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  • 星を見る少女と廃墟に立つ少年。『この世界の片隅に』と『風立ちぬ』に「世界」を見る。

    2016-11-16 04:17  
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     先日、映画『この世界の片隅に』を観て来ました。素晴らしかった。まだ未見の方はぜひ、何らかの手段を用いてこの世紀の傑作を見てほしいと思います。『シン・ゴジラ』、『君の名は。』を初めとして豊作だった今年を締めくくる一作といえるでしょう。
     そして、今年の数ある名作のなかでもベスト・オブ・ベストというべき素晴らしい出来。日本アニメの、というより日本映像文化史上の最高傑作のひとつと位置づけられるべき神がかった作品だと思います。
     原作既読のぼくは開始5分くらいで泣きそうになっていました。まあ、それは極端な例ですが、これはちょっと凄いです。
     原作も大傑作だけれど、その原作に匹敵し、あるいは上回る驚異のクオリティ。この一作を生み出したことを日本のマンガ/アニメカルチャーは永遠に誇ることができると思います。それほどの作品です。
     とまあ、賛辞を並べ立ててはみたのですが、じっさいのところ、この映画のよさを語ろうと思うとむずかしい。ぼくがこの映画から受けた感動をそのまま言葉にすることは、少なくともぼくの能力では不可能といい切ってもいいのではないかと思います。
     しかし、何も語らないこともどうかと思うので、力足らずの言葉足らずではありますが、一応、語っておきたいと思います。
     「この世界の片隅に」。印象的なタイトルのこの映画は、戦時下の広島市と呉市を舞台にしています。
     「ぼんやりした」少女・すずが幼い頃から物語が始まり、それから時代を下って、彼女の降嫁と結婚生活を描き出していくのです。
     そして、日本が経験した「戦争」が、すずの視点から描き出されます。原作でも物語がすずの視点から離れることは少ないのですが、映画はさらにすずに近く寄り添っているように思われます。
     したがって、大所高所から見た「世界」のマクロ的な構造はここではまったく描かれません。描かれるものは、巧まざるユーモアに満ちたすずの穏やかな日常、ただそれだけです。
     「穏やか」という表現は戦争中の日常に似合わないかもしれません。じっさい、すずの生活のなかにはしばしば戦争の猛威が忍び寄ります。
     しかし、それでもなお、彼女はどこまでも「普通」であろうとし、そしてじっさいに「普通」でありつづけるのです。クライマックスにおいて、決定的な悲劇が襲いかかってくるその時までは。
     これは、戦争という巨大な「暴力」を含む「世界」と、その「片隅」に生を受けた「ひとりの少女」の対決の物語です。
     見終わってすぐ、ぼくは宮崎駿監督の『風立ちぬ』を思い浮かべました。『この世界の片隅に』は『風立ちぬ』とちょうど対になっている映画だと感じたのです。
     というのも、ぼくには『風立ちぬ』は「暴力に満ちた世界の「中心」で、加害者の立場に立たされることになった男性(少年)の物語」であり、『この世界の片隅に』は「その世界の「片隅」で、被害者の立場に立たされることになった女性(少女)の物語」であるように思えたからです。
     迂遠ないい方になったかもしれませんが、ぼくは前者が「加害者の物語」であり、後者が「被害者の物語」であるとは完全にいい切れないとは思います。
     ただ、かれらがそれぞれ加害者として、被害者として見られることは事実でしょう。そして、政治的、あるいは批評的、思想的にはその差異が重要であるのかもしれません。
     しかし、ぼくはそこにあえて意味を見いだそうとは思いません。かれらはかれらなりにひとりの人間として「この世界」と対峙したのであり、その望みの通りに生きたのです。
     その生きざまが心を打つかどうか? それが映画のすべてであり、そしてぼくはいずれの作品にもつよく打たれました。その生き方が道義的に正しいかどうかということは二次的なことです。
     とはいえ、『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎は主体的(アクティヴ)に行動し、自分の運命を決めていきます。かれが最後にたどり着いた「廃墟」は、かれ自身が選んだ人生の結果であるといえます。
     もちろん、だれしも完全に人生をコントロールすることはできない以上、かれもまた「世界」に満ちた暴力に巻き込まれたひとりであるということはできるでしょうが、そうはいってもかれは可能な限り「自己決定」したという意味で、「世界の中心」を生き抜いたということができると思います。
     対して、すずはどうか。彼女の生き方は、堀越二郎と比べるまでもなく、一貫して受動的(パッシヴ)に見えます。
     彼女は親が決めた人物と結婚し、その家でいくらか悪意のある行為を受けても抵抗せず、また、戦争という巨大な暴力に逆らおうともしません。
     それは、あの当時の多くの女性たちと同じ姿ではあるのでしょうが、そういう意味で、すずはまったく「普通」の女性です。
     あえていうなら絵を描く才能が秀でているということもできるでしょうが、それにしても「世界」を変えるような性質のものではありません。
     暴風のように「世界」のなかを荒れ狂う戦争という「暴力」に対し、彼女はどこまでも無力であるように見えます。この映画を、戦争によって多くのものを奪われた女性の悲劇として見ることも可能でしょう。
     ところが――ところが、そうではないのです。すずは「世界の片隅」で、「暴力」と戦い、そして、負けません。
     「世界」はさまざまな方法で彼女に襲いかかり、その圧倒的な力でもって「片隅」の少女を押しつぶそうとしたのですが、それでも彼女は屈しないのです。
     『この世界の片隅に』はすずの「戦い」の物語です。すずのまわりにある「過酷で残酷な世界」はすずの内面にある「完璧な世界」を打ち砕こうと幾度も幾度も押し寄せますが、決してそうすることはできません。
     それほどにすずは「強い」。そう、彼女は恐ろしく揺らぎません。彼女は外の世界で起こるあらゆることを受け止め、受け容れていきます。
     その意味ですずは、たとえば『コードギアス』のルルーシュのように「世界は間違えている」と叫んだり、『少女革命ウテナ』のウテナのように「世界を革命する力」を求めたりはしません。
     彼女はどこまでも世界に対し受動的なのです。彼女は作中、一度も世界を変えることを求めて「世界の中心」に躍り上がろうとはしません。
     彼女の居場所はどこまでも「世界の片隅」。そういう意味では、これはきわめて地味なドラマです。ですが、これがきわめて感動的なのですね。
     ぼくはすずの姿を見ていて、池澤夏樹『スティル・ライフ』の有名な冒頭を思い出します。

     この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
     世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
     きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
     でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
     大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
     たとえば、星を見るとかして。
     二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
     水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
     星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
     星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。

     すずはまさに「呼応と調和がうまくいっている」人間です。つまり、先ほど述べたように、彼女の内面にある「広大な薄明の世界」は「完璧に調った状態」にあるといってもいいでしょう。
     彼女は「完璧な世界」を内側に持っていて、「(外の)世界との呼応と調和」を達成しているが故に、あえて「(外の)世界を革命する」必要がないのです。彼女にとって世界は完璧な場所なのですから。
     おそらく、ほかのどんな時代に生まれてもそうだったでしょう。しかし、彼女の内なる世界がどれほど完璧にできあがっていようと、外なる世界には嵐が吹き荒れている。
     したがって、 
  • すべての漫画好きよ、『この世界の片隅に』を読むべし。(3157文字)

    2013-10-19 07:00  
    53pt




     あなたは疲れている。物語を読むことに、疲れ切っている。
     思えば、随分とたくさん読みつづけてきたもの。何千冊と読んできた本の、その大半が物語なのだ。少しくらい疲れても無理はない、そうかもしれない。
     だから、この頃のあなたは、事実を扱った本ばかり読むようになった。あれほど好きだった物語を読むことは、すっかり少なくなってしまった。そんな自分を、あなたは少し寂しく思っている。
     ところが、昨日、あなたは、一冊の、いや、三冊の本を手に取った。あなたの好きな作家、こうの史代の最新作だ。
     『この世界の片隅に』。上中下巻で一作の物語を形づくっているらしい。
     あなたの信頼するウェブサイトでも絶賛されていた。傑作かもしれない、ぼんやりそう思う。あなたは三冊をいちどに購入し、読みはじめる。
     物語は、昭和九年正月の広島を舞台にした「冬の記憶」に始まる。すずという名の幼い子供を主役に綴られる、少しふしぎなお話だ。
     そのあと「大潮の頃」、「波のうさぎ」が続き、すずは少しずつ歳を取っていく。そして、いよいよ、『この世界の片隅に』が開始する。
     始まりは昭和十八年十二月。あの幼かったすずはもう大人になっており、嫁入りの話がやって来る。この時代、親が縁組を決めるのはあたりまえのこと、すずも特別気に病むことなく、呉の家に降嫁する。
     そこから始まる新しい日常。無口な夫、科学好きの義父、足の悪い義母、意地悪な義姉、幼く愛らしい義理の姪らとのそうぞうしい日々がユーモラスに綴られる。あなたが良く知っているこうの史代の世界だ。
     こうののユーモアは素直である。緊張と緩和のくり返し。あなたは時に微笑み、時に噴き出しながら、物語を読み進めていく。
     そう、どうして微笑まずに読むことができるだろう。あなたよりもっと疲れた魂のもち主でも、この作品にふれるとき、ほのかな微笑をこぼさずにいられないだろう。それほど、すずの日常は巧まざる笑いに満ちている。
     時は戦時中、それなのに、彼女のまわりからは笑声が絶えない。すずにはひとをしあわせにするふしぎな力があるようだ。初め彼女にきつくあたる義姉も、いつのまにか、すずに感化されていく。
     戦時下の楽しい日常。穏やかで愉快な日々。すずの生活は七十年後の世界に住むあなたには貧しく苦しげなものに映るが、すず本人は少しもそう思ってはいないようだ。
     どんな時代にもささやかな幸福はあるものだ、そうあなたは思う。このまま時を停めて永遠に保存しておきたいような、そんな幸福。
     しかし、それでも、時を留めることはできない。少しずつ、少しずつ、すずの日常は戦争に