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ゲーム、ゲーム、ゲーム。
2018-11-26 10:0051ptやりかけの積みゲーをプレイしています。最近のゲームはクリアまで50時間、100時間かかるものはざら、コンプリートしようとするとさらに時間がかかったりするので、はたしていま積んであるソフトを来年までに消化し切れるか、どうか。
ちなみに現在の積みゲーは主に、
・『シャドウ・オブ・ウォー』
・『ドラゴンクエスト11』
・『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』
・『アサシンクリードオデッセイ』
・『ルーンファクトリー4』
あたりになります。
このほかに『大逆転裁判』とかスーパーファミコンのレトロゲームなども遊んでいるのですが、まあ、それは数に入れずにおきましょう。
いまは主に『ゼルダ』と『ドラクエ』を進めているところ。どちらも30年も前から続いているシリーズですが、この期に及んで最高傑作を更新してきているあたりが凄すぎる。
いくらゲームのハードウェアが進歩しているからといって、普 -
『甲鉄城のカバネリ』は「終末もの」の新境地を拓けるか?
2016-05-04 11:0851pt
『甲鉄城のカバネリ』が面白いです。
都市が鉄道でつながれた世界を描くゾンビ・ホラー。
特に目新しいアイディアはないようなのですが、全体にクオリティが高く、サスペンスフルな展開で魅せます。
この鉄道、だれがどうやってメンテナンスしているんだろうとか思うわけですが、そこは深く考えちゃいけないんだろうな。
昔、『ゼルダの伝説』のシリーズに「大地の汽笛」という鉄道ネタの作品がありましたが、それを思い出したりします。
ただ、特に現代的な作品というわけでもなさそうなので、流行るかどうかはなんともいえないところ。面白いんですけれどね。キャラクターは美樹本晴彦だしなあ。
最新話まで見たところ、きわめてきびしい世界を描いた作品で、ぼくたちの言葉でいえば「新世界系」ということになるわけですけれど、『進撃の巨人』から数年、この種の作品も一世代前のものになったかな、という気はします。
いや、新世界系のテーマそのものはいまふうなんだけれど、そこにどういうアンサーを付けるかでこの種の作品の面白さは決まってくるんじゃないかと思う。
つまり、きびしい世界を描いて、「どうです? 世界って残酷でしょ?」とやるだけではダメで、そのきびしい世界でどうやって生きていくか、というところまで踏み込まないといけない。
「新世界系」は、必然的にサバイバルものになるわけですが、そのサバイバルの思想的な方法論を描きこめないと凡作に終わるという気がします。
『魔法少女まどか☆マギカ』がヒットし、後続の「女の子の新世界系」があまり話題にもならなかったのは、たぶんそのせい。
ただ単に「きびしいでしょ? 辛そうでしょ? 悲惨でしょ?」とやるだけでは不十分だということです。
よく虚淵玄は暗く残酷で悲劇的な作品を描く作家性だといわれるけれど、ぼくはそれだけだとは思わない。
その暗い現実に立ち向かう姿勢を描いているからこそ、虚淵作品は魅力的なのです。
これは第一作の『Phantom』からずっとそうですね。
虚淵作品はたしかに暗い話が多いけれど、決して「趣味的な残酷さ」に耽溺しない。
「どうです、ひどい話でしょ?」と示してウケを狙うだけのものにはなっていないのです。
その点がフォロワーと虚淵作品の最大の差ですね。
それでは、ひるがえって、『カバネリ』はどうか。「まだよくわからない」としかいいようがありません。
問題は、この物語にどういう結末を付けるかということだと思うのです。
一般的にいって、ゾンビ・ホラーって、世界がどんどん終末に向かっていくところに面白みがあるわけですよね。
自分たちの生きている世界がどんどん壊れていくところに「負のカタルシス」とでもいうべき快感がある。
でも、そうだからこそ結末を付けることがむずかしい。
世界そのものが崩壊に向かっているところで、ヒーローの孤軍奮闘を描いたところであまり意味がないように思われることもたしかなのです。
だから、世界レベルのゾンビ・ホラーは「そして世界は滅んでしまいました。おしまい」くらいしか結末を設けることができないジャンルでもある。
「どこかに人類の生きのこっているコミュニティがあって、そこに逃げ込む」とか、「ゾンビを壊滅する手段が発見される」とかいう結末もあるにはありますが、ゾンビ・ホラーの根本的な面白さからすると、あまり適当なアンサーとはいえない気がするのですよね。
ここにどういう答えを見つけ出すか? 『カバネリ』の今後には注目です。
この点は『進撃の巨人』もまだ答えを出していないところですよね。なんらかの解答は用意しているのではないかと思うのですが。
映画版の『バイオハザード』とか、答えを用意できないままシリーズが進むので、わりとめちゃくちゃな話になっていた気がする。
そういえば、 -
『SAO』、『ログホラ』、そしてSEKAI NO OWARI。ファンタジー的想像力の彼方にあるものとは。
2015-03-22 03:1251pt
ペトロニウスさんが最新記事でSEKAI NO OWARIを取り上げていますね。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150321/p1
SEKAI NO OWARIはたしか新潟にもツアーで来たりしているはずなので、たまに視界の端っこに入ったりするアーティストなんですけれど、なるほど、ゲームと仮想現実の文脈で見るのは面白いです。
たしかにSEKAI NO OWARIが歌う「ファンタジー」って、ゲーム世代のファンタジーだよなあ、という気は強くする。
べつだん熱烈なファンというわけじゃないし、何曲か聴いて感じただけの印象ですが、まあ、『ドラゴンクエスト』の世界ですよね。
ただ、『ドラクエ』的なイマジネーションというものは、いまではもうひとつ『ドラクエ』を超えて普遍化したものだと思うんですよ。
ぼくたち以降の世代は、仮に『ドラクエ』をプレイしたことがないとしても、その想像力を確実にシェアしているんじゃないか。
「小説家になろう」で広く見られるファンタジー作品などはその典型であるわけですけれど、年代的に必ずしも『ドラクエ』がメジャーでない若い世代にとっても、やっぱり『ドラクエ』的なファンタジーは親和性が高いものなのだろうと思うのです。
『ドラクエ』に始まり、一般化し、普遍化し、日本中に広がっていったひとつの「世界観」があるということですね。
その「世界観」はもはや膨大な数のファンタジー作品に影響を与えていて、若い世代にとっては「原風景」とすらいえるものとなっている気すらします。
どういえばいいのかな、何かきれいな風景や、神秘的な物体を見ると、ぼくなどはすぐに、ああ『ドラクエ』だ、『ファイナルファンタジー』だ、『ゼルダの伝説』だ、というふうに思う。
でも、それってほんとうは順序が転倒していることなんですよね。
ほんとうは現実に美しい景色や神秘なモノが存在していて、それを引用してゲーム的なイマジネーションが紡がれていったのだから。
ただ、いまのぼくたちにとっては現実の自然よりも虚構のゲームのほうがはるかに身近になってしまっていることは、良し悪しはともかくもう完全な事実ですよね。
たとえば「戦争」というと、まず『ガンダム』が思い出される、みたいな現象に近いかもしれません。
いまのぼくたちにとって、ゲームの世界が「もうひとつの現実」であり、「いつかそこにいたことがあったかもしれない世界」と感じられることは争えない事実でしょう。
たぶんですね、、、この作詞の感性って、『RPG』や『眠り姫』もそうなんですが、ゲームの世界をも一つの「現実」として前提として考えている感性なんだと僕は感じるんですよ。『眠り姫』とかも、僕らはたくさん冒険したよね!というフレーズは、僕には、ロールプレイングゲームやネットのゲームの世界で、異世界転生というか「もう一つの現実」を生きたことが、現実と等価かそれ以上の価値をもって世界を生きている人の感性が、自然にナチュラルに描かれているですよね。
そう――SEKAI NO OWARIの歌詞の感性は、いまやごく普遍的なものでしょう。
「ゲームでの冒険」は現実の冒険と等価である、と信じることができるセンスは、広く共有されていると思う。
もっとも、こう書いてみてあらためて「その感覚はほんとうだろうか?」と思うことも事実です。
これは『ログ・ホライズン』の記事で書いたことですが、現代で流通しているファンタジー的な想像力はそのほとんどが「コピーのコピーのコピー」であるに過ぎません。
その源流にまでたどっていけばたしかにオリジナルがあるにせよ、それと比べたらはるかに色褪せた想像力でしかありえないと思うのです。
これには異論もあることでしょう。
アニメやゲームのヴィジュアル的な解像度は増すばかりであり、迫真の作品が次々と出て来ている。
たとえそれが「コピー」であるとしても、圧倒的な薄力をもった作品もあるはずではないか、とか。
しかし、そうはいっても、ぼくたちはファンタジーゲームをあくまで「ゲーム」として、「フィクション」として割り切った上でプレイしている。
一方で、ぼくたちが単にファンタジーゲームのジョブのひとつとして扱っている「騎士」とか「魔法使い」とか「占星術師」とかが現実の存在だった時代があるのです(占い師は一応いまでもいますが)。
もっというなら、森の奥に妖精が住んでいるかもしれないと信じられる時代が現実にあったし、どこか遠くにドラゴンがひそんでいるかもしれないと考えられた時代もあったわけなんですよ。
そういう時代において、魔法使いや妖精やドラゴンや吸血鬼は紛れもない「実在」の存在であって、ファンタジーはただの遠い世界を描いた夢の話ではなくまさに「真実」の物語だった。
もちろん、あるいはその時代の人々もそれらはしょせん迷信の産物に過ぎないと考えていたかもしれない。
しかし、それにしたって、高度産業文明に守られて自然から切り離されたぼくたちとは「魔法」のリアリティが格段に違っていたはずなんですよね。
そこにはじっさいに自然があり、脅威があった。
森の奥には何がひそんでいるのかわからなかった。
海の向こうには何が生きていてもおかしくないと思えた。
そういう広い意味での「自然」に接した体験に由来するファンタジーを、ぼくは「本物」と呼びます。
そして、きょう流通しているファンタジーのほとんどは、ひとつの作品としてどんなに優れているとしても、そういう意味ではやはり「コピー」なのです。
現代人そのものが「コピー」に囲まれて人工の世界を生きている存在だといってもいい。
それが「生の不全感」へつながっていくこともある。
しかし――ここが重要なところなのですが、「コピー」が「本物」になりえる瞬間もまたあると思うのです。
ほんとうは「フェイカー」であるに過ぎない衛宮士郎が、本物の神話の英雄であるギルガメッシュを破ったように、といえば良いでしょうか。
なぜそんなことが起こるのか? それは、
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