排除された予定調和の宇宙であるとひとまずはいうことができるだろう。
ところが、「新世界の物語」においてはその不条理は前景化する。物語序盤において主人公であるエレンがあっさり殺害されるかと見せた『進撃の巨人』の描写がきわめて秀抜であったことは、既に多くの論者が書いている通りである。
これはつまり「その世界の限りない不条理さ」をそのままに見せた演出であったわけだ。
しかし、ただこういった「身も蓋もない現実」に登場人物を放り出すだけでは、物語はその猟奇描写で一部の残酷趣味的な読者を満足させるに留まり、広範な支持を集めることはできないだろう。
そこで用意されるのが「壁」である。これはつまり『ドラゴンクエスト』的な「階段状の物語」世界と、真の意味で過酷な(ゲームバランスが調整されていない、とでもいえばいいか)「新世界」を分断する物語装置である。
この「壁」が用意されることによって、物語は「新世界=身も蓋もない現実」と適切な距離を保ちながら展開してゆくことが可能となる。
そして、この「新世界」的な「不条理な苛酷さ」は、虚淵玄脚本で知られる『魔法少女まどか☆マギカ』においても見ることができる。
しばしば「鬱アニメ」と称されるそのダークな内容の骨子は、「ごく平凡な少女が突然、命がけの契約を結ばされ、戦場に放り出されて死んでいく」点にある。ここでは「契約」の内容をよく吟味せずに契約を結んでしまうたぐいの未熟者はまず生き残れない。
少女たちの生きる日常世界そのものは決して「新世界」ではないだろうが、無邪気を装って彼女たちに死の契約を奨めるキュゥべえは「新世界から日常世界への侵入者」と見ることができるだろう。
ここにおいて「壁」は存在せず、「新世界」と日常世界は地続きで、したがって少女たちの物語は決して階段状に展開しないわけだ。
しかし、それではただ「新世界」的な「不条理な苛酷さ」を丹念に描けばそれで『進撃の巨人』や『魔法少女まどか☆マギカ』のような傑作が生まれるのだろうか。換言するなら、『進撃の巨人』なり『魔法少女まどか☆マギカ』の魅力とは、その「鬱描写」にこそ存在するのか。
しかし、思考を進めていくと、どうやらそうではないらしい、ということになる。
そもそも「身も蓋もない現実」をただそのままに描くことは、特に作劇的工夫を必要としない、ごく容易な作業である。現実世界にはありふれている現実なのだから、ただそれを物語世界に移植すれば良い。
じっさい、商業エンターテインメントならざる同人漫画などでは、そういった展開の物語を頻繁に見いだすことが可能だろう。
しかし、当然ながらただそれだけでは一本の悪趣味な「鬱作品」を生み出すに過ぎず、せいぜいが一部にカルト的人気を誇る程度の作品に終わる。
ここで発想の転換が必要である。現代(テン年代)において必要とされているものは、不条理に過酷な「新世界」そのものではなく、「その新世界のなかでいかに生き抜くか」、その実践的な描写であると考えるべきなのだ。
「新世界」そのものはあくまで背景であって、主眼はあくまでもその新世界での主人公たちの行動にあるということ。この点を見誤ると、単に露悪趣味的な「鬱作品」しか出来上がらないだろう。
この「新世界の物語」(より正確に語るなら「新世界と壁と階段状世界の物語」)は90年代の内的思索モード、ゼロ年代の決断主義(あるいは決断幻想)を経て物語がたどり着いた時代の最新モードである、とひとまず述べておこう。
少なくとも豊饒を究めるテン年代サブカルチャーシーンを切り取る視点のひとつとして、「新世界の物語」というタームは機能するだろう。
しかし、「新世界の物語」風のアンチ・ヒューマニズム的現実描写を行いながら、それでも「新世界の物語」とは呼びがたい作品も存在する。久慈進之介『PACT』のように。
『PACT』は第一話にしてヒロインにあたる少女を死亡させてしまっている点などを見てもわかる通り、表面的には新世界的な世界観で貫かれているように見える作品である。
また、そこには「壁」はなく、したがって物語は一貫して過酷である。しかし、そうであるにもかかわらず、『PACT』においては登場人物が奇妙なまでに感傷的で、「個」の権利を叫びつづける。
つまり、世界観は新世界であるにもかかわらず、登場人物たちは階段状世界ないしより手厚く保護された世界の描写なのだ。これはいったいどういうことなのか?
そう、『PACT』は一見して「新世界の物語」と見えるものの、似て非なるものを考えるべきなのだ。ここで思い出されるのが、既に風化しつつある「セカイ系」というジャンルである。
『PACT』の描写は「新世界の物語」というよりセカイ系的なのではないか、と考えることができる――と、ここまでが「いままでのおさらい」。
となると、次の作業は「セカイ系」とはどのような物語だったのか、その再考ということになるだろう。
セカイ系とは -
『ヱヴァ』と『妖怪ウォッチ』で考える責任論。
2014-10-23 02:4451ptども。近所のゲオで『たまこラブストーリー』をレンタルしてきた海燕です。はたして寝る前に試聴することができるか、どうか。非常に楽しみな内容ではあるんですけれど、どうかなあ。
さて、ここ数日、腰痛を初めとする身体不良にボロボロになっていたぼくであるわけなのですが、数度に渡る電気ショックと、注射と、数多すぎて何が何だかわからない錠剤のマジカルパワーによって、ついにここに復活を遂げました。
まだ100%とは行かないけれど、だいたい90~95%くらいまでは回復したと思う。そうなると、いままで更新をサボってきたことが罪深く思えて来るわけで、枕を座椅子代わりにしてパソコンに向かおうと思ったしだいです。
しかしまあ、ほんとうに大変な数日でありましたことよ。肉体的に相当やばい橋を渡っていた上、精神的にもどん底のさらにどん底。ついには体内のどこかの血管が破れたらしく、血まみれの痰を吐き出すようになって、真剣に死を考えました。
というか、今回はまあ大丈夫だったとして、このままストレスフルな生活を続けていると、いつか確実にガンになって死亡すると思う。いまこそ人生を変える時!
とはいえ、そう簡単に生き方を変えられたら苦労はしない。もちろんさまざまな出来事を経験するたび、理屈としては色々な「悟り」があるものの、押し寄せる現実のプレッシャーは圧倒的で、それを前にどうしようもなく流されてしまうのがきょうまでのぼくだったわけです。
それはきっとあしたからも変わらないことでしょう。人生が格段に楽になる魔法のひと言なんて存在しない。ぼくの手もとにある美しい錠剤の数々も、人生そのものを一気に治療できるほどにはマジカルではないらしい。
ただ、いくらか人生の重みを軽くしてくれる言葉は見つけました。それでは、ぼくが地獄のような自己追求の迷宮の底で、ついに悟ったこの世の真理をお教えしましょう。
それはわずか一行で表せます。つまり、「この地上で起こる出来事は、何もかもぼくのせいではない」。以上!
いやー、この単純な「悟り」はぼくの人生にとって革命的な意味を持つと思う。もちろん、現実にはこの言葉をどこまで実感しつづけられるかという問題があるのだけれど、それにしても、思考の基板となっているところにある倫理をドラスティックに変えてくれる一行なんじゃないか。
この言葉にたどり着けた自分を褒めてやりたい気持ちである。偉いぞ>ぼく。まあ、いかにも極端かつ無責任きわまりまりない発言に思えることはわかっています。
でも、ぼくの硬直しきった人生を変えるにはこのくらいの劇薬が必要だと思うのですね。ぼくはいままで「何であれひとのせいにしてはいけない。自分で自分の人生を背負わないことには成長はない」と考えて生きて来ました。
ある意味では非常に「正しい」理屈だといまでも思う。「自分の問題をひとのせいにするな」というのは、ある意味で日本人好みのモラルではあると思うのですが――でも、これ、突き詰めていくと世界のすべてをひとりで背負わないといけなくなるんですね。
『Fate』のセイバーとか衛宮士郎がこの陥穽に陥った典型的なキャラクターだと思うけれど、果てしなく拡大していく責任を、すべて自分でひき受けようとすると必ず破綻する。
人間にはどうしたって個人でひき受けられる責任の限界があって、その外のことは「哀しいけれど、仕方ないよね」と割り切るしかないのです。
たとえば、ぼくが全人生をつぎ込めばアフリカの飢えた子供の数十人くらいは救えるかもしれないけれど、ぼくはそうしない。それはある意味でその子供たちを見捨てているともいえるわけだけれど、それを「仕方のないこと」と合理化することなしには、ひとは生きていけないわけです。
それでもなおかつ、「すべての人に平和を! 幸福を!」とかありえない理想を抱いてしまうと、それこそ『Fate/Zero』の衛宮切嗣のようになってしまう。
だから、自分の適切な責任範囲を設定して、その範囲のことだけに集中するのが、まあ大人の態度なのでしょう。
しかし――やっぱりそういう態度はどうしても妥協的なものに思えないこともありません。芥川賞作家の玄侑宗久は、金子みすゞや宮沢賢治の作風には「大乗仏教の呪縛」があるといい、まずは自利に努めなければならないと語っています。
うなずける意見ではありますが、ほんとうにそうでしょうか? そういう都合の良い云い訳を用意して、自分をごまかしているだけなのでは?
ぼくはずっとそう思って、割合に「理想の自分」を追求してきたように思う。「理想の自分」は無限に優しく無限に寛容です。
どんなに傷つけられても、虐げられても、決して怒ることもなく、まして暴力を振るうことなどありえないデクノボー――そういうふうになりたいと思って生きて来た。
ひとは知らず、己はそうでなければならないのだ、と信じて、滑稽な努力を続けてきたように思うのです。そうして、崩れつづける石を積むこと36年。よくやったものだ、と我ながら思います。
高すぎる理想にたどり着くことはついになかったけれど、それでもその青くさい理想を折らずに追い求めつづけてきた。自分なりに妥協せず、真理だと信じるところを追いかけて来た。
だけれど――その結果がストレスとなって積もりに積もって、文字通り血を吐く羽目になったわけです。あたりまえといえば、あたりまえのこと。決して手が届かない高すぎる「理想」と、醜怪にして卑小な「現実」との耐えがたい落差は、そのまま重圧となって自分を苦しめるのですから。
その苦しみを、しのぎ、しのぎ、何とか乗り越えて生きて来たのがぼくの人生だったと思います。
苦しかった。聖賢に非ず、どこにでもいる凡人であり俗人であるに過ぎないぼくが、届かない理想に手をのばそうとしてきたのだから、その無理、矛盾はあまりにも大きかったといえます。
そしていま、ついにぼくは「このままこの生き方を続ければ死ぬ」と悟らざるを得なくなったわけです。さて――さて。それでは、どうするか。
死ぬとしてもあくまで自分の理想を貫くか。それとも妥協して普通のあたりまえの人生を送りつづけるか。もっとも、元々、普通の人生を送っていることには変わりはないのです。
つまり、意識の上で理想を追うかどうかという違いがあるだけなのですね。だから、ぼくがどう決意しようと世界には何ら変化はないはずなのですが、それでも、迷いに迷い、苦しみに苦しみました。
そして、いま、ぼくはついに世界という重荷を手放そうと思う。自分の行動に完全な責任を取ることをやめようと思うのです。つまりは、生きることを選ぶ――それがぼくの選択です。
金子みすゞは、この究極の矛盾を整合させることができないまま、自殺を遂げました。その激烈な生に比べれば、ぼくの生き方はやはり微温です。ぼくにはそこまで自分を貫き通すことはできない。
だけれど、そうであるとしても、ぼくはとりあえず生きることを選びたい。妥協するとしても、理想を見失うとしても、心を折るとしても、ひとりの人間として生きていくことを選びたいと思う。
高すぎる理想と卑しい自分との乖離に苦しめられることは、もういいかげん限界だ。文字通り血を吐いてみて、それがようやくわかった。 -
その勇気はどこから来るのか。絶対基準がない社会で無難を飛び越えてゆく天才たちの肖像。(2188文字)
2013-04-30 10:4453pt
先日、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のDVDとBDが発売になりました。Amazonなどを見るかぎり、ほぼ絶賛一辺倒だった「破」から一転、賛否両論に分かれている模様。それももう「賛」と「否」が戦争でも起こしそうなほど強烈に対決しあっている。
いやいやいやいや、このサツバツ! これこそ『ヱヴァンゲリヲン』ですね。まあ、内容が内容ですから、殺伐とすることも当然といえるでしょう。
ひたすらに憂鬱だったテレビシリーズ及び旧劇場版から一転、かつてないヒロイックなエンターテインメントを演出し、時代の空気を見事に捉えたかと思えた前作をさらにひっくり返す怒涛の展開。一本すべてを主人公を落とすために使うという、娯楽映画としてふつうに考えればありえない構成。
いずれも「まさにこれぞエヴァンゲリオン!」ながら、ついていけないファンが続出することもあまりにも当然というしかありません。いいかげん慣れている古参のファンですら「ようやる」と唸らざるをえないくらいですからね。
「序」「破」とおおむね高評価の作品を積み上げてきて、第三作の「Q」でこの冒険、ほんとうに庵野監督及び制作スタッフの頭のなかはどうなっているのだろうと思ってしまいます。
興行収入的には「序」も「破」も大きく超え、50億円オーバーという記録的な数字をたたき出しているのだから「勝負に勝った」といえないこともないけれど、これは多くのひとが期待した『ヱヴァンゲリヲン』ではないはず。
もっとシンプルでわかりやすい映画を作りつづけていれば自然、平均的な評価も高くなったはずなのに、その可能性を平然と捨て、挑戦的に、冒険的にチャレンジしつづける。こういう姿勢には何かそら恐ろしいものを感じずにはいられません。
結果として「Q」に対してはありとあらゆる批判と罵倒が集中することになったと思いますが、しかしなんぴとたりともこの作品を「無難な凡作」ということはできないでしょう。というか、これほど「無難」から遠い作品もないものと思われます。
連載再開にあたって『ファイブスター物語』の全設定を一新した永野護もそうだけれど、常に自分の持っているすべてをベットしてさらなる展開を求めつづけるこのひとたちの勇気はいったいどこから来るのでしょう? わたし、気になります!
いやまあ、ほんとうはわかっていることではある。「無難」という道は、最も安全に見えて、実は最もダメな道なのだということ。挑戦することを忘れたとき、ひとは死ぬのです。「いま持っているもの」を守りに入ったとき、そのひとはクリエイターとしてはもう終わっているのです。
たとえどれほどの資産と名声を持っているとしても、それをすべて投げ捨てて「新しい領域」へ入っていけるもののみが超一流(プリマ・クラッセ)の名にふさわしい。庵野さんや永野さんはそういう種類のクリエイターなんでしょう。
ひとはかれらを「天才」と呼ぶけれど、決して神に与えられた生まれながらの才能だけで勝負しているわけではない。むしろ、たゆまず自分を更新しつづけるそのきびしさこそがほんとうの才能なのだと思う。素晴らしい!
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その狂気と絶望を超えてゆけ。希望の物語としての『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』。(3749文字)
2012-12-07 12:3153pt『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』についての何本目かの記事です。そして昨夜のラジオの内容のぼくなりのまとめでもあります。つらつらと書いていたらだいぶ長くなってしまいました。ひさびさの長文記事で、わりと力作です。まあ、ほとんどぼくのアイディアではないんですが……。一応有料記事ですが、無料で最後まで読めます。ぜひご一読ください。損はさせません。
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