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『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』にオリジナリティはあるか?

 ペトロニウスさんの『灰と幻想のグリムガル』評の第二弾が公開されていますね。 http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160524/p1  あるいはいつもの如くこのまま公開されずに終わるのでは?と思っていただけにひと安心です(笑)。  ぼくの文章も引用されていますけれど、『グリムガル』はほんとうに現代の青春ものの系譜のなかでも頂点といえるような傑作だと思います。  この作品をまだ見終えていないというこのていたらく。いいかげんそろそろ最後まで見ないとなあ。マーベル映画とか見ていないでこっちを見ろよ、という気もします。  さて、この記事のなかではっきり書かれているように、現代の青春もののトレンドは、 1)主人公になれないわき役が、 2)それでもどうやって人生の充実感を得るか。  というところに収斂していきます。  「きっと何者にもなれない」ぼくたちの冴えない青春。でも、けっこう楽しいし、いいところもあるんだよね、と。  これがおととい、きのうと書いた「充実した人生を送りたい」というテーマとかぶっていることがわかるでしょうか?  そう、ぼくはフィクションと同じテーマをリアルでも追及しているんですね。ただ、リアルではなかなか「死を実感すれば生もまた輝く」というわけにはいかないから、色々むずかしいわけなんですけれど。  『グリムガル』が傑作なのは、「1」の条件をほんとうに徹底して突き詰めているところです。  普通は「わき役」とはいっても一応はそれなりの能力を持たされているものなのですが、『グリムガル』の場合はほんとうになんの異能もないんですよね。それこそゴブリン一匹倒すこともできない。  で、その未熟で無能なかれらが「死」を実感することによって「人生の充実感=いま、生きているという実感」を得るプロセスが描かれています。  まさに「わき役たちの冴えない青春系」の最高傑作ともいうべき作品といっていいでしょう。  これ、映画の『ちはやふる』で、天才のちはやではなく才能がない太一がクローズアップされたのとまったく同じ構造だと思うのですが、もうさすがにそれは説明しなくてもわかってもらえるでしょう。  現代の青春ものはアニメであれ、映画であれ、必然的にそういう構図になるということなのです。  と、ここまでは話の前段階。今回はそういう「冴えない青春系」のひとつである『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』について話したいと思います。  この作品はもはや古典的といってもいいくらいライトノベルの伝統的形式を追従しています。どのような構造なのか、「物語三昧」から引用しましょう。  これまでのヲタクの言説や自意識の拗らせの中には、常に「リア充」という概念がその軸にありました。ヲタクの自意識を描くときに、どこかにリアルに充実している、この場合は、かわいい恋人やかっこいい彼氏に恵まれて、特に2次元に逃げることもなく、3次元の世界で楽しく過ごしている人々がいるという対抗意識のことになります。昨今(2016年3月時点の話)だいぶ薄れてきた気がするのですが、少なくとも過去のメジャー級の作品である『僕は友達が少ない』(2009-2015)や『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(2008-2013)などのライトノベルで頂点に君臨して、アニメ化もされ、一時代を築いた作品群は、この軸が常にセットされていました。この系統のほぼすべてのライトノベルの主要な軸が、これであったといっても、また現在もそうであると言い切っても、おかしくはないほどです。  そう、「また現在もそうである」。  ペトロニウスさんはまだ見ていないようですが、『ネトゲの嫁』の軸は、「リア充」ではなく「リア充」に対抗意識を持つ少年少女が自分たちでかってに部活を作り、楽しい学園生活を送るという『はがない』の構造そのままです。  もう、その点では一切オリジナリティがないといっていい。  だから、Twitterで宮城さんという方がこのような疑問を呈されていたのはいたって当然だといえます。 @LDmanken @Gaius_Petronius @kaien もうアップロード完了とは仕事が早いですね。ネトゲ嫁はオタクの描かれ方が俺妹の頃と変わらないように思えて、私は何だかちょっと古臭さを感じるのですが、LDさんから見てどうでしょうか。  これに対し、LDさんはこのように答えています。 @mi_ya_gi_3 @Gaius_Petronius @kaien まだ、全部見ていないので何とも言えませんが、どうなんでしょう。僕はむしろ登場人物たちはネトゲユーザではあっても(現代的な意味含め)オタクでは無いようにも感じています。  どうなんでしょうね。オタクとは何か、とかいいだすとまた長くてめんどくさい議論になってしまうと思うので深入りしたくはありませんが、少なくともぼくは『ネトゲの嫁』を見ていてそんなに古くさいとは感じなかったんですよね。  しかし、たしかに構造そのものは「リア充」を敵視する生徒たちだけで部活を運営するという、ありふれすぎているものです。やっぱり古くさい話なんじゃないの?といわれてもしかたありません。  それでは、『ネトゲの嫁』のオリジナリティはどこにあるのか?  これ、まだなんともいえないところではあるんだけれど、 

『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』にオリジナリティはあるか?

『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』は素晴らしく出来のいいダメ人間製造アニメだ。

 どもです。  あまり根を詰めて記事を書いているとだんだん生産性が落ちてきますねー。30分で書けた記事が1時間かかるようになったりする。  効率が良くないので、適度に休んだりする必要があるのだと悟りました。じっさいに疲れ切るところまでいかないと悟れないあたり、オレ、マジどうしようもないな。  そういうわけで人生に疲れ果てたからアニメでも見るかということで、『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』を見ています。  あー、これ、ほんと見やすい。異常に楽。心にストレスが一切かからない素晴らしいアニメだな。  『灰と幻想のグリムガル』とか『甲鉄城のカバネリ』みたいなきびしい話もそれはそれでいいけれど、この種の願望充足萌えファンタジーも人類には必要だよなあ。  これと『くまみこ』があればしばらく生きていける気がするよ。  ただ、そういうふうに気楽に見れるには違いないのだけれど、リアルに考えるとけっこう切実な話だよなあとは思う。  リアルに適応できない、ネトゲのなかでしか生きられないような人間はどうすればいいか?  物語のなかでは亜子は仲間を見いだし、旦那まで見つけてそこそこ幸せそうに暮らしているわけだけれど、これが現実だったらひきこもり一直線でしょうねえ。  そう考えるとかなり辛いものがある。「リアルはしんどいです」は非リアの魂の叫びだよなあ。よくわかるよ、ぼくもしんどいもん。  アニメ見て漫画読んでゲームやるだけの暮らしをしたい――って、既にもうそういう生活をしているか。  まあ、そうはいっても一切リアルとの交流を断つわけにはいかないので、それなりに色々あるのですよ。  こういう限りなく楽な生活を送っているぼくですら辛いと思うのだから、真面目に学生とか社会人とかやっている非リアの人はほんとうに辛いだろうな、と思う。  それはひきこもりも増えるわ。リアルは無理ゲーだもん。どう考えても。あんなもん。まともにプレイできる奴らのほうがおかしい。どっか狂っているに違いない(偏見)。  「坑道のカナリア」ではありませんが、神経が繊細な人間はこの社会の異常さをだれよりも早く感じ取って苦しむものだと思うのです。  もちろん、狂っていない社会など存在しないのかもしれないし、どうあがいてもそこから脱出することなどできるはずもないんですけれどね……。  リアルに絶望した人間が、ネットゲームのなかに希望を見いだす話というと、『ソードアート・オンライン』もそうですよね。  まったく違うように見えるけれど、ある意味では共通点があるお話ということになる。  ただ、『ソードアート・オンライン』の世界まで行ってしまうと、学業とか仕事もネトゲのなかでこなせばいいような気がする(笑)。  あの仮想現実の世界はゲームをはるかに超えているよね。  いまの時代、それもプレイステーションVRとかでなかば現実になりかけているあたりが恐ろしい。  これから実現するであろうヴァーチャルリアリティ・ネットゲームの依存度の高さはいままでのネトゲの比じゃないでしょうね。  じっさいのところ、何かしらの対策を練らないとまずいんじゃないでしょうか。  萌え萌えっていうレベルじゃねえぞ。出生率さらに下がるかもしれないぞ。  まあ、『ヲタクに恋は難しい』がミリオンセラーを記録したりするところを見てもわかるように、我らオタク・トライブのイメージもだいぶ明るいものにはなりましたが、それでもリアルに適応できない人は一定数いるわけなのですよ。  さらに進歩を続けるゲームの世界はそういう人にとって救いになりえるかもしれない。  でも、そうやってゲームに耽溺すればするほどリアルがさらに耐えがたくなっていくという矛盾があるわけで、それはどうしようもないのかもしれないなあ、とも思います。  あるいは、 

『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』は素晴らしく出来のいいダメ人間製造アニメだ。

ネトゲ始めました。

 暇です。暇でしかたありません。  なんといっても1日でやるべきことがここの記事を書くことくらいしかないんだものなー。そりゃ暇にもなるわ。  いや、じっさいにはネタを仕入れるために寝ころんで漫画を読んだり、ソファに座ってアニメを見たり、お菓子食べながらゲームをしたりする時間も必要なので、それなりに時間は取られるわけですが。  うん、こう書くと、というかどう書いても遊んでいるようにしか見えないのはともかく。  いや、遊びでやっていることでも仕事となると意外と大変なんですよ? 嘘だけれど。  そんなの大変なわけないよなー。どこまでいっても趣味だしなー。  そういうわけであまりにも暇なのでネトゲでもやるか、と思い立ち、PS4で『ドラゴンズドグマオンライン』を始めました。  『ドラゴンクエスト10』とか『ファイナルファンタジー14』でも良かったのだけれど、なんとなくね。  ちなみにてれびんも同時に始めました。やっぱりネトゲはひとりでやっても面白くないものね。  まだ始めたばかりで、序盤も序盤のレベル12、ようやくチュートリアルエピソードが終わったかな? 終わっていないかな? くらいのところですが、いまのところわりと面白い。  Amazonなんかではさんざん叩かれている作品なので、おそらくネトゲとしては致命的な欠陥がいくつもあるのだろうと思うけれど、まあ、普通にやっているぶんにはそこそこ楽しめます。  ちなみにいまのところ無課金。1円も使っていません。  さすがにこのまま無料で遊ばせてもらうのはいかにも心苦しいものがあるので、ある程度ならお金を使うのはやぶさかではないのだけれど、どこにお金を使ったらいいものかまだよくわからない。  月額1500円くらい払うとプレイが楽になると攻略サイトに書いてあったのですが、それを使おうかな。  まあ、これから考えればいいでしょう。  しかし、平日の昼間からネトゲやっている人もけっこういるんだなあ。  仕事とか勉強しなくていいのだろーか。まあ、ぼくがいえることではまったくないけれどね。  『ゆうべはお楽しみでしたね』とか、『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』みたいにネトゲのプレイヤーが実は女の子でした!という話はいくつかあるわけですが、じっさいのところ、女子の割合はどれくらいのものなのでしょうね?  ほとんどいないんじゃないかなあ、と思っているのだけれど、そうでもないのだろうか。  『ドラクエ』とか『ファイナルファンタジー』は 

ネトゲ始めました。

今期の正座して見るアニメはどれで、流し見するアニメはどれだ?

 春アニメを色々追いかけています。  Amazonプライム・ビデオも見れるし、dアニメストアも見れるいまのぼくに死角はない。ふっふっふ。  とりあえず今期のアニメで面白そうだと思ったのは『マクロスΔ』かなあ。  『逆転裁判』がイマイチで残念です。『ばくおん‼』はまあまあ。  『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』は、あたりまえですが面白いですね。  『Re:ゼロから始まる異世界生活』も面白いという話なのだけれど、ネットで配信されるまで見る手段がない。  『マクロスΔ』は「いつもの『マクロス』」といってしまえばそれまでなのですが、あいかわらずのクレイジーな世界が素敵です。  「よし。歌が効いてきた」とか、イミフな台詞があたりまえのように飛び出すあたり思わず笑ってしまう。  いや、『マクロス』だから意味不明でもなんでもないんだけれど、これ、このシリーズを初めて見る人がいたら「なんじゃこりゃ」と思うんじゃないでしょうか。  壮絶な空戦アクションと可憐なアイドルステージが一体化したアニメーションは色々な意味で凄まじく、わけのわからない迫力に満ちています。  テレビアニメでここまでのアクションを放送できる時代なんだよなあ。凄い。ヒロインの女の子もなかなか可愛い。  『くまみこ』もほのぼの系で良いですね。  『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』はライトノベルらしい都合のいい話で、気恥ずかしくもなかなか楽しい。  ただ、いちいちヒロインのおっぱい(巨乳)をフォーカスするカットがアレ。  40近くなってこういう思春期願望充足アニメを見ているぼくはどうなんだという気がしなくもない。  こうやって並べてみるとけっこう面白そうな作品が並んでいるなあ。  オタク的な願望充足系が多いみたいだけれど、『Re:ゼロ』みたいなきつくて地味な話もきっちりアニメ化されているあたり、ちゃんと多様性のある時代なんだなあと感心します。  『Re:ゼロ』はほんとにきびしい話なのですが、シナリオのポテンシャルはぴかいちです。  「なろう系」とは思えないほど構成が秀抜。アニメもていねいに作っているという噂なので、とりあえず期待したいところです。  あと、すでに完結した作品ですが、『灰と幻想のグリムガル』のアニメをいま後追いで見ています。  まだ序盤なのだけれど、これ、素晴らしいですね。  非常に地味な作品であるかとは思いますが、とにかく演出が光っている。最後まで追いかけていきたいと思います。  いや、これだけの質と量のアニメがいつでもただで見れるというのは凄いことですね(dアニメストアは有料だけれど、それにしても月額400円くらい)。  そりゃ、エンターテインメントが日常化するわけだよ、と思ってしまう。  エンターテインメントの日常化という現象の背景となっているのは、「絶対に消化し切れないほどの量のエンターテインメントがあたりまえのように存在する」という現実です。  ライトノベルにしろ、テレビアニメにしろ、ウェブ小説にしろ、いまとなってはどうあがいても消費し切れないくらいのボリュームの作品群が日常的に提供されつづけていることはご存知の通り。  あるいは、よほど暇な人ならライトノベルだけ、テレビアニメだけならある程度は追いかけることができるかもしれないけれど、それらすべてを消化することはもうどうしたって不可能なわけです。  そういう意味では、あるジャンルに関してなんでも知っている博覧強記の人物という意味での「オタク」は、もう成立しない時代になっていますね。  岡田斗司夫さんがいうところの「オタク・イズ・デッド」はそういう意味でも必然なのだと思います。  とにかくこうなると必然的に一作一作を真剣に見ていくことはむずかしくなるし、あるいは真剣に見るにしても「膨大な量のなかから見るべきものを選ぶ」という作業が必須となる。  そうなって来ると、もうエンターテインメント体験は特別なものではなくなりますよね。  この「量」の問題が現代のエンターテインメントを語るにはどうしても付きまとうと思うのです。  もちろん、それぞれの作品の「質」も高くなっていて、まったくかつてない贅沢な時代が到来していると感じます。  「飽食」ならぬ「飽楽」の時代、といえばいいでしょうか。  ひとつひとつの娯楽が神聖な輝きを失ってしまうほどありふれている時代。  かつて、何百年も前には、娯楽というものはほんとうに貴重なものだったでしょう。  たとえば、年に一度の村祭りで芝居を見るために、一年間きつい仕事に耐えるというようなことだって、ほんとうに行われていたわけです。  そういう時代においては、その芝居はほんとうに面白く、神秘的なまでの輝きを放つものでありえたはずだろうと思う。  その時代において、エンターテインメントはまさに非日常そのものであったといっていいかと思います。  いや、ほんの数十年前にしても、エンターテインメントはもう少し特別な体験だったといっていいでしょう。  少なくとも日常そのものではありえなかった。  しかし、 

今期の正座して見るアニメはどれで、流し見するアニメはどれだ?
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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