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正義は血を求める。
2015-08-24 22:4251pt
安田浩一『ネット私刑(リンチ)』を読んだ。
長年、ヘイトスピーチ問題に取り組んでいる著者が「ネットを利用した個人情報晒し」について語った一冊である。
テーマはズバリ、「インターネットの暴走する正義」。
最初から最後まで延々と暗鬱な話が続く。読んでいてどうしようもなく気が重くなる本だ。
本書には、見ず知らずの人間を罵倒し、揶揄し、攻撃してやまない人間が多数登場する。
そういった人物たちの正体は何者か。ぼくやあなたの隣にいる「普通の人たち」なのである。これで気が滅入らずにいられるだろうか。
しかし、すべてはわかっていたことだ。
「普通の人たち」こそ最も怖い。最もおぞましい。
そして、ぼくやあなたにしてからが、そういう「邪悪な凡人」にならないとは限らないということ。
人間の底知れない醜さと邪さを思い知らされ、しかも他人ごととして処理することを許されないという意味で、ほんとうに重たい一冊だった。ぐったり。
それにしても、人はなぜ、ネットを利用して「悪」を狩ろうとするのだろうか。素直に司法に任せておくことはできないのか。
できないのだ。なぜなら、司法による裁きは何千年にも及ぶ検討の末にできあがったもので、苛烈な制裁を望む者にしてみれば甘いのである。手ぬるく感じられるのだ。
また、司法はすでに腐敗していて、正義を行うのに十分ではないという疑いもある。
見なれた退屈な陰謀論ではあるが、その種の意見が「正義」を求める。一点のしみもない酷烈きわまりない「正義」を。
それは見方を変えればきわめて悪質かつ醜悪な「私刑」にほかならないが、その種の「私刑」を実行しようとする者にとってはその残酷さは必然である。
なぜなら、少しでも妥協してしまったなら、その「正義」は意味を失うからだ。
どこまでも濁りのない純色の「正義」こそが求められている。
そして、その「正義」の執行においては、法的に定められている手順はスローに感じられる。
たとえば「性犯罪者は全員死刑にしてしまえ!」といった極端な主張を展開する際、「いや、性犯罪者にも人権があって……」といった主張はいかにもまだるっこしく感じられるに違いない。
だから、手順はすっ飛ばされることになる。手順を踏むのは面倒くさいのだ。
ほんとうはその省かれた部分こそが致命的なものであるのかもしれないのだが、「正義」に酔いしれている人々はそのことに気づかないし、気づきたいとも思わない。
こうして、「炎上」事件が起こる。やり玉に挙がるのは、特定の犯罪者やその家族、共謀者、とされる人たちだ。
火のないところに煙は立たないはず -
議論をすればするほど意見はダメになる。
2015-08-16 04:4451ptどもです。またか、と思われることと思いますが、ブログの名前を変えました。
「いまどきエンタメ解剖講座」というタイトルで、いまどきのエンタメを解剖していきたいと思います。
結局、「ハッピーエンド評論家」としてはなんら活動をしないで終わってしまったことになるわけで、これは失敗だったな、と思いますね。失敗だらけなのですけれど。
もうひとつ、新しいパソコンはどうやら20日あたりに届くようです。
3年保証込みで70000円程度の安いノートパソコンですが、それでもいま使っている機体と比べると格段に性能が良いはずなんですよね。
ちなみにぶっ壊れたパソコンは4年前の3月11日、そう、東日本大震災の当日に購入したマシンだったりします。
だからどうだというわけではありませんが、時が経ったなあ、と思わせられます。
震災の傷はもとより消え去るはずもないにせよ、ひとつの機械が寿命を終えるだけの時間が流れたのだ、と。感傷ではありますが……。
さて、きょうは「議論」の話をしたいと思います。「正義」の話といってもいい。
インターネットを眺めていると、広く一般に、何か主張をする人が議論を避けることは悪いことだ、というコンセンサスがあるように思います。
自分に正義があることをわかっているなら堂々と議論をすることができるはずだ、ということでしょう。
なるほど、それは一理あると思います。理屈の上では。
しかし、現実に目を向けてみると、議論をすることによって事態が改善したという例はほとんど見つけることができない気がするのです。
議論をすればするほど何が正しいのかあきらかとなり、すべての真実がつまびらかとなって、現状の問題はことごとく解決する、というのはどうやら幻想に過ぎないのであって、ほとんどの議論はただ対立を深める役にしか立たないというのが事実ではないでしょうか。
なぜそうなのか。
それは、およそ議論と呼ばれるものはほとんど、自分の「正しさ」ばかりを主張して相手の「正しさ」を否定することに終始するからではないでしょうか。
少なくともインターネットのレベルでは、議論と呼ばれているものは、いかに相手の主張に耳を傾けず、ひたすら自分の主張をくり返しつづけるか、その勝負という次元に留まっているように思います。
結果として、議論をした論者は互いに自分の主張の正しさをさらに確信し、より強固な信念を抱くに至る。そしてその主張はより先鋭化することになるのです。
これがぼくが「議論をすればするほど意見はダメになる」という理由です。
そもそもその種の議論とは、ひたすらに「自分は正しい、正しいんだ」と主張しあうだけの言語的決闘であって、いささかならず品を欠くことは否めない。
その種の決闘は、どうしたって一種の権力闘争の趣きを帯びます。
したがって、初めは純然たるロジックで公正に「正しさ」を見極めるはずだった議論は、そのうち単なる口汚いののしりあいへと堕ちていくことになるのです。
じっさい、ネットですばらしく白熱しながらなおかつ公正なまま進んでいく議論を見たことがあるという人は少ないでしょう。
それくらい、議論はうまくいかないものなのです。
もちろん、 -
圭角の人。
2015-07-20 05:4251ptせっかく公開範囲を設定できるブロマガを使っているのだから、たまにはあまり広く公開したくない話でも書こう。
ここに書く以上は広く世界に向けて書いているのも同じだということは理解しているが、わざわざ自分から世界に向ける必要もない記事というものもあるわけだから。 -
「正しさ」はどこまで正しいか。ぼくが議論より対話を求める理由。
2015-05-15 00:4151pt需要のなさそうな記事シリーズ最新版である。
さて、この世にはいろいろな主張があり、意見がある。
そのなかにはほぼだれでも正しさを認めると思えるものもあれば、かなり突拍子もないものもある。
ここで問題にしたいのは、前者の、大方の人に対してそれなりに説得力があると思われる「正しさ」のことだ。
たとえば「ひとを差別してはいけない」といった主張は、どこからどう見ても正しいように見える。
正しさ指数100%で、どんなに拡大していってもどこまでも無条件に正しさが続く。そんな気がする。
少なくともこの現代社会に生きている人で「人間を差別するべし!」とする人はほとんどいないはずである(そのわりに差別自体はなくならないわけだが)。
しかし、ほんとうに「差別反対」は純度100%の「どこまでも正しい」主張なのだろうか? ぼくにはそうは思えないのだ。
「差別反対」が絶対的に正しいとすれば、この世にはいかなる差別もあるべきではないことになる。
ぼくは人間にそんな社会が構築可能だとは思わない。
やはりひとには好き嫌いがあるし、どこかで完全に公正ではいられないところもある。
完璧に差別が撤廃された社会などとてもできるものではないだろう。
仮にそういう社会が成立したとしても、相当に息苦しい社会であることも考えられる。
やはり「ひとを差別してはならない」という「正しさ」も程度の問題だと思うわけだ。
もちろん、だから「差別反対」と唱えることに意味がないことにはならない。
「差別反対」はおおむねは正しい理屈なのだから、可能な限り大きな声で唱えるべきだろう。
しかし、それには限界があることをわきまえておくべきではないか。
それがどこにあるかはひとによって意見が違うところだろうが、「とりあえずあることはどこかにある」、「完全に無条件の正しさではありえない」と考えておくほうが、その逆の考え方をするより、ずっと安全だと思う。
ほかにもたとえば「戦争をしてはいけない」とか、「子供をしいたげてはいけない」というのも、いかにも「どこまでも正しい」主張であるように見える。
だが、人類史上すべての戦いはすべて絶対悪そのものであり、また、今後未来永劫すべての戦いは絶対悪でありつづける、となると、「ほんとうにそうか?」と思えて来る。
また、「子供をしいたげてはいけない」のは当然だが、ほんの少し叱ってみせることも決して赦されないとなったら、害悪のほうが大きくなってくるかもしれない。
これらのわりあいに「どこまでも正しい」ように思われる主張も結局は程度問題に過ぎない。
何がいいたいのか。
ようするに、「どんなに拡張していっても正しいままの正しさというものはないのではないか」、「どんな正しさもどこかに限界を抱えているのではないか」と問いたいのだ。
「無条件の正しさ」は存在しないということ。
いわゆる価値相対主義か、と思われる読者もおられるかもしれないが、必ずしもそうではない。
たとえば、3歳の子供が親に殴り殺されたといった場合、それは99.9%、その親が悪いに決まっている。
「親に責任があるとも子供に責任があるともいい切れない」などという玉虫色のいい草はいかにも胡散臭い。そんなわけがないだろう、とぼくも思う。
しかし、だ。
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